2008年04月18日
初出:2007・6
モンスター・ロシモフ、言うまでも無くのちに“人間山脈”とネーミングされた、アンドレ・ザ・ジャイアントの初来日時(1970年)、国際プロレスでのリングネームである。
この初来日時に、あのバーン・ガニアにその素質を見込まれ、乞われるままに渡米、AWA圏内をサーキットしながら、ガニアの指導を受けた。このガニアとの出会いが、ただの“でくのぼう”と評されたアンドレのレスラー人生を一変させた。一年後、国際プロレス主催の第3回・IWAワールドシリーズにおいて、“人間風車”ビル・ロビンソン、“神様”カール・ゴッチを押さえ、堂々の戴冠を得る。
ゴッチとの対戦では、当時としても既に2メートルをゆうに超え、200キロ近い巨体であったが(アンドレは、悲しいかな、巨人病の典型でその後も身長・体重ともに増え続けるという、生まれながらの性を背負っていた)、多くのファンはあの巨体をどういなすのか、注目の決戦となり、有識者の指摘によれば、見事、ゴッチは完璧なジャーマンで投げつけたが、その時、レフェリーは失神していたが為、変わって飛び出してきたサブ・レフェリーにゴッチがカウントされ、敗れるという波乱を生んでいる。
しかし、当時の大人たち、プロレスファンはアンドレのその部類の強さを認め、讃えたはずだ。いまでも残る、一葉の写真。表彰式でのアンドレのなんともいえぬ微笑がそれをまざまざと物語っている。その横に並んだ、ロビンソンとゴッチのこれまた納得づくとも思えし、笑顔。あのまさに“プライド”の塊とも揶揄されたロビンソン、ゴッチがふくよかに笑って写真に納まっている姿にはなんとも言えぬ感慨を抱かせる。この一葉を望むだけでも、残念ながら、その試合をまったく記憶に留めていない私にですら、いかにアンドレの強さが顕著であったか、窺い知れよう。
そうしてその微笑の底から覗く、ひととしての優しさ。強きものが強きものを知る、強きものこそが持つ、慈愛なる精神。まさにその瞬間を捉えた貴重な一葉の写真であろうと思う。
大昔から、プロレスほど世間から、“常識”という目をそそがれ、野蛮だ、八百長だなんだと疎外されてきた格闘ジャンルも無い。その誠に特殊な競技にのめりこんでしまった者達は、ときにひとによっては口泡吹かし抗弁し、時に怒りを胸に潜めつつ反論し、時にフンとただその一々説明せねばならぬ状況に嫌気がさし、横を向いた。
そのような時でもあの、アンドレの有無を言わさぬ大男の佇まいはなんと、プロレスファンに溜飲を下げさせたものか。
「あの、アンドレを見よ!!」
「あのプロレスラーに勝てる格闘家が居るのか!?」
私は幼い時分からアンドレの痛められっぷりに、なんともいえない「怪物退治」というプロレスファンの中でさえ巣くっている、蔑視の目というものが介在しているさまを見出してしまって、そのやられっぷりはほどなく好まざるものになってしまっていた。
いつぞやか、私も子供ながらにその“悲鳴”が演技であると察してはみても、なんだか度し難い想いが込み上げてきて、見ていられなくなってしまったのだ。
後年、そんなアンドレの、実際、演技とはとても思えぬ“醜態”をも見てしまったとき、私は殊更に“巨人”なるものの悲哀を見るようで忍びなかった。試合が経過すればするほど、そのスタミナのロスが露呈してくる。足がもつれ、自身から勝手にマットにくず折れてしまうアンドレ。物心ついた時分に見たアンドレとはあきらかに違う、異体。
(ああ、あれはもしや、もはや・・・)
成人した私の中で翳ってきた思い、憂い。
のち、アンドレは故・馬場氏に乞われ、全日本プロレスに参戦。もはや、あの頃のアンドレに、あの“プロレスラーの強さとしての象徴”その影は微塵も感じられなかった。
1993年1月27日、逝去、享年47歳。
黄泉の国で静かに横たわるMr,アンドレはいまや何を夢見、何の往時を振り返っているのだろう。
ロビンソンとも違う、ゴッチとも違う、テーズの色とも違う、まさに強さという域を超越した“凄み”・・・。
私は今でもこう、思って止まない。
「Mr,アンドレ。プロレスの“凄み”を有り難う。プロレスの“強さ”を有り難う。あなたこそ、プロレス界史上最強のプロレスラーでした」と。プロレスは何も“強弱”ばかりを競う格闘浪漫ではないのだ。その底に見る“悲哀”・・・。若くしてそのことに踏み込めた私は誠に幸せ者である。
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*Thought・10’s chapter title
『はじめに道ありき“新日本プロレス道場編”』
『もはや甦ることは無い
“人間山脈”アンドレ・ザ・ジャイアントの微笑』
『12歳の疾走“ミル・マスカラスに想いを馳せた、片路48km”
いまもきっと胸に棲む、青春の瞬間(とき)』
『“プロレスの凄みを引き出す”猪木、天龍、小橋が体現してみせた
vs“不沈艦”スタン・ハンセン戦』
『脆さと優柔不断ぶり“師に反発し、師をこよなく愛した両雄”
藤波辰爾とジャンボ鶴田』
『“最強”かつてそこに執着した、在るファンが見た一夜の幻!?
小川直也とは一体、何者であったのか!?』
『「プロレス道に悖(もと)る」猪木の求心力を著しく貶(おとし)めた、
あの事件“前田日明”【長州力顔面襲撃事件】』
『“Is it cheerful?(やぁ、元気かい?)”未だ忘れられぬ名優!!
“狂犬”ディック・マードック』
『“立ち上ってくる妖気”踏みとどまることを知らぬ小橋建太という、執念』
『“アルバトロス殺法”キラー・カーン“あほうどりが奏でたプロレスラーとしての
矜持ゆえの夢”』
posted by 美城丈二 |17:55 |
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2007年06月05日
*(この稿は、故・大木金太郎さんの逝去の報に接し、HPに書き綴ったものの、改訂稿です。初出2006・10)
思い出すことなど。
敬称略にて。
国際空手道連盟極真会館の創始者で名誉総裁、初代館長でもあった、あの故・大山倍達存命の折り、果敢にも喧嘩を売った、日本人プロレスラーが居た。ひとりは云わずと知れた“燃える闘魂”アントニオ猪木。そうしてもうひとりが、あの本名・金一“キム・イル”こと大木金太郎である。
総合格闘技界がまだ世間的には“総合”と呼ばれていなかった、1975年(昭和50年)、日本プロレス崩壊後に、フリーとなった大木は、6月17日に記者会見を開き、
「力道山先生の名誉にかけても、空手家の大山倍達に挑戦する!!」と居並ぶ記者を前に突如、ぶちまけた。
ことの発端は、こう、である。
同6月8日付けのさる新聞の地方版に、大山の手記が掲載され、そこにこんな記述が踊った。
「日本プロレス界の王者、力道山さえも勝てなかったタム・ライスに私は勝った」
この文章を人伝えに聞いた大木は激怒。「俺の挑戦を受けるか?もしくは謝罪しろ!!」
その剣幕は、尋常では無かったと聞く。
もともと大木は、往年のプロレスファンの方々ならご存知のように、師・力道山と同じく、多国籍出身のプロレスラーである。韓国相撲の横綱格であった大木は、1958年(昭和33年)、力道山に憧れ、日本へと密入国、入国管理法違反で逮捕され、収容所から、力道山に嘆願書を出し、力道山の肝いりで、1959年(昭和34年)、日本プロレスに入門している。鬼のしごきと恐れられた力道山の課す特訓をそののち、若手三羽烏と謳われた故・ジャイアント馬場、アントニオ猪木らと共に耐え抜き、そんな地獄の特訓の最中でも時折、慈愛の目を手向けたという力道山の優しさが逝去のちも忘れられず、「我こそは力道山門下最強の男である」との普段からの自認と共に、師の「プロレスこそ、格闘技界最強である」という主義を誠、実証すべく、大山に喧嘩を売った。
大木には、目算もあったとされる。勝てぬとも相打ちには持ち込める。大木はデビュー5年目にして、あの“鉄人”ルー・テーズにシュートを仕掛け(渡米時のこと。時の日本プロレス社長の豊登から、もし世界と名のつくタイトルを取ったら、力道山襲名を許すとの言質に小躍りして喜んだ大木はNWA王座に挑戦の際、暗黙の了解を度外視、壮絶な果し合いの末、テーズのナックル、顔面連打によって破れているが)腕には相当の自負心を抱いていた。
こういった喧嘩まがいの試合スタイルから、当時の外国人レスラーからは「セメント・ボーイ」などとあだ名されたほどの実力者だった大木としては、その命を賭してでも、大山を潰すという、師を侮辱した者に対する敬虔なる思いの成せる業だったとしても、この果たし状を軽く受けてしまうほど、時の大山も子供では無かった。
当時、極真会館は全国各県に県本部を持つ傍ら世界各国に55の本部を持ち、大木が挑戦の狼煙をあげた、その年の11月には待望の『第1回オープン・トーナメント全世界空手道選手権大会』を開催すべく、大山は雑事に忙殺されており、いくら相手が著名なプロレスラーだとしても、「殺し合いである前に武道たれ」という、健全なる青少年育成の精神においても、他流試合を禁止していた見地から、やすやすと大木の挑戦を受けるわけにはいかなかった。
大山は、7月1日に記者会見を開き、
「昔は、メシを喰う為に、プロレスラーも名乗った。ライスに勝ったのはその頃で(昭和26年)力道山がアメリカでライスに負けても、日本では完勝(昭和31年)したことも知っている。私は力道山の友人で、彼を侮辱した覚えはなく、大木君がどうしてもというなら受けざるをえないが、出来れば争いは避けたい」と語り、手記を掲載した記者への配慮ともとれる言葉をも口にした為、それを諒として、大木は自身の挑戦を取り下げ、この問題はそれにて収束した。
あの猪木が、“柔道世界一”のルスカと(昭和51年・2月)“ボクシング世界チャンプ”のアリと(同年・6月)闘う、まだ、世間的には“異種格闘技戦”なる定義すら浸透していない以前のお話しだが、大木の師・力道山を偲ぶエピソードのひとつとして、ここに改めて筆記した次第である。
大木氏のご冥福を心よりお祈り致します。
*筆者注:この稿、菊池孝・章題「リング上でも私生活でもガチンコに徹した大木金太郎のセメント一代記」に改めて拠った。
(株)桃園書房刊『プロレス&格闘技 その時、現場記者は見た!』
posted by 美城丈二 |15:08 |
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2007年05月03日
片路48キロkm、走破!!街路標識から48km表示だったとのことですから、実際はそこまでの、自宅からの距離も勘定に入れるべきですし、何より平坦な行路ではなく、ひとやまふたやま越えていきました、とのことでもありますから、果たして‘なんとも、その想いのほどは凄まじかったのであろう’と思案しばし・・・。尽きせぬ、あの日のあるプロレスラーへの憧憬、そして滑走。随分、昔の思い出話しなのですが、この物語は、実際に私がかつてじかに見聞きした、いまだに忘れがたい実話です。私はいまでも、このお話しが‘本当’であろう、と信じて疑いません。
かの方は、幼い時分、小学6年生、12歳のとき。当時の子供たちが、欲した遊びには目も暮れず、いつも大事に抱えていたものとは、多分、あの‘ゴング誌’からの切り抜きでしょうね、ミル・マスカラスのトップロープから華麗にダイビングしているさま、そう、あの‘仮面貴族’の勇姿でした。そうしてそのポケットには、またも‘メキシコの英雄’そのプロマイド。
折からの‘スカイ・ハイ’入場テーマ曲、大ヒットを受け、マスカラスブームは全土を席巻しておりました。全土の‘マスカラス信者’かの方も願いは同じ。マスカラスが普段被っている、あのマスクが欲しい!!せめてあのオーバーマスクでも・・・。
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⇒『ファイト!ミルホンネット版魂暴風*a martial art side 』にて。
posted by Jyouji Yoshiki |20:36 |
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2007年04月21日
私は、猪木VSアンドレ戦を好まなかった。「怪物退治」その有り様が色濃く感じられて、それはつまりアンドレの強さを薄々、認識していた証拠だろうが、攻められる際の、あの悲痛な表情がまた物悲しく感じられて、注視に耐えられなかった。
公式のプロフィールとしては、身長が7フィート4インチ(約223センチ)、体重が520ポンド(236kg)とあり、これではあまりの“巨人病”そのものではないか!?(けっして彼を蔑視して或いはそういう方々を指して、差別用語なるものを用いているわけでは有りませんので、ご了承願いたい)全盛時から、短命に終わると蔭で囁かれ、ビール、ワインを一夜にして何ダースも開けていたという目撃談を聞くに及んで、幼い頃からのなんとも度し難い、怪物に対する悲壮感がまた強く感じられ、私はますますアンドレの試合を好んで見なくなっていた。
*この続きは、是非、こちらにてお読みくださいませ。
⇒『ファイト!ミルホンネット版魂暴風*a martial art side 』にて。
posted by 美城丈二 |22:16 |
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2007年03月27日
昨年、12月13日、元『週刊ファイト』編集長で、I(アイ)理論として名高い、井上義啓氏が永眠、なされた。私が並み居るプロレス記者の方々の中で、その書かれる記事において、もっとも信頼を置く、‘活字プロレスの祖’とも知られた、お方だった。ネット上ながら、そのご冥福をこころよりお祈り致したき所存。
そんな氏の存命、私の幼き頃から『週刊ファイト』紙上で繰り広げられるところの、‘ファイト・ドキュメンタリー劇場’は分けても秀逸な文章群で、その先見の明、卓越したひどく文学臭に満ちた物言いは、毎回、私の欲する嗜好にぴたりと符号して、毎週、その発売を楽しみにしていたものである。
そんな氏が、いまや歴史上、伝説化している猪木の1978年11月25日(現地時間)西ドイツ・シュトゥットガルトにおいて行われた一戦、ローランド・ボックVS猪木に関するコラムをものされた雑誌が、我が手元にある。(株式会社MAX発行『格闘技完全裏の本』)
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⇒『ファイト!ミルホンネット版魂暴風*a martial art side 』
posted by 美城丈二 |07:12 |
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2007年03月22日
*“魂暴風”popular request column
HP掲載時、ご好評を賜った、格闘技コラムをこちらのカテゴリー欄にて再掲致します。
『はじめに道ありき-新日本プロレス道場編』初出/HPブログ記事/2004・8
まったくの私心シリーズ PART1
かつて格闘技界最強とうたわれた集団があった。その名はアントニオ猪木率いる新日本プロレス。道場長、山本小鉄。藤原、佐山、前田、高田、そして坂口、小林、長州、藤波。最強はプロレスか、空手か?k-1もPRIDEも無い混迷の時代に、最強をうたいそして飽くなき修練に終始した団体、それが新日本プロレスであったろうと思える。
当時、猪木はことあるごとに「誰の挑戦でも受ける」と標榜していた為、道場破りがあとをたたなかったらしい。それら果敢な猛者供を完膚なきまでに組みふしたのが、猪木の弟子達である藤原、佐山、前田、そして山本小鉄であったという事実。数々の関係者の証言によってそれらはすでに神格化された言わば真実だが、それにしても何故それほどまでに新日本のレスラーは強かったのか?答えは言うまでも無く常に有事に備えた練習に日々明け暮れていたからに他ならない。
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⇒『ファイト!ミルホンネット版魂暴風*a martial art side 』にて。
posted by 美城丈二 |12:22 |
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