2012年01月05日
“シューター”上田の実力
多くの関係者の談によって語られておりいまさら申すまでもないことだろうが、日本プロレス時代の道場“ガチンコ”神話は有名だろう。80年代以前のプロレス界ではいざとなれば“懐刀”を抜くがごとし、まして上田さんのように全米を又にかけて転戦していく日本人悪党だから、対戦者も容赦なく“実力査定”してくる。手荒なことをすればこちらも容赦はないぞ!とばかり、観客に見えない遣り口でお返しをすることで睨みを効かしたとされる。総合格闘技が現在のように一般まで認知される以前のお話しだから、蹴りや突きに対する防御のスキルはけして高くはなかっただろうが、受け止めるだけ受け止めてあとは捕まえてごろんと寝かし腕を取るなりして仕留めていく遣り方はいかにも往年のプロレスラーの風格を感じさせ、素敵だ。「さぁ、どっからでもかかってきな!」上田さんにピタリと符号する名調子というものだろう。
“狂虎”シン、その傍らの上田さん
私事で恐縮だが、高校生時、今で言う“ファンクラブ”紙みたいなものを仲間たちと手掛けていた私は、そのクラブ紙の目玉として“狂虎”T・J・シンのインタビューを思いついた。幼い頃からさる縁故もあっていよいよ実現する運びとなったが(遠征地の旅館にて)、いざ、シンを前にするとかなり緊張し、片言の英語もままならなかった。このとき、傍らで微笑されておられたのが上田さんで、上田さんは後年、方々で口下手だと揶揄されるおひとであったはずなのにこの時はそんな印象は受けず、色々と私に話しかけてくださり、サポートしていただいた。それでもなかなか緊張の糸はほぐれなかったが、帰りがけ「(これからも)プロレスをよろしく」と言われ、なんだか自分がプロレスファンの代表のように思われ、恥ずかしいやら嬉しいやら想いが溢れた記憶がある。後年、といってもかなりの年数が立ってからだった為か、「あの時の学生です」と話しかけても、残念ながら上田さんは私のことを全く覚えておられなかった!!だが、未だにあの日のことは私の記憶に鮮明に残っており、良い思い出のひとつです。
“お子様ランチ”プロレススタイルに言及
昔気質の職人、上田さんだから、マスカラス以後の飛んだり跳ねたりといったスタイルのプロレスに対し、けっして良くは思っておられなかったご様子。初代タイガーマスクのプロレススタイルを“お子様ランチ”だと評されたこともあったし、だがのちのプロレスは良くも悪くも初代タイガーマスクのスタイルが様々な形で影響を及ぼしたことは確かだろう。見るものを飽きさせないとされる、リング上で縦横無尽に動いていくスタイルや或いは同じ技を一試合で幾度も繰り出す闘い模様はまた非難の対象でもあるが、現行のプロレススタイルのほうがより相手の技を受けることによってリアルに一見客にも届くため、一概に非難だけを浴びせるわけにもいかない側面がある。じっくりと技の掛け合いを見せたり、或いは基本をないがしろにした、見よう見まねの使い手たちこそを指して上田さんは一言浴びせたと従えたい。
※『シンvs上田、狂虎と金狼の競演!!両者が対立した夜』
⇒『美城丈二のセミファイナル』
よろしかったらご覧ください。
※筆者注;この記事は筆者管理サイト“魂暴風;Soul storm”とのダブルポストです。
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“金狼”上田馬之助さん、思い出すことなど。②
posted by 美城丈二 |08:55 |
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2011年12月24日
“まだら狼”何故、まだらなのか?
平成のプロレスファンは知らないだろうけれど、上田さんが70年代、国際プロレスに“凱旋”してきたとき、髪を金髪に染めておられたのだが、それが日を追うごとに脱色してしまい、まだらな紋様になってしまった。それを見た、当時の雑誌記者が“まだら狼”と命名したのがもともとの由来。このエピソードを私は上田さんから直接お教えいただいて「まぁ、髪を染めたのはいいんですけど、めんどくさくてですね……」とはにかみつつ、ご本人談(笑)。その後、雑誌に“まだら狼”と書かれたことを知ったご本人が「これじゃ、いかんと思ったわけです(笑)」その後はこまめに染め上げ、“金狼”というネーミングが定着した次第。
“コミッショナー”制度の確立
往時のプロレス誌・紙に上田さんのインタビューが掲載されるたびに氏が唱えていた制度。ひとつの機関を設け、各団体を支配下に置き、ライセンスを発行し、プロレスラーのステータス、地位向上を図る。日本のプロレス創世記、力道山時代はこの制度を設け、当時の自民党大物議員たちが関わっていたが、日本プロレス瓦解後は有形無形化した。ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんの長らくの確執が為、この制度が再確立されていないのは遺憾だ!とふたりの御大にも物怖じせず切り込まれておられた。馬場さん、猪木さんも制度設立の為に何度か会談され、交渉を重ねた結果、合意書まで作成されるほど話しは進んだのだが、その直後に新日本がクーデター騒動に巻き込まれ、結局設立には至らなかった。その後も幾度か機運は高まったが、現在において未だ各団体を統制下に置くコミッショナー制度は確立されていない。
“ヒール”悪役としての生き様
70年代はプロレスファンタジーなるものがまだまだ通用した時代であったから、猪木さんや馬場さん、いわゆるベビーフェイス・善玉に対する日本人ヒールとしての立場はファンたちの憎悪の対象でしかなかった。悪役が居るから善玉は光るのだ!などというパラドックスがプロレスファンの間でもまずほとんど浸透していない時代。度を越した嫌がらせ等が絶えない為、日本の団体参戦時は定宿というものがなく、団体指定のホテルに仮住まいであった。だが、そんなホテルでさえ嗅ぎ付けて今で言うところのストーカーまがいの行動に出るファンもいたようで、気を緩める暇が無かったとされる。
上田さんが晩年を過ごされた大分県臼杵市は妻であられた恵美子さんの故郷。米国転戦時に日本では居場所の無い上田さんが「来るなら来い!」とだけ記した手紙を手渡し、恵美子さんは上田さんだけを頼りに米国へと渡米されたことは有名な話しだ。時代が移り変わり、ようやく上田さんは奥様の故郷で安住の地を得たのである。
※筆者注;この記事は筆者管理サイト“魂暴風;Soul storm”とのダブルポストです。
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“金狼”上田馬之助さん、思い出すことなど。①
posted by 美城丈二 |13:41 |
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2011年12月21日
さる知人から知らせを受けた。俄かに信じたくはなかったのだけれど……。私も様々な形で“金狼”“まだら狼”上田さんのことを書き連ね、そのいくつかは書籍化されたものに収められた。御大・馬場さんや猪木さんにずばり直言出来る方であったし、日本のプロレス界の行く末を常に案じられておられた。米国放浪の旅、国際、新日、全日、インディと参戦を続け、まさしくプロレスラーらしい生き様を見せてくれた方だったように思う。生命をも危ぶむ大事故を経て、あの往年の雄姿をリング上で垣間見ることはもはや叶わないのだろうか?と悔やまれても懸命なリハビリの様相は胸が熱くなるほどだった。いまはただ、その御霊が安らかであらんことをお祈りするのみ。大変、お疲れ様でした。そしてたくさんの“昭和プロレス”の思い出をありがとうございました。僭越ながら私もまたあなたのことを書かせていただきますね。心よりご冥福をお祈り致します。
合掌
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上田馬之助さん、黄泉の国に旅立つ。
posted by 美城丈二 |23:51 |
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2008年10月15日
ただの妄想以下・・・その1。(飽くまでも一ファンの戯言ですからそのお積りで)
現(49代)IWGP王者、武藤敬司を王者から引きずり下ろすのは蝶野正洋。武藤と同格、或いは匹敵する色気のあるレスラーは現行の新日本マットにあって蝶野か長州ということになり、長州では時代があまりに逸している為、蝶野しか有り得ないだろうという、妄想。
蝶野のワンポイントのち、いよいよ凱旋帰国の棚橋がその政権を奪取し、当分は棚橋時代が続く。
棚橋はどうも“ナルシストキャラ”が板に着いてきつつあるが、“受け”を主体とする試合運びも含め、軌道修正を計ってくるだろうという、読み。ただし、この軌道修正は“強い”新日本復活の軌道修正では無く、切れた、吹っ切ってなりふり構わず猛進する、何が起こるか判らない、先の展開が読めない新日本往時のスタイルへの転換(血しぶきでもあげてキラーと化すなんてのが良い)。
武藤を返り討ちにした時点で、その棚橋に電撃参戦のあの小川直也が挑む。この小川をも破り、更にあの安田忠夫、藤田和之までをも破った棚橋は喝采を浴び、ここに真の“棚橋時代”が訪れる。
中邑は本年大晦日、満を持して総合参戦。その結果いかんでは継続参戦を果たし、総合でも勝てるプロレスラー像を目指す。
後藤洋央紀は棚橋とのライバル闘争に一敗地にまみれ、ペイントレスラーかマスクマンに転進し、棚橋を破る“快挙”を成し遂げる。
棚橋、中邑、後藤。独自色濃い、またあの闘魂三銃士時代を彷彿とさせる、誠に突っ込みどころ満載の複数スター制時代が到来。
嗚呼、ここに私があまり好まない複数スター制ながら新日本はマット界の盟主に返り咲く。
・・・・・・ほんにそうなったら嫌だなぁという妄想以下の夢物語なのですが気にしないでいただきたい(笑)。こういう妄想以下のお話しも幼い時分はプロレスを語るうえで、“先読み感”があって、また楽しみなおしゃべりのひとつでもありました(勿論、大はずれでも全然、構わないわけで)。
無論、上記のようなことにはなりがたいでしょうが、現行の新日本マットは90年代プロレス黄金期の華・武藤敬司をその象徴とも言えし、IWGP王者に据えたことで何かと先の展開が面白くなってきましたね。ひところの低迷期を脱し、いよいよ来年以降、新日本、いやプロレス界がひたひたと反抗の狼炎をあげそうです。全日本との合流を含め、マット界再編の動きも感じられ、いまこそ時代を担うスターの出現を待望している次第です。
プロレスという、世間からバッシングを受けがちのジャンルに魅せられ、早、40数余年。少しでもその面白さを、私ながらの拙文とは申せ伝えられないものかと僭越なる物言いとは感じながらも腐心してまいりましたが、じっとじっと待った甲斐があったかな?(笑)。見ていて鮮烈なるマット界の復活を切に希望致す次第でもあります。どろどろとした人間関係の縮図を見るような、そんな醜聞記事を読むのはもうこりごりですよ。他団体との抗争を目玉にするのでは無く、自前のスターで興行をまかなう、マット上の更なる活性化。プロレス界復活の起爆剤はこれに尽きると私は信じて疑いません。
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机上の夢物語、或いは幼い時分の視点。「棚橋・中邑・後藤、複数スター制に陽はまた昇るか!?」
posted by 美城丈二 |11:37 |
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2007年08月06日
『あれから遙か35年“私がどうしても見たかった”新日本旗揚げ戦・猪木vsカール・ゴッチ』
遂に念願叶って見た“神様”の姿。
手の取り合い、絡み合い。足の取り合い、絡み合い。Mr.ゴッチが猪木氏の背後に廻る。ざわめく背広姿の大人たち。
☆この稿、続きは拙作版、所有です。
⇒『魂暴風⑥「伝説光臨篇」』
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http://www.plus-blog.sportsnavi.com/yoshiki812/article/103
“どうしても見たかった神様”新日本旗揚げ戦・猪木vsカール・ゴッチ その第2稿
posted by 美城丈二 |09:53 |
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2007年08月02日
『あれから遙か35年“私がどうしても見たかった”新日本旗揚げ戦・猪木vsカール・ゴッチ』
1972年(昭和47年)3月6日
新日本プロレス旗揚げ戦 東京・大田区体育館
アントニオ猪木vsカール・ゴッチ
幼すぎた私には思慮の外であった。小学年へと進み、ある縁故もあって多くのプロレスラーたちと交わるようになると、気心も働いて当時、NET(現・テレビ朝日)の『ワールドプロレスリング』中継や日本テレビの『全日本プロレス中継』を欠かさず見るようになった。
新日本旗上げ戦はノー・テレビであり(我が地方において)、当時を回顧すれば故・ジャイアント馬場氏も未だ日本プロレスのひとであった。
猪木vsシン、vs小林、vs大木・・・と、まるで夢遊病者のそれ、何かに憑(と)り付かれたかの如くテレビ画面を食い入る様に見つめる頃になると、私の中で“この猪木の、あの新日本の”旗揚げ戦を知りたい、見たいという欲求が次第に強く、大きくこの胸中を支配するようになっていった。
☆この稿、続きは拙作版、所有です。
⇒『魂暴風⑥「伝説光臨篇」』
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http://www.plus-blog.sportsnavi.com/yoshiki812/article/102
“どうしても見たかった神様”新日本旗揚げ戦・猪木vsカール・ゴッチ その第1稿
posted by 美城丈二 |10:28 |
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