2007年09月17日

“千の顔を持つ男”ミル・マスカラス、筆者の幼児の記憶もまたそこに集う

 
 毎試合の度にオーバーマスクを投げ入れる。観客席で“奪い合い”に群がる子供達。だが、見守る大人達は眉をひそめるどころか、慈愛の眼差しを持って目を細めつつ“その光景”を見つめている。

 年に一度か二度の“待望”焦がれるプロレス興行。
 「おらが村にも“プロレス”が来た!!」

  
 私も幼き時分はそんな冬ともなれば霧深い山里に生まれた身ゆえ、ガチャガチャとチャンネルを切り替えて映すTVのブラウン管に燦然とそれこそ映えていた“仮面貴族”のまさしく飛来する勇姿に憧れの視線を携えて食い入るように見つめていた者のひとりだった。

 MIL MASCARAS その華麗なる世界・・・

 筆者があの“ゴング”誌を購入するきっかけとなったのはやはり、マスカラスのその活写された勇姿見たさからだったのではなかろうか?

 筆者は次第に猪木の世界へと傾斜していったが、マスカラスにはやはり忘れ難い想い出がある。上京し、そのマスカラスの“幼き時分の焦がれ人”に出会い、その想い出を聞かされたとき、なんとも懐かしい望郷の念が沸いてきた。

 古里は遠きにありて思うもの・・・と謳ったのはかの我が愛す先達、室生犀星だが、私の望郷の念にははからずも幼き日に見た“仮面貴族”の勇姿もこびりついていたのかもしれない。

 先のIGF第2弾開催の報にあって「マスカラス、飛来か!?」という記事に直面し、未だ憧れの視線をどこか引きずる筆者がそういう世界観でも良い、と記したのは正直な感慨ゆえに。そのIGFを総格にすべきとの一見、あい反する思いを綴ったのも紛れも無い、もうひとりの私自身である。

 時代は恒に新たなものを携えてやってくることは子供にも判る理屈だが、もともとはプロレスという概念の範疇に“総格ありき”と思考してきた筆者としてはやはり今現在のプロレス界を取り巻く状況ははなはだくち惜しいものがある。

 筆者は筆者なりに幼い時分に焦がれる目線でリング上を見つめた感覚と「総格」を見つめる目線は実は同一の視点によってもはや揺ぎ無いものでもあろうと信じて疑わない。

 プロレスというジャンルは蔑まれている。
 総格というジャンルも恒にあらゆる問題を孕(はら)み、いつしか今現在のプロレス界とおんなじ状況に陥らぬとも限らぬ様相を実はその“華やいだ”世界とは裏腹に横たえており、
 それはまた“勝負論”ばかりに終始すれば世間の興味の無い層からはただの野蛮な喧嘩に過ぎぬということでもあり、安泰としてばかりもおられないであろう。

 悲しいかな・・・少なくともリング上の“格闘浪漫”をそのまま鵜呑みにする時代は過ぎ去ってしまった。一億総評論家時代と言われて久しいが今後も、地道に「己の次の出番」を信じ日々修練に明け暮れる格闘家たちを筆者なりの視線を携えて評して参りたいと思っている。

 “美しいものをただ見て美しいと思える”
 
 そんな時代を筆者はやはり未だに置き去りには出来ぬのだ。また筆者は筆者なりにそうでも良いと思っている論者のひとりである。

posted by 美城丈二 |15:01 | プロレス、この果て無き浪漫 |
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