2007年02月13日
スーパーなボウルであるということ
ビリー・ジョウェルが鍵盤に手をのせると会場は水を打ったように静かになった。 そして、伴奏を背景に、白い布を纏った白人クウォーターバック(以下QB)をカメラは射抜く。 NFL最高のQBと賞賛される一方で、 勝負弱いと言われ続けた男はやっとこの場所にたどり着くことができた。 今度は黒いユニフォームだ。 バストショットから寄っていく、黒光りする太い首と、 髪を編み込んだ恐持ての黒人ランニングバックの目は少し赤みを帯びている。 カメラが客席に切り替わると、右手を胸に押し当て、左手を上げる母親と子の姿が見えた。 バグダッドから衛星中継で届いたモニター越しに整列する兵士の姿には少し会場がざわめく。 どちらが勝っても史上初の黒人監督となる知的な両監督の次に目に飛び込んできたのは、 少し年齢に不相応な真っ赤なシャツを着た女性である。 彼女は口を大きく広げながらサインランゲッジでビリーの代わりに高々と歌う。 注目選手であるスキンヘッドのラインバッカーは天の一点をみつめては何を思うのだろう。 呆気にとられた。 客席にいる子どもたちが少しそんな表情を見せるのもしょうがないのであろう。 カクテル光線の中にいる大男たちの姿は異様であったのだ。 口ひげを蓄えた男は恍惚とした表情で胸に拳を押し当て、 他方でバンダナを巻いたそれは まるでその空間の空気を味わうかのように目を閉じながら大きく深呼吸をする。 目の下を黒くペイントした大男たちの喜々とした表情はその瞬間だけ、 子どものようにさえ見える。 この場所に立てるという心の絶対量を超えた感情を隠し切れない。 今はもうしっかりと涙だって見える。 そんな中、ビリー・ジョウェルは「星条旗はまだなびいているのかい」とそっと歌い終えた。 スーパーボウルはアメリカ全土を巻き込む最大級のお祭りであるのと同時に、 世界200カ国で放映されるその放映権料はスポーツ界でもっとも高く、 スポーツビジネスの一つの象徴だ。 アメリカではスーパーボウルまでの一週間を“スーパーボウル・ウィーク”と呼び、 試合の行われる“スーパー・サンデー”は朝からその話題で持ちきりのようだ。 また、この日ばかりはNYなどの世界的な繁華街からも人気がなくなる。 チケットの入手は困難を極め、自身の資産との交換を申し出るものさえいるというから驚きだ。 それでも手に入れられなかったものは、家で仲間たちとパーティーを開くしかない。 宅配ピザ屋にとってもこの日は決戦である。 何故こんなにも盛り上がるのか。スーパーボウルたる所以がそこにはある。 私はそれを遠く離れた日本で見ながら、感動すると共に、納得した。 時にスポーツ社会学の権威である中村敏雄氏は、 著書「スポーツの見方を変える」(平凡社)の中で、 日本にスポーツが根付かなかった文化背景を4つ挙げている。 1つはスポーツへの欲求が生存権的性格を持つほど強くないということである。 西欧では日本と比べて日照時間が短く、少しでも光のある時間に外に出る必要があったのだ。 つまり、スポーツの日常化は健康保持の不可欠な条件として 行わなければならなかったということだ。 2点目は、他民族支配の為の身体形成の必要である。 西欧諸国は植民地を多く持ち、それを統治する行政官は、 何よりも身体的に逞しく、現地人に威圧感を与えなければならなかったのだ。 第3に食事の量と質の問題である。西欧の食事はその量もさることながら、 肉食過多な食生活であったと言われる。 結果、多血質となり、悪循環ながらも体を激しく動か巣必要性がったそうだ。 また、西欧諸国の体育館に食堂が併設されているのは、 そもそも食事を美味しく取るためにとさえ言われるほど、 食事とスポーツの関係は深いとも述べている。 そして、最後の問題として、自身の国が多民族国家という認識が欠如している問題である。 日本人は自国を多民族国家と思っておらず、 欧米諸国に住む人々のような心理的緊張を伴う生活を営んでこなかったというのである。 欧米では日常的に皮膚・髪・目の色が異なる人々や宗教や思想が異なる人々と接触しており、 その為に隣人に対する警戒心や不信感と言うものが強いと言われている。 その一方で、平和で友好的な日常生活を送る為にはそれらを解消する必要があり、 パーティーや祭り、そしてスポーツはその為の重要な機会であり、手段であったのだ。 また、著者は「欧米に追いつけ、追い越せ」という流れの中で、 日本のスポーツが勝利至上主義に陥ってしまったとも述べている。 スポーツを楽しむということは、巧い・へた、勝ち負けの規準ではなく、 誰とどのようにコミュニケーションを充実させたかということを 評価基準にすべきとまでも書いている。 日本にスポーツが根付かない理由はこれだけの文化的背景がある。 また、同時に日本にスポーツが根を張る必要がない気も少なからず感じた。 ただ、最後の一項に関しては、思い当たる節が自身にもあった。 欧米人があんなにもオーバーリアクションで、派手な挨拶をするのは、 自分と他人が違う固体という強い認識から逆算されて生まれたコミュニケーションなのだ。 埋めなければいけない溝がることを認識している。 日本人はどうであったであろうかという思いに駆られた。 私たちのベクトルは内にばかり向いていなかったか。 それはスポーツだけではなく、社会全般に言えることである。 多民族・多国籍・多宗教・年齢・性別・身体障害の有無、 スポーツ好きや音楽が好きといった趣向の違いによる線引きもこのボウルの中にはなかった。 その名に恥じない深い懐を持っているからこそ、 アメリカ最大のエンターテイメントとなりえたのだろう。 私が感動したのはそんなところにある。 一方で、今週は大騒ぎが原因の悲しい事件がイタリアで起きた。 それはやはりスポーツがどこかで、少し歪んでしまったから故なのだろう。 スポーツの中で睨み合うもの。 スポーツの外で睨み合うもの。 スポーツを利用して睨み合うもの。 世の中には沢山いるが、スポーツはそんなものの為にはないはずである。
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posted by yamagiwaboy1012 |08:11 |
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