2006年09月25日

die another day

9月24日、あの桑田真澄投手が巨人退団をするかもしれないというのである。

桑田と言えば、PL学園のKKコンビの一人であり、
早稲田大学進学を希望しながらも、もう一人の「K」である清原を差し置いて、
巨人の1位指名を得て巨人に入団したことはもはや一つの逸話ともなっている。

それから21年。

それは筆者が生きた年月と同じ長さでもある。
長いのか短いのか未だにわからない。
ただ、それに寄せて今回の記事を書きたいと思うのである。

終わってみれば、今年の夏は早稲田実業 斎藤投手の夏だった。
9月11日、異例の記者会見を開き、斎藤投手の早稲田大学進学という発表もその余波である。
ただ、その背景には様々な伏線があると思うのだ。
今年の早稲田実業というのは、
一つにOBでWBC日本代表監督であったソフトバンク王監督の突然の入院、
荒木大輔以来29年ぶりの決勝進出、駒大苫小牧の好敵手・田中投手、
決勝再試合などの相次ぐ連投、そしてハンカチ?と
それら一連のドラマ性を十分に生かすだけの、斎藤投手の力があったからである。
個人的には、大学進学という決断は、
あの熱烈な人気が斎藤投手個人のものだけではないことを考えると、
間違いではない選択だと思う。

無論最初から正解などないのだが。

一方でこんな興味深い見解もある。
スポーツデザイン研究所の中で毎日新聞の滝口記者は荒木大輔や、
桑田真澄、それらと昨年の春の甲子園で優勝、夏に準優勝して、
巨人のドラフト4巡目指名を受けながらも断り、今年“一浪”して卓球の福原愛と共に、
トップアスリート入試で早稲田大学に入学する済美高校のエース福井を引き合いに出しながら
「巨人よりも早大に入る時代か」と題して、この20年間の変化についてこう締めている。

『早大に続けとばかりに、多くの有名私大がスポーツ推薦を充実させ、
 そのブランド力を競い合うようになってきた。
 企業スポーツ以上の施設を持ち、じっくりと競技に取り組める環境。
 さらに勉強も積めば、人生の選択肢も広がる。
 そんな魅力がプロをも凌駕し始めたということか』(以上スポーツアドバンテージより抜粋)

ただ、一方で早稲田大学とプロ球団のどちらが環境として好ましいのかというのは、
もはや関係ないのではないかとも思う。
学歴を持つことにより、教員免許をとることにより、選手後の将来に保険をかける。
そんな単純なことだと思うのだ。
もちろん、大学で四年を過ごした後、再び、ドラフト指名される確約などはない。
それでも大学に進むのは、施設の充実というよりもそういった面が
今日の平成不況に喘ぐ日本人の不安というものが強い気がするのだ。
無論、それを否定するつもりはない。こんなデータもある。
プロ野球新人選手出身所属 *()内は球団自由希望枠	 

 	 	社会人	大学	高校	その他	合計
 	2005年度	27(3)	29(6)	38	2	96
 	2004年度	31(7)	30(6)	24	1	86
 	2003年度	17(4)	27(7)	28	2	74
 	2002年度	19	21(12)	36	1	77
 	2001年度	26(1)	23(6)	35	2	86

年度毎のドラフト指名選手の数だが、それは同時に新人プロ野球選手前所属の表にもなる。
何故なら、周知の事実ではあるが日本プロ野球機構(NPB)の選手になるには
基本的にはドラフト指名をされなければならないからである。
ここ2・3年間はドラフト指名される選手の数は右肩上がりであるものの、
その内訳は、かならずしも高校生が多いというわけでもないことがわかる。
今年は103通のプロ志望届が提出されている。果たしてこの段階で何人がプロになれるのだろうか。
また、ドラフトで意中のチームに行けるとも限らない。
思い起こされるのは、中日の福留選手である。
一方で、ヤクルト選手兼監督の古田のようにドラフト指名はされなかったが、
大学・社会人時代に力をつけた選手もいる。
もちろん、その一方で大学四年間の中で埋もれてしまった名もなき選手は星の数ほどいる。

このように見ても、プロ野球選手になるには高校生ドラフト、大学進学、
共に間違った選択ではないことであるし、その一方で正解はどこにもないようにも思う。
「スポーツ選手は二度死ぬ」 そう言われるのは、その短き選手生命から。
今年は、新庄剛志に始まり、サッカー界では中田英寿など個人的にも感慨深い選手が引退する年である。
先の見えない人生の中で、短い選手生命の区切り方は、本人以外に決めきれないことでもある。

ならば、この夏の少年たちに、その決断の日はいつ来るのだろうか。
それは20年後かもしれないし、この4年間の中にあるかもしれない。
しかし、それは誰にもわからず、そんな不安に苛まれながら、
例え逃げの姿勢で大学進学を選んだとしても誰が文句を言えようか。
勿論、プロのマウンドで見たいという期待は誰にでもある。
もしくは、散るからこそ美しいのかもしれない。

炎天下の中での真夏のデイゲーム、スポーツ科学の見地から到底考えられない連投、
そして大人と子どものはざまを生きる高校生という年齢、そういった夏の甲子園が生み出す、
危うさと直向きさの表裏する関係こそが僕らが毎年あれだけ夏に魅せられる一つの要素だと思うのだ。

僕らはそんな人生の縮図をスポーツに投影しているのかもしれない。

  • 共通ジャンル:

posted by yamagiwaboy1012 |23:01 | 雑感 | コメント(2) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2006年09月11日

プロパガンダ

スポーツメディアという言葉を聞いて、何らかの違和感を覚えるのは私だけであろうか。

この言葉から連想するものは新聞、TV、ラジオ、雑誌、
最近ではインターネットなどもその中の一つに当たるかもしれない。
しかし、それらは元来、マスメディアという既成の括りの中で
十分に住み分けされているものではなかろうか。

思うに、筆者の違和感の半分ほどは近年のスポーツブームによって点在している
「スポーツ」という冠言葉に対するものである。
スポーツ行政書士は、ただの行政書士ではいけないのであろうか。
スポーツ社会学は、ただの社会学ではいけないのであろうか。
ただ細分化されただけの名称であるのならば、筆者は必要がないと思うのである。
スポーツという冠名を付けるのならば、別の意味を示さなければならないはずである。
これらの理解がスポーツメディアという曖昧な言葉には非常に欠如しているのではないか。
僭越ながら自身の違和感をかように解説してみた。

結論から先に述べるのならば、スポーツメディアとは
『スポーツを扱うメディアではなく、スポーツがメディアになること』ではないか。今回はそんな話である。

メディア(media)とは、そもそもミディウム(medium)の複数形で、
その意味は中間や媒体という意味を持つ言葉である。
社会学的には一般にコミュニケーションの手段をさす。
また、人と人をつなぐものをも一般にメディアと呼び、
古くは神の見言葉を民に伝える巫女のようなものを、
そのように呼んだ経緯があるという説もある。

何故ユニフォームに入るロゴや、ス
タジアムに入る看板に多額の資金を企業は投資するのかといえば、
それは言うまでもなく、一方が多勢に情報を投げかける、
マスコミュニケーションの図式が成り立つからではなかろうか。

スポーツは一度に、一つの場所に人間を集め、多くの情報を提供する。

そんなスポーツの“拡声器”的機能を利用し始めたのはヒットラーである。
1936年のベルリン五輪の際に、ナチスドイツのプロパガンダとして五輪を利用した。
記憶に新しいW杯決勝の地オリンピックシュタディオンの中には、
ヒットラーの写真やパネルがあると言う。
これは同時に、スポーツをスポーツのこと以外で利用としようとした
スポーツビジネスの歴史の始まりでもあると考えることできる。

企業がCSRとして取り組む事業にスポーツイベントなどが多いのもその一つであり、
社会に対する責任をスポーツというメディアを通して人々に伝えているのである。

よくよく考えれば、スポーツは「スポーツマンシップ」というメッセージ広告を
何十年にもわたって叫び続けてきたことは忘れてはならない事実である。
現在のマーケティングの手法の一つである「経験価値マーケティング」
これにスポーツが利用されるのは、この土台があってこそだ。

また、近年のスポーツは、自らの意思で新たな情報を発信するようにもなった。
それは、古くはクーベルタン伯爵が唱えた「平和の祭典」である五輪であり、
今ではメガイベントの多くでしきりに叫ばれる「環境問題」もその一つである。
最近の話では、スペインのFCバルセロナはユニセフと提携し、
頑なに守ってきたユニフォームの胸スポンサーに初めて他組織の名前を刻むようだ。

この様な動きは、近年、多くの音楽などのイベントにも見られる傾向である。
しかし、それらと比べて危険なのは、
音楽などのイベントがミュージシャンなどの個人の意思として行われていることに対して、
スポーツ界として叫ぶからなのか、はたまた“スポーツマンシップ”という謎の言葉が生み出す
“潔さ”からなのかはわからないが、明白な事実・真理として万民に馴染んでいくことである。

日本ではまだしも、世界的にいえばスポーツはもはや、宗教に近いような特別な力を持ちつつあり、
ただの拡声器ではいられなくなった。
それは1936年の頃の比ではないだろう。
2004年のアテネ五輪や2006年のドイツW杯でテロ行為に対して厳戒態勢がしかれたのはそのためである。
人の心を掴みやすい、特有の発言力でスポーツが悪用されて、
自らの身を滅ぼさないように、その襟が正されることを願うばかりだ。

  • 共通ジャンル:

posted by yamagiwaboy1012 |22:53 | 雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加