2006年07月31日
3日間の…、この言葉の後にはどんな言葉を思い浮かべるであろうか。
3日間の社会奉仕活動。
「あの」という連体詞が付く選手はそうそういないが。
その処分を受けたのは、“あの”ジダンである。
W杯の決勝という大舞台でみせた彼の奇行には誰もが驚き、
その試合の結末を考えると何とも複雑な気持ちにもなった。
他方で、3日間の出場停止という処分を受けたのは、
W杯の地からはるか東にある島国の中の、一人のロシア人であった。
7月の15日のことである。
大相撲名古屋場所七日目。
露鵬は千代大海に押し出された後、土俵下でにらみ合い、礼もせずに土俵を下りた。
審判部が両力士を呼び、礼を欠いた行為として注意したものの、
怒りが収まらない露鵬が取り囲んだカメラマンに暴行、風呂場のガラスを割る騒ぎも起こした。
ジダン同様に繰り返し放送される犯行映像を見る限りでは、
土俵下で千代大海と露鵬は明らかに言い争っている。ケンカだ。
相撲も来るところまできたということだろうか。
この事態は、思うに今日我が国がおかされている大病の合併症かもしれない。
時に日本人とは、内面と向き合うことを大事にする人間であり、
何よりも心を重んじてきた。
だからこそ日本において「道」と名のつく多くの競技の極意は
「心・技・体」と呼ばれ、最初に“心”がやってくる。
では、“心”とは何か。それは人を思いやることであリ、時に礼とも呼ばれる。
今回の一連の事件は、礼を事欠き、感情の赴くままに起こる子どものケンカのようである。
ただ、その子どもたちの体は何とも大きいから性質が悪い。
まさに相撲レスリングと呼ぶに相応しいのではないか。
相撲教育に対する親方たちへの批判も少なくないはずである。
思えば、番付の上位に位置する多くは外国人力士である。
髷を結い、化粧回しを拵える姿は、時に日本人よりも日本人らしいと感じることができる。
しかし、彼らは外国人であった。
W杯を見ていて思ったが、審判の笛に対してあんなにも突発的に手が出るような反応には驚いた。
日本人と相容れない部分である。
そんな彼らが相撲を取る時代なのである。
国際化の流れであるといえば、それまでである。
世界に相撲が広まったと考えれば、喜ばしいことでもある。
が、しかしなのだ。
国際化とは何かといえば国の壁をなくすこと。国が中心を失うこと。
国際化が平準化とも呼ばれるのはその点である。
わが国が国際化の中で失ったものは大きい。
その一方でこんな動きもある。
今こそ「日本人化」。そう叫んだのは、サッカー日本代表の新しい監督である60過ぎの老人だ。
世界を見てきたからこそ言える言葉なのかどうかは、さておき。
その言葉が出てくるのが、外国人の口からというのは何とも複雑である。
posted by yamagiwaboy1012 |22:42 |
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2006年07月17日
眠い目を擦りながら見ていたW杯はカルチョの国の勝利によって幕を閉じた。
その勝者は世界で一番幸せと言わんばかりの笑顔を見せたかと思えば、
一方でその敗者は世界の終わりかのような絶望の涙を流し、天を仰ぐ。
当事者ばかりではなく、それを見ていたサポーターまでもが泣いている。
たかがスポーツであるはずなのに。
この世の中にスポーツの存在無しでは生きていけないという人はいないだろう。
むしろ限られた時間の中で、生きる為にしなければいけない多くのことを考えると、
スポーツの強いられる順番待ちは長い。
その点、今日のスポーツは、健康の為、人付き合いの手段として、
などの副次的な目的があるからこそ存在していられるとも思える。
スポーツの大部分を占める、遊び(プレイ)の本質は、
その中にある「Fun」(楽しさ)であると説き、
スポーツをすること自体がスポーツの目的であると説いたのはホイジンガである。
前述のように本来スポーツとはその行為自体に、楽しむこと自体に存在意義があったのだ。
『スポーツの輪郭』を読んでいただければと思うが、
それは生活上やらなければならない義務や仕事からの
解放・気晴らしの意味がスポーツにあったからである。
だからこそ、生きることを補完する意味合いで
スポーツはただの“遊び”から“文化”として進化するのである。
もちろん、今日世の中におけるスポーツの位置づけというのは、
スポーツがまだレクリエーションと同義の言葉としてされたころからは
想像も出来ないほど変化してきただろう。
『スポーツが真面目(シビア)なものになり過ぎて、気楽さを失い、
本来のスポ ーツとはかけ離れたものになってしまった』というのは、
今から60年も前のホイジンガの批判であるが、
きっと今日のスポーツの現状には予想もつかなかったはずである。
しかし、変わっていないことがあるとすれば、
生きていく為には必ずやらなければならないことがあって、
それは必ずしも楽しいことばかりではないどころか、
その多くは苦しくて辛いことであるということ。
そして、そういった冴えない生活を潤す為に、
非現実とも呼ぶべきスポーツが存在しているということだ。
スポーツは夢を見させてくれる。
それは、人間が空を飛ぶような非現実的な夢ではなくて、
非常に現実的な叶えられる夢を見させてくれる。
努力すれば報われること、時に運命と言うべき神さまのいたずらが起こることも、
人生の中の全ての要素がスポーツの中にはあるような気がする。
そして、スポーツをする人だけではなく、
みる人、きく人、話す人、スポーツに関わる人、全てにとっての夢だ。
だから、選手を必死に鼓舞するような応援の声は、
時にまるでサポーター自身を奮い立たせているかのようにさえ聞こえるのかもしれない。
生きる実感。
そう、まさに生きる実感とも言うべき何かを人間はスポーツという非現実の世界から得て、
それを糧として再び現実の世界へと旅立っていく。
僕はそこに、たかがスポーツがこんなにも愛されるようになった背景を感じるのだ。
posted by yamagiwaboy1012 |22:36 |
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2006年07月03日
7月3日。
あれほどいた出場国も今ではもう4つしかいない。
W杯も大詰めといった感じである。
この期間、雑誌『Number』は隔週から週間発行に臨時体制で臨んでいる。
ここ何年かにおいて日本で最も読まれているスポーツ誌と言っても過言ではないだろう。
私自身も、毎回の発行を楽しみにしているファンの一人だ。
その中に日本代表を時系列で追った「日本代表ベタ張り日記」というのがあり、
こんな記事が書いてあった。
(以下Number World cup special issue2「日本代表ベタ張り日記」より抜粋)
6月8日俊輔、シューズ育成中「開幕を控え、
日本からの報道陣、サポーターの数も増えてくる。
練習前にはユニフォーム姿で集合写真を撮影。
5月30日のドイツ戦には真っ赤なシューズで臨んだ中村俊輔だが、
このところの練習では履いていない…と思っていたら、
何とスタッフがその靴を履いていた。
『ワールドカップ用に用意してもらった新しい靴だから、
まだ足にフィットするくらい柔らかくなっていないんだよね。
だから、練習中はスタッフの人にお願いして伸ばしてもらっている。
で、ホテルでは熱いお湯につけて柔らかくしてから
シューズキーパーで伸ばして、“育成”している。
毎晩毎晩の作業だから結構愛着がわくんだよね。 』
初戦と第2戦は赤い靴で登場し、第3戦のブラジル戦には、
青い靴を用意しているそうだ。」
この雑誌の中には当然のように初戦のオーストラリア戦での中村俊輔が、載っていたので、
その足元を見てみた。
外くるぶしの下の辺りになろうか、日本とオーストラリアの国旗と日付が入っている。
思うに、このように日付などを入れるようになったのは、
記憶を辿れば2002年のW杯ではないだろうか。
ユニフォームの胸のところにその日の日付とカードの記念プリント。
つまり、中村俊輔には最初から3足の靴を履かなければならない使命があったのだ。
しかし、育成中などと楽しげに俊輔は語るが、その一方でその障害を吐露しているのである。
そもそもシューズとは、道具とは、そんなものだったのだろうか。
少し極端ではあるが、有名な話として、SHINJO選手は入団当初から同じグラブを使い続けている。
道具とはそういうものなのである。大学の体育会でスポーツを行っている私の友人は、
チームの契約と言うことで某大手シューズメーカーの靴を履かなければならない。
ただ、靴というものは、人間にとって最も大事な体重を支える足をカバーする部分であり、
選手にとっては一番好みが分かれ、最も慎重に選ぶべきところではないだろうか。
こんな大学は数えるほどもなく、弘法筆を選ばずの精神、
贅沢を言うなとも言われそうなものでもあるが。
もっとも、当の弘法大使自身は筆選びを最も大切にしたと言われている。
少し形が変わり始めたスポーツ界で、近年叫ばれるスポーツの商業主義化、
またそれによる高騰化に反対する声は、このようなところから上がってくるのである。
ただ、時にこうも思うのである。
これからスポーツが日本において文化となるために必要なものは何か、
社会的評価が上がるためにはどうすればいいのか。
お金は社会的価値の一つの基準である。
では、今後スポーツに払うお金が低くなるべきなのか、高くなるべきなのか。
みなさんはどうお考えだろうか。
私は、当然のように後者だと思う。何かが発達していく段階で、
お金が高くなることは必然なのではないだろうか。
思えば、携帯電話やパソコンも元々は高価なものであり、
誰にでも手に入るものではなかった。
もちろん、誰にでもあれば便利なものであるし、
今となってはそれらを持ち得ないことなど考えられないほどである。
しかし、その弊害に対して何らかの批判が叫ばれたであろうか。
勿論そういったものと一概に並べられないほどスポーツは異質なものであるし、
この時代において残雪とも呼ぶべきスポーツアマチュアリズムの存在や、
日本社会全体にある旧体制の壁には、
利益追求型の合理主義という武器だけでは太刀打ちできないのかもしれない。
しかし、キラリと妖しく光る切っ先が見えた時に、恐怖心からそこで立ち止まるのか、
それを乗り越えてもう一歩懐に入っていくのかで道は別れる。
企業スポーツの時代が終幕し、次はスポーツマネジメントの時代と言われる。
今我々に求められているのは、その偉大なる一歩目ではないだろうか。
ただ、楽天家である私の非常に個人的な意見を言えば、
長々と前口上を垂れてきたわりに申し訳ないのだが、
その人気にあやかって頻繁にサッカーの記事を扱うようになった『Number』よりは、
色々なスポーツがどさっと盛り合わせで出てくるような昔の『Number』の方が好きではある。
posted by yamagiwaboy1012 |22:31 |
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