2006年07月17日
生きている実感
眠い目を擦りながら見ていたW杯はカルチョの国の勝利によって幕を閉じた。 その勝者は世界で一番幸せと言わんばかりの笑顔を見せたかと思えば、 一方でその敗者は世界の終わりかのような絶望の涙を流し、天を仰ぐ。 当事者ばかりではなく、それを見ていたサポーターまでもが泣いている。 たかがスポーツであるはずなのに。 この世の中にスポーツの存在無しでは生きていけないという人はいないだろう。 むしろ限られた時間の中で、生きる為にしなければいけない多くのことを考えると、 スポーツの強いられる順番待ちは長い。 その点、今日のスポーツは、健康の為、人付き合いの手段として、 などの副次的な目的があるからこそ存在していられるとも思える。 スポーツの大部分を占める、遊び(プレイ)の本質は、 その中にある「Fun」(楽しさ)であると説き、 スポーツをすること自体がスポーツの目的であると説いたのはホイジンガである。 前述のように本来スポーツとはその行為自体に、楽しむこと自体に存在意義があったのだ。 『スポーツの輪郭』を読んでいただければと思うが、 それは生活上やらなければならない義務や仕事からの 解放・気晴らしの意味がスポーツにあったからである。 だからこそ、生きることを補完する意味合いで スポーツはただの“遊び”から“文化”として進化するのである。 もちろん、今日世の中におけるスポーツの位置づけというのは、 スポーツがまだレクリエーションと同義の言葉としてされたころからは 想像も出来ないほど変化してきただろう。 『スポーツが真面目(シビア)なものになり過ぎて、気楽さを失い、 本来のスポ ーツとはかけ離れたものになってしまった』というのは、 今から60年も前のホイジンガの批判であるが、 きっと今日のスポーツの現状には予想もつかなかったはずである。 しかし、変わっていないことがあるとすれば、 生きていく為には必ずやらなければならないことがあって、 それは必ずしも楽しいことばかりではないどころか、 その多くは苦しくて辛いことであるということ。 そして、そういった冴えない生活を潤す為に、 非現実とも呼ぶべきスポーツが存在しているということだ。 スポーツは夢を見させてくれる。 それは、人間が空を飛ぶような非現実的な夢ではなくて、 非常に現実的な叶えられる夢を見させてくれる。 努力すれば報われること、時に運命と言うべき神さまのいたずらが起こることも、 人生の中の全ての要素がスポーツの中にはあるような気がする。 そして、スポーツをする人だけではなく、 みる人、きく人、話す人、スポーツに関わる人、全てにとっての夢だ。 だから、選手を必死に鼓舞するような応援の声は、 時にまるでサポーター自身を奮い立たせているかのようにさえ聞こえるのかもしれない。 生きる実感。 そう、まさに生きる実感とも言うべき何かを人間はスポーツという非現実の世界から得て、 それを糧として再び現実の世界へと旅立っていく。 僕はそこに、たかがスポーツがこんなにも愛されるようになった背景を感じるのだ。
posted by yamagiwaboy1012 |22:36 |
雑感 |
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