2007年01月19日
2005年11月13日@早稲田大学 東伏見グランド 対青山学院大学戦
その日も早稲田大学ア式蹴球部フォワード背番号11松橋優は累積二枚でピッチを後にした。
一枚目は審判を欺く行為と判定され。二枚目はその判定に反抗したが故に。
僕が見ていた限りじゃディフェンダーの足は松橋の足にしっかりかかっているようだった。
試合後、監督の抗議で審判はミスを認め退場は取り消されてもいる。
可哀想という感情は不健全かもしれないが、これが松橋の置かれていた境遇である。
松橋は1シーズンに4度という目に余る退場回数と言うこともあり、
関東学連から厳しい注意も受けていた。
2005年前期関東大学サッカー2部リーグ第四節対慶応大学戦における、
後半開始に早々の競り合いの場面で繰り出したヒジ打ちによる一発退場もその一つだ。
名門長崎県立国見高校から、早稲大学に入学し、
徳永悠平や兵藤慎剛などの長崎県立国見高校の同門生がユース代表として国を背負って活躍し、
同じく国見で大久保嘉人とコンビを組んだ兄・章太はJリーグ大分トリニータに在籍する。
そんな中早稲田大学の松橋優への見方は異質である。
「人格者として有名な国見の小嶺監督は彼に何を教えたのだろうか?」
これが当時関東2部リーグで「退場王」となった松橋への一般論のようにも思える。
今思えばあの時、松橋は岐路に立たされていたのだ。
良くも悪くも個人主義のそのプレースタイルは、
チームを救ったのと同じ数だけ、苦しめていたのだ。
総理大臣杯の決勝の関西大学戦での1得点1退場というのは、
松橋はその両方の持ち味が出てしまっていた事実だ。
『がっつく』そう表現される松橋のプレーは、
野性味や飢餓感という言葉が良く似合う気持ちの出たプレーだ。
大学サッカーの中でも抜きに出るそのスピードとそんなプレースタイルは、
相手DFにとってはやっかいではあろう。
だからというわけではないが、体を張って松橋を止めに来る。
いわゆる『削られる』ことで松橋の足は傷だらけでもある。
そんな時、生まれながらの性格なのか、つい手や足が出て、
ファールが来るのがわかっているから大げさに転ぶ。
人間くさいと言ってしまえばそれまでだが、スポーツの枠の中には収まってはいなかった。
しかし、そんな松橋優はもういない。
いや、少なくとも2007年1月14日全日本大学サッカー選手権決勝対駒澤大学のピッチで、
キャプテンマークを巻いた松橋は違っていたのだろう。
早稲田大学は通常ゲームキャプテンがキャプテンマークを付けることはない。
何故なら主将は怪我で出られないが間違いなく金田隼輔だからである。
ましてや松橋がつけることは見たことがない。しかし、この日は違った。
松橋以外ピッチにたてない4年生の代表として、チームの代表として勝ちに来ていた。
『自分が得点するよりもチームとして勝ちたい』
キャプテンマークが少し似合っている。
今なら、ニヤリと笑いながらこういうかもしれない。『得意技はヒジ打ちっス。』
松橋は今春、兄・章太のいる大分トリニータへと飛び立っていく。
posted by yamagiwaboy1012 |00:26 |
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2007年01月17日
68分、71分、そして12分を残して、最後の1枠がなくなった。
早稲田大学ア式蹴球部の主将である金田隼輔は何度このカウントダウンをしたのだろうか。
そして、1年前に誰がこの様な金田の姿を想像したであろうか。
金田は早稲田の汗かきやと呼ばれる典型的なボランチだ。
そのポジションはミッドフィルダーの底に陣取り、
守備の時にはいの一番にボールマンを止めに行く役割を担っている。
失点する時には大抵ボランチは後ろにある自陣のゴールを遠めに眺めることになる。
自分が止めていれば、そう思うことも少なくない。
石川県星陵高校から早稲田大学にやってきた金田隼輔は早稲田にとって、
エッセンシャルな存在である。
小柄ながらも豊富な運動量でピッチを縦横無尽に走り、
いち早く相手の攻撃の目を摘み取る金田の献身的なプレーは、
泥臭いという言葉を想起させる。
巧くはない。
もしかしたら、それは同じポジションを務めながらも長短の多彩なパスワークで
チームを動かす3年生の鈴木修人や兵藤慎剛とのコントラストかもしれない。
しかし、そんな金田のプレーが少しエリート染みて、
たまに気持ちの弱さを見せるチームを纏め、活気付ける。
早稲田大学ア式蹴球部において金田隼輔がキャプテンたる所以はそんなところにある。
しかし、今季のリーグ後半戦、
金田は怪我から選抜メンバーから外れることが多くなった。
前期リーグの全12節で798分出場した主将の姿はそこにはなく、
後期は52分の出場に留まっている。
チームは前期3位から2つ順位を下げシーズンを終えた。
「チームがバラバラである」というのは、インタビューの中での金田の言葉だ。
そんな中始まってしまったのが全日本大学サッカー選手権である。
大学日本一を決めるこの大会は敗退したその時点が四年生の引退となる。
しかし、早稲田大学はグループ予選において近畿大学や高知大学という
西の雄を相手に2試合で16得点というような快進撃を見せる。
そして点差がついた時になって金田の出番はやってくる。
「金田を、主将を試合に出そう。」
準決勝戦の流通経済大学戦で、
FKのこぼれ球をつめた四年生のディフェンダー山口が得点後、
ベンチの方へと一目散に向かっていったのはそんな想いがあったのではないか。
「四年生とできる限り長くプレーしたい。」
そういった多くの下級生の言葉からもわかる通り、
このチームは金田を中心にまとまったのだ。
だが、有終の美を飾ることは出来なかった。
終わってみれば金田の大学最後の公式戦出場記録は、
準々決勝の立命館大学戦の出場時間1分というものだ。
いや、決勝戦において4年生は松橋優一人を除いて誰もが出場できなかった。
ベンチには主将の金田とムードメーカーの堀江重誠。
準決勝の累積警告でベンチから外れた山口貴弘。
Jリーグ移籍の一番乗りを決めたが怪我でインカレを欠場しているゴールーパー時久省吾。
計25人(うちマネージャーとトレーナーは3人)の四年生は
松橋を除いて誰もピッチに立てなかったのである。
試合終了の笛が鳴る。歓喜の声も悲しみの声もあまり聞こえてこない。6-1。
面白いようにボールは早稲田ゴールに入ったが、試合展開は決して面白いものではなかった。
駒澤大学にいいようにやられていくチームを、
主将はピッチの外からただ見守ることしか出来ない。
ただ、その日バックグラウンドだけが開放されていた国立競技場において、
メインスタンド側のベンチにいる金田の後ろにはもう誰もいなかった。
…金田はJリーグには進まない。
これは世の中に星の数ほどいる、陽の当たる場所のすぐ横にいた一人の選手の物語である。
posted by yamagiwaboy1012 |23:56 |
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2006年08月14日
「カキン」快音を響かせてボールはレフト線を抜けていった。
そこで、ピッチャー大城をはじめ、
那覇商ナインの集中力は途切れてしまったのかもしれない。
先制されたのは今大会では始めてであり、
大城の“まげ”と一緒にガクリと落ちる後頭部が見えた。
肩を落とすには早過ぎる、まだ一回の表 ワンアウトだった。
終わってみれば、11-3。
大振りな結果ではあるが、
不確かなものが積み重なって、勝敗を決める。
そう実感するような試合である。
「相手の方が一枚上手でした。」
という那覇商 仲田監督の試合後のコメントほど力の差はない。
初出場校のほとんどいない左側の櫓。
その勝者で7回目の出場となる徳風高校通信制(三重)は、
トーナメントで着実に力を付けてきていた。
一方で、昨年決勝のカードが一回戦から行われた右の櫓は、
その勝者の県立湘南(神奈川)を破った県立那覇商業高等学校が波に乗った。
8月13日 全国高校定時通信制軟式野球大会決勝。
下馬評は7:3で那覇商有勢である。
繰り返しになるが、その日すでに一試合を終え、
櫓の頂点にきた両校に力の差はなかった。
その結果がどちらに転んでもおかしくなかったのはデータからも伺える。
3本の安打に対して3点、12本に対して11点。
四死球と失策の数は多かった。
那覇商のバットにボールは当たらなかったのは確かだが、
こんなにも点差が開いたのはそれなりの理由がある。
前日の雷雨により試合は繰り越しになった。
最終日は準決勝とのダブルヘッダーになり、
両ナインは疲労困憊であったこともこの結果を決める要因の一つだった。
そんな中、一回表の先制点で那覇商ナインの疲労感が顔を出した。
その流れを引きずったまま取られた得点は8回までに11点。
最後に追い上げをみせるものの、
那覇商はその流れを最後まで断ち切れなかった。
そのシーソーゲームの様相を崩したのは応援でもある。
遥々三重から来た小さな応援団は、
子ども特有の高い声で徳風ナインの追い風になった。
一方でバックネット裏に構えた徳風OBの声は力強い。
「まず一球目からだ。」「いい球だぞ。」「焦るな、点差を考えろ。」
ピッチャー岸上がそういった一言一言で落ち着いたのが、
手にとるようにわかった。
その日徳風の岡橋監督がナインに授けたのは「直球狙い」。
しかしである。
4回、その日結果として5打数4安打の早川の3打席目。
その試合を決めた三塁打の球は「スライダー」であったと試合後きっぱりと言っている。
他にも何人かの打者が「スライダー」を打ったと答えた。
確かにその日の大城の変化球にキレはなかった。
何故降板させないのか。私はそう思った。
思い出されるのは、那覇商が一回戦で見せた継投である。
背番号3 力強い直球を投げるサードの今平、
その反対に制球がいいショートの知念 背番号は5。
そしてエースナンバー1を背負った大城の三人による継投は見事だった。
しかし、その日打ち崩されるエースを目の前にしながらも、
最後まで交代はしない。
「あまり調子はよくなかった。けどメンバーが最後までマウンドを託してくれたのでがんばった。」とは大城。
準決勝では知念が投げきりエースを温存させた那覇商は、
連投の相手投手とは違い磐石の態勢ではあった。
那覇商のベンチには一枚のユニフォームが千羽鶴と共に飾ってある。
背番号は6、腕には主将の2文字。体の調子が悪く、
本大会に参加できかったショートの奥島のものである。
守備の要であり、主将の不参加でチームの混乱は避けられなかった。
もしもの話である。
一回の攻撃で那覇商が先制されていなかったら、
雷雨で最終日がダブルヘッダーでなければ、
OBなどの声援が那覇商にもあったら、
相手が監督の言うとおりに「直球狙い」にしぼられていたら、
大城の調子がよく、主将の奥島が参加できていたら…。
勝負事に「もしもの世界」はないが。
それでもそう考えてしまうのは、
私が少なからず那覇商に対して感情移入をしてしまっているからにほかならない。
那覇商は成人男性も参加する定通制野球の中でも一際目立つ風貌のチームであった。
大城の頭は丸るまってはいるものの、その脳天から肩まで延びる細い長髪を結いでいる。
投球動作に入るたびにその“まげ”がひょこひょこと踊るのが印象的だ。
口ひげを蓄え、その鋭い眼で打者を睨み付ける。
恐らく、一般の高校野球児ならば縮こまってしまうような出で立ちだ。
サードの今平は金髪に中にピンクのエクステンションまで入れている。
黒髪のナインでもほとんどが長髪という具合。
高校球児の一般論の枠組には収まりきらない。
しかしそれでも、彼らは間違いなく高校球児であり、
こんなにも野球に打ち込んでいる。
私にはそれがとても印象的だったのだ。
だが、それは偏った見方でもあり、
私をはじめとした大人たちのエゴでもあった。
その一方で甲子園に出るような「高校球児」たちよりも、
リアリティがあった。
試合終了のサイレンが鳴り響く。
しかしそこは甲子園ではない。
そのおおよそ「高校球児」らしからぬ、非凡なナインたちの夏は、
甲子園からずっと東の都の 閑静な住宅街の中の 少し芝生のはげた球場で幕を閉じる。
しかしそれもまた1つのゲームを共有した、
暑い夏の少年たちの姿であった。
posted by yamagiwaboy1012 |16:44 |
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