2008年02月28日

棚橋よ、今年は皆勤賞を目指せ。風邪ひいても、熱があってもね。

「プロレスとは、桃源郷なり」  /  桃太郎

         「皆勤賞」


 子供の頃、学校を1日も休まなかったクラスメートに「皆勤賞」が与えられ、
表彰式が行われた。 僕は学校嫌いな子供だったから、皆勤賞なんて縁遠いも
ので、その価値すら認めたくないくらいなんだけど、当時、皆勤賞をもらって
いたクラスメートは「何で、今の学校は皆勤賞がないんだよ」と憤慨してたり
する。 自分の子供に「お前も皆勤賞を取れよ」と励ましていたのに、皆勤賞
自体がなくなっていたのだ。 そりゃ、怒れるわな。
 皆勤賞が無くなっちゃったのは、風邪をひいてたり、熱があるのに「皆勤賞
のために登校させる」という、お馬鹿な親が現れたせいだ。 皆勤賞なんて、
狙って取るものじゃない。 結果を称えているだけなのだ。
 皆勤賞なんて、狙って取るものじゃない。 そう書いたけど、狙って皆勤賞
になって欲しい選手がいる。 新日本プロレスの棚橋弘至である。 棚橋は、
全日本プロレスの3/1、両国大会に出場することになった。 武藤敬司と組
んで、川田利明・太陽ケア組と対戦する。 もともと棚橋は、新人時代に武藤
の付き人をしており、その繋がりからこのカードが実現したわけだけど、1回
限りなんてつまらない。 今年は、全日本のシリーズにも全戦参加すればいい。
 新日本の去年の興行数は110大会だ。 31歳という体力的にも頑張れる
今なら、新日本のシリーズの合間に、全日本に出ることも可能だろう。 新日
本では中邑、真壁、後藤の次くらいのポジションをキープし、全日本ではゲス
ト扱いで出場する。 年間200試合出場なんてことになったら、それだけで
プロレス大賞を与えてもいいんじゃないのかな。
 副次的な効果もあるはず。 例えば、全日本が興行スケジュールを調整して、
新日本とバッティングしないようにするとか。 あるいは「棚橋弘至は、どの
団体にも出ます」と宣言して、ハッスルでもNOAHでも呼ばれればどの興行
にも出るとか。 試合に多く出るということは、それだけ多く露出することに
なるわけだから、棚橋への注目は嫌でも集まる。 他団体で棚橋を見た観客が、
新日本の興行に来たりすることも考えられるし、テレビ関係者の目にとまって、
バラエティー番組への出演依頼が来たり、映画へのオファーだって来るかも知
れない。 あの肉体美を見せつけたなら、誰かが「使いたい」と言ってくると
思うよ。
 今の棚橋は色んな可能性を秘めている。 今年は、ちょっと無理するつもり
で突っ走ってもいいと思う。 練習する暇がないほど忙しい、棚橋がそれくら
いの人気者になれば、プロレス人気も復活する。 テレビもいい時間帯に放送
してくれるだろうし、ドームも満員になる。 ギャラも増えるし、いい人材も
集められる。 まるでプロレス界の永久電気だ。
棚橋よ、今年は皆勤賞を目指せ。
風邪ひいても、熱があってもね。

posted by 桃太郎 |05:21 | 桃太郎 |
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2008年02月21日

大事なのは「新日本にとって一番の権威はG1である」と決めることなのだ。

「プロレスとは、桃源郷なり」  /  桃太郎

          「封印」


 2/17、両国大会でカート・アングルを破った中邑真輔が、IWGPベル
トを統一した。 しかし、統一したとは言うものの3代目ベルトを持ち去った
ブロック・レスナーに勝ったわけではないし、初代のベルトを持っている男も
いたりして、どこまで行ってもIWGP王者には「暫定」っぽいイメージがつ
きまとう。 いっそのこと、こんなベルト封印してしまえばいいと思う。
 IWGPのベルトを封印して、G1クライマックスを最高の権威にすればい
い。 IWGPタッグもジュニアも封印して、G1タッグリーグを最強のタッ
グチームを決める闘い、ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニアをジュニアの
最高峰の闘いと位置づければいい。 IWGPという「猪木の象徴」みたいな
ベルトは消し去ってしまうべきだ。 だって、もう25年もIWGPをやって
んだよ。 そろそろ変わらなきゃ。
 新しいことを始めるためには、今までを終わらせなければならない。 猪木
がIWGPを始めたとき、シンやハンセンと名勝負を作ってきたNWFのベル
トは封印された。 本来なら、G1クライマックスを始めたときに、IWGP
は終わらせておくべきだったと思う。 G1の覇者とIWGPの王者という、
ふたりのチャンプができるということは、すでにIWGPの理念に反していた。
IWGPは世界統一のタイトルを目指して作ったベルトなのだから、他の権威
は認められないはずだ。 それなのに新日本では、IWGP王者がG1クライ
マックスに出場したり、IWGPと三冠ベルトのダブルタイトルマッチが行わ
れたり、新日本の選手が他団体のベルトに挑戦したり、なんてことが平気で行
われてきた。 もう新日本プロレスに、IWGPの理念なんて全くないのだ。
だから、封印しちゃえばいい。
 封印したら、新日本の興行からタイトル戦がなくなるのか。 そんなことは
ない。 全日本と交流するなら、新日本の興行で三冠選手権が行われてもいい。
真壁がWEWのベルトを奪ったら、防衛戦をやればいい。 TNAのベルトや、
ゼロワンのベルトでのタイトルマッチもあるだろう。
大事なのは
「新日本にとって一番の権威はG1である」
と決めることなのだ。
ベルトは個々の選手が履歴書に書く一行にしてしまえばいい。
 5年くらい自前のベルトがない時代を作って、その間に選手たちは他団体の
ベルトで履歴書を埋めていく。 そうしたら、5年後には、元三冠王者とか、
元WEW王者とか、元GHC王者なんて選手がいっぱいできているはずだ。
肩書きが豪華になったら、今度はG1をやめて、新しいベルトを作ればいい。
世界統一を掲げてね。
 IWGPの長き航海は終わった。
 そういうことにしようよ。

posted by 桃太郎 |09:35 | 桃太郎 |
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2008年02月17日

はっきりと断言しよう、総合格闘技にリアリティはない。

「総合格闘技にリアリティはない」 BY クレメンタイン


はっきりと断言しよう、
総合格闘技にリアリティはない。

これは決して、総合格闘技がリアルではないと言っているのではない、リアリ
ティがないのである。リアリティとは、日本語に訳せば、「現実感」である。
つまり、その光景をどこまで現実の世界観として、捉えることが出来るかどう
かである。果たして我々は、どこまでの人が総合におけるパンチの痛みを想像
できるだろうか、どこまでの人がチョークで絞められて落ちていくイメージを
もてるだろうか。おそらく格闘技経験者を除けば、殆どの人が想像できないだ
ろうし、ちょっとやそっと格闘技を経験したからといってトップ選手のレベル
を想像できるものでもない。となれば、我々は自己投影や、追体験というかた
ちで、自分をおきかえ、自分もその痛みを共に味わうような感覚で、総合を見
ることは出来ないだろう。これはおそらく、K-1などでも同様のことである。

彼らは、どこか自分たちを超えたところで、つまり別世界のものとして存在し、
我々は自己とは異なる存在、異人たちの戦いとして総合格闘技を見る。それは、
まさにゲーム的世界観であり、チェスの駒とプレイヤーの関係くらい隔たれた
ものが存在する。だからこそ、選手の痛みを少し無視で、その結果として、選
手の戦いに熱狂できる。これは、ある種当たり前のことであって、それが間違
っていると言いたいのではない。このような現象は古代ローマのコロッセオの
ころと何ら変わらず、ひとつの娯楽として存在しており、それは人間の残虐性
を含みながらも、人類が続けている一種の罪悪の一つかもしれないが、今、そ
の議論をするつもりはない。ここでのポイントは、あくまでも自己と選手との
隔たりである。

もし仮に、そこに自己との隔たりがなかったらどうなるだろうか。おそらく目
を背けたくなることも、多々生まれるのではないだろうか。かつて有名闘牛士
の妻が、決して主人の試合を見ない、なぜならとても見てられないからだ、と
答えていた。闘牛士の妻にとってみれば、その選手はまさに自己の近しい存在
であり、自己と選手の隔たりは、他者と比べれば圧倒的に小さい。つまり、試
合は身近な出来事であり、それは中世において処刑が一大お祭りイベントであ
りながらも、そこには処刑される者の家族という例外を孕んでいたことと等し
い環境であろう。もちろん、処刑のように必ず殺されるわけではないのだから、
生き残るように応援しながら見る家族だっているだろう。だが、試合を純粋に
楽しめるかといえば、複雑な感情があるのは容易に想像がつくことである。だ
が、家族のように接点を持たない我々は、太古の昔から行ってきたように、こ
のような感情を切り離すことで、総合格闘技のような痛みの世界ですら楽しみ、
熱狂する。

となれば、そこに痛みのリアリティを含めた、諸処のリアリティというものが
存在するだろうか。極論を言ってしまえば、総合格闘技を楽しむ方法論は、何
も人間である必要はないのかもしれない、つまり、それがゲームの世界であっ
ても、迫力と真剣勝負という信仰さえ持ち合わせれば、可能なのではないだろ
うか。もう少し、例を変えていけば、競馬に熱中する感覚とも変わらないので
はないのか、ということである。

総合格闘技を楽しむ人間の心は、人間の根源的な闘争本能が、人間が作り上げ
た理性を超えそうになりながらも、そのギリギリのなかで自己の欲求を満たし
ていく行為である。私も総合格闘技は嫌いではない、その強さに対する憧れや、
あまりにも見事に紡ぎあげられた戦いの世界に酔いしれることは、何度となく
ある。

だが、プロレスの場合はどうだろうか。

少し違うのではないだろうか。

プロレスは、総合格闘技が持ち合わせることが出来ない、リアリティという世
界観をもっているのではないだろうか。繰り返して言うようだが、リアリティ
とは、リアルではなく、現実感である。つまり、痛みが伝わる、感情移入が出
来る、追体験を可能にするような情報を、観客に提供することである。

人間とは不思議なもので、自己体験との繋がりのなかで想像するせいなのか、
グローブをつけたこぶしで殴られる痛みよりも、平手によるビンタのほうがは
るかに痛そうに見えるのである。つまり、科学的に、もしくは統計的により痛
いからといって、痛そうに見えるとは限らないのである。もう少し具体例を出
すことで、私のアイディアを理解してもらおうと思う。映画において、人が銃
で撃たれる姿と、包丁で刺される姿、どっちに痛みを感じるだろうか。有刺鉄
線ボードに打ち付けられるのと、画鋲の床に投げ捨てられるのでは、どちらが
痛いだろうか。電流爆破デスマッチと、レモンと塩のデスマッチ(かつて大日
本で行われた)のどっちが、痛そうに思えるだろうか。

このように痛みのリアリティとは、自己の体験との結びつきによって、追体験
することによって、可能となる。これが、痛みのリアリティであるが、この観
点からいくと、プロレスのほうがはるかに痛みを感じるものが多いのではない
だろうか。プロレスは、実際に痛いだけではなく、痛みが観客に伝わるように
研究し続けた競技である。いや、たしかに今のプロレスのオーバーなリアクシ
ョンゆえに追体験が出来ないとか、最近のあまりに複雑で高角度な技では想像
外であるといった批判はあるだろうが、そもそものポテンシャル、性質の点で
考えていただければ、痛みを伝える技術は言い切れるであろう。

さらに、プロレスのリアリティとは、何も痛みのリアリティだけではない。観
客としてのリアリティ、選手に対する自己投影という、第2のリアリティも存
在するのである。それはもしかしたら、観客がコロッセオを楽しむように、プ
ロレスを楽しむことを不可能としているのかもしれないが、間違いなく、日本
のプロレス観の中には存在する感覚である。

では、なぜ日本のプロレスには、追体験が生まれるのか。その一つには、間違
いなく日本のプロレスの歴史があり、つまり戦後の力道山、高度経済成長期の
BI砲である。いつでも観客は、彼らのあきらめずに立ち上がり続ける姿に、
頑張っている今の自分を投影し、そこに生活の希望を見出していた。このよう
な決まりきった形でないにしても、常に選手の姿に、自分の何かを投影しなが
ら、プロレスを見ていく。そんな傾向が日本のプロレスにはあるのだ。

それは時として、闘牛士の妻の如く、試合から目を背けたくなることもあれば、
まるで自分が戦っているかのように手に汗を握っていることだってある。だが
それは、単純に勝負自体を楽しむという競技性だけでなく、よりドラマチック
であり、それは演劇の主人公に肩入れするような世界ともいえる。そして、こ
れはプロレスがもっているパワーであり、総合格闘技は持ち合わせることが難
しいのである。(おそらくこのことに谷川Pは気づいており、それゆえに現段
階で、選手たちのストーリーを何とか作りあげようと苦心しているのであろう、
そしてそれがうまくいっていないことの背景に、今まであげたようなことがあ
るともいえる)これは私だけなのかもしれないが、プロレスを見るときは、総
合格闘技を見るとき以上に、どちらか勝って欲しいという贔屓がある。もちろ
ん総合の場合もないわけではないのだが、多くの場合、試合そのものを楽しも
うと思っているところが大きく、試合が面白ければ、どちらが勝とうが、満足
するものである(ただしプロレスラー出場の場合を除く)。

この追体験も、リアルから生まれると言い切れるわけではなく、フィクション
からでも充分に生まれうるのである。我々は、映画やテレビドラマというフィ
クションの世界でも、充分に追体験をしているではないか。もちろんあまりに
リアリティに欠けるような話で、追体験は出来ないが、不思議なことに、あま
りにリアルな話に追体験も出来ないのである。リアルになればなるほど、自己
との差異が明確になり、自分とは違うものとして見てしまうからではないだろ
うか。残念ながら、私は社会学者ではないので、これ以上の科学的な分析は出
来ないが、プロレスという、一種の虚構の世界だからこそ持ちうるパワーがあ
るということだ。

伝わる痛みと、追体験を可能とする選手像、そんなものを持ち合わせたプロレ
スだからこそ、我々は今もなお熱狂し、追い求めるのではないだろうか。
だが、悲しいことか、そのような力をプロレスが持ち合わせなくなってきたと
嘆く声は大きい。

では、なぜ今のプロレスがリアリティを持ち得なくなったのか。

それは、また次の話。

posted by クレメンタイン |22:38 | クレメンタイン |
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2008年02月15日

だから、2/16有明大会では、ジョシュにギブアップ負けして泣けばいい。

「プロレスとは、桃源郷なり」  /  桃太郎

        「ウソ泣き」


 学校の職員室では、たまにビックリするような発言が飛び出す。 先日も、
ある教員が「あの子、泣くまで許してやらん」と発言していて驚いた。 あの
子とは、クラスでも手のかかっている問題行動のある児童のこと。 何かまた
悪さをしたらしい。 あらら~、このあと泣くまで説教されるんだ。 かわい
そうになあ、何をやらかしたんだか。
 泣いて謝ることと反省することは違うと思う。 冷たい言い方だけど、僕は
「泣く」とは保身のための行為だと思っている。 近頃は、毎日のように謝罪
会見が行われて、涙を流しているシーンが見られるけど、彼らは自分の罪深さ
に泣いているわけではない。 相手に許してもらうために泣いているのだ。
自分が置かれている危機的状況から、脱する「手段」として涙を見せている。
そして、なぜだか知らないけれど、涙を見ると、人は優しくなってしまうので
ある。
 さっきの子供の話に戻るけど、泣いて謝ったからって、心から反省している
とは限らない。 本当は隠された真実があって、その児童には非がないのかも
知れない。 それでも、その子は泣くだろう。 反省する・しないとは別に、
窮地から逃れるために泣く。 そして、叱った側も、その「涙」を見ることで
何となく納得して、矛先を収めるのである。
 涙にはマジックがある。 どんな難題であっても、泣かれて「お願いします」
なんて言われたら、何とかしてやりたくなる。 知り合いが、泣いて電話して
きたら「どうしたの?」と聞かずにはいられない。 見ず知らずの人だって、
目の前で泣いていたら、無防備に手を差しのべてしまう。 涙は人の心を引き
つける武器なのだ。
 僕らが橋本真也さんに惹かれたのには、涙の力があったと思う。 橋本さん
は激情型の人だったから、リング内外でよく涙を見せた。 意図的にマジック
を仕掛けていたわけではないだろうけど、あの涙のせいで、僕たちは「どうし
たの?」と心を開かされたのだ。
 今、僕が「涙」を使うべきだと思っているのが、小川直也である。 小川は、
ファンがシンパシーを感じにくい選手だと思う。 橋本さんの遺志を継いで、
プロレスを盛り上げたいと思っているはずなのに、ストレートには伝わらない。
なぜかヒールになってしまう。
だから、2/16有明大会では、
ジョシュにギブアップ負けして泣けばいい。
ボロボロに泣いて花道を下がれば、みんな、無防備に同情するよ。 引退する
気じゃないのかと勝手に想像し、引退するなと勝手に騒ぎ出すだろう。
強い男の涙って、とても効果がある。
 小川は、プロレスファンの心を掴むチャンスを得ている。
 19年前の猪木を真似ればいい。

posted by 桃太郎 |19:23 | 桃太郎 |
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2008年02月11日

それにしても、サムライのベスト・マッチって、思い浮かばないなあ。

「プロレスとは、桃源郷なり」  /  桃太郎

         「引き際」


 エル・サムライが、新日本プロレスを退団することになった。 1986年
にデビューして以来、目立った怪我も、目立った活躍もないまま、新日一筋で
闘ってきた彼に、一体何が起きたのだろうか。
 目立った活躍がないと書いたが、実は第4代のジュニア7冠王座を戴冠して
いる。 7冠王座とは、IWGPジュニア、NWA世界ジュニア、NWA世界
ウェルター、WWF世界ライトヘビー、WWA世界ジュニアライトヘビー、U
WA世界ジュニアライトヘビー、英連邦ジュニアヘビーの統一王座のことだ。
こんな凄いタイトルを保持していたのだから、文句なしに「レジェンド」だと
思うのだが、なぜかレジェンド軍には入れてもらえなくて、ついには退団する
ことになってしまった。
 サムライは、昨年の9月から右膝関節の怪我で欠場していた。 いったんは
1/27、後楽園ホールでの復帰戦が発表されたのだが、流れてしまった。
契約更改の時期でもあるから、色々と大人の事情があったのかも知れない。
怪我が公傷と認められずに大幅なダウンを提示を受けてモメたとか、逆にサム
ライの方が新日本の懐具合を察して契約を更改しなかったとか、あるいは他団
体でもう一花咲かせるつもりでいるだとか、それとも「サムライ」じゃなくて
「江戸侍」で契約更改はしてたりして。 本当のところはよくわからない。
でも、僕は「引退」もあるのかなと思っている。 だって、サムライも4月で
42歳になるのだ。
 プロレスラーに引退はない。 そんな風潮になっているけど、間違ってると
思う。 やっぱり、体力が落ちたなと感じたなら引退すべきだ。 馬場さんと
猪木さんは、プロレス界の王さん、長嶋さんみたいな存在だから特別扱いする
けど、江川、中畑クラスの長州、藤波がいつまでも現役でいるのは、やっぱり
無理がある。 彼らのために、若手選手はわざと空振りしたり、ホームランを
打たせたりしているのだ。 年に1回のファン感謝デーでならともかく、ペナ
ントレースの公式戦にまで出てこられたんじゃたまらない。 はっきり言って、
長州、藤波は後進の邪魔をしている。 50歳を過ぎて出来るほどプロレスは
楽チンな仕事じゃないのだ。 もういい加減に引退して、次のチャレンジを始
めるべきだと思う。
 サムライは、川相か、元木みたいな存在だ。 頑張ろうと思えば、まだ頑張
れるけど、そんなに長くはやれない。 だから、ここらあたりが「引き際」と
考えているのかも知れない。 競馬好きのサムライらしく「屈腱炎で引退」な
んてことを、演じてたりしてね。
それにしても、サムライのベスト・マッチって、
思い浮かばないなあ。
 最後に、引退レースはやってよね。

posted by 桃太郎 |23:19 | 桃太郎 |
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