2010年09月12日
「ドッカーン!」 / 大鉄
夏休みの終わり近く、我家の近所でも花火大会があった。
会場まで歩いても行けないことはないのだが、住んでいるマンションでも
最上階近くまで昇れば十分きれいに花火を見ることができる。
ここ数年は、最上階から一つ降りた階段の踊り場で見ることが我家の恒例
となっている。
景気が良くなかったせいか、去年の花火は例年よりもショボかったような
記憶があるのだが、今年はなかなか充実していて楽しめた。
色とりどりの光が次々と夜空に花開く。丸く広がるだけではなく、顔の形
になったり、ハート型になったり、半分ずつ色が違うものがあったりと
様々な工夫を凝らした花火たちが夏の夜のひと時を楽しませてくれた。
しかし、ひときわ高く昇って行き、ひときわでっかく夜空に広がる一発の
大玉が、それまでの様々な工夫を凝らした一連の花火たちの印象を一気
にかき消し、見上げる人たちの歓声を引き起こす、という場面も何度も
あった。
やっぱり、でっかくて迫力のある大玉こそが花火の醍醐味なのだろう。
いろいろな形を夜空に描き出す技術も大したものだが、大玉の迫力の方が
理屈抜きに人の心を揺さぶるのは事実だ。やっぱり「パチ、パチ」よりも
「ドカーン!」っていう迫力を求めているんだよね。
理屈ではなく、生理的な快感を呼び起こすものだ。
夜空に開く花火の大きさは地上からでは判りづらい。全てが同じ大玉だった
としたら、その大きさも良く判らないだろう。普通サイズの花火が何発も
打ちあがる中で、たまに大玉が打ちあがるからこそその迫力も際立つのだ。
しかし、そもそも夜空に開く花火は大きいものだ。大きいものが集まる中
だからこそ、ひときわ大きいものがより評価されるというのは自然なことだ。
線香花火の大きさを競ってもあまり意味がない。
単なる相対的な大小比較ではなく、絶対的な大きさに人は感動するのだ。
比較対象は、絶対的な大きさを実感するための手助けに過ぎない。
たぶん私は、プロレスも花火と同じような見方をしている。
高度なテクニックを要する攻防よりも、理屈抜きの迫力がある技の方に
に拍手を送る。
馬鹿力の大男たちが大好きなのだ。
「誰と誰が戦って、どっちが勝ったらどうだ」というような、単純な相対
比較にはあまり興味がない。ましてや「誰々には勝ち続けて、スターに
なって欲しい」などというような、勝者=スターという単純な認識など
一切持ち合わせていない。
試合があれば勝者がいる。でもその勝者が即スターになるのはごく稀
でしかない。
そこに「ドッカーン!」という迫力がなければ試合そのものに興味が沸か
ない。興味のない試合の勝者など、なおさら興味がない。スターに必要
なのは絶対的な魅力であり、対戦相手に勝利するというような相対的な
比較結果に人が惹きつけられる訳ではないのだ。
私がプロレスを好きなのは、馬鹿力の大男たちがぶつかり合う戦い模様
そのものに惹かれるからだ。大相撲のように「品格」など求められていない
から、レスラーからは感情がストレートに表現され、観る側も感情移入
しやすい。友情や裏切りといった人間ドラマも見える。他の競技とは一線を
画す面白さだ。
プロレスならではの魅力というものは色々ある。プロレスラーとは、それら
を備え持った存在でなければならない。そういうレスラーの集まりの中でも
そのプロレスの魅力をひときわ強く感じさせてくれる選手が私は好きだ。
プロレスならではの魅力を
万人に伝えることが出来るレスラーこそが
本当のスターとなるのだろう。
ただ勝ちゃあ良いって物じゃないんだよ。
posted by upro |21:48 |
大鉄 |
2010年08月21日
「みんなガンバレ」 / 大鉄
今回は、もしかしたら前回と真逆のことを書いてしまうかもしれない。
前回は、特定のチームや選手に肩入れして観戦した方が盛り上がれる、
という趣旨のことを書いた。
ほぼ時期を同じくして、実は正反対とも言えるような感覚も私は経験
していたのだ。
ゴルフの全英オープンの生中継を観ていた時のことだ。
ありのままの自然を活かした難解なコースに加えて強風という悪条件の
もとでプレーする選手たちを見ていると、どの選手に対しても同様に
「ガンバレ」と応援する気持ちが沸いてきたのだ。この大会で誰が勝利
するかにはあまり関心が無く、困難に立ち向かう選手たちを素直に応援
しようという気持ちばかりが強くなっていた。
これと似た気持ちになることは以前にもあった。
「SASUKE」や、古くは「電撃イライラ棒」などに挑戦する人たちを見て
いる時にも、同様に「ガンバレ」という気持ちが沸いてくる。困難な課題
に立ち向かう人たちを、どうやら私は応援したくなるらしい。
対戦型競技かそうでないかの違いなのかもしれない。
しかし、たとえばスキーのジャンプなどではこのような感情は起こらない。
オリンピックなどでは、やはり日本人選手に一番遠くまで飛んでほしいと
思うものだ。陸上の走り幅跳びなんかも同様だ。
ところが、これが走り高跳びや棒高跳びになると少し様子が違ってくる。
選手がバーを飛び越えようとする姿を見ると、「クリアしてほしい」という
気持ちが誰に対しても沸いてくる。
どうやら、「課題をクリアする」というのがカギのようだ。
プロレスファンである私は、プロレスそのものに「ガンバレ」という感情
は持っている。どのプロレスラーに対しても、基本的には応援したいという
気持ちがある。
あたかも、プロレスというジャンルが何か強大なものに対して挑んでいる
戦いを応援しているかのようだ。でも、それって何に対してだ?
私はプロレスが何に打ち勝つのを望んでいるのだろうか。
ボールをカップインするとか、バーを落とさずに飛び越えるとか、目に
見える分かり易い「クリア」があった方が応援はし甲斐がある。プロレス
の場合、そのような具体的な「何か」が見えているわけではない。私が
「ガンバレ」と思うとき、プロレスがどうなることを願っているのだろう?
考えてみると、どうやら私がプロレスに望むことは「生き残る」ことだった
ようだ。「ガンバレ」と思う背景には、頑張らないと生き残れないだろう
という意識があったのだ。クリアすべき明確な課題が見えていたわけでは
なくとも、ここをクリアしないと次のステージへ進めなくなるような状況
に見えていたという訳だ。
でも、プロレスはきっと大丈夫だ。
私なんかが心配しなくても、プロレスというものはずっと残っていくに
違いない。これまでの長い歴史の中でそうであったように。
ただ、時代と共にプロレスも少しずつ姿を変えていくだろう。これまでも
そうであったように。そうした変化の中で最終的に生き残るプロレスは、
私が愛してきたプロレスとは、もしかしたら違うものになってしまう
かもしれない。
もう、プロレス自体を応援するのはやめよう。
そのかわり、私にとって魅力的なプロレスをしている、個々のレスラーを
応援することにしよう。
戦いのテーマとして大々的に掲げられていなくても、イデオロギーの戦い
というやつはいつの時代にも存在しているのだ。特別なマニフェストなど
を掲げていなくても、リング上の戦いざまでそのイデオロギーを感じさせ
てくれるレスラーは沢山いる。私はそのイデオロギーを感じ取り、賛同
できるレスラーを応援することにしよう。
簡単にいうと、自分好みのファイトをする選手を応援する、というだけの
ことなんだけどね。でも、この単純な姿勢こそが私にとってのプロレスを
守るカギなんだと思う。
矛盾するようだが、選手個人を応援することはプロレス全体の為でもあると
信じよう。
posted by upro |16:57 |
大鉄 |
2010年08月08日
「サポーター」 / 大鉄
サッカーのワールドカップ、我家でも意外に盛り上がった。
世間一般では、我家よりもさらに盛り上がっていたようだ。
しかし、それも日本代表チームが敗退するまでの間だ。
決勝戦が行われるころには、ワールドカップは既に過去の話題になって
いたように思う。結局は、にわかサポータが騒いでいたに過ぎなかった
のだろう。
私は昔から「サポーター」という言葉に違和感を覚えていた。
「ファン」で良いじゃないか。何でサッカーのときだけ違う言葉を使わ
なければいけないんだ、と思っていた。
しかし今回のワールドカップ期間中に、私の中ではサポーターとファン
の明確な違いが認識された。
極端な話、ファンでなくてもサポーターにはなれるのだ。
うちのカミサンなんか、フリーキックのボールをセットしようとしている
選手を見て「サッカーって、時々はボールを手で触っても良いんだね」
などと言っていた。サッカーという競技に対してその程度の理解しかない
人間はとてもじゃないがファンとはいえない。しかし、よくわからない競技
であっても、特定のチームを応援することはできるし、それなりに盛り上が
って楽しんだりもしている。
ファンというのは、その競技やチーム、選手に何らかの魅力を感じ、好きに
なった状態だ。それに対しサポーターは、必ずしも好きなものを応援して
いるとは限らない。同じ国だからとか、地元だからとか、そんな理由で
十分だ。
もっといえば、ただ楽しむためにどちらか応援する方を決めて観戦する人達
も結構いるようだ。ワールドカップの中継を見ても、明らかに対戦している
国とは違う国からきたと思われる観客が、対戦している国の国旗を顔に
ペイントして、隣同士で違う国を応援しながら仲良く観戦しているという
様子を何度か見かけた。
そういえば、うちの息子もテレビでクイズやゲームの番組を見るときは、
勝手にどちらかのチームを応援してみている。自分では理解できないクイズ
であっても、自分が応援するチームが勝つかどうかで番組を楽しむことが
できるようだ。
観客という第三者ではなく、戦う当事者の立場に自分をおくことで、理解
できない競技や退屈な競技であってもエキサイトできるということだろう。
小学校の運動会だって、自分が赤組、白組のどちらかに属しているから、
自分が出ない競技も全て興味を持って観れるのだろう。
私自身のプロレス観戦の経験を振り返ってみても、どちらか一方に肩入れ
して見ていた試合の方が、今思うと圧倒的に盛り上がっていた。興奮の
度合いが明らかに違っていた。
対抗戦が盛り上がるのも、夢のカードが実現するからではなく、どちらを
応援するかが観客にとって明らかになりやすいからではないかと思う。
プロレスを観戦するときには、とりあえずどちらかの選手を応援しながら
観たほうが確かに面白い。予備知識を持たない観客でもプロレス観戦を
楽しめるようにするためには、自然とどちらかの選手を応援したくなる
ような試合が良いということだ。そこで重要になるのがヒールの技量と
いうやつだろう。絶対的な憎まれ役を演じることで、観客は自然と対戦相手
を応援するようになり、試合に引き込まれていく、という訳だ。
私自身を振り返ってみると、いつの間にかプロレスというジャンル自体の
ファンになってしまっていて、特定の選手を応援することは稀になって
しまっていた。昔ほどプロレスに興奮しなくなったのは、プロレスが変わった
からではなく、変わったのは私の方かもしれない。
双方の選手の仕事ぶりを評価するような、上から目線の観戦の仕方では、
心から熱くなれないのも仕方ない。良い試合を愛でる、という見方もファン
としては楽しいことには違いないが、どうしても「他人事」しての関わり方
になってしまう。まあ、実際に他人事ではあるのだが。
他人事というスタンスに身をおいておけば、試合がどう転ぼうとも自分自身
が傷つくことは無い。しかしそのかわり、どんなに良い試合を観ても、
心が揺さぶられるような本当の喜びは得られないような気がする。
今後は私も、なるべくどちらかの選手に肩入れしてプロレス観戦をして
みようと思う。
とりあえず、G1は真壁を応援することにしよう。
posted by upro |00:15 |
大鉄 |
2010年03月28日
「ツッコミしだい」 / 大鉄
昨年のM-1王者パンクブーブーだが、思ったほどはテレビで見かけない
ような気がする。大ブレイク、という感じは今のところしない。
それでも、さすがに優勝前よりはテレビ出演は増えているのだろうが、肝心
の漫才を披露する機会はあまり増えていないようだ。
まあ漫才以外の露出ばかり増えるのは歴代の王者も似たような物だが。
テレビタレントとしてのその後の活躍はともかく、決勝戦での漫才の面白さ
で言えば、私は彼らの優勝は全く当然だと思う。審査員の万票を獲得した
事もそれを裏付けているが、やはり彼らの漫才が当日では一番面白かった。
笑い飯の優勝を期待していたという声を少なからず聞く。
しかし、私は個人的には彼らの漫才はあまり評価していない。
ダブルボケが彼らの売りであるが、私に言わせればそれはダブルツッコミ
を兼ね備えて初めて完成するもので、今の彼らではまだ単なるボケ合戦
の域をでていない。どうせなら、専門のツッコミを入れて三人組になれば
良いのに、とすら思う。
私はお笑いの専門家でもなんでもないのだが、それでもツッコミが重要で
あることぐらいは分かる。私が思うに、ツッコミの役割とはボケと観客の
間に立ち、ボケが発生したことを観客に瞬時に理解させ、笑いをいざなう
ことだろう。ツッコミといってもいくつかのパターンが存在する。例えば
下のような分類も可能だろう。
A. 単にボケが発生したことを知らしめる(何でやねん、等)
B. 何をどうボケたのか説明を加える(ヤフーなんですけどね、等)
C. ボケをカテゴライズしてパターン化する(欧米か、等)
D. ボケた状況を他の物に例える(くりぃむしちゅー等が得意とする
パターン)
いずれの場合も、何を言うかだけでなくそのタイミングが重要だ。
観客がボケを認識し、かつまだ消化しきる前に発するのが最も効果が高い
と思われる。観客から見ると、自分が感じたことを自分より先に言葉に
して示してくれるようなツッコミが心地良い。いわゆる、間が重要だ、
という奴だ。
プロレスにおいては、攻撃がボケだとすると突っ込みに相当するのは先ずは
受けだろう。受けっぷりが良いと技の迫力も増す。上の分類ではAに当たる
と思うが、タイミングが重要なのも通じる物がある。技を受けた後で、
ダメージを具体的に感じさせる動きをするのはBにあたるだろうか。
リング上の動きだけでは、それ以上複雑な情報を観客に伝えるのは難しい
だろう。しかし、情報量が多ければ良いというものではない。単純で分かり
やすいこともプロレスの本来の魅力の一つのはずだから。
会場では、観客の野次もツッコミの役割を果たすことがある。受ける野次
というのは総じてナイスツッコミと言えるようなものだ。逆に、受け狙い
の野次がひんしゅくを買ったりするのは、独りよがりのボケのようなもの
だからだろう。
テレビ中継においては、実況アナウンサーがツッコミ役を期待される
ポジションだ。オーソドックスな実況は上で言うところのAかBにあたる
だろう。かつての福澤アナの「ジャストミート!」はC、古館アナも
CからDに相当するような実況を得意としていた。
しかし、CやDがAやBよりも優れているというわけでは必ずしも無い。
古館アナの後にワールドプロレスリングを担当していた田畑アナなどは
オーソドックスなスタイルながらとても良い実況だったと思う。惜しむ
らくは、体格が良すぎてレスラーと並ぶとレスラーが小さく見えてしまった
点だろう。
逆に、同時期に実況担当となった辻アナは、CやDを狙って失敗したと
言いたい。古館アナの実況を参考にしたのかもしれないが、恐らくその
本質がツッコミであることを見誤り、ボケに走ってしまったことが視聴者
の支持を得られなかった原因ではないだろうか。番組では、解説のマサ斉藤
がツッコミとして機能していたために、実況としてかろうじて成立していた
ように思う。
今のワールドプロレスリングの実況アナウンサー達は、しゃべっている内容
そのものは、それほど問題ないように思えるが、私の心にはあまり響いて
こない。おそらくは、彼らの言葉が私に届く前に、私自身が自分の言葉で
消化してしまっているからだろう。つまり間が良くないのだ。
正しく実況しようとか、適切な言葉を使おうとか、アナウンサーであれば
当然考えなければいけないことなのだろうが、それだけではなく、時には
「あー!」でも「おー!」でも良いから、何かを感じた瞬簡に声を発する
ことも重要だと思う。そのほうが視聴者は引き込まれていくはずだ。
会場で観戦しているファンの人たちも、
「おー!」だの「スゲー!」だの
感じたままにどんどん声に出して欲しい。
会場も盛り上がるし、その音声が
テレビ中継に入れば、下手な実況よりも良いツッコミになるはずだ。
せっかくのプロレスを斜に構えて観たりせずに、心を空っぽにして観た方が
自分も楽しめるし、他の観客も楽しめ、さらにテレビの視聴者にもプロレス
の魅力がより伝わって、良い事ばかりだよ。
posted by upro |10:25 |
大鉄 |
2010年02月13日
「強くなりたい」 / 大鉄
朝青龍の引退は意外なほどあっけないものだった。
色々と物議を呼んだ存在だったが、今となってみてはどんな問題も朝青龍
個人の存在感の前では小さな物だったのだと感じる。
横綱としては賛否両論あったが、強い力士であったということだけには
誰も異論を唱えることはなかった。戦績という公式記録に表れているから
だけではなく、その相撲を見たもの全てに強さを納得させることが出来る
ような存在だった。人々を惹きつけるその魅力の根源が強さであったことは
間違いないだろう。人は強さに憧れるもなのだ。
そういえば、1.4東京ドーム大会が終わった後の週刊プロレスの巻頭特集
は「新日本vsNOAH強いのはどっちだ!?」だった。
団体同士の強さを比べるというのもおかしな話だ。会社の規模や財務状況を
比べるのであればまだ話は分かるが、ここで問われているのは明らかに、
両社のプロレスのどちらが強いかだ。
しかも、この特集はドームでの対抗戦の結果が出た後のものだ。普通なら
「勝った方が強い」という結論で終わりそうな物だが、勝敗が決した後でも
「強いのはどっちだ」が話題となりえるところが、まさにプロレスらしい
と言えばプロレスらしい。
我々は確かに強さに憧れている。しかし、我々が憧れる「強さ」とは、
試合に勝つ能力とは必ずしもイコールではないようだ。
「強さ」について考えるとき、私には思い出される試合がある。第一回G1
の公式戦、長州vs橋本だ。私はこの試合を両国国技館の升席で観て
いた。長州はここまでリーグ戦全敗、この橋本戦にも敗れれば引退では
ないかと噂されていた。試合は橋本が長州を蹴りまくる一方的な展開と
なった。しかし、私により「強さ」を感じさせたのは長州の方だった。
なぜならば、橋本が中盤以降ずっと泣き顔だったからだ。橋本は長州を
蹴り続けることに精神的に耐えられなくなっているようだった。何度も
レフェリーに試合を止めるよう要求していた。一方の長州は、為す術も
無く蹴られまくりながらも、厳しい顔で橋本をにらみ続けていた。
自分を蹴ることに耐えられなくなった橋本に、ゲキさえ飛ばしていた。
結局試合は橋本の勝利で終わったが、勝者橋本は強さよりも人の良さと
精神的弱さを、敗者長州が人間的な強さを、私に感じさせる試合であった。
これは単なる一例でしかないが、我々が試合の勝敗とは違うところから
強さを感じ取るのは間違いないと思う。
我々は「強さ」に憧れている。
そして、「強さ」を感じさせてくれるものに心を惹かれるのだ。
人によっては、それは相撲かも知れないし空手やボクシング、柔道かも
しれない。そして、自分が「強い」と信じたものが勝利するところが
観たいのだ。強い者が勝つ、そう思える競技やルールが支持されるのだ。
「このルールで勝ったのはこの選手だから、彼を強いと認めなさい」
などと言われても、観た者が強さを感じることができなければ、支持など
得られる訳が無い。
強さは観る者が勝手に感じ取る物なのだ。
強さに憧れる我々には、強くなりたいという欲求もある。少なくとも
男性にはきっとあると思う。始めは漠然としたイメージでしかなかった
「強さ」というものが、ある日具体的な形となって目の前に現れた時、
「強くなりたい」という欲求が、その具体的なものになりたいという
願望に変わるのだろう。空手にそれを感じた者は空手道場に入門する
かも知れない。そして彼の中では、強さイコール空手の強さとなる
かも知れない。空手が他の競技でも同じことが言えるだろう。
私がプロレスに感じる強さには、肉体的なものの他にも先程の長州の
例のような、人間的な強さ、とでも言うべき物もある。
私が今後プロレスラーのような肉体的強さを手に入れるのは不可能
だろう。しかし、肉体的にはかなわないとしても、人間として強く
あることは諦めたくない。私は今後も、試合の勝敗にとらわれること
なく、勝手に強さを感じていくだろう。そして、その強さに負けない
よう、私自身も強くありたい。私は勝手に勝負を挑み続けるのだ。
そして、「こいつにはとても敵わない。」そう思わせる選手が私の
お気に入りとなるのだ。
勿論、人間離れした肉体的強さもレスラーは備えているというのが
大前提ではあるが。
posted by upro |23:52 |
大鉄 |