2008年04月28日

どんな復帰戦が行われるのか、ということ以上に、どのような休場を団体が選手に与えられるのか、ということである。

「企業評価 ~団体と言っても、一つの会社~」  BY クレメンタイン


全日本では小島聡、新日本では棚橋弘至、ともに長期欠場に追い込まれるほど
の怪我を負った。ともに団体のエースクラスの人間であり、この欠場が与える
影響は大きいだろう。

だが、ここで両団体に問われるのは、団体としての資質である。小島、棚橋と
もに団体の所属選手であり、フリーの選手ではない。つまり、減俸があろうと
も、休場期間だって選手の保障を団体はしなければならない。

しかし、近年の天山に対する扱いや、エル・サムライの退団にまつわる噂が象
徴するように、新日本という団体は残念ながら、選手が100パーセント復活す
るまで待ってくれる団体であるようには思えない。おそらく棚橋も無理をさせ
られて、強行出場という事態も充分に考えられるだろう。

全日本に関しては過去のデータが乏しく、所属ではないフリーの選手も多いた
め、明確なことはいえないが、太陽ケアの例はどうだろうか?そうでなくても、
選手層がまだまだ薄い全日本である。小島には一日も早く復帰してほしいとい
う焦りから、強行させる可能性も考えられるだろう。

話は少し飛ぶが、真の一流企業と定義を考えたときに、社員に対する保障を無
視するわけにはいかないだろう。今TOYOTAがどれだけ利益を上げようと
も、やはりTOYOTA工場での過剰労働の問題などを考えれば、社会的存在
意義を踏まえたうえでTOYOTAを一流企業とは言えないように、ここで小
島、棚橋の両名に無理をさせるような団体であれば、両団体の資質を疑うべき
であろう。

それに比べるとNOAHは素晴らしいといわざるを得ないだろう。やはりそこ
には、三沢光晴自身が、全日時代にこき使われてきた過去が反映されているの
だろう。小橋のときもそうであったし、力皇にせよ、志賀にせよ、多くの選手
が重傷を負ったときに、NOAHという団体はしっかりと選手を休ませる。決
して、無理をさせない。怪我が完治するまで休場させ、しっかりとリハビリと
トレーニングを行わせる。だからこそ、ガンになっても復帰できた小橋建太が
いるのだろう。そして、こういうケアが出来るからこそ、選手と団体との信頼
関係が築きあげられるのではないだろうか。

近年では、選手を抱えるかたちよりも、フリーの選手を試合ごとに雇うような
かたちがどんどん増えている。その最たるものは、K-1やMMAであろう。
興行主は、選手と何試合かの契約を結ぶが、用が無くなれば捨ててしまう。こ
れは短期的には、非常に効率のよい運営形態である。いうなれば、必要なとき
だけ、派遣社員を一気に雇う企業のようなものである。だが、これでは人が育
たないことは、今の企業を見てもわかるうえ、今のフリー選手の中で、団体で
築き上げたバックグラウンドなしに成功している選手がいないのを見ても、明
らかである。

結局のところ、育てる土壌が無ければ、プロレス界は衰退する。そして、育て
る土壌は、選手を管理できる場所でなければならず、つまりは、怪我をした選
手の保障をしっかりと出来、きっちりとしたリハビリまで面倒が見られるとい
うことである。

使い捨てでは選手は育たない。これはどの世界でもいえることである。そして、
どこまでも長い目で、つまりは選手のデビューから引退まで面倒を見るくらい
の覚悟がなければ、名選手なぞ育たない。かつての巨人軍と今の巨人軍を比べ、
嘆く最大の要因は、伝説の王、長嶋の二人は生涯巨人軍であったのに対して、
今では派遣社員の如く補強して、それが勝利に繋がっていないからである。ア
ントニオ猪木がどうして、本当に二代目といえる選手を作りあげられないのか。
それは彼が途中で放棄してしまうことに他ならない。小川直也の面倒だって、
本当にもっと見ていれば、あんなことにはならなかっただろう。

よって、我々が注目すべきことは、

どんな復帰戦が行われるのか、ということ以上に、
どのような休場を団体が選手に与えられるのか、
ということである。

しっかりとした休場を与えられる団体であれば、復帰後の活躍は自ずと見えて
くるだろうし、欠場した選手の穴を埋めるべく、他の選手も頑張れることであ
ろう。


問われているのは、団体の資質である。


posted by クレメンタイン |01:06 | クレメンタイン |
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2008年04月24日

誰が三沢光晴に引導を渡せるだろうか?誰が武藤敬司の息の根を止められるだろうか?

「介錯人~プロレスだからこその引退のかたち~」 BY クレメンタイン


レッスルマニアのフレアー引退の瞬間を目撃しただろうか。私は、あの試合を
通して、フレアーの凄さ以上に、介錯人を買って出たHBKの凄さを再認識さ
せられた。

スウィート・チン・ミュージックを決める瞬間、フォールに行く瞬間、そして、
叩かれる3カウント。WWEでは、たしかに決められたストーリーに則って、
リングは展開する。だが、その残酷な引退ストーリーのなかで、葛藤するHB
Kに、まさにありていの言葉で言えば、漢を見た。

3カウントが決まった瞬間、HBKはフレアーに抱きついた。そして、額にキ
スをする。そして、見せる切なく、やるせない表情と、男として、プロとして
果たす義務。そして、HBKはさっと、静かに、リングから降りていく。その
表情は、とても勝者のものとは思えず、まさに友の介錯を努めたサムライの表
情であった。

HBKといえば、長くアメリカンプロレスのトップに立ってきただけではなく、
本当にプロレスの幅の広い男である。プロレスのうまさだけでなく、そこまで
のストーリーを盛り上げるための方法も本当に心得ている。喜んでケツを出し、
突然ハルク・ホーガンのモノマネを始める。しかも、このモノマネがかなり似
ているのだ。だが、一旦試合が始まれば、名勝負を作りあげる。派手な入場と
は裏腹に、クラシカルな展開を持ち味とし、最後にスウィート・チン・ミュー
ジックへとつなげていく。この一連の流れは、やはり一流プロレスラーだから
こそ出来る芸当である。

そして、フレアーの介錯人を務められたのも、やはりHBKだけであっただろ
う。元々引退といったネガティブな話題展開の苦手なWWEのなかで、確実に
HBKは介錯を務めた。

だが、彼はこんなことやりたくなかっただろう。自分の手で、誰かを引退させ
るなんて、そんなことはしたくないはずだ。いまや引退が、引退でなくなって
いるプロレス界では、このような光景を見ることも少なくなってきたが、その
背景には、引導を渡せるだけの選手がいなくなってきているからではないだろ
うか。

誰が三沢光晴に引導を渡せるだろうか?
誰が武藤敬司の息の根を止められるだろうか?
中途半端な終わりではなく、完全なる介錯が必要なのだ。それが出来なかっ
たからこそ、引退を撤回する選手があらわれる。覚えているだろうか?
長州力の引退。とても引退するような試合ではなかった。あそこで必要だった
のは、誰かが完膚なきまでに叩き潰すことであった。アントニオ猪木は、小川
や藤田に引導を渡してもらう振りをしたが、結局は自分で自分の幕を引いた。


そんななか、偉大なるレスラー、リック・フレアーに引導を渡したときの、シ
ョーン・マイケルズの表情を私は忘れることはないだろう。


posted by クレメンタイン |10:42 | クレメンタイン |
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2008年04月02日

彼らが、純粋総合格闘技上がりの人間ではないからこそ見える、総合格闘技界の問題点。

「似た人たち」 / クレメンタイン


 ヤマケンのクラブファイト、そして、今回の前田日明によるthe outsider。
この二人が息まいて行っているのは、MMA界の改革である。彼らは、現状の
総合格闘技界に疑問をもち、それを変えようとしている。
 彼らの指摘する最大のポイントは、イベント中心の現在の総合格闘技界のあ
り方である。どうしても現状ではテレビやイベントを中心としたつくりとなっ
ており、それ自体は確かに楽しめるものでも、そこにある使い捨ての制度には、
大きな大きな問題があるのだ。要するに、このままでは長続きがしない、選手
の育成が出来ない。
 そして、彼らが目指しているのは、競技者の生活向上、とくにアマチュア選
手、もしくはプロを目指す選手の生活向上である。ヤマケンは自身のアメリカ
での体験を基に、アメリカのプロを目指す選手たちの安定した環境を絶賛し、
今の総合格闘議会に必要なものは、それであるという。
 一方の前田は、かつてから選手の育成以上に、選手の発掘に力を入れてきた。
しかし、現状では彼らの実力を推し量る場面もなく、なかなかリングス復興も
含め、選手発掘はうまくいっていなかったようだ。そして、安定したプロ供給
源となりうるような大会の主催を考えているのは明らかであった。
 前田とヤマケンは共に、プロレスの出身である。このことは今回の彼らの発
言や行動に大いに関わっている。かつて新人プロレスラーは、たとえ新人であ
っても、雑用をこなしがらとはいえ、生活の保障はされており、プロレスに集
中する環境が整っていたといえるだろう。だが、現状の新人、もしくはセミプ
ロの総合格闘技選手は、それだけで生活をすることが出来ず、アルバイトなど
の副業をこなしながら、選手への道を目指すことになる。そこで彼らはアマチ
ュアや、セミプロの選手が活躍できる空間を作ろうとし始めた。
 彼らが目指すのは、総合格闘技界の安定である。それはもしかしたら、競技
よりも興行がメインとなってしまっている現状のプロレス界での苦い経験から
なのかもしれない。たしかにかつてのプロレスラーの生活は保障されていた。
しかし、興行に明け暮れ、練習だけに集中できる環境でもなかったのは事実だ。
彼らが、純粋総合格闘技上がりの人間ではない
からこそ見える、総合格闘技界の問題点。
 かつて同じことを考え、実行した男がいた。

 佐山聡である。

posted by クレメンタイン |22:39 | クレメンタイン |
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2008年03月07日

いやいや、まだまだプロレス界も捨てたもんじゃない。

「大連立???」 BY クレメンタイン

「新日の選手は、アウェイで輝く」とよく言われる。

真壁のブレイクのきっかけも、アパッチやNOAHへの参戦からだった。中西
も新日内で戦っているときよりも、ZERO-1MAXや大日本で、その超人
的な肉体を誇示し、暴れまわっているときのほうがはるかに魅力的だったりす
る。それ以外でも、チャンピオンになったのに、いまひとつ抜け切らないと言
われた田口も、ZERO-1では輝いていたと聞く。

またまた、ここでその原因を追究するつもりもないし、出来ないのだが、この
アウェイ爆発現象を新日本は武器に使い出したようだ。少しばかし前であれば、
他団体への選手参戦は、言い方は悪いが、口減らしというか、左遷のような趣
があった。つまり、新日本隊では使い場所がないので、他に派遣といった感じ
であった。そうでなければ、常に見え隠れするドームなどの大箱興行のバータ
ーとしての派遣のイメージであった。

まあ、どちらもイメージの良くないものであり、更には派遣される選手たちも
あまり気分の良いものではなかっただろう。だがそれも、あくまでも推測であ
るが、当の派遣という名の左遷された選手たちの踏ん張りによって、イメージ
が変わっていった。

彼らは、他団体で大暴れして、新日本のすごさを見せ付ける試合をしてのけた
のだ。その結果として、新日のレスラーはやはり並ではないということを見せ
付け、それが新日上層部の目にも届いたのであろう。それはいまや真壁が、新
日本のトップにいることを考えても、とてもじゃないが無視できる状態ではな
かったのだ。

ここで旧態依然とした新日本であれば、そこで同じ選手だけを派遣要因に使い
続けただろうが、どうも今回は、そこから更なる仕掛けを持ち込んだ。
これが面白い。

私は、今この時期に、まさか中邑を佐藤耕平とシングルで戦わせるとは思わな
かった。棚橋は今回のタッグマッチだけだと思ったら、チャンカン参戦を表明
した。つまり、新日本の現在のトップが、他団体のメインイベントに貸し出さ
れるとも、シリーズ参戦を果たすとも思わなかった。昔であれば、全てを自分
たちのフィールドでやろうとして、無理やりにでも新日本に呼び込もうとして
いた。しかし、今回はそれとは逆の手法を大胆にも取ったのだ。

だが、これは大胆な新日本によるプロレス界制圧計画なのではないのか、と踏
んでいる。もしかしたら、これこそついにやってきた大連立の始まりなのかも
しれない。

いやいや、
まだまだプロレス界も捨てたもんじゃない。

posted by クレメンタイン |22:57 | クレメンタイン |
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2008年02月17日

はっきりと断言しよう、総合格闘技にリアリティはない。

「総合格闘技にリアリティはない」 BY クレメンタイン


はっきりと断言しよう、
総合格闘技にリアリティはない。

これは決して、総合格闘技がリアルではないと言っているのではない、リアリ
ティがないのである。リアリティとは、日本語に訳せば、「現実感」である。
つまり、その光景をどこまで現実の世界観として、捉えることが出来るかどう
かである。果たして我々は、どこまでの人が総合におけるパンチの痛みを想像
できるだろうか、どこまでの人がチョークで絞められて落ちていくイメージを
もてるだろうか。おそらく格闘技経験者を除けば、殆どの人が想像できないだ
ろうし、ちょっとやそっと格闘技を経験したからといってトップ選手のレベル
を想像できるものでもない。となれば、我々は自己投影や、追体験というかた
ちで、自分をおきかえ、自分もその痛みを共に味わうような感覚で、総合を見
ることは出来ないだろう。これはおそらく、K-1などでも同様のことである。

彼らは、どこか自分たちを超えたところで、つまり別世界のものとして存在し、
我々は自己とは異なる存在、異人たちの戦いとして総合格闘技を見る。それは、
まさにゲーム的世界観であり、チェスの駒とプレイヤーの関係くらい隔たれた
ものが存在する。だからこそ、選手の痛みを少し無視で、その結果として、選
手の戦いに熱狂できる。これは、ある種当たり前のことであって、それが間違
っていると言いたいのではない。このような現象は古代ローマのコロッセオの
ころと何ら変わらず、ひとつの娯楽として存在しており、それは人間の残虐性
を含みながらも、人類が続けている一種の罪悪の一つかもしれないが、今、そ
の議論をするつもりはない。ここでのポイントは、あくまでも自己と選手との
隔たりである。

もし仮に、そこに自己との隔たりがなかったらどうなるだろうか。おそらく目
を背けたくなることも、多々生まれるのではないだろうか。かつて有名闘牛士
の妻が、決して主人の試合を見ない、なぜならとても見てられないからだ、と
答えていた。闘牛士の妻にとってみれば、その選手はまさに自己の近しい存在
であり、自己と選手の隔たりは、他者と比べれば圧倒的に小さい。つまり、試
合は身近な出来事であり、それは中世において処刑が一大お祭りイベントであ
りながらも、そこには処刑される者の家族という例外を孕んでいたことと等し
い環境であろう。もちろん、処刑のように必ず殺されるわけではないのだから、
生き残るように応援しながら見る家族だっているだろう。だが、試合を純粋に
楽しめるかといえば、複雑な感情があるのは容易に想像がつくことである。だ
が、家族のように接点を持たない我々は、太古の昔から行ってきたように、こ
のような感情を切り離すことで、総合格闘技のような痛みの世界ですら楽しみ、
熱狂する。

となれば、そこに痛みのリアリティを含めた、諸処のリアリティというものが
存在するだろうか。極論を言ってしまえば、総合格闘技を楽しむ方法論は、何
も人間である必要はないのかもしれない、つまり、それがゲームの世界であっ
ても、迫力と真剣勝負という信仰さえ持ち合わせれば、可能なのではないだろ
うか。もう少し、例を変えていけば、競馬に熱中する感覚とも変わらないので
はないのか、ということである。

総合格闘技を楽しむ人間の心は、人間の根源的な闘争本能が、人間が作り上げ
た理性を超えそうになりながらも、そのギリギリのなかで自己の欲求を満たし
ていく行為である。私も総合格闘技は嫌いではない、その強さに対する憧れや、
あまりにも見事に紡ぎあげられた戦いの世界に酔いしれることは、何度となく
ある。

だが、プロレスの場合はどうだろうか。

少し違うのではないだろうか。

プロレスは、総合格闘技が持ち合わせることが出来ない、リアリティという世
界観をもっているのではないだろうか。繰り返して言うようだが、リアリティ
とは、リアルではなく、現実感である。つまり、痛みが伝わる、感情移入が出
来る、追体験を可能にするような情報を、観客に提供することである。

人間とは不思議なもので、自己体験との繋がりのなかで想像するせいなのか、
グローブをつけたこぶしで殴られる痛みよりも、平手によるビンタのほうがは
るかに痛そうに見えるのである。つまり、科学的に、もしくは統計的により痛
いからといって、痛そうに見えるとは限らないのである。もう少し具体例を出
すことで、私のアイディアを理解してもらおうと思う。映画において、人が銃
で撃たれる姿と、包丁で刺される姿、どっちに痛みを感じるだろうか。有刺鉄
線ボードに打ち付けられるのと、画鋲の床に投げ捨てられるのでは、どちらが
痛いだろうか。電流爆破デスマッチと、レモンと塩のデスマッチ(かつて大日
本で行われた)のどっちが、痛そうに思えるだろうか。

このように痛みのリアリティとは、自己の体験との結びつきによって、追体験
することによって、可能となる。これが、痛みのリアリティであるが、この観
点からいくと、プロレスのほうがはるかに痛みを感じるものが多いのではない
だろうか。プロレスは、実際に痛いだけではなく、痛みが観客に伝わるように
研究し続けた競技である。いや、たしかに今のプロレスのオーバーなリアクシ
ョンゆえに追体験が出来ないとか、最近のあまりに複雑で高角度な技では想像
外であるといった批判はあるだろうが、そもそものポテンシャル、性質の点で
考えていただければ、痛みを伝える技術は言い切れるであろう。

さらに、プロレスのリアリティとは、何も痛みのリアリティだけではない。観
客としてのリアリティ、選手に対する自己投影という、第2のリアリティも存
在するのである。それはもしかしたら、観客がコロッセオを楽しむように、プ
ロレスを楽しむことを不可能としているのかもしれないが、間違いなく、日本
のプロレス観の中には存在する感覚である。

では、なぜ日本のプロレスには、追体験が生まれるのか。その一つには、間違
いなく日本のプロレスの歴史があり、つまり戦後の力道山、高度経済成長期の
BI砲である。いつでも観客は、彼らのあきらめずに立ち上がり続ける姿に、
頑張っている今の自分を投影し、そこに生活の希望を見出していた。このよう
な決まりきった形でないにしても、常に選手の姿に、自分の何かを投影しなが
ら、プロレスを見ていく。そんな傾向が日本のプロレスにはあるのだ。

それは時として、闘牛士の妻の如く、試合から目を背けたくなることもあれば、
まるで自分が戦っているかのように手に汗を握っていることだってある。だが
それは、単純に勝負自体を楽しむという競技性だけでなく、よりドラマチック
であり、それは演劇の主人公に肩入れするような世界ともいえる。そして、こ
れはプロレスがもっているパワーであり、総合格闘技は持ち合わせることが難
しいのである。(おそらくこのことに谷川Pは気づいており、それゆえに現段
階で、選手たちのストーリーを何とか作りあげようと苦心しているのであろう、
そしてそれがうまくいっていないことの背景に、今まであげたようなことがあ
るともいえる)これは私だけなのかもしれないが、プロレスを見るときは、総
合格闘技を見るとき以上に、どちらか勝って欲しいという贔屓がある。もちろ
ん総合の場合もないわけではないのだが、多くの場合、試合そのものを楽しも
うと思っているところが大きく、試合が面白ければ、どちらが勝とうが、満足
するものである(ただしプロレスラー出場の場合を除く)。

この追体験も、リアルから生まれると言い切れるわけではなく、フィクション
からでも充分に生まれうるのである。我々は、映画やテレビドラマというフィ
クションの世界でも、充分に追体験をしているではないか。もちろんあまりに
リアリティに欠けるような話で、追体験は出来ないが、不思議なことに、あま
りにリアルな話に追体験も出来ないのである。リアルになればなるほど、自己
との差異が明確になり、自分とは違うものとして見てしまうからではないだろ
うか。残念ながら、私は社会学者ではないので、これ以上の科学的な分析は出
来ないが、プロレスという、一種の虚構の世界だからこそ持ちうるパワーがあ
るということだ。

伝わる痛みと、追体験を可能とする選手像、そんなものを持ち合わせたプロレ
スだからこそ、我々は今もなお熱狂し、追い求めるのではないだろうか。
だが、悲しいことか、そのような力をプロレスが持ち合わせなくなってきたと
嘆く声は大きい。

では、なぜ今のプロレスがリアリティを持ち得なくなったのか。

それは、また次の話。

posted by クレメンタイン |22:38 | クレメンタイン |
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