2008年02月17日

はっきりと断言しよう、総合格闘技にリアリティはない。

「総合格闘技にリアリティはない」 BY クレメンタイン


はっきりと断言しよう、
総合格闘技にリアリティはない。

これは決して、総合格闘技がリアルではないと言っているのではない、リアリ
ティがないのである。リアリティとは、日本語に訳せば、「現実感」である。
つまり、その光景をどこまで現実の世界観として、捉えることが出来るかどう
かである。果たして我々は、どこまでの人が総合におけるパンチの痛みを想像
できるだろうか、どこまでの人がチョークで絞められて落ちていくイメージを
もてるだろうか。おそらく格闘技経験者を除けば、殆どの人が想像できないだ
ろうし、ちょっとやそっと格闘技を経験したからといってトップ選手のレベル
を想像できるものでもない。となれば、我々は自己投影や、追体験というかた
ちで、自分をおきかえ、自分もその痛みを共に味わうような感覚で、総合を見
ることは出来ないだろう。これはおそらく、K-1などでも同様のことである。

彼らは、どこか自分たちを超えたところで、つまり別世界のものとして存在し、
我々は自己とは異なる存在、異人たちの戦いとして総合格闘技を見る。それは、
まさにゲーム的世界観であり、チェスの駒とプレイヤーの関係くらい隔たれた
ものが存在する。だからこそ、選手の痛みを少し無視で、その結果として、選
手の戦いに熱狂できる。これは、ある種当たり前のことであって、それが間違
っていると言いたいのではない。このような現象は古代ローマのコロッセオの
ころと何ら変わらず、ひとつの娯楽として存在しており、それは人間の残虐性
を含みながらも、人類が続けている一種の罪悪の一つかもしれないが、今、そ
の議論をするつもりはない。ここでのポイントは、あくまでも自己と選手との
隔たりである。

もし仮に、そこに自己との隔たりがなかったらどうなるだろうか。おそらく目
を背けたくなることも、多々生まれるのではないだろうか。かつて有名闘牛士
の妻が、決して主人の試合を見ない、なぜならとても見てられないからだ、と
答えていた。闘牛士の妻にとってみれば、その選手はまさに自己の近しい存在
であり、自己と選手の隔たりは、他者と比べれば圧倒的に小さい。つまり、試
合は身近な出来事であり、それは中世において処刑が一大お祭りイベントであ
りながらも、そこには処刑される者の家族という例外を孕んでいたことと等し
い環境であろう。もちろん、処刑のように必ず殺されるわけではないのだから、
生き残るように応援しながら見る家族だっているだろう。だが、試合を純粋に
楽しめるかといえば、複雑な感情があるのは容易に想像がつくことである。だ
が、家族のように接点を持たない我々は、太古の昔から行ってきたように、こ
のような感情を切り離すことで、総合格闘技のような痛みの世界ですら楽しみ、
熱狂する。

となれば、そこに痛みのリアリティを含めた、諸処のリアリティというものが
存在するだろうか。極論を言ってしまえば、総合格闘技を楽しむ方法論は、何
も人間である必要はないのかもしれない、つまり、それがゲームの世界であっ
ても、迫力と真剣勝負という信仰さえ持ち合わせれば、可能なのではないだろ
うか。もう少し、例を変えていけば、競馬に熱中する感覚とも変わらないので
はないのか、ということである。

総合格闘技を楽しむ人間の心は、人間の根源的な闘争本能が、人間が作り上げ
た理性を超えそうになりながらも、そのギリギリのなかで自己の欲求を満たし
ていく行為である。私も総合格闘技は嫌いではない、その強さに対する憧れや、
あまりにも見事に紡ぎあげられた戦いの世界に酔いしれることは、何度となく
ある。

だが、プロレスの場合はどうだろうか。

少し違うのではないだろうか。

プロレスは、総合格闘技が持ち合わせることが出来ない、リアリティという世
界観をもっているのではないだろうか。繰り返して言うようだが、リアリティ
とは、リアルではなく、現実感である。つまり、痛みが伝わる、感情移入が出
来る、追体験を可能にするような情報を、観客に提供することである。

人間とは不思議なもので、自己体験との繋がりのなかで想像するせいなのか、
グローブをつけたこぶしで殴られる痛みよりも、平手によるビンタのほうがは
るかに痛そうに見えるのである。つまり、科学的に、もしくは統計的により痛
いからといって、痛そうに見えるとは限らないのである。もう少し具体例を出
すことで、私のアイディアを理解してもらおうと思う。映画において、人が銃
で撃たれる姿と、包丁で刺される姿、どっちに痛みを感じるだろうか。有刺鉄
線ボードに打ち付けられるのと、画鋲の床に投げ捨てられるのでは、どちらが
痛いだろうか。電流爆破デスマッチと、レモンと塩のデスマッチ(かつて大日
本で行われた)のどっちが、痛そうに思えるだろうか。

このように痛みのリアリティとは、自己の体験との結びつきによって、追体験
することによって、可能となる。これが、痛みのリアリティであるが、この観
点からいくと、プロレスのほうがはるかに痛みを感じるものが多いのではない
だろうか。プロレスは、実際に痛いだけではなく、痛みが観客に伝わるように
研究し続けた競技である。いや、たしかに今のプロレスのオーバーなリアクシ
ョンゆえに追体験が出来ないとか、最近のあまりに複雑で高角度な技では想像
外であるといった批判はあるだろうが、そもそものポテンシャル、性質の点で
考えていただければ、痛みを伝える技術は言い切れるであろう。

さらに、プロレスのリアリティとは、何も痛みのリアリティだけではない。観
客としてのリアリティ、選手に対する自己投影という、第2のリアリティも存
在するのである。それはもしかしたら、観客がコロッセオを楽しむように、プ
ロレスを楽しむことを不可能としているのかもしれないが、間違いなく、日本
のプロレス観の中には存在する感覚である。

では、なぜ日本のプロレスには、追体験が生まれるのか。その一つには、間違
いなく日本のプロレスの歴史があり、つまり戦後の力道山、高度経済成長期の
BI砲である。いつでも観客は、彼らのあきらめずに立ち上がり続ける姿に、
頑張っている今の自分を投影し、そこに生活の希望を見出していた。このよう
な決まりきった形でないにしても、常に選手の姿に、自分の何かを投影しなが
ら、プロレスを見ていく。そんな傾向が日本のプロレスにはあるのだ。

それは時として、闘牛士の妻の如く、試合から目を背けたくなることもあれば、
まるで自分が戦っているかのように手に汗を握っていることだってある。だが
それは、単純に勝負自体を楽しむという競技性だけでなく、よりドラマチック
であり、それは演劇の主人公に肩入れするような世界ともいえる。そして、こ
れはプロレスがもっているパワーであり、総合格闘技は持ち合わせることが難
しいのである。(おそらくこのことに谷川Pは気づいており、それゆえに現段
階で、選手たちのストーリーを何とか作りあげようと苦心しているのであろう、
そしてそれがうまくいっていないことの背景に、今まであげたようなことがあ
るともいえる)これは私だけなのかもしれないが、プロレスを見るときは、総
合格闘技を見るとき以上に、どちらか勝って欲しいという贔屓がある。もちろ
ん総合の場合もないわけではないのだが、多くの場合、試合そのものを楽しも
うと思っているところが大きく、試合が面白ければ、どちらが勝とうが、満足
するものである(ただしプロレスラー出場の場合を除く)。

この追体験も、リアルから生まれると言い切れるわけではなく、フィクション
からでも充分に生まれうるのである。我々は、映画やテレビドラマというフィ
クションの世界でも、充分に追体験をしているではないか。もちろんあまりに
リアリティに欠けるような話で、追体験は出来ないが、不思議なことに、あま
りにリアルな話に追体験も出来ないのである。リアルになればなるほど、自己
との差異が明確になり、自分とは違うものとして見てしまうからではないだろ
うか。残念ながら、私は社会学者ではないので、これ以上の科学的な分析は出
来ないが、プロレスという、一種の虚構の世界だからこそ持ちうるパワーがあ
るということだ。

伝わる痛みと、追体験を可能とする選手像、そんなものを持ち合わせたプロレ
スだからこそ、我々は今もなお熱狂し、追い求めるのではないだろうか。
だが、悲しいことか、そのような力をプロレスが持ち合わせなくなってきたと
嘆く声は大きい。

では、なぜ今のプロレスがリアリティを持ち得なくなったのか。

それは、また次の話。

posted by クレメンタイン |22:38 | クレメンタイン |
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