2010年02月13日

強さは観る者が勝手に感じ取る物なのだ。

「強くなりたい」 / 大鉄


朝青龍の引退は意外なほどあっけないものだった。
色々と物議を呼んだ存在だったが、今となってみてはどんな問題も朝青龍
個人の存在感の前では小さな物だったのだと感じる。
横綱としては賛否両論あったが、強い力士であったということだけには
誰も異論を唱えることはなかった。戦績という公式記録に表れているから
だけではなく、その相撲を見たもの全てに強さを納得させることが出来る
ような存在だった。人々を惹きつけるその魅力の根源が強さであったことは
間違いないだろう。人は強さに憧れるもなのだ。

そういえば、1.4東京ドーム大会が終わった後の週刊プロレスの巻頭特集
は「新日本vsNOAH強いのはどっちだ!?」だった。
団体同士の強さを比べるというのもおかしな話だ。会社の規模や財務状況を
比べるのであればまだ話は分かるが、ここで問われているのは明らかに、
両社のプロレスのどちらが強いかだ。
しかも、この特集はドームでの対抗戦の結果が出た後のものだ。普通なら
「勝った方が強い」という結論で終わりそうな物だが、勝敗が決した後でも
「強いのはどっちだ」が話題となりえるところが、まさにプロレスらしい
と言えばプロレスらしい。

我々は確かに強さに憧れている。しかし、我々が憧れる「強さ」とは、
試合に勝つ能力とは必ずしもイコールではないようだ。

「強さ」について考えるとき、私には思い出される試合がある。第一回G1
の公式戦、長州vs橋本だ。私はこの試合を両国国技館の升席で観て
いた。長州はここまでリーグ戦全敗、この橋本戦にも敗れれば引退では
ないかと噂されていた。試合は橋本が長州を蹴りまくる一方的な展開と
なった。しかし、私により「強さ」を感じさせたのは長州の方だった。
なぜならば、橋本が中盤以降ずっと泣き顔だったからだ。橋本は長州を
蹴り続けることに精神的に耐えられなくなっているようだった。何度も
レフェリーに試合を止めるよう要求していた。一方の長州は、為す術も
無く蹴られまくりながらも、厳しい顔で橋本をにらみ続けていた。
自分を蹴ることに耐えられなくなった橋本に、ゲキさえ飛ばしていた。
結局試合は橋本の勝利で終わったが、勝者橋本は強さよりも人の良さと
精神的弱さを、敗者長州が人間的な強さを、私に感じさせる試合であった。

これは単なる一例でしかないが、我々が試合の勝敗とは違うところから
強さを感じ取るのは間違いないと思う。
我々は「強さ」に憧れている。
そして、「強さ」を感じさせてくれるものに心を惹かれるのだ。
人によっては、それは相撲かも知れないし空手やボクシング、柔道かも
しれない。そして、自分が「強い」と信じたものが勝利するところが
観たいのだ。強い者が勝つ、そう思える競技やルールが支持されるのだ。
「このルールで勝ったのはこの選手だから、彼を強いと認めなさい」
などと言われても、観た者が強さを感じることができなければ、支持など
得られる訳が無い。
強さは観る者が勝手に感じ取る物なのだ。

強さに憧れる我々には、強くなりたいという欲求もある。少なくとも
男性にはきっとあると思う。始めは漠然としたイメージでしかなかった
「強さ」というものが、ある日具体的な形となって目の前に現れた時、
「強くなりたい」という欲求が、その具体的なものになりたいという
願望に変わるのだろう。空手にそれを感じた者は空手道場に入門する
かも知れない。そして彼の中では、強さイコール空手の強さとなる
かも知れない。空手が他の競技でも同じことが言えるだろう。

私がプロレスに感じる強さには、肉体的なものの他にも先程の長州の
例のような、人間的な強さ、とでも言うべき物もある。
私が今後プロレスラーのような肉体的強さを手に入れるのは不可能
だろう。しかし、肉体的にはかなわないとしても、人間として強く
あることは諦めたくない。私は今後も、試合の勝敗にとらわれること
なく、勝手に強さを感じていくだろう。そして、その強さに負けない
よう、私自身も強くありたい。私は勝手に勝負を挑み続けるのだ。
そして、「こいつにはとても敵わない。」そう思わせる選手が私の
お気に入りとなるのだ。
勿論、人間離れした肉体的強さもレスラーは備えているというのが
大前提ではあるが。

posted by upro |23:52 | 大鉄 |
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