2009年03月25日
ライブドアによるニッポン放送株の買占め、そして楽天によるTBSの買占めなど、インターネットメディアによるマスメディア、特にテレビ局の株式の買占めは、既存のマスメディアとインターネットメディアとの関係性を、将来に渡って問うまでの騒動になりました。そして、光ファイバー通信網のインフラ整備が進み、また、ケーブルテレビや電力会社などの通信事業への参入などにより、加速度的にインターネット環境は普及しましたが、その中で、インターネット上にさまざまな情報発信サイトが登場し、いまや、既存のマスメディアによるインターネットの活用状況も、日増しに拡大しています。新聞社の多くがネットサイトを開設していることも、その一例です。
「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口隆司氏は、本の中で、こうした状況について、「日本のジャーナリズムが将来的にどう発展していくのかにも関係していく」、と述べています。ネット上の情報発信サイトは、メディアが運営するサイト以外に、個人が運営するものまで含めると、いまや膨大にあり、その情報量は、多岐に渡ります。報道という観点から見ても、海外のニュースサイトから得た情報が、時間差なく日本のニュースサイトや個人のサイトにアップされており、速報性や浅く広く情報を拾い集めることに関しても、インターネットは、既存のマスメディアを凌駕しつつあることは間違いありません。滝口氏も、「幅広い角度からの報道が展開されれば、それはスポーツの発展に寄与していくことにも繋がる」、と述べています。ただし、それには前提があり、インターネット上のサイトで掲載される情報が、所謂オリジナリティある内容のものかどうか、ということがポイントになります。現状では、個人のサイトはもちろんのこと、ニュースサイトの情報のほとんどは、通信社やメディア各社による情報配信の2次利用であり、そこに、独自の視点からの見解は示されていても、元々が独自の取材であるものは、ごく限られています。つまり、滝口氏が述べている“日本のジャーナリズムの発展との関係性”とは、独自の取材機能もしくは能力を持っている、ということと、アウトソーシングに頼っていく、ということの方法論の違いによって、大きく異なってくる、ということです。ちなみに、アウトソーシングの場合は、サイト運営者(社)は独自の取材機能や能力を持たなくても、それを外部のフリーランスのライターやフォトグラファーなどに依存するケースです。
情報というものであれば、そこに客観的な信頼性はなくとも、主観的な考えや意図、そして、その情報の発信者が明確であれば、情報に対する信用性は、発信者に対する信用性を、情報を受け取る個人個人が、自らの責任で見極めればいいだけです。しかし、報道とは、客観的な信頼性なくして、その報道にある意義は見出せません。それは、メディアとしての組織や社会的地位に対する信頼性でもあります。アウトソーシングの場合でも、メディアとしての信頼性のあるところを通じての発信であれば、それは報道として社会的に認知されるものになるでしょう。
また、スポーツ報道の取材力というところで言うと、独自の目線でスポーツを語る力の有無が問われるところだと思います。独自の論評や批評、そしてスポーツを見る力が語る描写などは、取材するジャーナリストによる独自の能力や機能が生み出すものであり、それこそが、ジャーナリストとしてのスタンスなのだと思います。大きなスポーツイベントや大会になれば、メディア、もしくはブレスとしての取材申請に対して、所属するメディア組織や会社としての地位や経歴が大きく影響します。それは、信頼性の問題があるからです。そして報道という概念があるからです。アクレディテーションのカテゴリーは、メディアの場合、大別すれば、ジャーナリストとフォトグラファーに区分されますが、最近は、それとは別に、“WEB”というカテゴリーも見受けられるようになっています。その点から考えると、インターネットのニュースサイトも、独自取材能力を持ち、そこから発信するニュースに信頼性があるものと判断されれば、メディア・アクレディテーションはキチンと認可される、という時代なのです。つまり、イベントや大会の主催者も、報道としての信頼性に着目しているわけで、客観的な認可を得られる立場になければ、報道機関、もしくはジャーナリストとしては認知されないのです。
私も、個人で活動しているインターネットサイトの運営者に方々にお会いしたことがありますが、なかなか取材の現場にメディアとして入り込むことは難しい、という方がほとんどでした。決して邪な考えや遊びの感覚を持ってやっているのではありません。しかし、信頼性を得るまでの実績がないのです。冷静に見ると、やはり独自の取材力に課題があります。運営資金の問題によって組織としての活動が難しく、結果的に個人の力で運営するしかないからです。そこには、必然的に限界が生じます。また、インターネットサイトによる、スポーツイベントや大会の動画配信を試みているプロジェクトもあります。以前も取り上げましたが、夏のインターハイでの競技を、動画配信しているケースもそのひとつです。そこにも、テレビメディアと同様に、報道と娯楽の境界線の問題があります。更には、情報と中継という、権利絡みの課題も見え隠れしています。一概には言えませんが、活字にしろ、映像にしろ、それらの情報を待ち望んでいる人たちがいる、ということだけで、比較的安易にそれらを発信、または配信してしまっている人たちは、あくまでも個人的に意見ですが、あまり、スポーツに貢献している、とは思えません。あくまでも商売なのか、もしくは、個人の楽しみでしかないような気がします。そして、本当にそれらの情報を待っている人たちがいるとしたならば、そのようなサイトは、もっと乱立して凌ぎを削っていることでしょうし、スポーツ競技団体や関係組織が放ってはおかないでしょう。しかし、独自の取材力やニュースを語る力をネットサイトが持つようになった時、スポーツジャーナリズムは、より一層その地位を向上させていくことは間違いなく、そうなることが楽しみでもあります。
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2009年03月24日
「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口隆司氏は、本に書かれている経歴によると、現在、高校野球の担当取材班のキャップということですが、春の高校野球、選抜大会は毎日新聞の主催です。また、夏の甲子園、全国高校野球選手権大会は、朝日新聞の主催です。何れも高野連との共催という形ですが、新聞社がスポーツの大会を主催し、その普及や啓蒙に努めてきた歴史は、日本でも古くから見られます。いまや、小学生から高校の大会まで、スポーツ競技大会の主催者や、後援者として新聞社が名を連ねる大会は数多くあり、その一部の大会では、大会運営の中で中心的な立場にいる場合もあります。つまり、メディアが、スポーツ競技大会の運営も担う立場にいるのです。高校野球のみならず、バレーボールでは、フジテレビが春の高校バレーの事業運営もなっているようですし、メディア企業の事業部という存在は、報道機関としてのメディアの顔とは別に、独立した事業体としてスポーツに関わるビジネスを展開していることも、その例は少なくありません。また、世界最高峰の自転車ロードレース、ツール・ド・フランスは、1903年にフランスのスポーツ紙「レ・キップ」が、その販売拡張のために始めた大会ですが、いまや世界中にファンを持つほどの規模に成長しています。このように、単なるスポーツイベントや大会へのスポンサーシップというだけではなく、特に新聞というメディアは、恐らく日本では宅配システムが定着している環境も巧を奏していると思うのですが、イベントや大会を支える立場を通して、新聞の販売拡張を進めるというビジネスの側面と平行して、スポーツの普及ということを推し進めてきた功績があると思います。イベントや大会主催することで、その報道権を独占したり、優先的な立場に置いたりすれば、スポーツの普及とは逆行してしまう。だからこそ、高校野球やその他の新聞社主催によるイベントや大会では、大会を主催する意図と、報道という概念は、中立に保たれてきたのでしょう。前回取り上げたメディアによるスポーツ・スポンサーシップの状況にある権利と対価という概念とは、幾分違うものがそこにはあります。
地方都市で、スポーツイベントやスポーツの国際大会を開催する上で、その地元の新聞社と、事業面で連携することはよくあります。スポンサーシップではありません。イベントや大会の認知や理解を拡大していくために、協力を得るのです。確かに、“ちょうちん記事”のように見える場合もあります。しかし、一方で、シティセールスなど、地方都市のPRや観光促進のための施策を目的に、地方自治体がイベントや大会の開催費の一部を負担して、そのイベントや大会を招致するケースでは、まず、開催地地元の市民に大会開催の意義を理解してもらう必要に迫られます。また、大会開催に際してのさまざまな協力も市民に仰がなくてはなりません。その時、地元の報道機関としての新聞社の存在は、非常に大きなものになります。時には、イベントや大会の開催地の住民意識のモチベーションを鼓舞していくための効果をもたらしたり、それを期待させるものである、ということも言えるでしょう。
私も、地方都市でスポーツイベントや国際大会を開催する際には、常に地元のメディアの力をお借りしてきました。イベントや大会のことをもっと知ってもらうために、そして興味を持ってもらうために、恐らく報道の中立性など無視をして、さまざまな情報を提供していきました。イベントや大会の運営面で必要なボランティアの協力を得るために、その募集に関しての告知などは、地元のメディアだからこその信用もあり、大会主催者からの一方的な情報発信よりも好意的に理解される場合が多々あります。また、イベントや大会の準備が進む過程を逐次情報発信していくことも、地元のメディアならではの切り口により“報道”していただけるため、イベントや大会に対する親近感を醸成していくことにも効果が高いのです。こうした地方メディアの力は、新聞の発行部数を見るだけでも、非常に大きいことがわかります。北海道の例で見ると、・・・・
・北海道新聞 1,216,438部(48.65%)
・第2位の新聞 239,315部(9.61%)
というデータがあり、北海道では、北海道新聞に情報が掲載されなければ、他の全国紙の北海道版にどんなに大きく情報が取り上げられても、その効果は、上記数値のように桁が違うものなのです。また、お隣の青森県では、地元紙の東奥日報が最大の発行部数を誇っており、その数は26万部です。朝日新聞や読売新聞がその1/10程度の発行部数ですから、北海道のように人口が大くない県においても、地方紙の力は絶大なのです。
しかし、地方メディアが、世界的なイベントや大会、もしくは日本トップクラスのスポーツを見れる場としてイベントを開催する場合などにおいて、いかにも良いことばかりにフォーカスを当てているような事実もあることも、決して否定できないことだと思います。前述のように、地方都市や地域における、地方紙の影響力というものは絶大なものがあり、それ故に、メディアとしての使命である中立的見解を持つことや、批評する意識を薄れさせていることも否めないと思うのです。地元住民に支えられている定期購読という財源を失う可能性があるからです。政治的な問題はさておき、スポーツにおいては、大きくなればなるほど、スポーツイベントの招致における市民や県民の血税を投入した、開催費の補助などの行政による財政出動は、その地元のメディアこそ、客観的に監視し、より透明性を求める立場になければならない、と思います。地方メディアは、イベントや大会にスポンサードしているわけではありませんが、イベントや大会の成功には欠かせない存在です。そしてそれは、イベントや大会の開催がもたらす利益や効果とは何なのかを、最も中立に正確に伝える立場にあるからこそ、欠かせない存在に成り得るのです。
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2009年03月23日
テレビマネー。テレビジョンパワー。テレビの力は、オリンピックを見るまでもなく、スポーツ競技の現場に、多大な影響を及ぼすものに増大しています。その力の源は、言うまでもなく、お金です。時には、数百億円という莫大な契約金額が報道を賑わし、時には、その契約は、向こう10年先にまで及ぶこともあります。そのお金は、国際競技連盟や組織の財源として、世界大会やオリンピック大会の大会運営を支え、肥大化する大会規模に比例していくかの如く、ますます大きな規模になりつつあります。しかし、競技団体や大会を潤すそうした財源は、スポーツ競技のルールにまでその力を及ぼし、また、オリンピックでさえ、競技スケジュールを変えるまでに、その影響力は増し続けています。バレーボールや卓球、バドミントンなどの競技では、ラリーポイント制が導入され、テレビ放送の都合に合わせやすいように試合時間の短縮が図られるようになりました。また、先の北京五輪では、競泳の決勝は、アメリカの現地時間の都合に合わせるために、開催地の現地時間で昼前の時間帯に行われました。日本で行われたFIS世界ノルディックスキー選手権札幌大会でも、ヨーロッパの現地時間帯に合わせるように、決勝は夜間に行われ、そのために照明設備などの付帯設備の用意を強いられ、大きな経費負担が生じたと聞いています。いまや、テレビマネーは、世界的なスポーツ競技大会の巨大なスポンサーの如く、その発言権を増しており、メディアとして、報道機関としての立場を超えて、大会の運営にまで大きな力を及ぼす存在になっているのです。その姿は、もはやメディアと言うよりは、コンテンツホルダーなのです。
毎日新聞の現役記者、滝口隆司氏の著書「スポーツ報道論」の中でも、“世界のスポーツを変えたテレビマネー”として、巨大な放送権料を背景としたテレビの存在の大きさに対する脅威が語られています。また、スポーツがビジネスの場で語られるようになっている中で、2006年にNHKが打ち出した改革案のひとつである、“報道は受信料で賄い、娯楽は有料化する”、という方針を取り上げています。これは、テレビというメディアが、報道機関としての顔と、先のようなビジネスセクターとしての顔の、2つの顔を持つようになっていることを顕著に示した例であり、滝口氏は、このことを、“スポーツは報道か、娯楽か”、という視点で切り込んでいます。スポーツ中継を娯楽とするならば、スポーツ中継は有料コンテンツとして、NHKですらビジネスの対象にしてしまいます。そこから得た視聴料収入から、先に述べたように巨額の放送権料が捻出されていく構図です。しかし、ヨーロッパにあるように、ユニバーサルアクセス権という考え方や、スポーツの普及のために、衛星放送などの有料放送に依存しない中継体制を取ろうとするIOCを始めとする国際競技団体の考え方から考えると、スポーツのすべてを娯楽と捉えて、ビジネスの対象としていくことは、スポーツ市場に価値をもたらす普及という側面を否定することにもなりかねません。ヨーロッパでのプロサッカーリーグの放送権を巡っても、ここ10年の間にさまざまな論争がありました。ルパード・マードック氏率いる衛星放送ビジネスは、スポーツを最も優良なビジネスコンテンツとして捉え、巨額な放送権料の見返りとして、巨大なコンテンツホルダーになっています。プロスポーツの世界だから・・・、ということで考えたとしても、そこにはプロチームを支えているファンの存在もあり、そこに論争の火種はあったのです。“スポーツは報道か、娯楽か”。それは、スポーツの現場が、ビジネスによる財源なくして成り立たない現状からすると、杓子定規に考えることは無理でしょう。だからこそ、スポーツジャーナリストたちは、スポーツ報道の現場で、テレビが見せる2つの顔の矛盾と、戦わなくてはならない状況に追い込まれているのだと思います。
最近では、テレビメディアのみならず、新聞や雑誌などの活字メディアも、スポーツをビジネスの対象として捉える傾向を見ることが出来ます。スポーツイベントや競技団体等のスポーツ組織へのスポンサーシップです。滝口氏の「スポーツ報道論」の中では、シドニー五輪で巻き起こった新聞社のスポンサーシップにまつわる報道とプロモーションとの区別に関する論議が紹介されていますが、確かに、報道機関としての立場を有するメディアが、スポーツ・スポンサーシップに参画した場合、その対価としての権利が、報道することまでに及ぶかどうかという境界線まで明確に示すことができるかどうかは、曖昧です。スポーツイベントや大会の主催者は、メディアのスポンサードによって、金銭的な収入を得ることよりも、その報道機関としての力を利用したイベントや大会のPR、プロモーションといった効果を期待するからです。問題なのは、そのPRやプロモーションが、果たして報道なのかどうか、ということです。イベントや大会主催者から見ると、それは“パブリック”リレーション、つまりニュースとしての情報発信でしょう。一方で、利用されるメディアからすると、“ちょうちん記事”と認識した上でのサービス、もしくはイベントや大会への協力、という捉え方なのかもしれません。しかし、全くのニュートラルな立場にいるメディアからすると、スポンサードしているメディアの行動は、報道の優先権を勝ち得た存在に映るでしょうし、事実、イベントや大会主催者からスポンサードするメディアにもたらされる情報は、他のメディアに優先して提供されていることは明白です。
朝日新聞は、オフィシャルニュースペーパーとして、2002年日韓ワールドカップにスポンサードし、その後、Jリーグ百年構想のパートナー、アジアサッカー連盟のスポンサーなどに名乗りを上げ、“サッカーは朝日”というイメージを定着させようとしています。それに対抗して、読売新聞は、JOCのオフィシャルパートナーになるなど、スポーツ・スポンサーシップへの参画に積極的のようです。新聞という商品の販売促進の効果を狙うものなのか、はたまた読者に対するサービスの拡充を狙うものなのか。何れにしても、報道の力の、企業ビジネスへの活用なのでしょう。
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2009年03月22日
テレビの映像と音声、そして新聞や雑誌の写真と活字。頭で考える前に感覚的に目や耳に飛び込んでくるテレビの映像や音声は、視聴者に考えさせる時間を与える間もなく、強い影響を与えます。特に、映像が伝えるリアリティは、ライブで瞬間を捉える力があり、取材するテレビ記者やカメラマンは、状況の観察力を求められ、その状況の流れの中で、映像を捉えるのだと思います。逆に言えば、テレビ報道とは、画がなければその価値はどう評価したらいいのか?、という疑問が残るのです。だからこそ、テレビは画が欲しい。そして、その映像がリアルであればあるほど、アナウンスや余計な解説などは邪魔になる時もあります。つまり、テレビ報道の命は、映像のリアリティだと思うのです。しかし、新聞報道は、言葉で伝えるしかない。スポーツ報道なら、より取材対象の心理描写までを捉えなければ、真実味のある言葉にならないし、表面的な事実だけならば、それはテレビに敵うはずがありません。だからこそ、記者の目による洞察力が必要になる。そして、読者は、記者が綴った言葉を読み、頭で考えるのです。つまり、新聞報道の命は、言葉の表現力だと思うのです。記者が取材で得た事実や状況、心理を、どうすれば奥深くまで読者に伝えられるか。報道写真も同じです。瞬間を撮影した1枚の写真は、記録ではなく、言葉と同じように読者に語りかけるものでなければならない。だからこそ、報道写真には、ついつい見入ってしまいます。
毎日新聞の滝口隆司氏の著書「スポーツ報道論」の中には、スポーツジャーナリストに求められる要素として、“スポーツの本質を描くこと”、と書かれてあります。そして、それは、テレビでも、新聞や雑誌でも、変わらないことだと思います。スポーツジャーナリストは、誰もがスポーツの本質を求めようとします。その本質の表現の方法が、テレビは映像になり、新聞や雑誌は言葉になる。しかし、スポーツの本質を描くためには、スポーツの本質とは何かを知らなければならない。そのためには、技術のことをまず分かろうとする。更には、戦術を読み取ろうとする。それが出来なければ、疑惑の判定があった場合、その判定は本当に正しいのか、何が間違っているのかを、理解することすら出来ません。そうすると、本来伝えるべき言葉が、伝えなければならない言葉が出てきません。テレビでもそうです。どのシーンを注目させるべきなのか、何処を見せるべきなのかを、判断することすら出来ません。
滝口氏は著書の中で、最近は、新聞社でも専門記者は要らない、と言ったような風潮が生まれてきていて、記者がサラリーマン化しているように感じる、と書いています。新聞社とて、企業としての経営がありますので、その観点からは、メディアも経営効率を求める流れの中にあるのかもしれません。故に、スポーツ記者は不足しがちになり、兼務してさまざまな取材をこなさなければならなくなり、結果的に、スポーツの本質を捉えていくようなスキルを身に付ける時間も機会も少なくなってしまうようです。一人の読者からすると、非常に残念に思いますし、そう言えば、最近はたまにしか“思わず読み入ってしまう”ような奥の深い記事を見かけなくなったように感じます。これは!、という記事は、必ずクリッピングしておくことを習慣にしているのですが、それも最近は本当に少なくなりました。たまの特集や連載くらいでしょうか?。いまは、専門性ではなく、記事を仕上げる能力が求められるのだそうです。しかし、活字離れやネットメディアの台頭、そして、明らかに減少している新聞や雑誌の発行部数を見ると、滝口氏の言っている通り、いまこそ専門性の高いスポーツ記事が求められる、と私も思います。スポーツイベントの現場でも、そうしたスポーツをよく理解して、本質を見抜く力のある記者と話していると、楽しくもあり、また、メディアに対するサービス精神も高まります。昔は、どの新聞社にも大御所と呼ばれる名物記者がいました。しかし、いまは、元選手の評論家先生にお任せが多いそうです。また、メディアがスポーツ・スポンサーシップに乗り出してきていることや、世界的な大会の日本開催が頻繁にあること、そして、スポーツの普及と強化をお題目に、政治がスポーツに積極的に関わるようになってきたことで、政治、経済、国際、社会と、報道が対象とするあらゆる分野が、スポーツと関わるようになってきた現代では、より一層、スポーツ記者にも専門性が求められていいのではないか、と思います。何れにしても、経営と報道の現場の思惑の違いが露骨に表れてきている中で、スポーツ報道の本質を何処まで貫き通すことが出来るのか、これからも報道の裏側を気にしつつ、スポーツの本質が描かれた記事を待ち望みたいと思います。
では、先に取り上げた活字メディアの経営という観点から、それらの発行部数に注目して、どのくらいメディアパワーが低下しているのかを検証してみます。ちなみに、世界における日本国内での新聞の発行部数は、先進国の中ではダントツで、アメリカの5,380万部を1千万部以上も上回る6,850万部(2008年)となっています。人口の違いから見ても、日本の中での新聞メディアの影響力は、非常に高いことを示した数値です。しかも、アメリカは1,463紙なのに対して、日本は僅かに110紙。日本では全国紙の普及が当たり前のようになっている実情が、この数値からも良く分かります。お隣の韓国でも、214紙で1,620万部、ドイツは365紙で2,070万部。イギリスでは、新聞の数は114紙と日本に近いものの、全体では1,800万部しかありません。宅配というシステムが、発行部数にも大きな影響を与えているのでしょう。では、昨年度のデータで、全国紙の発行部数を見てみると、以下のようになります。
(%は、全国の総世帯数5,273万世帯に対する世帯普及率を示します。)
・読売新聞 1,002万部(19%)
・朝日新聞 804万部(15%)
・毎日新聞 388万部( 7%)
・日本経済新聞 305万部( 5%)
・産経新聞 220万部( 4%)
また、駅売りを主な販売網とするスポーツ新聞はどうかというと、スポーツニッポンが約120万部でトップのようですが、他の日刊スポーツ、サンケイスポーツ、スポーツ報知などは、ほぼ同じ規模で約100万部前後の発行部数になっています。2007年度の数値ですが、日本全国の地方紙を含めた新聞の総発行部数は、朝刊単独で3,440万部。これは、10年前の1997年度と比較すると、174万部(3.2%)もの部数減少になっている数値だそうです。スポーツ紙でも、2007年度で492万部と、1997年度からは144万部(22.1%)も部数を落としています。すべての新聞を対象とした1世帯当りの新聞購読数も、1997年の1.18から、2007年には1.01と急激に減少しており、これは宅配によるスポーツ新聞の減少が大きく影響していることと、インターネットのブロードバンド環境の整備が進んだ年代と重なるため、活字離れによる影響も含まれている、とある研究機関の調査にはありました。
更に、世界的経済不況の影響もあり、最近落ち込みが顕著な新聞広告が、更にその落ち込み度合いを増しているようです。部数の減少と、広告の減少。供に、新聞社の経営には多大な打撃であるはずで、この辺にも、先に述べた人事関係の効率化による報道現場の疲弊の原因がありそうです。スポーツの本質を描くことこそ、読者を引き付ける記事であるはずなのですが、それに相反するように、専門性の高いスポーツ記者が少なくなっていることは、メディアとはいえ、経営と報道現場に大いなる矛盾を抱えている実情を物語るものだと思います。
では、雑誌はどうなっているか見てみると、スポーツの本質を描くことで、日本版の「スポーツイラストレイテッド」誌の如く、コアなスポーツファンに人気の高い「スポーツグラフィックNumber」誌は、最高時の半分以下の部数にはなっているものの、所謂一般雑誌と肩を並べるレベルの約20万部となっています。雑誌は、ここ数年の間に、どの雑誌も例外なく部数を激減させており、700万部とも800万部とも言われた驚異的な発行部数を誇っていた週刊少年ジャンプですら、現在は278万部にまで部数を落としています。また、先のNumberに追随するように、一時は多数のスポーツ系のノンフィクションを掲載する雑誌が創刊されていましたが、現在ではほとんどが消えていってしまいました。その状況には、2つの要因があるように感じています。ひとつは、テーマ性の問題です。Numberも、1990年代前半のF1ブーム以前までは赤字続きだったそうですが、それ以降、NBA人気、Jリーグの誕生、そしてサッカー日本代表のワールドカップ出場、更には、格闘技の台頭など、それぞれの年代でブームになるスポーツが登場し、また、格闘技などの新しいスポーツ分野が人気を博すようになったりと、その年代毎にNumberの読者層を次々と変えていきました。しかし、新創刊された雑誌の多くは、サッカーや格闘技など、特定の人気スポーツに偏った内容に終始していた感じは否めず、結果的に、幅広いスポーツファン層を取り込むことが出来なかったのではないか、と思います。そして、もうひとつは、雑誌の記事の裏の主役とも言えるスポーツライターの質の問題です。Numberは、1980年の創刊号で、山際淳司氏の“江夏の21球”が話題となり、Numberという雑誌そのものが斬新に思えました。「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口氏も、本の中でこのNumberのことを書かれていましたが、スポーツの本質というものの捉え方を、選手の心理の中まで踏み込んだドラマを描いた、と私は思っています。しかし、スポーツが生み出すドラマを、前回述べたように、選手の家族や生活の中までに踏み込んだ時、それはスポーツの本質を描いたものなのか?、と問われると、私は少し違うように思います。Numberも、数多くのスポーツライターの方が執筆しておられます。ひとりひとりの個性や、ひとりひとりの専門性がある一方で、彼らが描くスポーツは、あくまでもスポーツ競技の中にいるアスリートという前提を崩していないように思うのです。そこが決定的な違いです。だからこそ、スポーツの本質を逸脱せずに、ドラマを描くことが出来るのだと思うのです。スポーツそのものの捉え方が、新興雑誌のライターの方々とは、違っていたように思います。
Jリーグの発足した1993年前後の年には、多くのサッカーライターが誕生しました。サッカー関連の雑誌や、一般紙でも多くの関連記事が掲載されました。また、当時、私の携わっていたNBAの仕事の中でも、NBAなどのアメリカのプロスポーツを専門に取材するスポーツライターさんが登場してきました。スポーツライターという職業は、そんなに儲かるのか?、などという邪推をしていたほどです。しかし、彼らがスポーツの本質を描くだけの能力を兼ね備えていたか、もしくは兼ね備えようとしていたか、というと、それは些か疑問です。やはり、ブームに乗った雑誌業界と同じで、一過性だったようです。そして、そのことが、現在でもスポーツジャーナリズムというものが、社会的にも認知されにくく、そのジャーナリストの専門性が評価されにくい状況を作っているようにも感じます。雑誌というメディアは、新聞記者以上に、スポーツの奥底までを描く力を求められると思います。読ませる、そして残しておける価値を、雑誌の中にスポーツを描くライターの方々は、生み出さなくてはなりません。そこに、“記者”と“ライター”のスポーツに対する捉え方の違いがあるのではないでしょうか。新聞社のスポーツ記者が、新聞社としての企業経営の方針によって、場合によってはその本質を失いつつある中で、雑誌不況と言われる中でのスポーツライターの苦悩も時々耳にします。より深く、より的確にスポーツの本質を描き出す力を備えた記者、そしてライターが、その腕を存分に振るえるようなスポーツの報道現場は、決してなくなりはしません。問題は、記者やライターたち、スポーツジャーナリストたちを、育てていくこと。それが、スポーツの活性化にも繋がると、私は信じています。
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2009年03月21日
あるアジア選手権大会で、選手がホテルから競技会場までの移動用に使用するバスの専用駐車場に、無許可でテレビ局の取材クルーが数名入り込んでいることがありました。恐らく、会場に到着する選手の姿を撮影しておきたかったのでしょう。スタッフから、「これは許可されているのでしょうか?」、とトランシーバーを通じて連絡が入り、私は、「ホスト以外のテレビ撮影、およびその他のメディア取材は、一切許可されていない」、と回答しました。ところが、入り込んだテレビ取材クルーは、動こうとしないようで、私も現場へ駆けつけました。原因は、駐車場の進入を警備しているはずの警備員が、勢いに押されて入れてしまったことらしいのですが、私は務めて丁寧に、そのテレビ取材クルーの責任者らしき人に、「申し訳ありませんが、警備の都合上、ご協力ください」、と言って、軽く頭を下げました。警備員のチェックミスがあった手前、頭ごなしの対処はマズイと感じたからです。しかし、その責任者らしき人は、こう言って反抗してきたのです。「どこにそんなことが書いてあるんだ。ダメなら最初からキチンと説明しておけ!」。偉そうにこう言ったのは、某民放キー局の取材クルーで、わざわざ東京から来ていた人たちでした。開いた口がふさがらなかった私は、テレビ放送とメディア対応の担当責任者を呼び、対処を委ねました。権利と報道協定(事前にメディア各社に取材ルールなどを示した資料)を楯に話し合ってもらうしかないと思ったからと、運営の立場としては、余計に混乱させない方が良いと判断したからです。テレビ局は、とにかく他局にはない画が欲しい、のです。しかし、これはワイドショーネタの出来事ではありません。公式のスポーツの大会です。ホストブロードキャスターですら、大会運営の規定に従って制作作業を行います。放送権を持つテレビ局、ライツホルダーも、決められた位置での撮影や取材しか受入れできません。それにもまして、メディアに関しては、取材ルールを守ってもらわないと、取材の公平さや公正さが保てないのです。ましてや、地方局の取材クルーではなく、大きなスポーツイベントでの取材現場を数多く経験しているだろう東京のキー局です。その時は、“こんなもんか!?”・・・、というくらいで、収めることにしました。
最近、大学や専門学校でのスポーツビジネス関連の講座が増えてきていることは、以前にも取り上げましたが、スポーツジャーナリストを目指す人のための講座やコースも、少なからずあるようです。私自身は、一度もジャーナリストというものに興味が沸きませんでしたので、スポーツに仕事として関わってきた経緯の中でも、スポーツジャーナリストという存在に対して、あまり考えを及ぼしたこともありませんでした。そうしている内に、スポーツイベントの現場で、メディアという対象として、数多くのジャーナリスト(記者そしてカメラマン)の人たちに接するようになって、彼らのスポーツに対する視点や考え方に、非常に興味を持つようになりました。彼らはどんなことを選手から聞き出そうとしているのか?。彼らは、この大会、試合をどのように評価しているのか?。彼らに最良の取材環境として何を望んでいるのか?、・・・などなど。しかし、先の出来事以来、本心から、スポーツジャーナリストという存在に、些か疑念を抱くようになりました。本当に、スポーツを見ているのだろうか?。ただ単に話題になるネタを探しに来ているだけじゃないのか?、・・・。
ほんの少し前、毎日新聞社の現役記者が書かれた一冊の本を読んでみました。タイトルは「スポーツ報道論」(創文企画刊)。“論”とあっても、全く堅苦しい内容では決してありません。著者は、本に書かれてある経歴によると、毎日新聞大阪本社運動部で高校野球取材班キャップを勤めている、滝口隆司さんです。いわき支局、福島支局など地方支局も経験し、その後、アテネ五輪取材班キャップなど、数多くのスポーツを担当されてきた現役バリバリのスポーツジャーナリストです。この本には、私がスポーツイベントなどを通して感じてきたスポーツジャーナリスト諸氏に対する幾分の偏見が、ある意味では、そうなるべくしてそうなっている現状が、具体的に書かれてありました。また、スポーツに対するメディアの視点そのものに疑問を呈している箇所もあり、スポーツを取材する側にも、スポーツジャーナリストのあり方に対する葛藤があることが、非常にリアルに書かれてあります。書店でこの本を手に取って、“はじめに”とある冒頭の5ページを読んでみると、そこに、こんなことが書かれてありました。
アテネ五輪で滝口氏が取材班キャップを務めた取材記事を、先輩記者は、「今回のオリンピック紙面は“日本県版”だったな」と言われたそうです。“県版”とは、全国紙の地方版のことで、つまりは、世界的大イベントのオリンピックを、日本選手だけを見た取材になっていたことに対する痛烈な戒めだったのです。“県版”では、おらが町の選手の活躍や出来事など、“わが県”の話題に終始します。これと同じことを、世界を相手にした取材でありながらやってしまった、ということです。冬季トリノ五輪でも、多くのマスコミは、競って日本のメダル獲得数を予測し合っていました。結果は金メダル1個の惨敗。日本選手のみに目を向けた日本のメディアによる取材は、結果的に、持ち上げるだけ持ち上げて、国際的視野を欠いた話題のみに終始してしまいました。同じ年のFIFAワールドカップドイツ大会でも、全く同じことが繰り返されました。決勝トーナメント進出を楽観視しすぎて、結果的に、1次予選敗退となって以降は、ニッポンの“ニ”の字さえ消えてしまいました。滝口氏は、この時の様子をこう書いています。『日本のメディアの海外取材経験が不足していたとは思えない。~中略~。しかし、一部を除き、多くのメディアの目は日本ばかりに注がれ、国際的な視点で冷静な批評が出来なくなってしまったのではないか』。
“はじめに”の5ページに書かれてあることだけでも、私の、スポーツジャーナリストに対する実際の姿を知りたい、という気持ちを、ますます強くさせてくれた内容でした。では、この本の中に書かれてあることの中で、スポーツイベントに携わりながら感じていたスポーツジャーナリストに対する少しばかりの“違和感”を前提として、活字メディアが抱いているジレンマについて、いくつか述べたいと思います。
滝口氏の著書「スポーツ報道論」の冒頭には、「なぜ、われわれはスポーツを書くのか、伝えるのか。何を目的にスポーツジャーナリズムは存在するのか、解き明かしたい」、と書いています。現場からの視点を前提として、この本の中には、活字メディアとして、特に新聞という日々生活の中に当たり前のようにあるメディアを通して、ニュースや批評、スポーツの裏側にあるものを読者に伝えようとする時にぶつかる、テレビというメディアとの葛藤が多数登場してきます。報道という視点から考えると、テレビは、映像を通して視聴者にその時々の出来事を、非常にリアルに伝えているメディアです。ライブで放送されるニュース報道には、そのリアルさに、時には圧倒されるものがあることも事実です。だからこそ、テレビは“画”が欲しいのです。最近では、ニュース番組の中でも、オリンピックや世界選手権で活躍する日本の選手たちを、アスリートとしての人となりを紹介したい、という視点から、時には家族を登場させ、時には小学校の同級生までを登場させ、その選手の生い立ちにまで言及しています。“お涙頂戴”パターンですね。これがニュースか?、と思うときも度々で、特にワイドショー番組内での取り上げ方は、それに輪をかけてドラマチックな演出に走ります。本当にこれが報道としての立場で得られた映像や情報の流し方なのか、私は些か疑問です。
スポーツは、勝負にかけるアスリートという人間の生き様が、如実に現れるものでもありますから、そこにはやっぱりドラマがあります。“スポーツは筋書きのないドラマだ”、と言われますが、やってみなければわからない勝負に賭けるアスリートたちの姿を、どのように捉えていくのか。そこが、ドラマとしてのテーマを見出す出発点であり、スポーツジャーナリスト個々の考えや視点の違いが及ぶところだと、私は思います。ある人はそのアスリートの敗退の原因を探り、ある人は敗退直後の気持ちの揺らぎを捉える。スポーツ競技の魅力や、大会の持つ特性やタイトルの大きななどによっても、“ドラマ”の捉え方は変わっていくでしょう。そこに、当然のことながら筋書きなどあろうはずもありません。しかし、時に、その“ドラマ”は巧妙に演出されます。選手たちの姿を撮影したものが、編集という技術で、全く違う意味合いを持つようになることがあります。テレビというメディアの特権であり、より感動や共感を得られるように各テレビ局が凌ぎを削るところでもあります。ただし、それは往々にして逸脱した方向に向かってしまうことがあるのです。映像は非常にリアリティの高い表現力かある一方で、見せ方ひとつで視聴者の抱く感情や考えをも180度違ったものに操作する力があると思います。その点を、テレビのジャーナリストは、どこまで捉えているのか、または、どこまでその力の大きさからくる影響力を認識しているのか、ということが、大きな問題だと思うのです。
視聴率、そして番組スポンサー。テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、その経営資源を得るための手段に、本当に迎合せずに一線を画すことが出来るのか?。本音では、なかなか難しいものがある、ということは想像に容易いことです。いくらリアリティあるニュース映像でも、映像で視聴者を引き付けるための意図は、必ずそこに存在すると思います。その辺に関して言えば、テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、スポーツ中継という番組があるだけに、報道と、番組としての娯楽という視点の使い分け、というジレンマの中にあるような気がします。
一方で、新聞や雑誌などの活字メディアは、言葉による報道が基本です。その言葉を生み出すのは、ジャーナリスト個々のスポーツの現場における取材力です。その時々の瞬間を映像の中で見せるだけで、ニュースの力を見せ付けることが出来るテレビと異なり、新聞や雑誌は、言葉なくしてニュースを伝えることは出来ません。そして、その言葉も、活字という消すことの出来ないものなのです。そして、書かれた文字、文は、読む読者によって、さまざまな考えを引き出します。だからこそ、活字メディアは、アスリートたちの言葉を聞きたい、そして語ってもらいたいのです。それを引き出すのが、所謂ペン記者としての使命であり、スポーツジャーナリストたる力なのでしょう。
ロッカールームを書く、という言葉が本の中にあります。活字メディアの本望は、ここにあるとしています。競技の裏側にある選手たちの気持ちやその移り変わりを、選手たちの言葉から掴み取る。それを記事として読者に伝えていくことで、勝負の裏側にあるスポーツの本質を伝えていく。それが活字メディアの真骨頂なのでしょう。新聞のコラムには、足で稼いだ成果が掲載されています。勝負や結果は、数字を並べるだけでも分かります。しかし、その裏側を、スポーツを書く、という軸足で言葉に綴る仕事が、コラムの中には表されています。それは、テレビによる映像での表現では、決して感じ得ない内容のものです。しかし、近年、その活字メディアの特性をも脅かすことが起こっています。テレビが、ロッカーの中をも凌駕しつつあるのです。ドキュメンタリーという視点から、競技の裏側にある選手の表情や、心情を、テレビカメラは映し出すようになっているのです。放送権という観点からの言及は、別の機会で取り上げますが、ここにも、報道と娯楽の見えるようで見えない壁が、活字メディアには大きなジレンマとして立ちはだかっているようなのです。番組とはいえ、それは報道、ということでの成果なのか?。はたまた営業努力としての番組作りの成果なのか?。その辺は、受ける側の選手や大会主催者としてのモラルや考え方ひとつで、どうにでもなるような時代になってきているのかどうか?。私にも違和感が常に生まれるところです。
スポーツイベントの現場で、新聞や雑誌の記者からは、時に、本当に助けになるアドバイスを頂くことがあります。しかし、テレビの取材陣とは、どうしても一線を画してしまう。私も活字派なのでしょうか?。最近の悩みです。
posted by umekichihouse |06:18 |
メディアとスポーツ |
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2009年03月20日
部活の数が減少し、特に運動部の指導教員に掛かる負担が増大している。それは、部活に関わらず、教員が抱える日常の仕事量の増大、そして、指導教員の置かれた環境、つまり、制度そのものにも起因しているようで、少子化が進む中、日本のスポーツの普及の根底にあったはずの部活は、その裾野をしぼめる傾向にあるように感じます。今回は、このブログを通してお会いする機会を頂き、スポーツビジネスに関する教育や、スポーツの指導、強化という現場について、いろいろとお話させていただく機会がありました、お二人の大学の先生にお聞きしたご意見をご紹介したいと思います。お一人は、和光大学経済経営学部准教授で、スポーツビジネス論を担当されている原田尚幸先生です。そして、もうお一人は、愛知学泉大学経営学部准教授で、バスケットボールコーチ論などを研究分野とし、実際に男子バスケットボール部の監督を務められている山本明先生です。お二人には、あくまでもご好意で、中学や高校の部活の現状を、指導教員の在り方や、指導教員が現実に直面している課題などを前提として、いろいろとご意見を賜りました。
JOC、日本オリンピック委員会のゴールドプラン専門委員会「国際競技力向上のための諸問題検討プロジェクト」メンバーや、日本プロスポーツ協会のキャリアサポートセンター運営委員なども務められている原田先生には、スポーツビジネスを研究されている立場から、以下のようなご意見を頂きました。
原田先生は、「実績のある指導者、充実した施設と設備、そして奨学金や遠征費のサポートなど、タイガーマスクの『虎の穴』のような学校と、そうでない学校の二極化は、今後も進むものと推察される」、とした上で、学校の部活に競技力を担う役割は限定的である、と述べられています。それは、顧問教員の存在による影響力が大きく、継続性や一貫性に乏しいから、ということです。つまり、学校教員のマニュアルとも言える学習指導要領に明確な位置付けがない課外活動としての部活に、競技力向上を期待するのには限界がある、ということです。
更に、JOCのプロジェクトメンバーの立場から、日本のスポーツ界が求められている国際競技力の向上という視点では、学校の部活よりも競技団体を主体としたジュニア期からの育成プログラムの開発、展開が図られている、とも述べられています。確かに、サッカー、バレーボール、新体操などは、マスコミ報道でも取り上げられた経緯がありますが、英才教育的な選手の育成や強化におけるプログラムが、競技団体主導で進められているケースも出ています。昨年4月からは、ナショナルトレーニングセンター(NTC)を拠点として、JOCが運営する“JOCエリートアカデミー事業”もスタートしました。では、スポーツの普及という側面での学校の部活についてはどうか?。
原田先生は、これに対しては、2つの側面からご意見を頂きました。教員側の事情と、子供を取り巻く環境の変化、ということです。教員側の事情ということでは、特に、教員としての日常の業務が多忙であり、自己犠牲的な取り組みをしないと、部活の指導まで手が回らないのが現状であるようです。手当てなどの金銭的な補助があったとしても、その犠牲の度合いを補うことは難しいのでないか・・・、とも述べられています。また、これは後述の山本先生ともご意見が一致するところですが、教員のやる気の問題もあるといいます。半ば強制的に担当させられていたり、やむを得ず希望とは異なる部活の担当にならざるを得なかったりする場合もあります。原田先生は、これらに起因して、一生懸命に活動したい、指導して欲しいと願う生徒のモチベーションが低下したり、時には生徒間でトラブルに発展するようなことを危惧されています。やる気の問題は、当人である教員の問題だけに止まらず、生徒にもその影響が強く及ぶことで、決して教員の自己責任に留まる問題ではなく、時には生徒の保護者との軋轢を生むことも有り得るようです。
子供を取り巻く環境ということでは、生徒の部活動に費やす時間が減少していることに注目されています。ベネッセ教育研究開発センターのデータ(2005年)によると、受験対策のために塾に通う生徒の割合が、中学1年生では36%、中学2年では約半数の44.9%、そして中学3年では59.4%と6割にもなっており、これでは、あくまでも課外活動である部活動に費やす時間が少なくなるのも当然でしょう。また、同センターの2007年のデータでは、小学5年生の男子生徒の65.4%が、スポーツ系の習い事、つまり、水泳、柔道、体操、野球、サッカーなどの地域のスクールなどに通っている、という調査結果もあるそうです。そしてこの数値は、10年前と比較すると10%も高いものになっているそうなのです。以前取り上げさせていただいたスポーツライターの生島淳氏のコラムでも、、「北京五輪のメダリストを見ると、部活動育ちではない選手が増えている」、として、スイミングスクールや町の道場、親子での師弟関係の中でのトレーニング環境などが、メダリストの競技環境としてのベースになっていることを述べていましたが、生徒の保護者が望むスポーツの指導環境は、もはや学校の部活にはないことを、保護者が見限っているのかもしれません。また、スポーツを通して健康になって欲しい、たくましくなって欲しい、という目的意識と、どうせやるなら子供を勝たせてやりたい、強くしたい、という目的意識の、保護者の二極化も進んでいるのかもしれません。もちろん、このことを突き詰めれば、家庭の経済力や生活環境にも及ぶ課題に行きつく可能性もあり、単に学校の制度や教員云々というレベルを超えた問題になるのかもしれません。
では、実際にスポーツの指導の現場に立ち、また、指導者に対する講習会の講師なども務めていらっしゃる愛知学泉大学の山本明先生のご意見をご紹介したいと思います。山本先生からは、指導の現場から見た中学や高校の先生方の姿や意識を、率直に述べていただきました。また、社会人としての教員となる直前の学生を受け持つ立場としてのご意見も、忌憚なく述べていただいています。
山本先生の最も強調するところは、教育者の質の変化です。意識の変化と言えるかもしれません。これは、勉強や学習という側面からの教師としてのテクニック的なものではなく、所謂「先生」としての資質のことを仰っているのです。山本先生は、運動部を担当する教員が生徒を指導していく上で、ひとつの考え方を明確に持っていらっしゃいます。「指導する立場の人間が、選手を育てようと思えば、選手の人間性を高める教育を行い、選手がスポーツに対して取り組む考え方や態度を方向付けてあげるべきであり、それこそが勝利にも繋がり、スポーツの価値をも感じる道だと思っている」。つまり、技術とか戦術とかいう以前に、人間そのものの価値を伸ばし、向上させていくための哲学なり、方法論なりを、指導する側がしっかり持つことが重要で、その結果は自ずと付いてくる、ということなのだと思います。実際に、バスケットボールというスポーツの部活を担当する先生方に対する指導をされている立場として、最近では、コーチングの哲学のようなものを、まず伝えることに重きを置いているようです。
以前は、山本先生も、スポーツを専門的に経験したり学んでこなかった先生方に対して、どのようにして子供たちを育てていって欲しいか、などということは真剣に考えていなかったそうです。しかし、そうした先生方に対する講習会などを経験する中で、その立場が考え方を変えさせた、ということのようです。「技術や戦術論は、やる気があれば勉強できる。大事なことは、チームを作ること。チームを作るために選手たちに何をしなければならないかを教えること。これがまず大切なことです」。経済産業省では、“社会人基礎力”というものを提唱し、これを大学と企業が連携して企業が求める力を大学で養って欲しい、ということを打ち出しているということです。山本先生は、これに当たるのが、先の“チームとして働く力”だと言います。部活は、個人競技のスポーツであっても活動は団体活動であり、それはチームとしてのものです。
確かに、私も社会に出て、良い意味での組織力の強さ、というものを学びましたし、肌で感じてきました。そこには、自分の力を活かせる組織か否か、自分を活かすためにはどうしたらいいか、そして、強い組織にするために自分は何が出来るか、ということを考えさせられる場面が多々ありました。私も組織を預かる立場に置かれたこともあるので、山本先生の仰る“チームとして働く力”というのは、それを構築していくのも、育てていくのも、それ程簡単ではない、と認識しています。組織を強くするために、時には人間としての個性を削ぐ判断に迫られる時もありましたし、それでいいのか?、と自分自身で葛藤したこともあります。昔は運動部に在籍していた学生は就職に有利だ、と言われていました。それは、根性とか、我慢とかいう精神論的なものが根底にあったことは間違いありません。しかし、いまこうして考えてみると、“チームとして働く力”が身に付けられていた、ということも大きな要因だったのでしょう。中学の部活に関してこうしたことまで考えるのが、適当かどうかは分かりませんが、少なくとも、人間力という側面としては、ひとつの大きな要素であり、育てるべき資質のひとつであることは間違いないようです。
しかし、山本先生は、現在の教育界、特に部活をテーマとするならば、教員の評価というものは、“育てた指導者”よりも“勝たせた指導者”に対するものの方が高い、という考えも一部にはある、と言います。また、このように考える指導者も多いそうです。選手のための部活ではなく、指導者の功績のための部活。決してそれだけではないと思いますが、そうした意識に向かわせる学校経営や、保護者の存在があることも無視は出来ないでしょう。それが、勝利至上主義を生み出す要因のひとつになっていることも事実だと思います。外部から指導員を招聘して部活の存続を維持しようとする動きは、山本先生の地元である愛知県では、かなり以前から取り入れられているそうです。東京都では、ようやく来年度からその制度が導入される、という報道がありました。しかし、私は、ひとつ間違えると、外部からの指導員の招聘には、先に述べたような勝利至上主義を生み出すキッカケになるような危惧も感じないではありません。指導員そのものに対する評価の基準や、その評価に対する考え方の問題だと思います。
山本先生は、“人を育てる”という意識を持った教員が少なくなった、と言います。法制度(個人情報保護法など)の改訂などによる業務体系の変化や複雑化が、教員の仕事の現場をますます忙しくさせていることは確かなようです。しかし、それが教育の質を低下させる原因になっている、ということはなかなか言えないでしょう。それは、制度が制度を否定してしまうことに繋がるからです。また、教員はサラリーマン化している、とも言われています。サラリーマンであって、何が悪い?、という教員もいるかもしれません。それも否定は出来ません。ただし、その否定できないところに、問題の根源があるようにも感じます。私のような教育の素人には、そこまでしか言えませんが・・・。
現在は随分と様相を変えてきていますが、かつての日本のスポーツのトップは企業スポーツが支えていました。そして、日本のスポーツの底辺を支えていたのは、中学校や高校の部活です。その証拠に、各競技団体に登録されている競技人口は、基本的には学校の部活に所属する生徒たちの数が大半です。その部活が減少しているのは、間違いのない事実ですし、今後はますますその減少は進むことも間違いありません。原田先生は、現在の実情から、生活環境などを含めた時代の変化が部活の在り方を変えている、と仰っているように感じました。また、山本先生は、教員の意識の変化(質の低下ということも含めて)が部活の在り方を変えつつある、と仰っているように捉えました。何れにしても、まだまだ決定的な解決策は見つからないでしょうし、都市、地域によっても実情は随分と異なっているようです。お二人のご意見をお聞きして、ますます事の深刻さを痛感させられました。
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2009年03月19日
日本コカ・コーラ社は、新入学シーズンに行うスポーツ飲料“アクエリアス”のキャンペーン・テーマに、部活を取り上げるようです。部活という日本のスポーツの底辺を支えるパワーに、日本独特のスポーツ文化を感じ、部活のチーム単位での応募によって、チームで使えるボールやテーピングキットなどの実用品をプレゼントするなど、今度は、部活を支援することで、日本のスポーツを盛り上げようとしているらしい、ということです。日本を代表するアスリートたちをCMキャラクターとして採用し、CMなどの広告展開を実施してきたアクエリアスのキャンペーンとしては、地味なテーマのように思えますが、それだけ、日本の“部活”の存在は、パワー溢れるものなのです。世界的な不況の中で、明るくフレッシュなイメージを、新入生を迎えて新しい活動を始める部活に求めようとしているのも、新学期の活気溢れる学校の賑わいを想像すると、なんとなく分かる気がします。
ナイキジャパンも、日本市場独自の商品展開として、“部活”をテーマとした戦略を打ち出していました。ブカツ。シューズの商品名にまで登場した部活の存在感は、外国人のマーケッターから見ると、パワー溢れるものに見えるほど、特異なものなのかもしれません。確かに、日本のスポーツ界で、高校スポーツに対する注目度は、多くのスポーツ競技で高く、全国大会の会場は、トップリーグの試合会場よりも多くの観客で溢れかえります。高校野球の甲子園はもちろんのこと、バレーボールの国立代々木競技場第一体育館、バスケットボールの東京体育館など、大会期間中に閑散として客席を見ることは絶対になく、テレビでの中継も、プロスポーツ以上の体制となっています。そして、大学スポーツですら、その集客力にはかないません。事実、先のコカ・コーラも、ナイキも、高校スポーツの大会に協賛することを重視しており、長年に渡る支援活動を継続しています。
全国大会に出場する高校を、その地域住民がこぞって応援する姿は、アメリカのカレッジスポーツを地域の住民が応援している姿とダブっているように見える、とアメリカ系企業のマーケッターは言います。当然そこには、高校生という直接的なターゲットもいるのですが、彼らを応援する裾野が広いことこそが魅力なのです。そして、そうした中にある高校生たちのスポーツに対する純粋でひたむきな姿が、商品の持つ特性やイメージにピッタリでもあり、その効果を、広い裾野に浸透させていく力が、高校スポーツという市場にはあるのです。また、全国の強豪校のユニフォームとそっくりのデザインのユニフォームを、誇らしく着ている同じ地域の中学校がある、なんていうこともよく聞く話ですから、同じスポーツに取り組んでいる後輩層に対する影響力も大きく、高校スポーツの持つ波及力は、本当に高いものだと言えます。
学校の部活を舞台とした青春ドラマも、過去にも、また、最近でも、数多く制作されてきました。私は、“飛び出せ青春”や、“われら青春”の世代なのですが、これらのドラマを見て、ラグビーやサッカーを始めた人も多かったと思います。部活という存在は、学校生活の一部であるのですが、何か独特の思いがあることを、最近年を重ねるごとに感じますし、学校生活で思い出すのは、勉強している教室の様子よりも、やっぱり、部室や部活中のグラウンドや体育館の風景や匂いなんかではないでしょうか?。そんな思いを残せる場だからこそ、部活に、日本人は特別の感情を移入しているように、外国人から見ると感じてしまうのかもしれません。そして、部活は、ビジネスのテーマとしても、十分活用できるほどの訴求力あるもの、ということなのです。
前々回、前回と、部活を巡る些か暗い話題を取り上げましたが、いま部活が抱える課題の元には、一言で言うと、部活を運営を担う先生方の存在、立場の危うさがあります。それは、金銭的な問題を解決すればいいものでもなく、休暇などの勤務条件の保障ということだけの問題でもありません。課外活動を民間企業のような残業代や休日出勤手当てを持って保証するだけでは、休みが取れない過酷な勤務状況を改善するものにはなりませんし、意欲のある若い先生方の希望に沿った赴任状況を保障したとしても、それは全体としての不公平な状況をつくってしまうことにもなります。生徒たちは、部活に熱い思いを傾けますが、それを指導する側の先生方の体制に、まだまだ現実的な打開策を見出すことはできていない、というのが現実です。マーケティング上の戦略的な視点からも、部活は大きなパワーを生み出している存在としてクローズアップされるほど、魅力ある“仕組み”なのです。人が集まり、常に何かが生まれ、そして何年も何年も脈々と受け継がれていき、伝統というもので語られるようになります。毎年毎年顔を変え、毎年毎年新しく生まれ変わります。しかし、その仕組みの骨格であるべき部活担当教員としての先生方の存在や立場が危ういならば、部活は新しいものを生み出す力を失います。
マーケティング上、部活の魅力は、全国各地で、日々絶えることなく継続されていることでもあります。その集大成が、スポーツで言えば全国大会であり、そこに向かうプロセスが、多くの人々の心を引き付けます。企業が高校スポーツなどの部活の存在にビジネスチャンスを見出していることは、そこに活動を支援してくれる資金が投下される、もしくはされる可能性が高い、ということであり、極端に言うと、中学や高校の部活を活性化していくことは、中学や高校におけるスポーツの育成、強化、普及という活動を、より拡大していくことに直結されるのです。もし、部活の衰退が止まらなければ、日本のスポーツの底辺を支えている大きな市場を、中学や高校の教育現場自らが失わせることになる、と言っても過言ではありません。部活のパワー。それは、日本独特のスポーツ強化・育成の源であるのです。そして、部活を衰退させることは、日本のスポーツの将来を衰退させることに繋がりかねません。
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2009年03月18日
前回、公務員としての教員の宿命である異勤によって、部活の指導教員がいなくなってしまい、やがて休廃部に追い込まれる部活の実情について取り上げましたが、今回は、もっと深刻視されている部活担当教員の、過酷な勤務実態による部活運営の疲弊について取り上げたいと思います。子供たちの部活動を支える立場であり、彼らに単なる技術的な指導をするだけではなく、課外で常に子供たちと一緒に行動している先生方は、特に公立では、ほとんどボランティアに近い勤務実態であると、マスコミにも取り上げられています。部活についての報道記事を、過去2~3年に渡って調べてみると、特に家庭を持ち始めたくらいの若い教員が、その実態の真っ只中にいることが多く、土日などの休日も、練習や、遠征試合や大会出場などの時間に当てられ、月に1度の休みがあるかないか、という部活担当教員もいる、ということも、記事の中には切々と語られていました。
また、若い、という理由だけで、特に運動部などの顧問になるケースも多いらしく、更には、全く担当するスポーツの経験がないのに担当させられ、挙句には、試合に負けたからと言って父母から文句を言われ、もっと練習させろ、と言われる始末らしいのです。これでは、子供たちの指導以前に、部活そのものが、本来何のためにあるのかも分からなくなってしまいます。私立の学校は、運動部の成果を学校のPRとして活用するための目的にしているところも多く、そのために、指導経験や実績のある先生や、部活指導専門の職員として人材を雇い入れているケースも多々見受けられます。しかし、公立の学校では、スポーツなどで全国レベルの力があり、例外的に市町村や都道府県の教育委員会の特例措置でもあれば別ですが、定期異勤は、部活動の云々の実態に関係なくやってきますし、そもそも部活は、文部科学省が定める学習指導要領に明確な位置付けがなく、顧問の自主的な活動とされている、ということを知って、驚くより呆れてしまいました。そのような実態の中で、部活が日本のスポーツを支えているとか、日本のスポーツ強化の底辺だ、と言うこと自体が間違っているのですね。ほとんど手当てもなく、場合によったら遠征用のガソリン代を教員自ら負担しているケースもあるということで、待遇面でも、部活の運営体制という組織的な支援の面でも、現状の課題を解決する施策を見出していかなければ、生徒だけではなく、先生すら部活から離れてしまうのではないでしょうか。もちろん、高い志をもって、子供たちの指導に情熱を傾けている先生方の姿を、全国大会の場では良く見かけることができます。しかし、それは、ほんの一握りの例でしかないのです。
私も、小学4年から部活動に勤しみ、サッカー、そしてバスケットボールと、勉強もせずにグラウンドや体育館を走ってばかりいました。そこで得たことや、仲間と一緒にひとつの目標に向かって頑張ってきた経験は、いまだからこそ、本心から貴重なものだったと思っています。しかし、残念ながら、私には本当に心から尊敬できる先生に教えられた、という実感が、あまりありません。社会人になって、仕事で高校生のスポーツ大会の運営等に携わっている時、彼らが全国の舞台で活躍している姿や、ベンチで指揮を取っている颯爽とした監督の先生方を見ていると、“あんな先生に教えて欲しかったなあ・・・”、と切実に思うことがあります。そういう意味では、尊敬できる先生に指導してもらって、自分の力を伸ばせる環境にいる公立の中学生や高校生、もちろん小学生は、全国ではほんの一握りの存在なのかもしれませんが、本当に羨ましい限りです。
一方で、教師自ら、得意なことすら部活で活かせない学校の制度のあり方は、ある意味で、学生時代に夢を持って部活の指導にも立ち向かおうとしていた若い先生たちの芽を、摘み取っているものなのかもしれません。先生がいないのではなく、自分の特技や経験を活かすチャンスが与えられていないのです。新潟県で、地元の大学教授が、数年前に調査した結果では、中学バスケットボール部の指導者90人を対象として競技の経験度を尋ねたところ、なんと31.4%の教員は未経験者だったということでした。新潟県は比較的バスケットボールというスポーツが盛んで、中学や高校でも、全国の上位クラスの実力を持っていると言われています。この約3割の高校でバスケットボールをやっている中学生たちは、果たして、高校生になってもバスケットボールを続けようという気持ちが沸いてくるのでしょうか?。もちろん、未経験が悪いわけではありませんが、スポーツの育成や強化という視点で、中学や高校の部活を語るならば、これは生徒たちにとって好ましい現状ではないことは間違いありません。未経験の先生には、やはり、経験者の先生よりも何倍もの負担が生じる、と実際に未経験ながら部活を担当している先生のコメントもありました。そして、そうした課題の解決策として、学校の外部に指導者の派遣を要請しよう、という動きが始まっているのです。しかし、前回も述べたように、生徒と指導者との信頼関係は、学校という場を前提として考えると、果たしてそれでいいのか?、という疑問も私にはあります。地域に総合型地域スポーツクラブなどの活動組織があるところでは、学校のクラブに代わって、生徒にスポーツ活動の場を見出そうとしているケースもあると聞きます。ただし、部活動の指導に夢を持って教員になる若い先生方の気持ちは複雑です。「部活は生徒と教師の人間関係づくりに欠かせない場所だ」、という声があります。また、「クラブの掲げるスポーツ活動の普及、という理念は分かるが、大会で勝つことを目標にして活動することも当然で、そこから得られる経験は、大会に参加できる立場にある学校の部活にしかありえない」、という声もあります。
もし本当に、“スポーツ立国ニッポン”を掲げるならば、金銭的な待遇改善だけの問題ではなく、組織的な支援体制を、部活の場に構築していくことこそが、まずやらなければならない課題なのかもしれない、と考えるところです。
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2009年03月17日
昨年末、東京都教育委員会の発表した中学校における部活動の現状に、驚きました。都内にある約645校(2006年度調査)の公立中学校の内、毎年300以上の部活動が休廃部しているそうです。原因は、顧問教員の異勤や部員の減少ということ。少子化が問題視されている中で、子供たちの数そのものが減少していることは、さまざまに報道されていますから、理解していましたが、部活動を指導する先生方の異勤によって部活動がなくなってしまう現象が生まれていることに、些か驚きを感じました。東京都教育委員会では、部活動を存続させるため、教員の異動など学校側の事情で休廃部となる年間約200の部活動に絞り、来年度から部活指導を委託している「外部指導員」の報償費を補助する方針を決めた、ということで、外部指導員の活用を促しても、休廃部を食い止めようとしているようです。ちなみに、東京都が用意する「外部指導員」の報償費に対する予算は、5,400万円ということで、この額が適正なのか少ないのかはわかりませんが、外部指導員に頼らざるを得ない実情は、教員のあり方や、元々は、教育政策に何らかしらの欠陥があったとしか思えないような事態を想像させます。
過去に5年ほど遡って調べてみると、2004年度には331、2005年度には336、そして2006年度には320、ということで、このままの状態では、都内の中学校から部活動がなくなってしまうのでは?・・・、というくらいの数値です。また、先の休廃部数の内、それぞれ220以上もの部活動は、顧問教員の異勤などの学校側の事情で休廃部に追い込まれているようで、これは教員数の問題よりも、経営的政策の視点での問題であることが明白でしょう。
2013年には、国体が東京都で開催されます。以前、ボート競技関係の調査をしていた時に聞いた話ですが、都内にはボート部を有する高校がゼロになっていたそうです。国体開催もあり、その状況を危惧した関係者は、都内の3校(確かその程度だと記憶していますが・・・)を指定校としてボート部を作り、そこからインターハイや国体を目指す選手を発掘していこう、という取り組みをしているそうです。笑い話ですが、部に入れば、インターハイ出場確実、というのが謳い文句だったとか???・・・。2016年にオリンピックを開催しようとしている東京都の、こうした末端のスポーツ育成環境を考えると、オリンピックの前にもっとやることがあるんじゃないか?、とも考えてしまうほど、恐らく事態は深刻なのだと思います。もちろん、私は東京でオリンピックを開催することは賛成なのですが、それは、7年後にその主役、もしくは準主役としての世代である小学生、中学生、高校生たちが、夢を持ってスポーツに打ち込める環境があってのことであり、いまの現状では、7年後どころか、10年以上たっても、現状は何も変わっていないようにも感じてしまいます。
確かに、総合型地域スポーツクラブがさまざまな地域に設立され、そこから地域の学校に指導者が派遣されていく、という人材の循環的な活用ができていけば、総合型地域スポーツクラブの存在意義も高まり、また、そこに新たな収入源を生み出すことができるかもしれません。しかし、それは、指導者や指導員となれる経験や資格を持った人たちが、職業として関われる実態があればこそのことで、現実は、それもまだまだ途上の話しです。東京都教育委員会は、予算を確保して指導員の派遣を進めていく、としていますが、単にお金の問題とか、急場凌ぎでの、外部依存だけの薄っぺらな施策ではなく、本来は、部活動を踏まえた能力や経験のある教員の採用や、また、特定の部活動運営能力のある教員を対象として、異勤の停止などの根本的な対策が必要なのではないでしょうか?。もし本当に、都民がこぞってオリンピックを応援するムーブメントを作りたいならば、もっと都民の生活や教育の現場レベルから、目に見える形での取り組み方を模索していった方が、現実味があるように考えるところです。
2月7日の朝日新聞の別刷りに掲載されていたスポーツジャーナリストの生島淳氏のコラムに引き付けられました。コラムの中で、生島氏は、「北京五輪のメダリストを見ると、部活動育ちではない選手が増えている」、として、スイミングスクールや町の道場、親子での師弟関係の中でのトレーニング環境などが、メダリストの競技環境としてのベースになっていることを述べています。そして、その競技環境の中では、指導者が長期に渡って選手のコーチングをしており、逆に、中学校では、学校や教育組織の都合による教員の異勤のために、10代前半の重要な時期に、指導力の安定性が保障できなくなる、とも述べています。確かに、私立高校は、スポーツチームの強化によって、新入生の確保や学校の名声という実利を得ることが出来るため、特にスポーツ系の部活動では、優れた指導力のある教員や職員を、その指導に当たらせています。当然のことながら、少なくとも、在学中の3年間は、一貫した指導が受けることが出来ます。しかし、それでも3年という期間は限定されてしまうため、先のスポーツクラブ型の育成環境には遠く及ばないのです。水泳や陸上、柔道やレスリングなどの個人競技は、球技などの団体競技以上に、長い時間の中での一環指導が大切だといわれます。選手のことを理解すること、そして、その成長度合いを常に把握できる環境にいることこそが、選手育成のカギだからでしょう。
生島氏は、コラムの最後で、こう述べています。「最終的に部活動に参加するかどうかを決めるのは生徒の判断である。しかし、受け入れる側の体制を整備する努力は続けなければならない。それは大人の仕事なのだから」。部活動の現象や、その流れに歯止めが掛からないのは、生徒の責任ではありません。確かに、外部に安定的な指導員を求めることは、ひとつの正論かもしれません。しかし、教育や育成という観点を無視した技術論や戦術論だけでは、部活動の意図を見失ってしまいます。教育委員会の皆様、それを考えるのは、皆さん大人の仕事なんです。
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2009年03月16日
ワールド・ベースボール・クラシックに出場する日本代表、“サムライジャパン”に注目が集まる中、見事に連覇したならば、今シーズンのペナントレースにも、より多くのファンが集まるでしょうか?。それとも、注目の目は、ますますMLBへと注がれるのでしょうか?。何れにしても、今年も、新しい野球シーズンが間もなく始まります。
観客動員数としては、セ・リーグに約250万人ほど、まだ差があるパ・リーグですが、各球団とも、さまざまなアイディアを駆使しており、前シーズンを確実に上回る結果を残しており、今シーズンもより一層の集客を目指しているようです。そうした中で、先頃、パ・リーグ6球団による共同事業会社、パシフィック・リーグ・マーケティングは、リーグ共同の企画として、フィギュア付チケットを発売しています。既に、対象試合の一部は完売しているということで、ファンのみならず、マニアにも受けているのかもしれません。この企画は、単独ではさまざまな景品を付けて、チケットの販売促進策に生かしているこれまでのケースと異なり、6球団共同の企画ということで、対戦相手の選手のフィギュア1体と、ホームチームの選手1体の、2体が1セットでもらえるところが特徴になっています。フィギュア付チケットが売り出されるカードは特定されており、特に集客が伸び悩むウィークデーのカードがその対象となっているようです。チケット価格が通常と同じでも、ファンやマニアには、チケットを購入しなければもらえない希少価値があり、また、6球団の対戦それぞれに、ホームとビジターのユニフォームも異なっているなどの細かい配慮もあるようで、すべてのフィギュアを集めようとする熱狂的なマニアも出てくるかもしれません。
スポーツイベントのチケッティングは、以前にも取り上げたテーマですが、最近は、観客動員をより積極的に考え、そこに科学的な戦略やマーケティングを取り入れている傾向が、数多く見られるようになりました。Jリーグでは、毎年のように観客調査を実施するなど、各球団のみならず、リーグとしての取り組みも、以前より活発になってきているように思われます。先のフィギュア付チケット販売企画のように、ひとつの球団や、ひとつの対戦カードだけでは、集客効果を持続できない場合でも、リーグ全体の取り組みにより、その効果を、シーズンを通して結果が得られるような長期的なものにしていけるチャンスが生まれてきます。また、そうした企画の実施の過程では、ターゲットインサイトという戦術も必要になることが実践で理解され、より効率的で効果的な戦略が具体化できる場合もあります。つまり、アイディアがいくら素晴らしくても、そのアイディアを誰に向けて打ち出していくのが不明確であれば、アイディア倒れに終わってしまいます。また、ターゲットがしっかりと見定められていても、そのターゲットに対して的確なアイディアがなければ、宝の持ち腐れになってしまいます。精度の高いターゲットインサイトと、的確なアイディアが、同時に企画としてなければ、その企画は、効果性のある企画としてはその実効性を持たないのです。
スポーツイベントやリーグのチケッティングは、基本的には、シーティング(座席配置)、プライシング(価格設定)、そしてセールスチャネル(販売場所や流通網)が基礎となって計画が立てられますが、これは、計画上はキチンとした内容であるようで、実は、買ってくれる人の顔を見ていない場合が多いのです。集客力があるイベントやゲームであれば、何ら問題はないでしょう。しかし、特に日本国内のプロ以外のスポーツリーグの場合、子供たちのために低価格のチケットを用意しようとか、コアファンのために選手に近い場所のチケットを用意しようとか、あるいは、日頃行き慣れているスポーツショップでもチケットを取り扱ってもらおう、などという、小・中・高校生向けの対策は取っていても、大人向けの一般ファンを動員するための施策は、あまり具体的に見られません。また、チケットエージェンシー経由でのオンライン販売に乗せてしまえば、後は“お任せ”的な販売対策しかしていないケースも少なくありません。更に、地方都市での開催の場合は、販売チャネルに関しても、ままならない環境にあるケースが少なくありません。これは、単発のゲームを対象とした興行では、ターゲット論を生かしたアイディアなど、考える余裕もないからで、中期スパンでのリーグとしての戦略構築が、絶対的に必要なのです。
◇チケットを買ってもらいたい我々のターゲットは誰なのか?
◇我々の競合するエンタテイメントは何なのか?
◇ターゲットは我々にどの程度の価値観をもっているのか?
◇ターゲットの我々に対する理解度とはどのようなものなのか?
◇試合を観戦する目的は?(選手の応援、チームの応援、スポーツ観戦、暇つぶし・・・)
ターゲットの個性を分析すれば、ターゲットに対してどのようにアプローチすればよいか、ヒントが生まれてきます。先のフィギュア付チケットを購入している人の中には、その特典付チケットを、買うこと自体を楽しんでいる人もいると思います。希少価値の高い商品を買う人の中には、そうした人が少なからずいるからです。しかし、チケットを買っても観戦に訪れなければ、それは別の問題ですが、そういう人もいる、ということを認識しておくことも、アイディア創出の上では重要でしょう。そして、ターゲットにアプローチする段階で、次の仕掛けが必要です。それは、集客効果を広く拡散していくことです。つまり、同伴率を引き上げていくために、グループ観戦やファミリー観戦に適したアイディアを付加していくことです。更に、リピート率を引き上げることがありますが、これはチケッティングというよりは、興行運営全体で考えなければならないことなので、ここでは省略します。
フィギュア付チケット販売企画は、どの程度当たるのか!?。リーグ共同企画としての効果の程に、興味深々です。
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2009年03月15日
世界的経済不況の嵐が、ますますその勢いを増している中で、販売件数を激増させているものがあります。都道府県や市町村の自治体が所有、管理する公共施設などのネーミングライツ、命名権の販売です。最近では、道路や公衆トイレ、更には鉄道の駅舎ですら、その対象になっているというのですから、些か驚きです。しかし、命名権販売の件数が増えているからと言って、それに比例して契約成立件数が増えているのか?、というと、それはまったく逆の現象になっています。2007年の命名権販売の件数は、59件だったそうですが、その内、契約が成立した件数は、59%。約6割の35件でした。2008年は?、というと、販売件数が60件、契約成立件数は、35%の21件だった、ということです。数値から言うと、激減しているのです。また、今年に入っても、命名権販売を告知する件数は順調?に伸びており、これだけは不況知らずなのか、世間知らずなのか、売り出す側の自治体の安易な発想が、あからさまに無策ぶりを語っているようにしか思えません。
ネーミングライツ、命名権については、以前にも取り上げましたが、その際には、スポーツイベントなどへの協賛と同じように、スポンサーシップの一種である手法のような考え方に、個人的な疑問を呈しました。そもそも、アメリカで始まったネーミングライツ商法は、施設の建設費を企業の援助によって抑制しようとして始まったもので、例えば、100億円の建設費の内、50億円をネーミングライツで企業に負担してもらう代わりに、向こう20年間は、施設の名称を企業の社名やブランド名を付して使用する、といったビジネスモデルでした。税金の負担を少しでも抑制しようとする発想の根源は、現在日本で行われている命名権乱発の発想とも共通するところです。しかし、日本のほとんどのケースには、“レガシー”がありません。単に、税金を使わずに施設の維持管理費を調達したいから、とか、修繕費や改修費を調達したいから、とかいう発想だと思います。つまり、その場凌ぎでしかなく、欧米のネーミングライツ導入のケースのように、アリーナやスタジアムの周辺の都市開発までを考えた構想であるとか、大きなイベントの招致を踏まえた集客装置としての開発までを考えた構想であるとか、施設の周辺住民への利益還元や、その後の施設運用に関する利便性の向上など、ネーミングライツでセーブされた資金の有効活用などと言った高尚な発想は、何処にもないように思われます。
先頃、宮城県利府町にあるホットハウススーパーアリーナの命名権の契約更新が断念されました。仙台市の不動産会社であるホットハウスが契約の更新をしなかったのです。年間2,000万円の3年契約。お隣のスタジアムを含めて、広大な敷地の中にある宮城県が作った総合運動公園であるグランディ21は、交通の利便性が悪く、いまだに施設の利用率は改善されていないようです。当然のことながら、せっかくの命名権も、何の意味もありません。年間2,000万円と、考え方によっては破格の金額だと思いますが、周辺の交通標識にも“ホットハウス”の社名が表示され、形的には体裁のとられた契約の履行だったと言えるかも知れません。しかし、問題なのは、施設そのものの運用方法にあります。集客装置としての機能が、ほとんど未開発であり、たまに行われるコンサートでの会場名としての露出があるくらいで、恐らく、命名権の波及効果を調査すれば、その結果は散々なものでしょう。つまり、安かろう悪かろう、で終わってしまっていたと思います。問題なのは、宮城県の命名権に対する考え方そのものの誤り、ということなのではないでしょうか?。
一方で、仙台市が所有するユアテックスタジアムは、J2ベガルタのホームスタジアムとして、仙台市の中心部からの交通の利便性も良く、プロチームのホームということで、年間を通して集客装置としての機能が働いています。プロチームとしての興行の拠点であるということもあり、命名権パートナーに対しての、それなりの対応も整えられていたのではないかと想像します。事実、年間7,000万円で3年の契約は、今季も更新されています。ホットハウスとユアテックの企業力の差、とか、考え方の差、ということでないことは間違いありません。もしそうならば、たった1期で契約の更新ができないような企業を選択した、行政側にこそ問題があります。しかも、契約料は3倍以上も違うのですから・・・。この辺の状況の格差を、宮城県がどこまで真摯に把握しているのか、非常に疑問に思います。
もう直、今シーズンから使用される“MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島”がお披露目されます。年間3億円、5年の契約により命名権を買ったマツダと、売った広島市。広島市は、マツダからの命名権料を施設の改修などに当てる予定、ということですが、市民球場として、より観客サービスが向上するために使われるものでなければ、不本意にも派遣切りにあった多くの契約社員や期間社員からの不満も出てしまうようにも思います。J1清水のホームスタジアムである日本平スタジアムも、今季からは、アウトソーシングスタジアム日本平と名称が変更になりました。人材派遣会社のアウトソーシング社による命名権の導入です。契約金額は不明ですが、日本平にホームゲームを定着させて、着実にリピーターを獲得してきた清水エスパルスの努力が、この命名権の導入で、よりその効果は拡大するのか?、はたまた、ファンからはどのような意見が出てくるのか?、すべては施設の運用の中身にかかっています。そうでなければ、施設の所有者である行政の命名権に対する認識の甘さを露呈してしまいます。
いまでは、地方の貧疎な体育館にまで命名権を導入しようとする自治体が現れています。当然、応募者はゼロというところがほとんどです。不景気だから・・・、と言う自治体もありますが、その前に、命名権に対する考え方をもう一度再認識すべきではないでしょうか?。本当にその施設は、命名権を導入するだけの価値があるのですか?。
posted by umekichihouse |05:56 |
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2009年03月14日
団塊世代が定年を迎えて大量の退職者が生まれようとしている中で、一方では、少子化により、私学はもちろんのこと、公立や国立の大学ですら、入学生の確保のために、あの手この手の戦略を取り始めているようです。入学試験時期を前にした昨年末には、多くの大学がCMや広告を出稿したり、最近では、プロスポーツチームのスポンサーとして、また、スポーツイベントのスポンサーとして、専門学校や私立大学の学校名が、あちらこちらで目にするようになりました。各学校別に、企業の宣伝部並みの広報室体制を設けているところもあるようです。
4年ほど前の資料になりますが、国立大学法人の広報活動に関するアンケート調査なるものが、文部科学省から発表されています。87法人を対象としたものですが、その中で、大学全体の広報を検討する委員会を設置している大学は79法人、広報を専門に行う事務組織を設置している大学は67法人ある、という結果がありました。いまや国立大学ですら、法人化されて以来、経営という観点から逃れることはできなくなっています。そして、受験料収入の源である受験生の確保、そしてもちろん入学生の確保に、各大学は、一般の民間企業と肩を並べて、広報戦略を考えていかなければならない時代になってきているようです。最近では、外部から専門の人材を迎え入れている国立大学もあります。また、広告代理店の中には、大学や高校、専門学校などを得意先とした教育機関専門の部署を立ち上げているところもあるそうです。学校とて、自らをPRする術を知らずして、社会の中で生き残っていけない時代なのですね。また、そこに新たなビジネスチャンスも生まれてきている、とうことなのでしょう。
北京五輪を目前に控えた昨年の8月上旬、オリンピック選手を学生や職員として抱える各大学は、ここぞとばかりに壮行式なるものを開催するなどして、“わが母校のオリンピック選手”をPRしていました。応援のためのホームページを開設したり、選手を主役とした新聞広告を出稿して、大学への注目度を上げようとしていた大学もありました。「少子化で学生争奪戦が激化し、今春の入試で47%の4年制私立大学が定員割れを起こすなど、淘汰の時代を迎えており、注目度が高い五輪を利用してイメージアップを図ろうとする狙いがある」。ある新聞紙面にはこのような報道がありましたが、これは、もはやTOPスポンサーやJOCスポンサー並みのPR戦略であり、指定以外の選手の起用や所属選手の起用に関しては、現在のJOCの規定からは緩和されており、法的な問題はないとしても、所属選手を競技の場以外で、まさに広告塔として使う考え方そのものに、些かの疑問がありました。トランポリンの日本代表選手である広田選手を職員として迎えた阪南大学の関係者は、先の新聞報道の中で、このように述べています。「五輪は分かりやすく、さわやかな印象を与える。『あの選手の大学』と知ってもらえるだけで大きな効果。女子学生数アップを目指す大学の戦略にイメージも合致した」。完全に一流企業の宣伝担当のコメントですね。同じく新聞報道の中には、これらの現象に対して、関西大学教授のコメントも、次のように掲載されています。「巨大化する五輪ビジネスに大学が参入してきた。これまでアマチュア選手支援の役割は企業が担ってきたが、少子化で大学に経営努力が求められる現在、教育機関が関係者を広告塔とすることの違和感も薄れてきている」。国立だろうが私立だろうが、正直に言って、本当にこれでいいんですか?。
先頃、フィギュアスケートの安藤選手が在学し、浅田選手も入学するという中京大学が、素晴らしいリンクを完成させたことがニュースになっていましたが、確かに、大学という教育機関が、選手を育てていく練習環境を、ここまで考えているということについては、絶賛するしかありません。特に、公営や民間のリンクが減少し、練習環境が厳しくなっていることは、トリノ五輪で金メタルを獲得した荒川選手も切々と述べていたことでもあり、本来であれば、もっと国の機関が動かなければならないことでもあります。しかし、先のような広告塔扱いにしか考えていないような大学の姿を見ると、関西大学の教授が述べている「広告塔とすることの違和感が薄れてきている」、という発言の意図に、非常に不快感を覚えます。
近年、多くの大学にスポーツビジネスやスポーツマネジメントを学べる講座や学科が誕生しています。しかし、スポーツビジネスを専門的に教える、または学ぶ、という環境が作られている一方で、前述のような安易な、旧態依然とした、古臭いPR戦略を、堂々と行っている学校に対して、それら指導する教授や准教授の先生方は、何もアドバイスしないのでしょうか?。恐らく、多くのスポーツマーケティングの事例をご存知で、多くのスポンサーシップの事例をご存知である先生方が、それらを研究しているノウハウを持ってすれば、キチンとビジョンが確立されたPRなり、広告なり、イベントなりの戦略が生まれてきて当然であるようにも感じるのですが・・・。
企業スポーツは、そこで活動する選手たちの生活の中での競技生活を保障する環境を作り出しており、大学で活躍した有望な選手たちは、そこで選手生活を続けていくために入社していくわけです。しかし、大学は、最高学府であり、教育機関です。そして、そこでスポーツ活動を行っている選手たちを、育てていく義務を負っているのだと思います。「広告塔とすることの違和感が薄れてきている」、というのであれば、大学の選手たちは、大学に所属するプロ選手なのでしょうか?。大学に求められることは、よりよい練習環境を実現させて、より素晴らしい選手を育てることで、結果として、オリンピック選手が生まれたとしたならば、それは、大学の指導力だったり、練習環境の素晴らしさを誇るべきではないかと思います。一過性で選手にスポットライトを当てるのではなく、大学の持つリソースの素晴らしさを訴求することが、最高のPR戦略になるような気がするのです。
posted by umekichihouse |06:09 |
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2009年03月13日
JTBやknt!などの大手旅行会社には、インパウンド(Inbound)、つまり外国人を迎え入れて行う国際的にイベントやコンベンションなどの事業に関わる、宿泊および輸送の運営機能に対応していくための専門部署が設けられています。私も、何度か、こうした部署の方々の専門的な業務に助けられた経験がありますが、彼らの持つ専門性とは、ツアーや団体旅行の添乗サービスやガイドなどという、従来の旅行会社からイメージする業務のものとは違います。もちろん、大会の公式ホテルにおける選手や役員、関係者などの宿泊を手配したり、バスなどの車輌を手配することも含まれますが、これらはほんの一端に過ぎず、基本的には、大会などの運営業務を司る一員として、大会の運営機能のひとつとして働くことが業務の柱となります。具体的に言うと、スポーツイベントで、選手やチームの輸送のための大型バスを手配しますが、そのバスの運行スケジュールや、バスの使い方に至るまでの管理も業務として必要となります。どちらかというと、その管理業務こそが、イベント運営の際には需要になります。大会全体のスケジュールの把握や、時には、スポーツ競技そのものの知識や特性を理解していないと、対応ができない場合も出てきます。当然のことながら、大会運営で必要とされるさまざまな運営機能との連携が、さまざまに生じてきますので、イベント運営に関る知識がなければ、連携する業務担当者との会話すらできないことになります。
ある地方都市での国際スポーツ競技大会の時のことをご紹介します。大会の宿泊や輸送を担当した旅行会社は、大手の地方支店だったのですが、選手や関係者用の宿泊手配をしたまでは良かったものの、彼らの食事の用意として、すべて一律でのクーポン券の配布で対応しようとしたのです。ツアー客や団体客にはこれで十分でしょう。しかし、国際大会の場合、特に選手の食事は、体調管理や栄養学的な面で、気を使うべきもので、国際競技連盟などの主催団体によっては、食事のメニューを指定したり、事前にチェックをする場合が当たり前にあります。また、国によっては、宗教上の都合から、食べられない食材もあり、朝食にアジの干物が出たら、単なるジョークになってしまいそうです。水分補給のためのドリンク類の用意も、内容によっては含有成分などに留意する必要があります。ドーピングには抵触しないでしょうが、選手やチーム帯同のドクターなどの方が神経質に考えている場合もあります。ほんの一例ですが、これだけでも、ホテル運営を担当する専門スタッフとしては落第です。
また、大会運営専用にチャーターしたバスの運行においても、ただ時間通りに運行すれば済む話しではなく、発着場所、運行経路、渋滞時の回避策、セキュリティの必要性、積み込むべき荷物や備品の確認、競技会場のおける選手やチーム用車輌の進入動線などなど・・・、車一台の運用に関してだけでも、大会運営の生命線を握る場合もあり、連絡網を含めた管理体制は、非常に詳細な計画立案が求められます。
更には、アタッシェという、選手やチーム、審判などの競技役員、VIPなどに随行して、移動や各種サービスを請け負う専門スタッフの派遣を担うこともあります。アタッシェには、通訳としての語学力はもちろんですが、本業たるツアーコンダクターとしてのサービスノウハウ、大会運営に必要な情報のやり取りと集約、そしてホテルや競技会場の中での案内や補助業務に至るまでの、さまざまな作業が要求されます。大会運営を管理する立場からすると、アタッシェという存在は、選手やチーム、競技役員やVIPとを繋ぐ重要なコミュニケーションラインであり、まさに猫に付ける鈴のような存在です。彼らからの連絡ひとつで、競技会場内の運営体制を動かす必要にも迫られるのです。旅行会社は、ツアコンを含めて人材派遣的なサービスも請け負うこともあるようですが、まさにその機能が、イベント運営の現場では活かされます。
また、VIPなどの要人、来賓のためのプロトコール業務が必要なケースも大きな大会ではありますが、それは、競技会場のみならず、本部機能を設置するホテルはもちろんのこと、空港や鉄道の駅の中にも必要となることがあります。空港で到着したVIPを、事前手配で用意した車輌に乗せ、ホテルに送り届け、そして今度はホテル内のプロトコール機能によりサービスを提供する。ここにも、ホテル運営、宿泊対応、車輌手配などの旅行会社としての業務機能が活かされるため、プロトコール業務の担当スタッフとは、緊密な連携が必要となります。もちろん、ホテル側の協力により、ホテル内における大会専用のセキュリティ体制を最小限にしていくことも、担当旅行会社の役割ですし、大会の運営機能を設置する上でも、医療対応の体制やゲストサービス、インフォメーションサービスなど、ホテル独自の運営機能とは別の大会専用の運営機能をキチンと整備することも重要な役割になります。ホテル任せ、ということは通用しないばかりか、大会に関係のない一般の客もいることで、そこでのバランスを上手く調整しながら、大会運営に十分な協力を得られるようにしていくが、彼らのノウハウとしてなければならないのです。
単純に考えて、ホテルの宿泊を手配するから、それは旅行会社に任せて・・・、などと考えて大会の運営計画を立案していくことは、その旅行会社のイベント運営に対する力量の見極めの欠落と、彼らのリソースをうまく活用していない証拠になります。イベント全体の運営計画を、十分に理解できるだけの経験値、もしくは理解する能力が低ければ、それは、大会運営を担う本部的な組織そのものが、大きな負担を抱えることを覚悟しておかなければなりません。そして、担当旅行会社には、人的対応能力に優れたスタッフがいますから、彼らを適材適所でうまく活用しながら、スタッフ配置のバランスを考えていくことも、念頭に置くべきでしょう。決して、会社の規模の大小ではありません。イベント運営に対する考え方や知識、そして優れた人材の有無で、良いパートナーを選びましょう。
posted by umekichihouse |04:56 |
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2009年03月12日
スポーツ振興くじ、所謂サッカーくじのtotoの売上が、2008年度はついに800億円を突破しそう、とのことです。これに伴い、totoの売上の中の一定割合を財源とするスポーツ振興のための助成金の財源規模は、100億円という過去最大の規模になっています。世界的経済不況の中で、ずいぶんと景気のいい話しですが、売り上げの8割を占める“ビッグ”の売上げは、今後も好調に推移する見込みもあるらしく、企業スポーツの休廃部が懸念されるスポーツ界の暗いイメージを、いくらかは明るくできるものなのかどうか、助成の行く末に興味が集まります。
しかし、2月4日を締め切りとした追加募集を合わせても、助成対象とする地方自治体や各種スポーツ団体、そして総合型地域スポーツクラブなどからの助成申請は、約58億円(件数にして1,300件)に留まり、残りの40億円余りの財源は、次年度に繰り越しになるそうです。経済不況に苦しみ、外部からの財源確保も厳しい折、なんとももったいない話しのように聞こえますが、このtoto売上に基づく助成に関しては、その対象事業となる上で、さまざまな制約があり、その内容を見てみると、助成というお題目とは些か趣旨の違うような、もしくは反目しているような意味合いが見え隠れしているのです。
スポーツ振興くじによる助成には、6つの対象事業が区分されており、また、その補助対象事業それぞれに、補助対象者も明確に示されています。まず、どのような補助対象事業があるかというと、以下の通りです。
1.地域スポーツ施設補助助成
(地方自治体や法人格を有する総合型地域スポーツクラブが対象)
2.総合型地域スポーツクラブ活動助成
(市町村、日本体育協会、日本リクリエーション協会、スポーツ競技団体、総合型地域スポーツクラブが対象)
3.地方公共団体スポーツ活動助成
(都道府県および市町村が対象)
4.スポーツ団体が行う将来性を有する選手の発掘及び育成強化助成
(JOCおよびその加盟団体の中で競技者育成プログラムを作成、事業化している団体)
5.スポーツ団体スポーツ活動助成
(日本体育協会、JOC、JOC加盟団体、JADA、JADA加盟団体、日本リクリエーション協会が対象)
6.国際競技大会開催助成
(地方自治体、スポーツ競技団体、法人格を有する大会組織委員会組織が対象)
個人的に一番関連性のある6の「国際大会開催助成」を例として、詳しく内容を見てみると、対象とされる競技大会を見て、些か唖然としました。
◇オリンピック競技大会
◇アジア競技大会
◇ユニバーシアード競技大会
◇その他、国際的な規模を有するスポーツ競技大会
・参加国数が30ヶ国以上
・開催事業費が2億5,000万円以上
最初の4大会は、明らかに対象とするところの大会が、直ぐにあるわけでもなく、そんなものは来年度の助成対象にするほうがおかしい、と思います。そして、最後の国際スポーツ競技大会ですが、参加国数30ヶ国というと、恐らく、アジア地区における各種スポーツ競技のアジア選手権などは、ほとんどその対象にはならないのではないでしょうか?。また、世界規模の大会と言っても、各大陸予選を勝ち上がってきた出場国で争われるボールゲームの大会では、30ヶ国の参加というのは、まずありません。個人競技でも、先のフリースタイルスキー世界選手権でもギリギリ。少し基準の設定が、何を目的とした助成なのか、全く分かりません。しかも、開催事業費が2億5,000万円以上ということ、そして助成額は、助成対象経費の4%のみ。ちなみに、助成対象経費の費目の中で大きい金額になりそうなものは、滞在費や旅費・渡航費、そして会場借料程度なのです。つまり、億単位での開催事業費を要する大会を開催しても、その助成規模は、ごく小さなものでしかなく、こんな不景気の中で、いくつも何億という開催経費が掛かる大会が開催できるはずもないのです。これでは、補助申請などあろうはずもない、ということです。
他の助成対象事業を見ても、総合型地域スポーツクラブの事業支援では、100万円以上の事業しか対象となっていないとか、本当にこうした支援を求めている地域のスポーツクラブなど理組織には、もともとの対象となる事業の規模が大きすぎて、本末転倒であるような気がします。スポーツ競技団体における選手強化や発掘などの事業は、特に中央団体が行う全国規模のものであれば、億単位の事業にしている競技団体もあり、理に叶っている対象であるかもしれません。しかし、スポーツ振興というお題目を掲げるならば、もう少し現実的な助成基準の設定をしていかないと、派遣社員切りをしている一方で膨大な内部留保を抱えているどこかの大企業と同じように、繰越金を溜め込むだけの制度になりはしないでしょうか?。真剣に、末端のスポーツ振興に使いましょうよ・・・。
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2009年03月11日
今月2日から8日まで、福島県猪苗代町で開催されたFISフリースタイルスキー世界選手権。モーグルで期待された上村選手の2冠など、日本人選手の期待通りの活躍に、7日には観客のスペースを満員電車並みの観客が埋め尽くし、テレビや新聞の報道も、WBCやJリーグの開幕に引けを取らない扱いでした。大会組織委員会は、大盛況、大成功と、自らの大会運営を自画自賛するのかもしれません。FIS、世界スキー連盟の会長も、地元の新聞報道によれば、大絶賛ということで、世界に誇るフリースタイルスキーのメッカとしての面目も立ったというところです。しかし、実際に現場に行った私の目には、いくつかの疑問もありました。それは、スポーツイベントの現場を多く見てきたから、見えなくてもいいものも見えてしまった、ということかもしれませんが、猪苗代で見た疑問とは、多くの地方開催の国際大会の現場で、例外なく感じられたことでもあり、今回は、大会運営の現場にフォーカスして、その点を検証してみたいと思います。
私の疑問とは、3つの点に集約されます。一つ目は、前々回も取り上げたテーマですが、観客に対する配慮と運営上の体制についてです。二つ目は、競技運営と大会運営という2つの運営機能の連携についてです。三つ目は、大会スポンサーと大会運営機能との連携についてです。
まず、一つ目の観客に対する配慮と運営上の体制についてですが、最も疑問に感じたのは、観客が競技を観戦するためのエリアの設定と、そのエリア内のコンディション整備に関する要件です。雪不足のため、競技コースはもちろんのこと、すべてのエリアには、大量の雪が持ち込まれ、そして人工降雪機による対策も練られたようです。コース周辺にほとんど雪が無かったり、あちこちに地肌が見えていた場所があったことを考えると、大会組織委員会や地元の方々の、コース整備や大会を開催するための準備作業には、大変な努力があったことが容易に想像できました。もし、大会期間中に雨が降ったりしたら、もっと大変な状態になっていたに違いありません。雪はザラメ状で柔らかくなっており、歩くだけでも大変な状態でした。観客が観戦するスペースは、モーグルコースの一部に設置されたスタンド席以外は、すべてフリーのスペース、つまり只の更地であり、しかも、ほとんどは平らではないために、前の人の頭で後ろの人が全く見えない場所もありました。競技の正味時間は、決勝だけでも1時間30分程度あり、雪の柔らかいこともあって、立ちっぱなしでの観戦は、足腰にきついものでした。ひとつ感じたのは、一般の観戦スペースの足元のコンディションを、もう少し整備してくれると、観客の負担はかなり少なくなったのでは?、ということです。競技コースは万全に整備されていました。当然のことです。しかし、大会運営全体で、観客を誘導するスタッフは、見るからにたくさんいたのですが、彼らは立っているだけ。何人かだけでもそうした整備に気を使ったり、観客対応という運営機能がキチンとあれば、準備段階から、そうした配慮は、具体的な対策として計画されていたのかもしれません。
また、物品輸送や人の輸送のため、ウインタースポーツらしく、スノーモービルが大活躍していました。しかし、このスノーモービルの運行コースが、時には観客の動線にも入ってくるため、非常に危ない思いをしました。運転しているスタッフは、恐らく地元の人だと思いますが、スノーモービルを警察車輌の緊急車の如く運転してくるため、歩いている人への配慮がありません。「どけ!」、という感じです。配慮云々というよりは、観客から入場料を取って大会を運営している感覚が、ゼロですね。ADカードを見て、氏名を確認した上で公表しようと思いましたが、それはやめます。しかし、大会スタッフとしての気持ちの高揚がそうさせているのかもしれませんが、私が運営責任者なら、その場でADカードを没収して帰します。
恐らくこうした観客に対する配慮が欠けていた原因は、運営組織の構築に問題があった、と想像します。恐らく、運営という組織を、競技運営とその周辺を管轄するべき大会運営とを、区別していなかったからだと思います。その場合起こりえることは、競技の進行や運営に関る要件のみに大会運営の機能が集約されてしまい、競技が無事終わればOK、という考えになってしまうことです。競技が始まる前の観客に対する配慮、そして帰りの配慮、更には、観客が大勢になった場合に起こりえるトラブルに対する配慮、などなど・・・。観客だけを見て大会運営をコントロールしようとする人や、そのための体制が何も感じられず、見ることが出来ませんでした。“おもてなしコーナー”では無料で豚汁が振舞われていましたが、それは、決して大会運営上の観客サービスとは言いません。
もし悪天候になった場合にどのように対処するのか?。それも、少なくても私の周辺にいたスタッフは、何も指示を受けていなかったようですし、その気配りの態度すらありませんでした。ゲレンデの下にはホテルやレストラン施設もあり、特に、ホテルのロビーは、大会専用利用ではありませんでしたので、午前中の予選から観戦している人にとっては、最高の休憩場所です。もちろんすべての観客が利用するほどのスペースはありませんが、日中のホテル内は閑散としており、どのような対応も取れたように感じました。海外の大会では、大きなテント施設を仮設して対応しているケースも資料で見たことがあります。費用の問題もありますが、もしもの場合の対策が、全く見当たらない大会という印象は拭えませんでした。
さて、二つ目の競技運営と大会運営という2つの運営機能の連携ですが、特に不満に思ったのは、競技の進行に伴い、刻々と変わる競技結果の表示が見られなかった、ということです。実は、競技の結果、つまりリザルトデータは、コースのフィニッシュライン近くに設置された大型映像装置に、テレビ放送で利用するCGとして表示されていたのです。ただし、競技中は、テレビ中継でもお分かりの通り、リザルトの一覧は表示されることはありません。スタッフの方に、電光掲示板かそのような情報が分かり表示はありますか?、と尋ねると、その方は大急ぎで確認してくれました。しかし、結果的には、大型映像装置に映し出される画面でしか確認できないことが分かり、その方はこう言ってくれました。「確かに、誰が1位で2位との差はどのくらい、というのが分からないと見ていても楽しくないですよね。今度係りの者に言っておきます」。今度と言われても大会は終わっているのですが、このスタッフの方の言葉通り、今回の大会は、ほとんど観客の立場に立ったものの見方をしていなかったようです。ちなみに、大型映像装置に関しては、大会開催予算で紛糾していた時期の話題にもなっていましたが、当初は取り付ける予定はなかったようなのです。FIS、国際スキー連盟からの要請で取り付けられた経緯があるようなのです。もし、この大型映像装置がなかったならば、観客は、競技結果を、場内のアナウンスのみで知ることになったのでしょうか?。これでは、本当の意味でのレースの興奮は沸いてきませんよね。テレビで見ていた方がよっぽど分かり易いです。ライブで見るからこそ、そうした運営装置は必要なのです。競技運営上では不必要かもしれません。関係者のPCなどには、リアルタイムでリザルトデータが転送されているからです。しかし、大会運営という観点からは、観客のための情報提供ということからも、絶対に必要なのです。タイムやスコアが分からない試合やレースを見て、本当にライブ感を楽しめるわけがありません。
競技を運営する組織は、観客に対する配慮やサービスという概念を、競技運営上の障害となる危険性のあるもの、と見る競技関係者がいます。ある時には、その考えは重視すべきです。競技運営なくしてイベントは成立しませんから・・・。しかし、競技の成り立つ要素のひとつが、観客であり、彼らの声援である、ということも忘れてはなりません。そこでは、競技運営側の立場で、観客をコントロールする大会運営の立場にアドバンテージを与えることも必要になります。そうした連携が、大会全体を成功に導くのだと思います。たかがスコアボードひとつでも、置き方ひとつで何の役にも立たないこともあります。今回も、せっかくの大型映像装置も、本当にすべての観客から見通せる位置にあったのか、角度は適切だったのか、などということを現場で検証したのかどうか、という点に関しては疑問が残ります。確かに、VIP席であろうポジションに対しては、正確に置かれていました。しかし、観客からは、少し見辛かったのではないですか?。
最後の三つ目、大会スポンサーと大会運営機能との連携ということですが、タイミングとリザルトシステムは、SEIKOが担っていたようです。また、ホストブロードキャスターである福島中央テレビが、独自にリザルトデータ用のCGシステムを構築していたとは思えないので、恐らくこれもSEIKOがやっていたのではないかと推測します。この業務は、競技運営の心臓部であり、機材やシステムの設置に関しても、かなりのコストを要するため、大きな役割を成した存在であったことでしょう。しかし、読売新聞を始め、その他のスポンサーが、大会運営にどのように貢献していたのかは、全く分かりませんでした。オリンピックや他のスポーツ競技における大会スポンサーの位置付けは、単なるお金の成る木としての存在ではないことは当然で、大会運営に必要な機能やサービスをキチンと提供することで、観客としてもその存在を認知することが出来ます。当然、資金的な援助も見込めます。しかし、お金を出す側としては、いまでは、単なる露出効果やイメージ訴求だけで、数十万規模の予算でも簡単には拠出してくれません。今大会においても、2億数千万円の予算がスポンサーシップなどの協賛金で賄われていたように報道されていましたが、大会運営との連携や、観客サービスという視点での協力を要請するなどして、それが具体化されていれば、スポンサーにとってもより効果性は望めたでしょうし、大会組織委員会としても、より有意義な協賛が得られたのではないでしょうか?。コース内の広告看板を見る限り、JAや東洋水産がスポンサードしていましたが、観客のためにカップ麺を安く提供したり、農産物を使って、豚汁以外にも地元の名産を振舞ったりと、競技大会としてというよりも、世界的なイベントとして、もっと観客が楽しめるような施策が、スポンサーの協力によって計画されても良かったのではないか、と感じました。ドリンクメーカーによって、暖かいコーヒーのサービスや、スープ飲料の提供なんかも、ウインタースポーツのイベントではよく見られますが、そうした多様なサービスがほとんどみられなかったことは、今回の大会運営全体を見て、非常に残念に思いました。
余談ではありますが、7日のモーグル種目は、東京都庁で開催していたイベントの会場で、クローズドサーキットとしてライブ中継されていたようです。地元局でも録画中継でしたから、唯一の“生”だったわけです。録画中継を予定していたJスポーツの中継映像の伝送機会を利用して、Jスポーツが協力したのか、はたまた東京都がオリンピック招致イベントとしての経費負担で、独自の回線を確保したのかは分かりませんが、光ファイバーのインフラかあれば、物理的にはどこでも可能になる方法です。これを、猪苗代周辺や、場合によっては、全国のスキー場と提携してクローズドサーキット展開しても面白かったと思います。テレビ中継との影響が懸念されますが、日本テレビ以外での放送は、夕方の4時からでした。ならば、スキー場でしか見られなかった人も多かったはずです。費用の問題があるならば、光ファイバー通信を売り込んでいる通信会社との提携や、テレビ受像機に直接光ファイバーを繋いで番組を視聴するサービスも多様化していますから、その辺のPRも加味した連携も考えられたかもしれません。これもITシステムに関連した大会運営という機能の一部として、活かせたノウハウのひとつだと思います。
posted by umekichihouse |06:50 |
イベントオペレーション |
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