2009年03月21日
「現役新聞記者の著書から感じたスポーツジャーナリストの姿」その1 ~活字メディアのジレンマ
あるアジア選手権大会で、選手がホテルから競技会場までの移動用に使用するバスの専用駐車場に、無許可でテレビ局の取材クルーが数名入り込んでいることがありました。恐らく、会場に到着する選手の姿を撮影しておきたかったのでしょう。スタッフから、「これは許可されているのでしょうか?」、とトランシーバーを通じて連絡が入り、私は、「ホスト以外のテレビ撮影、およびその他のメディア取材は、一切許可されていない」、と回答しました。ところが、入り込んだテレビ取材クルーは、動こうとしないようで、私も現場へ駆けつけました。原因は、駐車場の進入を警備しているはずの警備員が、勢いに押されて入れてしまったことらしいのですが、私は務めて丁寧に、そのテレビ取材クルーの責任者らしき人に、「申し訳ありませんが、警備の都合上、ご協力ください」、と言って、軽く頭を下げました。警備員のチェックミスがあった手前、頭ごなしの対処はマズイと感じたからです。しかし、その責任者らしき人は、こう言って反抗してきたのです。「どこにそんなことが書いてあるんだ。ダメなら最初からキチンと説明しておけ!」。偉そうにこう言ったのは、某民放キー局の取材クルーで、わざわざ東京から来ていた人たちでした。開いた口がふさがらなかった私は、テレビ放送とメディア対応の担当責任者を呼び、対処を委ねました。権利と報道協定(事前にメディア各社に取材ルールなどを示した資料)を楯に話し合ってもらうしかないと思ったからと、運営の立場としては、余計に混乱させない方が良いと判断したからです。テレビ局は、とにかく他局にはない画が欲しい、のです。しかし、これはワイドショーネタの出来事ではありません。公式のスポーツの大会です。ホストブロードキャスターですら、大会運営の規定に従って制作作業を行います。放送権を持つテレビ局、ライツホルダーも、決められた位置での撮影や取材しか受入れできません。それにもまして、メディアに関しては、取材ルールを守ってもらわないと、取材の公平さや公正さが保てないのです。ましてや、地方局の取材クルーではなく、大きなスポーツイベントでの取材現場を数多く経験しているだろう東京のキー局です。その時は、“こんなもんか!?”・・・、というくらいで、収めることにしました。 最近、大学や専門学校でのスポーツビジネス関連の講座が増えてきていることは、以前にも取り上げましたが、スポーツジャーナリストを目指す人のための講座やコースも、少なからずあるようです。私自身は、一度もジャーナリストというものに興味が沸きませんでしたので、スポーツに仕事として関わってきた経緯の中でも、スポーツジャーナリストという存在に対して、あまり考えを及ぼしたこともありませんでした。そうしている内に、スポーツイベントの現場で、メディアという対象として、数多くのジャーナリスト(記者そしてカメラマン)の人たちに接するようになって、彼らのスポーツに対する視点や考え方に、非常に興味を持つようになりました。彼らはどんなことを選手から聞き出そうとしているのか?。彼らは、この大会、試合をどのように評価しているのか?。彼らに最良の取材環境として何を望んでいるのか?、・・・などなど。しかし、先の出来事以来、本心から、スポーツジャーナリストという存在に、些か疑念を抱くようになりました。本当に、スポーツを見ているのだろうか?。ただ単に話題になるネタを探しに来ているだけじゃないのか?、・・・。 ほんの少し前、毎日新聞社の現役記者が書かれた一冊の本を読んでみました。タイトルは「スポーツ報道論」(創文企画刊)。“論”とあっても、全く堅苦しい内容では決してありません。著者は、本に書かれてある経歴によると、毎日新聞大阪本社運動部で高校野球取材班キャップを勤めている、滝口隆司さんです。いわき支局、福島支局など地方支局も経験し、その後、アテネ五輪取材班キャップなど、数多くのスポーツを担当されてきた現役バリバリのスポーツジャーナリストです。この本には、私がスポーツイベントなどを通して感じてきたスポーツジャーナリスト諸氏に対する幾分の偏見が、ある意味では、そうなるべくしてそうなっている現状が、具体的に書かれてありました。また、スポーツに対するメディアの視点そのものに疑問を呈している箇所もあり、スポーツを取材する側にも、スポーツジャーナリストのあり方に対する葛藤があることが、非常にリアルに書かれてあります。書店でこの本を手に取って、“はじめに”とある冒頭の5ページを読んでみると、そこに、こんなことが書かれてありました。 アテネ五輪で滝口氏が取材班キャップを務めた取材記事を、先輩記者は、「今回のオリンピック紙面は“日本県版”だったな」と言われたそうです。“県版”とは、全国紙の地方版のことで、つまりは、世界的大イベントのオリンピックを、日本選手だけを見た取材になっていたことに対する痛烈な戒めだったのです。“県版”では、おらが町の選手の活躍や出来事など、“わが県”の話題に終始します。これと同じことを、世界を相手にした取材でありながらやってしまった、ということです。冬季トリノ五輪でも、多くのマスコミは、競って日本のメダル獲得数を予測し合っていました。結果は金メダル1個の惨敗。日本選手のみに目を向けた日本のメディアによる取材は、結果的に、持ち上げるだけ持ち上げて、国際的視野を欠いた話題のみに終始してしまいました。同じ年のFIFAワールドカップドイツ大会でも、全く同じことが繰り返されました。決勝トーナメント進出を楽観視しすぎて、結果的に、1次予選敗退となって以降は、ニッポンの“ニ”の字さえ消えてしまいました。滝口氏は、この時の様子をこう書いています。『日本のメディアの海外取材経験が不足していたとは思えない。~中略~。しかし、一部を除き、多くのメディアの目は日本ばかりに注がれ、国際的な視点で冷静な批評が出来なくなってしまったのではないか』。 “はじめに”の5ページに書かれてあることだけでも、私の、スポーツジャーナリストに対する実際の姿を知りたい、という気持ちを、ますます強くさせてくれた内容でした。では、この本の中に書かれてあることの中で、スポーツイベントに携わりながら感じていたスポーツジャーナリストに対する少しばかりの“違和感”を前提として、活字メディアが抱いているジレンマについて、いくつか述べたいと思います。 滝口氏の著書「スポーツ報道論」の冒頭には、「なぜ、われわれはスポーツを書くのか、伝えるのか。何を目的にスポーツジャーナリズムは存在するのか、解き明かしたい」、と書いています。現場からの視点を前提として、この本の中には、活字メディアとして、特に新聞という日々生活の中に当たり前のようにあるメディアを通して、ニュースや批評、スポーツの裏側にあるものを読者に伝えようとする時にぶつかる、テレビというメディアとの葛藤が多数登場してきます。報道という視点から考えると、テレビは、映像を通して視聴者にその時々の出来事を、非常にリアルに伝えているメディアです。ライブで放送されるニュース報道には、そのリアルさに、時には圧倒されるものがあることも事実です。だからこそ、テレビは“画”が欲しいのです。最近では、ニュース番組の中でも、オリンピックや世界選手権で活躍する日本の選手たちを、アスリートとしての人となりを紹介したい、という視点から、時には家族を登場させ、時には小学校の同級生までを登場させ、その選手の生い立ちにまで言及しています。“お涙頂戴”パターンですね。これがニュースか?、と思うときも度々で、特にワイドショー番組内での取り上げ方は、それに輪をかけてドラマチックな演出に走ります。本当にこれが報道としての立場で得られた映像や情報の流し方なのか、私は些か疑問です。 スポーツは、勝負にかけるアスリートという人間の生き様が、如実に現れるものでもありますから、そこにはやっぱりドラマがあります。“スポーツは筋書きのないドラマだ”、と言われますが、やってみなければわからない勝負に賭けるアスリートたちの姿を、どのように捉えていくのか。そこが、ドラマとしてのテーマを見出す出発点であり、スポーツジャーナリスト個々の考えや視点の違いが及ぶところだと、私は思います。ある人はそのアスリートの敗退の原因を探り、ある人は敗退直後の気持ちの揺らぎを捉える。スポーツ競技の魅力や、大会の持つ特性やタイトルの大きななどによっても、“ドラマ”の捉え方は変わっていくでしょう。そこに、当然のことながら筋書きなどあろうはずもありません。しかし、時に、その“ドラマ”は巧妙に演出されます。選手たちの姿を撮影したものが、編集という技術で、全く違う意味合いを持つようになることがあります。テレビというメディアの特権であり、より感動や共感を得られるように各テレビ局が凌ぎを削るところでもあります。ただし、それは往々にして逸脱した方向に向かってしまうことがあるのです。映像は非常にリアリティの高い表現力かある一方で、見せ方ひとつで視聴者の抱く感情や考えをも180度違ったものに操作する力があると思います。その点を、テレビのジャーナリストは、どこまで捉えているのか、または、どこまでその力の大きさからくる影響力を認識しているのか、ということが、大きな問題だと思うのです。 視聴率、そして番組スポンサー。テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、その経営資源を得るための手段に、本当に迎合せずに一線を画すことが出来るのか?。本音では、なかなか難しいものがある、ということは想像に容易いことです。いくらリアリティあるニュース映像でも、映像で視聴者を引き付けるための意図は、必ずそこに存在すると思います。その辺に関して言えば、テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、スポーツ中継という番組があるだけに、報道と、番組としての娯楽という視点の使い分け、というジレンマの中にあるような気がします。 一方で、新聞や雑誌などの活字メディアは、言葉による報道が基本です。その言葉を生み出すのは、ジャーナリスト個々のスポーツの現場における取材力です。その時々の瞬間を映像の中で見せるだけで、ニュースの力を見せ付けることが出来るテレビと異なり、新聞や雑誌は、言葉なくしてニュースを伝えることは出来ません。そして、その言葉も、活字という消すことの出来ないものなのです。そして、書かれた文字、文は、読む読者によって、さまざまな考えを引き出します。だからこそ、活字メディアは、アスリートたちの言葉を聞きたい、そして語ってもらいたいのです。それを引き出すのが、所謂ペン記者としての使命であり、スポーツジャーナリストたる力なのでしょう。 ロッカールームを書く、という言葉が本の中にあります。活字メディアの本望は、ここにあるとしています。競技の裏側にある選手たちの気持ちやその移り変わりを、選手たちの言葉から掴み取る。それを記事として読者に伝えていくことで、勝負の裏側にあるスポーツの本質を伝えていく。それが活字メディアの真骨頂なのでしょう。新聞のコラムには、足で稼いだ成果が掲載されています。勝負や結果は、数字を並べるだけでも分かります。しかし、その裏側を、スポーツを書く、という軸足で言葉に綴る仕事が、コラムの中には表されています。それは、テレビによる映像での表現では、決して感じ得ない内容のものです。しかし、近年、その活字メディアの特性をも脅かすことが起こっています。テレビが、ロッカーの中をも凌駕しつつあるのです。ドキュメンタリーという視点から、競技の裏側にある選手の表情や、心情を、テレビカメラは映し出すようになっているのです。放送権という観点からの言及は、別の機会で取り上げますが、ここにも、報道と娯楽の見えるようで見えない壁が、活字メディアには大きなジレンマとして立ちはだかっているようなのです。番組とはいえ、それは報道、ということでの成果なのか?。はたまた営業努力としての番組作りの成果なのか?。その辺は、受ける側の選手や大会主催者としてのモラルや考え方ひとつで、どうにでもなるような時代になってきているのかどうか?。私にも違和感が常に生まれるところです。 スポーツイベントの現場で、新聞や雑誌の記者からは、時に、本当に助けになるアドバイスを頂くことがあります。しかし、テレビの取材陣とは、どうしても一線を画してしまう。私も活字派なのでしょうか?。最近の悩みです。
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posted by umekichihouse |06:18 |
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