2009年03月25日
ライブドアによるニッポン放送株の買占め、そして楽天によるTBSの買占めなど、インターネットメディアによるマスメディア、特にテレビ局の株式の買占めは、既存のマスメディアとインターネットメディアとの関係性を、将来に渡って問うまでの騒動になりました。そして、光ファイバー通信網のインフラ整備が進み、また、ケーブルテレビや電力会社などの通信事業への参入などにより、加速度的にインターネット環境は普及しましたが、その中で、インターネット上にさまざまな情報発信サイトが登場し、いまや、既存のマスメディアによるインターネットの活用状況も、日増しに拡大しています。新聞社の多くがネットサイトを開設していることも、その一例です。
「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口隆司氏は、本の中で、こうした状況について、「日本のジャーナリズムが将来的にどう発展していくのかにも関係していく」、と述べています。ネット上の情報発信サイトは、メディアが運営するサイト以外に、個人が運営するものまで含めると、いまや膨大にあり、その情報量は、多岐に渡ります。報道という観点から見ても、海外のニュースサイトから得た情報が、時間差なく日本のニュースサイトや個人のサイトにアップされており、速報性や浅く広く情報を拾い集めることに関しても、インターネットは、既存のマスメディアを凌駕しつつあることは間違いありません。滝口氏も、「幅広い角度からの報道が展開されれば、それはスポーツの発展に寄与していくことにも繋がる」、と述べています。ただし、それには前提があり、インターネット上のサイトで掲載される情報が、所謂オリジナリティある内容のものかどうか、ということがポイントになります。現状では、個人のサイトはもちろんのこと、ニュースサイトの情報のほとんどは、通信社やメディア各社による情報配信の2次利用であり、そこに、独自の視点からの見解は示されていても、元々が独自の取材であるものは、ごく限られています。つまり、滝口氏が述べている“日本のジャーナリズムの発展との関係性”とは、独自の取材機能もしくは能力を持っている、ということと、アウトソーシングに頼っていく、ということの方法論の違いによって、大きく異なってくる、ということです。ちなみに、アウトソーシングの場合は、サイト運営者(社)は独自の取材機能や能力を持たなくても、それを外部のフリーランスのライターやフォトグラファーなどに依存するケースです。
情報というものであれば、そこに客観的な信頼性はなくとも、主観的な考えや意図、そして、その情報の発信者が明確であれば、情報に対する信用性は、発信者に対する信用性を、情報を受け取る個人個人が、自らの責任で見極めればいいだけです。しかし、報道とは、客観的な信頼性なくして、その報道にある意義は見出せません。それは、メディアとしての組織や社会的地位に対する信頼性でもあります。アウトソーシングの場合でも、メディアとしての信頼性のあるところを通じての発信であれば、それは報道として社会的に認知されるものになるでしょう。
また、スポーツ報道の取材力というところで言うと、独自の目線でスポーツを語る力の有無が問われるところだと思います。独自の論評や批評、そしてスポーツを見る力が語る描写などは、取材するジャーナリストによる独自の能力や機能が生み出すものであり、それこそが、ジャーナリストとしてのスタンスなのだと思います。大きなスポーツイベントや大会になれば、メディア、もしくはブレスとしての取材申請に対して、所属するメディア組織や会社としての地位や経歴が大きく影響します。それは、信頼性の問題があるからです。そして報道という概念があるからです。アクレディテーションのカテゴリーは、メディアの場合、大別すれば、ジャーナリストとフォトグラファーに区分されますが、最近は、それとは別に、“WEB”というカテゴリーも見受けられるようになっています。その点から考えると、インターネットのニュースサイトも、独自取材能力を持ち、そこから発信するニュースに信頼性があるものと判断されれば、メディア・アクレディテーションはキチンと認可される、という時代なのです。つまり、イベントや大会の主催者も、報道としての信頼性に着目しているわけで、客観的な認可を得られる立場になければ、報道機関、もしくはジャーナリストとしては認知されないのです。
私も、個人で活動しているインターネットサイトの運営者に方々にお会いしたことがありますが、なかなか取材の現場にメディアとして入り込むことは難しい、という方がほとんどでした。決して邪な考えや遊びの感覚を持ってやっているのではありません。しかし、信頼性を得るまでの実績がないのです。冷静に見ると、やはり独自の取材力に課題があります。運営資金の問題によって組織としての活動が難しく、結果的に個人の力で運営するしかないからです。そこには、必然的に限界が生じます。また、インターネットサイトによる、スポーツイベントや大会の動画配信を試みているプロジェクトもあります。以前も取り上げましたが、夏のインターハイでの競技を、動画配信しているケースもそのひとつです。そこにも、テレビメディアと同様に、報道と娯楽の境界線の問題があります。更には、情報と中継という、権利絡みの課題も見え隠れしています。一概には言えませんが、活字にしろ、映像にしろ、それらの情報を待ち望んでいる人たちがいる、ということだけで、比較的安易にそれらを発信、または配信してしまっている人たちは、あくまでも個人的に意見ですが、あまり、スポーツに貢献している、とは思えません。あくまでも商売なのか、もしくは、個人の楽しみでしかないような気がします。そして、本当にそれらの情報を待っている人たちがいるとしたならば、そのようなサイトは、もっと乱立して凌ぎを削っていることでしょうし、スポーツ競技団体や関係組織が放ってはおかないでしょう。しかし、独自の取材力やニュースを語る力をネットサイトが持つようになった時、スポーツジャーナリズムは、より一層その地位を向上させていくことは間違いなく、そうなることが楽しみでもあります。
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2009年03月24日
「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口隆司氏は、本に書かれている経歴によると、現在、高校野球の担当取材班のキャップということですが、春の高校野球、選抜大会は毎日新聞の主催です。また、夏の甲子園、全国高校野球選手権大会は、朝日新聞の主催です。何れも高野連との共催という形ですが、新聞社がスポーツの大会を主催し、その普及や啓蒙に努めてきた歴史は、日本でも古くから見られます。いまや、小学生から高校の大会まで、スポーツ競技大会の主催者や、後援者として新聞社が名を連ねる大会は数多くあり、その一部の大会では、大会運営の中で中心的な立場にいる場合もあります。つまり、メディアが、スポーツ競技大会の運営も担う立場にいるのです。高校野球のみならず、バレーボールでは、フジテレビが春の高校バレーの事業運営もなっているようですし、メディア企業の事業部という存在は、報道機関としてのメディアの顔とは別に、独立した事業体としてスポーツに関わるビジネスを展開していることも、その例は少なくありません。また、世界最高峰の自転車ロードレース、ツール・ド・フランスは、1903年にフランスのスポーツ紙「レ・キップ」が、その販売拡張のために始めた大会ですが、いまや世界中にファンを持つほどの規模に成長しています。このように、単なるスポーツイベントや大会へのスポンサーシップというだけではなく、特に新聞というメディアは、恐らく日本では宅配システムが定着している環境も巧を奏していると思うのですが、イベントや大会を支える立場を通して、新聞の販売拡張を進めるというビジネスの側面と平行して、スポーツの普及ということを推し進めてきた功績があると思います。イベントや大会主催することで、その報道権を独占したり、優先的な立場に置いたりすれば、スポーツの普及とは逆行してしまう。だからこそ、高校野球やその他の新聞社主催によるイベントや大会では、大会を主催する意図と、報道という概念は、中立に保たれてきたのでしょう。前回取り上げたメディアによるスポーツ・スポンサーシップの状況にある権利と対価という概念とは、幾分違うものがそこにはあります。
地方都市で、スポーツイベントやスポーツの国際大会を開催する上で、その地元の新聞社と、事業面で連携することはよくあります。スポンサーシップではありません。イベントや大会の認知や理解を拡大していくために、協力を得るのです。確かに、“ちょうちん記事”のように見える場合もあります。しかし、一方で、シティセールスなど、地方都市のPRや観光促進のための施策を目的に、地方自治体がイベントや大会の開催費の一部を負担して、そのイベントや大会を招致するケースでは、まず、開催地地元の市民に大会開催の意義を理解してもらう必要に迫られます。また、大会開催に際してのさまざまな協力も市民に仰がなくてはなりません。その時、地元の報道機関としての新聞社の存在は、非常に大きなものになります。時には、イベントや大会の開催地の住民意識のモチベーションを鼓舞していくための効果をもたらしたり、それを期待させるものである、ということも言えるでしょう。
私も、地方都市でスポーツイベントや国際大会を開催する際には、常に地元のメディアの力をお借りしてきました。イベントや大会のことをもっと知ってもらうために、そして興味を持ってもらうために、恐らく報道の中立性など無視をして、さまざまな情報を提供していきました。イベントや大会の運営面で必要なボランティアの協力を得るために、その募集に関しての告知などは、地元のメディアだからこその信用もあり、大会主催者からの一方的な情報発信よりも好意的に理解される場合が多々あります。また、イベントや大会の準備が進む過程を逐次情報発信していくことも、地元のメディアならではの切り口により“報道”していただけるため、イベントや大会に対する親近感を醸成していくことにも効果が高いのです。こうした地方メディアの力は、新聞の発行部数を見るだけでも、非常に大きいことがわかります。北海道の例で見ると、・・・・
・北海道新聞 1,216,438部(48.65%)
・第2位の新聞 239,315部(9.61%)
というデータがあり、北海道では、北海道新聞に情報が掲載されなければ、他の全国紙の北海道版にどんなに大きく情報が取り上げられても、その効果は、上記数値のように桁が違うものなのです。また、お隣の青森県では、地元紙の東奥日報が最大の発行部数を誇っており、その数は26万部です。朝日新聞や読売新聞がその1/10程度の発行部数ですから、北海道のように人口が大くない県においても、地方紙の力は絶大なのです。
しかし、地方メディアが、世界的なイベントや大会、もしくは日本トップクラスのスポーツを見れる場としてイベントを開催する場合などにおいて、いかにも良いことばかりにフォーカスを当てているような事実もあることも、決して否定できないことだと思います。前述のように、地方都市や地域における、地方紙の影響力というものは絶大なものがあり、それ故に、メディアとしての使命である中立的見解を持つことや、批評する意識を薄れさせていることも否めないと思うのです。地元住民に支えられている定期購読という財源を失う可能性があるからです。政治的な問題はさておき、スポーツにおいては、大きくなればなるほど、スポーツイベントの招致における市民や県民の血税を投入した、開催費の補助などの行政による財政出動は、その地元のメディアこそ、客観的に監視し、より透明性を求める立場になければならない、と思います。地方メディアは、イベントや大会にスポンサードしているわけではありませんが、イベントや大会の成功には欠かせない存在です。そしてそれは、イベントや大会の開催がもたらす利益や効果とは何なのかを、最も中立に正確に伝える立場にあるからこそ、欠かせない存在に成り得るのです。
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2009年03月23日
テレビマネー。テレビジョンパワー。テレビの力は、オリンピックを見るまでもなく、スポーツ競技の現場に、多大な影響を及ぼすものに増大しています。その力の源は、言うまでもなく、お金です。時には、数百億円という莫大な契約金額が報道を賑わし、時には、その契約は、向こう10年先にまで及ぶこともあります。そのお金は、国際競技連盟や組織の財源として、世界大会やオリンピック大会の大会運営を支え、肥大化する大会規模に比例していくかの如く、ますます大きな規模になりつつあります。しかし、競技団体や大会を潤すそうした財源は、スポーツ競技のルールにまでその力を及ぼし、また、オリンピックでさえ、競技スケジュールを変えるまでに、その影響力は増し続けています。バレーボールや卓球、バドミントンなどの競技では、ラリーポイント制が導入され、テレビ放送の都合に合わせやすいように試合時間の短縮が図られるようになりました。また、先の北京五輪では、競泳の決勝は、アメリカの現地時間の都合に合わせるために、開催地の現地時間で昼前の時間帯に行われました。日本で行われたFIS世界ノルディックスキー選手権札幌大会でも、ヨーロッパの現地時間帯に合わせるように、決勝は夜間に行われ、そのために照明設備などの付帯設備の用意を強いられ、大きな経費負担が生じたと聞いています。いまや、テレビマネーは、世界的なスポーツ競技大会の巨大なスポンサーの如く、その発言権を増しており、メディアとして、報道機関としての立場を超えて、大会の運営にまで大きな力を及ぼす存在になっているのです。その姿は、もはやメディアと言うよりは、コンテンツホルダーなのです。
毎日新聞の現役記者、滝口隆司氏の著書「スポーツ報道論」の中でも、“世界のスポーツを変えたテレビマネー”として、巨大な放送権料を背景としたテレビの存在の大きさに対する脅威が語られています。また、スポーツがビジネスの場で語られるようになっている中で、2006年にNHKが打ち出した改革案のひとつである、“報道は受信料で賄い、娯楽は有料化する”、という方針を取り上げています。これは、テレビというメディアが、報道機関としての顔と、先のようなビジネスセクターとしての顔の、2つの顔を持つようになっていることを顕著に示した例であり、滝口氏は、このことを、“スポーツは報道か、娯楽か”、という視点で切り込んでいます。スポーツ中継を娯楽とするならば、スポーツ中継は有料コンテンツとして、NHKですらビジネスの対象にしてしまいます。そこから得た視聴料収入から、先に述べたように巨額の放送権料が捻出されていく構図です。しかし、ヨーロッパにあるように、ユニバーサルアクセス権という考え方や、スポーツの普及のために、衛星放送などの有料放送に依存しない中継体制を取ろうとするIOCを始めとする国際競技団体の考え方から考えると、スポーツのすべてを娯楽と捉えて、ビジネスの対象としていくことは、スポーツ市場に価値をもたらす普及という側面を否定することにもなりかねません。ヨーロッパでのプロサッカーリーグの放送権を巡っても、ここ10年の間にさまざまな論争がありました。ルパード・マードック氏率いる衛星放送ビジネスは、スポーツを最も優良なビジネスコンテンツとして捉え、巨額な放送権料の見返りとして、巨大なコンテンツホルダーになっています。プロスポーツの世界だから・・・、ということで考えたとしても、そこにはプロチームを支えているファンの存在もあり、そこに論争の火種はあったのです。“スポーツは報道か、娯楽か”。それは、スポーツの現場が、ビジネスによる財源なくして成り立たない現状からすると、杓子定規に考えることは無理でしょう。だからこそ、スポーツジャーナリストたちは、スポーツ報道の現場で、テレビが見せる2つの顔の矛盾と、戦わなくてはならない状況に追い込まれているのだと思います。
最近では、テレビメディアのみならず、新聞や雑誌などの活字メディアも、スポーツをビジネスの対象として捉える傾向を見ることが出来ます。スポーツイベントや競技団体等のスポーツ組織へのスポンサーシップです。滝口氏の「スポーツ報道論」の中では、シドニー五輪で巻き起こった新聞社のスポンサーシップにまつわる報道とプロモーションとの区別に関する論議が紹介されていますが、確かに、報道機関としての立場を有するメディアが、スポーツ・スポンサーシップに参画した場合、その対価としての権利が、報道することまでに及ぶかどうかという境界線まで明確に示すことができるかどうかは、曖昧です。スポーツイベントや大会の主催者は、メディアのスポンサードによって、金銭的な収入を得ることよりも、その報道機関としての力を利用したイベントや大会のPR、プロモーションといった効果を期待するからです。問題なのは、そのPRやプロモーションが、果たして報道なのかどうか、ということです。イベントや大会主催者から見ると、それは“パブリック”リレーション、つまりニュースとしての情報発信でしょう。一方で、利用されるメディアからすると、“ちょうちん記事”と認識した上でのサービス、もしくはイベントや大会への協力、という捉え方なのかもしれません。しかし、全くのニュートラルな立場にいるメディアからすると、スポンサードしているメディアの行動は、報道の優先権を勝ち得た存在に映るでしょうし、事実、イベントや大会主催者からスポンサードするメディアにもたらされる情報は、他のメディアに優先して提供されていることは明白です。
朝日新聞は、オフィシャルニュースペーパーとして、2002年日韓ワールドカップにスポンサードし、その後、Jリーグ百年構想のパートナー、アジアサッカー連盟のスポンサーなどに名乗りを上げ、“サッカーは朝日”というイメージを定着させようとしています。それに対抗して、読売新聞は、JOCのオフィシャルパートナーになるなど、スポーツ・スポンサーシップへの参画に積極的のようです。新聞という商品の販売促進の効果を狙うものなのか、はたまた読者に対するサービスの拡充を狙うものなのか。何れにしても、報道の力の、企業ビジネスへの活用なのでしょう。
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2009年03月22日
テレビの映像と音声、そして新聞や雑誌の写真と活字。頭で考える前に感覚的に目や耳に飛び込んでくるテレビの映像や音声は、視聴者に考えさせる時間を与える間もなく、強い影響を与えます。特に、映像が伝えるリアリティは、ライブで瞬間を捉える力があり、取材するテレビ記者やカメラマンは、状況の観察力を求められ、その状況の流れの中で、映像を捉えるのだと思います。逆に言えば、テレビ報道とは、画がなければその価値はどう評価したらいいのか?、という疑問が残るのです。だからこそ、テレビは画が欲しい。そして、その映像がリアルであればあるほど、アナウンスや余計な解説などは邪魔になる時もあります。つまり、テレビ報道の命は、映像のリアリティだと思うのです。しかし、新聞報道は、言葉で伝えるしかない。スポーツ報道なら、より取材対象の心理描写までを捉えなければ、真実味のある言葉にならないし、表面的な事実だけならば、それはテレビに敵うはずがありません。だからこそ、記者の目による洞察力が必要になる。そして、読者は、記者が綴った言葉を読み、頭で考えるのです。つまり、新聞報道の命は、言葉の表現力だと思うのです。記者が取材で得た事実や状況、心理を、どうすれば奥深くまで読者に伝えられるか。報道写真も同じです。瞬間を撮影した1枚の写真は、記録ではなく、言葉と同じように読者に語りかけるものでなければならない。だからこそ、報道写真には、ついつい見入ってしまいます。
毎日新聞の滝口隆司氏の著書「スポーツ報道論」の中には、スポーツジャーナリストに求められる要素として、“スポーツの本質を描くこと”、と書かれてあります。そして、それは、テレビでも、新聞や雑誌でも、変わらないことだと思います。スポーツジャーナリストは、誰もがスポーツの本質を求めようとします。その本質の表現の方法が、テレビは映像になり、新聞や雑誌は言葉になる。しかし、スポーツの本質を描くためには、スポーツの本質とは何かを知らなければならない。そのためには、技術のことをまず分かろうとする。更には、戦術を読み取ろうとする。それが出来なければ、疑惑の判定があった場合、その判定は本当に正しいのか、何が間違っているのかを、理解することすら出来ません。そうすると、本来伝えるべき言葉が、伝えなければならない言葉が出てきません。テレビでもそうです。どのシーンを注目させるべきなのか、何処を見せるべきなのかを、判断することすら出来ません。
滝口氏は著書の中で、最近は、新聞社でも専門記者は要らない、と言ったような風潮が生まれてきていて、記者がサラリーマン化しているように感じる、と書いています。新聞社とて、企業としての経営がありますので、その観点からは、メディアも経営効率を求める流れの中にあるのかもしれません。故に、スポーツ記者は不足しがちになり、兼務してさまざまな取材をこなさなければならなくなり、結果的に、スポーツの本質を捉えていくようなスキルを身に付ける時間も機会も少なくなってしまうようです。一人の読者からすると、非常に残念に思いますし、そう言えば、最近はたまにしか“思わず読み入ってしまう”ような奥の深い記事を見かけなくなったように感じます。これは!、という記事は、必ずクリッピングしておくことを習慣にしているのですが、それも最近は本当に少なくなりました。たまの特集や連載くらいでしょうか?。いまは、専門性ではなく、記事を仕上げる能力が求められるのだそうです。しかし、活字離れやネットメディアの台頭、そして、明らかに減少している新聞や雑誌の発行部数を見ると、滝口氏の言っている通り、いまこそ専門性の高いスポーツ記事が求められる、と私も思います。スポーツイベントの現場でも、そうしたスポーツをよく理解して、本質を見抜く力のある記者と話していると、楽しくもあり、また、メディアに対するサービス精神も高まります。昔は、どの新聞社にも大御所と呼ばれる名物記者がいました。しかし、いまは、元選手の評論家先生にお任せが多いそうです。また、メディアがスポーツ・スポンサーシップに乗り出してきていることや、世界的な大会の日本開催が頻繁にあること、そして、スポーツの普及と強化をお題目に、政治がスポーツに積極的に関わるようになってきたことで、政治、経済、国際、社会と、報道が対象とするあらゆる分野が、スポーツと関わるようになってきた現代では、より一層、スポーツ記者にも専門性が求められていいのではないか、と思います。何れにしても、経営と報道の現場の思惑の違いが露骨に表れてきている中で、スポーツ報道の本質を何処まで貫き通すことが出来るのか、これからも報道の裏側を気にしつつ、スポーツの本質が描かれた記事を待ち望みたいと思います。
では、先に取り上げた活字メディアの経営という観点から、それらの発行部数に注目して、どのくらいメディアパワーが低下しているのかを検証してみます。ちなみに、世界における日本国内での新聞の発行部数は、先進国の中ではダントツで、アメリカの5,380万部を1千万部以上も上回る6,850万部(2008年)となっています。人口の違いから見ても、日本の中での新聞メディアの影響力は、非常に高いことを示した数値です。しかも、アメリカは1,463紙なのに対して、日本は僅かに110紙。日本では全国紙の普及が当たり前のようになっている実情が、この数値からも良く分かります。お隣の韓国でも、214紙で1,620万部、ドイツは365紙で2,070万部。イギリスでは、新聞の数は114紙と日本に近いものの、全体では1,800万部しかありません。宅配というシステムが、発行部数にも大きな影響を与えているのでしょう。では、昨年度のデータで、全国紙の発行部数を見てみると、以下のようになります。
(%は、全国の総世帯数5,273万世帯に対する世帯普及率を示します。)
・読売新聞 1,002万部(19%)
・朝日新聞 804万部(15%)
・毎日新聞 388万部( 7%)
・日本経済新聞 305万部( 5%)
・産経新聞 220万部( 4%)
また、駅売りを主な販売網とするスポーツ新聞はどうかというと、スポーツニッポンが約120万部でトップのようですが、他の日刊スポーツ、サンケイスポーツ、スポーツ報知などは、ほぼ同じ規模で約100万部前後の発行部数になっています。2007年度の数値ですが、日本全国の地方紙を含めた新聞の総発行部数は、朝刊単独で3,440万部。これは、10年前の1997年度と比較すると、174万部(3.2%)もの部数減少になっている数値だそうです。スポーツ紙でも、2007年度で492万部と、1997年度からは144万部(22.1%)も部数を落としています。すべての新聞を対象とした1世帯当りの新聞購読数も、1997年の1.18から、2007年には1.01と急激に減少しており、これは宅配によるスポーツ新聞の減少が大きく影響していることと、インターネットのブロードバンド環境の整備が進んだ年代と重なるため、活字離れによる影響も含まれている、とある研究機関の調査にはありました。
更に、世界的経済不況の影響もあり、最近落ち込みが顕著な新聞広告が、更にその落ち込み度合いを増しているようです。部数の減少と、広告の減少。供に、新聞社の経営には多大な打撃であるはずで、この辺にも、先に述べた人事関係の効率化による報道現場の疲弊の原因がありそうです。スポーツの本質を描くことこそ、読者を引き付ける記事であるはずなのですが、それに相反するように、専門性の高いスポーツ記者が少なくなっていることは、メディアとはいえ、経営と報道現場に大いなる矛盾を抱えている実情を物語るものだと思います。
では、雑誌はどうなっているか見てみると、スポーツの本質を描くことで、日本版の「スポーツイラストレイテッド」誌の如く、コアなスポーツファンに人気の高い「スポーツグラフィックNumber」誌は、最高時の半分以下の部数にはなっているものの、所謂一般雑誌と肩を並べるレベルの約20万部となっています。雑誌は、ここ数年の間に、どの雑誌も例外なく部数を激減させており、700万部とも800万部とも言われた驚異的な発行部数を誇っていた週刊少年ジャンプですら、現在は278万部にまで部数を落としています。また、先のNumberに追随するように、一時は多数のスポーツ系のノンフィクションを掲載する雑誌が創刊されていましたが、現在ではほとんどが消えていってしまいました。その状況には、2つの要因があるように感じています。ひとつは、テーマ性の問題です。Numberも、1990年代前半のF1ブーム以前までは赤字続きだったそうですが、それ以降、NBA人気、Jリーグの誕生、そしてサッカー日本代表のワールドカップ出場、更には、格闘技の台頭など、それぞれの年代でブームになるスポーツが登場し、また、格闘技などの新しいスポーツ分野が人気を博すようになったりと、その年代毎にNumberの読者層を次々と変えていきました。しかし、新創刊された雑誌の多くは、サッカーや格闘技など、特定の人気スポーツに偏った内容に終始していた感じは否めず、結果的に、幅広いスポーツファン層を取り込むことが出来なかったのではないか、と思います。そして、もうひとつは、雑誌の記事の裏の主役とも言えるスポーツライターの質の問題です。Numberは、1980年の創刊号で、山際淳司氏の“江夏の21球”が話題となり、Numberという雑誌そのものが斬新に思えました。「スポーツ報道論」の著者、毎日新聞の滝口氏も、本の中でこのNumberのことを書かれていましたが、スポーツの本質というものの捉え方を、選手の心理の中まで踏み込んだドラマを描いた、と私は思っています。しかし、スポーツが生み出すドラマを、前回述べたように、選手の家族や生活の中までに踏み込んだ時、それはスポーツの本質を描いたものなのか?、と問われると、私は少し違うように思います。Numberも、数多くのスポーツライターの方が執筆しておられます。ひとりひとりの個性や、ひとりひとりの専門性がある一方で、彼らが描くスポーツは、あくまでもスポーツ競技の中にいるアスリートという前提を崩していないように思うのです。そこが決定的な違いです。だからこそ、スポーツの本質を逸脱せずに、ドラマを描くことが出来るのだと思うのです。スポーツそのものの捉え方が、新興雑誌のライターの方々とは、違っていたように思います。
Jリーグの発足した1993年前後の年には、多くのサッカーライターが誕生しました。サッカー関連の雑誌や、一般紙でも多くの関連記事が掲載されました。また、当時、私の携わっていたNBAの仕事の中でも、NBAなどのアメリカのプロスポーツを専門に取材するスポーツライターさんが登場してきました。スポーツライターという職業は、そんなに儲かるのか?、などという邪推をしていたほどです。しかし、彼らがスポーツの本質を描くだけの能力を兼ね備えていたか、もしくは兼ね備えようとしていたか、というと、それは些か疑問です。やはり、ブームに乗った雑誌業界と同じで、一過性だったようです。そして、そのことが、現在でもスポーツジャーナリズムというものが、社会的にも認知されにくく、そのジャーナリストの専門性が評価されにくい状況を作っているようにも感じます。雑誌というメディアは、新聞記者以上に、スポーツの奥底までを描く力を求められると思います。読ませる、そして残しておける価値を、雑誌の中にスポーツを描くライターの方々は、生み出さなくてはなりません。そこに、“記者”と“ライター”のスポーツに対する捉え方の違いがあるのではないでしょうか。新聞社のスポーツ記者が、新聞社としての企業経営の方針によって、場合によってはその本質を失いつつある中で、雑誌不況と言われる中でのスポーツライターの苦悩も時々耳にします。より深く、より的確にスポーツの本質を描き出す力を備えた記者、そしてライターが、その腕を存分に振るえるようなスポーツの報道現場は、決してなくなりはしません。問題は、記者やライターたち、スポーツジャーナリストたちを、育てていくこと。それが、スポーツの活性化にも繋がると、私は信じています。
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2009年03月21日
あるアジア選手権大会で、選手がホテルから競技会場までの移動用に使用するバスの専用駐車場に、無許可でテレビ局の取材クルーが数名入り込んでいることがありました。恐らく、会場に到着する選手の姿を撮影しておきたかったのでしょう。スタッフから、「これは許可されているのでしょうか?」、とトランシーバーを通じて連絡が入り、私は、「ホスト以外のテレビ撮影、およびその他のメディア取材は、一切許可されていない」、と回答しました。ところが、入り込んだテレビ取材クルーは、動こうとしないようで、私も現場へ駆けつけました。原因は、駐車場の進入を警備しているはずの警備員が、勢いに押されて入れてしまったことらしいのですが、私は務めて丁寧に、そのテレビ取材クルーの責任者らしき人に、「申し訳ありませんが、警備の都合上、ご協力ください」、と言って、軽く頭を下げました。警備員のチェックミスがあった手前、頭ごなしの対処はマズイと感じたからです。しかし、その責任者らしき人は、こう言って反抗してきたのです。「どこにそんなことが書いてあるんだ。ダメなら最初からキチンと説明しておけ!」。偉そうにこう言ったのは、某民放キー局の取材クルーで、わざわざ東京から来ていた人たちでした。開いた口がふさがらなかった私は、テレビ放送とメディア対応の担当責任者を呼び、対処を委ねました。権利と報道協定(事前にメディア各社に取材ルールなどを示した資料)を楯に話し合ってもらうしかないと思ったからと、運営の立場としては、余計に混乱させない方が良いと判断したからです。テレビ局は、とにかく他局にはない画が欲しい、のです。しかし、これはワイドショーネタの出来事ではありません。公式のスポーツの大会です。ホストブロードキャスターですら、大会運営の規定に従って制作作業を行います。放送権を持つテレビ局、ライツホルダーも、決められた位置での撮影や取材しか受入れできません。それにもまして、メディアに関しては、取材ルールを守ってもらわないと、取材の公平さや公正さが保てないのです。ましてや、地方局の取材クルーではなく、大きなスポーツイベントでの取材現場を数多く経験しているだろう東京のキー局です。その時は、“こんなもんか!?”・・・、というくらいで、収めることにしました。
最近、大学や専門学校でのスポーツビジネス関連の講座が増えてきていることは、以前にも取り上げましたが、スポーツジャーナリストを目指す人のための講座やコースも、少なからずあるようです。私自身は、一度もジャーナリストというものに興味が沸きませんでしたので、スポーツに仕事として関わってきた経緯の中でも、スポーツジャーナリストという存在に対して、あまり考えを及ぼしたこともありませんでした。そうしている内に、スポーツイベントの現場で、メディアという対象として、数多くのジャーナリスト(記者そしてカメラマン)の人たちに接するようになって、彼らのスポーツに対する視点や考え方に、非常に興味を持つようになりました。彼らはどんなことを選手から聞き出そうとしているのか?。彼らは、この大会、試合をどのように評価しているのか?。彼らに最良の取材環境として何を望んでいるのか?、・・・などなど。しかし、先の出来事以来、本心から、スポーツジャーナリストという存在に、些か疑念を抱くようになりました。本当に、スポーツを見ているのだろうか?。ただ単に話題になるネタを探しに来ているだけじゃないのか?、・・・。
ほんの少し前、毎日新聞社の現役記者が書かれた一冊の本を読んでみました。タイトルは「スポーツ報道論」(創文企画刊)。“論”とあっても、全く堅苦しい内容では決してありません。著者は、本に書かれてある経歴によると、毎日新聞大阪本社運動部で高校野球取材班キャップを勤めている、滝口隆司さんです。いわき支局、福島支局など地方支局も経験し、その後、アテネ五輪取材班キャップなど、数多くのスポーツを担当されてきた現役バリバリのスポーツジャーナリストです。この本には、私がスポーツイベントなどを通して感じてきたスポーツジャーナリスト諸氏に対する幾分の偏見が、ある意味では、そうなるべくしてそうなっている現状が、具体的に書かれてありました。また、スポーツに対するメディアの視点そのものに疑問を呈している箇所もあり、スポーツを取材する側にも、スポーツジャーナリストのあり方に対する葛藤があることが、非常にリアルに書かれてあります。書店でこの本を手に取って、“はじめに”とある冒頭の5ページを読んでみると、そこに、こんなことが書かれてありました。
アテネ五輪で滝口氏が取材班キャップを務めた取材記事を、先輩記者は、「今回のオリンピック紙面は“日本県版”だったな」と言われたそうです。“県版”とは、全国紙の地方版のことで、つまりは、世界的大イベントのオリンピックを、日本選手だけを見た取材になっていたことに対する痛烈な戒めだったのです。“県版”では、おらが町の選手の活躍や出来事など、“わが県”の話題に終始します。これと同じことを、世界を相手にした取材でありながらやってしまった、ということです。冬季トリノ五輪でも、多くのマスコミは、競って日本のメダル獲得数を予測し合っていました。結果は金メダル1個の惨敗。日本選手のみに目を向けた日本のメディアによる取材は、結果的に、持ち上げるだけ持ち上げて、国際的視野を欠いた話題のみに終始してしまいました。同じ年のFIFAワールドカップドイツ大会でも、全く同じことが繰り返されました。決勝トーナメント進出を楽観視しすぎて、結果的に、1次予選敗退となって以降は、ニッポンの“ニ”の字さえ消えてしまいました。滝口氏は、この時の様子をこう書いています。『日本のメディアの海外取材経験が不足していたとは思えない。~中略~。しかし、一部を除き、多くのメディアの目は日本ばかりに注がれ、国際的な視点で冷静な批評が出来なくなってしまったのではないか』。
“はじめに”の5ページに書かれてあることだけでも、私の、スポーツジャーナリストに対する実際の姿を知りたい、という気持ちを、ますます強くさせてくれた内容でした。では、この本の中に書かれてあることの中で、スポーツイベントに携わりながら感じていたスポーツジャーナリストに対する少しばかりの“違和感”を前提として、活字メディアが抱いているジレンマについて、いくつか述べたいと思います。
滝口氏の著書「スポーツ報道論」の冒頭には、「なぜ、われわれはスポーツを書くのか、伝えるのか。何を目的にスポーツジャーナリズムは存在するのか、解き明かしたい」、と書いています。現場からの視点を前提として、この本の中には、活字メディアとして、特に新聞という日々生活の中に当たり前のようにあるメディアを通して、ニュースや批評、スポーツの裏側にあるものを読者に伝えようとする時にぶつかる、テレビというメディアとの葛藤が多数登場してきます。報道という視点から考えると、テレビは、映像を通して視聴者にその時々の出来事を、非常にリアルに伝えているメディアです。ライブで放送されるニュース報道には、そのリアルさに、時には圧倒されるものがあることも事実です。だからこそ、テレビは“画”が欲しいのです。最近では、ニュース番組の中でも、オリンピックや世界選手権で活躍する日本の選手たちを、アスリートとしての人となりを紹介したい、という視点から、時には家族を登場させ、時には小学校の同級生までを登場させ、その選手の生い立ちにまで言及しています。“お涙頂戴”パターンですね。これがニュースか?、と思うときも度々で、特にワイドショー番組内での取り上げ方は、それに輪をかけてドラマチックな演出に走ります。本当にこれが報道としての立場で得られた映像や情報の流し方なのか、私は些か疑問です。
スポーツは、勝負にかけるアスリートという人間の生き様が、如実に現れるものでもありますから、そこにはやっぱりドラマがあります。“スポーツは筋書きのないドラマだ”、と言われますが、やってみなければわからない勝負に賭けるアスリートたちの姿を、どのように捉えていくのか。そこが、ドラマとしてのテーマを見出す出発点であり、スポーツジャーナリスト個々の考えや視点の違いが及ぶところだと、私は思います。ある人はそのアスリートの敗退の原因を探り、ある人は敗退直後の気持ちの揺らぎを捉える。スポーツ競技の魅力や、大会の持つ特性やタイトルの大きななどによっても、“ドラマ”の捉え方は変わっていくでしょう。そこに、当然のことながら筋書きなどあろうはずもありません。しかし、時に、その“ドラマ”は巧妙に演出されます。選手たちの姿を撮影したものが、編集という技術で、全く違う意味合いを持つようになることがあります。テレビというメディアの特権であり、より感動や共感を得られるように各テレビ局が凌ぎを削るところでもあります。ただし、それは往々にして逸脱した方向に向かってしまうことがあるのです。映像は非常にリアリティの高い表現力かある一方で、見せ方ひとつで視聴者の抱く感情や考えをも180度違ったものに操作する力があると思います。その点を、テレビのジャーナリストは、どこまで捉えているのか、または、どこまでその力の大きさからくる影響力を認識しているのか、ということが、大きな問題だと思うのです。
視聴率、そして番組スポンサー。テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、その経営資源を得るための手段に、本当に迎合せずに一線を画すことが出来るのか?。本音では、なかなか難しいものがある、ということは想像に容易いことです。いくらリアリティあるニュース映像でも、映像で視聴者を引き付けるための意図は、必ずそこに存在すると思います。その辺に関して言えば、テレビにおけるスポーツジャーナリズムは、スポーツ中継という番組があるだけに、報道と、番組としての娯楽という視点の使い分け、というジレンマの中にあるような気がします。
一方で、新聞や雑誌などの活字メディアは、言葉による報道が基本です。その言葉を生み出すのは、ジャーナリスト個々のスポーツの現場における取材力です。その時々の瞬間を映像の中で見せるだけで、ニュースの力を見せ付けることが出来るテレビと異なり、新聞や雑誌は、言葉なくしてニュースを伝えることは出来ません。そして、その言葉も、活字という消すことの出来ないものなのです。そして、書かれた文字、文は、読む読者によって、さまざまな考えを引き出します。だからこそ、活字メディアは、アスリートたちの言葉を聞きたい、そして語ってもらいたいのです。それを引き出すのが、所謂ペン記者としての使命であり、スポーツジャーナリストたる力なのでしょう。
ロッカールームを書く、という言葉が本の中にあります。活字メディアの本望は、ここにあるとしています。競技の裏側にある選手たちの気持ちやその移り変わりを、選手たちの言葉から掴み取る。それを記事として読者に伝えていくことで、勝負の裏側にあるスポーツの本質を伝えていく。それが活字メディアの真骨頂なのでしょう。新聞のコラムには、足で稼いだ成果が掲載されています。勝負や結果は、数字を並べるだけでも分かります。しかし、その裏側を、スポーツを書く、という軸足で言葉に綴る仕事が、コラムの中には表されています。それは、テレビによる映像での表現では、決して感じ得ない内容のものです。しかし、近年、その活字メディアの特性をも脅かすことが起こっています。テレビが、ロッカーの中をも凌駕しつつあるのです。ドキュメンタリーという視点から、競技の裏側にある選手の表情や、心情を、テレビカメラは映し出すようになっているのです。放送権という観点からの言及は、別の機会で取り上げますが、ここにも、報道と娯楽の見えるようで見えない壁が、活字メディアには大きなジレンマとして立ちはだかっているようなのです。番組とはいえ、それは報道、ということでの成果なのか?。はたまた営業努力としての番組作りの成果なのか?。その辺は、受ける側の選手や大会主催者としてのモラルや考え方ひとつで、どうにでもなるような時代になってきているのかどうか?。私にも違和感が常に生まれるところです。
スポーツイベントの現場で、新聞や雑誌の記者からは、時に、本当に助けになるアドバイスを頂くことがあります。しかし、テレビの取材陣とは、どうしても一線を画してしまう。私も活字派なのでしょうか?。最近の悩みです。
posted by umekichihouse |06:18 |
メディアとスポーツ |
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