2008年02月26日

『現代プロレスとは何か? 人生と人生の交錯、遺恨から始まる物語 拳に魂を込めろ! 格闘エンターテイメントの新たなる地平、その名も現代プロレス!』

おっちゃんやで~。

前回の概論で、格闘エンターテイメントの発展過程をお分かりいただけたやろうか?近代国民国家の外部への感受性調達機能に基づいた近代プロレスは、国家規模の共同体の衰退によってその意味を喪失し、それに代わり個別的な生きてる実感の獲得に応じてMMAが誕生したんや。そして社会の成熟化と共にMMAは高度化して現代プロレスとなるねん。ではこの現代プロレスとはどのようなものなのやろうか?

【現代プロレスはイベント興行】
近代プロレスは団体興行で行なわれるねん。なんでかゆうたら組織の中で各々の役割を担うことが近代プロレスに求められるからや。そやから皆が同胞であり、そして会社も選手背負って福利厚生に配慮するねん。近代は皆が単一の価値観持ってたから団体興行でよかったんや。せやけど団体興行形態は現代では不利に働くねん。まず新人を育てても現代では忠誠心ないから教育費を回収できへんねん。また上司のイエスマンやから、目まぐるしく変わりゆく社会に対処できへんねん。また会社が福利厚生背負ってしまうからコストがかかるねん。団体興行のRINGS潰れてイベント興行のPRIDEが勝ったのは象徴的やったわ。RINGSは選手背負うからコストかかってギャラ安くなるし、また忠誠心ないからすぐ選手は引き抜かれるしで散々ですわ。選手は自己責任で資金は潤沢、その銭で選手の横っ面はたくPRIDEこそ現代に即した興行形式といえるやろう。衰退していってるプロレスは団体興行、PRIDEやK-1はイベント興行ですわ。勿論IGFもイベント興行やで。

【現代プロレスは人生を持ち込む】
現代社会ではプロレス的な虚構の戦いは見抜かれてしまうから、ほんまに戦わなあかんねん。せやけど単なる総合ルールに基づいたパワーゲームが通用するのは現代社会の黎明期だけですわ。PRIDEやK-1は確かにプロレスに変わる新たなる格闘エンターテイメントとして社会的に認められたけども、今日では衰退してるやんか。ここで競技性だけやのうて、演技性も表現していかなあかんねん。そこで選手個々人の人生を持ち込むことが必要なんや。キムタクや妻夫木の演技みてると、嘘偽りのない普段の自己をさらけ出してるやんか。何の役やっても本人や。これは外部の役割を演じる近代演劇やのうて、内部の自己でその役を引き受ける現代演劇やからなんや。こういった手法がとられるのはな、虚構の役柄では通用せえへんからなんや。関係性に長けた現代人にはな、リアルな自己をさらけ出さなあかん。そこで天山みたいな外部の悪役やのうて、等身大の自己を持ち込む必要があるねん。等身大の自己と自己の対決が現代プロレスなんやで。

【現代プロレスの時と場所と方法は流動的】
いつ戦うか、どこで戦うか、どないして戦うかは、先に決めたら虚構になってしまうやんか。そんな必然的・絶対的な戦いに現代人は胡散臭さを感じ取るねん。まず遺恨あってそのあとそれらは決められるものやろ?肩ぶつかって、その時その場所で素手で殴りあいになるのがほんまのガチゆうものやないか。ディファ有明で5時集合てアホか(笑点)。ほんまの戦いは夜中の丑三つ時にペットボトルの中でも起こりうる偶然的・相対的なものなんや。せやけど今の技術では時と場所は無理やから、方法、つまりルールだけは流動的にせなあかんよ。例えばボクサーとレスラーがたまたま遺恨生じて戦うのやから、一方が著しく有利になるようなルールではあかんねん。その都度戦いの方法は決められるべきなんや。

【現代プロレスは通りすがり】
たとえば現代社会で今の所唯一現代プロレスを標榜するイベント興行IGFは、例えるなら交差点ですわ。それぞれの道を歩んでる通りすがりの個々人が、遺恨で交錯してたまたま火花を散らす場がIGFのリングやねん。参加選手は所属するのやのうて、偶然戦わなかん。プロレスみたいに選手全員が所属してて所属選手同士でやるのは職業としての戦いで、リアリティーに欠けるやろ?世間がひきつけられるのは遺恨の話題性があるからなんや。純粋に競技としてのプロレスが好き、総合が好き、ボクシングが好き、ゴルフが野球がバスケが好きなのは、少数のマニアだけですわ。大多数の世間を巻き込むには通りすがりやないとあかんねん。

【現代プロレスにおける戦いの意味付け】
単なるど付き合いではあかんのやから、その選手の一挙手一投足に意味を持たせんとあかんねん。三崎vs秋山戦は、ワンパンチ、ワンキックに意味を持ってたやんか。見てる人がそのワンパンチを目で追うねん。つまり遺恨が先に生じてるから、三崎もダーティーな秋山を消しにかかってるし、秋山も三崎を消しにかかってる。これは例えてゆうたらその拳には、魂が込められてるねん。単なる職業としての戦いではな、確かに負けが込むと職を失うとかゆう多少の意味は込められてるけども、人々がひきつけられるような意味はないやんか。橋本vs小川ではな、お互いが意地を張り合って遺恨から来る怒りを込めて相手をやっつけたろうと意味が込められてるねん。そやから人は引き込まれていくのやで。これこそが現代プロレスにおける演技性なんや。これはプロレスの嘘の意味付けやない、ほんまの人生に則った意味付けやからこそ世間の心に響くねん。

【現代プロレスの嘘】
そこで一つの疑問が浮かぶねん。おっちゃんのゆうてることはなんかわかった気いするわ、確かに橋本vs小川は偶然の遺恨から生じた、己の人生をかけた、またそれゆえに意味のある戦いやったなあ。せやけどああいった戦いは中々おこらんのとちゃうか、あれを大量生産したらそれこそ嘘になってしまうやんか、云々。どうや、皆もそうおもわへんか?ちゃうねん、実はな、現代プロレスも嘘をつくことによってこういった試合を断続的に生産可能なんや。勿論この嘘はプロレスの嘘とは異なるねん。つまりほんまのような嘘なんや。おっちゃんらが自己自身として普段コミュニケーション行なってる自己はな、近代的自我ゆうねん。皆が頭におっちゃんの人物像をおもい浮かべるとするやろ?やさしくて知的でみんなを楽しませてくれるおっちゃんが思い浮ぶやんか(笑点)。これが近代的自我や。猪木信者で猪木と現代プロレスとを結び付けられるのを嫌ってるHTはん、時代の変化を機敏に察知してプロレスの明日を憂うカズーはん、こういった性格が近代的自我ですわ。せやけどこれは嘘やった。近代的自我自体は、社会における人間が共生するために生じた装置でな、ほんまの自己でもなんでもないねん。ほんまの自己は単に快不快をベースに選択する主体としての自己でな、近代的自我がほんまの自己であるゆう論理的根拠は一切ないねん。つまりこうゆうことですわ、近代プロレスは外の嘘、現代プロレスは内の嘘、嘘である限りは操作可能やから、遺恨に基づいた試合の断続的生産はやれるわけや。

【現代プロレスとIGF】
IGFを近代プロレスとか格闘プロレスとか規定するのには一理あるよ。実際そうやもん(笑点)。アメプロ試合も組み込まれてるし、どこが人生の交錯やねん、て突っ込みたくなるのもうなずけるよ。せやけどな、ほんまに単なるプロレスなのやろうか?それやったら純プロレスラー呼んだらええやんか。猪木は蝶野や三沢は小銭稼ぎしてる、て非難してるねんで?格闘プロレス目指すのやったら、なんで永田にヒョードルやミルコぶつけるねん。ええか、嘘ではもう通用せんことを猪木は見抜いてるねん。猪木のここ10年の言動、行動は現代プロレスへの志向として捉えると全てが一貫するねん。猪木が目指してるのは近代プロレスや格闘プロレスなんかやないよ。北朝鮮興行もジャングル興行も南極興行も、対世界をにらんだ戦略やねん。新日への今回の仕掛けも、古くさい体性つぶしの名分があるからやないか。小川と中邑がイデオロギー対決でほんまに戦ってみい、おもろいやろ?八百長プロレス、職業として戦うだけの総合、それらを超えたもんが現代プロレスなんやで。亀田vs内藤も三崎vs秋山も小川vs橋本も視聴率取るのはみな現代プロレスや。そこには競技とそれにまつわる遺恨が存在してる。

IGFよ、これからも偶然の、高度には必然の人生の交錯の場であれかし!

ほなな。

posted by つるじょあ |12:57 | イノキゲノム | コメント(118) | トラックバック(0)
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2008年02月25日

『現代プロレス概論、近代プロレスから現代プロレスへ 格闘エンターテイメントの変遷 最新の社会科学が示す現代プロレスへの必然性!』

おっちゃんやで~。コメント欄では熱い議論戦わせることが出来てほんまに有益やったわ。せやけどおっちゃん理論/現代プロレス理論は難解や、まだまだおっちゃんの皆へ伝える努力が欠けてるとおもう。そこで改めて現代プロレス論語ることにするわ。ただ、これだけは了解してほしいねん。おっちゃんはええ加減なことゆうてるのとちゃうよ。矛盾してるのを誤魔化してるとか言われるのはな、対立する両者が論理的に突き詰めてない結果や。誤解は議論を進めるうちに氷解することやとおっちゃんはおもてる。これは双方が妥協点見出して歩み寄ることを意味してるのとちゃうねん。お互いが納得するほど議論してへんことを意味してるねん。答え/客観的真理は一つしかないねん、コメント欄での今回の対立は、中途半端な議論の反復で積もり積もった不協和が、一気に噴出した結果やとおもう。こうなったら徹底的にやろうやないか。いけるとこまでいったったらええねん。

【現代プロレス概論】

<時代/社会の発展>
下部構造(経済的土台、生産様式)が上部構造(経済的土台に基づいて形成された政治・法・道徳・宗教・芸術など、イデオロギー)を決定するのはいつの時代もおんなじや。せやけど特定の経済的土台にはな、それに照応した特定のイデオロギーが生じるから内容は全て異なるねん。人々はある生産様式で暮らしてるのやけど、より良い生活を求めて新しい生産様式が生じ、そして次の社会/時代へと発展するわけや。マズローは欲求に位階をもうけて、低次な欲求が充足されると次はより高次な欲求が求められるとしてる。古代・中世・近世・近代・現代の時代区分はな、欲望の発展段階を示してて、各々の生産様式の発展と同時にそこに生きる人々の発展も同時に表してるわけや。つまりその時代の人間は、その時代の生産様式によって規定された社会的存在なんやで。

<近代社会の成立>
欲望の段階が物の豊かさの実現を求めるようになって、時代は近代社会となるねん。物質的欲求の充足ゆう国民的合意に基づいて形成された国家規模の共同体/近代国民国家が、想像の共同体として成立するねん。これは物を効率よく大量生産するためのもんでな、国民/国家が幻想の相互投射に媒介されて、技術的には特定言語の標準化や、小説や新聞やテレビなどによる宣伝や、無名戦士の墓が利用されるねん。その結果会うたこともないのに皆が同朋意識を持つに至るわけや。こうして物の豊かさを実現するために国民一丸となってたのが近代社会や。

<近代スポーツの誕生>
近代スポーツの起源はな、近代イギリスのジェントルマンからやねん。産業革命はイギリスに始まり、19世紀に最も進んでた国がイギリスやった。イギリスの帝国主義的発展や植民地主義の結果世界へ広まることになるねん。経済的膨張の先兵たる航海者や商人たちが、例えば「サッカーのセールスマン」となったわけや。こうして近代国民国家の樹立による国家の暴力の独占を背景に、暴力の応酬から非暴力の応酬として特権階級の遊びから人格形成のために利用されるようになったスポーツは、大衆化(アメリカナイゼーション)を経て経済と結びつくことになるねん。こうして格闘エンターテイメントとしてのプロレスもアメリカで誕生したんや。

<近代プロレスの誕生>
こういった社会でのエンターテイメントはな、国家規模の共同体を肯定するもんが受けるねん。格闘エンターテイメント/プロレスではな、共同体の代表としての英雄である力道山や馬場や猪木が、共同体外の外人レスラーを艱難辛苦を経て最後は打ち倒す予定調和が支持を集めるねん。ここでの競技性・演技性は客観的競技性と客観的演技性でな、外部の役割として皆で役割分担して表現してたらよかったんや。先行き透明な予定調和な社会においてはベタな予定調和が好まれるのやから、真実の強さとか自己自身なんて必要ないねん。せやけど産業構造の変遷と共に近代プロレスも衰退していくことになるねん。

<近代社会における生きてる実感の獲得>
人類はその何百万年の歴史において、直接性によって生きながらえてきたんや。例えば何か触ってても、最初は触ってる感覚あるけども、しばらくしたら触ってるかどうか分からんようになってしまうやんか。それと同様にな、人間も言語/意味だけに過剰に依拠してたら、生きてるかどうかわからんようになって死んでしまうことになるねん。そこで前近代ではな、例えば酩酊物質のシャボテンや、祭祀における生贄や、公開処刑によって感覚に訴えてきたんや。シャボテンでええ気持ちになったり、公開処刑で自己の外に広がる対世界への感受性を調達して生きてる実感を獲得してきたんや。こうした前近代のいわゆる祭りは、共同体の長によって共同体全体を一斉に、定期的且つ受動的に行なわれてたんや。せやけど近代になって人類は初めて意味を追求するようになるねん。国民一丸となって目標達成の為に物の豊かさの実現ゆう意味を追い求めるようになったんや。こうして近代社会での生きてる実感は、意味を経由して共同体外部に広がる対世界への感受性によって獲得することになるねん。プロレスやったら外部から例えば耳削ぎ魔がやってきてそれに恐怖して対世界への感受性が更新されるねん。そして共同体の英雄がそれを倒すことによって共同体はカタルシスを獲得するわけや。こうして共同体外部への感受性を獲得して生きてる実感を獲得してたのやけど、物の豊かさが実現されると共同体は衰退、生きてる実感の獲得形式も前近代のやり方に帰ることになるねん。

<現代社会の成立>
近代社会から現代社会への変容は、産業化つまり第2次産業重視型の段階から情報化つまり第3次産業重視型の段階に変わることや。産業化の時代には国民一丸となって物の豊かさを追求してたけど、情報化の時代には物の豊かさが達成されてるから、何が幸せで何がそうやないのか個々人に分化することになるねん。産業化の時代には国策もあって重電産業が尊重されて企業生命も長かったけど、情報化の時代には大企業でも将来は約束されてないねん。制度は共同体に過剰に依存せんようなもんが作られることになるし、例えば国家規模の共同体では一定の社会的役割を担ってた暴力団は1992年暴対法で取り締まられることになるねん。

<現代社会における生きてる実感の獲得>
国家規模の共同体が衰退して、近代国民国家による外部への感受性調達機能が失われた今、前近代に人類が何百万年も行なってきた伝統的な生きてる実感の獲得形式に帰ることは当然の論理的帰結や。せやけど、その時間と方法は前近代とは異なるねん。つまり前近代は単純な社会やから、社会全体で一斉に定期的且つ受動的に獲得していったらよかったのやけど、現代社会は複雑な社会やから、一斉にやってたら取引や納品の時期が合わんようになってしまうやんか。そこで直接性の獲得は個々人の余暇に個々人の責任で行なわれることになるねん。つまり定期的且つ受動性から、不定期且つ能動性になるんや。近代から現代への変わり目は90年代なのやけど、近代的ソリダリテ(連帯)に見放されて自殺数が増加するのも90年代ですわ。近代的な言語/意味に依拠した演歌は衰退し、感覚に訴えるメロディー重視の直接性/体感の音楽が人気を博し、アイドルも憧れの縦の関係の光GENJIから今ここを楽しませてくれる関係性の横の関係のSMAPへ、少女漫画も不幸や悪役を退けて最後は憧れの君と結ばれる近代的な予定調和から、直接性の性的なものや関係性のディスコミュニケーションへと変容していくねん。そうゆうわけでな、近代性に留まるもんは衰退していくし、現代化できたもんは上昇していくよ。

<MMAの誕生>
個々人の余暇に個々人の責任で生きてる実感を獲得するのが現代社会である以上、格闘エンターテイメントは人々に選択してもらうようなコンテンツを表現していかなあかん。近代プロレスの衰退は、近代国民国家による外部の感受性調達機能が失われたにもかかわらず、近代でやってたことを反復してるからなんや。こうして近代プロレスはMMAに取って代わられることになるねん。前近代の公開処刑ではな、「殺せ!」て大衆は叫んで処刑されると皆で狂喜乱舞して喜ぶねん。それと同様に初期のMMAでもな、「殴れ!」「何でもありだぞ!」とか叫んで人が殴られて倒れると狂喜乱舞して喜ぶねん。これはな、前近代の生きてる実感の獲得形式に回帰したことを意味してるのや。

<現代プロレスの誕生>
生きてる実感/直接性を提供することになった格闘エンターテイメント/MMAやけど、これは実は現代社会の格闘エンターテイメントの自意識やないねん。現代社会も成熟するとな、単なるど突き合いやのうて、直接性に高度な要求をするようになるねん。近代は同胞意識が前提にあった共同体社会やったから、親と子、夫と妻、男と女、隣人、先生と生徒、上司と部下のようなベタな役割通りの外部のコミュニケーションで済んだのやけど、現代社会は同胞の前提がないから、皆が他人として現れるねん。外部としての役割の自明性は揺らいでるから、親やからとか、男やからとかなんぼ役割で迫っても、人は動かへんねん。先生やからゆうて役割に依存してたら学級崩壊や。生徒が騒ぐのは先生個人に魅力がないからなんやで。現代社会は本人自身のコミュニケーション能力の高低で自由に振舞えるかが決定されるねん。そうゆうわけでな、関係性に長けたコミュニケーション的人間が志向される社会では関係性の高いエンターテイメントが希求されるから、底の浅いバレバレのプロレスみてもな、「なんだこれ、八百長だろ」で嘲笑されてしまうねん。天山が「何だコラー、殺すぞコラー!」ゆうても現代人の心には届かへんねん。こうして現代格闘エンターテイメントには、直接性のみやのうて人々をひきつけるような関係性/物語を紡ぐ能力が求められるわけや。結論として現代格闘技は直接性と関係性、すなわち格闘技でゆう所の競技性と演技性の統合が理念となることは必然的な帰結ですわ。

今回はおさらいやから、流してよんでくれ。次回は現代プロレスの本質に迫りまっせ!

ほなな。

posted by つるじょあ |23:13 | イノキゲノム | コメント(24) | トラックバック(0)
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2008年02月17日

『燃える闘魂で世界を焼き尽くせ! 芽吹く現代プロレス、幾多の人生が交錯する格闘新次元 伸るか反るか、犀は投げられた! とことん恥をかけイノキゲノム!』

おっちゃんやで~。

IGF興行も第4回、最初の期待感も幻想も出し尽くしてその全貌が剥きだしになったようやな。あげ底せんほんまの力が試されてるときや。とことん恥をかいたらええねん。そうゆう意味でゲノム色がでたええ興行になったのとちゃうかな。

今回の興行の客観的な見どころはな、1)夥しいゲストらと、2)ブッカーTvsTAJIRIと、3)ジョシュvs小川と、4)小川と田村の遺恨や。1)は完全に過去の幻想消費でな、現代プロレスの理念とは異なってるけど、興行として成り立たせるためには当然の選択やと思う。使えるもんは使こたらええねん。2)も興行として成り立たせるためのアングルの代替のプロレス枠として選択されたもんや。

3)は競技性と演技性の統合の過程におけるもんとして受け取るべきやな。小川はリハビリ中で、ジョシュは大根やけど、中々おもろかったとおもうで。小川がジョシュに勝ったとか、STOで最後決まったとか言葉だけで否定するのやのうて、実際の映像見たらわかるこっちゃ。少なくとも中邑vs棚橋のぬるま湯に比べたら100倍もましや。ジョシュvs小川こそ現代プロレスやねん。小川の空港への直談判、猪木のジョシュへの来訪、リング上でのにらみ合い。ジョシュの蹴りみたか?早い打撃のラッシュみたか?小川のアピールみたか?小川の腕ひしぎみたか?電光石火のSTOみたか?お互い意思疎通せえへん戦いがガチて呼ばれるねん。小川の客へのアピールも誤審も再試合も猪木リングインも全てリアルや。あれで低段階やから、これから選手が成長したり高い物語性や感情むき出しになったら、亀田みたいになるよ。ええか、重要なことゆうで、延長線上に亀田がおることが大切なんや。視聴率50%が延長線上にあることが大切やねん。今のプロレスの延長線上に亀田はおらへんよ。

今回垣間見えた新しい質、現代プロレスの萌芽はな、浜中の田村批判や人喰いの田村挑発、そして小川による田村挑発や。今までは小川だけやったけど、ついに他の選手も物語を自ら紡ぐことで己の価値を高めることに気付いたんや。これこそ亀田イズム、猪木イズムやないか?これは意思疎通せえへんからこそのガチの演技性や。つまり自意識むき出しの、本人の感情に基づいたほんまの挑発なんや。本人の人生からの発露、物語やからこそ人は引き込まれていくねん。今回は萌芽やけど、芽もいずれは大木になるよ。全試合遺恨、それが次々と物語り紡いでワイドショーにぎわすねん。橋本vs小川・亀田vs内藤レベルが全試合毎回組まれてみい、野球なんて吹き飛ぶよ。

猪木への遺恨やアングル戦の物語はどないなったんやろ。田村との物語の行方は?義生は飯喰いから人喰いにかわるのやろか?浜中は吐いた唾どないするのやろ?安田は這い上がれるのやろうか?トムコは新日との抗争の口火になるのやろか?まだまだ低レベルでくすぶってるイノキゲノムやけど、犀はなげられたんや。いけるとこまでいってみるしかないやろ。お客さんに笑われた分だけ燃え上がるんや、燃える闘魂で世界を焼き尽くせ!

ほなな。

ジョシュvs小川

posted by つるじょあ |22:53 | イノキゲノム | コメント(182) | トラックバック(0)
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2008年02月16日

『人生の無意味性、無が進入した現代社会 無から紡ぐ物語、客観的演技性から主観的演技性へ』

東シナ海の虎、おっちゃんやで~(笑点)。今回はおっちゃん理論の真髄、自己演出について説明するで。

【第1自己と第2自己】
自己には分かりやすうゆうたら2つあるねん。これを第1自己と第2自己と呼ぶことにするわ。第1自己は皆が普段自己とし根拠付けてる個性的な自己でな、第2自己は快不快を感じる選択主体としての自己や。これを心と体、精神と肉体、人格と身体、個性と物質てゆうたらわかるやろうか?

【第2自己のコミュニケーション】
第1自己と第2自己のコミュニケーションは異なるねん。第1自己は、人が死んだら悲しんだり、自己を否定されたら憤ったりあるいは自殺したり、褒められたら喜んだりするねん。人々が普段日常で行なってるのがこの第1自己でのコミュニケーションや。せやけど何らかの理由で第1自己やのうて第2自己でコミュニケーションするもんがいてるねん。例えばいたずらしておかんに叱られるとするやんか。その叱責があまりにも激しいと、自らを守るためにそのコミュニケーションを外すことがあるねん。つまり叱りつけてる母親の唇がパクパク動いてるなあ、とかこの動きは脳で刺激は生じて電子パルスによって命令されてるからなんやろうなあ、とか物質的な要素に還元して耐え難いコミュニケーションを一時的に外して、自己防衛するわけや。このコミュニケーションこそ第2の自己に基づいたものでな、世の中に広がってるのは物質的世界で全ては無意味とする、人間的な第1自己とは異なるコミュニケーションなんや。せやけど第1自己のコミュニケーションから第2自己のコミュニケーションへと鞍替えすることは、一般には一時的なもんでな、すぐ人間的な第1自己でのコミュニケーションに復帰するやんか。せやけど例えば酒鬼薔薇聖斗は常日頃から行なってるねん。酒鬼薔薇は余ほどつらかったのやろうなあ、自らを防衛するために物質的な要素に還元して生きてきたんや。人がキャベツ壊して自責の念にかられるやろうか?酒鬼薔薇は人がキャベツ壊すと同様に平気で人を壊すねん。先生も生徒も、酒鬼薔薇は何を聞いても余り反応してなかった、てゆうてたけど、これは物質的要素に還元してた証拠なんやで。第1自己のコミュニケーションを外してたんや。

【第2自己による第1自己の操作】
猪木は「俺は二人いるんじゃないかと思うときがある」てゆうてた。そして「リング上で相手を見るのと同時に、観客席から自分を見る」ともゆうてた。そして「リングというの名の格闘キャンパスに観客が喜ぶような表現をする」わけや。これはつまり第1自己と第2自己を意識した上で、第1自己は対戦相手と遺恨に基づいた人間的コミュニケーションを交わしつつも第2自己は観客席から客観的に自己を観察して、そして観客が喜ぶように第2自己によって第1自己を操作する、ことを意味してるねん。これがおっちゃんのゆうてる演技性、自己演出なんや。外部の客観的役割(プロレス)やのうて、近代的自我を自己超克によって絶えず更新し物語を紡ぐこと、これこそが現代プロレスラーに求められる主観的演技性なんや。

次回は前田OUTSIDERについて書くわ。ほなな。

posted by つるじょあ |00:04 | イノキゲノム | コメント(33) | トラックバック(0)
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2008年02月15日

『DREAM、戦極は旗揚げ前から既に古い! 常に更新して成長する格闘技イベント、その名も・・・IGF!』

おっちゃんやで~。戦極に続いてDREAM旗揚げで、格闘技界は混迷してるようやけど、ようするに再編成してるだけでな、戦極とDREAMでPRIDEの既得権益を取り合っただけのことやがな。これは新しいことを打ち出したわけやないから、格闘技界にとって特にプラスになることやないよ。結局すぐ幻想使い果たして衰亡するのは火を見るよりも明らかや。合体して既存のMMAを惰性で行なうことは、谷川が目先の利益に執着して選手を組み替えるだけの単なる幻想消費同様で、そこからどないして上昇するねんな。市場拡大するには新しい価値を創造していかなあかん。そうゆう意味でDREAMも戦極も旗揚げ前から既に死んでるねん。

格闘技界全体がその市場を拡大しようとおもたら、理念を転換していかなあかん。今もMMAは低迷するボクシング同様素朴に競技性追ってるだけでな、競技性に興味ある少数派のマニアは振り向いても多数派の世間は見向きもせえへんねん。そこで競技性のみやのうて亀田みたいにワイドショーで取り上げられるような自己演出をしていかなあかん。世間が振り向くような話題を提供していかなあかん。つまり競技性と演技性を統合していってはじめて格闘技は今の社会に即したエンターテイメントになるねん。そうしてはじめて野球やサッカーと戦えるようになるねん。この競技性と演技性の統合によるエンターテイメントこそ、おっちゃんが目指すべき現代プロレスでな、これこそプロレス・総合に続く現代社会の格闘エンターテイメントなんやで。そこで今回は現代プロレスを具体的に説明してみるわ。

【現代プロレスのルール】
ルールは試合ごとに決めていくねん。ボクシングvsアマレスやのにMMAルールではボクシングのええところが殺されてしまうやんか。戦いはフィールドをまたいで偶然勃発するもんや。アリvs猪木みたいにな、遺恨で戦いが生じたらその状況で決めたらええねん。これこそ高い社会の流動性に即した形でな、ルールに融通性無かったら試合が硬直してしまうよ。MMAルールはMMAのチャンピオン決めるルールや。MMAのチャンピオンはMMAの最強であって、全格闘技における最強なわけやないねん。総合格闘家同士による総合ルールの戦いでは演出においては予定調和や、先に限定されたルールありきでは多種多様な戦いがありうる現代プロレスに対応でけへんよ。

【場所と時間】
現代プロレスは個々人の人生の交錯やから、道端でも水中でもベットの下でも起こりうるし、朝でも昼でも夜中の1時でも起こりうるねん。これこそ計算の無いリアルな戦いやろ?せやけど現時点ではそれらを放送することは不可能や。そこで妥協して両国国技館とか有明コロシアムにお客さんの都合にあわしてはじめるねん。猪木は離婚の危機でヤケクソになって巌流島で戦ったし、小川も山本宜久にごちゃごちゃと邪魔臭いから巌流島での戦いを提案してたやんか。そうなんや、ほんまのリアルはそこにこそあるねん。

【現代プロレスラー】
近代プロレスラーは近代プロレスラーとして定義可能なんや。これはな、プロレスの内容は全てが決定されてるからや。そこで求められるのは、個人の役割としての適格性と教育を吸収する素質や。ターザン山本は「プロレスはプロレスです」て馬場にゆうて、それを馬場が全日のキャッチコピーとして採用したそうやけど、これは近代プロレスが定義できる外部の客観性であることを意味してるねん。レスラーが忠誠心もたんと自我もってみい、信頼関係で成り立ってるプロレスは成立せえへんよ。そやから近代プロレスラーは近代プロレスラーとして定義できるねん。せやけど現代プロレスラーは現代プロレスラーとして定義は不可能や。なんでかゆうたら現代プロレスは内部の主観性であり絶え間なく更新されるからや。プロレスラーと定義した時点でそれはリアリティーを失うた客観性になってしまうよ。現代プロレスをするもんは、あくまでも自意識そのままで、ハプニングの遺恨に基づいて偶然にリング上にあがっていかなあかんねん。つまり近代プロレスラーは定義できる客観的存在やけど、現代プロレスラーは理念型としての主観的存在、運動的存在やねん。関係が関係自身に関係する、すなわち関係的存在としての自己が絶えず理念としての自己自身へと運動していく絶え間ない自己更新こそ、組み換え可能な近代プロレスラーやない現代プロレスラーの本懐なんやで。一言でゆうたらな、近代プロレスラーは「在るもの」、現代プロレスラーは「為るもの」なんやで。

【全員小川は無個性か?】
おっちゃんが現役で高く評価してる一人が小川直也や。そやから小川を理想として皆小川に近づいていかなあかんねん。さて、その総小川化は、量産型小川の集合ゆう形の無個性の集まりを意味するのやろうか?いや、そうやないねん。小川を理想とすることは小川を単に真似することやないねん。現代プロレスラーは定義不可能ゆえに捉えても次の瞬間には別の人間になってるねん。捉えられた小川は歴史時間的に出現した過去の小川、時間から抜き出されたある時期の小川であって、それは生き生きと生成してる歴史時間的な小川とは無関係や。小川も絶えず更新してるねん。そやから小川に近づくとはおんなじ理念を掲げることを意味するねん。すなわち小川に近づくものは小川から離れ、小川から離れるものは小川に近づくねん。個性的になるとは自立することや。誰でもない比類なき個性的な自己になることこそ、客観的な小川から離れて主観的な小川を捉えることになるねん。小川はかつて村上にゆうたやんか、「嫌なことは嫌といえ」て。これは自立を促すことや。単に存在するのやのうて、自立して比類なき自己になることによって、人は小川から離れて近づくことを意味してるのやで。

【どこからでも発生可能な現代プロレス】
このような目指すべき、為るべき現代プロレスラーは、理念である以上どこからでもアクセス可能なんや。例えば朝青龍が口滑らして「プロレスは八百長だろ」てゆうたとするやんか。そしたらそれに呼応して中邑が「ふざけんじゃねえ」てゆうて取り組み中の大相撲夏場所に乗り込んでいくねん。こらめちゃくちゃ盛り上がるよ。砂かぶりから土俵上の朝青龍を挑発するねん。内館牧子も「前代未聞の珍事」て驚愕するし、世間も騒然としてワイドショーで連日放送するよ。これを興行としてどこかで戦えるようにもっていってみい、世間は皆みるよ。視聴率80%いくのとちゃうか?これは朝青龍の発言が真実やからこそ成立するもんでな、中邑はそこから世間を巻き込むような物語を紡ぐからこそ世間の注目を浴びるねん。こんな感じでな、現代プロレスは理念やから、どこからでも発信可能やねん。

【MMAの死】
MMAには、ルールは一定のパラダイムが存在してて、演技性においては不変で、既存の幻想消費して、リング上でしか発生せんMMAは既に死んでるよ。これからは世間に対して高い関係性に基づいた物語を発信していかなあかんねん。

次回は今回言及せえへんかった、おっちゃん理論の真髄自己演出について説明するで!

ほなな。

posted by つるじょあ |20:55 | イノキゲノム | コメント(45) | トラックバック(0)
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2008年02月12日

『さらば藤田! リアルビーストの抽象化という矛盾 テレ東発、アニメ版ドンキーコングの低視聴率』

おっちゃんやで~。 

残念やけど藤田はあかん方向にいってもうたがな。PRIDEの既得権益目指す競技性偏向イベント「戦極」に参加するそうや。

藤田はリアルビーストて呼ばれてる。せやけどそれはほんまにそうなのやろうか?リアルにも二つあるねん。これは競技性と演技性や。そのリアリティーは対戦相手と、お客さん相手に発揮される戦いなんや。つまり真のリアルは二義性でな、選手にはこの二つが試されるねん。せやけど藤田は結局競技性のみを選択してもうた。つまり片方しかリアルになれんと抽象性の深みにはまってしもたんや。

そもそも猪木も藤田には期待してなかったんや。小川には色々と説いてたけど、藤田にはほとんど言葉をかけんかったそうや。端的に小川の代わりの持ち駒やったんやな。そもそも最強目指すとかゆうて迷走してたやんか。最強目指してどないすんねんな。途中で最強なんてもう目指さない、とかゆうて悟ったかと期待してたらPRIDE出戻って今再び戦極や。結局強いだけや無いか。それでどないして人に夢与えられるねん。

この体たらく、抽象化、アニメ化は、競技性の志向から解脱できんかった藤田の才覚や。小銭稼ぎにいく労働者に天下取れるわけ無いよ。さらば、藤田!

ほなな。

posted by つるじょあ |22:34 | イノキゲノム | コメント(35) | トラックバック(0)
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2008年02月12日

『ジョシュを殺せ! 激昂せよ小川、怒りの物語を紡げ 格闘戦国時代を生き残るのは誰か? IGFの運命を決める2.16興行!』

おっちゃんやで~。これから前バリバリ更新するで!(笑点)

【おさらい】
競技性のみで通用してたMMAは終焉したんや。ガチンコ対決で人気を博してたPRIDE、K-1、HEROSは軒並み霧消・退潮して新たなる格闘エンターテイメントを打ち立てなあかんねん。競技性のみに優れたシュルト・長谷川・ヒョードルでは世間は振り向かへんねん。そこで新たなる格闘エンターテイメントにはどの様なことが求められるのやろうか?

皆もご存知の通り、世間の価値観は一昔前と違て多様化してる。一言で現代社会ゆうてもな、様々な共同体が様々な規模で存在してるから、おんなじメッセージを社会に発信しても受け取り方も様々になるねん。マーシーかてかつてやったら変態として端的に否定されるところやけど、受け取るパーソナリティが異なったら肯定されて神にもなるねん。そうゆうわけでな、世間一般に肯定されることは論理的に不可能やから、必然と現代的に注目される英雄は称賛されつつも非難されるようになるねん。亀田や小川やパリス・ヒルトンが否定も肯定も備えるのは当たり前のことや。

また価値観の多様化はディスコミュニケーション(コミュニケーション不全)をもたらしたんや。そこで現代人にとってはそこで便益を引き出すための他者とのコミュニケーションが重要になるねん。そんな社会で世間からエンターテイメントに要求されるのは、高い関係性や。かつてのベタなコミュニケーションでは人々に飽きられてしまうよ。今世間に人気あるアイドルは例えばSMAPや。SMAPはコミュニケーション能力が高くてな、気取らんと3枚目のお笑いもやるやんか。彼らと一緒におったら楽しませてくれるとおもうから人気があるねん。

キムタクも仲居も金太郎飴同様でな、どこきってもおんなじやねん。つまりかっこつけんといつも自意識のままでやってるねん。例えばアイドルやっても役者として教師役やっても皆キムタクはキムタクなんや。これはな、作った外部の客観的役割では今の関係性の発達した時代ではその嘘が見抜かれてしまうからなんや。そやからリアリティーある内部の主観的役割、すなわち自意識をさらけ出すからこそ人々に受けるねん。

そこでや、格闘エンターテイメントも自意識で勝負せなあかん時代にはいったんや。単なるどつきあいではあかんし、単なる外部の客観的演技性でもあかん。そこで選手には高いコミュニケーション能力が求められるねん。そしてリングで戦うのやから、自意識がそこで戦う必然性を表現せなあかん。

【小川に要求されるもの】
小川に求められてるのは試合へのおもろい意味づけとおもろい試合をすることや。前回の猪木との遺恨で火い付いたやんか。あの火は消えてないねん。今もメラメラと燃えて今に続いてるねん。小川の狙いはIGFでイニシアチブを獲得することや。中心に立ってたらなんぼでも物語り紡げるやんか。主役にならんでなにが人生やろう。プロレスやったら嘘になるし、MMAではありえへんけどIGFではそれが可能なんやで。ジョシュなんて強いだけの凡人や。さっさと殺ってほおりだしたらええねん。PRIDEの既得権益目指して吉田と無意味などつきあいしてたらええやないか。小川がジョシュ殺ったら猪木もそれは認めなあかんようになるよ。ジョシュ殺ってアングル戦反故にしたら猪木は燃え盛る炎に水差すことになるやんか。燃える闘魂が火消してどないするねんな。小川やったらアングルを懐深く攻めさせながらも最後は逆転のSTOで盛り上げるよ。そこから小川の世間巻き込む物語が見られるはずや。朝青龍か、永田か、はたまた井上康生か。何が起こるかわからへんIGFこそ現代社会における格闘技の新しい自意識なんやで。

ほなな。

posted by つるじょあ |22:07 | イノキゲノム | コメント(57) | トラックバック(0)
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2008年02月06日

『現代プロレススーパースター列伝 第6回 アントニオ猪木』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第6回 アントニオ猪木

思想:個人主義 格闘技:現代プロレス

今回はアントニオ猪木について書くわ。猪木は日本で石炭問屋を営む裕福な家庭で生まれ育ったのやけど、石炭から石油へのエネルギー源の転換を受けて実家は倒産、政府に見捨てられブラジルで農夫として過酷な労働状況の中生活してたんや。そんな中、ブラジルに遠征中やった力道山にスカウトされて、力道山亡き後は馬場と共にプロレスを牽引したんや。そして新イベントをプロデュースして今も尚格闘エンターテイメントの第一線で戦ってるねん。

【共同体主義と個人主義】
猪木は日本人にありがちな共同体主義者やないねん。共同体社会では上司のゆうことを聞くことが尊ばれるのやけど、猪木は力道山の余りのしごきに殺意抱いたこともあったし、ゆうこと聞かん猪木を力道山も持て余してた。また共同体では上下関係はっきりさせるためにいじめが横行するのやけど、猪木はそうゆうのを嫌ってた。そやから新日では全日と違うていじめはなかったんや。また猪木は新人のアナウンサーにも敬語で話したりするし、初めて会うた人とでもすぐに打ち解けるねん。誰に対しても平等に接してたんや。片や共同体主義の権化、馬場はどうやろうか?馬場はな、初めて会うた人には心を開かへんねん。ただ一度心開くとごっつ打ち解けるねん。これはな、共同体主義者は共同体を大切にするから、まず仲間かどうか試してるわけや。藤原が全日行ったときも、馬場に試されてたことを肌で実感したそうや。

こうした猪木の尊厳観は日本的な共同体主義と違うて個人主義やねん。そやからたまに前田と猪木は似てるとかいわれることあるけど、全然違うねん。馬場同様、前田の尊厳観は枢軸国的な共同体に尊厳を置く依存的尊厳観で、猪木の尊厳観は連合国的な自己に尊厳を置く自立的尊厳観や。前者では共同体に尽くすことが尊ばれるけど、後者では自立することが尊ばれるねん。税金観でゆうたらな、前者は年貢の延長線上や、お上に召し上げられる感覚があるねん。後者は開拓時代の自立した個々人がならず者や盗賊から身を守るために出し合う感覚があるねん。そやから依存的尊厳観においては協調性が重視されるし、自立的尊厳観では自立が重視されるねん。そうゆう訳でな、おんなじどつきでも、前田のどつきは協調せえゆう文脈で、猪木のどつきは自立せえゆう文脈やから、全然違うねん。具体的にゆうたらな、前田による坂田のどつきは共同体における成員として分不相応に調子に乗ってたから行なわれたもんで、猪木による中邑へのどつきは自立した個人としては不甲斐ないから行われたものやったんや。かつて日本は国家全体で共同体主義やったのやから、時代背景考えると猪木は特異な尊厳観持ってるといえるやろう。

【自立を促す実存哲学】
猪木は企業成功者にありがちな実存哲学の披瀝を行なってる。闘魂とは己に打ち克つこと、て猪木は定義してるのやけど、つまりこれは自己の殻を打ち破って成長・自立していく概念なんや。この自己超克とは一言でゆうたら実存するゆうこと、つまり関係が関係自身に関係することや。最初の関係とは自己関係でありこれは無限性と有限性、可能性と現実性の関係項を持ってる。自己関係自身とは自己関係が目指すべき理念でな、自己関係は4つの関係項を総合して自己関係自身へと近づくんや。この自己関係の自己関係自身への運動が実存するゆうこと、すなわち闘魂なんや。そやから企業成功者が主張することは、結局は無限的なもの、有限的なもの、可能的なもの、現実的なもののいずれにも傾くことなく自己を総合し正しく自己自身となって自立していくことを意味してるねん。そこで猪木の実存哲学的発言を一つ一つ検証してみるわ。

「元気があれば何でもできる」
実存哲学では自己超克するために必要なものとして情熱を挙げてる。人はこの情熱によって先の4つの関係項を総合して自立していくわけやけど、猪木はこの情熱を元気としてるねん。そやから自立を促すべく皆に元気を持て、てゆうてるわけなんや。実存哲学の根本は情熱、闘魂哲学の根本は元気、これはおんなじことなんやで。情熱に基づいて試行錯誤して自己を自立へと導いていくこと、これが実存するゆうことであり、闘魂するゆうことなんや。

「限界なんて言葉はこの世の中にはない、限界というから限界が出来るんだ」
近代化以降人々は過剰に言語に依拠するようになったんや。それは複雑な社会が要請するからなんやけど、言語に依拠する分行動するよりもまず頭で分析して勝手に限界を設けてしまうようになるねん。こうして人は行動せんようになってしもうた。人は行動し試行錯誤を重ねて失敗に基づいて成長していくのやけど、現代人は行動より先に失敗の臭いを嗅ぎつけて行動せえへん。限界は賢すぎる人間の言い訳なんや。その結果人々は出来る範囲内で行動するようになって、自己自身を生きるのやのうて会社に、社会に隷属するようになってしまう。せやけど自己超克する人間は情熱に基づいた行動によって自己自身へと近づいていくねん。

「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむ無かれ、危ぶめば道は無し。 踏み出せば、その一足が道となり、 その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」
これは皆もよう知ってるやろ?これもな、失敗を予期したり限界を設けたり損得を考えて行動を回避するのやのうて、目標を達成するにはまず踏み出すこと、行動した後に考えるべきてゆうてるねん。

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる本当の自分が見えてくる」
これも頭で考えて失敗を回避して格好つけたりえらぶったりするのやのうて、考えずに行動せえ、てゆうてるねん。つまり馬鹿とはほんまのアホやのうて、考えないことを意味してるのやで。

「人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく」
これも実存哲学や。老いゆうのは身体的なもんやのうて、精神的なもんやねん。行動を回避する人間に成長は無いけども、逆に言えば行動によって自己超克する人間はいくつになっても成長できるねん。老いとは己に限界を設けた者に降りかかることでな、行動をせずにただ惰性に生きて死んだ目をした若者が果たして若いと言えるのやろうか。

「地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ」
いくら安全圏で語ってもそれは自己を温存するだけで何も生みださへんねん。概念をいくら重ねても何も生み出さへんねん。とにかくことを為すには何事も行動に移さなあかんのや。

「オレは人生のホームレスだ」
ホームとは共同体のことでな、馬場や前田みたいに共同体に所属するやり方では成長はないねん。実存する自己は単独者であって、単なる役割として本質規定でけるような所属する存在であってはあかんねん。形だけ所属することはありえても、所属してることにほんまに誇りを獲得してたら組織に埋没してしまうよ。それは隷属することであり、自己自身から離れることなんや。

以上が実存哲学でな、猪木は元気のない、そして権益確保の上で行動せん大衆や格闘家たちに気付きを供給して自立へと促してるねん。これはこう言えるやろう、つまり猪木に近づくもんは猪木から離れ、猪木から離れるもんは猪木に近づく、これこそが自立ゆうことや。すなわち小川が猪木頼ってたらそれは猪木に近づくのやけど自立を謳ってる猪木からは離れることになるねん。逆に猪木に依存せんと己で天下取ったろうとしたら猪木から離れるのやけど自立を謳ってる猪木に近づくことになるねん。猪木が小川や皆に期待してるのは、馬場や前田みたいな一致団結やのうて、個々人の自立・大成なんや。能力主義の現代社会に即したこの実存形式こそ、近代から現代に移行しても社会に要求されてる猪木の魅力やないか?

【自己を相対化するポスト構造主義哲学】
せやけど猪木の真骨頂は実存を超えた発言をする所や。今までの主張は所詮、企業成功者やったら誰でも口にする自立に関するテーゼや。例えばスティーブ・ジョブスは「ハングリーであれ、馬鹿であれ」てゆうてる。彼にとっての情熱、元気は飢餓感で表現されてて、馬鹿に慣れは同意味や。理論的にゆうたら4つの関係項を総合することで、皆経験に頼ってゆうてるから用語は異なるけどもおんなじことゆうてるねん。猪木の偉大さは、そういった自己を超えて実存哲学からポスト構造主義哲学へ、つまり自己を相対化した上での享楽についても言及するところなんや。これは成功することだけを第一義に考えてる企業成功者には欠けてる文脈や。

「俺は二人いるんじゃないか、と思う時がある」
猪木は鋭い感性で、自己を二義性を正しく捉えてる。自己は近代的自我としての自己と、快・不快を感じる選択主体としての自己があるねん。大抵の成功者は前者のみに言及する場合がほとんどや。せやけど猪木は近代的自我を見つめるもう一つの自己についても言及してる。前者の近代的自我とは社会で共生する為の装置でな、真の自己でもなんでもない主観的演技性なんや。それは後者の視座によって自己を相対化した上で自己演出が可能になるねん。

「道はどんなに険しくとも笑いながら歩いて行こうぜ」
道とは自己超克していく人生を指してるのやけど、その自己を絶対視するあまり、失敗したら落ち込んで苦しんだり時には自殺することもあるやんか。せやけど猪木はそれを否定するねん。なんでかゆうたら近代的自我としての自己が虚偽やった以上は、それは相対性やからや。なんでそんな自己が全てやと思い込んで自殺せなあかんのや?自己が虚偽であり共生の装置である以上は、それを用いて楽しもうやないか、猪木はそうゆうてるねん。

【コミットゲーム】
人間の生き方は二つしかないねん。これはポスト構造主義哲学でゆうたら意味と強度や。意味的生き方とは目標を合理的に達成する生き方でな、これは人類史で見たら特異な、近代社会において初めて生じた生き方なんや。強度とは感覚的な生き方でな、人類は近代以前はこれによって何百万年もいきてきたんや。さて、強度的生き方はさらに2つに分けれるねん。これは内的享楽追求と外的享楽追及や。前者は壁紙を張り替えたり服を着替えたりして占いやったりして、小さなことで生きてる実感を獲得する生き方や。後者は薬物や性的快楽や暴力などの外的な刺激によって生きてる実感を獲得する生き方や。せやけどこれはな、刺激もしばらくすると慣れで感じんようになってしまうから、さらに刺激を亢進せなあかんようになって自らを傷つけることになりがちや。そこでそうならんような外的享楽追及として存在してるのがコミットゲームや。これは虚構の世界に敢えてコミットしてそれを真実として扱いながらも、どこかでそれを自覚してる生き方でや。例えばスケボー大会にでたりするねん。スケボーに意味無いことはわかってるよ、せやけど敢えてスケボーに意味を見出す大会に、世界にコミットして試行錯誤して楽しむのが無意味な人生を歓喜に変える人の智慧やないか?そう、この生き方こそアントニオ猪木の生き方やねん。アントン・フーズ、アントン・ハイセル、国会議員、動物保護、エネルギー問題、珊瑚保護、緑化運動、健康食品、健康器具、外交問題、日本プロレス、東京プロレス、新日本プロレス、UFO、猪木事務所、IGFなど様々な企業起こしたり社会問題取り組んだり格闘技やってる。共同体から隔絶し自己を相対化し、その上で生きてる実感を獲得するために次々とあらゆることにコミットしていくねん。自己を相対化できん安田は借金が正にリアルな自己に掛かってくるから苦しむねん。せやけど猪木は「どんどん借金しろ、人生に張りがでるぞ」てゆうて笑ってた。それはな、借金を返すゲームなんや。所詮人生に意味なんてないのやから、借金返す名分で次々と様々なことに挑戦できる、猪木はそうゆうてるのやで。

【格闘技の系譜学】
プロレスとMMAを分けて横に並べることは、格闘エンターテイメントの系譜を無視した全くの論理的でたらめなんや。なんでかゆうたら格闘技エンターテイメントの系譜は、プロレスから総合に移ってるからや。古代から中世、そして近世から近代になって現代になるのは、時代の系譜や。それと同様に格闘エンターテイメントにも歴史的変遷があるねん。大衆に熱狂されてたものも、いずれは役に立たんようになるよ。そこでそれは新しく生まれかわらなあかんねん。プロレスは近代社会での格闘エンタや。プロレスと総合を区別する無知なものもいてるけど、例えば中世と近代は同時に並べることができるのやろうか?格闘エンタも、プロレスと総合を並べることなんてできるわけないよ。それは格闘エンタの系譜を無視した倒錯や。既存のプロレスは、格闘エンターテイメントとしてはその虚偽性が看破されてる以上は、最早格闘エンタやない「何か」なんやで。おっちゃんはこれを筋肉ダンス倶楽部て呼んでるねん(笑点)。猪木の鋭さは、実存する自己、自己を相対化することから来る享楽のみに止まらず時代分析にも及んでるねん。

「オレはプロレスと格闘技を分けて考えていないから」
格闘技は時代と共に変遷して近代においてはプロレスとなったんや。せやけど現代に入るとプロレスは社会に合わんようになって廃棄されることになるねん。そこで格闘技は新たなる形にならんとあかん。そこで生まれるのが現代プロレスな訳やけど、その萌芽として競技性に偏向した総合が生まれ、それは演技性と結びついてついには現代プロレスとなるねん。そんな格闘技の伝統性においてプロレスと総合を区別することは伝統性を切断することや。それやのに区別して横に並べて捉えることは、格闘技の伝統性への無知から来る誤謬やないか?

「アメリカのプロレスは日本では受ける土壌が無い」
アメリカはキリスト教的一神教の宗教圏に属す宗教社会であって、日本は宗教の無い共同体社会や。前者では倫理(エートス)が、後者では道徳が醸成されるねん。アメリカは罪の文化であり日本は恥の文化なのはその為や。前者ではカリタス(隣人愛)に基づいたインディペンデンシー(自立)の伝統があるから、人とは違う己のやりたいことを主張することが尊ばれて自我が発達するねん。せやけど日本では協調性が尊ばれて脆弱な自己が温存されるから自我が発達せえへんねん。教育番組見てみい、セサミストリートでは絶えず子供らに「君は何がしたいんだ?そうしたいのなら言わなきゃ周囲に伝わらないぞ?」て問い掛けてる。日本では歌って踊ってはいおしまいや。以上のアメリカと日本の土壌の相違はな、アメプロの明らかな虚構に対する態度に表れるねん。アメリカ人は虚構を相対化してあえて入り込んで楽しめる余裕があるけども、日本人は余裕無いから虚構をそのまま受け取ってしまうねん。日本人がアメプロ見たら余裕ないから「これ八百長だろ?」で終いや。

以上でアントニオ猪木について、ある程度理解してもらえたやろうか?永源は「猪木さんは金を使うのが好きな人、馬場さんは金を使うのを忘れた人」てゆうてた。そうなんや、猪木は行動するために次々と金を使う行動の人なんや。馬場はターザンの「プロレスはプロレス」「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」のコピーを気に入ってたそうやけど、共同体を守るため既得権益確保に必死やったんや。ジャイアント馬場とアントニオ猪木、この二人は正に生き方は正反対やったんや。共同体を超越し自己すら超越するアントニオ猪木は、誰よりも自由やねん。猪木は生きてる限り、次々と挑戦し続けることやろう。そして死ぬときは、前のめりに死ぬやろう。

次回は小川直也や。


バックナンバー

第1回 前田日明
第2回 佐山聡
第3回 安田忠夫
第4回 長南亮
第5回 秋山成勲

posted by つるじょあ |07:25 | イノキゲノム | コメント(36) | トラックバック(0)
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2008年02月01日

『現代プロレススーパースター列伝 第5回 秋山成勲』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第5回 秋山成勲

思想:温かい共同体主義 格闘技:MMA

今回は秋山成勲取り上げるわ。秋山は在日韓国人4世として日本で生まれたんや。それから韓国行ってオリンピック目指したのやけど、日本から来た者への差別は激しくてな、韓国代表となることを断念したんや。在日は半日本人として低く見られるねん。日本に戻った秋山は帰化して再びオリンピック目指すのやけど、高い実力は持ってたけど純粋に力不足で失敗したんや。

秋山は柔道でオリンピック目指すために日本国籍を取得してる。試合後の柔道最高の言葉どおり、柔道を愛してるのやろう。父親の勧めで小さいころから夢中になって取り組んできた柔道に思い入れがあるのやろう。また秋山は韓国人としての己に誇りを持ってるねん。オリンピックを最初に目指したのは韓国人としてやし、日本に帰化後も韓国に対し「柔道をするために日本国籍を取得した」てゆうてる。韓国でカーン撃破した後の言葉は「大韓民国最高」やった。日本におっても絶えず母国へとラブコール送ってる。彼が依拠してるのは柔道共同体や民族共同体なんや。

さて、秋山はそのダーティーさが取りざたされてるやんか。柔道時代に柔道着に石鹸の刷り込みや柔軟剤を使用して洗濯をしてた。金泰泳戦では腕ひしぎかけた際に抜け出そうやったのに「伸びた、伸びた」てアピールして、レフェリーを誘導して勝利してた。桜庭戦でのクリームの塗布やリング上に小走りに上がった不可解な行動や、メリケンの使用疑惑など、異常なまでの道徳的欠如が叫ばれてる。これはなんでやろうか?

これは秋山が、近代的共同体から自由であることを意味してるねん。三崎や長南にとっては未だに世間は一枚岩で、公の場でおかしなことしたら世間に叩かれるのは当然のことやとおもってる。三崎の説教の際の自信は、世間を後ろ盾にした自信でな、世間の代表者としての物言いやったんや。かつて村落共同体が生きてたころ、悪さしたら他人の家の爺さんにど突かれたりしたよ。最近の爺さんは悪ガキ見つけてもよう注意せえへんやろ?これを今の老人の気骨が失われたてゆうてるやついてるけど、そうやないねん。かつては共同体が機能してたから、その世間を後ろ盾にして威張ってたんや。もし当時爺さん返り討ちにしてみい、村八分にあって生きていかれへんようになるよ。せやけど今日、共同体は衰退してもうた。今爺さんが悪ガキ注意したら殺されるだけや。そんなわけでな、三崎は一枚岩の共同体がまだ存在してると思い込んでて、共同体の代表気取りで制裁したつもりやったんや。そやから秋山が反省せんのは当然のことでな、なんでかゆうたら秋山は近代的共同体から自尊心を獲得してへんからや。最早一枚岩の世間なんて夢想でしかないねん。秋山が自尊心獲得してるのは、柔道共同体であり、民族共同体なんや。あの三崎vs秋山の試合後のコミュニケーションのズレは、お互いの尊厳観が異なってたからなんや。

せやけど秋山のこの道徳心のなさ、これこそ武器になるのやないやろか?秋山は近代的共同体によって自尊心を獲得してへんからこそ、それを無視して振舞えるねん。一神教的宗教から倫理(エートス)が、共同体から道徳が醸成される。秋山が公の場で非道徳的に振舞えるのは、行動原理が近代的な共同体と無関係やからやねん。柔道共同体や民族共同体の外の、他の諸共同体との間が現代社会における公共性や。近代社会では国家規模の共同体が存在してたから共同性=公共性やったのやけど、現代社会での小さな諸共同体の間が公共性になるねん。三崎の行動原理が国家規模のノスタルジックな共同体やからこそ威張れるし道徳的な態度をとってるのやけど、秋山はそれから自由なんや。

彼に縛りがあるとすれば、それは柔道共同体や民族共同体に拘泥してることや。不謹慎なことゆうとな、優れた現代プロレスラーは共同体を相対化するねん。柔道や民族に拘る分自由さが失われてしまうやんか。物語り紡ぐ上で利用しても、ほんまに尊厳おいたらあかんねん。それらの共同体にコミットしてその気になってても、高度には嘘をつくこと、これが大切なんや。

近代性から自由ゆう意味では秋山は三崎に比べたら遥かに見どころあるよ。さらに不謹慎なことゆうたらな、柔道を愛してるようでほんまは自らの出世のために道具として扱ってるのが本心やったら、ますます見どころあると思うで。共同体は人の心に道徳心を植えつけてここで内的に規制しよるねん。この内的規制からの自由、体内の神を殺すこと、そうすることによって人は闘魂への道を拓くことができるねん。

次回はアントニオ猪木や。


バックナンバー

第1回 前田日明
第2回 佐山聡
第3回 安田忠夫
第4回 長南亮

posted by つるじょあ |15:31 | イノキゲノム | コメント(43) | トラックバック(0)
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