2008年01月31日

『PRIDEの嬰児、戦極は成功するのか? 競技性への偏向と既得権益の確保』

おっちゃんやで~。新イベント戦極やけど、五味参戦であらかた選手は出揃ったようやな。

PRIDEの崩壊後、参加してた選手の動向が注目されてたけど、戦極には多数のPRIDEファイターが参戦してる。吉田、瀧本、菊田、三崎、そして五味や。今の所ほとんどが日本人とはいえ、PRIDEを象徴する選手なだけにこのイベントは日本におけるPRIDEの既得権益を確保する後継団体といってもええやろう。せやけどそれでええのやろうか?

PRIDE崩壊の直接的な原因は、ある種の勢力との繋がりが噂されたことによるテレビ局の撤退や。せやけどそれで見逃されやすいのは、それ以前に人気が失われつつあったことや。現代黎明期ではある一定のムーブメント起こしてたMMAやけど、社会が成熟するとさらに高度なものが要求されるのは社会学的な当然の論理的帰結や。すなわち競技性のみを追ってるだけで受ける時代から、さらに演技性の必要も迫られるねん。

戦極が浮いたPRIDEの既得権益確保に動いたのは分かるねんけど、今でもPRIDE待ち望んでるもんなんて絶対世間やないよ。そうゆうわけでな、それはマニアへの迎合を意味するねん。戦極は競技性のみに偏向したイベントであることは明らかや。

さて、戦極の社会的成功の可能性についてやけど、マニアに迎合してる時点で困難としか言いようがないよ。しかも外人はどれぐらい確保できるのやろうか?外人はUFC・FEG・M-1との取り合いやろか。旗揚げは盛り上がるかも知れんけど、PRIDEの反復やったら衰退は必然や。先行き明るい材料は見当たらんわ。

ほなな。

posted by つるじょあ |21:50 | その他 | コメント(22) | トラックバック(0)
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2008年01月31日

『現代プロレススーパースター列伝 第4回 長南亮』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第4回 長南亮

思想:温かい共同体主義 格闘技:MMA

今回は長南亮取り上げるわ。長南はヤンキー出身でな、地元で恐れられてたそうや。DEEPで頭角を現すとPRIDE武士道でカーロス・ニュートンやアンデウソン・シウバを破って活躍したんや。迫力あるラッシュもそうやけど、ニュートンからの腕ひしぎ脱出後の逆転勝利やアンデウソンに押されてたのに蟹バサミからの大逆転は見る者を驚かせたよ。ようあきらめんと戦ったもんやで。相当気持ちが強うないとあの演出は不可能やったやろうな。

長南は漫画のゴリラーマンをヤンキーにとって「あり得るコミュニケーション」として高く評価してた。おっちゃん読んだことないけども、動物漫画やのうてヤンキー漫画なんやろうな。その他のヤンキー漫画にも造詣深くて当時ヤンキー共同体にコミットしてたのが伺えるわ。ヤンキーゆうと社会と対立してるように思われがちやけど、実際は違うねん。学校化に基づいて学校・地域・家庭から見捨てられるのやけど、不良グループや暴走族などのオルタナティブな温かい共同体構築して自尊心を保っていくねん。そしてそれを卒業すると入れ替わるように家庭を築いていくねん。つまりヤンキーが早々と所帯持つのは寂しいからなんや。反社会的に見えるけども結局ヤンパパ・ヤンママになって数年すると町内会でのお祭りの重要な役割を果たすようになるねん。つまりヤンキーによる校内暴力も暴走行為も学校や社会を前提とした甘えであって、ヤンキーは社会的な存在やったんや。

ヤンキー共同体は共同体である以上は価値観に均一性が生じるねん。近代社会における国民の価値観が単一であったのと同様や。大阪も共同体社会が根強く残ってるから、例えばビニールで出来た刀で斬ると皆「やられた~」ゆうて倒れこむねん。これを個性的やと捉えてる人もいてるけど、東京でやってみい、「やられた~」ゆうもんもおれば無視して歩いていったり、怒り出したり様々な態度を取るやろう。東京人の態度こそ個性的やないか?そうゆうわけで共同体社会では個性は育たへんねん。

長南も性的役割分業としての「男らしさ」持ち出すし、類型的なヤンキー共同体の論理を備えてるねん。社会的にはええのやけど、現代プロレスラーとしてはどうやろか?競技性も上昇しつつあるし気持ちも強くてええのやけど、関係性を紡いでいくことができるやろうか?三崎みたいな類型的な価値観を主張するのやないか?現代プロレスは選手各々が人生の物語を紡いでリング上で交錯していくもんや。長南に必要なのは共同体から離別して己を高めて自己演出していくことやろう。

次回は秋山成勲や。


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第1回 前田日明
第2回 佐山聡
第3回 安田忠夫

posted by つるじょあ |14:22 | イノキゲノム | コメント(17) | トラックバック(0)
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2008年01月30日

『現代プロレススーパースター列伝 第3回 安田忠夫』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第3回 安田忠夫

思想:温かい共同体主義 格闘技:近代プロレス

今回は安田忠夫取り上げるわ。安田は元相撲取りで、廃業後プロレスラーになったんや。恵まれた体躯と身体能力に加えて、横入りやのうて新弟子からやり直したことも共感呼んで期待されたこともあったよ。せやけど結局は素行不良で伸び悩むことになるねん。そこで猪木が総合格闘家として再生さして、ジェロム・レ・バンナを撃破、一躍時の人となるねん。せやけど精神的な脆弱さから来る素行不良の再発によって落ちぶれて、遂には自殺未遂騒動にまで発展することになったんや。

安田は温かい共同体との合一によって自尊心を獲得するタイプや。阪神大震災のとき瓦礫の下から助け出された男性は、自らの命は助かったのやけど妻と子を失ってもうた。その男性はインタビューでこれから何をしたいか聞かれてこう答えたんや。「結婚したい」通常やったら一定期間喪に服した上で結婚するのが普通やろ?これはなんでやろうか。これはその男性も安田同様に温かい共同体との合一によって自尊心を獲得してたからなんや。理想的な共同体としての家族において、父親役割を果たすことに尊厳を置いて生きてる実感を獲得してたんや。せやけど家族失って温かい共同体を失った男性は行動前提を失ってもうてアノミー(無規範)に陥ったんや。

現代社会では家族に尊厳を置くやり方では恩恵を与ることは困難になるねん。なんでかゆうたら価値観が多様化してジェネレーションギャップが生じるから、家族一丸で生きることは時代に逆らう生き方やからなんや。安田は近代的家族に理想的な秩序を見出したのやろうけど、家族的コミュニケーションは失われてるからアノミー状態に陥るねん。その寂しさを紛らわすために代替物として病的賭博(ギャンブル依存症)に走ったんや。代替的な濃密な体験をギャンブルを通して行なってたのやけど、結局もうかるわけないやんか。病的賭博に陥るとな、人間関係の悪化、家庭崩壊、多重債務、失業、自殺行為、犯罪行為に陥るねん。つまり悪循環で重篤化したら最終的に待ってるのは刑務所か死や。借金して家庭崩壊して離婚して自殺未遂までした安田そのままやないかい。

自殺にも色々種類があるのやけど、安田の自殺はデュルケームのゆうところのアノミー的自殺や。つまり温かい共同体に依存してたもんが共同体の衰退によって行動前提となる依存先を失ってアノミー状態、つまり精神的に不安定な状態に陥って自殺するねん。現代社会における年配者の自殺の社会問題化は、時代が近代から現代へと移行する中で、近代的な行動原理としてのソリダリテ(連帯)から見放されたことによるアノミー的自殺が大半や。自殺未遂後安田は娘に叱られたのが一番堪えたてゆうてた。娘は離婚後母親側について、小遣い渡すだけの関係になってた。家族的な結びつきに生きてる実感を見出してた安田はそれで苦しんでたのやけど、未遂後看病して励ましてくれた娘に家族的コミュニケーションが残ってることに気付いて、己の浅はかさに後悔したわけや。これは安田が如何に家族に依存してるかを表してるねん。

安田が現代プロレスラーになるにはな、前田同様に共同体からの決別と演技性の採用が必要や。それが無理やったらレベルは落ちてまうけど、実際の苦しみを売りにしたらええのとちゃうかな。娘と喧嘩したらリング上で「娘よ、お父ちゃん反省したから帰ってきてくれ!」て叫んだり、家族的な藤原に、敗北したらどつかれながらも最後抱き合ったり、勝ったら喜びを分かち合うねん。ベタな物語りやけどほんまのことやから一部には感動もんやとおもうで。

次回は長南亮や。


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第1回 前田日明
第2回 佐山聡

posted by つるじょあ |21:52 | イノキゲノム | コメント(26) | トラックバック(0)
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2008年01月29日

『現代プロレススーパースター列伝 第2回 佐山聡』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第2回 佐山聡

思想:崇高なる共同体主義 格闘技:アマチュアMMA

第二回は佐山聡取り上げるわ。タイガーマスクとして類稀なる身体能力で一世を風靡してたのやけど、心中には葛藤があったんや。つまりプロレスの理念と佐山自身の理念が異なってたわけや。そやから人気堅持してたのに新日本に一方的に離脱を宣言して飛び出したんや。

佐山の特徴は格闘技に精神性を持ち込むことや。近代イギリスでのジェントルマン(地主階級)におけるスポーツや、近代日本における武道においてもスポーツは人格形成に利用されてた。アマチュアリズムの美徳の精神の要求は、国家による暴力の独占を背景に国内における暴力の応酬を抑止するための機能的なものやったんや。アマチュアリズムがアメリカナイゼーション(大衆化)によって奪われて、プロ化して商業的になったエンターテイメントのプロレスに佐山が違和感・嫌悪感を抱くんは至極当然のことや。

UWFで前田と合流することになる佐山やけど結局仲たがいすることになるやろ?お互い共同体主義者やのにこれはなんでやろうか?共同体主義ゆうのはな、理想的な共同体との合一によって尊厳を獲得するのやけど、これには2種類あるねん。一方が温かい利害共同体との合一に尊厳を置く形式と、他方が崇高な精神共同体との合一に尊厳を置く形式や。前田は前者、佐山は後者や。佐山は修斗や掣圏を創始するに当たり「侍の心、真の日本精神の復活」を謳ってる。リアルジャパンでも演武取り入れてたやんか。つまりは精神共同体に帰依することで生きてる実感を獲得してるねん。おんなじ共同体主義ゆうても左と右で全然異なってたから、決裂は必然やったんや。

理念が異なることによるプロレス、UWF、プロ化した修斗、UFOとの決別。佐山の眼中に現代プロレスは無いよ。なんでかゆうたら現代プロレスこそ現代格闘エンターテイメントの理念やからや。彼の信念は崇高たる精神共同体との合一、日本人に武士道を復活させることへと向けられていくことやろう。

次回は安田忠夫や。


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第1回 前田日明

posted by つるじょあ |20:38 | イノキゲノム | コメント(29) | トラックバック(0)
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2008年01月28日

『IGF発の野望と権力が渦巻く筋書きのないドラマ 仁義なき戦い有明死闘編 やらなんだらやられるんじゃ!』

おっちゃんが予想するIGF有明興行や。これは現代プロレスの例えやから。言葉だけやとリアリティーないからそのままと受け止めんといてな。

新日本に乱入する小川直也!突然のサプライズに観衆も大騒ぎ。小川コールとブーイングが飛び交う。小川「オラオラオラ、いつまでぬるま湯に浸かってるんだ?こんなんだからプロレスは馬鹿にされるんだよ!」小川のマイクアピールを受け中邑登場!大中邑コールが起こる。中邑「お前何しに来たんだ!俺はIWGPチャンピオン、新日本に喧嘩売るんだったら俺が買ってやる!」臨戦態勢に入る中邑に永田が割って入る。固唾をのむ観衆。永田「おい小川!中邑はベルト持ってるんだから俺たちの大将だ。大将がでるまでもねえ、俺が相手になってやるよ。今度のIGFの有明に俺が行ってやる。IGFも大変らしいからな。俺が勝つがもし万が一負けたら新日で中邑とやったらいい。どーですかお客さん!」大喜びの観衆。

IGF有明メイン
現代プロレスの申し子対新日本のエース
小川直也vs永田裕二

猪木「おい、ジョシュ!てめえ一体何がやりたいんだ。言ってみろ!」突然の総帥の問いかけに困惑するジョシュ。ジョシュ「オー、イノキさん。UWF、ゴッチイズム継承・・・。」猪木「馬鹿ヤロー!いつまでも過去を引きずってるんじゃねえ!優等生ぶってるのならやめちまえ。」ジョシュ「・・・。」猪木の激しい口調に言葉を失うジョシュ。猪木「ジョシュ、凝り固まったお前は一度死ななきゃいけない。おい、でて来い!」

ドスン ドスン

猪木が叫ぶやいなやそこには大巨人が。ビッグショー「フォフォフォ、アングルの親友、ビッグショーだ。お前を殺していいと猪木さんから許しが出ている。俺がIGFで天下とってやるよ。」アングルの言葉を耳にすると、ジョシュの青い瞳に光が宿る。ジョシュ「・・・よーし、お前を倒して親友のアングルを引きずり出してやる!俺がIGFのエースだ。キサマノケンナドカホドモキカンワ!」

第6試合
青い瞳のケンシロウ対歩くロッキー山脈
ジョシュvsビッグショー

有明に参戦が決定し会見で猪木と握手するアングル。そのとき伝説の男が登場!ホーガン「おい若造、おまえはオレが世界一だとか抜かしたらしいが本当か?」まさかのホーガン登場に驚いた表情のアングル。猪木はニヤニヤしている。ホーガン「昔から、そして今も「イチバン」はオレに決まっているんだ!」それに対し闘志をむき出しにしたアングルが言い放った。アングル「あんたは尊敬しているが、昔の人間だ。今の「イチバン」はオレなんだ。」ホーガン「ははは、最近はボーヤでも世界一になれるのか。」挑発するホーガンに顔を赤らめて迫ろうとするアングル。猪木「レスラーならリング上ではっきりさせたらいい。」アメプロ頂上決戦が始まる。

第5試合
アメリカンヒーローvsオリンピックヒーロー
ホーガンvsアングル

田村の参戦が決定し、IGF廣瀬副社長と会見を開いた。そこになんとあの男が!山喧「おい田村、昔はようオレに「かわいがり」してくれたな。」驚きの田村が副社長を見ると目をそらしてしまう。山喧「もう逃がさへんぞ、オレと決着つけんかい!」語気を荒げて迫る山喧に田村は言った。田村「俺がお前とやる理由はない、縦の関係だからこそ若手が育つんだ。俺だって前田さんにかわいがりを受けてた。」山喧「ほー格好ええなあ、田村さんあんたはいつも格好つけてるわ。」格好をつけていると言う言葉に過剰に反応する田村。田村「俺は格好つけたりなんかしていない!」山喧「体重軽い相手にええとこみせて、俺には先輩やからゆうて格好つけてるやんけ。俺ともやらん、桜庭さんともやらん、負けたら格好わるいもんなあ。次もおいしい相手とやって格好つけるのやろ?」せせら笑う山喧に田村がぶちぎれた。田村「ああ、やってやるよ!俺はいつだって挑戦してきたんだ!」

第4試合
孤高の天才vs復讐の狼
田村vs山本

川田参戦決定で会見を開く廣瀬副社長。その場にいた安田が川田に質問する。安田「おい川田、馬場って本当に強かったの?」憮然とした表情で言い返す川田。川田「何言ってんだお前、強いに決まってるだろ。お前なんかが口に出せる人じゃない。」安田「何をこのやろう、今日は歌ったり腰振ったりはなしか?」思わず失笑する会場。憤激する川田。川田「オレはお前なんかと違って多才なんだよ、お前は唯一のギャンブルでも失敗してるじゃないか。」安田「馬鹿やろう、今はオレに賭けてやってるんだ。なんならお前とやってやってもいいんだぞ。オレは猪木さんの弟子、お前は馬場の弟子、どっちが強いか決めてやろうじゃねえか。」川田「望むところだ!」

第3試合
猪木の弟子vs馬場の弟子
安田vs川田

小川とは別に新日の楽屋に来たカシン。中西は困惑した表情を浮かべる。カシン「ミスター中西、石沢の代理で私がきました。」それに対し中西は怒気を孕んでいい放った。中西「なにぬかしとんねん。お前、石沢やろ!」カシン「石沢はRomanexに出場するそうです。中西さん、僕と戦ってください。」ふざけたカシンの言い回しに中西は意を決して言い放つ。中西「それやったらな、覆面はいで正体が石沢やゆうことをはっきりさしたるわ!」

第2試合
プロレス界の問題児対野人
カシンvs中西

小川が弟分澤田と道場で汗を流していると、そこに村上がやってきた。鋭い眼光を小川へと向ける村上。村上「おい小川、俺があんたと離れてやってきた5年間がなんであるかを確かめに来た!」小川が困惑した表情でいると、弟分の澤田が割って入る。澤田「小川さんはお前なんか相手にしてないんだよ。帰れ帰れ!」村上「なんだてめえは、てめえからやってやろうか!」一触即発の二人を止めに入る小川。澤田「小川さん、こいつは俺にやらせてください。おい村上、お前逃げんなよ!」村上「お前こそ逃げるなよ、そして小川!おまえも逃がさねえからな!」挑発的な笑みを浮かべつつ退場する村上であった。

第1試合
小川の弟分vs小川の元弟分
澤田vs村上

また昭和とかいわれそうやなあ。なんとなくわかってくれたらそれでええねん。

ほなな。


脳内メーカー
http://muryop.com/br/?q=%E3%81%A4%E3%82%8B%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%82
これはないやろ(笑点)。

posted by つるじょあ |14:13 | イノキゲノム | コメント(28) | トラックバック(0)
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2008年01月28日

『現代プロレススーパースター列伝 第1回 前田日明』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第1回 前田日明 

思想:温かい共同体主義 格闘技:格闘プロレス

第1回目は前田日明取り上げるわ。前田は共同体主義者でな、馬場もそうやから猪木よりもどちらかゆうたら馬場と気い合うたのとちゃうかな。前田のそれは温かい共同体との合一を尊厳してるから仲間をごっつう大切にするねん。前田はUWF崩壊後全日本への移籍話が持ち上がったのやけどこれを断ったそうや。理由は前田と高田のみの移籍話やったからで、他の選手を見捨てられんかったからや。

また共同体主義者は年功序列や終身雇用を採用するねん。これは村落共同体から切り離されてアノミー(無規範状態)に陥った寂しい者への代替物としての提供と、共同体的忠誠心をモチベーションにするために行なわれるねん。つまりアノミー吸収装置としての側面とロイヤリティ調達機能の側面があるねん。そやから年配のもんは尊重されるし、若いもんは軽視される。

格通のインタビューで坂田への暴行の理由を語ってたのやけど、その理由に坂田のリングスでの経験年数を上げてた。前田いわく、「2,3年しかやってないもんが相手を君付けで呼んで格好つけたからしばいた」そうや。また田村にトロフィー投げたんも「金泰泳とやるべきやのに体重の軽いもんとやって格好つけた」からやそうや。つまり分相応の地位から逸脱することは、全ての地位が経験年数によって自動的に決定されていく共同体主義からすると許されん行為やったんや。先輩の前田としては分を弁えんと社会もおかしなるしお前らの為にならんから教えたってるゆうやさしさがあるねん。坂田にも田村にも幸せになって欲しいからあんな真似したんやで。

秋山に対して「運が無い」てゆうてた前田。そして「運がある」てゆうてた谷川。この全くの意見の違いはどこからくるのやろうか?これは前者が共同体主義で後者が共同体と共同体の間を担う商人やからなんや。共同体的価値観でゆうたら、共同体の成員に好かれることが善やねん。前田からしたら「秋山はええ奴やのにイベントの主催者側の不備を全部押し付けられて悪役になってるから運が悪い」こうゆう理屈になるねん。せやけど谷川からしたらこうや。「共同体的善やろうと悪やろうと銭になったらええのやから、内容はどうあれ注目されてるのやから運がええ」これが意見の相違の理由や。

温かな共同体との合一を尊厳の糧にする前田やけど、はたしてそれでええのやろうか?多様化した価値観の前に国家規模の共同体は衰退し、同一の司法権力が及ぶ範囲に小さな諸共同体が散在してるのが現代や。そして現代人の実存形式はその諸共同体を多元的且つ容易に移行していくものやねん。インタビューで共同性が衰退してることへの危惧もらしてたけど、現代で共同体に拘泥するのは、なんでリングスが潰れたかを理解せんノスタルジーやないやろうか。PRIDE消滅に対するざまあみろ発言も出自の共同体への拘りを表してるねん。前田は第2次リングスを計画してるそうや。せやけどリングス潰れたとき共同体経営からイベント経営への移行の必要性を語ってた前田やけど、優しい前田が果たしてビジネスに徹することができるのやろうか?利用価値がなくなったら選手捨てられるのやろうか?HEROSでのヤマヨシ起用はほんまに利益集団としての判断やったのやろか?選手を所属させて福利厚生を担うことはコストかかりすぎるし、選手を拘束することになるから今の実存形式とは反対物になってしまう。格闘技に家族的な愛を求めてるとしたらまたビジネスパートナーやのに温情かけようゆういらん気持ちが首をもたげてくるのとちゃうか?また田村が格好つけてたて怒ってたけど、あれが田村の自己演出やったとしたらどうやろ?桜庭の演出も否定してたけど、格闘家としての分を履き違えてるのとちゃうやろか。現代黎明期やったらともかく現代成熟期において素朴に競技性のみ追及することは死を意味するねん。現代格闘技は競技性に演技性も課せられるのやから。結論として、前田のプロデューサーとしての成功は二重に困難やと思う。第1に共同体からの解脱、第2に演技性の採用や。これやったら前田が前田でなくなってしまうような気いするわ。そうゆう意味でローカルではやれても天下取るのは論理的に不可能やと思う。

次回は佐山聡や。

posted by つるじょあ |13:46 | イノキゲノム | コメント(26) | トラックバック(0)
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2008年01月26日

『小川動く! 現代プロレスの胎動 2.16IGF激動の予感』

おっちゃんやで~。

遂に小川が動いたな。前回の興行で現代プロレスが始動した、ておっちゃんゆうたやんか。さらに次の興行までの間にどれだけ煽れるかが勝負や、ともゆうた。そうや、小川の今回の行動も既に現代プロレスなんやで。現代プロレスの理念は競技性と演技性の統合なのやけど、その演技性は外部のシナリオにある客観的なものやのうて、自己自身である主観的なもんやないと現代では通用せえへんねん。なんでかゆうたら今の観衆は目が肥えてるからベタの演技ではその虚偽性が見抜かれてしまうからや。虚偽性を見抜かれてるからこその今の既存のプロレスの惨状があるねん。ほんまの人生を表現していかなあかん。

安田や小橋は未遂や病気で少し世間に届いたやろ?これはな、内容は勿論のことそれが真実やからなんや。せやけどこれは表現やのうて身に降りかかった受動性や。自己演出とは能動的なものやないとあかんから、その意味でこの注目は偶然性でレベル低いねん。不謹慎なことゆうたらな、運頼りになるからや。繰り返し不謹慎なことゆうたらな、安田はこの偶然性で物語り紡いで食いつないでるし、小橋もこの偶然で病気からの復活の物語り紡いで活躍してるわけや。

小川のアングル戦希望はアングルやのうて自己アングルや。アングルと戦うことが小川のアングルで会社ぐるみのアングルやないからこそアングルやのうてジョシュがでてくるねん。もしアングル戦のアングルやったら予定調和のアングルで皆辟易するやろう。自己アングルやからこそ既存のアングルとは違うベストアングルになるねん。アングルてなんべんゆうた?(笑点)

小川の今回の襲撃はそれほどの衝撃はないよ。せやけどその論理構造が既存の筋書きのあるドラマやないからこそ、そこに可能性があるねん。衝撃が少ないのはな、単に物語がつまらんだけで次元は合うてるねん。猪木はジョシュ推すし、小川は次どないリアクションするかわからへん。地獄から生還した安田の生き様どないなるのやろ。そして猪木と小川の遺恨の行き着く先は!?小川は自らの日記で「対世間を意識したプロレス「IGF」を軌道に乗せるべく起爆剤になる。」てゆうてる。ワイドショーを騒がせるぐらいの物語り紡いで世間巻き込んでみい。

ほなな。

posted by つるじょあ |04:24 | イノキゲノム | コメント(68) | トラックバック(0)
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2008年01月22日

『ノーコンテストは当然の判定 反省すべきは三崎選手 反則によって切断された物語』

おっちゃんやで~。小川について書き込む予定やったけどまずこっち先に書くわ。

今回の判定はおっちゃんがおもてたとおりでしたわ。似非評論家は流れやから許されるとか打撃時に4点やなかったとかゆうてたけど完全に的外れや。流れやから許されるゆうのはな、意識的な反則でないことを意味するだけで反則は反則やから当然罰則が課せられて当然のことやないか。また4点に関してもな、4ポジ状態にあったもんに近づいて立ち上がらせるのは、打撃のその瞬間4ポジやったかどうかに関わらず許されることや無いよ。

以下は早苗ちゃんのところに書き込んだおっちゃんの書き込み紹介するわ。


こんにちは、つるじょあいいます。

菊田はんのご意見読ませていただいたのやけど、なんか納得でけへんから書かせてもらいますわ。

>流れの中でのあの中腰での攻撃は全然問題ない
問題無いの意味を菊田はんは取り違えてるのとちゃうかな。つまり故意の反則の場合は反則負けになるけども、不可抗力に基づく反則は無効試合になるねん。この場合の三崎選手の行為が反則と見なされたとしても流れの中での攻撃やから反則負けやのうて不可抗力に基づいた無効試合になる、そやから問題ない、これが菊田はんの主張の文脈での問題ないですわ。それがそもそも反則ではない、ゆう結論になってしまってる。これは菊田はんの結論の取り違えやと思うのやけどどないでっしゃろ。
Posted by つるじょあ at 2008年01月09日 10:20
つづき

また、流れの中やからええやないか、ゆう話が出たけども、そもそも三崎選手は4点ポジションでないことを見極めた上での攻撃やのうて、4点ポジションやった秋山選手に迫って行ってる。この流れの中で4点ポジションに留まってたら秋山選手は危険や。その際に勝敗云々やのうて身の危険を守るためにあえて4点ポジションを放棄したとしたらこの流れの中での三崎選手は4点ポジションへの攻撃をしたと見なされるのが妥当やとおっちゃんは思うのやけどどないでっしゃろ?

>あれがNGとなるとタックルに来た選手に蹴りを
>合わすことすらできなくなる。
反則になっても流れの中やから不可抗力の反則になるのとちゃうかな。
Posted by つるじょあ at 2008年01月09日 10:22
つづき

>更に、マットに片手や両手を付けながら歩いて
>こられても蹴れなくなる
これは論点がずれてるのとちゃうかな。4点ポジションで歩いていってどないして相手倒すねんな。消極的姿勢として注意受けるのとちゃうやろか。

素人が思いのたけをぶつけてみました。菊田はんならびに皆さんのご意見、お待ちしております。
Posted by つるじょあ at 2008年01月09日 10:22

ここはブログのコメント欄です。格闘技サイトの掲示板ではありません。なのでそもそも議論する場所ではありませんよ。

あと、菊田さんは反則だと思う人がいてもおかしいと思わないと書いていますよね。だから反則だと思っても、それはそれでいいんじゃないんでしょうか。菊田さんに返答を求めても、「そういう考えもあると思うが、自分の考えはブログに書いた通り」としか答えられないと思いますが。
Posted by ヨコヤ at 2008年01月09日 11:22

ヨコヤはん

>菊田さんは反則だと思う人がいてもおかしいと
>思わないと書いていますよね。
物の客観性と価値観は異なるねん。価値観は人それぞれやから社会の保障する範囲においては等価の価値があるよ。せやけど客観的真理は徹頭徹尾論理的なもんやから、等価の価値はないねん。より合理的なもんに価値があるわけや。菊田はんは価値思想を主張してるのやのうて公の場で論理的な主張をしてる以上は、それに対する反論があったとしても当然のことやないやろか?

おっちゃん(つるじょあ)も他人のブログにコメントするなんて暇だのぅ(笑)

>また、流れの中やからええやないか、ゆう話が出たけども、そもそも三崎選手は4点ポジションで
>ないことを見極めた上での攻撃やのうて、4点ポジションやった秋山選手に迫って行ってる。

この後に続く文章も秋山サイドより過ぎて筋が通ってないよ。
格闘技はお互いの行動の読み合いでしょ?
その為にフェイクやフェイントも使ってるし。
三崎選手は瞬時に相手が立ち上がる事を見越してキックを出して、その読みがピタリと当たっただけの事。
当たった瞬間に4点ポジションじゃなかったのが証明してる。
もし秋山選手が優秀なら、不用意に起き上がらずガードしながら立ったはず。
もし秋山選手が危険を感じて慌てて立ったのなら、それは三崎選手の作戦勝ちでしょうに。
Posted by ライト at 2008年01月09日 12:08

ライトはん

>立ち上がる事を見越してキックを出して、
>その読みがピタリと当たっただけの事。
三崎選手は中腰の秋山選手を蹴ったあと、完全にグロッキー状態の秋山選手をどつきにいったやんか。あれのどこに冷静な読みがあるのやろうか。おっちゃんからしてみたら最初の打撃でダウンした秋山選手に猛然と迫ってなにがなんでも喰らいついたろうゆう、三崎選手の執念があったと思う。

>当たった瞬間に4点ポジションじゃなかった
>のが証明してる。
ダウンして体勢立て直そうとしたら迫ってきてるねんで。そら手も離れるよ。

>もし秋山選手が危険を感じて慌てて
>立ったのなら、それは三崎選手の作戦
>勝ちでしょうに。
こら酷いでんなあ。作戦勝ちてな、一つ間違えたら大怪我するところやで。勝敗よりも身体の保護を優先するのは普通にありえることやないか、ほんまに4点で襲うふりすることが作戦やとしたら野球でも将棋でも鉄砲突きつけてやってもええことになるで。

もしあーゆう負け方をしたのが三崎だったら、菊田や桜庭やキッド…他の格闘家、寝技系の選手でも誰も文句を言わないしファンも負けを認めますよ。人間性の問題です。
Posted by ひ at 2008年01月09日 13:09

ひはん

>人間性の問題です。
それは間違ってるよ。これはな、徹頭徹尾論理的な問題なんや。秋山選手やったら抗議して他の選手やったら抗議せんかったとしても、それとは無関係に三崎選手の秋山選手に対する行為は存在してるのやから。

ほなな。

Posted by つるじょあ at 2008年01月09日


結局秋山は反則によって勝利の可能性と表現するチャンスを奪われたんや。これは三崎に悪意は無かったとしても反省すべきことやとおもう。

ほなな。

<追記>
最後に少し指摘しとくわ。コメント欄一時凍結の件やけどな、荒らしのコメントをスポナビはんが削除してくれてたのやけど、次々と荒らされていくからスポナビはんが凍結したのが真相ですわ。ザビエルはんに悪気は無いのやろうけど、荒らし相手にしても益々荒らされるだけでっせ。おっちゃんは荒らしに寛容やけどここはスポナビはんから借りてるわけやからその意志は尊重されるべきやし、またできたら有意義な議論したいからおっちゃんもこれからは厳しく対応するで。あとこの追記に対してのコメントは無用や。

posted by つるじょあ |20:50 | その他 | コメント(70) | トラックバック(0)
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2008年01月21日

『格闘エンターテイメントの変遷、その5つの類型 現代プロレスへの発展とその必然性』

turu
おっちゃんやで~。これからイベント・団体評価するでえ。それでな、それら格闘エンタを5つの類型に分けましたわ。ただ定義できるもんもあれば、理念型として定義不可能なもんもあるねん。因みにボクシング等の特化した格闘エンタは言及しません。


50年代~90年代 近代プロレスの時代

日プロ<近代プロレス/客観的競技性と客観的演技性>
尊厳である日本国家の敗北によって自信を失ってた日本人が、日本共同体代表の力道山が共同体外の外国人レスラーを倒すことによって自信を取り戻すと共に熱狂、プロレスは一気に国民的なエンターテイメントとして君臨することになるねん。近代社会においては国家規模の共同体を肯定するような、最終的に共同体の代表が勝利する予定調和が喜ばれるねん。この頃の格闘エンターテイメントには主観的競技性と主観的演技性は必要なかったのやから、八百長やないねん。如何に大衆を歓喜させる予定調和を提供できるかのガチやったんや。

全日本<近代プロレス/客観的競技性と客観的演技性>
ジャイアント馬場が日本共同体の代表として、外国人レスラーを紆余曲折を経て打ち倒していくねん。

新日本<近代プロレス/客観的競技性と客観的演技性>
アントニオ猪木が日本共同体の代表として戦っていくのやけど、全日にええ外国人レスラー抑えられてもうたから異種格闘技に見せかけたのやけど、その本質はおんなじやったんやで。

80年代~90年代 MMAの予感

UWF<格プロ/客観的競技性と客観的演技性>
物質的欲求が充足されてきて国家規模の共同体の衰退が始まってきた。それに変わる観衆からの直接性の希求に応じてプロレスはMMA調になるねん。UWFはプロレスからMMAの過渡期における産物やったんや。

U-FILECHAMP<格プロ/客観的競技性と客観的演技性>
田村潔司がUWFのノスタルジーで00年代に入ってから主宰した団体や。格闘プロレスの時代や無いから観客に支持されることなかったんや。

UWAISTATION<格プロ/客観的競技性と客観的演技性>
かつてUWFに所属してた上井文彦が田村同様00年代に入ってからノスタルジーで主宰したのがこの団体や。格闘三銃士を柱にやってたのやけど、勿論観客はそんなん望んでないから支持されることはなかったんや。最近上井氏はプロレスが衰退してるから皆が大同団結する必要性を説いてたけど、それこそ既得権益を狙うことでな、それはなんでプロレス界があかんようになったかの社会分析を欠いたロマンでしかないよ。ただワイドショーにも取り上げられるような選手が必要、ともゆうててそこは正しいわ。そうなんや、世間を相手にせなあかんねん。

90年代~00年代 MMAの台頭

K-1<打撃MMA/主観的競技性(打撃限定)>
k-1を単なるキックボクシングの伝統性で捉えるとしたらそれは皮相な捉え方でしかないねん。これは直接性の希求に応じた打撃限定のMMAやねん。キック・空手・拳法・カンフーなどの打撃系の総合格闘技がk-1なんや。分かりやすいルールにヘビー級のど迫力で人気を博したんや。

バーリトゥードジャパン<MMA/主観的競技性>
打撃のみに特化しない、なんでも有りを謳った自由度の高い格闘技がMMAやねん。初期は残酷さが売りでな、観客も「殴れ!」「殺せ!」て喚いてた。これはつまり息苦しい言語に依拠した社会において選手らのラフファイトによってカタルシスを獲得してたことを意味するねん。当時は客の目も肥えてないから技術は勿論のこと物語を楽しもうゆう発想は些少でな、なんでもありを売りにしてたバーリトゥードにおいては兎に角荒々しいラフファイト目当てにしてる客が多かったんや。

PRIDE<MMA/主観的競技性>
最初は異種格闘技戦の色合いが強かったのやけど技術が成熟してくると一元的なMMAルールに定着、煽りVに代表されるように萌芽的ではあるものの関係性の希求にも応じるようになったんや。また不祥事で消滅したようにいわれてるけど、消滅前に人気もかげりが見え出してた。

00年代~ 高度化するMMA

IGF<現代プロレス/主観的競技性と主観的演技性の統合>
競技性のみのK-1やPRIDEも、社会が成熟してきて観衆が関係性を希求するようになると、軒並み閉塞しだすねん。こうして現代格闘技の理念は競技性と演技性の統合になるねん。それにいち早く注目し現代プロレスを提唱してた猪木は、影響力のある新日で近代プロレスから現代プロレスへの転換を図ったのやけど失敗、そこで新イベントIGFを立ち上げたんや。MMAブームは現代プロレスへの発展過程でしかなかったんやで。


大まかにゆうたら近代プロレスから現代プロレスへのこの一連の流れがわかるやろうか?格闘エンターテイメントも社会的存在である上は社会的文脈があるねん。社会分析とはそういった社会的性格を看破した上で語られるものなんやで。

ほなな。


posted by つるじょあ |15:47 | イノキゲノム | コメント(45) | トラックバック(0)
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2008年01月16日

『IGFは茶番である、それは真理か? これを読めば現代プロレスがわかる! 現代プロレス概論 猪木と小川の遺恨に見る現代プロレスのモデル』

ポスト若槻千夏、おっちゃんやで~(笑点)。現代プロレス概論作ったで。現代プロレスの定義やら概論やら説明せえてうるさいからな!(笑点)概論やから細かくは書いてへんけど俯瞰するには丁度ええのとちゃうかな。これを読めば現代プロレスがわかる!

【現代プロレス概論】

物事の捉え方はな、時間的な捉え方と、時間から抜き出した捉え方があるねん。おっちゃんがIGF持ち上げるとよく非難浴びるよ。例えば既存の総合やプロレスのメジャー団体と比較したら人気ないやないか、云々。せやけどな、それは時間から抜き出した捉え方や。全ては歴史的に存在してる以上は歴史的な、因果的な、時間的な捉え方こそ本質を捉えることになるねん。そこで時間的に総合やプロレスのメジャー団体捉えてみい、年々あかんようになってるやんか。これは理念が誤ってるからでな、誤ってる以上は益々衰退していくよ。せやけどな、IGFは理念が合うてるから上昇していくねん。時間を無視した単なる比較は遊びでしかないのやで。誤ってるもんは如何に今立派にみえてもいずれは没落するし、正しいもんは如何に今貧相にみえてもいずれは大成するよ。

さて、そのIGFの理念とはなんなのやろうか?その前になんでIGFはその理念を持つに至ったかを説明せなあきまへん。近代社会においては、日本国家全てが一つの共同体として成立してた。厳密には想像の共同体ゆうてほんまの共同体やないのやけど、明治以前は存在してへんかった国民意識を持つに至ってた。そして人々は生きてる実感を共同体外への感受性を調達することによって獲得してたんや。せやけど近代的な生きてる実感の獲得は歴史的に見たら特殊でな、国家規模の共同体の衰退と共に人々は生きてる実感の獲得形式を前近代同様の人類の伝統的な形式にもどさなあかんようになるねん。ただ前近代の生きてる実感の獲得形式は定期的且つ受動的やったけど、現代では不定期且つ能動的になるねん。つまりこうゆうことや、前近代は単純な社会やったから皆で同時にやれたのやけど、今日的な複雑な社会では同時にやってたらそれぞれ都合あるから社会が混乱してしまうんよ。そこで現代人は、不定期且つ能動的、すなわち余暇において個々人の責任で能動的に生きてる実感を獲得することになるねん。

さて、生きてる実感ゆうのはな、直接性てゆうねん。人間物に直接触れてると最初は実感あるのやけど、しばらくすると慣れてもうて実感なくなってしまうやんか。生きてる実感も同様でな、刺激もなく単に生きてると苦しくなってしまうんよ。そこで現代人は様々な形で直接性を調達しようとするねん。現代初期の90年代に始まる総合ブームは、まさに近代的共同体の代替的な直接性獲得形式やったわけや。前近代の江戸時代において公開処刑で「殺せ!」て喚いてた民衆が処刑後狂喜乱舞したように、現代初期のバーリートゥード・ジャパンで「殴れ!」て喚いてた観客が殴打後狂喜乱舞してたわけや。こうして共同体の衰退が進行するなかでそれに変わる直接性の代替形式として総合ブームが起こるねん。素手に近い形での迫力あるど突き合い、総合格闘技は直接性に応じた、暴力の応酬に近い形の競技性の表現なんや。せやけど総合も衰退することになるねん。

近代的共同体が衰退して小共同体が散在するようになるのやけど、ここで重要なのは関係性やねん。流動性の高い社会においては仲間も変わりやすいしまた他人とのコミュニケーションが重要になってな、人々はエンターテイメントにも高度なコミュニケーションを求めるようになるねん。例えば年の差カップル程度のディスコミュニケーションの恋愛ドラマでは人は振りむかへんねん。そこで総合にも端的な直接性のみやのうて関係性も希求されるようになるわけや。直接性のみやのうて関係性も意識した格闘技が今は必要やねん。近代プロレスから直接性と関係性、すなわち競技性と演技性の統合たる新しい格闘技への移行の必然性がわかってもらえたやろうか?総合格闘技は近代プロレスから新しい格闘技への発展過程における産物や。競技性のみの総合格闘技がさらに演技性も取り込んで発展せなあかんねん。

あらゆる社会には下部構造と上部構造があってな、下部構造は生産様式、上部構造は下部構造に照応した政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにかんする思想や。格闘技もまた同様にある生産様式に照応した上部構造(イデオロギー)でな、産業化すなわち第二次産業重視型の生産様式に照応した近代格闘技から、情報化すなわち第三次産業重視型の生産様式に照応した現代格闘技に変わるのは論理的必然なんやで。

そこで最初に出たIGFの理念なのやけど、これこそ競技性と演技性の統合、すなわち現代格闘技の理念と一致するねん。つまりIGFは現代格闘技を目指してるねん。このことはあらゆる猪木の言動・行動が示してるよ。プロレスは相変わらず近代的な予定調和やし、総合はPRIDEやHEROSで代表されるような関係性無視した形になってるから、歴史的趨勢としてこの二者は滅びるねん。今まで説明してきたとおり、プロレス・総合はその出現もその消滅も必然性なんや。大衆の予定調和への要求が生じるとプロレスがそれに応え、直接性の要求が生じると総合がそれに応えたわけや。

そこで現代格闘技を、IGFで最近起こった猪木と小川の遺恨を例に説明してみるわ。まず競技性やけど、これはガチやねん。ガチゆうのは結果をお互いが疎通してないゆう意味でや。ケツ決めありが八百長ですわ。それでな、演技性は自己演出、自己アングル、自己ブックやねん。この演技性については少し難解やから、きちっと説明するわ。

演技性にも客観的演技性と主観的演技性があるねん。最近のドラマや映画見てたらわかるおもうけどな、注目される俳優は皆主観的演技性や。客観的演技性はベタベタのステレオタイプの善人・悪人、つまり外部の紙に書けるような役を演じてたらよかったんや。せやけど主観的演技性はほんまの自己で役を演ずることでな、例えば教師役やったら外部のステレオタイプの教師やるのやのうて、己自信が教師になるねん。こらリアリティーあるで。なんでかゆうたら作られた役やのうてほんまの自己自身なのやから。そやからこそ観衆は引き込まれていくねん。キムタクやビートたけしや妻夫木やらがそうや。あれこそ現代演劇に即した演技性でな、現代格闘技においてもほんまの自己で演技していかな通用せえへんよ。天山みたいなリング上で「何だコラー!」「殺すぞコラー!」て吼えてリング降りたらええ人みたいな客観的演技性で誰が心揺さぶられるねん。リング上とリング下で区別付けたらあかんねん、常に自己を貫き通すことが現代格闘家であって、それは真実やからこそ観衆の魂を揺さぶることができるねん。小川は当時弟分の村上に「嫌なことは嫌といえ」て説いた。これはな、現代プロレスラーは普段から自己を立ち上げて自己超克することを求められてることを理解してるからや。当たり前や、リング上で普段の態度が出るのやから。常に自己を研ぎ澄ますこと、これが優秀な現代プロレスラーの姿なんやで。さて、このような主観的演技性は何によって措定されるのやろうか?競技性は対戦相手によって措定されるねん。すなわち相手を倒すためにそれは磨かれる。そして演技性は観衆によって措定されるねん。ここに戦いの二義性が確認できるわけや。小川はレコが相手を叩きのめすことにだけ集中してるのをみて「次元が違う、戦いは対戦相手だけじゃなくてお客さんとの戦いでもある」てゆうた。そうなんや、現代エンターテイメントはサーカスの見世物小屋同様にお客さんに注目してもろてなんぼやねん。お客さん無視したホーストや内藤に人気ないのは当たり前のことやいか?亀田家はお客さんを想定した戦いしてたからあれだけ注目を浴びたんや。こうして観衆によって措定される演技性なのやけど、ここで一つの疑問が生じるねん。つまり観客の要請で作られた虚偽の自己とリアリティーを与えるほんまの自己は両立するのか、ゆうことですわ。

自己にも二義性があってな、これは快不快を感じる選択主体としての自己と、これが自己であるゆう自己として根拠付ける存在意識としての自己ですわ。前者は身体的感性的な自己で、後者は精神的知性的な自己でな、後者はアイデンティティーとか近代的自我とか自意識とか言われますわ。それでな、後者としての自己をほんまの自己として皆普段振舞ってるのやけど、実は近代的自我がほんまの自己である論理的根拠は何一つないねん。例えばな、荘子は夢から覚めておどろいたんや。つまり目え覚めたら夢の中で荘子である自己を忘れて完全に蝶になりきってたことを思い出してな、自己とおもってたもんの頼りなさにおどろいたわけや。そうなんや、後者としての自己は単なる共生の装置として人々が使用してるだけで、ほんまは自己でもなんでもないねん。身体機構が経験の総体として獲得した感性に基づいて機能的に作られた虚偽性、これが近代的自我としての自己なんですわ。このような自己は常に演技的で演技性の無限指定からは逃れる事がでけへんねん。つまり皆の普段の振る舞いは全て虚偽で演技やったわけですわ。猪木もある雑誌で、「俺は二人いるんじゃないかと思うときがある」てゆうてたけど、猪木は教養で理解してるのやのうて、研ぎ澄まされた感性が前者と後者の自己を明確に意識してるわけですわ。猪木のすさまじいところはな、他の企業成功者が実存哲学の枠内で留まってるところをそれを超えて相対化してるところなんやで。

さて、そこで先の疑問、観客の要請で作られた虚偽の自己とリアリティーを与えるほんまの自己は両立するのか、についてやけど、自己が虚偽的で演技的なのやから、前者としての自己によって後者としての自己を操作するのは論理的に可能や。リアリティー醸す為に普段は後者としての自己として振舞いつつもどこかで前者としてのほんまの自己によって操作していくねん。主体的に生きつつも高度にそれを外部から操作していく、これこそが観客を想定する高度な自己演出やねん。

小川は猪木に首絞められて失神した振りしてたけど、あれは八百長やないねん。なんでかゆうたらお互いの意思疎通はないのやからガチやし、あの演出は自己アングルでな、小川なりの自己演出なのやから。天山の先に示し合わせた上でのアングルに基づいた乱闘やないねん、猪木と小川の自己アングル同士の対決やねん。小川が非難されるとするなら、その自己アングルのまずさであって、旧態依然的なプロレスのコミュニケーションとは異なってるねん。安田に関するお互いの青写真の相違があの遺恨を生んだのやけど、程度は別にして論理構造としては新たなる格闘技、現代に即した格闘技のモデルがあの遺恨なんやで。

ただこのIGFの正当性も、凡人に見抜けるわけないのやから散々馬鹿にされるねん。凡人は成功して初めて褒め称えるねん。おっちゃんがこのブログを開設したのはな、100%が猪木を否定・中傷してる中でその正当性を見抜いてるもんとして少しでも誤解を解きたかったからなんや。おっちゃんの影響力なんて無に等しいのはわかってるけども、それでも現代格闘技の一助になれば、糞尿プロレス・総合が旧態依然的な現状温存に走ってる体たらくを少しでも指摘できたら、そう思って登場したのやで。IGFのアドバンテージはな、猪木がおることや。そやからこそ理念も合うし、それに向けて闘魂が注入されるやんか。理念無きものに100%成功はないよ。せやけど理念あったら成功する可能性があるねん。ただIGFがなんぼ理念合うててもそれを実現していかんとつぶれてしまうで。猪木はいつも理念は素晴らしいのやけどそれだけで終わりがちやからな。小川よ、次回の興行でええ試合しても遅すぎるで、次回の興行までの間にどれだけ煽れるかがIGFの浮沈の鍵や。物語を紡いでいくねん。小原もやりたいことあるのやったら今やるねん。試合で頭突きかまして喜んでる場合とちゃうぞ!安田も自殺未遂したのやから、今度は小川を殺人未遂したれ!藤田も諏訪間も秋山も力皇も朝青龍も中尾もやりたいことあったら予定不調和なIGFで表現せえ!

ほなな。

posted by つるじょあ |15:25 | イノキゲノム | コメント(126) | トラックバック(0)
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2008年01月10日

『最強とはなんぞや? 格闘技の歴史的生成過程 同一性の問題』

おっちゃんやで~。

先に勘違いせんようにゆうとくけどな、格闘技最強がMMA最強であることと、全格闘技における最強がMMAであることとは別個の問題やから。つまりMMAが格闘技最強でもMMAよりもボクシングが弱いことを意味せえへんゆうことは、本文読んでくれたらわかることやと思う。

これは某ブログの管理人はんへのコメントなんやけど、コメントできんようになってたから勿体無いからここに掲載するわ。おっちゃんはMMA最強=格闘技最強やとおもてます。それにはまず格闘技の理念を追求せなあきまへん。格闘技は他のイデオロギー同様に社会的に成立するもんや。スポーツの起源は近代イギリスのジェントルマンにあってな、それ以前の暴力の応酬から近代国家による暴力の独占を背景に、非暴力的な応酬としてジェントルマンの余暇の過ごし方から生産性の向上を受けて労働者の余暇の過ごし方や教育に使われるようになったんや。そしてそれは資本主義と結びついてアメリカナイゼーションによってエンターテイメントとなるねん。ボクシングや相撲なんかは特化してる分格闘技の純粋理念から逸脱していってる。せやけどプロレスは建前はなんでもありやから格闘技の純粋理念として判断されてたわけや。さて現代においてはプロレスの虚偽性が純粋理念から著しくそれるようになって、MMA(総合格闘技)が登場するねん。こうしてプロレスに変わってMMAが格闘技として君臨することになったんや。確かに管理人はんのゆうとおり、ボクシングも相撲も格闘技や。せやけど特化してる分自由な個人間の非暴力の応酬ゆう格闘技の純粋理念から逸れてるねん。管理人のいわはる通りMMAにはMMAのルール下における最強が、ボクシングや相撲の各々のルール下における各々の最強が存在してるのは正しいよ。それらがぶつかり合ってその中の最強を決めることは論理的不可能で強さによる序列を設けるのは無理ですわ。せやけどそれは格闘技の同一性を無視した物言いでな、純粋理念に近いMMAが社会的に格闘技と判断されるのは当然のことですわ。管理人はんはMMA最強論を多様なルール下における非暴力の応酬の不可能性を根拠に否定してはるのやけど、MMA最強論は格闘技の同一性、純粋理念との近似性を根拠に肯定されるべきことなんやで。

結論ゆうたるわ、MMA最強が格闘技の最強ですわ。ボクシングでわかりにくかったら極端な例挙げるとな、腕相撲は格闘技かどうか微妙なのは身体の仕様部位も強さの判断基準も著しく特化してて純粋理念から大きくはずれてるからやねん。管理人はんの誤りは、あらゆる格闘技を平等に格闘技と見なしてるところでな、格闘技は社会学でゆうところの理念型として最も理念に近いもんが強く格闘技として判断されるねん。

ほなな。

posted by つるじょあ |18:47 | その他 | コメント(68) | トラックバック(0)
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2008年01月10日

『現代の格闘技とは何か? おっちゃんが疑問・難問を直ちに氷解する 隙があったら掛かってこんかい!』

みんな大好き、おっちゃんやで~(笑点)。過去のコメント欄でおっちゃんに対する反論があるのやけど、中々忙しゅうて答えられへんねん。そこでや、記事でまとめて返答しようとおもてます。もしそれに対して反論その他あったらコメントつけてな。納得するまで議論しようやないか。おっちゃんはさくじょあでもにげじょあでもないで。おっちゃんと猪木はいついかなるときも誰の挑戦でも受けまっせ。隙があったらかかってこんかい!(笑点)

反論1:猪木的思考はもう古いですよ。亀田も秋山もにたような思考であると思います。

近代は猪木の時代やった。そして現代も猪木の時代になりつつあるねん。猪木は近代には近代に即した格闘技をやって、現代では現代に即した格闘技をやろうとしてるねん。猪木は常に格闘技は変わってきたてゆうてた。既存のプロレスはどうやろうか?猪木が現代化の変革せまっても、近代の惰性のまま体制を温存したのやないか?殻を打ち破り変革していく猪木はな、昔のままとちゃうねんで。今の猪木の自意識と亀田の自意識は現代格闘技の理念と一致するねん。

反論2:IGFを見たと気にものすごく古い感じがしました。

IGFは出し物としてはレベル低いねん。興行的にk-1・新日に明らかに劣ってるよ。せやけどな、最初からk-1も新日も人気あったやろか?それにな、現代格闘技の理念を正しく標榜してたら世間の注目を集めていくわけや。k-1は日一日と衰退していってるのとちゃうか?新日も昔は人気やったけどもテレビ放送は深夜に追いやられてるやんか。物事は因果的にみなあかんよ。正しい理念掲げてるもんが天下取るねん。

反論3:総合やボクシングは「勝敗」が価値を支配します。プロレス的なものにもっていこうとすることにはできません。

現代格闘技の理念は競技性と演技性の統合なのやけど、確かにあんたのゆうてることは一理あるねん。すなわち総合的な競技性とプロレス的な演技性の統合は理論上不可能なのはおっちゃんも認めるよ。せやけどな、おっちゃんはその二者を統合せえてゆうてないねん。プロレスの演技性は客観的演技性、おっちゃんがゆうてる演技性は主観的演技性なんや。競技性と主観的演技性の統合は理論上可能なんやで。

反論4:猪木派はくやしいでしょう。小橋対健介をみたときに何故これがもりあがるのか??

おっちゃんは猪木派やないから別にくやしないで。ただな、小橋vs健介が盛り上がったゆうのは間違いですわ。一昔前のプロレスに比べてどれだけプロレスが衰退したとおもてるねん。昔はゴールデンでやってたし、馬場も猪木も鶴田も年に何億ももろてたのやで。知名度も小橋なんてプロレスの代表格やのに一般的には無名や。亀田は視聴率50%、知名度は全国区、ギャラも億行ってるよ。小橋は深夜一桁%、知名度はマニアッ区、ギャラは4、5千万くらいやろ。

反論5:左翼思想が語るのを禁じてきたものが吹き出てきて、右翼思想なのだとしたら、現代の価値観は右翼思想を認めることから始めなきゃ、多元的とは言えないんじゃないの?

左翼も右翼も所詮は共同体主義ですわ。暖かい共同体との合一を尊厳とする左翼も、崇高な共同体との合一を尊厳とする右翼も、結局は近代的な価値観に支配されてるねん。せやけどおっちゃんは左翼や右翼を否定してるわけとちゃうよ。なんでかゆうたら国家規模の共同体が衰退した現代は様々な共同体が島宇宙的に散在してるのやから、共生条件を侵害せんかぎりは自由であるべきやとおもうからや。おっちゃんが否定してるのはな、高々その中の一つの共同体の癖にやで、あたかも国家規模の共同体であるかのように振舞うことなんですわ。例えば男は男らしく女は女らしくあるべきゆう価値観は近代社会では自明やったけど今はローカル、それやのに性的役割分業を今日的な社会において自明であるかのように振舞うことは、おかしいてゆうてるだけのことやから。

反論6:歴史を見ろ。時代が進む時は古いものなど見向きもせずに、次のステップへ勝手に進むんだよ。一々、過去の体制からの脱却なんて考えてたらいつまでたっても進まないよ。

自然と社会の歴史は違うねん。自然における物質は無意識的な諸作用力の相互作用に基づいて発展の条件を充たしたり充たさんかったりして条件を充たしたものが発展するねん。社会における人間は意識的な諸作用力の相互作用に基づいて発展の条件を充たしたり充たさんかったりして条件を充たしたものが発展するねん。このように人間の意志抜きでは勝手に進むことはないよ。市民革命や独立戦争抜きで社会の発展が語れるか?過去からの脱却を企図してから新時代は始まっていくのやで。

反論7:「大衆の要求である直接性と関係性に呼応して」とかいう部分は全くいらんね。江戸時代の演劇でもそうなんじゃないの。

社会の流動性の低い近世では関係性は必要ないねん。婚姻は家同士で行われるし、職業も世襲制や。また直接性に関しても公開処刑や祭りを通じて人々は生きてる実感を獲得してた。罪人が張り付けにされると皆が狂喜乱舞するねん。古代では生贄や薬物で感受性が更新されてたんや。これらは社会全体で行なわれてた、つまり定期的且つ受動性やったのやけど、現代は社会の流動性が高いからそれやったら納品の時期や取引が成立せえへんやんか。そこで個々人の余暇において個々人の責任で、つまり不定期且つ能動的に直接性を獲得するようになったわけや。

反論8:論理の適用範囲に対して弁えがないから、議論が混乱する。総合やボクシングに適用しようとするのがその最たる例だ。

下部構造と上部構造があってな、下部構造は生産様式で上部構造はそれに照応した政治・法律・宗教・道徳・芸術などのイデオロギーや制度・組織の枠組みをゆうねん。総合やボクシングのみならず演劇も絵画も経営も全て含まれるよ。

反論9:彼らが注目されるのは、メジャースポーツの選手だからでは?

社会に有用なもんは最初はマイナーでもお客さんどんどん増えていってメジャーになっていくねん。ボクシングも誰もみんようになったけど、亀田がでたやんか。流動性の高い社会ではな、既得権益が全てでメジャーが固定化されることはないよ。つまりや、IGFにも天下取るチャンスはあるねん。

次回は猪木と小川の遺恨の本質に迫るで!


※反論1~4ザビエルはん、5、7、8ベアナックルはん、6aはん、9kikiはんのコメントより引用しました。

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2008年01月08日

『おっちゃんが選ぶ! 2007年度、輝け現代格闘技大賞 格闘新世紀を紡ぐ者』

おっちゃんやで~。格闘技の最先端を行く者を評価する、現代格闘技大賞や!プロレスやボクシングの近代的な賞の授与は、選手らに間違った動機付けを投下することになるねん。これこそ時代に即した動機付けを投下する世界最高の賞や。

(1)最優秀選手賞…亀田大毅

現代人は分別が過剰にありすぎて、利口すぎて、新たな行動をせんようになってしまうねん。世俗にまみれて凡庸な日常を反復してる情熱を消失した時代や。そんな現代社会で自らを貫き通すその姿勢は、人々に憧れや嫉妬を与えるねん。自由奔放に振舞う大毅は、古い秩序たる長幼の序を無視し、ほんまに尊敬できる人にしか敬語で話さへんねん。そしてボクサーの既成概念を覆す試合後の歌唱は、内藤も俺には出来ない、凄いと言わしめたんや。切腹発言で挑発して物議をかもし、世間を湧かせる自己演出。内藤戦における反則も実力差を反則を利用した苦し紛れの戦略や。減点や注意うけてるのやから問題ないやろ。最後の投げは負けは決定してるから盛り上げるための演出や。実力が足りんのはあかんけど、あれだけ世間から注目されるのはこれからの新しい英雄の自意識を強く示唆してるのや。文句なし大賞や。あそこまでやれる奴他におったらゆうてくれ。

(2)年間最高試合賞…亀田大毅vs内藤大助

桜庭vs秋山はな、秋山の反則と主催者側の不備によって結果的に注目されただけや。大毅vs内藤の盛り上がりはな、内藤はベルト巻いてるだけで全て大毅と家族の自己演出の賜物や。それにな、内藤とはまだ因縁が生きてるがな、長男とやったらまた盛り上がるよ。奇形とはいえ素晴らしい現代ボクシングやったで、大毅!内藤は土下座して感謝せえよ。

(3)新人賞…アンディ・オロゴン

ひそかに自信を持ちながらも、負ける、殺されるてゆうてみたり、気持ちを俳句にしてみたり、実際日本屈指の選手を倒したり、最強王者と判定まで持ち込んだり、ボブ・サップ偵察して見つかると逃げ出したりと、競技性と演技性を低レベルながら統合させてたアンディが新人賞や。

(4)最優秀興行…闘今ボンバイエ

やれんのか!よりもやれんのかと危惧されてたIGF旗揚げ戦やけど、やれたやないかい。既得権益にすがって小銭稼ぎに終始する他のイベント・団体と違うて、現代プロレスを標榜するIGFを単なるプロレス・総合の2軍と捉えるは悲壮な解釈や。年末興行ではようやっと現代プロレスが芽吹いてた。

(5)カムバック賞…安田忠夫

人間とは身体的なもんやない、精神的なもんや。身体は精神を支えてるだけで、ほんまに大切なのは精神なんや。安田は精神的に疲弊して自殺を選択したのやけど、これは精神的崩壊を回避した安田の生き様やった。つまり、昨今の自殺者は現状が耐えられへんからそれを回避するために自殺を選択するねん。自殺とは人間を捨てることやないねん、まさしく生きることなんや。皆死ぬときは幸福を夢見て自殺するねん。これで楽になれるとかゆうて。そんな中安田は、たまたま生き残った。そして、再び立ち上がるべく体を鍛えなおして因縁のローゼと対決したんや。小橋も苦しんだのやろうけど、安田はより厳しかったと思うで。人気あるわけやないし年くってるし家族にも見放されてた。せやけどあいつはカンバックしたんや。そして昨今の自殺数増加、近代と現代の狭間で揺れ動く人間の生死のただ中で一つの生き様を見せたんや。八百長やるよりは凶暴なローゼと少ない利益をかけて戦った安田にこそふさわしい賞やと思う。

ほなな。

posted by つるじょあ |15:32 | イノキゲノム | コメント(105) | トラックバック(0)
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2008年01月05日

『やれんのかを超えるやれんのか! 昔の名前で出ています ほんまにやれんのか?』

おっちゃんですわ。

全日にドリー参戦するそうや。今66歳でシリーズ10戦全部出場するゆうことやけど、これこそほんまに「やれんのか?」シリーズ中に67歳になるねんで、相手気遣わなあかんからストレスでやられてしまうよ。ああ、それがドリーの狙いなのやろか?(笑点)

あとな、諏訪間がVM離れたらしいやんか。ああゆうことある度にこっちくるのとちゃうか、こっちくるのとちゃうか、て期待するおっちゃんはやれんのか?(笑点)

ほなな。

posted by つるじょあ |16:45 | その他 | コメント(15) | トラックバック(0)
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2008年01月05日

『真の敗北者は三崎! 三崎・内藤・シュルト、塩を継ぐもの 新英雄の名は・・・秋山!』

おっちゃんやで~。秋山vs三崎みたか?

三崎ゆうのはな、ほんまにセンスないねん。秋山非難してたやろ?あれ何に基づいてたおもう?そうや、近代的価値観なんや。おっちゃんが常々非難して克服すべきて説いてる、あの古い時代の価値観や。あいつは秋山が子供裏切った、世間裏切ったてゆうてた。せやけどそれで三崎が損害被ったのやろうか?答えはNOや。確かに近代社会やったら国家規模の共同体が成立してたし、価値観も共有されてたよ。そやから共同体に逆らうもんは差別されるし、共同体の成員傷つけたら皆で袋叩きや。子供も長屋で育ててたし、他人の子供でも平気でどついてたよ。せやけど今は国家規模の共同体は解体して小共同体が島宇宙的に散在してるのが現実や。様々なパーソナリティーが存在してて価値観は多様化してる。そんな中、子供を同胞としてみなすのも近代的価値観が世間を代表してるとみなすのもまったく合理的やないよ。未だ近代的な価値観で秋山を糾弾する三崎にどこに正義があるねん。前時代的な価値観を押し付けるのは、特定の宗教押し付けるのとおんなじでっせ。それやのに試合前の挑発、試合後の近代的価値観に基づいた物言い、どれをとっても的外れや。秋山からしたら「何でお前に叱られなければならないんだ?」ゆう感じやろうな。当惑してしまうよ。亀田次男の謝罪みて何で謝ってるのかわからんかったのは、そうゆうことやったんや。

三崎が観衆から応援されてたのは、秋山のヒールっぷりに観客が反応してるからや。ボクシングの内藤も、本人は何の魅力もないけども、亀田の自己演出に反応してるからや。三崎自信の人気やないねん、こうして肯定派も否定派も手玉にとっていくのが現代の表現者やねん。会見で洒落た格好で登場して観衆を挑発したやろ?中々役者やないかい。正義ぶってた秋山が遂に本領発揮すべく自己演出に入ったわけや。おっちゃん身もだえしたで。あいつはおっちゃんが期待してた通りおお化けするで。格闘技に新世紀をもたらすで。田村も秋山の敗戦みて勝ち続けて欲しかったてゆうてたやろ?そらそうや、ああゆう悪役、世間の諸共同体を横断して物議を醸すような存在が今の業界には必要やねん。三崎では格闘技界引っ張っていけるわけないもん。秋山の態度こそ新しい社会の英雄の自意識なのやから。

反則か否かについてやけど、そんなんどうでもええがな。大切なのは秋山の姿勢や、現代人に非難され驚嘆される物語を紡いでいくことが重要なんや。ますます世間は巻き込まれていくやろな。因みにおっちゃんの見た感じやと、三崎の反則やとおもってる。秋山はパンチは効いてないねん、キックされそうになって「おい、蹴る気か?反則だぞ」みたいな顔で三崎みて蹴られてたような気いするわ。まあ、どうでもええことやけどな。

ええか、総合がくすぶってる以上チャンスはなんぼでもころがってるよ。秋山はここからまた喰らいついたらええねん。秋山はもう終わったとかゆうてる似非評論家がいてるけど、終わってるのはあんたや。何も終わってないがな、これから秋山の自己演出が始まっていくねん。格闘新世紀、現代プロレスの地平をみのがすんやないで!

ほなな。

posted by つるじょあ |16:41 | その他 | コメント(106) | トラックバック(0)
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