2007年10月26日
おっちゃんや!おっちゃんは怒ってる。なんでかわかるか?そうや、亀田家謝罪さした件や。ええかげんにしさらせよ、古い大衆も会長も。何の権利があって亀田家の個性奪い取るねん。もう罰は与えられたのとちゃうか?それにやで、謝罪は本人の意思で行われるもんであって、強制的にさせることやないやろ。解雇する権限ちらつかせてこちらの思い通りにならなんだら首や、て脅してるだけやないか。こらパワーハラスメントやないかい。
亀田家の人生は亀田家が決めるもん何や。それをなんで世間や会長が決めるんや?こら明らかに人権侵害やで。世間も亀田嫌いやったら嫌ってたらええし、無視でも何でもしたらええがな。会長も規約に則って機械的に罰を下したらええがな。亀田家には亀田家の尊重すべき人格があるねん。
近代社会はええよ、国民的目標があったから皆が単一の価値観もってた。人格は否定されるし社会に適合できんもんは村八分や。せやけど現代社会はそうゆう目標は喪失してもうて、多種多様な生き方が認められるようになてるわけやんか。
亀田に謝罪さしてどないすんねんな。思い通りに服従さしてどないすんねんな。個性剥ぎ取ってどないすんねんな。そないして亀田はどないなるのやろうな?内藤みたいにルール守る、内藤みたいに自己主張せえへん、内藤みたいにカラオケもやらん、結局内藤みたいに人気もでえへんし、内藤が今注目されてるのは亀田のお陰やからテレビでも露出せえへんし、世間では無名のままで引退することになるやろう。ボクシングも注目されんと益々閉塞していく。どうや、皆はそうせえゆうのか?
均一化、単一化、平均化、一般化、類型化、一元化・・・近代社会やったらええのやけど、今は現代社会やねん。人格踏みにじって皆普通人間にしてそれで何が残るねん。これからは多種多様な価値観が存在し、多種多様な生き方が認められる時代何や。会長だけのせいにしたらあかんで、会長は一部の世間の同調圧力を代表してジムの生き残りをかけて亀田家をおさえつけたのやから。ただ会長に現代社会への意識があったら、亀田家のいき方を尊重しジムとしては規約どおりの罰を与えるだけ、とかゆうてほしかったなあ。近代社会の亡霊の片棒担いでる時点で古い大衆と同罪やわ。
ボクシングに注目集めて視聴率とって、ボクシングへの功績はどこへいったのやろうか?旧態依然のシステムでやってるから長谷川に大賞やって亀田に敢闘賞やるねん。逆や、昔ながらのやり方に留まってる長谷川にこそ敢闘賞をやるべきやし、今まで無視されてた世間を振り向かせた亀田にこそ大賞をあたえるべきやろ。連日の亀田家のマスコミの取り上げ方みてみい、これこそ亀田家が如何に世間にアピールしてるかの証拠や。亀田を殺すことはボクシングを再び低迷させることになるのやで。それをわかってるのやろうか?落ちぶれボクシング協会に権威なんてあるかい、銭勘定でけたら表向きは罰して実際は亀田擁護に奔走すべきやろう。
謝るべきは協会であり、内藤であり、長谷川やないか?亀田がファンもアンチもすべて作り上げて世間を振り向かせてるのやないか。なんにもせんと昔ながらのソース焼きそば作ったかて人が寄り付くわけないがな。亀田はトロピカルフルーツ焼きそばでお客さん呼び込んだのやで。賛否両論はあるけども、アンチがいてるから謝るべきゆうのは違う、これからの英雄は多様化した価値観の前にファンもアンチも作っていくねん。昔みたいな共同体を代表するような英雄は論理的にありえへんねん。石原裕次郎や長嶋は価値観が単一やったから誕生したのやから。
これは英雄殺しや。新時代の英雄殺しなんや。無知蒙昧な近代社会の亡霊が、亀田の個性を剥ぎ取って均一化しようとしてる。亀田も猪木も、そしておっちゃんも世間には非難されるよ。せやけどこれからの時代を担うんは亀田や猪木やおっちゃんなんや。亀田、今回の件でまけるんやないで、内藤がなんぼのもんや、あいつがこれからなにやってくれるのやろか?なにもできるわけないよ。馬場?三沢?きこえんな~。世間の耳にはまるで届いてないよ。
近代社会を克服して新時代創造や。破壊なくして創造無し、近代格闘技をぶっとばすんや!
posted by つるじょあ |13:31 |
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2007年10月23日
おっちゃんやで~。無我ワールドプロレスリングから西村が電撃退団した。それも師匠に断りもせんと独断で、しかも有望な選手を引き抜いてや。これは古きよきプロレスを標榜する無我の精神と相反することやないのやろうか?
試合数が少ない、ギャラが少ない、これは深刻な問題やとおもう。またそれを同団体のエースがゆうてるのやからその他の選手にとってはそれ以上に深刻な問題や。それにエースの離脱は団体の屋台骨を揺るがしかねん事態といえるやろう。せやけどそれでええねん、無我は形式であって人間を突き動かしてるのは欲望なのやから。
キリスト教は僧侶のルサンチマンによって誕生した。ルサンチマンとは怨恨感情のことや。道徳とは人間の欲望を隠蔽し人々を安心させる。せやけどその本質は、僧侶が弱者の、敗北者のルサンチマンを代弁して道徳による価値の転換を図ってたんや。「貧しき者は幸いである、天国は彼らの為にある」とは弱者を上昇させ強者を貶めることや。こうして強者は引き摺り下ろされ、弱者は救済され、僧侶はその上前をはねる。
無我とはこの僧侶やなかったか?無我によって人々をひきつけ、欲望を隠蔽し人々を安心させる。せやけど僧侶は無我やなかったんや。僧侶は無我ゆう価値転換によって人々を救済し上前をはねてただけで、実は我欲にかられてたのや。こうして試合数の減少、ギャラの低さに無我でいられんかった僧侶は裏切りによってその本質を暴露した。無我を支えるのは我欲であり、我欲とは人間であり、また僧侶も人間やったんや。
西村よ、僧侶が虚偽の姿ゆうことが看破されてる以上、これからは人として生きることをお奨めするよ。僧侶としては二シム・ラマとしてハッスルゆう虚構の世界におけるキャラとして演じたらええのとちゃうかな。もっと我欲を、我執をみせるんや。それが人間ゆうもんでっせ。人が人であるゆうことを肯定してるのがIGFや。野心あったらIGFが、猪木が待ってまっせ!
次回は野球が現代化するためのメカニズムを説明します。
posted by つるじょあ |11:18 |
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2007年10月21日
おっちゃんやで~。国民的支持を受けてた野球が閉塞し停滞して久しい。かつての盛り上がりはどこへいったのやろうか?せやけどここで過去の思い出話に花を咲かしてもあかん。時代が変わるとともに野球も変わっていかなあかんねん。歩みをやめたとき、野球は益々衰弱し、ついにはビーチバレー以下となり野垂れ死ぬことになるやろう。そこで西日本一野球を愛するおっちゃんが、野球改革を提唱するで。
野球は断じてベースボールの2軍やないねん。メジャーを超えるようなもんを表現していかなあかん。サッカーが、ゴルフが背中に迫ってる。映画も超越してエンタメの頂点に立つために何をしたらええのやろうか?
今のエンタメに求められてるのは直接性と関係性や。いち早くそれを取り入れたのが映画でな、一方で映像技術は目覚しく発展しど迫力の映像が皆を驚嘆させ、他方で人間関係の機微が人々の心を捉えるわけや。このように人々の要求である直接性と関係性を充たすことによって人々を振り向かすことがでける。野球でゆうたら直接性は競技性によって、関係性は演技性によって人々のニーズに応えることがでけるねん。
改革を唱えると常に抵抗するんがマニアや。プロレスでもボクシングでもそうやったけど、おっちゃんが閉塞による停滞を受け改革を提唱すると現状で満足してるマニアはそれに異を唱えるねん。前回の野球改革の記事へのレスも例えば「落合の野球は面白い」やて。そらマニアからしたらおもろいやろうな、せやけど優勝してもぱっとせん事実を受け止めなあかんよ。多数派の一般人を振り向かせなあかんねん。
プロレスでもマニアが、八百長ばればれの誰も見向きもせんプロレスを擁護し、選手はそんな既得権益に依存して改革をせえへん。ボクシングマニアも競技性と演技性を統合してのし上がっていこうとしてる亀田を非難して内藤を擁護してる。前回の世界戦でも中継すらされなんだ魅力0のボクサーを擁護するやなんて正気やないよ。マニアからしたらおもろいのやろうけど、内藤は亀田とやらなんだら無名のままで引退してたよ。視聴率長男50%、次男40%を真摯に受け止めなあかん。おっちゃんは野球でもプロレスでもボクシングでも徹底的に没落したらええと思う。ビーチバレーと横並びになったらええやんか。落ちるとこまで落ちたら既得権益も無いから改革の必要性を感じて新しいもんを表現していこうとするのやから。
近代社会はものがあれば幸せゆう時代やった。そういった合意に基づいて国家規模の一元的共同体が樹立、価値観も単一で皆に同朋意識が有ったよ。せやけどものが溢れて物質的欲求の時代が終焉すると、現代に入って今度は心の時代になる。心的欲求は個々人の問題やから合意は形成されんと国家規模の共同体は衰退し、そうして小さな共同体が島宇宙的に散在する多元的共同体が樹立することになった。このような時代はもな他人同士で隣は何をする人ぞ、価値観も多様化するからメインカルチャーもサブも区別が無くなっていくことになる。野球も相撲もプロレスもボクシングも軒並み退行するわけや。
せやけど価値観が多様化したから没落が正当化されるわけやないねん。近代的経営でやってる以上は衰退は必然的に決まってるやないか。新しいことして現代人の欲求である直接性と関係性を充たしたら亀田みたいに人気もんになれるねん。落合近代野球ではあかんねん、一般人が振り向くような演出をしていかなあかん、高い技術を見せていかなあかん。競技性と演技性を一致させるんや!そうしてメジャーや映画を超越するんや。
次回は競技性と演技性の統合について説明するで!
posted by つるじょあ |08:18 |
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2007年10月20日
おっちゃんやで~。かつて野球は国民的に支持されてた。せやけど今はどうやろうか。年々集客力は落っこちてメディアでの露出も減りつつあるのやないか?これは野球が現代社会においてもかび臭い近代的野球を惰性で引きずってるからや。近代野球は現代野球へと進化していかなあかん。そこでおっちゃんは近代性の象徴として落合を非難したい。
現代野球の理念は競技性と演技性の統合や。競技性とは強さであり、演技性とは自己演出のことや。競技のみで盛り上がるのは近代、今は強いだけでは意味がないから、そこに人々をひきつけるような物語が必要なんや。
そこを考えると落合は最悪や。勝ちに拘りすぎてお客さんを想定した野球をしてない。前に優勝したときも前年に比べて観客が減ったんやて。なにをやってるのやろうな。ええか、プロ野球は興行やねん。お客さん呼んでなんぼやねん。どつまらん試合して客引かしてどないするねん。格闘技選手でゆうたらアーネスト・ホーストや。お客さん無視で勝利にこだわりその結果ドン引きさせる。負けるバンナのほうが人気もんや。落合のやってることはそうゆうことなんやで。
あいつ現役時代ホームランについても「飛ばなくてもホームランはホームラン」てゆうてたよ。これがすべてを物語ってるやろ。確かに競技性の観点からしたらその通りやろうな。せやけどお客さんは場外に消えていく特大ホームランに喜ぶわけやんか。飛距離には競技性にはカウントされん感動が隠れてるねん。
現代エンタメの理念は競技性と演技性の統合や。勿論競技性をないがしろにせえゆうてるわけちゃうよ、せやけど競技性に偏向してもそれはエンタメとしては質が低いてゆうてるだけのことやから。亀田みてみい、長男50%次男40%やで。自己演出の賜物やないかい。ビーチクバレーの浅尾かて片乳だしてがんばってはるで、落合の女房もけつめど出さんかい!(笑点)
今必要なんは闘魂なんや。競技的にも演技的にも自己を超克せなあかん。選手として技術身に付けるのは勿論のこと、人々をひきつけるようなお客さんとの関係性を身に付けるために日常からコミュニケーションスキルを向上していかなあかんのや。そうやなかったら他のエンタメに盟主の地位を脅かされてしまうで。近代野球から現代野球へと進化していかなあかん。塩監督落合のもとではええ思いでけへんから皆離れていくやろな。福留も岩瀬も出て行くやろ。いま野球に必要なんは自己超克の概念、闘魂なんやで。すなわちアントニオ猪木なんや。
ほないくで~。1アウト、2アウト、3アウト、ダ~ッ!
posted by つるじょあ |10:27 |
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2007年10月19日
おっちゃんやで~。亀田家は謝罪すべきやと思うけど、それは形だけでええよ。ほんまに謝罪する理由がどこにあるのやろうか?親父さんも亀田家のスタイルはこれからも貫くてゆうてるやんか。そうや、亀田家は間違うてないもん、反省する必要なんてどこにもないがな。
皆は一様に亀田家は謝罪すべきゆう前提で、その謝罪のあり方の是非について述べてる。せやけどおっちゃんはその前提から覆したいとおもてるねん。ええか、一言でゆうたらな、今のボクシングは存在自体が罪なんや。現代社会においていつまでもつまらん近代性を引きずってること自体が罪であって、今閉塞ゆう罰を受けてるわけや。そんな罪深き近代的地平において問題起こしたからなんやっちゅうねん。せやろ?例えば近代社会では村落共同体が存在してて、挨拶せえへんと和を乱したとされて村八分にされた。せやけど今村落共同体の論理を持ち出して挨拶せん奴を問題視しても意味ないやんか。時代は変わってるのやから古臭いルール持ち出しても通用するわけないよ。
ええか、会長選出でもあの茶番はなんや、輪島が「原田さんはやめると連絡があったから立候補したのに再選を目指すのはおかしい」みたいなことゆうてたやろ?つまり公平に選出されるべき選挙において既に密室で次の会長が大体決まってたわけや。選挙は形だけでやる前からすべて決まってる、近代そのまやないか。また選手は競技性のみに偏向しててこれも近代性そのままや。しかもなにも自己主張せえへんから相変わらずの無骨な直接性のみでは客は離れていくよ。またボクシングの賞でもそうや、優秀賞が長谷川で敢闘賞が亀田やて。なにゆうてるねん、長谷川はチャンピオンかもしれんけど未だに無名やないか。功績に大して賞が与えられるのやから、ボクシングの存在感を久々に見せ付けた亀田にこそ大賞を与えるべきやろ。今のボクシングチャンピオンのどこに尊重すべき権威があるねん。長谷川は徳山と防衛戦やったら盛り上がるのにお客さん無視してアメリカで戦うゆう己の夢を優先した。こいつなにがやりたいのやろか?皆喜ばせて天下とる気ないのやろうな。これこそまさしくみんながようゆうてるオナニーやないのんかい。こうして結局徳山は引退してもうた。ほんまに残念やわ。
こうゆうことでな、ボクシングはプロレス同様近代性を惰性で温存してるから閉塞して停滞してる。内藤vsポンサクは世界戦やのに中継もなく、大毅と戦わなんだら内藤は無名のまま引退してたやろう。長谷川も坂田もイーグルも新井田もおんなじこっちゃ。そこいくと辰吉は違う、お客さんを意識してた。腕振り回して戦ったり、負けたら「負けたのは双子の弟の丈二郎」やて(笑点)。網膜剥離にもめげずに引退を覆して再び世界チャンピオンや。薬師寺との世界戦前の挑発、そして試合後の健闘の称えあい、まさしく競技性と演技性が一致した現代ボクシングやった。
そして今、辰吉を上回る逸材が登場した。そう、亀田家や。見事なまでの自己演出で長男興毅が視聴率50%。今の時代にこの数字は考えられへん。続く大毅は40%、まだまだ競技性はおいついてないけども、若さもあるし長い目でみたら辰吉の上いく可能性はおおいにあるよ。ファンもアンチも亀田に振り回される。今はステレオタイプの共同体を守る英雄やのうて、直接性と関係性を表現するもんが英雄なんや。お客さんを想定する亀田はまさしく現代ボクサーなんやで。
さて、謝るべきは亀田家なのやろうか?確かに大毅はルールを違反した。せやけどルール以前にそれを支えるはずの土台である協会が腐っててボクシング自体が死にかけてるのになんでそれに則らなあかんのやろうか。亀田家は今まで慣例から逸脱し常識を無視し、自由に振舞ってきたのは今までの慣例が、常識が間違ってたからや無いのんかい。旧来の価値観、女は黙ってお茶組してたらええねんて言われて現代の今それを無視して仕事してなにがあかんねん。閉塞して停滞してるボクシングにこだわる必要性なんてどこにもないよ。簡単にゆうたら今のボクシングに適応したら選手も腐ってしまうねん。内藤も旧来の慣例に即して協会同様に腐ってるわけやんか。そんな奴放り投げてなにがあかんねん。あの世界戦で常に客を想定して頑張ってたのは一方的に亀田家やったやないか。国民を背負うゆう教科書どおりの態度でチャンピオンであること以外一切役に立たんと大毅人気にあやかってええおもいしてるだけやないか。内藤も噛み付いたら相乗効果でさらに盛り上がったはずやのに全部おんぶにだっこや。
世界戦どころかチャンピオンにもボクシング自体にも権威が無い以上、ルール違反で建前は謝罪しても心の底から謝罪する必要性なんてないよ。無名でつまらないチャンピオンや没落した協会に何で頭下げなあかんねん。ええか、これは興行なんやで。人集めてなんぼやねん。一定の方向性を与えるだけのルールを絶対視して興行忘れてどないするねん。あの時どうせ負けるのやから最後盛り上げるために投げてなにがあかんのやろうか?投げな盛り上がらんのは誰のせいなのか肝心の根源的な罪を弾劾することを皆忘れてるよ。その罪人とはボクシングを腐らせてる協会・関係者と、亀田以外の選手やないのんかい。ボクシング界で唯一現代に即した戦いをして業界を牽引してはるのや、表彰されこそすれ非難される謂れはいっさいないよ。
内藤も協会関係者も亀田家の自宅に来て裏口からひっそりと謝ってくれ。内藤やったら「なんで場外のマットの無い所に投げてくれなかったんだ?30過ぎてろくな演出もできない俺がチャンピオンの資格なんて無い。是非選手生命を奪うなり好きにして欲しい。サミングで目をえぐり金玉も潰してくれ。人々は俺をチャンピオンと思っているだろうが、本当のチャンピオンは大毅くん、君なんだ。悪者にして本当にすまない。」協会も「こんな古臭い体制の中、よく高視聴率を取ってくれた。掃き溜めに鶴、いや亀だ。ルール違反だから建前は罰を与えるが英雄を罰することには甚だ遺憾に思うよ。我々がふがいないばっかりに悪役にさせてしまって本当にすまない。」やくみつるも「親父さん、私がかつて討論番組でいっていたとおりに常識的に振舞っていたら今回の高視聴率なんて取れるわけが無いんだ。親父さんがセコンドに上がらないで盛り上がるわけが無いんだ。親父さんが威嚇し、恫喝し、にらみ合う。遺恨を残して次につなげる。セコンドもせず威嚇もせず遺恨ものこさないでなにがエンタメだろう。それはなんら落ちの無い私の漫画だ。ペン先で切腹して謝意としたい。」ズバッ!これが本来あるべき正しい姿とちゃうやろか?
ほな。
posted by つるじょあ |09:27 |
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2007年10月18日
おっちゃんやで~。ついにつる・じょ塾開講や(ちがう!)。
おっちゃんは常々理論レベルでも実証レベルでも現代格闘技について説明してきた。せやけど難解やったり断片的であったりして分かりにくいゆう反響が多かった。そこで今回おっちゃんなりに分かりやすう包括的に説明してみようと思う。おっちゃんのこの格闘技論は、けして酔いどれの世迷いごとでもなければターザンのパクリでもない、最新の社会科学理論に裏付けされたおっちゃんのオリジナルの主張なんや。それではご傾聴よろしゅうお頼もうします。
<近代社会と近代格闘技>
格闘技でもなんでもそうやけど、人々の価値観は時代によって移り変わっていくねん。中世には中世の、近代には近代の、そして現代には現代の各々の時代に即した人々の価値観があるわけや。これはなんでかゆうたらな、時代の変遷はその時代における生産様式が規定してるからや。そして各々の生産様式に基づいた社会があって、社会的存在である人間を形作ってるわけや。時代の区分は生産様式の区分や。このように各々の時代、各々の社会によって人々の価値観は異なる。では近代社会とはどの様なものやったのやろうか?これは簡単にゆうたら物があったら幸せ、ゆう時代やった。近代社会は明治から平成初期までをさしてて、ここでは重電産業が活発やった。これは国民的な物への消費動機が結びついてたからで皆が一丸となって作ってたわけや。物質的欲求を充たすために近代大工業が栄え大量生産が行われ、男は外へ労働し、女は家庭内で家事をし子供を養う。これは性別役割分業ゆうて、今フェミニストの一部が当時女性が差別されてきた、てゆうてるやついてるけど、単なるアホでっせ。近代ゆう社会は、性別役割分業がなかったら成立せえへんのやから、当時はこれでええねん。問題なのは現代になっても近代的な役割分業を押し付けることなんや。共同体社会とは各々の異なる役割を担うことによって全体の富を築き上げていく。このように物質的欲求の充足ゆう国民的目標に向かって国家規模の共同体が樹立、皆が価値観を共有して近代社会は成り立ってたわけや。
ここでの格闘技はどの様なものなのやろうか?映画でもドラマでもそうやけど、近代社会で喜ばれてたのは予定調和や。人々はええ生活を夢見て物を生産するために日々労働を反復してた。そやからそういった日常を肯定するようなエンタメが行われるわけや。悪が登場し既存の体制を脅かすのやけどそこで英雄が登場し紆余曲折を経て悪を打ち破り秩序を回復する。また青春ドラマでも紆余曲折を経て結局は太陽に向かって走り出す。これは物質的欲求ゆう共有された価値観があり、先行きは透明性があって今日があり明日があるゆう現実構成の自明さがあるからこそ成り立ってたのや。プロレスでも同様や、力道山が、馬場が、猪木が、共同体外からの刺客を紆余曲折を経て打ち破り勧善懲悪の予定調和によって人々を歓喜させる。よくプロレスは八百長てゆわれるけどもそれは事実とは異なるねん。なんでかゆうたら当時はいかにして人々が喜ぶ予定調和を提供するかがガチであり、試合内容が競技性の意味でガチである必要はなかったからや。猪木は力道山ゲノムを、猪木ゲノムを現代でも紡ぐてゆうてるけど、これはプロレスが当時の人々を喜ばせてて、そして現代でもそれをプロレスが担うゆう意味なんやで。猪木は近代社会で八百長やってた、ガチは2,3試合やった、て非難してる無知な奴ようけいてるけど、それは現代的な価値観に基づいた物言いで的外れ、事実は猪木は近代に即したガチをやってたんや。昔の猪木も天山もやってることはおんなじやけど、前者はガチ、後者は八百長な訳や。
<現代社会と現代格闘技>
産めよ増やせよ、皆が一丸となって物を追い求めた時代はものが溢れるようになると終息することになる。欲求階層論(マズロー)によると人々の欲求には階層性があって、物質的欲求の時代の次は心的欲求の充足の時代が来る。つまり欲求は今度は個々人に内面化されていくわけや。ここでの心的欲求の充足は物質的欲求と違うて国民的な合意は不可能やから、国家規模の共同性は衰退、産業構造も多様な価値を受けて一元的な重電産業から多元的な情報化産業に転換、こうして道徳は衰退して協調性は失われ、メインカルチャーは衰退しサブと横並びする現代社会が樹立する。国技としての野球も相撲も人気は衰退し、変人が跋扈、人々の結びつきは希薄となり人生の意味は失われた。新時代の実存形式に適応しそびれて自殺者は増加、現代に入っても温存された近代的教育制度においては学級崩壊がおこり、近代プロレスは閉塞、このように近代性を現代においても惰性で継続するものは問題がおきるようになる。ではこのような社会では人々はエンタメに何を求めるのやろうか?それは直接性と関係性になります。
・競技性
直接性とは生きてる実感の事を指します。物に触れてみて最初は実感があるのやけど慣れてしまうと触れてるかどうか分からんようになってしまう。もし人々が生きてる実感を慣れによって失ったら気が狂ってしまうやろう。近代社会ではそれを共同体外への感受性によって獲得してた。プロレスは外的との戦いを通じて言語の外にある言及不可能な世界をもたらすことによって共同体外からの感受性を提供し生きてる実感を与えてたわけや。せやけど共同体が衰退すると共同体外からの感受性の獲得が不可能になるから、そこで前近代的な生きてる実感を獲得する方法が復活することになる。それが直接性や。これは体感を通じて生きてる実感を獲得するもんで、薬物や生贄や公開処刑などによって行われてた。ただ今日的な複雑な社会では納期を守らなあかんし時間通りに働かなあかんから、そこで個々人が余暇に能動的にアクセスすることになる。こうして現代における公開処刑の代替として格闘技はプロレスから変容を迫られることになる訳や。現代人の農業や漁業回帰や、一部の人を殺すことへの興味はこういった直接性の希求にねざしてるねん。後者の少年はゆうたら一人公開処刑や。このように見せかけの競技やのうてほんまもんの競技性による直接性が希求されるわけや。
・演技性
関係性とは今ここの人間関係を楽しむことでな、例えば憧れでしかなかった近代アイドルは人の上に立ってた。せやけど現代に入るとアイドルは次々とバラエティーに進出して三枚目を演じるようになる。つまり上から降りてきて今ここを楽しませてくれるもんが現代では希求されてるわけや。ドラマでも客観的演技性から主観的演技性に変容してきた。客観的演技性とは外部のステレオタイプの演技性のことで、主観的演技性とは内部のオリジナルの演技性のことや。例えば同じ教師役でも前者は人々の頭に浮かぶようなベタなありがちな演技を行う。近代社会では価値観が単一で予定調和が好まれてたからベタでええのやけど、多様な価値観を持つ現代人の心には響きません。主観的演技性の教師役は自らが教師となること、自己でない誰かになるのやのうて自己がその役柄として振舞うことや。現代社会では関係性に鋭敏やから、ステレオタイプの役柄ではうそ臭さを感じて人々は感どうせえへんねん。具体的にはキムタクやツマブキやビートたけしの映画や。普段みたいに自然に話してるやろ?あれこそが主観的演技性であり、現代人の心に響くねん。プロレスでもキラーカーンのステレオタイプの悪役は近代では受けるのやけど、同様に現代において天山がなんぼ「やんのかコラー、殺すぞコラー」て現代でゆうても人々の心には響きません。
・競技性と演技性の統合をする現代プロレスラー
おっちゃんが何度もゆうてる「現代プロレスとは競技性と演技性の統合である」とは直接性と関係性に応じた新しい格闘技の地平であることは分かっていただけたと思う。程度は異なるとはいえ現代のプロレスラーを挙げるとマサト、KID、小川、サップ、亀田がそうやといえるやろう。ではどの部分が現代チックなのやろうか?現代プロレスラーは競技性と演技性を持ってる。競技性とは強さであり演技性とは個性的であることや。ほんまの戦いの最中でおもろい演技をしていく。せやけど勘違いしたらあかんで、この演技は客観的演技性やのうて主観的演技性なんや。人間には二つの自己があってな、それは己が己であるゆうことを考え続ける近代的自我と快不快を感じる選択主体としての自己や。猪木は自分が二人いるんじゃないかと思うときがある、てゆうてるけどそれは正しい認識や。孔子も夢の中で蝶となって飛んでたのやけど、夢から覚めておどろいた。つまり夢の中で蝶として飛んでたときは自らが孔子であることは忘れて空を舞ってた。そやから自己とはこのような相対性であったのかとおどろいてたわけやけど、皆が自己と思い込んでる近代的自我なんてその程度のもんなんや。そこで猪木は自己ゆう装置を利用して選択主体としての自己が演出することを試みる。近代的自我としての自己は相対性と言う意味では虚構やけど、人々はまさにこの近代的自我で生きてる以上これは真実や。そうゆう意味で近代的自我の競技性と演技性の自己超克を選択主体としての視座から操作する高度なMMA、これこそが現代プロレスの真髄なんや。演技性ゆうと虚構やと誤解されるけど、近代的自我が相対性であることの謂いが演技と呼ばれるだけであって、人々が演技性であり演技性で生活してる以上は虚構やないねん。ここいらへんは熟読の上理解して欲しい。概念的正確さと平易さは必ずしも一致せえへんのやから。
<団体・興行の歴史的経緯とその意義>
・新日本→近代社会におけるエンタメ。外人との戦いを通じて共同体外への感受性を持ち込んで紆余曲折を経て勝利することを見せかけることにより既存の共同体社会の秩序を回復し人々を歓喜させてた。異種格闘技戦もそう称してるだけでおんなじ論理構造や。
・UWF→近代社会が徐々に衰退し、既存の予定調和では生きてる実感を獲得でけんようになると、ここで初めて直接性の希求が生じてほんまのどつき合いが求められるようになった。せやけどここではまだ近代から現代の過渡期やったから選手も見せかけるだけで内容はまだ競技性やなかった。
・UFC→共同体が衰退して共同体外からの感受性の獲得が不可能になると前近代的な生きてる実感の獲得方法が直接性という形で復活することになる。前近代の公開処刑は複雑な社会では納品の時期や決められた時間での労働に支障きたすからその代替として個々の都合で能動的にアクセスできるようなエンタメが登場する。殴れ、殺せ!公開処刑によって狂喜乱舞してた大衆が肉体のぶつかり合いに再び狂喜する。退屈な日常を吹き飛ばし人々は生きてる実感を獲得する。日本におけるUFCのトートロジーがバーリトゥード・ジャパンや。
・アメプロ→UFCが直接性の希求に応じる一方で、関係性の希求に応じるのがアメプロや。共同体からは道徳が、一神教的宗教からは倫理が醸成される。倫理(エートス)とは隣人愛に基づいた自立と相互扶助の概念でな、これによって人々は確立した自我を持つようになるわけや。アメリカ人が自己主張できるのはそのためなんや。そんな強い自我を持つアメリカ人は余裕があるから、アメプロのような虚構に敢えて真実であるかのようにコミットすることによって楽しむことができる。自我の確立してない日本人にアメプロみしてみい、余裕ないから「これ八百長やろ」でしまいや。
・PRIDE→直接性の希求に応じるだけでなく、ここで人々は今ここを楽しめるような関係性を希求するようになった。人々は単純などつき合いやのうてその歴史の中での高度な人間関係を楽しむようになる。そこで煽りVが登場、個性溢れる選手が徐々に人気を獲得するようになってくる。
・IGF→直接性と関係性の希求に答えるべく競技性と演技性の統合を明確に理念とした、つまり世界初の現代プロレスを理念に掲げた興行や。リング内外での生き様が人生の交錯としてリング上で火花を散らす。今は試行錯誤の段階やけどいづれ野球やサッカーに対抗することになるやろう。IGFが死んでもその理念は継承されることになるやろう。
このように古代ギリシャのパンクラチオンに端を発する格闘技は、ランカシャーレスリング・フリースタイルレスリング・プロフェッショナルレスリング(近代プロレス)を経て現代プロレスとなるのは歴史的必然なんや。近代社会に即してた格闘技が現代社会では変容するにきまってるやんか。おっちゃんがタイトルにした近代プロレスの超克とは、現代において今だ近代性を引きずって皆に嘲笑されてるプロレスを克服して新しい格闘技を建立することを意味してるねん。そやから勘違いせんといてくれよ、タイトルにプロレスて入ってるからプロレスを擁護してるようにみえるかもしれんけど、実際は逆や、既存のプロレスの殺害をおっちゃんは説いてるねん。さて、いかに価値観が多様化して全国民に愛されることが困難としても、野球やサッカーに勝つことは論理的にでけるはずや。おっちゃんが格闘技に10年前から期待してるのは、野球やサッカーを超えるポテンシャルを有してると判断したからや。ええか、プロレスがあかんようになってまず格闘技ブーム(直接性の希求)になった、そして次に現代格闘技がブーム(直接性と関係性の希求)になるのはすべておっちゃんの想定範囲内、そして格闘技は野球やサッカーを超えるよ。その為には誤解や偏見やマニアと一部の選手(蝶野、ライガーなど)の既得権益擁護から来る反発と戦わなあかん。そやからおっちゃんは主張してるんやで。猪木、マサト、KID、亀田、かつて無い新しい動きが格闘技界に起こりつつある。それは競技性と演技性を統合しようとする試みや。猪木が新しい格闘技を推し進め、掛かるマスコミからの誹謗中傷をおっちゃんが論駁する。猪木とおっちゃんが必然性をより鋭く推し進めるよ。
今回は難しいことは言わんと難解な用語は回避したつもりです。質問、反論、愛の告白、金銭の譲渡などまってまっせ。
ほな。
posted by つるじょあ |12:09 |
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2007年10月17日
おっちゃんです。おっちゃんの亀田家に関する記事への沢山のレス、ほんまに有難う。ただ内容的にはレベル低すぎるわ。そもそも現代プロレス-現代格闘技の理念-への無知と鈍感さは相変わらずやな。そこでおっちゃんは現代プロレスを包括的に、そして平易に書かなあかんことを痛感したわ。このままやと猪木や亀田が誤解に晒されてしまうからな。ただその前に今回は秋山成勲について語るよ。当然皆さんは前提となるべき現代プロレスへの理解が無いから亀田の記事へのレス同様浅はかな解釈をしてしまうやろう。せやけど今回はそれでもええねん、とにかく旬を逃したらあかんから、核となる現代プロレス論は次回に譲って今回は秋山について語りまっせ。
無期限出場停止くらってた秋山が、韓国のHEROSで復帰することになった。対戦相手は強豪デニス・カーン。PRIDEウェルター級GPで準優勝してるけど、実力的には優勝した三崎よりも上やった。秋山はそんな相手を水から選んだそうや。これはどうゆうことなのやろうか?
この対戦相手の指名は勿論秋山の功利計算が働いてる。狡猾な秋山は復帰が決まったとはいえ、まだ根強い復帰反対者がいてることを理解してる。そこでそれらを払拭すべくそのくすぶりをリング上へと持ち込んだわけや。つまりこれこそリング外での生き様をリング上で昇華する現代プロレスそのままやないか。内藤vs亀田が注目を集めたのはその因縁が真実やったからや。プロレス的なブックやのうてそれはリアルであったからこそ人々をひきつける。橋本vs小川がもりあがったのも因縁があったから、若貴兄弟の確執のときももし土俵上でその因縁を昇華さしてたら視聴率80%はいったよ。現代プロレスラーはこのリング外でのブックやないほんまの因縁をリング上で昇華させるのやけど、今回の秋山の態度はまさにそれに即した行為といえるやろう。ここで堂々と敢闘精神を発揮し、ええ試合してみい、そのときこそほんまのHEROS復帰といえるやろう。そうゆう計算が秋山には働いてるねん。内藤vs亀田戦同様この試合は注目されるやろうな。意図的ではないにせよ、安田の自殺未遂も真実やから、復帰戦にはある程度注目が集まるやろう。このような人生の演出を意図的に行うのが主観的演技性に基づく自己演出であり、ブックのような客観的に箇条書きでけるような演出が客観的演技性なんやけど、それについての説明は次回に譲るわ。
それにしても内藤vs亀田に続く現代プロレスが続くのはええことや。こういった試合を全試合でおこなってみい、野球もサッカーも超えられるよ。皆もそうおもうやろ?それを唯一格闘技畑で理解してるのがアントニオ猪木であり、評論畑で理解してるのがおっちゃんなんやで。
次回の現代プロレス論概論まっててや!ほな。
posted by つるじょあ |08:18 |
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2007年10月16日
おっちゃんです。今回の亀田家への処罰について語らせてもらいます。
おっちゃんが思うに大毅への処罰は重過ぎると思う。成長期で1年のブランクは彼自身にとっても大きな痛手や。試合あるからモチベーションは持続されるし技術も向上しうる。1年先の試合ではそれも難しいやろう。そもそも今までのボクシングへの貢献はどこへいってもうたのや?それ考慮したら半年で十分やろ。内藤がいままで何貢献したゆうねん。貢献どころか試合つまらんからゆうてベルト剥奪してしまえ!
親父もオレンジ同様無期限とはこれも重すぎまっせ。威嚇は演出やし反則も技術、まあマイクに拾われた以上は道義的に問題あるけども前回のことも考慮しても精々1年停職やろ。まず親父は内藤に謝れてゆうてる奴いてるけど、そもそもつまらんお前の代わりに盛り上げてるのやから誤る必要は無いと思う。
そもそも宮田ジムからの肉親をリング上にあげることへの抗議を却下してる以上、このことの淵源は協会側にあるのは動かせん事実や。肉親上がったらそら思い入れも強くなるから主観的になってしまうよ。それを許して不祥事への足がかり作ったのは協会側や無いか。その罪はどこにいったのやろうか?盛り上がるからあげたのやったら不祥事を慮らんかった協会の責任や。それに貢献も無視して単に観衆の抗議に迎合しただけやろ。それとも古臭い体制やから嫉妬による足の引っ張りか?そんなことやからボクシング番組は深夜においやられたんやで。
大毅の投げはな、勝利は絶望やったからそこで精一杯の演出をしたんや。あの状態でようやったよ。負けは決まってるけどもお客さんに少しでも喜んでもらおうゆう、サービス精神や無いか。万策尽きて手も足もでん状態であいつはやってくれたんやで。そうやなかったらなんであんなことするねん。あとで「どや、おもろかったやろ!」みたいなのりでやったことや。それを皆理解してるのやろうか?世界戦は重いもの、てそれやったらポンサクvs内藤の世界戦大々的に報じたらよかったやんか。報じるわけ無いよ、それだけボクシングゆうエンタメ自体軽うなってるのやから。投げぐらいせんとピリッとせえへんようになったのは誰のせいやねん。
今回の問題で浮き上がったのは近代的ボクシング協会と現代的亀田家の齟齬や。落ちぶれまくっれる協会側が屁にもならん誇りをもちくさって亀田家を近代的に断罪した。その後残るのはなんやろうか?長谷川、坂田、イーグル、新井田、内藤、そして協会、つまり誰も見向きもせん近代砂漠のみや。一般人の誰が振り返るねん。亀田家は現代に湧いたオアシスやったんやで。
亀田家皆非難してるけども、親父から威嚇や恫喝取ったら何が残るかゆうてほしい。長男からタメ口とったら、次男から歌うこと取ったら何が残るねん。そうやってラフファイトや奇抜な髪型や挑発的な言辞奪ってみい、残るのは骨と皮でっせ。
亀田家がパフォーマンスするのはなんでかもっと考えて欲しいわ。親父が威嚇し長男が挑発し大毅が歌うのはなんでかもっと考えて欲しいわ。辰吉は素晴らしかった、自己演出して実力もあったよ。リング内外で生き様見せてたよ。競技性と演技性を見事統合してた。今のボクサーはなんや、競技性だけやないかい、それで閉塞して停滞してるのやないかい。それを温存してるのは協会でっせ。亀田家は違うよ、辰吉を継承し演技性をもってるし、競技性身に付けようと頑張ってるやないか。バックドロップで目覚めるべきは内藤のほうやろ。戦後のコメントも普通の常識的なコメントや。お前らが注目されてるのは大毅のお陰ゆうこと分かってるのやろうか?視聴率30%が亀田家のお陰てわかってるのやろうか?興毅にもたかっておいしいどこどりか?協会は亀田家を都合よく利用するだけか?今回の原因の淵源が協会にある以上は半分は協会がその罪科を背負うべきやろ。それどころか今までの、そしてこれからの貢献考えたら亀田家は無罪にして協会が潰れてしまえ。何が処罰や、そんな権威も品格も今の協会にあるかい。
亀田家は無罪!
posted by つるじょあ |21:50 |
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2007年10月06日
おっちゃんやで~。今回は現代プロレス論やる言いながら話しそれてすみません。せやけどこのことを喝破でけるのは、スポナビではおっちゃんだけやから言わしてもらうわ。
前田はPRIDEの崩壊を受けて「ざまあみろ、PRIDE!」てはき捨てた。そこで老子の言葉を引用して自業自得、悪は滅ぶみたいなことゆうてた。なんで前田はPRIDEにこない怨恨感情もってるかゆうと、実はかつて前田が起こした格闘技団体RINGSが当時台頭してきたPRIDEに選手引きぬかれて打撃を受けたからですわ。ノゲイラ・ヒョードル・アイブル、まさしく強さの象徴が引き抜かれたわけです。ほどなくRINGSは崩壊して前田は格闘技界から一時的に消えることになった。この恨みが「ざまあみろ」に繋がったわけですわ。せやけどそれは正当な物言いなのやろうか。
RINGSは団体経営方式を採用してて、選手を所属させてゆうたら暖か共同体の団体やった。それに対してPRIDEは興行経営方式を採用してて、選手を所属させずにイベントごとに契約させる、ゆうたらPRIDEはイベント名であって団体やなかったわけや。ではこのどちらの経営方式が現代に即してるのやろうか。
まず新規社員を純粋培養で育てていくやり方は、現代には即しません。なんでかゆうたら、価値観の単一な近代社会では会社に入れば終身雇用で最後まで勤め上げることができたのやけど、多様な価値観のある現代社会では流動性の高い産業構造の元いつ辞めるかわかれへんから、最初に育てるコストが還元されんようになってしまうからや。
またアイディア勝負の高付加価値製品やサービスを生み出す労働市場では能力主義社会やから所属本位でやってると対応ができません。簡単にゆうたら所属することで会社がおんぶしてたら能力が向上せんと国際競争力が身に付かない、そうゆうことですわ。
このように近代社会は重電産業重視の時代であり、現代社会は情報産業重視の時代や。そやから終身雇用や年功序列の給与体系などの所属本位の近代的経営方式である団体経営は現代には即さないのであり、団体経営のRINGSが興行経営のPRIDEに負けるのは歴史的必然やったわけですわ。
前田は悪は滅びるみたいなことをゆうてたけど、PRIDEは現代に即した経営方式を採用してたし、RINGSが敗北したのは選手に対してよりよい環境をもたらせなんだからで、経営方針が誤ってたからやないか。選手を束縛し、年功序列に組み込み、選手の福利厚生でコストかけてたからやないか。PRIDEは選手を束縛するのは一定期間であり、能力に合わせた賃金が支払われ、選手を抱えこまへんからコストがかからなんだ。それにPRIDEの崩壊はネガティブな勢力との付き合いが疑われたからで経営方式とは無関係や。前田はその認識が甘いと思う。また引抜が汚いとかゆう儒教的共同体的な道徳的逸脱者に対する非難は彼自身がまだ近代的な価値観から抜け出していない証拠や。第2次RINGS立ち上げを考えてるようやけど、第一次RINGSの崩壊をPRIDEの汚さのせいにしてたら再び失敗することになるやろうな。前田は人間的には素晴らしいけども、経営者としては落第でっせ。
そうゆう意味で前田は猪木よりも馬場に近い。馬場が生きてても既存のプロレスと似たようなことしてたやろう。現役引退後の生活の保障とか福利厚生とか近代性を引きずって選手背負ってコストはかさむは選手も甘やかされて競争力も身に付かんわ既得権益であるマニア相手にするだけで既存のプロレスそのままですわ。これを格闘技界でやってるのが前田な訳や。そこ行くと猪木は違う。事業立ち上げてもやり飛ばし、新日もあっさりと捨てるし企業への忠誠心は0や。これこそ流動性の高い現代社会に即した実存形式といえるやろう。前田が今の哲学を捨てんかぎりは現代プロレスはでけへんから、彼が天下とることは論理的にないよ。
プロレスは力道山から猪木、そして猪木から前田や三沢や蝶野やのうて、また猪木へと受け継がれる。近代から現代へ、猪木から猪木へ。
次回は現代プロレスとは何かを説明しまっせ!
<安田自殺未遂について>
最後に安田自殺未遂やけど、ほんまに残念やなあ。前目の前で元気にやってたやんか。詳細わからんからなんやけど、あれでも繊細な男やから人知れず苦しんでたのかもしれん。借金なんて人間同士の取り決めやんか、お師匠さんみたいに人生楽しむため利用したったらええのに。ゆうてたやんか、「安田、借金はいいぞ、人生に張りが出る」て(笑点)。中田ボタンもゆうてたで(どうでもええけど)。皆も紙ぺらごときの奴隷になったらあかんで。また不謹慎なことゆうと、現代プロレスは人生の交錯や、これをこのままリング上で昇華するようにもってったらええと思う。これこそ人生のリアル、現代プロレスの演技性は既存のプロレスの客観的演技性やのうて主観的演技性なんや。ほんまの等身大の自己を利用して表現したらええねん。
posted by つるじょあ |14:31 |
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2007年10月05日
おっちゃんやで~。最近現代プロレスてなんやねん、ゆう書込み目立つから、次回説明するから楽しみにまっててや。
ついに内藤vs大毅や!大毅は「俺が内藤と絡むんはあいつがベルト持ってるからや」て吼えてる。そうなんや、まさにその通りやとおっちゃんもおもう。内藤て皆知ってたか?おっちゃんはカシアス内藤はしってるけども、内藤大助なんて知らんかった。世界チャンピオンやけど知名度0、これはボクシングの低迷もあるけども、いかに内藤が競技性のみで演技性が欠落してることを表してる。世界戦もテレビ放送されずまたボクシングだけでは食うていかれへんから別の仕事もやってたそうや。夢の無いチャンピオンやなあ。内藤なんて誰が目標にするねん(笑点)。ジムの売り方も悪かったのかもしれんけど、それでもおもろかったら注目されるよ。銭儲けのやり方も知らんといたずらに年重ねて年下の大毅に「カラオケ歌う度胸が凄い」てそれは己が努力せんと練習ばっかりしてたからやろ。現代社会のエンタメは関係性の時代、いかに人をひきつけるような物語を紡いでいくかが問題なんや。内藤は単にリーマンとしてボクシングをやってきたのやろう。今回大毅が絡んでこなんだら、あいつ貧乏のまま誰にも知られることなく現役終わってたよ。皆が大毅を倒せゆうから頑張る、てアホか。ええか、そのアンチ大毅も亀田家が作り出したもんなんやで。内藤はチャンピオンであることにしか意味は無い、そうゆうこっちゃ。
大毅は次々とぶちあげて盛り上げてる。そうして自己を更新していくわけや。内藤は大毅のシナリオに載ってるだけや。なにもおろいこと言わへんから相乗効果も期待できずに大毅は一方的に吼えくるわなかん。ここにきて「KOでも判定でも勝ちに拘る」やて。観客との戦いが欠落してるわ。ほんまにしょぼくれたおっさんやで。中日の落合は現役時代「距離は飛ばなくてもホームランはホームラン」てゆうてたけど、そらアスリートの台詞やろ。場外に飛ばしたら皆喜ぶに決まってるやんか。監督になっても勝ちに拘ってどつまらん野球やってるから去年優勝しても集客力ダウンやて。救いようが無いわ。
大毅が勝てば競技性と演技性は一致して予定調和は完全破壊、益々人を惹きつけることになるやろうし、負けてもリベンジに向けてまた新たなる物語を紡ぐことになるやろう。どちらにせよ内藤vs大毅、試合で勝っても負けても大毅の勝ち、役者が一枚も二枚も上ゆうことですわ。単なる力量を比較するのやのうて、競技性のみのアスリートと競技性と演技性を一致させる現代格闘家の理念の違いがこれだけの力量の違いを生み出してることに着目せなあかん。このことに自覚的なのがアントニオ猪木であり、常に業界に気付きを供給してるのやから。亀田家に学べ、プロレスラーよ!
ほな。
posted by つるじょあ |01:36 |
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2007年10月04日
おっちゃんやで~。皆MAXみたか?ゼロワンMAXちゃうで、K-1MAXやで?(笑点)
まず最初に、おっちゃんがプロレス的視点で格闘技を考察することに反発してるもんがおる。おっちゃんはそいつらに言いたい。おっちゃんも猪木もプロレスと格闘技を分けてないから。IGFの理念は現代プロレスやし、K-1も生き残るには現代プロレス化せなあかんようになってくる。ええ時に先を見通すのが賢い経営者や。そして一番の問題はマニアに迎合することなんや。マニアに媚びても論理的に成功することは無いよ。プロレスみてたらわかるやろ、常に多数派の一般人を想定して新しいことをやっていかなあかん。流れん水は腐る、常に新陳代謝が必要なんや。ええ時に既得権益にすがることは楽でええわ、せやけどMAXもおんなじでな、格闘技に誇りを持ってるマニアやのうて、いかに一般人の関心をこちらに向けさせるかが重要なんやで。猪木と魔裟斗はいずれ一致するねん。K-1も格闘技畑を超えて開拓していかなあかん。
さてMAXやけど、おっちゃんの予想は決勝キシェンコvsサワーで、サワーの優勝やったんやけど、はずれてもうたがな。思ったより実力は皆拮抗してたなあ。サワーも飛びぬけた感じやなかった。
【プアカーオvs魔裟斗】
・競技性の視点
プアカーオのローか魔裟斗のパンチか、ておもてたら、プアカーオ打ち合いに行ってもうたなあ。魔裟斗の思う壺やで。それでもプアカーオのパンチも中々のもんやったけどな。せやけどローも前蹴りも大して出さんとあれでは作戦失敗やろ。己の殻を打ち破りたかったのやろか。魔裟斗はあれしかない、ゆう戦いぶりやったな。
・演技性の視点
常に中心は魔裟斗や、あえてプアカーオを初戦の相手にして皆を釘付けにした。女房も演出に組み込んで、たいした役者やで。そして倒す所が憎いなあ。しっかり競技性も一致させてるわ。今大会優勝は逃したけどもMVPは魔裟斗やな。完全に今大会をひっぱてるよ。
【キシェンコvsザンビディス】
・競技性の視点
おっちゃんの予想が食い違うたのはキシェンコが思わぬ苦戦を強いられたことや。ザンビディスは手足短いから、KIDには勝てるけども背の高い奴苦手やねん。リーチがあまりにも短すぎるわ。キシェンコはそうゆう意味で、ガードも堅いから懐に飛び込まれても上手く裁いてローやハイで散らして弱ったところを攻め判定勝利とおもてたのやけど、なんや延長戦になってるがな。ただ今回みせた膝蹴りは素晴らしかったなあ。タッパあるのやから膝蹴りはええ武器になるよ。将来に期待や。
・演技性の視点
ザンビディスはアレキサンダー大王の血が流れてるとかゆうてたけど、中途半端やったな。冠かぶってマント翻して出てきてみい。
【佐藤vsクラウス】
・競技性の視点
佐藤は新しい膝蹴りを見せたのはええけども、これが敗因になってしもた。セオリー通りに前蹴りとローやってたら勝ってたと思う。結局3Rになってからいつも通りローでダメージ与えたのやけど、時既に遅し、負けてもうた。ただ今回の挑戦はまさしく一皮向けるための挑戦であって、前のめりの敗北やと思う。チンにええの入ったけど根性で打ち合うたもんな。クラウス相手に見ごたえある打撃戦やったで。また首相撲からの膝蹴り中々よかったで。今回は可能性を感じさせる一戦やったわ。将来の魔裟斗戦に期待やな。
・演技性の視点
佐藤はほんまに魔裟斗を意識してて、あれこそ主観的演技性でよかったで。ただ一度ぶち上げた以上はこの物語を紡いで、いつかリング上で昇華させてほしい。それこそ現代プロレスなのやから。
【サワーvsドラゴ】
・競技性の視点
サワーは無難に戦ってたような気がする。ドラゴはテンプルにカウンター入って脳が揺れたのやろうなあ。
・演技性の視点
今回のサワーは大人しかった。
【キシェンコvs魔裟斗】
・競技性の視点
キシェンコ押してたけどパンチの重さは魔裟斗が上や。お互い消耗してると一発の重みがものをゆうねん。キシェンコは出直しやな。
・演技性の視点
キシェンコも自己主張していかなあかんわ。サンドバック打ってるだけでは技術は更新されても精神は更新されんのやから。
【クラウスvsサワー】
・競技性の視点
クラウスは一時の低迷からよう立ち直ったわ。ただそのパンチを生かすためのキックを磨いて欲しいなあ。
・演技性の視点
煽りV作るのも大変やわ。息子がどないしたゆうねん。そんなんちゃうやろ、己の為に戦わんかい。
【魔裟斗vsサワー】
・競技性の視点
とにかくサワーは防御固めてたなあ。手堅く優勝した感じや。蓄積されたダメージはあったけど、おっちゃんが思うに魔裟斗は上体に筋肉集めてる分足細いからローが弱点やと思う。
・演技性の視点
魔裟斗最後まで打って出たのは勿論勝敗もあるけども、観客を意識してのことやろう。
総評として、今回は魔裟斗一色の大会の気がした。ただでさえMAXは体重制限があり軽いから皆似たような体格になる。その分見た目にメリハリがないから尚更選手の個性が求められるねん。もっとイデオロギー闘争せなあかんわ。もっと格闘技を超えた発言が欲しいところや。ええ発言してるのは魔裟斗、佐藤ぐらいか。もっと積極的に物語り紡いでいかんとお客さんにそっぽむかれてしまうで。競技性だけではすぐに頭打ちになって廃れてしまう。日常から自己を立ち上げなあかん。
ほな。
posted by つるじょあ |09:36 |
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2007年10月03日
おっちゃんやで~。忙しゅうて更新できんとすみませんでした。またよろしゅうお頼申します。
皆みたか、k-1グランプリ1回戦。あれでほんまに天下とる気あるのやろうか。もっと世間みなあかんよ。格闘技やからゆうて格闘技畑でやってどないすんねん。なんで対世間の文脈が抜け落ちてるのやろうな。こら谷川のセンスや。格闘技の共同体があって、他の散在する共同体があって、その間が世界における公共性や。そやからこそ世界においてあるべき格闘技共同体のあり方が問題になってくる。このことを格闘技界で意識してるのはアントニオ猪木だけや。さあ、今回はおっちゃんなりに競技性と演技性の視点から考察するで。
【バダ・ハリvsダグ・ヴィニー】
・競技性の視点
相手がボクサーやから、バダはロー攻めまくるかとおもてたら、ダグは前に出てきてたなあ。なんてゆうんやろ、バダは圧力からっきしやわ。ダグは動きにキレがあるし圧力もあって、懐に入って一発入れたら逆転もありえたやろうに、無理してk-1にあわせてもうた。最後はローからのコンビネーションに拘って、やられてもうた。k-1ゆう新しい舞台に呑まれてしもたわけや。枠に当てはめようとする者と、枠に当てはまらん、枠を打ち破ろうとするものでは後者が伸びるよ。オリンピック上がりは充たされてるから、まず頭で考えてしまう。優等生になって己を枠に当てはめてしまうのやろう。
・演技性の視点
オリンピックあがりは精神的に充たされてるから、自己主張せんからつまらん。
【セーム・シュルトvsポール・スロウィンスキー】
・競技性の視点
シュルトのジャブはなんであないに決まるのやろ。打ち方が上手いのやろか。スロは懐に飛び込んで顔面に打ち込むしかないのやから、師匠のホーストばりの打ち分けだけではあかんわな。飛び込みパンチ重点的に練習して特化するしかないと思う。そうゆう意味で相性悪いのとちゃうかな。シュルト相手に判定狙いのポイント稼ぎしてもしゃあないやんか。最後の膝蹴りえぐかったなあ。
・演技性の視点
ホースト最後の相手がシュルトで、KO負けして引退してるから弟子の敵討ち、見たいで因縁はあったのやけど、スロもシュルトもおとなしすぎるわ。演技性としては最悪の試合やった。IGF的には真っ先に切られるで。もっと自己主張せんとあかんやろ。皆スロの性格わかるか?おのれをもっとだしていかんとあかんわ。現代人は競技そのものやのうてその人となりにも惹かれるのやから。シュルトも強さに胡坐かいてたらあかんで。
【レミー・ボンヤスキーvsステファン“ブリッツ”レコ】
・競技性の視点
後出しでなんやけど、レミーのとび膝で決まるとおもてたよ。それにしてもレミーは素晴らしい、キレはあるわ散らすわバネあるわ飛び膝のタイミングもどんぴしゃりや。低迷してたときと全くの別人やで。決勝では台風の目になるおもうで。
・演技性の観点
金玉の因縁はあったけど、そんな因縁レベル低すぎるわ(笑点)。1個失った、返せぐらいゆうたらええのに。あとラスト最悪やな。あれは絶対続けさせるべきやろ。目の視点なんてどうでもええねん、あの後KOシーン生まれるかもしれんし、クリンチして復活したかもしれんで。中途半端が一番あかんねん。ああいう形でスポーツマンシップに則るとろくな事が無いよ。競技ちゃうねん、エンタやねん。
【グラウベ・フェイトーザvsハリッド“ディ・ファウスト”】
・競技性の視点
グラウベフットワークないなあ。棒立ちではあかんやろ。空手家の悪い癖や。キックの精度は飛びぬけてるけどサンドバックやで。ハリッドもこいつなんで顔ばっかりパンチするのやろうか。それしかせえへんから相手に読まれるねん。精神性は認めるけど、嘘でもローやボディ打たんと。
・演技性の観点
戦いを自己目的化してる男と戦いを趣味としてる男の戦い、ええ煽りやんか。せやけど会社が煽ってても本人が表現していかな意味ないで。グラウベも秋山みたいに「空手最強!」ぐらいゆうたらどないやねん。「天国のオオヤマ先生、柔道より空手が強いということを見せます、おいアキヤマ、逃げるなよ!」これで主役はグラウベや(笑点)。
【ジェロム・レ・バンナvsパク・ヨンス】
・競技性の視点
パクはテコンドーの第一人者だけあって、中々ええ蹴りしてたで。まあ、急なことやからしゃあないわ。
・演技性の視点
パクは自ら志願することころがええなあ。点を線にするか、点で終わらせるのか。今は人数あわせでも闘魂で己に打ち克ってカムバックや!
【藤本 祐介vs澤屋敷 純一】
・競技性の視点
澤屋敷はカウンター狙いにもほどがあるやろ。前に出てくれたバンナや藤本に感謝せなあかんで。
・演技性の視点
藤本は素晴らしかったと思うで。膝が効いてたのやろうなあ、皆に笑われながらも何度も立ち上がってたやんか。あれこそプロの姿やないか。中迫にあれができるやろか?おっちゃんだけは今回の藤本を認めるよ。人は悔しい思いをして落ち込むもんと奮起するもんがおる。藤本はどっちやろ。
【ピーター・アーツvsレイ・セフォー】
客に見せるもんちゃうやろ。
【チェ・ホンマンvsマイティ・モー 】
・競技性の視点
谷川采配は興行的に考えたらええとおもうで。韓国は社会がそれほど成熟してないから贔屓でも勝ったら喜ぶねん。日本でも武蔵vsぺタスでぺタスにより声援が送られてたときあったやんか。あれは日本が成熟してる証拠なんや。とにかくホンマンはいまさらながらでかいし、タフや。体重もあるし、スタミナも巨人系の割にはあるから、あとは膝蹴りと前蹴りを練習することやな。
・演技性の視点
モーは天然やけどおもろいやっちゃで。賢い奴がおちょくったると盛り上がるのやけどなあ。
<最後に相撲について>
ビール瓶?金属バット?あんなん日常茶飯事やったのとちゃうか?相撲は人権侵害の上に成り立ってるもんなんや。おっちゃんはそんな相撲の伝統性を否定する気は無いよ。尊厳の獲得形式は自由やし、皆が望んでやってるのやったらええとおもう。相撲の構造が如何に古くて現代エンターテイメントとして遅れててもそれは協会側の裁量やから別に自由にやったらええがな。せやけどなあ、人殺しといてなにほざきさらしとんねん。本人嫌がってるやないか!お父さんエゴで息子を死に追いやったて、一生後悔していかなあかんのやで。お父さんは協会への信用を前提に本人のためを思って留まらせたんや、一個も悪くないがな。その信用を裏切ったのはどこのどいつや?「金属バットはいかがなものか」て理事長の北の湖もなにをゆうとんねん。長ネギやったら許すんかいな。火葬で虐待の証拠隠蔽したるゆうのはおっちゃんは特定個人の判断ゆうよりは相撲社会の隠蔽体質にあるとおもう。共同体社会は本音と建前があってな、本質的には共同体の温存を第一義にしてるから個人はないがしろにされるねん。人権侵害も自尊心の獲得形式が多様化してる以上、望んでやるのやったええとおもう。せやけどひっ捕まえて逃さへんゆうのは違う。もうそんな時代やないやろ、皆がやってる時代やったらええけども、今は人権は保護される時代で一つの共同体に押しとどめることは許されることや無いねん。子供で右も左も分からん内に殺されてほんまに気の毒やわ。みんなに言いたい、相撲見るな、とは言わん。
相撲見るな!
posted by つるじょあ |17:40 |
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