2007年08月28日
おっちゃんです。今回も乱雑な文やけどしばらくおつきあいください。
猪木が怒ってるよ。当然ですわ、おっちゃん何度も自己演出の必要性について語ったやんか。競技性と演技性が現代プロレスの要石や。その内の演技性とは自己演出のことや。これは現実の己の人生でありながら、高度に、すなわち近代的自我やない快・不快を感じる選択主体の自己によって己が輝ける物語を描いて行動に移すことや。現代プロレスでは会社はシナリオを作らへんから、己でやらなあかん。誰もプッシュも擁護もしてくれへんねん。それを今のレスラーは何をやってるのやろうか。格闘家やったらええよ、あいつらはリーマンやから競技性のみに集中して興行日に会場行って戦ったらええのやから。せやけどそれを超越する現代プロレスはお客さんも相手にせなあかんやろ。IGFレスラーやったらただ口先だけでしゃべくってリングにあがるだけやったらもうやめてくれ。そんなんみたないわ。
日常から自己を立ち上げるねん。因縁を最大限に増幅して試合で昇華させなあかんのになにやってるねん。小原よ、あんたは借りのある相手おるやんか。アメリカの道場いって噛み付いてこいや。小川との物語り紡ぐのやったら、小川邸燃すのも一つの手やぞ。ほんまの事件やからほんまに新聞の一面飾るしワイドショーで取り上げられるよ。それで刑務所入って刑期終えて記者会見で開口一番「俺は務所の中であいつを殺すことだけを考えてきた、おい小川俺とやれ!」メディアもほんまの現実やから連日取り上げるし試合の視聴率すごいことになるよ。おっちゃんは犯罪を誘発するわけやないし、これは極端な例やけどもこれも自己演出、物語り紡ぐ言うことなんや。小川もいつまでもリハビリ中ではIGFでは通用せえへんで。なにがやりたいんかはっきりせえや。ジョシュもスケジュール空きや会社のセッテイング待ちではあかんやろ。ほんまにアングルとやりたいのやろうか?ケンシロウもシンやラオウやカイオウの居城見つけ出したやんか。コールマンもIGFに不満あるのやったらいっそのこと猪木襲撃せえや。ボーッとしてたらIGF潰れてしまうで。またプロレス暗黒時代に逆戻りかいな。また猪木の再起、もしくは猪木のような英雄待たなあかんのかいな。
待ってて天下とれるんかい、自己演出せえ、動きだすんや、物語を紡ぐんや、嘘やないほんまの場外乱闘や、格闘技とプロレス、リング内外の区別なんてなくしてしまえ!天下とったるんや、人々に夢を与えるんや、食うか食われるかや、三国志や戦国時代や、曹操や豊臣秀吉や、元気があれば何でもでける、行動に継ぐ行動がやがて道となって己を作る。行動した後考えるねん。この道はどこへ行くのかと問うてはならない、ひたすら歩め!
ほな。
posted by つるじょあ |09:55 |
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2007年08月28日
おっちゃんです。前編の現代プロレスへの発展過程、の続編ですわ。
中編 現代プロレスの誕生
近代が終わると複数の共同体を幻想の相互投射によって一つの共同体と見立ててた構造が衰退し、もともとの中世・近世でみられたような商業的にのみ繋がった複数の共同体の集まりに戻ることになります。現代における公共性はビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトにおける公共性です。この公共性は先述したように他共同体との共生やから、ソキエタス・キウィリスにおけるひとつの共同体を意味づける客観的演技性による予定調和は通用しません。なんでか言うたら複数の共同体同士は他人やから、一つの意味づけでは通用せえへんからです。場所が違えば受け止め方が異なる。客観的演技性ではローカルでしかないし、予定調和も意味不明になります。
ではここでの社会の成員による要求は何になるのやろうか。それは直接性と関係性や。まず直接性やけど、これは生きている実感の獲得、すなわち自己の存在の確認のことです。例えば物に触れてても最初は触れてる実感があるのやけど徐々に慣れでその感覚が失われてしまう。生きてることにおける慣れに対抗すべくかつて人類は生贄や公開処刑を通じて他者の死を経験することにより自己より外の言及不可能な世界への感受性を獲得してきた。つまり自己の生を確認し退屈な日常とバランスを保ってたわけです。近代においては共同体外の外敵を通じて、自己を確認してたんや。せやけど現代に入ると生きてる実感を獲得する方法が根本的に異なることになる。前近代においては日常において今日が存在し明日も存在する言う現実構成の自明さが共有されてた。つまり変化の無い日常が日々繰り返されるわけや。そこで生きてる実感を獲得せんとえらいことになるから、祭りを行って、あるときは薬物を用い、あるときは生贄を行い、あるときは公開処刑を行って、定期的に享楽が訪れるようにしてた。せやけど現代社会ではどうやろうか。今日的な複雑な社会で公開処刑や薬物使用おこなってみい、取引や交渉ごとや納品のタイミングもおかしなってしまうやろ?公開処刑で皆集まってたら社会が成り立ちませんがな。そこで死刑は壁の向こうでひっそりと行われるようになったわけや。言語に依拠した複雑な社会では個々人の責任で生きてる実感を獲得せなあかん。このように前近代では享楽が定期的に訪れかつ一般的受動性であったのやけど、現代では不定期かつ個別的能動性になった。最近一部の人々に見られるような農業や漁業への回帰現象は、直接物に触れて体動かすことにより生きる実感を獲得するため、すなわち直接性の希求やったわけや。薬物やセックスや暴力でも獲得でけるのやけど、それらは慣れに対抗すべくますます激しなるから反社会的になりがちでやりにくい。現代社会ではその前の時代にはなかった能動的に享楽を獲得する困難さがあるわけや。そういった直接性への希求言う流れで総合ブームは起こった。
総合ブーム前、総合黎明期ではなんでもあり、を謳い文句に「殴れ、殺せ」の怒号が飛び交う中、ジェラルド・ゴルドーのようなど突き合いが注目された。これは前近代の公開処刑時の観客の狂喜乱舞とおんなじ論理構造や。人が処刑されると皆が大喜びして退屈な日常を吹き飛ばすねん。こうして直接性の広範な要望に応えたk-1、PRIDEらが台頭し総合ブームが起こったわけや。せやけど直接性は様々なものからも獲得でける。多様な価値観の跋扈する社会では人々をひきつけるには直接性に社会的文脈が必要となります。煽りVが注目されるようになったのもこのためで、人々はその人のリアリティーある人生の物語における関係性を重視する。つまり直接性を代替的に与える現代エンタメはなんぼでもある訳で、そこで能動的にアクセスしてもらうには選手が人々をひきつけるような物語を紡いでいかなあかんわけですわ。
現代に入り社会が成熟化してくると、人々は今ここを楽しむような関係性に長けるようになる。かつての近代社会のような夢を熱く語るものは「痛い」存在として映り、現代社会の恩恵をみすみす逃すことになる訳や。近代社会では縦の関係が重要やった。無限に進化すると信じて社会においてみな一丸で労働する、皆がおんなじ目標を掲げて頑張ってた。せやけど夢が喪失すると今度は横の関係が重要になったわけや。退屈な成熟社会で横の関係、コミュニケーションがその暇を潰す。王子様気取りのいわゆる縦のアイドル光GENJIが衰退すると、コミュニケーション能力に長けた関係性を重視する横のアイドルSMAPが登場して人気を博すようになる。アイドルも近代から現代へと変遷したわけや。一段高いところにおる憧れの存在から、同じ階におる今ここで楽しませてくれるもんが成熟社会では要求される。
このように近代を終えた日本では過渡期に直接性の希求があり、その後に関係性の希求が生まれてそれらの統合が成熟した現代社会の欲求となるのは歴史的必然なわけや。ここでアナルコ・サンディカリズムの影響を受けたデュルケームは、近代国民国家によって簒奪された旧来の自然共同体的な中間集団を補完するような新たな選択共同体的な中間集団の樹立を構想する。前近代における所属する共同体は単一やったけど、現代では多元的所属になる。つまり今皆さんは例えば格闘技マニアとしてここの共同体に所属しておっちゃんと議論を交わしたり荒らしたりしてる(笑点)。せやけど同時に他のジャンルの共同体の成員として所属可能やし、様々な共同体に同時に所属しつつも都合悪うなったら切り捨てていく。携帯も年賀状同様所属確認の役割を果たしてて、連絡入れるだけでその共同体の所属の成員として温存されるわけですわ。このような所属形式は前近代とは異なるけども、これこそが成熟社会における実存形式やとデュルケームは言うてます。
以上を踏まえると今やってるプロレスは論理的に悲惨としかいいようがない。直接性も関係性も無く近代的な客観的演技性に基づく予定調和の反復。そら閉塞もしまっせ。癒されるのはローカルな者だけで世代の移行と共に縮小していくから市場規模の拡大は論理的にありえず、そんなところに人材は集まらへんから売り手も買い手も縮小する一方で滅亡一直線ですわ。最悪でっせ。総合もまた先述したように過渡期では直接性のみでよかったけども、これからは関係性の社会的文脈が求められるから強いだけではプロレス同様にローカルでしかなくなる。これもまた現状に甘んじてたら縮小していくし、将来はプロレスの二の舞ですわ。ボーッとしてたら他のエンタメが競技性と演技性のある表現をして格闘技は切り捨てられまっせ。
現代プロレスの誕生の必然性がこのようなものである、言うことがお分かりいただけたでしょうか?IGFは猪木の気まぐれの産物やのうて歴史的必然やった。次回はその現代プロレスとはどのようなものなのか、その論理構造に迫りたいと思います。長文ご拝読感謝します。
ほな。
posted by つるじょあ |09:43 |
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2007年08月27日
おっちゃんです。駄文拙文ご判読のほどよろしゅうお頼もうします。
現代に入り社会が成熟化してくると、人々は今ここを楽しむような関係性に長けるようになる。かつての近代社会のような夢を熱く語るものは「痛い」存在として映り、現代社会の恩恵をみすみす逃すことになる訳や。王子様気取りの光GENJIが衰退すると、コミュニケーション能力に長けた関係性を重視するSMAPが登場して人気を博すようになる。一段高いところにおる憧れの存在から、同じ階におる今ここで楽しませてくれるもんが成熟社会では要求される。
そんな社会においては格闘技も同様で、観念男代表の小橋では女に持てることはないよ。憧れの近づきがたい幻想的な英雄やのうて、等身大の自己をさらけ出したリアリティーのあるそれでいて関係性を築けるマサトやKIDが人を惹きつけるねん。このように格闘家は人を惹きつける態度や言動、それでいて現実の人生を露呈せなあかん。憧れでも超人でも幻想でもあかんねん、人生をそのまま露出して、それでいて高度に操作していかなあかん。この創造性こそ現代格闘技、現代プロレスが芸術であると言う由縁なんや。煽りVへの観客の関心はリアリティーへの希求であり、IGFが出すコメントは物語を紡ぎ因縁を深める言う意味で正しい手法と言えるやろう。
芸術とは何かしらを使って感性を表すことや。優れた芸術家は豊かな感性を持ってる。その感性とはどこで培われるものなのやろうか?それは現実の、日常での生活や。小川は村上に「嫌なことは嫌といえ」と日常から自己を立ち上げることを説いた。そうなんや、関係性に長けた成熟社会において嘘は通用せえへんねん、なんぼ感性の貧しい選手を売り出そうと勝たせてみても一昔前ならともかく今なら一発でばれるよ。日常的になんにでも積極的に関わって自己超克していかなあかん。
IGFはそんな人生の交錯の坩堝や。人生がそのまま出る場所なんや。会社の擁護もなくマニアの甘さも微塵も存在せえへんよ。あるのは実力あるものが生き残る、それは競技性もそうやけど人をひきつける自己演出、すなわち演技性の優れた人間だけや。近代プロレスから総合格闘技、そして現代プロレスへ。
ほな。
posted by つるじょあ |18:39 |
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2007年08月23日
おっちゃんやで~。現代プロレス概論大不評やったなあ。せやけど次回中編は盛り上がるから楽しみに待っててな。学べるのはツル・ジョ塾だけでっせ!(笑点)
IGFにゲノムチルドレンが次々と集結してる。今回はコールマン、ランデルマン、浜中や。またコールマンのコメントがええがな、IGFはクレイジーではじまって、試合相手を当日に知ったとか、それでもブック飲んで頑張ったのに駄目だしされたとか、どこまでがほんまのことかはわかれへんけど、せやけどこのコメントはIGFの素晴らしさを良く表してると思う。まず予定調和を破るIGFの型破りさ。プロレスはリング外でもリング内でも予定調和やけど、総合かてリング外では予定調和のままや。オファーがきてそれで決められた選手同士がリングに上がる。これはなんやろ?人生の交錯においては戦う理由もないのにリングに上がるのは許されることやないよ。それはリアリティーに欠けてる。勿論今回の小川・コールマン戦に必然性はないけども、それはスライドしてる最中やからや。少なくとも予定調和だけは打ち破った。また選手にとっても先行き不透明でどないなるかわかれへんから、不安にもなるやろう。せやけどこの不安がええねん、この不確定性をおもろい、と感じられるもんが天下を取る。これからの格闘技は現代社会同様に流動性が高まるよ、プロレスみたいにベテランがいつまでも上で胡坐を書ける時代やないねん。また「闘いに激しさが足りなかった」の駄目だしは、IGFらしいな。フライが、プレデターが、WAKASHOYOが、モンターニャがやってくるねん、いかにコールマンとて闘魂なかったら藤原に竹刀でなぐられてまうよ。これがIGFなんや。またランデルマンもようわかってるわ。「ボス(猪木)の言うようにオレもプロレスは観客を意識した高度なMMAだと思っている」、これこそ皆さんもおわかりのことやとおもうけど、演技性と競技性の統合、すなわち現代プロレスやないのんかい。おっちゃんはなんやかんや言うてみなさんがこのブログに来てくれるのは、どこかでランデルマン同様のことを思ってて、おっちゃんの主張にそれを感じてるからやと思ってるのやけど違うやろか?とにかく選手が正しく猪木の主張するプロレスを意識することは素晴らしい。浜中も「全力で潰しにいく」「闘魂の査定試合だと思って精一杯がんばります」ええ言葉やないか。小原にもにた危機感と、それでいて試されてるのが闘魂であるという意識、素晴らしい。たしかに格闘マニアからしたら今回三戦選手は二流の選手に見えるのかもしれん。せやけどゲノム旗揚げ前からおっちゃん言うてたことやけど、猪木がおる場所はIGFしかないねん。そしてその猪木が闘魂を注入していき選手が育っていく。闘魂とは己に打ち克つこと、物事は因果的にみなあかんのや。ボクシングの内藤や坂田みたいな自己主張でけへんやつはいらんよ、あいつらはサラリーマンや。これからは亀田みたいな野心持った、まってるだけやのうて自ら打ち出していくもんが勝つねん。
ほな。
posted by つるじょあ |12:36 |
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2007年08月23日
おっちゃんやで~。これからおっちゃんは現代プロレスの、格闘技がそれに至る歴史的必然性のメカニズムと、その理念と猪木の格闘技の理念との一致について述べたいと思います。全体を俯瞰した概論言うことで理論的かつ抽象的になることを了解されてください。
前編 現代プロレスへの発展過程
時代区分には古代・中世・近世・近代・現代があり、この区分の根底には生産様式の変遷があります。各々の時代における人間は各々の生産様式で規定され、人間はその時代時代に即した文化を形成し格闘技も時代に合わせて変化していく。こうして古代ギリシャのパンクラチオンに端を発する格闘技はランカシャーレスリング、フリースタイルレスリング、プロフェッショナルレスリングとなって、現代では新たなる形を取る訳です。ではその新たなる格闘技とは一体どのようなものなのやろうか?
それを理解するために歴史をさかのぼり、ここでは時代によって異なる公共性(社会一般における利害)に注目したいと思います。その範囲は古代ギリシャのアテネにおいては共同体(ある目標を達するための面識のある者たちの集合)とおんなじでした。なんでおんなじやったか言うとただ単に人口も少なく規模が小さいからで、社会と共同体が同規模やったからです。アテネでは公共性のある決断をする際にアゴラ言う広場に、後期にはプニュクスの丘に何万言う共同体の成員がみな集まってアテネ全体の利益について話し合いました。それゆえにここでは今日見られるような政治家と市民の分化、すなわち統治する者される者の二重構造はありません。分かりやすう言うたら全市民が国会に参加してたわけです。このような社会はソキエタス・キウィリス(政治市民社会)て言われてます。
しかし公共性の観念も社会思想史上18世紀~19世紀に掛けて大転換することになります。共同体同士が商業経済を行うとき、このやり取りを担うのは共同体と共同体の間に存在する商人たちやった。そして商業コミュニケーション圏が漸増的に拡大し産業資本家がある一定の階層をなすようになると複数の共同体が散在しその間を商業経済が担い、そして複数の共同体の集まりを市民社会て呼ぶようになった。つまり所属の異なる他人同士の集合体が商業経済でやわらかく繋がるわけです。このような社会がビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト(経済市民社会)て言われてます。
ここでの公共性は単に一つの共同体における利害を意味してたソキエタス・キウィリスの公共性とは異なり、複数の共同体における共生の条件が公共性となる。つまり単なる共同体であったソキエタス・キウィリスにおける公共性は共同体と等置やったにも関わらず、ビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトにおける公共性は共同体を乗り越えてある経済主体が一定のルールの下で共生する範囲内こそが公共性となった訳です。
せやけど時代が進み物質的欲求言う合意が広範に形成されるようになると、あたかもビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトの公共性がソキエタス・キウィリスの公共性であるかのように振舞われることになります。つまりこう言うことですわ、マスローによると人間の欲求には階層性があり、近代においてそれは物質的欲求の充足となった、そこでそれを充足するためには複数の共同体が一つにならなあかん。せやけど古代ギリシャと違い規模が大きすぎて面識圏内では振舞えへんから、そこで様々な手段で同朋意識を持つような宣伝を流布し、複数の共同体の集まりを一つの共同体と信じ込ませるように仕向けることになる。国家と国民、とされるものは実は無名戦士の墓や新聞などの印刷物、特定言語の標準化などによってさも同胞であるかのように思わせるような幻想の相互投射によって成立してた想像の産物やった。ここに想像の共同体としての近代国民国家が成立する。そうやって会うたこともないのに同じ国民として仲間である言う同朋意識が刷り込まれる。
日本では明治5年の学校教育令から同35年の高等女学校令にかけて近代学校教育における国民教育の流れの中、個人が所属するもっともも大きなものは国家であると人為的に刷り込まれていった。それを証拠に明治以前には国民意識は存在してなかったんや。今近代化しつつある中国が反日言う国民的目標で団結して近代化図ろうとしてるし、ナチスドイツはユダヤを外敵に措定してその結びつきを強化した。このように近代国民国家とは物質的欲求の充足言う国民的目標達成の為の装置なんや。
さて、このような近代におけるエンターテイメントはそういった想像としての共同体を維持すべく行われ、格闘技も例外やなかった。近代における格闘技は客観的演技性(ステレオタイプのいわゆるベタな役割を演じること)による予定調和の演出やった。面識の無い他人同士を同胞とする為に対外人路線が望まれるようになり、力道山や馬場、猪木などの英雄が紆余曲折を経て最終的には外敵を退ける予定調和によって人々にカタルシスを与えたわけや。外敵の襲来によって結びつきが強うなって、打ち倒すことにより人々は歓喜する。それはドラマでも漫画でも同様で、理想追求による秩序回復物語が反復されてた。ここでは競技性(真剣勝負)も主観的演技性(己ではない誰かになるのやのうて己がその役を演じること)も必要なかったんや。せやけど時代は変わる。
マスローの欲求階層論によると物質的欲求の充足が達成されると次は心的欲求の充足が望まれるようになる。物の時代の近代から心の時代の現代に変わるわけや。テレビや車や持ち家などの物を追っていた時代はおわり個々人の心の満足が問題となる。そのため現代ではエリートでも金持ちでも幸せであるとは言えんようになった。ものの豊かさ=幸せの図式は終焉したわけですわ。物質的欲求の充足言う国民的合意が喪失することにより国家規模の想像の共同性は失われ、それによって横の結びつきはのうなってしまうから道徳は衰退し隣は何をする人ぞ、そして異常者が跋扈するようになります。また心の欲求は合意不可能やから価値観は多様化することになる。ではこのような新しい時代、即ち現代における格闘技はどのようなものが望ましいのやろうか?
ここいらへんは難解でおっちゃんが責められそうやけど、どうかこらえてつかあさい。おっちゃんは悪うないねん、そもそも難しいことなのやから。これでもおっちゃん頑張ったんやで。こういった背景を踏まえて次回中編の現代プロレスの誕生となっていきます。
ほな。
posted by つるじょあ |08:44 |
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2007年08月22日
おっちゃんやで~。天才を定義すると、それは基礎的土台を変革することによりその全体に富を与えること、つまりは新たなる地平を開拓する創始者のことや。そういう意味で閉塞して停滞してる近代プロレスに現代的地平をもたらしてる猪木は天才や。これは最新の社会科学が裏付けてるねん。せやけど成功するためには試行錯誤がいる。これは論理的に不可避やねん。なんでか言うたら成功する感性を身に付けるには失敗を繰り返してああでもない、こうでもない言うて経験を通じてやれるような感性を身に付けるしかないのやから。つまり失敗にも無意味な失敗と成功のための失敗の二つがある言うことですわ。猪木は昨今近代から現代への過渡期において、度重なる失敗を繰り返してきた。その結果人々は猪木は老害と喝破し、嘲笑した。ゲノムも失敗するやろうと踏んで訳知り顔の似非評論家が右へ倣えで中傷文を垂れ流して一人前の評論家を気取ってたわけや。せやけどこれは表面的な失敗でしか物事を捉えることがでけてないだけでな、優れた評論家は猪木の理念を理解した上でその失敗の裏の深い部分に流れてる意味を読み取ることが肝要や。愚か者は浅はかな解釈をし本質を語ってる気でおるけども、それは本質を見抜く感性も知性も欠落してる人間の妄言でしかない。さて、猪木がそういった全体のことを想定し行動してるのは、つまり全体を相対化した上で世界の中での位置を探ってるのは明らかや。例えば大晦日の猪木祭り、あれは最終的に失敗したから猪木の感性が鈍った、みたいなこと言うてる奴おるよ。せやけどあれはもともと格闘技自体の知名度を高めるために新日のみの利益に拘らず行ったものなんや。最初は新日もPRIDEもk-1もないがな、所属に拘らず誰でもリングにあがれた。高田、ベルナルド、永田、ミルコ、中邑、ランペイジ、吉田、まさに格闘おもちゃ箱やった。猪木の世間を意識した紅白に噛み付く言うコンセプトも効いて、格闘技全体の知名度は上昇することになった。せやけどPRIDE、k-1ともに格闘技全体やのうて各々の目先の利益に目がくらんでしもうた。そうや、彼らには格闘技全体言う視座が欠けてたわけや。猪木も格闘技イベントが3つに分化したとき、「これは金儲けじゃなくて格闘技の祭りだったのになあ」みたいなこと言うて慨嘆してた。このように猪木祭りとは格闘技全体の上昇、世間への格闘技のアピールのためのものであって、その理念を無視した視聴率や銭儲けだけで測ったらあかん言うことですわ。引退後に猪木が新日に仕掛けた数々の失敗も競技性導入言う理由があった。古いプロレスを惰性で続けてる新日を殺害せんとしてたわけや。天才とはこの様なものでな、目先だけの興行だけ考えててもあかんねん、それでは長期的に見たら沈んでしまうやろ。猪木は数々の失敗を経てIGFを立ち上げた。近代プロレスの超克を内部から行ってたのやけど近代病は思いのほか重く既得権益にすがる抵抗勢力の前に頓挫、そこで既存団体があかんかったら全く新しい団体を作る、これは当然の流れやろう。そして今まで得た経験を今こそ生かすときなんや。天才の視座とはこの様なものなんやで。
ほな。
posted by つるじょあ |16:55 |
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2007年08月22日
おっちゃんやで~。現代プロレス概論やけどまだ長引きそうやわ。もうちょっと待ってくださいね。
イノキゲノム参戦ファイターが続々と決まってるようやな。どうや、面子みてみい、皆競技性もってるやろ。おっちゃん現代プロレスはガチやから徐々にスライドしていくて言うたやろ?強く見しても現代では通用せえへんからな、当然立ち技や総合経験あるもんが参加するよ。ドン・フライ、プレデター、WAKASHOYO、モンターニャ、確かに競技性のみでみるとUFCやk-1に劣ってるといえるやろう。せやけど皆素晴らしい資質もってるよ。フライの気持ちの強さは皆分かってるやろ?プレデターもホンマンに果敢に打ち合ったあの敢闘精神、WAKASHOYOかて負けてないがな、アーツ相手にガンガン打ち合うたやんか。モンターニャは中々賢い奴やし将来性あるよ。とにかく共通してるのは精神力や。競技性も必要やけど己に打ち勝つ気持ちが大切なんや。力道山、猪木がそうやったやろ?技掛けれらてる最中三沢がタイツ直してるの見て生前テーズは「もし力道山が見ていたら試合中にリングに上がり三沢を殴っただろう」みたいなこと言うて怒ってたやんか。そういう意味でゲノムの伝統性として闘魂のない奴は藤原に竹刀で試合中に殴られたらええねん。スライドしてる最中やから現段階では競技性が低うても既存の総合に欠けてるのが自己演出なのやから差別化が図れるやろ。とりあえずゲノムのカラーとして自己演出の必要性だしていったらええねん。力道山の、猪木のゲノムが現代に甦るんや!
何や知らんけどおっちゃんに対しておかしなレスついてるなあ。昔2ちゃんに書き込んでたて言うけどな、つるじょあは元々ぼるじょあの亜種やからようけおるねん。おっちゃんが過去書き込んでるのは極々一部でっせ。せやけど言い訳するよりもおっちゃんのプロレスに対する情熱がほんまかどうかが重要なわけやから、過去についてはもう言い訳しません。これからのおっちゃんを見てくれ!
ほな。
posted by つるじょあ |10:34 |
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2007年08月08日
おっちゃんやで~。ゲノムも第2回、旗揚げ戦と違ごてその実力が試されるときや。現代プロレスへの運動としてゲノム色出さんと野球やサッカーに対抗するどころか業界の盟主として君臨することなんてでけへんよ。そこでおっちゃんはゲノムに必要なものをいくつか上げたいと思う。
1.選手の殺害
猪木はかつて煮え切らん橋本に「橋本、死ね!」て言うた。そうなんや、自己超克する現代プロレスラーは能動的に行動することによって自己を絶えず更新し、自己を殺害せなあかん。自己否定の運動を反復し新しい自己を創り出すのや。そういう意味で今度は小川に死んでもらわんといかん。レスナーに、ジョシュに死んでもらわんといかん。安田も小原も全員殺害、皆殺しや。新日での猪木による格闘技化は現代プロレスに必要な競技性の導入であり、「新日、死ね!」言う猪木のメッセージやったんやで。
2.出場選手の未発表
猪木は前回ギリギリまで対戦カード発表せえへんかった。それはな、戦いとは先に発表するものやのうて遺恨の末に勃発するものやからや。対戦カード発表後噛み付き合うのは予定調和、いかにリング内で予定調和やない言うたかてリング外で予定調和やったら初戦は3流の出し物ですわ。まず遺恨があってたまたまそれを昇華する場がIGFやった、言うのが理想ですわ。AとBに遺恨が勃発して舌戦繰り返して乱闘寸前、そこで猪木がやりあうならうちのリングを提供してもいい、これこそがリアリティーある戦いでな、人々はリング外での予定調和やないから惹き付けれらるわけや。某箱舟プロレスはリング内外で予定調和、あれではマニアしか観ません。まず遺恨、そのあと偶然に出場、これを選手が意識的に行うことが必要なんや。
3.場と時間とルールの融通性
偶然性のリアリティは何も出場選手のみに言えることやないよ。戦いはいつでもどこでも起こりうるわけなのやから場や時間を明確にしたらあきません。またルールも設定するのは不自然ですわ。せやけど今はまだアナログの興行形式やから妥協せなしゃあないから、日本ガイシホールで9月、また社会の枠内でやらなあかんから目潰しあり、金的ありではあかんわな。せやけどこのことは胸に留めておかなあかん。少なくともルールはその選手に即すように試合の都度変更して融通性のあるもんにすることが流動性の高い社会に即してると言えるやろう。
猪木からしたらなんで能動的に行動せえへんのやろう、野心ないのやろか、て思てるやろうな。どんどん主張したらええのに待ってるだけではあかんよ。小川は分かってるから何かアクション起こすやろうけど、猪木に行動や発言を求められる時点でそれに答えるのは予定調和やから格が落ちるわ。ほんまに天下取りたいのやったら主張せなあかん。大仁田参戦せえへんかなあ、猪木に噛み付いて猪木を殺害して欲しい。猪木もビックリのまさに現代プロレスや。
ほな。
posted by つるじょあ |13:32 |
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2007年08月07日
おっちゃんやで~。k-1香港大会あったやんか。そのなかでベストファイトはハリvsグラハムやったと思う。そしてこれこそが現代プロレスに近いもんでな、これからk-1が上昇するにはこれぐらいのクラスの戦いを恒常的に提供せんとあかんようになってくるやろう。
おっちゃんは10年前ぐらいから現代プロレスの予感を感じてた。せやけどそのころは今みたいに完全に論旨が一貫してたわけやなかったんや。理論化していくことになるきっかけはアントニオ猪木その人やった。おっちゃんが予期してたもんを彼が鋭く言い当ててたんや。猪木に関しては昔は応援してたけどプロレス熱も冷めてもうたし終わった人間やと思ってた。せやけど何気なく語るその言葉に明らかに現代プロレスに関する言葉が見え隠れしてた。そこでおっちゃんは社会科学の教養があったからさらにそれを推し進めて今の境地に至ったわけや。
近代から現代に掛けた近代過渡期、直接性への希求が始まり総合ブームが起こった。総合ブームの起こった理由に関して様々な主張があったけどもほとんどが的外れや。現代言う時代は言語に依存せんと成立せえへんのやけど、言語にのみ依存してると人は生きてる実感が得られんようになって気が狂ってしまう。そこで必要になってくるのが直接性なんや。都市部に住んでたもんの一部の農業・漁業回帰は体を使うことにより生きる実感を得るためや。そのほか薬物やセックス、暴力などで生きてる実感を獲得しようとする。その流れで総合ブームは起きた。萌芽的にはゴルドーが暴走して殴ったり目え潰したりしてそれに人々は熱狂した。当時はまだ近代過渡期の最初やったから一部でしかなかったけど、それが広範になって総合ブームになったわけや。せやけど近代過渡期が終わると次は関係性も必要になってくる。近代的な意味が失われて国民的目標を喪失した現代にとっては今ここを楽しく過ごすための関係性が必要になってくる。光GENJIは近代最後のアイドルで、素顔を見せず格好つけて人の上に立ってたけど、そのバックで踊ってたSMAPはバラエティーに出て庶民の目線まで降りてきた。そうや、現代においてはコミュニケーション能力が必要となって近づきがたい偶像では受けんようになったんや。これからは自己演出でける関係性をもってるもんが人を喜ばせられる。二枚目だけでは現代アイドルでは通用せえへんよ。格闘家もおなじことや、強いだけでは誰も応援せえへん。関係性や、コミュニケーションでけへん内藤よりも亀田家の方が人気あるのは当然の帰結言うことですわ。
k-1香港大会やけど、武蔵や藤本は単なる競技者や。なんぼ煽っても本人がつまらんから盛り上がりませんな。せやけどハリとグラハムは違う。プロ意識からやってるのかどうかは知らんけど少なくとも人生の交錯のリアリティーと自己演出、そして高い技術があった。これこそ競技性と演技性の統合なんや。高いレベルでの現代プロレスやないけども、現代プロレスの形をなしてた。これを毎試合選手が意識的に演出して戦うことが理想なんや。そのためには闘魂がいる。競技的にも演技的にも常に超克していかんとあかん。日常から自己超克の必要性を説いて当時舎弟分やった村上に「嫌なことは嫌といえ」と諭した小川。現代プロレスではリング上では悪もん、リング下では善人の天山ではあかんのや。現代プロレスの理念を理解し闘魂を注入でけるのが猪木しかおらへん以上、IGFに注目するのは自然の流れやと思う。k-1、PRIDE、UFCはどちらか言うたら競技性に拘ってるからマニアに依存しがちやけど、直接性のみの時代から関係性も必要とされる時代においては現代人を振り向かせるのは場やルールや時間に制限されないそれでいて過酷な競争に晒されるIGFこそ最も現代に即した格闘技イベントやないやろうか。小川vs橋本、サップvsタイソン、バダ・ハリvsグラハムレベルの試合が毎試合あったら一般人も巻き込んで格闘技は野球やサッカーを超えるよ。そのときの格闘技こそ現代プロレスと言える。直接性と関係性の希求に答えた競技性と演技性の統合、鍛えられた肉体と高められた技術、客観的演技性やない日常で高められた主観的演技性、それらを備えたもんが現代における英雄となる。
そう、おっちゃんのことや(笑点)。
posted by つるじょあ |19:42 |
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2007年08月04日
おっちゃんやで~。あれだけ活躍してた亀田家もランダエダ戦の八百長疑惑からしばらくは落ち込んでた。せやけどおっちゃんのにらんだとおり盛り返してきてる。当たり前や、亀田一家は才能あるもん、一時的停滞はあっても再び盛り返すのは自明のことや。亀田一家はあれこそプロでな、ホーストや吉田と違ごて現代格闘技の理念を良く理解してるよ。ただ勝ったらええ、相手を倒したらええわけやないねん。話題振りまこうと自己演出してメンチ切るやんか、内藤を酷評し坂田を挑発、そして高視聴率GETや。その他のボクシングみてみい、誰も見てないよ。ボクシング大賞取った長谷川ってダーレー?どこが大賞やねん、大賞は興殻やろ。あれだけ盛り上げてどこ見てるねん。体質古臭~。
これから世界戦やってみい、ごっつう盛り上がるで。興殻、大殻ともに勝ったら兄弟で統一戦か?負けても兄貴が、弟が敵討ちや。若い二人や、負けても次につなげたらええねん、あいつらはまだまだ強うなるよ。負けてもずれてもそれがいつしか大きなカタルシスとなって返ってくるねん。しつこいけど点やないねん、線で考えなあかん。これこそ現代プロレスやないか。猪木のお株奪ってるがな。プロ意識持った奴が天下統一の野望を胸に戦うねん。興殻が、大殻が、坂田が、内藤が、各々の人生を背負いぶつかりあう。レスナーが、ジョシュが、小川が、各々の人生を背負いぶつかりあう。因縁が因縁を呼び人生の交錯が火花を生み出す。これはフェイクやない、リアルや、リング上だけやない、人生を賭けた戦いなんや。現代人の心揺さぶるのは論理的にこれしかないよ。
亀田一家とプロレスの逆襲が始まる!
posted by つるじょあ |02:39 |
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2007年08月03日
おっちゃんやで~。ゲノム旗揚げ戦おっちゃん直接見てたけど、今ひとつやったな。方向性を明確に打ち出してないからどない前提で見たらええか分からんから見にくい。それどころか世間的には不可解なもんにしか見えへんやろう。今回のある程度の成功は旗揚げ戦の物珍しさから来るもんなのは明らかで、次回こそ現実に即した評価がなされることやろう。ただ今回はおもろなくてもそれでええねん。まずやることが大事なのやから。猪木もノウハウがわかった、言うてるやろ?まずやらなんだらなにやったらええかわかるわけないもん。失敗を恐れるのやのうて失敗の試行錯誤から這い上がるねん。アホは浅はかに失敗を笑うやろうけど、失敗せえへんと成長はないよ。そしてここから現代プロレスへ動き出したらええねん。レスナー、ジョシュ、小川、駒は揃ってるのや。小原かてランデルマン意識してるやろ。新たなるゲノムファイターにも期待や。とにかく次回なに見せるかや。
朝青龍が現役と引退の狭間でゆれてるようやな。谷川が食指?あほらしいわ、相撲言う競技の枠から自我がはみ出してるから次々と問題おこしてるのに、次もまた枠にはめ込もう言うんかいな。巡業ではモチベーションあがらへんのも朝青龍の性格や、なんでそれを認めてやらんのやろうか。巡業は契約?義務?ほざきさらせ、朝青龍は戦いをしたいんや、サラリーマンやないよ。HEROS行っても所詮は競技、人生の交錯とは違う。ヌルヌル程度でどやかましいわ、それも人生やろ。そこいくとゲノムはちゃうで、ヌルヌル発覚した時点でその人生とは反対物の人間が秋山に噛み付いて試合で昇華するよ。自我を発揮すればするほど、闘魂を燃やせばもやすほどに評価されるのがゲノムや。風呂場で乱闘しても車のサイドミラー壊してもゲノムやったら処分どころか盛り上がるで。北尾は早かった(笑点)。
朝青龍よ、ゲノムで怒りをぶちかませ!
posted by つるじょあ |09:38 |
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2007年08月02日
おっちゃんやで~。今までは雑誌で書かなあかんかったけど、最近はネットで表現でけるから評論家が跋扈してる。せやけどほとんどが偽モンでっせ。ネット見てて思うけど、皆物事を点でしか見てへん。物事は歴史の連続線上にあるわけやから、可能性がある場合はその時点ではあかんでもそこを言及するのが評論家やないか。成功したら凄い、失敗したらあかん、アホでも言えまっせ。そのままや。それは思考力やのうて反応してるだけや。それは観衆であって評論家ではない。ゲノムでも絶対やるわけない、て言うてた奴どこにいったんや?レスナーはk-1と契約あるから無理、アングルは参戦アングルのみ、て言うてた奴今度は何を書き込んでるのやろうか。こりずにそいつらは今度は船木現役復帰しても意味がない、成功するわけがない、て言うてるのやろうな。亀田が盛り返してくると「やっぱり亀田」やて。もう終わってるて散々言うてたやないか。亀田擁護してたのおっちゃんだけやったやろ。あれだけ才能あるのに消えるわけないやんか。ええか、物事は連関して考えなあかんねん。点で捉えるのは物事を上っ面でしか見てない証拠や。深く読み取らんと反応してネットに氾濫してる浅い評論を受けて右ならえで書き込んでそれが評論といえるんかいな。本人が物事に正しく向き合うて本人の考えで批評して初めて評論といえるのいやないやろうか。
華々しく復活したおっちゃんがほんまもんの評論を見したるで~。
posted by turujoa |21:09 |
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