2007年05月20日

おっちゃんが猪木ゲノム対戦カードを大胆予想! 世界発信や

今回はおっちゃんが望むゲノムのカードを書きます。

レスナーvs中邑
中邑「俺はレスナーのことをライバルだと思っています。総合参戦は俺のほうが先。俺が上であることをわからせる。」
レスナー「一度肌をあわせたときからまたやることになると思っていた。しかし中邑が俺に勝つことは出来ない。」

ジョシュvs藤田
ジョシュ「偉大なるミスター猪木の愛弟子とIWGPを争えるのは光栄です。藤田、ユーの遺言はHIDEBUだ。」
藤田「強い奴とやれるということでワクワクしている。死ぬ気で殴りあいたい。」

ハルク・ホーガンvsハルク・オーガン
ホーガン「俺がまだイチバン(日本語で)であることを日本の皆さんに分からせたい。アングルやレスナーと?いつでもOKだ。」
オーガン「お久しぶりデ~ス。ミーの偽者がいるということで叩き潰してやります。Im no1!(英語で)それではチャオ!」

アングルvs安田
安田「今まで俺はドッグレース以外の賭け事は全部やってきた。今度は俺自身に掛けたい。人生の万馬券を手に入れてやる。」
アングル「ヤスダはバンナを倒した強敵だ。けして軽んじてはいない。全力で戦うよ。次はレスナー、お前の番だ!」

ヒョードルvsLYOTO
LYOTO「最高のリングでヒョードルと対戦できるということでワクワクしている。ヒョードルの弱点はわかっている。」
ヒョードル「いつも対戦相手は私に弱点があるといいます(苦笑)。どこのリングでも俺が最強であることを証明して見せる。」

柴田vs永田
柴田「また逃げると思ってたけど、戦ってくれるということで嬉しい。お客さんの前で世代交代をはっきりさせます。」
永田「世代交代という話が出たけど、まだまだお前は鼻垂れ小僧だよと、それを教えてやろうと思います。」

イズマイウvsグレイシー
ホイス「まず偉大なる猪木さんに感謝したい。グレイシーを侮辱しつづけるあいつを黙らせてやる。」
イズマイウ「グレイシー?そんなのがまだ最強だなんてみんな信じてるのか?俺は何度も勝った、それを今回も見せてやるぜ。」

アントニオ猪木vs大仁田
猪木「またまた馬鹿をやってしまいました。高齢化社会を生きる皆さんに60過ぎてもまだ戦えるということをお見せしたい。」
大仁田「猪木さん、俺は憧れのあんたと戦えて嬉しいんじゃ!夕張市のみんなに勇気を与えたい、ファイヤ~~~~!」

船木vs佐藤
船木「久しぶりのリングということで不安もありますが、それ以上にやりがいを感じています。」
佐藤「なんか呼ばれたからきました。この人なんか優等生っぽくてむかつくんで、リングでいじめてやります。」

諏訪間vsサップ
諏訪間「このリングに上げてくれた猪木さんに感謝したい。自分の可能性が知りたくてこのリングにやってきました。」
サップ「ハッハッハ、ビーストが帰ってきたぜ。相手はグリーンボーイ?グリーンピースを一粒残さず喰ってやる!」

森嶋vsカシン
森嶋「引き篭もっていても自分が駄目になってしまう。NOAHvs新日の意識はないです。怖い森嶋を見せたい。」
石沢「アルロワにお招き有難うございます。カシンの友達の石沢です。彼が出ない場合は僕が変わって出たいと思います。」

猪木「怒ってること、訴えたいことが合ったらゲノムのリングでやればいい。ここは最も自由な場ですから。自分の生き様をみせてやれ、世界各国からいついかなる時も誰の挑戦でも受け入れる。ゲノムは世界発信です、世界NO1をここで決める!」

競技性と演技性の統合、様々な人種、個々人のイデオロギー、その人生が交錯する!戦いは日常から始まっているのや。近代を支えた力道山のゲノム、そして猪木のゲノム。これはその時代時代に光り輝くことを意味する。闘魂遺伝子を受け継げ、ゲノムチルドレン!新しい地平は拓かれた、さあ今戦いのゴング!

次回からは全10回ぐらいに分けて現代プロレス概論を科学的に論じまっせ。

posted by つるじょあ |11:38 | イノキゲノム | コメント(31) | トラックバック(0)
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2007年05月16日

プロレスにおける構造改革、現代プロレスの存立構造

おっちゃんやで~。忙しゅうて書き込めませんでした。

改良とは今ある地平上での変革であり、改革とは地平それ自体の変革を言う。ハードとソフトがあって、ソフトを変える事が改良、ハードを変える事が改革や。改良してええ成果が得られてる内はそれでええのやけど、成果が得られんようになった場合は根本的に土台から変えんと生き残ることはでけん。ファミコンもスーファミになりプレステになる。これは歴史法則なんや。今のプロレスは低迷して久しい、ドラゲーが人気ある言うたかて所詮はローカル、まさしく根本から改革するときやろ。ドラゲーでは少数の心つかめても大衆の心をつかむことはでけへんよ。そこでおっちゃんは現代に即したプロレスの構造レベルでの改革を示そうと思う。

まず全選手をフリーにすることや。これはなんでやろうか?まず会社が個人守ってたら自己超克は起きません。今の時代は能力主義社会、絶えず自己を更新する必要があるのやから、フリーになって自らを鍛えるのは時代の趨勢や。フリーもしくは事務所小さなったら生きるために能動的に動かなあかん。頼るもんがない分自足性になるから生きるために絶えず努力することになる。また緊張感合って人生に張りが出るしその結果力が身につく。こうしてフリー化することによって肉体と精神の向上が図れるわけや。団体経営で福利厚生までやって怪我しても給料出るみたいな環境で選手鍛えられるわけないやんか。会社に守られてる選手見てみい、精神的に鍛えられてないから自己主張でけへんよ。世間一般では多様な価値観に基づく流動性の高い社会において、人材派遣や中途採用が注目されてる。終身雇用制度も年功序列の給与体系も崩壊しつつある昨今、なんでプロレスだけが逆をいけるやろうか。会社に依存する実存形式では競争社会である現代社会には適応できません。

次に団体は団体経営からイベント経営に切り替えて戦いの場を提供することや。それやったら団体が選手を背負う必要は無いし、選手も競争力が身に付く。これらは既にPRIDEやK-1がやってることやな。自己アングルとして新日は全日に負けへんでえ、て言うて団体間の抗争盛り上げるのはええけども、ほんまに団体に尊厳預けたらあかん。昔はアイデンティティーは会社て言うてるやつおったけど、今は尊厳は自己にこそおくべきで、会社に忠誠心持ってても切られるし、社員に忠誠心当てにしてても直ぐ辞めていきまっせ。

現代プロレス、イノキゲノムはそういった個のぶつかり合いなんや。研ぎ澄まされた肉体と精神がぶつかり合う何ものにも依拠しない自己自身同士の格闘芸術。これこそ野球やサッカーを超えられる唯一のあり方なんやで。

posted by つるじょあ |22:08 | イノキゲノム | コメント(26) | トラックバック(0)
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2007年05月12日

近代プロレスという名の病、除かれるべきその病巣

資本主義社会において企業は拡大再生産をおこなわなあかん。拡大再生産を行い企業は大きなっていかんと他のより大きな資本持ってる企業に有利に働き、より少ない資本の企業は終わることになってしまう。そこで企業は常に新規開拓せなあかんのや。せやけどプロレス業界はどうやろうか。市場は縮小し、低迷していってるのに新規開拓を行わず惰性で現状の体制を維持してる。それでどないして市場が拡大するのやろうか。既得権益は減少はしても増えることはないのや。プロレス業界が箱舟心中したいのやったらそれもええやろ。せやけど企業として時代の変化に適応するべきやないか? 一部の既存のプロレスファンを当てにせんと他の大多数の一般人を振り向かせんことには新規開拓はでけへんよ。

既存のプロレスにおいてファンと選手との間には甘えの構造が見られる。例えば蝶野や高山はお客さんに対して「お前ら見に来いよ」て言うてた。それに比べて猪木や小川はお客さんに対してお前呼ばわりせえへんよ。猪木は常に選手に対しては厳しい言葉使っても、お客さんに対しては丁寧に接してきた。小川もPRIDE電撃参戦してハッスル宣伝する際にも丁寧にハッスルポーズ教えてたし、ハッスル見に来てください、て言うてた。この違いはどこから来るのやろうか。つまりは蝶野は客がファン言うこと分かってるから、既に信頼関係が築かれてて少々のこと言うてもその関係は壊れることはないて読んでるのや。つまり子供が親に甘えてるのとおんなじこっちゃ。親心見越しての我侭な訳や。せやけど猪木や小川は常に新規開拓を考えてるから甘えることはしない。初めて会う信頼関係の築かれて無い相手にお前なんて呼んだら直ぐに嫌われてしまうからな。ここで既に誰を相手にしてるのか、意識してる客層の差異が見て取れる。言葉遣いだけやないよ、プロレスの中身見てみい、相変わらずの予定調和のプロレス、これを受けの美学とかフィギュア同様の見せる芸術とか言うてもあかんよ、視聴率取れてないがな。喜んでるのは明らかに一部のファンだけや。それはバレーボールや、劇団四季や、吉本新喜劇や。昔の人気あった頃夢見てもあかんよ、時代は変わってきてるねん。原始時代の石器は原始時代には役に立ったよ。せやけど今石器は何の役にも立ちません、それを如何に磨いても現代では通用せえへん。今のプロレスはもう古すぎるねん。石器は古代博物館へしまい、そして新たなる兵器を開発せなあかん。そうやないと野球やサッカー言う強力な兵器に対抗できませんがな。

統一連盟とはなにか?これはファン言う既得権益から離れた一般人を振り向かせるための新しい試みなのやろうか?いや違う、逆や。これはスケジュール合わせて既得権益をより合理的に獲得し様言う工夫なんや。そして困ってる団体には既得権益の再配分が行われる。せやけど連盟に加盟してない団体はお断り、一般のお客さんどころか既得権益を確保しそれを再配分する言うどこまでも既得権益に拘るのが統一連盟の正体なんや。せやけどここには競争が無い。近代においては人々の価値観は同一性を持ってたし、政治の世界でも政治家は権利の分配を行ってて、贈賄収賄もさかんやった。昔は選挙言うたらそんなん日常茶飯事でっせ。せやけど時代は変わる、国民の同一性は失われ価値観は多様化した今、これから政治家に求められるのは権力配分から新政策の立案に変わる。これからは政治家も能力主義、時代に即した新しい政策を考えて行かんとあかん。この様な社会では全てが競争なんや。プロレス市場も競争の原理が働いて新しいもん出していかなあかんのに、少のうなったちょっぴりの既得権益確保に従事してどないすんねんな。新規のファン開拓せんとゴミ箱あさってその分配に勤しんでる既存レスラーがどないしたら低迷したプロレスを救えるねん。

資本主義社会において拡大再生産をせん事は罪やから、市場が縮小し良き人材は得られへん言う罰を受ける。そこで時代の流れに即せるようにプロレスは改革せんとあかん。近代性を克服して新しい地平を切り拓こうやないか。猪木の既存性の否定は旧態依然としてるプロレスラーへの警鐘なんやで。一般人へアピールもせんと新規開拓もせんと近代プロレスの中で惰眠貪ってるもんを起こそうとしてるのや。

次回は病で死にかけてるプロレスの処方箋を構造レベルで明らかにします。

posted by つるじょあ |11:24 | イノキゲノム | コメント(16) | トラックバック(0)
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2007年05月11日

猪木の現代における発言を検証する 本当のイノキゲノムが見えてくる!

現代プロレス語録

「元気があれば何でもできる」
まず猪木は実存主義哲学的発言を仰山してる。実存するとは自己自身へと近づくこと、すなわち自己超克のことや。今は競争社会、近代的な権利配分やのうて能力のある者のみがええ思いする時代や。門地、学歴は意味を為さない。こんな時代には闘魂、すなわち自己超克による成長が必須や。せやけど打ち克つその根本には情熱が必要や。なんぼ才能あってもやる気なかったら成長は無いよ。実存主義哲学では自己超克への意欲を情熱て言うのやけど、猪木はこれを元気として用いてる。実存の根源は情熱、闘魂の根源は元気、これはおなじことなんや。ブロディが見たバーニングスピリッツもこの情熱のことなんや。

「限界なんて無い、あるのは限界と言っている自分だけだ」
近代化以降人々は過剰に言語に依拠するようになった。複雑な社会がそれを要請するのやけど、言語に依拠する分行動するよりも頭で分析してもうて勝手に限界を設けてしまう。そうすることによって人は行動せんようになってしもうた。そうして人々は出来る範囲内で行動するようになり、自己自身を生きるのやのうて社会に、会社に隷属するようになってしまう。せやけど自己超克する人間は情熱に基づいた行動によって自己自身へと近づく。

「人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく」
実存しない人間に成長は無い、逆に言えば実存する人間はいくつになっても成長する。老いとは己に限界を設けた者に降りかかることであり若くして老いることがありうる。行動をせずにただ惰性に生きて死んだ目をした若者が果たして若いと言えるのやろうか。

「地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ」
いくら安全圏で語ってもそれは自我を温存するだけで何も生みださない、概念をいくら重ねても何も生み出さない。とにかくことを為すには何事も行動に移すさなあかんのや。

「オレは人生のホームレスだ。」
この様に実存する自己は単独者であり、単なる役割として本質規定でけるような所属する存在であってはならない。実存する自己は形だけ所属しても組織に埋没して社会の歯車になってはあかん。それは隷属することであり、自己自身から離れることなんや。

「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむ無かれ、危ぶめば道は無し。 踏み出せば、その一足が道となり、 その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」
危ぶむことは考えることや、なんぼ考えてても道は拓けん。目標を達成するにはまず踏み出すこと、行動した後に考えるべきなんや。そしてその考えることは次の行動を前提にするもんで無くてはならない。

猪木に近づくもんは猪木から離れ、猪木から離れるもんは猪木に近づく、これこそが自立言うことや。小川が猪木から離れることは猪木に近づく、すなわち自立した実存する単独者になることを意味する。猪木の言う気付きを供給され自立することこそ猪木イズムを継承したことになる。これら実存主義的な主張は猪木だけやのうて大概の成功者は口にするよ。せやけど猪木の真骨頂は実存を超えた発言をする所や。自己の実存を相対化する発言は以下の通りや。

「俺は二人いるんじゃないか、と思う時がある」
自己は近代的自我としての自己と快・不快を感じる選択主体としての自己がある。大抵の成功者は前者のみ、すなわち実存することのみを絶対視し、そのことのみに言及する場合がほとんどや。せやけど猪木は鋭い感性で近代的自我を見つめるもう一つの自己についても言及してる。前者の近代的自我とは社会で共生する装置に過ぎず真の自己でもなんでもない、主観的演技性や。それは後者の視座によって己を相対化し自己演出がでけるようになる。

「道はどんなに険しくとも笑いながら歩いて行こうぜ」
実存者である小川がこの言葉の前に「意味深な言葉ですね」て言うてる。小川がこれをどこまで捉えてるか分かれへんけど、自己を相対化してたら分かるはずや、すなわち人生は無意味やけど自殺する必要は無い、何でか言うたら人はまず生まれてるからや、すなわち人は基本的に生きている、死ぬことに意味は無い、ならばこの人生を楽しめ、そう言う意味でこれから自己超克する際の否定契機が与える生きてる実感を敢えて楽しもうやないか、そう言うことなんや。暴力でもなくセックスでもなく薬物でもないこの人生こそが人を歓喜へといざなう、その為には目的が大きければええ、それゆえの世界平和なんや。

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」
馬鹿になれ恥をかけとはかしこぶったりえらぶったりして上げ底し己を実際よりもええように見せるのやのうて、失敗する愚かな道化となれ、そうすれば剥き出しの自意識が見えてくる。そうして初めてこれから迫り来る未踏の世界から調達する刺激が己に生きてる実感を与えてくれることを楽しめる、そう言うことを猪木は言うてるのや。

猪木の鋭さは、実存する自己、自己を相対化することから来る享楽、のみに止まらず時代分析にも及んでる。

「オレはプロレスと総合格闘技を分けて考えていないから」
格闘技は近代においてはプロレスやった。ボクシングやキックは所詮腕や立ち技に特化してる分格闘技それ自体を代表せえへん。パンクラチオンはレスリングとボクシングを合わせたもんやなかったか?それは時代と共に変遷し近代においてはプロレスとなった。せやけど現代に入るとプロレスは先のパンクラチオンなどと同様社会に合わんようになって廃棄されることとなった。そこで格闘技は新たなる形にならなあかん。そこで生まれるのが現代プロレスな訳やけど、その萌芽として競技性に偏向した総合が生まれ、それは演技性と結びついて現代プロレスとなる。そんな格闘技の伝統性においてプロレスと総合を区別することは伝統性を切断することや。それやのに別個のものと捉えることは格闘技の伝統性への無知から来るものやないか?猪木には近代において格闘技のトップとして業界を牽引してきた自負がある。切断して別物と捉えるのは既存のプロレスにすがり付く脆弱な実存しか持たない弱者のご都合主義やないか?

「アメリカのプロレスは日本では受ける土壌が無い」
アメリカはキリスト教的一神教の宗教圏に属す宗教社会であり、日本は宗教の無い共同体社会や。前者では倫理(エートス)が、後者では道徳が醸成される。アメリカは罪の文化であり日本は恥の文化なのはその為や。前者ではカリタス(隣人愛)に基づいたインディペンデンシー(自立)の伝統があるから人とは違う己のやりたいことを主張することが尊ばれ自我が発達するけども、日本では協調性が尊ばれ脆弱な自己が温存されるから自我が発達せえへん。教育番組見てみい、セサミストリートでは絶えず子供らに「君は何がしたいんだ?そうしたいのなら言わなきゃ周囲に伝わらないぞ?」て問い掛けてる。日本では歌って踊ってはいおしまい。この様な土壌の相違はアメプロの明らかな虚構に対し、アメリカ人は虚構を相対化してあえて入り込み楽しめる余裕があるけども、日本人は余裕無いから虚構をそのまま受け取ってしまい嘘を感じ取り楽しむことがでけへん。

猪木最新発言

猪木:風船を膨らませて、ちょっと油断するとシューって空気が抜けるじゃないですか。その時にまたアイデアを出して、企画を考えたりしてまた風船を膨らませるっていう。その繰り返しですよね。 
つる:アホが亀田や石原真理絵を直ぐ飽きられて消える、あんなん一過性や、て言うてたけど、何言うてるねん。その一過性を絶えず供給するのがスキャンダル女優であり現代プロレスやろ。 

猪木:これまでそういうチャンスがあったにも関わらず、何でお前が貧乏したりオタオタしてるんだよというね。
つる:既存プロレス3団体のトップらになんでローカルで小銭稼いでるねん、気付き供給したったのにアホか、て猪木は言うてるんや。稼ぎたいんやったら競技性と演技性の統合やろう、と。

猪木:そりゃ本人に責任があるんだけど、業界全体としてももっと違う発想があればね。
つる:現代のレスラーには新システムを作る義務があるやろ、て言うてるのや。いつまでおんなじことやってるねん。

猪木:まあ、これ以上言うと、一人ずつ名前を挙げなきゃいけないしね。正直言えば、そういう恨みも買いたくないんで(苦笑)。
つる:誰のこと言うてるかわかるやろ?(笑点)

猪木:俺は野球じゃねぇや、サッカーじゃないやっていう、そういうものに対してライバル心は持ってるんですよ。
つる:な、猪木は野球やサッカーを敵視してるねん。全くおっちゃんの言う通りやったやろ。

スポナビコラムより抜粋


「Stay hungry, stay foolish.」
ハングリーであれ。馬鹿であれ。

スティーブ・ジョブス

posted by つるじょあ |10:54 | イノキゲノム | コメント(16) | トラックバック(0)
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2007年05月09日

ジェラルド・ゴルドー、殺意のリアリティー 総合格闘技の黎明期

おっちゃんがこのブログ立ち上げる前に、あるブログで論争になったことがあった。もともとはおっちゃんがそこの管理人はんに噛み付いたんや。その理由は管理人はんが今の価値観で過去の選手を非難したことに起因する。

皆はジェラルド・ゴルドー覚えてるやろうか。彼自身の選手としての活躍は記憶に無くても、彼のしでかしたこと、つまり相手選手を失明さしたことはどこかで聞いてるかもしれん。ゴルドーはオランダの格闘家で、空手の有段者であり恵まれた体格してて、派手な和風の彫りもんが目立ってた。そしてラフファイトで当時人気あったんよ、こいつなにしでかすか分からん言うて。ゴルドーが活躍してた90年代は格闘技の黎明期、今でこそやれk-1やれPRIDEで世間的にも格闘技浸透してるけども、当時は全くローカルな存在やった。その時客が格闘技に求めてた一つとしてラフファイトがあった訳や。当時は客の目も肥えてないから技術は勿論のこと物語を楽しもう言う発想は些少でな、なんでもありを売りにしてたバーリトゥードにおいては兎に角荒々しいラフファイト目当てにしてる客が多かった。これはなんでやろうか。

社会が複雑化すると言語への依存度が増すのやけど、言語のみに依存してたら生きてるかどうかが分からんようになってしまう。最初物に触れてみるとその感覚があるのやけど、慣れてくると触ってるのかどうか分からんようになってしまう感じとおなじことですわ。もし生きてる実感が無かったら人は精神に異常を来たすことになるやろう。人類はかつて古代や中世において薬物使用や生贄儀式や公開処刑を通じて自己を相対化し、生きてる実感を獲得してきた。公開処刑やることになると皆が刑場へ足運んで刑が執行されると皆で驚喜する。チベットやアフリカ、アメリカの先住民族などでは酩酊物質を用いたし、共同体と薬物は共存してきた訳や。そして近代には共同体の外部への感受性が生きている実感を与えてくれた。せやけど現代、近代性が衰退し国民的合意が失われると外部への感受性が獲得でけんようになってしまう。そこで人類は再び古代や中世の伝統に立ち返る時が来たんや。せやけど今日的な複雑な現社会においてはもし公開処刑行ったら、薬物使用行ったら納品の時期や決められた労働時間を遵守でけんようになり社会が成立せんようになってしまう。死刑が塀の向こうで秘密裏に行われるのもその為なんや。そこで生きてる実感の獲得、すなわち感性の更新は社会の枠内の個々人の試行錯誤によってなされることになる。

これには2種類の方法がある。一方が外的享楽追求、他方が内的享楽追求や。外的なもんは2つあって、1つ目は暴力やセックスや薬物などの外的対象によって感性を更新していく方法や。せやけどこれらは慣れに対抗するために更なる刺激を高めていかなあかんから社会の範疇を超えやすくなり社会的にやりにくい特徴がある。余談やけど夜回り先生しってるか?生徒たちが部活で傲慢な教師に苦しめられて、毎日リスカしてたんやって。これは死ぬためやのうて生きてる実感を獲得する為にやってたんや。つまり人は生きてて快があるから生きてるわけやけど、強大なストレスのために生きてることに疑問もつようになって、それでもまだ生きたいからリスカして痛みによって感性を更新し、ストレス抜いて死を回避してるわけや。これが進むと自殺することになる。こう言う子今結構おるよ。それでそれを知った夜回り先生は「リスカはやらないとストレスが抜けないからやりなさい、しかしそれは信号だから今度やるときは皆で校長先生の前でやりなさい」て言うたんやって。それで部活の先生の傲慢さに苦しんでた生徒全員が校長先生の前でリスカしたんや。校長は仰天してこと重大さを知りその教師を部活の顧問から外した。この様にカッター言う外的対象を用いた自傷行為によっても感性は更新される。2つ目はコミットゲームや。これは虚構と知りつつも敢えてそれにコミットして楽しむもんで、例えばダンス大会で優勝しても意味はないのやけど敢えて虚構を受け取って入り込み、一生懸命優勝目指して頑張るわけや。内的なもんは壁紙を張り替えたり占いで一喜一憂したりダイエットでああでもないこうでもないと楽しんで人生に張りを持たせる。

ゴルドーが活躍してた時は主催者側も何でもありを売りにしてたし、観衆も殴れ、殺せ、て喚いてた。これはつまり息苦しい言語に依拠した社会において選手らのラフファイトによって代替的にカタルシスを獲得していた、言うことを意味する。そんな時代にゴルドーは総合格闘技の黎明期においてリアリティーを醸し出し、人々を驚喜させた。寝技はせんと打撃のみでどつきまわす、時にはサミング、時には試合終了後の乱闘騒ぎ。このようなゴルドーを迎え入れた人々を否定し、さらには無関係な桜庭問題と同一視し、結果的に失明したから言うてその功績を無にする所か排撃して貶めるもんをおっちゃんは許せんかった。結果的に失明した事実は受け止めて非難すべきやけどええことと悪いことは分けて正しく評価すべきなんや。物事を現代の価値観に基づいた過去の断罪言う筋違いな認識やのうて、当時の時代背景を鑑みて正しく理解されるべきやと思う。余談やけど、猪木のファイナルカウントダウンの相手務めた一人がゴルドーやった。猪木に牽制の意味でパンチしたら、それだけで苦しんでる猪木見て驚いてたあの表情は忘れられへん(笑点)。これからどないしてゴルドー負けるのやろ、こんなに弱い相手から説得力ある負け方ってどないするのやろ、ておっちゃんドキドキしながら見てた(笑点)。まあ、最後はスリーパーで猪木勝ったけどな。

これからは現代プロレスが生きてる実感を与えてくれるよ。ゴルドーの殺意のリアリティーから、予定調和から脱却したリングの内外を問わない人生の交錯のリアリティーが一般人を驚喜へと導く。

次回は既存のプロレス批判の前に、猪木の最新発言を検証します。

posted by つるじょあ |12:23 | イノキゲノム | コメント(12) | トラックバック(0)
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2007年05月08日

天才論、アントニオ猪木という名の天才 猪木が動けば世界が動く!

天才とはなにか?それは新しい地平を切り開く者を言うねん。新しい地平を切り開くとはその世界全体を富へと動かす基礎的土台を生み出すことや。ケネディは天才や。先駆けて黒人の差別問題解消を謳ってそれに貢献した。ライト兄弟は天才や。有人飛行機の発明によって物を運んだり人が遠くへ早く移動でけるようになった。この様に天才とは社会的要求を敏感に察知してそれに答え、社会を発展させることにある。勿論その天才がおらんでも歴史には法則あるからそれはいずれ誰かがやったやろう、せやけどそれをいち早く適宜に行うものによって世界は動いてきた。天才とはこの様なものなんや。

この様な天才は世俗的倫理で裁くことは許されない。なんでか言うたら例えば個人に迷惑かけたとしても個人への負債を一々返してたら誰が世界を創造するねん。個人への負債を返すことよりも新しい地平を切り開くことが社会的には遥かに勝ってる。そやから天才を世俗的倫理で縛ることは社会的に許されない。猪木が社会人として失格なのは誰しも異存は無いやろ。猪木への人間的な部分への非難は分かる、猪木が他人や会社に迷惑かけたのは分かる。一般的道徳からしたら猪木は完全にはみ出してるやろう。せやけど英雄言うのは常に世間的道徳を超越するもんや。常識の枠でやってたら新しい地平を切り開くことはでけへん。一般人は個人への負債は個人へ、天才は個人への負債は社会へ還元するねん。その意味で猪木の無責任は許されるのやないか?今のプロレスは低迷して閉塞し世間から隔絶してる。せやけど小川が暴れたときみたいになったらプロレスはまた覇権を取りもどせるんや。野球やサッカーと戦えるんや。現代プロレスの理念は競技性と演技性の統合や。それにいち早く気付き現代プロレス化を叫んでるのはプロレス界で猪木だけなんや。

猪木は言うた、「地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ」失敗の臭いを嗅ぎつけ己に限界を設け口先だけで行動し様といない凡人を猪木は非難する。「限界なんて無い、あるのは限界といってる自分だけだ」失敗をしろ、馬鹿になれ、恥をかけ、そうして人は上げ底してない本当の自己を乗り越えられる。UFO、レジェンド、猪木事務所、アルティメットロワイヤル、アルティメットクラッシュ、これらの底流には競技性が流れてる。猪木はプロレスに競技性導入を測り次々と仕掛けたのや。猪木以外に誰が仕掛けたのやろうか。猪木祭り、これは格闘技全体、すなわちプロレスと総合の利益を考え、まだまだ知名度のない格闘技を紅白の権威を利用して上げようとしたもんや。個々の格闘技団体の利害を超えて夢の対決を実現したお祭り騒ぎやったのやけど、それが成功すると元々のお祭りの意義を忘れ、個々の団体がそれぞれの利益のみを追求し始めた。そうして年に一度の夢の祭りは終わった。ジャングルファイトは森林における自然破壊に注目させるために行ったもんでな、猪木は「このイベントの意義が分からず金儲けをやりたい奴は参加しなくていい」て言うた。そしてイノキゲノムや。以上のように猪木は様々な失敗を重ねてはる。せやけどライト兄弟も数々の試行錯誤、失敗を重ねてきたのやないか。猪木は計画性が無いて言われるけど綿密に計画立ててたらいつまでたっても何もでけへんやんか。今の時代は考えてるだけで行動に移そうとせえへんやつ仰山いてる。せやけどいくら概念を重ねても何も生まれへんやんか。行動して失敗してもええ、失敗を重ねることで人は成長するねん。ええか、 自転車に乗れるようになるのは失敗を繰り返してこれでもか、と努力した結果乗れるような 感性を調達するねん。なんぼ思弁を重ねて自転車に関する知識を得ても乗れるようにはなりませんな。少なくとも動かなあかん、行動してから考えなあかんのや。

以上が猪木の無計画さ、失敗の反復、責任回避の理由や。藤波、長州、坂口、前田、高田、蝶野、三沢、武藤らは凡人やから世俗的道徳の中で生きるべきやろう。せやけど猪木にはプロレスにおける世界創造の才能がある。猪木はプロレスの地平切り開くことがでけるんやで。

偉大になる天才はいつかて凡人の理解越えてるから笑われるねん。当時人々は空を飛ぼうとするライト兄弟を嘲笑した。せやけど今日、毎日飛行機飛んでるやんか。飛行機のお陰で物は運べるし人の移動も早やなったやんか。猪木も嘲笑されてるけどおっちゃんは彼の言動と行動の一貫性とそれの社会的真理との一致を知っている。彼以外は近代プロレスの地平から飛び出そうとはしない以上、彼に期待をかけるのが自然な流れや。おっちゃんは猪木が馬鹿になっても恥をかいても笑わない。彼の感性が時代に即している限り。

次回はゴルドー。

posted by つるじょあ |11:38 | イノキゲノム | コメント(27) | トラックバック(0)
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2007年05月07日

近代の英雄、猪木は八百長レスラーなのか? 格闘技の伝統性

競技性導入を声高に叫ぶ猪木に対して「かつて猪木がやってきたことは八百長であり、その猪木がプロレスラーは強くあらねばならない、と主張するのは説得力に欠ける」て言う意見が目立つ。せやけど猪木は八百長やってないよ。

格闘技は古代ギリシャのパンクラチオンに端を発し各々の時代のその社会に有用な形態をとって変遷し、近代社会ではプロレスとなった。マズローの欲求階層論によると人間の欲求には段階があり、ある段階の欲求が満たされると更に高次の欲求が生じる。近代社会は物質的欲求の時代でな、物質的欲求の充足言う国民的合意の下に国家自体を一つの共同体と見立てた(アンダーソン・想像の共同体)。そこでは近代大工業(大量生産)が栄え、男は外へ労働し女は家庭内再生産を行う言う性別役割分業が行われる。こういった社会での娯楽は近代社会を肯定し共同体を結びつけるようなものが好まれる。ドラマや映画でも勧善懲悪、すなわち善が悪に苦しめられるも最後には勝つ、そう言うもんが好まれるわけや。苦労しても正しく頑張れば報われる、こういった予定調和は当然プロレスにも当てはまる。力道山が、馬場が、猪木が、迫りくる悪に苦しめられつつも最後は勝って観衆にカタルシスを与える。そういう訳で近代プロレスは競技性(強さ)も演技性(自己演出)も必要やなかった。

それを踏まえて猪木の時代のプロレスは八百長やないと言うことがいえる。近代におけるエンターテイメントは予定調和が受ける。馬場かておんなじこと反復してたのやのうて、客が帰り際に言うてる言葉を影で聞き耳立てて常に興行に反映さしてきたんや。馬場は三波春夫の「お客様は神様です」言う言葉に「この言葉を使った人は本心から言っているのだと思う」と共感寄せて集客の大変さ、換言したら絶えず変えていく絶えず更新していくことの大切さを痛感してた。八百長言うけど、その時代にもっと受けるエンタメを提供しようと馬場も猪木もガチをやってたんや。当時は競技性は必要なかったから、 八百長言う否定的言辞自体今日的立場に立脚した物言いなんや。猪木はそう言う意味で過去のプロレスに対してあれは八百長やなんて言うわけないやろ。八百長やないもん。猪木が現代においても格闘技の伝統性上で語るのは当然のことであり、八百長やってないのに八百長言う非難は格闘技の伝統性に対する無知から生まれるもんに過ぎない。過去の戦争評価を今日的な価値観に照らし合わせても意味は無い、戦時国際法に照らし合わせて断罪すべきことと同じや。

せやけど物質的欲求が充足されて更なる高次の欲求である心的欲求の充足の時代になると予定調和が必要されんようになってしまう。物質的欲求は共有可能やったけど心的欲求は個々人の問題やから合意不可能や、国民的合意は解消し国家的規模の共同性は衰退、性別役割分業の必要性は失われ女性の社会進出は常態化、近代大工業も衰退し多様な価値に適応する為に会社は機能性を重視、その結果年功序列の給与体系や終身雇用制度は崩壊、定年後悠悠自適に温泉めぐりや盆栽いじりするライフコースは覆される。道徳も共同性やから衰退し、隣は何をする人ぞ、ついには近代は終焉し 現代を迎えることとなる訳や。実存形式も意味から享楽を追及するもんに変わる。

この様な時代の変遷と共に近代社会で有用やったプロレスはパンクラチオンやランカシャーレスリングなどと同様に廃棄され、現代に即したその社会に有用な形態にかわらなあかん。このような現代における娯楽は意味からの解脱言う意味で今日的な複雑な社会における言語への依存から言語を滅殺する感受性が必要になるから直接性と、人間関係で今ここを楽しむための関係性が求められる。プロレスもそう言う意味では直接性、すなわち競技性と、関係性すなわち自己演出(演技性)が、すなわち現代プロレスが求められるのは必然的帰結や。このように近代プロレスから現代プロレスへと変遷する格闘技の伝統性においてはプロレスは今までも、そしてこれからも八百長やないよ。八百長言われてるのは歴史的連続性の只中にある格闘技の伝統性から抜き出した、伝統性とは無関係の過去のプロレスなんや。アントニオ猪木のやってきたプロレスと例えば天山のやってきたプロレスはおんなじことやけど、せやけど猪木のやってきたことは評価され、天山のやってることは評価されんのは前者が時代に即したエンタメであり、後者が時代から隔絶したエンタメであり、未だに過去のプロレスをやってるからなんや。

次回は天才論について語るで。

posted by つるじょあ |12:21 | イノキゲノム | コメント(13) | トラックバック(0)
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2007年05月06日

全日大量離脱問題、三沢らは裏切ったのか? 伝統性の論理構造

競技性導入を声高に叫ぶ猪木に対して「かつて猪木がやってきたことは八百長であり、その猪木がプロレスラーは強くあらねばならない、と主張するの説得力に欠ける」て言うてる奴がおる。せやけどほんまに猪木のプロレスは八百長やったのやろうか。ここで問題になるのはプロレスの伝統性の問題や。そこでその前梯作業として伝統性が深く関わってる表題の問題を取り上げたい。

まず伝統性の論理構造について説明するで。例えば日本語の伝統性があったとして、最近は乱れてるとか言われてる。年輩者が伝統的存在である日本人の若者が間違った日本語を使うことによって日本語の伝統文化破壊してる、日本語の伝統性を墨守すべく正しい日本語を使うべき、て非難してる。せやけどこれは滑稽なことでな、知識社会学者のマンハイムは伝統性の論理構造について、真の伝統性は守るべきものと指でさせるように外部に抜き出すものではなく常に伝統文化に携わる人々の内部に、人々と共に同時的に存在している、逆に守るべきと指示された伝統は次々と時間の只中で生起している歴史の連続性にある伝統性を外部へとその連続性を断って抜き出した過去の伝統性であり、それは今も尚連続的に生起する真の伝統性とは無関係である、て言うてる。つまり日本共同体における成員に日本人的伝統性が常に貼りついてるとしたら、例えば大阪弁でも正しい日本語になる。これはコギャル語でも同様でな、チョベリグ、チョベリガンブロン(超顔面不細工ロン毛)でも日本語て言えるわけや。共通語もってきてこれが正しい、言うのは恣意でしかない。大体日本人のコミュニケーションに用いる言語は世界で最も変化が激しくてな、様々な言語を取り入れて工夫し絶えず更新してるねん。それが日本語の伝統文化なんや。

同様のことは全日の大量離脱事件でもいえる。三沢らはクーデターを起こして全日を裏切りNOAHを作ったかのように見える。せやけどそれはほんまのことなんやろうか。全日の伝統性、すなわち全日イズムでも馬場イズムでもええのやけども、これは全日の選手が全日の選手であると自己を本質規定する限りにおいて全日の選手には常に伝統性が歴史的に貼りついてる。そしてその伝統性に基づいた上で新しい選択をしていく。三沢は俺たちは裏切り者やないと言いながら次のように述べた。「馬場さんのプロレスを受け継ぐとは馬場さんのプロレスを少しづつ変えていくことだ。」馬場夫人や川田は三沢らを裏切り者と断罪した。せやけどほんまに三沢らは裏切り者なのやろうか。馬場夫人は「馬場さんならそんなことはしなかった」と三沢らの新しい選択を否定してたそうや。これは馬場さんを愛するが故の行動やと思う。変わることで馬場さんが忘れ去られてしまう、て思うたのやろうな。せやけどそれは馬場イズムを継承することになるのやろか?夫人のやったことは次々と時間の只中で生起している歴史の連続性にある伝統性を抜き出した過去の伝統性を守ろうとすることであり、それは伝統性とは無関係な過去の伝統性を押し付けることやったんや。馬場かておんなじこと反復してたのやのうて、客が帰り際に言うてる言葉を影で聞き耳立てて常に興行に反映さしてきたんや。馬場は三波春夫の「お客様は神様です」言う言葉に「この言葉を使った人は本心から言っているのだと思う」と共感寄せて集客の大変さ、換言したら絶えず変えていく絶えず更新していくことの大切さを痛感してた。川田は三沢らを脱線していった、一度脱線した列車は元に戻らない、て言うてたけどそれに対して三沢は馬鹿にしながら「脱線したのはどっちだよ」と非難してた。結論としてNOAHは全日イズムを、馬場イズムを継承する団体であり、夫人、川田は全日の伝統性とは関係が無い、武藤新体制は王道とは別の新しいプロレス、言うことですわ。現在の全日において王道言う言葉に違和感があるのはその為なんや。最後に書くと、夫人は最終的には当時を振り返って反省してたそうや。

おっちゃんは過去のプロレスの思い出して癒しを提供する気はないよ。なんでか言うたらそれは新しいものを何も生み出すことは無いからな。せやけどプロレスの発展のために時には過去を振り返ることは必要やと思う。次回は以上のことを踏まえて猪木は八百長やってたのか、について語りまっせ。

posted by つるじょあ |11:42 | イノキゲノム | コメント(18) | トラックバック(0)
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2007年05月05日

アメプロが日本に受け入れられない理由 やっぱ!アホーガンよ

なんでアメプロがアメリカで受けて日本では定着せんのやろうか。共同体から道徳が、キリスト教から倫理(エートス)が生まれるねん。前者では皆一緒の仲良し教育が行われ協調性が尊ばれるから自我は未発達のままや。せやけど後者ではカリタス(隣人愛)に基づいたインディペンデンシー(自立)の伝統があって、周囲が何やってても己がやりたいことを伝えることが尊ばれる。後者では自我が発達するから虚構と知りつつもそれに敢えてコミットすることが可能やけど、日本人は虚構をそのまま受け取ってしまうからコミット不可能なんや。アメプロやったらアメリカ人は余裕あるから嘘と知りつつもそれに入り込んで楽しめる。せやけど日本人やと、余裕無いからそのまま受け取ってしまう。プロレス知らん一般人にアメプロみしてみい、なんやこれ八百長やろ、で終いや。日本とアメリカのプロレスの質的差異あるけどなんでやろ、て思てなかったか?そう言うことやったんや。猪木はそういった教養は無いやろうけど、鋭い感性がそれを看破した。そやから小川のハッスル移籍を受けてアメプロの流れを組むハッスルに対しそういったもんは定着せえへん、て言うた訳や(実は厳密にはおっちゃんはアメプロとハッスルは違うもんやと思てるから、ここだけは猪木とおっちゃんの思考は食い違いがある。まあ、それについてはおっちゃんも自信ないからよう語らんけどな)。

WWEも今年日本興行中止にしたやろ。日本にアメプロ根付かすには先に日本に一神教的宗教を根付かせなあかんけど、それには数百年以上かかるやろう。アメリカで大人気のホーガンも、日本でアメプロキャラ気取ったらアホーガンになる。

ほな、うんばらほ!

posted by つるじょあ |09:54 | イノキゲノム | コメント(31) | トラックバック(0)
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2007年05月04日

闘魂とは何か、自己超克の概念 元気があれば何でもできる!

「闘魂とは己に打ち勝つこと」と猪木は定義してる。この自己超克とはつまり実存する、言うことや。実存とは関係が関係自身に関係することや。最初の関係とは自己関係でありこれは無限性と有限性、可能性と現実性の関係項を持ってる。自己関係自身とは自己関係が目指すべき理念でな、自己関係は4つの関係項を総合して自己関係自身へと近づく。この自己関係の自己関係自身への運動が実存する言うこと、すなわち闘魂なんや。「馬鹿になれ、恥をかけ」とはすなわち無限的なもの、有限的なもの、可能的なもの、現実的なもののいずれにも傾くことなく自己を総合し正しく自己自身となることを意味する。まあ、ここは難しいから読み飛ばしてくれ。

かしこぶったりえらぶったりして自己を上げ底することはほんまの自己から離れることや。猪木は失敗を通じて無力である「本当の自分が見えてくる」すなわち脆弱な自己と対面し、失敗の経験を糧に成長し更なる失敗、そして更なる成長へと己を鍛え上げるんや。猪木は言うた、「限界なんてない、あるのは限界と言っている自分だけだ」と。現代人の大多数は行動する前に考えてもうて失敗の臭いを嗅ぎつけ行動するのを止めてしまう。ある者は実際に行動して失敗する者を揶揄し、ある者は己は才能ないとかどうせ無理とか言うて、限界と諦める。「1歩踏み出す勇気」を失ってるのや。実際にやりもせんと上げ底した自己でええ気になってるのは空中楼閣の蜃気楼の国で王様気取りになることや。それが一体何を生み出すのやろうか。猪木は現代人に自己を生き抜くとは、そして世界平和とはこうやるのや言うことを示してくれてはるのや。このような実存する自己の原動力は情熱や。実存の根本に情熱が無いとこの責め苦を受け取ることはでけん。情熱とは何か?そうや、猪木の言う元気のことや。皆は元気を普通に受け止めてるかも知れんけど、猪木の元気は情熱を示してる。「元気があれば何でもできる」つまり情熱があれば己に打ち克てる、考えてるだけでは何事も生まれない、「行ってみろ行けば分かるさ」どうもありがとう! 

次回はアメプロが日本で受け入れられないのはなんでか書くよ。

posted by つるじょあ |11:03 | イノキゲノム | コメント(51) | トラックバック(0)
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2007年05月03日

目を覚ましてください! 現代プロレスの体現

近代性が退潮していき90年代になると競技性への希求が生じるようになった。80年代のUWFは近代プロレスから現代プロレスへの過渡期における格闘技調のプロレスやったわけや。こうして日本に先駆けてUFCが誕生、日本でもk-1やPRIDEが勃興し評価を受けるようになった。せやけど競技性のみでは片手落ちでな、社会が成熟していくと演技性が必要になってくるねん。そこで猪木は正しく競技性と演技性の統合こそが現代における格闘技の形態であると自覚し、近代プロレスを惰性で温存しテレビ放送は深夜に追いやられて閉塞し低迷してるのにもかかわらず、かたくなに続ける純プロ路線に競技性と演技性を導入しようと小川に橋本を急襲させた訳や。「新日本プロレスファンの皆さん、目を覚ましてください!」この言葉はプロレス界に衝撃を与えた。それは単なるブック破りやったからやない、新しいプロレスの地平を感じたからや。この現代プロレスはたちどころに一般のニュースで取り上げられ、小川vs橋本の一戦は一般人の知る所となった。

一番盛り上がるのは因縁の延長線上の戦いやんか。総合は試合先にありきやろ?つまりこれはサラリーマンとおんなじですな。機械的に練習し、 機械的にリングにあがり、機械的に戦い、機械的に銭を貰う、これの反復や。橋本vs長州で少し盛り上がったのは犬猿の仲言うことを皆が知ってるからや。サップがタイソン挑発して乱闘寸前になったけどあれは高視聴率獲得した。あれはサップの自己演出や。小川がPRIDEで高田挑発して記者会見の場で襲撃しようとしたのも、佐竹・レコ戦で敢えて苦手な打撃戦に応じたのもすべては盛り上げるための小川の自己演出、神取vs美花でもそうや、ガチであり因縁がある、そしてこの偶然性を自己演出によって限りなく必然性に近づけ試合へと昇華させる、これこそが現代プロレスラーなんや。亀田見てみい、視聴率50%やで。今でこそ八百長問題が派生してあかん様になってきてるけども、あいつこそプロレスラーやないか。競技性あり、演技性あり、あれこそ現代のプロレスラーが手本にすべきなんや。ガチであり尚且つおもろく立ち回る、あれは小川がやってたことやないか。小川vs橋本が受けて、亀田も受けたことはおんなじ論理構造なんやで。格闘技やから因縁やら物語を肉体同士の戦いに昇華させなあかん、そう言う意味でボクシングのみに拘泥する亀田はやや不自由やけどな。石原真理絵は自己演出で次々と話題振り撒いて出演する演劇に昇華させてるやんか、これこそ1流のスキャンダル女優やおまへんか?石原真理絵は格闘家やないから演技性のみやけど、近代プロレスラーは両手落ち、そう言う意味で石原真理絵の方が現代においてはプロレスラーに近い。近代プロレスラーよりも亀田や石原真理子の方がプロレスしてるわ。

ほんまに因縁があってほんまに戦う。例えば朝青龍が「相撲は八百長じゃない、八百長はプロレス」とか発言したとして、そこで小川が「相撲こそ八百長だろ」と朝青龍と舌戦を繰り返す。そして場所中に業を煮やした小川が乱入、他の力士たちがそれを止めに入り、その時千代大海が藤井軍鶏侍をどつき新たなる因縁も勃発。全てNHKの相撲中継で放送され横審の内舘牧子が「前代未聞の珍事」と発言。一般のニュースでも取り上げられ、朝青龍は「小川だけは絶対許さない」と激昂、そこで猪木が「怒ってるのなら正直にぶつけ合えばいい、場所は俺が提供する」とIGFで戦いの場を提供することを示唆、横審も八百長払拭の為特別に試合を認め、かくしてイノキゲノムで小川vs朝青龍が実現する。世紀の対決に日本中が注目するわけや(笑点)。若貴の兄弟喧嘩でも、彼らが現代プロレスラーやったらワイドショー取り上げられてたときに貴が「もう兄とも思わない、こうなったら土俵で白黒つけてやる!」とか言うて若が「それはこちらの台詞だ、土俵で決着?ああ望むところだ!」て土俵に上がってみい、これまた視聴率80%はいくがな。これがプロレスなんや。それぞれが自己演出して発達した自我と鍛え上げた肉体をぶつけ合う。因縁が因縁を呼び、ハプニングがハプニングを呼ぶ。これこそ競技性と演技性の統合、 現代プロレスやないのんかい。これこそ野球やサッカーに対抗でけるプロレスや ないのんかい。

猪木は格闘家は強くなければならない、とUFO、レジェンド、アルクラ、ジャングルファイト、猪木祭りなどを仕掛けた。永田にミルコぶつけてさらにヒョ―ドルぶつける意味わかるか?中西を敢えて苦手な打撃ルールでやらせる意味わかるか?これはプロレスラーがどれだけ弱いかをレスラーや世間に知らしめるためや。競技性の追求とは強くなることや。強くなるには自己を知らんとあかんやろ。かっこつけたりえらぶったりしてほんまの己を知らんと人は成長でけへん。「馬鹿になれ、恥をかけ、そうすれば本当の自分が見えてくる。」猪木はな、永田に己の弱さを、中西に己に足りない部分を自覚して欲しかったんや。そしてそこからはじめたかったんやけど二人には無駄やった。彼らが気付く事は無かった。

現代プロレスとはこの様なものなんや。この担い手は発達した自我と突出した強さが必要や。猪木の供給する気付きとは、日常から自己を立ち上げ自我を発達させ、体を鍛えて技術を磨き強くなる、そうするとごっつうおいしいで、こう言うことなんや。そしてそれを高いレベルに高め、ハプニングの連続性の中で格闘家なのやから肉体の戦いに昇華していく、これこそ現代プロレスラーなんや。

posted by つるじょあ |06:46 | イノキゲノム | コメント(37) | トラックバック(0)
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2007年05月02日

競技性と演技性の統合、現代プロレスへのアプローチ

演技性とは自己演出のことやけど、これは近代的な客観的演技性とは異なるねん。近代においては例えばキラーカーンのような紋切り型の悪役が出て予定調和を演出した。紋切り型の役割とはシナリオとして紙に書けるような外部の役割や。予定調和(=ベタ)のプロレスにおいてはええのやけど、現代において関係性が重視されるとその虚偽性が見破られ嘘臭い存在として敬遠される。天山が全く一般に受けいられへんのは、やんのかコラー、殺すぞコラーと薄っぺらい外部の役割を時代錯誤にも演じてるからや。リングから降りたらええ人、その虚偽性が現代性と隔絶させる。では自己演出とはなんのことやろうか?ここでの演技性は内部の役割を指すねん。自己とは何か?それは近代的自我(己が己であるという根拠)やのうて快・不快を感じる選択主体や。つまり皆が自己と思うてるもん、個人の性格も実は役割でしかなかった。人は役割の無限指定から逃れられへん。そう言う意味で人間の振る舞いは演技性なんやけど、自己としての役割は客観的演技性と違ごて主観的演技性やから虚偽性ではないねん。この演技性は外部の紙に書くことは不可能や。何でか言うたら感覚器官を経て経験した感受性は主観の中の非論理的なもんやからや。ビートたけしやキムタクの演技性は主観的演技性を採用してて教師役あったとしたら天山は既存の紙に書けるような紋切り型の先生を演じ、たけしやキムタクやったら己が教師になって役を演じる。これぞ主観的演技性であり今の役者のほとんどがこちらを採用していってる。なんでか言うたら天山的演技性では現代人の心は揺るがへんからや。小川は村上に「嫌なことは嫌といえ」て日常から自己を立ち上げるように言うた。そうなんや、現代プロレス、すなわち現代に受ける格闘技においては自我のぶつかり合いやないと人の心に響かへんねん。リング上でもリング下でも日常から常に自己を鍛える、強靭な自我と肉体のぶつかり合い、人生の交錯こそが現代プロレスの理念(目指すべきもの)なんや。

総合格闘技とプロレスは違うて言うてる奴いてるけど、それは間違ってる。なんでか言うたら総合格闘技の出現は現代プロレスにおける競技性の理念に呼応した現代プロレスへのアプローチやからや。つまり総合言うても現代プロレスの一部分に過ぎひん訳や。そして演技性の必要性も総合格闘技の主催者側は萌芽的であれ理解してるで。PRIDEで直ぐ寝技に持ち込み競技性のみを追及した吉田が主催者側から否定されたり、単に勝つだけのホーストでは人気出えへん実情を理解してる。総合はすでにこの二者の統合を理念として移行しつつあるのや。猪木も総合に遅れるをとるなと小川を新日に上げて競技性と演技性の統合をせまった。単なる競技性、単なるスポーツではマニアは喜んでも一般の人々の心は動かされへん。ボタが反則した際にスポーツマンシップに則ってボタを反則負けにした角田を石井館長は「俺なら戦いを続けさせた」と批判してたけど、現代プロレスはけして純然たるスポーツやない言うことを意味してるんや。近代プロレスは論外として、現代プロレスに演技性なかったら格闘技ヲタのもんになってしまうやろう。

ジョシュは言うた、「そもそも一緒であった総合とプロレスが今こそ一緒になるべき」と。意味わかるか?つまり立ち位置は異なってても同じ格闘技の系譜上にあり現代においては理念はおんなじなのやから 目指すべきもんは一緒や、分かれてるのはおかしい。つまり近代プロレスを惰性で温存することへの非難なんや。今こそ古い皮を脱ぎ捨て新しい存在になるとき!これが猪木がやろうとしてることなんやで。猪木は老人やけど既存のプロレス団体のトップよりはるかに若い。

理論的なことばかりやと言葉遊びのように取られてもなんやから、次回は現代プロレスの具体例出しまっせ。

posted by つるじょあ |10:15 | イノキゲノム | コメント(29) | トラックバック(0)
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2007年05月01日

格闘技の変遷、現代プロレスの誕生

イノキゲノムについて直接語る前に踏まえなあかんこと説明していきます。

格闘技は時代によってその形を変えてきた。古代ギリシャのパンクラチオンに端を発する格闘技は、ランカシャーレスリング、フリースタイルレスリングを経てプロフェッショナルレスリングとなった。プロレスは近代におけるエンターテイメントとして大衆の欲求を満たし大いに人々を歓喜させた。この様に各々の時代に即した格闘技の形態がある、言うことですわ。せやけど現代になるとプロレスも急速に支持を失いパンクラチオンやその他の格闘技の形態同様に廃棄されることとなった。つまり今の低迷は、近代には即してたプロレスが現代においてその役割を終えたことを意味するわけや。こうして格闘技は新たなる形態へと進化せんと生き残ることはでけん。ここで登場するのが現代プロレスなんや。この名前が正しいかどうかは言葉の問題やからポストプロレスでもなんでもええのやけど、あるものが古うなって人々にとって無用になった以上、それが新しいものにとって代わられるのは歴史法則やから。既存のプロレスも衰退の一途を辿ってる以上、新しく質的に飛躍せえへんと格闘技が生き残ることは出けん。では新しいプロレスとはどのようなものなんやろうか?

現代プロレスの理念は競技性と演技性の統合や。競技性とは強さであり、演技性は自己演出を意味する。なんでこのような理念になるのやろうか。近代国家は想像の共同体と呼ばれるもんでな、これは結局物質的欲求の充足言う国民的合意の下、 国家自体を一つの共同体に仕立てるもんや。ここでは人と人の結びつきが必要やから皆が一丸となるようなものが称揚される。おんなじ論理構造で言うたら例えばナチス・ ドイツや。ヒトラーはドイツを纏め上げるためにユダヤ人を敵視した。ヒトラーはのちに「ユダヤ人がいなければ、私はユダヤ人に代わるものを用意しただろう」て言うてる。外敵を作ることにより出自の共同体の結びつきを強固にした訳や。オウムかて他の宗教団体敵視したりマスコミに爆弾落とされるとか言うたりしてたやろ。このような近代社会においては現体制を肯定する為に予定調和が反復される。プロレスやと外人レスラーやってきてそいつを迎撃、苦しみながらも最後は勝利することで観衆はカタルシスを得るわけや。当然競技性も演技性も必要なく、建前は競技性、本質は客観的演技性やった。せやけど時代は変わる。物質的欲求の充足が達成されると国民的合意が失われ、国家規模の共同性は衰退、予定調和は好まれんようになった。今日的な複雑な社会が言語への依存度を高め、その言語の滅殺の感受性、生きてる実感を獲得するために直接性を、また今ここを楽しむための人間関係を構築するための関係性が重要となり、そんな社会において人々は格闘技に直接性すなわち競技性を、関係性すなわち演技性を求めるようになる。プロレスはその近代性を克服してその二者を取り入れなあかん。ではこの二者を統合するにはどないしたらええのやろうか?

posted by つるじょあ |20:03 | イノキゲノム | コメント(23) | トラックバック(0)
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