2008年05月10日

『低迷する格闘エンタを救う救世主 その名も魔王、秋山成勲 近代を逆に行け!』

おっちゃんやで~。

プロレスに変わって格闘エンタとして人気を博してた総合やったけど、ここ数年は低迷してきてる。これは当然のことでな、格闘エンタの黎明期は直接性に応じてたらよかったのやけど、成熟期ではさらに関係性を求めるようになるねん。つまりいつまでも初期の反復やってても、時代に乗り遅れることになるねん。今格闘エンタにさらに求められてるのは関係性、すなわち演技性なんや。

演技性とは選手個々人の個性であり、その個性的個人の演出に基づいた物語なんや。それが成熟期の現代人の心を惹き付けるねん。そうゆうわけでな、初期の直接性に応じた競技性のみを反復してても誰も振りむくことはないねん。競技自体に捉われるのはマニアだけや。競技に付随した物語、選手の持ち込む人生がそのエンタメの浮沈を決定するのやで。

現代で注目される物語とはどの様なものなのやろうか?近代社会では国家規模の大きな共同体が単一に存在してて、価値観は平板やった。せやけど現代社会では価値観が多様化して小さな共同体が散在してるのが現状や。近代社会では一つの共同体に媚びてたらよかったのやけど、現代社会で媚びてたらそれはローカルな一つの小共同体の英雄が精一杯になるねん。そこで現代的英雄は諸共同体を横断せなあかん、つまり社会に完全に反目されんギリギリの所でスキャンダル・ハプニングを起こしていくねん。こうして価値観の異なる諸共同体の成員は、各々が称賛したり非難したりするのやけど、こうしてファンにもアンチにも注目されるようにすることが、現代における英雄な訳や。

物語を紡ぐゆうことは、嘘をつくゆうことや。嘘とは普段自己として生活してる虚構の自己のことでな、自己とは共生のための装置であって虚構でしかないねん。人間に生きる意味なんてないし、借金苦にして自殺やなんてそれは虚構を真実と受け取めてしまってる証拠や。親が死んだら泣くけども、キャベツが壊れたら泣くやろか?この世は物質的世界であり、それ以上でもそれ以下でもないのは分かってることやないか?つまり普段の自己とはロマンであり、幻想であり、虚構なんやで。この虚構としての自己を自覚しつつも操作する高度さ、これが高度な嘘なんや。

そさて秋山やけど、あいつは素晴らしい可能性を秘めてるねん。あいつは劣等感の塊でな、自己顕示欲であり怨恨感情であり承認欲求でありさまざまなものが動機になってる。そしてそれゆえにあいつは動物的な感性になってて嘘をつかんでも物語が噴出するねん。自覚的に表現するのが高度な嘘やから、無自覚的な嘘は程度が低いといえるやろう。せやけどあの野獣のような感性は他を絶してるねん。例えてゆうたら、あいつはパンドラの箱なんや。あけたら何が起こるかわからん、魔物が巣食ってるねん。

おっちゃんは前の記事で秋山を否定したのにここで肯定することは、矛盾してるようにおもえるやろう。確かに秋山は表現以前的な部分で問題があるよ。現代格闘エンタは試合間と試合で表現していくものやから、その試合でルール違反やってたら表現できひんやんか。せやけど秋山は劣等感を誰よりも持ってる分可能性があるねん。ルール厳守してても中身からっぽやったらおもろないやろ?そうゆう訳でな、反則についてはなるべく押さえるよう学習して欲しいところやな。

せやけど、使い道誤ったら大変なことになるねん。亀田は意識的に諸共同体を横断してる。秋山は無意識的に諸共同体を横断してる。亀田は社会を相対化した上で振舞ってるけど、秋山は社会への感受性無しでやってるから、無意識的な分社会の枠を超える可能性があるねん。大毅は人投げたらあかんことようわかってるねん。車はぶつけるものもほんまにおもってるわけとちゃうねん。感性として、感覚として悪さしてることはようわかってるねん。せやけど秋山はヌルヌルが悪いことは知性としては分かっててもその程度でな、感性としては、感覚としては分かってないねん。そやからばれて非難されても運が悪かった程度にしか感じてへんのとちゃうかな。

現代成熟期の格闘エンタは高度な嘘をつかなあかんのやけど、そうゆう意味では秋山の嘘に高度さはないよ。動物的な自己やから、長期的視座で見たらどつぼにはまる可能性があるねん。せやけどあれだけ潜在性あるののやから、期待してまうわ。

ほなな。

posted by つるじょあ |20:57 | イノキゲノム | コメント(7) | トラックバック(0)
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