2008年05月08日

『総合のルーツはプロレスである 後編』

おっちゃんやで~。

文明化の過程を経て近代社会は、暴力の応酬から非暴力の応酬に変わることになるねん。こうして命を掛けてた格闘技は相手を殺すことなく勝敗を決する近代スポーツとなったんや。最初は特権階級の余暇の過ごし方やったスポーツは、人格形成のための学校教育に取り込まれて、やがてはアメリカにおいてエンターテイメントとなるねん。こうして格闘技とは異なる格闘技エンターテイメント、プロレスリングが誕生したんや。

【近代イデオロギーとしてのプロレス】
時代の区分は生産様式の区分でもあるねん。ある生産様式にはそれに照応・反映した社会が形成されて、その社会に住む人々の政治・道徳・宗教・哲学・芸術などの思想が規定されるねん。このような生産様式・社会的立場に制約された思想をイデオロギーてゆうのやけど、まさしくプロレスは近代のイデオロギーなんや。近代アメリカで支持を集めたプロレスは、近代日本においても戦後すさんだ大衆の気持ちを楽しませてくれた。戦後復興期の英雄は美空ひばりであり力道山やったんや。せやけど時代は変わるねん。物の豊かさを追い続けてた近代大工業やったけど、それが達成されると生産様式は情報化産業にその産業構造を変えることになるねん。こうして近代社会は終焉して現代社会へと移行していくことになるねん。近代イデオロギーとして近代社会で脚光を浴びてたプロレスは、現代に入って古くさくなってもうたんや。古くさくなったとは現代に即さんようになったゆう意味でな、例えば洗濯板ではもう誰も喜ばへんねん。近代格闘技エンターテイメントが現代社会に照応するような新しいものに変わっていかなあかんのは歴史的必然ですわ。

【イストワールとしてのパンクラチオン】
プロレスのルーツはパンクラチオンにあるて信じられてきたやんか。このイストワール(歴史)は勿論間違ってるのやけど、なんでパンクラチオンが持ち上がったのやろうか?これを端的に誤謬として退けることはできへんねん。このことについて説明するわ。

近代オリンピックが、スポーツを国家規模から世界規模に拡大さしたのは誰でも知ってることや。クーベルタンの「参加することに意義がある」のアマチュアリズムを端に発した近代オリンピックやったけど、この近代オリンピックのルーツも古代オリンピックとされてきた。当然古代オリンピックと関係なんてあるわけないのやけど、近代化に当たって欧州人は憧れをもって見つめてた古代オリンピックを近代化に利用することにしたんや。こうして古代オリンピックの競技への理解が不十分なままで、あるいは意識的に一部を黙殺した上で、古代オリンピックは欧州の近代化に利用されていったんや。競技者はアマチュアであり、平等な自由市民であり、目指すのは無報酬の栄光のみである、このような古代オリンピックのイストワールが信じられてた。

中国も近代化するために、日本に抑圧されたイストワールや、建国4000年のイストワールを主張してるし、ナチス・ドイツもギリシャの後継者として自称してきたことを、ベルリンオリンピックの演出と成功によってそれを可視的にさした。これは近代国民国家ゆう虚構の共同体を動機付けるためのものでな、プロレスも無関係なパンクラチオンを利用したんや。

実際中国の主張する日本による抑圧は誇張されてるし、4000年の歴史ゆうても同民族の政権交代やのうて別の民族の殺し合いやから4000年の歴史の連続性はないし、ベルリンオリンピックでも孫や南が表彰台で悦に浸ってるとリーフェンシュタールは感動してたけど、実際は朝鮮人やのに当時朝鮮は日本の植民地やったから国家が君が代であることに悲しんでたのやし、オリンピックも古代では無報酬所か銭もろてたし、平等所か奴隷制は存続し女性は競技場への出入りは禁止されてたし、暴力の応酬で人が死ぬこともあったんや。そもそもアマチュアリズムを謳ってたクーベルタン自身も、女性の競技への参加に否定的で、またナチスによって年金を受け取ってたんやで。

このようにな、パンクラチオンのルーツは近代化するに当たって作り出された虚構のイストワールやったんや。せやけどこれを果たして端的に誤謬として退けることが出来るのやろうか?虚構のイストワールに動機付けられて近代化を支えてたのやから、「パンクラチオンがルーツなんて誤謬」の言は、虚構の共同体を支える「虚構性の真実性」を見誤ってるとおもう。虚構が誤謬やったら近代化した日本を否定するべきやし、今近代化しようとしてる中国も「中国国家は虚構の共同体であり国家と言う概念は誤謬」と否定するべきやろ?ジョシュはプロレスのルーツがパンクラチオンであることで動機付けになってるのやったらそれでええのやないか。わざわざ否定する理由がどこにあるのやろ?これがおっちゃんの考え方や。

【プロレスと総合の区別】
現代ではなんでプロレスと総合が分けて捉えられるかゆうたらな、それは歴史を無視して単に客観的に捉えてるからや。そらプロレスと総合は単純に比較したら違うよ。せやけど歴史的に捉えたら格闘エンターテイメントなのやからおんなじものゆうことになるねん。明治・大正・昭和は中身は違うけどもおんなじ日本やろ?大正の日本が偽で、昭和の日本が真なんてどないしていえるのやろうか?なんで区別されるかゆうたらな、古くさいことを今でもやってるからなんや。そら昭和で江戸時代のチョンマゲ結ってたら笑われるやろ。今竪穴式住居で生活しててみい、携帯代わりに狼煙上げてたらそら嘲笑されるわ。ほんまはプロレスはかつての総合のルーツとしてリスペクトされるべき所をやで、今でもチョンマゲ結って弓矢で野良犬追ってるから笑われるねん。

【格闘技エンターテイメントとしてのプロレスと総合】
プロレスも総合も、なんのために戦ってるのやろうか?力道山のプロレスは、けして宗教・祭祀でもなければパンクラチオンでもないしアマチュアリズムでもないねん。これはな、エンターテイメント、つまりお客さんを喜ばして銭もうけするためやないか?そうなんや、総合もプロレスもやってることはおんなじやねん、ただ出し物が変わっただけの話なんや。総合が競技性を帯びてるからルーツはパンクラチオンにあるとか、プロレスに競技性がないから総合とは無関係な別物とかゆう規定は、浅はかな解釈でしかないねん。競技性の勃興は観客のニーズに応えた結果なんや。総合のルーツはプロレスにこそあるねん。近代格闘技エンターテイメントであるプロレスは、時代が変わって大衆からの要求が変わったから現代格闘技エンターテイメントである総合に変容しただけの話でな、総合の現代初期におけるブームは偶然的バブルやのうて、時代の要求、時代の必然やったんや。これは当時の観客の感性が全てでな、近代におけるプロレスは観客を熱狂さしてたし、現代における総合は観客を熱狂さしてた。これが格闘技エンターテイメントの伝統性なんやで。

【総合の先にあるもの】
最後につけたしやけど、プロレスから総合に至るのが必然性であるように、総合から現代プロレスに至るのも時代の必然や。そしてその現代プロレスを明確に理念として目指してるのがIGFなんやで。最近は凋落傾向にある格闘技やけど、プロレスが衰退したと同様にその役目を終えつつあるねん。

亀田、パリス・ヒルトンみてみい。この価値観が多様化した時代に全国的に人の注目を浴びる彼らにこそ、現代プロレスのヒントがあるねん。諸共同体を横断して完全に世間と反目せえへんギリギリの範囲内でスキャンダル・ハプニングを提供する新しい格闘技エンターテイメント、これが現代プロレスなんや。

ほなな。

posted by つるじょあ |11:28 | イノキゲノム | コメント(15) | トラックバック(0)
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