2008年02月06日

『現代プロレススーパースター列伝 第6回 アントニオ猪木』

おっちゃんやで~。この現代プロレススーパースター列伝は、毎回一人の人物に焦点当てておっちゃんがその人物像を分析し、その上で優秀な現代プロレスラーになる為の課題を明らかにするコーナーや。おかしなことゆうてたらごめんな。

第6回 アントニオ猪木

思想:個人主義 格闘技:現代プロレス

今回はアントニオ猪木について書くわ。猪木は日本で石炭問屋を営む裕福な家庭で生まれ育ったのやけど、石炭から石油へのエネルギー源の転換を受けて実家は倒産、政府に見捨てられブラジルで農夫として過酷な労働状況の中生活してたんや。そんな中、ブラジルに遠征中やった力道山にスカウトされて、力道山亡き後は馬場と共にプロレスを牽引したんや。そして新イベントをプロデュースして今も尚格闘エンターテイメントの第一線で戦ってるねん。

【共同体主義と個人主義】
猪木は日本人にありがちな共同体主義者やないねん。共同体社会では上司のゆうことを聞くことが尊ばれるのやけど、猪木は力道山の余りのしごきに殺意抱いたこともあったし、ゆうこと聞かん猪木を力道山も持て余してた。また共同体では上下関係はっきりさせるためにいじめが横行するのやけど、猪木はそうゆうのを嫌ってた。そやから新日では全日と違うていじめはなかったんや。また猪木は新人のアナウンサーにも敬語で話したりするし、初めて会うた人とでもすぐに打ち解けるねん。誰に対しても平等に接してたんや。片や共同体主義の権化、馬場はどうやろうか?馬場はな、初めて会うた人には心を開かへんねん。ただ一度心開くとごっつ打ち解けるねん。これはな、共同体主義者は共同体を大切にするから、まず仲間かどうか試してるわけや。藤原が全日行ったときも、馬場に試されてたことを肌で実感したそうや。

こうした猪木の尊厳観は日本的な共同体主義と違うて個人主義やねん。そやからたまに前田と猪木は似てるとかいわれることあるけど、全然違うねん。馬場同様、前田の尊厳観は枢軸国的な共同体に尊厳を置く依存的尊厳観で、猪木の尊厳観は連合国的な自己に尊厳を置く自立的尊厳観や。前者では共同体に尽くすことが尊ばれるけど、後者では自立することが尊ばれるねん。税金観でゆうたらな、前者は年貢の延長線上や、お上に召し上げられる感覚があるねん。後者は開拓時代の自立した個々人がならず者や盗賊から身を守るために出し合う感覚があるねん。そやから依存的尊厳観においては協調性が重視されるし、自立的尊厳観では自立が重視されるねん。そうゆう訳でな、おんなじどつきでも、前田のどつきは協調せえゆう文脈で、猪木のどつきは自立せえゆう文脈やから、全然違うねん。具体的にゆうたらな、前田による坂田のどつきは共同体における成員として分不相応に調子に乗ってたから行なわれたもんで、猪木による中邑へのどつきは自立した個人としては不甲斐ないから行われたものやったんや。かつて日本は国家全体で共同体主義やったのやから、時代背景考えると猪木は特異な尊厳観持ってるといえるやろう。

【自立を促す実存哲学】
猪木は企業成功者にありがちな実存哲学の披瀝を行なってる。闘魂とは己に打ち克つこと、て猪木は定義してるのやけど、つまりこれは自己の殻を打ち破って成長・自立していく概念なんや。この自己超克とは一言でゆうたら実存するゆうこと、つまり関係が関係自身に関係することや。最初の関係とは自己関係でありこれは無限性と有限性、可能性と現実性の関係項を持ってる。自己関係自身とは自己関係が目指すべき理念でな、自己関係は4つの関係項を総合して自己関係自身へと近づくんや。この自己関係の自己関係自身への運動が実存するゆうこと、すなわち闘魂なんや。そやから企業成功者が主張することは、結局は無限的なもの、有限的なもの、可能的なもの、現実的なもののいずれにも傾くことなく自己を総合し正しく自己自身となって自立していくことを意味してるねん。そこで猪木の実存哲学的発言を一つ一つ検証してみるわ。

「元気があれば何でもできる」
実存哲学では自己超克するために必要なものとして情熱を挙げてる。人はこの情熱によって先の4つの関係項を総合して自立していくわけやけど、猪木はこの情熱を元気としてるねん。そやから自立を促すべく皆に元気を持て、てゆうてるわけなんや。実存哲学の根本は情熱、闘魂哲学の根本は元気、これはおんなじことなんやで。情熱に基づいて試行錯誤して自己を自立へと導いていくこと、これが実存するゆうことであり、闘魂するゆうことなんや。

「限界なんて言葉はこの世の中にはない、限界というから限界が出来るんだ」
近代化以降人々は過剰に言語に依拠するようになったんや。それは複雑な社会が要請するからなんやけど、言語に依拠する分行動するよりもまず頭で分析して勝手に限界を設けてしまうようになるねん。こうして人は行動せんようになってしもうた。人は行動し試行錯誤を重ねて失敗に基づいて成長していくのやけど、現代人は行動より先に失敗の臭いを嗅ぎつけて行動せえへん。限界は賢すぎる人間の言い訳なんや。その結果人々は出来る範囲内で行動するようになって、自己自身を生きるのやのうて会社に、社会に隷属するようになってしまう。せやけど自己超克する人間は情熱に基づいた行動によって自己自身へと近づいていくねん。

「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむ無かれ、危ぶめば道は無し。 踏み出せば、その一足が道となり、 その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」
これは皆もよう知ってるやろ?これもな、失敗を予期したり限界を設けたり損得を考えて行動を回避するのやのうて、目標を達成するにはまず踏み出すこと、行動した後に考えるべきてゆうてるねん。

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる本当の自分が見えてくる」
これも頭で考えて失敗を回避して格好つけたりえらぶったりするのやのうて、考えずに行動せえ、てゆうてるねん。つまり馬鹿とはほんまのアホやのうて、考えないことを意味してるのやで。

「人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく」
これも実存哲学や。老いゆうのは身体的なもんやのうて、精神的なもんやねん。行動を回避する人間に成長は無いけども、逆に言えば行動によって自己超克する人間はいくつになっても成長できるねん。老いとは己に限界を設けた者に降りかかることでな、行動をせずにただ惰性に生きて死んだ目をした若者が果たして若いと言えるのやろうか。

「地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ」
いくら安全圏で語ってもそれは自己を温存するだけで何も生みださへんねん。概念をいくら重ねても何も生み出さへんねん。とにかくことを為すには何事も行動に移さなあかんのや。

「オレは人生のホームレスだ」
ホームとは共同体のことでな、馬場や前田みたいに共同体に所属するやり方では成長はないねん。実存する自己は単独者であって、単なる役割として本質規定でけるような所属する存在であってはあかんねん。形だけ所属することはありえても、所属してることにほんまに誇りを獲得してたら組織に埋没してしまうよ。それは隷属することであり、自己自身から離れることなんや。

以上が実存哲学でな、猪木は元気のない、そして権益確保の上で行動せん大衆や格闘家たちに気付きを供給して自立へと促してるねん。これはこう言えるやろう、つまり猪木に近づくもんは猪木から離れ、猪木から離れるもんは猪木に近づく、これこそが自立ゆうことや。すなわち小川が猪木頼ってたらそれは猪木に近づくのやけど自立を謳ってる猪木からは離れることになるねん。逆に猪木に依存せんと己で天下取ったろうとしたら猪木から離れるのやけど自立を謳ってる猪木に近づくことになるねん。猪木が小川や皆に期待してるのは、馬場や前田みたいな一致団結やのうて、個々人の自立・大成なんや。能力主義の現代社会に即したこの実存形式こそ、近代から現代に移行しても社会に要求されてる猪木の魅力やないか?

【自己を相対化するポスト構造主義哲学】
せやけど猪木の真骨頂は実存を超えた発言をする所や。今までの主張は所詮、企業成功者やったら誰でも口にする自立に関するテーゼや。例えばスティーブ・ジョブスは「ハングリーであれ、馬鹿であれ」てゆうてる。彼にとっての情熱、元気は飢餓感で表現されてて、馬鹿に慣れは同意味や。理論的にゆうたら4つの関係項を総合することで、皆経験に頼ってゆうてるから用語は異なるけどもおんなじことゆうてるねん。猪木の偉大さは、そういった自己を超えて実存哲学からポスト構造主義哲学へ、つまり自己を相対化した上での享楽についても言及するところなんや。これは成功することだけを第一義に考えてる企業成功者には欠けてる文脈や。

「俺は二人いるんじゃないか、と思う時がある」
猪木は鋭い感性で、自己を二義性を正しく捉えてる。自己は近代的自我としての自己と、快・不快を感じる選択主体としての自己があるねん。大抵の成功者は前者のみに言及する場合がほとんどや。せやけど猪木は近代的自我を見つめるもう一つの自己についても言及してる。前者の近代的自我とは社会で共生する為の装置でな、真の自己でもなんでもない主観的演技性なんや。それは後者の視座によって自己を相対化した上で自己演出が可能になるねん。

「道はどんなに険しくとも笑いながら歩いて行こうぜ」
道とは自己超克していく人生を指してるのやけど、その自己を絶対視するあまり、失敗したら落ち込んで苦しんだり時には自殺することもあるやんか。せやけど猪木はそれを否定するねん。なんでかゆうたら近代的自我としての自己が虚偽やった以上は、それは相対性やからや。なんでそんな自己が全てやと思い込んで自殺せなあかんのや?自己が虚偽であり共生の装置である以上は、それを用いて楽しもうやないか、猪木はそうゆうてるねん。

【コミットゲーム】
人間の生き方は二つしかないねん。これはポスト構造主義哲学でゆうたら意味と強度や。意味的生き方とは目標を合理的に達成する生き方でな、これは人類史で見たら特異な、近代社会において初めて生じた生き方なんや。強度とは感覚的な生き方でな、人類は近代以前はこれによって何百万年もいきてきたんや。さて、強度的生き方はさらに2つに分けれるねん。これは内的享楽追求と外的享楽追及や。前者は壁紙を張り替えたり服を着替えたりして占いやったりして、小さなことで生きてる実感を獲得する生き方や。後者は薬物や性的快楽や暴力などの外的な刺激によって生きてる実感を獲得する生き方や。せやけどこれはな、刺激もしばらくすると慣れで感じんようになってしまうから、さらに刺激を亢進せなあかんようになって自らを傷つけることになりがちや。そこでそうならんような外的享楽追及として存在してるのがコミットゲームや。これは虚構の世界に敢えてコミットしてそれを真実として扱いながらも、どこかでそれを自覚してる生き方でや。例えばスケボー大会にでたりするねん。スケボーに意味無いことはわかってるよ、せやけど敢えてスケボーに意味を見出す大会に、世界にコミットして試行錯誤して楽しむのが無意味な人生を歓喜に変える人の智慧やないか?そう、この生き方こそアントニオ猪木の生き方やねん。アントン・フーズ、アントン・ハイセル、国会議員、動物保護、エネルギー問題、珊瑚保護、緑化運動、健康食品、健康器具、外交問題、日本プロレス、東京プロレス、新日本プロレス、UFO、猪木事務所、IGFなど様々な企業起こしたり社会問題取り組んだり格闘技やってる。共同体から隔絶し自己を相対化し、その上で生きてる実感を獲得するために次々とあらゆることにコミットしていくねん。自己を相対化できん安田は借金が正にリアルな自己に掛かってくるから苦しむねん。せやけど猪木は「どんどん借金しろ、人生に張りがでるぞ」てゆうて笑ってた。それはな、借金を返すゲームなんや。所詮人生に意味なんてないのやから、借金返す名分で次々と様々なことに挑戦できる、猪木はそうゆうてるのやで。

【格闘技の系譜学】
プロレスとMMAを分けて横に並べることは、格闘エンターテイメントの系譜を無視した全くの論理的でたらめなんや。なんでかゆうたら格闘技エンターテイメントの系譜は、プロレスから総合に移ってるからや。古代から中世、そして近世から近代になって現代になるのは、時代の系譜や。それと同様に格闘エンターテイメントにも歴史的変遷があるねん。大衆に熱狂されてたものも、いずれは役に立たんようになるよ。そこでそれは新しく生まれかわらなあかんねん。プロレスは近代社会での格闘エンタや。プロレスと総合を区別する無知なものもいてるけど、例えば中世と近代は同時に並べることができるのやろうか?格闘エンタも、プロレスと総合を並べることなんてできるわけないよ。それは格闘エンタの系譜を無視した倒錯や。既存のプロレスは、格闘エンターテイメントとしてはその虚偽性が看破されてる以上は、最早格闘エンタやない「何か」なんやで。おっちゃんはこれを筋肉ダンス倶楽部て呼んでるねん(笑点)。猪木の鋭さは、実存する自己、自己を相対化することから来る享楽のみに止まらず時代分析にも及んでるねん。

「オレはプロレスと格闘技を分けて考えていないから」
格闘技は時代と共に変遷して近代においてはプロレスとなったんや。せやけど現代に入るとプロレスは社会に合わんようになって廃棄されることになるねん。そこで格闘技は新たなる形にならんとあかん。そこで生まれるのが現代プロレスな訳やけど、その萌芽として競技性に偏向した総合が生まれ、それは演技性と結びついてついには現代プロレスとなるねん。そんな格闘技の伝統性においてプロレスと総合を区別することは伝統性を切断することや。それやのに区別して横に並べて捉えることは、格闘技の伝統性への無知から来る誤謬やないか?

「アメリカのプロレスは日本では受ける土壌が無い」
アメリカはキリスト教的一神教の宗教圏に属す宗教社会であって、日本は宗教の無い共同体社会や。前者では倫理(エートス)が、後者では道徳が醸成されるねん。アメリカは罪の文化であり日本は恥の文化なのはその為や。前者ではカリタス(隣人愛)に基づいたインディペンデンシー(自立)の伝統があるから、人とは違う己のやりたいことを主張することが尊ばれて自我が発達するねん。せやけど日本では協調性が尊ばれて脆弱な自己が温存されるから自我が発達せえへんねん。教育番組見てみい、セサミストリートでは絶えず子供らに「君は何がしたいんだ?そうしたいのなら言わなきゃ周囲に伝わらないぞ?」て問い掛けてる。日本では歌って踊ってはいおしまいや。以上のアメリカと日本の土壌の相違はな、アメプロの明らかな虚構に対する態度に表れるねん。アメリカ人は虚構を相対化してあえて入り込んで楽しめる余裕があるけども、日本人は余裕無いから虚構をそのまま受け取ってしまうねん。日本人がアメプロ見たら余裕ないから「これ八百長だろ?」で終いや。

以上でアントニオ猪木について、ある程度理解してもらえたやろうか?永源は「猪木さんは金を使うのが好きな人、馬場さんは金を使うのを忘れた人」てゆうてた。そうなんや、猪木は行動するために次々と金を使う行動の人なんや。馬場はターザンの「プロレスはプロレス」「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」のコピーを気に入ってたそうやけど、共同体を守るため既得権益確保に必死やったんや。ジャイアント馬場とアントニオ猪木、この二人は正に生き方は正反対やったんや。共同体を超越し自己すら超越するアントニオ猪木は、誰よりも自由やねん。猪木は生きてる限り、次々と挑戦し続けることやろう。そして死ぬときは、前のめりに死ぬやろう。

次回は小川直也や。


バックナンバー

第1回 前田日明
第2回 佐山聡
第3回 安田忠夫
第4回 長南亮
第5回 秋山成勲

posted by つるじょあ |07:25 | イノキゲノム | コメント(36) | トラックバック(0)
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