2007年08月23日
おっちゃんやで~。現代プロレス概論大不評やったなあ。せやけど次回中編は盛り上がるから楽しみに待っててな。学べるのはツル・ジョ塾だけでっせ!(笑点)
IGFにゲノムチルドレンが次々と集結してる。今回はコールマン、ランデルマン、浜中や。またコールマンのコメントがええがな、IGFはクレイジーではじまって、試合相手を当日に知ったとか、それでもブック飲んで頑張ったのに駄目だしされたとか、どこまでがほんまのことかはわかれへんけど、せやけどこのコメントはIGFの素晴らしさを良く表してると思う。まず予定調和を破るIGFの型破りさ。プロレスはリング外でもリング内でも予定調和やけど、総合かてリング外では予定調和のままや。オファーがきてそれで決められた選手同士がリングに上がる。これはなんやろ?人生の交錯においては戦う理由もないのにリングに上がるのは許されることやないよ。それはリアリティーに欠けてる。勿論今回の小川・コールマン戦に必然性はないけども、それはスライドしてる最中やからや。少なくとも予定調和だけは打ち破った。また選手にとっても先行き不透明でどないなるかわかれへんから、不安にもなるやろう。せやけどこの不安がええねん、この不確定性をおもろい、と感じられるもんが天下を取る。これからの格闘技は現代社会同様に流動性が高まるよ、プロレスみたいにベテランがいつまでも上で胡坐を書ける時代やないねん。また「闘いに激しさが足りなかった」の駄目だしは、IGFらしいな。フライが、プレデターが、WAKASHOYOが、モンターニャがやってくるねん、いかにコールマンとて闘魂なかったら藤原に竹刀でなぐられてまうよ。これがIGFなんや。またランデルマンもようわかってるわ。「ボス(猪木)の言うようにオレもプロレスは観客を意識した高度なMMAだと思っている」、これこそ皆さんもおわかりのことやとおもうけど、演技性と競技性の統合、すなわち現代プロレスやないのんかい。おっちゃんはなんやかんや言うてみなさんがこのブログに来てくれるのは、どこかでランデルマン同様のことを思ってて、おっちゃんの主張にそれを感じてるからやと思ってるのやけど違うやろか?とにかく選手が正しく猪木の主張するプロレスを意識することは素晴らしい。浜中も「全力で潰しにいく」「闘魂の査定試合だと思って精一杯がんばります」ええ言葉やないか。小原にもにた危機感と、それでいて試されてるのが闘魂であるという意識、素晴らしい。たしかに格闘マニアからしたら今回三戦選手は二流の選手に見えるのかもしれん。せやけどゲノム旗揚げ前からおっちゃん言うてたことやけど、猪木がおる場所はIGFしかないねん。そしてその猪木が闘魂を注入していき選手が育っていく。闘魂とは己に打ち克つこと、物事は因果的にみなあかんのや。ボクシングの内藤や坂田みたいな自己主張でけへんやつはいらんよ、あいつらはサラリーマンや。これからは亀田みたいな野心持った、まってるだけやのうて自ら打ち出していくもんが勝つねん。
ほな。
posted by つるじょあ |12:36 |
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2007年08月23日
おっちゃんやで~。これからおっちゃんは現代プロレスの、格闘技がそれに至る歴史的必然性のメカニズムと、その理念と猪木の格闘技の理念との一致について述べたいと思います。全体を俯瞰した概論言うことで理論的かつ抽象的になることを了解されてください。
前編 現代プロレスへの発展過程
時代区分には古代・中世・近世・近代・現代があり、この区分の根底には生産様式の変遷があります。各々の時代における人間は各々の生産様式で規定され、人間はその時代時代に即した文化を形成し格闘技も時代に合わせて変化していく。こうして古代ギリシャのパンクラチオンに端を発する格闘技はランカシャーレスリング、フリースタイルレスリング、プロフェッショナルレスリングとなって、現代では新たなる形を取る訳です。ではその新たなる格闘技とは一体どのようなものなのやろうか?
それを理解するために歴史をさかのぼり、ここでは時代によって異なる公共性(社会一般における利害)に注目したいと思います。その範囲は古代ギリシャのアテネにおいては共同体(ある目標を達するための面識のある者たちの集合)とおんなじでした。なんでおんなじやったか言うとただ単に人口も少なく規模が小さいからで、社会と共同体が同規模やったからです。アテネでは公共性のある決断をする際にアゴラ言う広場に、後期にはプニュクスの丘に何万言う共同体の成員がみな集まってアテネ全体の利益について話し合いました。それゆえにここでは今日見られるような政治家と市民の分化、すなわち統治する者される者の二重構造はありません。分かりやすう言うたら全市民が国会に参加してたわけです。このような社会はソキエタス・キウィリス(政治市民社会)て言われてます。
しかし公共性の観念も社会思想史上18世紀~19世紀に掛けて大転換することになります。共同体同士が商業経済を行うとき、このやり取りを担うのは共同体と共同体の間に存在する商人たちやった。そして商業コミュニケーション圏が漸増的に拡大し産業資本家がある一定の階層をなすようになると複数の共同体が散在しその間を商業経済が担い、そして複数の共同体の集まりを市民社会て呼ぶようになった。つまり所属の異なる他人同士の集合体が商業経済でやわらかく繋がるわけです。このような社会がビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト(経済市民社会)て言われてます。
ここでの公共性は単に一つの共同体における利害を意味してたソキエタス・キウィリスの公共性とは異なり、複数の共同体における共生の条件が公共性となる。つまり単なる共同体であったソキエタス・キウィリスにおける公共性は共同体と等置やったにも関わらず、ビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトにおける公共性は共同体を乗り越えてある経済主体が一定のルールの下で共生する範囲内こそが公共性となった訳です。
せやけど時代が進み物質的欲求言う合意が広範に形成されるようになると、あたかもビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトの公共性がソキエタス・キウィリスの公共性であるかのように振舞われることになります。つまりこう言うことですわ、マスローによると人間の欲求には階層性があり、近代においてそれは物質的欲求の充足となった、そこでそれを充足するためには複数の共同体が一つにならなあかん。せやけど古代ギリシャと違い規模が大きすぎて面識圏内では振舞えへんから、そこで様々な手段で同朋意識を持つような宣伝を流布し、複数の共同体の集まりを一つの共同体と信じ込ませるように仕向けることになる。国家と国民、とされるものは実は無名戦士の墓や新聞などの印刷物、特定言語の標準化などによってさも同胞であるかのように思わせるような幻想の相互投射によって成立してた想像の産物やった。ここに想像の共同体としての近代国民国家が成立する。そうやって会うたこともないのに同じ国民として仲間である言う同朋意識が刷り込まれる。
日本では明治5年の学校教育令から同35年の高等女学校令にかけて近代学校教育における国民教育の流れの中、個人が所属するもっともも大きなものは国家であると人為的に刷り込まれていった。それを証拠に明治以前には国民意識は存在してなかったんや。今近代化しつつある中国が反日言う国民的目標で団結して近代化図ろうとしてるし、ナチスドイツはユダヤを外敵に措定してその結びつきを強化した。このように近代国民国家とは物質的欲求の充足言う国民的目標達成の為の装置なんや。
さて、このような近代におけるエンターテイメントはそういった想像としての共同体を維持すべく行われ、格闘技も例外やなかった。近代における格闘技は客観的演技性(ステレオタイプのいわゆるベタな役割を演じること)による予定調和の演出やった。面識の無い他人同士を同胞とする為に対外人路線が望まれるようになり、力道山や馬場、猪木などの英雄が紆余曲折を経て最終的には外敵を退ける予定調和によって人々にカタルシスを与えたわけや。外敵の襲来によって結びつきが強うなって、打ち倒すことにより人々は歓喜する。それはドラマでも漫画でも同様で、理想追求による秩序回復物語が反復されてた。ここでは競技性(真剣勝負)も主観的演技性(己ではない誰かになるのやのうて己がその役を演じること)も必要なかったんや。せやけど時代は変わる。
マスローの欲求階層論によると物質的欲求の充足が達成されると次は心的欲求の充足が望まれるようになる。物の時代の近代から心の時代の現代に変わるわけや。テレビや車や持ち家などの物を追っていた時代はおわり個々人の心の満足が問題となる。そのため現代ではエリートでも金持ちでも幸せであるとは言えんようになった。ものの豊かさ=幸せの図式は終焉したわけですわ。物質的欲求の充足言う国民的合意が喪失することにより国家規模の想像の共同性は失われ、それによって横の結びつきはのうなってしまうから道徳は衰退し隣は何をする人ぞ、そして異常者が跋扈するようになります。また心の欲求は合意不可能やから価値観は多様化することになる。ではこのような新しい時代、即ち現代における格闘技はどのようなものが望ましいのやろうか?
ここいらへんは難解でおっちゃんが責められそうやけど、どうかこらえてつかあさい。おっちゃんは悪うないねん、そもそも難しいことなのやから。これでもおっちゃん頑張ったんやで。こういった背景を踏まえて次回中編の現代プロレスの誕生となっていきます。
ほな。
posted by つるじょあ |08:44 |
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