2007年05月11日
猪木の現代における発言を検証する 本当のイノキゲノムが見えてくる!
現代プロレス語録 「元気があれば何でもできる」 まず猪木は実存主義哲学的発言を仰山してる。実存するとは自己自身へと近づくこと、すなわち自己超克のことや。今は競争社会、近代的な権利配分やのうて能力のある者のみがええ思いする時代や。門地、学歴は意味を為さない。こんな時代には闘魂、すなわち自己超克による成長が必須や。せやけど打ち克つその根本には情熱が必要や。なんぼ才能あってもやる気なかったら成長は無いよ。実存主義哲学では自己超克への意欲を情熱て言うのやけど、猪木はこれを元気として用いてる。実存の根源は情熱、闘魂の根源は元気、これはおなじことなんや。ブロディが見たバーニングスピリッツもこの情熱のことなんや。 「限界なんて無い、あるのは限界と言っている自分だけだ」 近代化以降人々は過剰に言語に依拠するようになった。複雑な社会がそれを要請するのやけど、言語に依拠する分行動するよりも頭で分析してもうて勝手に限界を設けてしまう。そうすることによって人は行動せんようになってしもうた。そうして人々は出来る範囲内で行動するようになり、自己自身を生きるのやのうて社会に、会社に隷属するようになってしまう。せやけど自己超克する人間は情熱に基づいた行動によって自己自身へと近づく。 「人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく」 実存しない人間に成長は無い、逆に言えば実存する人間はいくつになっても成長する。老いとは己に限界を設けた者に降りかかることであり若くして老いることがありうる。行動をせずにただ惰性に生きて死んだ目をした若者が果たして若いと言えるのやろうか。 「地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ」 いくら安全圏で語ってもそれは自我を温存するだけで何も生みださない、概念をいくら重ねても何も生み出さない。とにかくことを為すには何事も行動に移すさなあかんのや。 「オレは人生のホームレスだ。」 この様に実存する自己は単独者であり、単なる役割として本質規定でけるような所属する存在であってはならない。実存する自己は形だけ所属しても組織に埋没して社会の歯車になってはあかん。それは隷属することであり、自己自身から離れることなんや。 「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむ無かれ、危ぶめば道は無し。 踏み出せば、その一足が道となり、 その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」 危ぶむことは考えることや、なんぼ考えてても道は拓けん。目標を達成するにはまず踏み出すこと、行動した後に考えるべきなんや。そしてその考えることは次の行動を前提にするもんで無くてはならない。 猪木に近づくもんは猪木から離れ、猪木から離れるもんは猪木に近づく、これこそが自立言うことや。小川が猪木から離れることは猪木に近づく、すなわち自立した実存する単独者になることを意味する。猪木の言う気付きを供給され自立することこそ猪木イズムを継承したことになる。これら実存主義的な主張は猪木だけやのうて大概の成功者は口にするよ。せやけど猪木の真骨頂は実存を超えた発言をする所や。自己の実存を相対化する発言は以下の通りや。 「俺は二人いるんじゃないか、と思う時がある」 自己は近代的自我としての自己と快・不快を感じる選択主体としての自己がある。大抵の成功者は前者のみ、すなわち実存することのみを絶対視し、そのことのみに言及する場合がほとんどや。せやけど猪木は鋭い感性で近代的自我を見つめるもう一つの自己についても言及してる。前者の近代的自我とは社会で共生する装置に過ぎず真の自己でもなんでもない、主観的演技性や。それは後者の視座によって己を相対化し自己演出がでけるようになる。 「道はどんなに険しくとも笑いながら歩いて行こうぜ」 実存者である小川がこの言葉の前に「意味深な言葉ですね」て言うてる。小川がこれをどこまで捉えてるか分かれへんけど、自己を相対化してたら分かるはずや、すなわち人生は無意味やけど自殺する必要は無い、何でか言うたら人はまず生まれてるからや、すなわち人は基本的に生きている、死ぬことに意味は無い、ならばこの人生を楽しめ、そう言う意味でこれから自己超克する際の否定契機が与える生きてる実感を敢えて楽しもうやないか、そう言うことなんや。暴力でもなくセックスでもなく薬物でもないこの人生こそが人を歓喜へといざなう、その為には目的が大きければええ、それゆえの世界平和なんや。 「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」 馬鹿になれ恥をかけとはかしこぶったりえらぶったりして上げ底し己を実際よりもええように見せるのやのうて、失敗する愚かな道化となれ、そうすれば剥き出しの自意識が見えてくる。そうして初めてこれから迫り来る未踏の世界から調達する刺激が己に生きてる実感を与えてくれることを楽しめる、そう言うことを猪木は言うてるのや。 猪木の鋭さは、実存する自己、自己を相対化することから来る享楽、のみに止まらず時代分析にも及んでる。 「オレはプロレスと総合格闘技を分けて考えていないから」 格闘技は近代においてはプロレスやった。ボクシングやキックは所詮腕や立ち技に特化してる分格闘技それ自体を代表せえへん。パンクラチオンはレスリングとボクシングを合わせたもんやなかったか?それは時代と共に変遷し近代においてはプロレスとなった。せやけど現代に入るとプロレスは先のパンクラチオンなどと同様社会に合わんようになって廃棄されることとなった。そこで格闘技は新たなる形にならなあかん。そこで生まれるのが現代プロレスな訳やけど、その萌芽として競技性に偏向した総合が生まれ、それは演技性と結びついて現代プロレスとなる。そんな格闘技の伝統性においてプロレスと総合を区別することは伝統性を切断することや。それやのに別個のものと捉えることは格闘技の伝統性への無知から来るものやないか?猪木には近代において格闘技のトップとして業界を牽引してきた自負がある。切断して別物と捉えるのは既存のプロレスにすがり付く脆弱な実存しか持たない弱者のご都合主義やないか? 「アメリカのプロレスは日本では受ける土壌が無い」 アメリカはキリスト教的一神教の宗教圏に属す宗教社会であり、日本は宗教の無い共同体社会や。前者では倫理(エートス)が、後者では道徳が醸成される。アメリカは罪の文化であり日本は恥の文化なのはその為や。前者ではカリタス(隣人愛)に基づいたインディペンデンシー(自立)の伝統があるから人とは違う己のやりたいことを主張することが尊ばれ自我が発達するけども、日本では協調性が尊ばれ脆弱な自己が温存されるから自我が発達せえへん。教育番組見てみい、セサミストリートでは絶えず子供らに「君は何がしたいんだ?そうしたいのなら言わなきゃ周囲に伝わらないぞ?」て問い掛けてる。日本では歌って踊ってはいおしまい。この様な土壌の相違はアメプロの明らかな虚構に対し、アメリカ人は虚構を相対化してあえて入り込み楽しめる余裕があるけども、日本人は余裕無いから虚構をそのまま受け取ってしまい嘘を感じ取り楽しむことがでけへん。 猪木最新発言 猪木:風船を膨らませて、ちょっと油断するとシューって空気が抜けるじゃないですか。その時にまたアイデアを出して、企画を考えたりしてまた風船を膨らませるっていう。その繰り返しですよね。 つる:アホが亀田や石原真理絵を直ぐ飽きられて消える、あんなん一過性や、て言うてたけど、何言うてるねん。その一過性を絶えず供給するのがスキャンダル女優であり現代プロレスやろ。 猪木:これまでそういうチャンスがあったにも関わらず、何でお前が貧乏したりオタオタしてるんだよというね。 つる:既存プロレス3団体のトップらになんでローカルで小銭稼いでるねん、気付き供給したったのにアホか、て猪木は言うてるんや。稼ぎたいんやったら競技性と演技性の統合やろう、と。 猪木:そりゃ本人に責任があるんだけど、業界全体としてももっと違う発想があればね。 つる:現代のレスラーには新システムを作る義務があるやろ、て言うてるのや。いつまでおんなじことやってるねん。 猪木:まあ、これ以上言うと、一人ずつ名前を挙げなきゃいけないしね。正直言えば、そういう恨みも買いたくないんで(苦笑)。 つる:誰のこと言うてるかわかるやろ?(笑点) 猪木:俺は野球じゃねぇや、サッカーじゃないやっていう、そういうものに対してライバル心は持ってるんですよ。 つる:な、猪木は野球やサッカーを敵視してるねん。全くおっちゃんの言う通りやったやろ。 スポナビコラムより抜粋 「Stay hungry, stay foolish.」 ハングリーであれ。馬鹿であれ。 スティーブ・ジョブス
posted by つるじょあ |10:54 |
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