2007年05月06日
全日大量離脱問題、三沢らは裏切ったのか? 伝統性の論理構造
競技性導入を声高に叫ぶ猪木に対して「かつて猪木がやってきたことは八百長であり、その猪木がプロレスラーは強くあらねばならない、と主張するの説得力に欠ける」て言うてる奴がおる。せやけどほんまに猪木のプロレスは八百長やったのやろうか。ここで問題になるのはプロレスの伝統性の問題や。そこでその前梯作業として伝統性が深く関わってる表題の問題を取り上げたい。 まず伝統性の論理構造について説明するで。例えば日本語の伝統性があったとして、最近は乱れてるとか言われてる。年輩者が伝統的存在である日本人の若者が間違った日本語を使うことによって日本語の伝統文化破壊してる、日本語の伝統性を墨守すべく正しい日本語を使うべき、て非難してる。せやけどこれは滑稽なことでな、知識社会学者のマンハイムは伝統性の論理構造について、真の伝統性は守るべきものと指でさせるように外部に抜き出すものではなく常に伝統文化に携わる人々の内部に、人々と共に同時的に存在している、逆に守るべきと指示された伝統は次々と時間の只中で生起している歴史の連続性にある伝統性を外部へとその連続性を断って抜き出した過去の伝統性であり、それは今も尚連続的に生起する真の伝統性とは無関係である、て言うてる。つまり日本共同体における成員に日本人的伝統性が常に貼りついてるとしたら、例えば大阪弁でも正しい日本語になる。これはコギャル語でも同様でな、チョベリグ、チョベリガンブロン(超顔面不細工ロン毛)でも日本語て言えるわけや。共通語もってきてこれが正しい、言うのは恣意でしかない。大体日本人のコミュニケーションに用いる言語は世界で最も変化が激しくてな、様々な言語を取り入れて工夫し絶えず更新してるねん。それが日本語の伝統文化なんや。 同様のことは全日の大量離脱事件でもいえる。三沢らはクーデターを起こして全日を裏切りNOAHを作ったかのように見える。せやけどそれはほんまのことなんやろうか。全日の伝統性、すなわち全日イズムでも馬場イズムでもええのやけども、これは全日の選手が全日の選手であると自己を本質規定する限りにおいて全日の選手には常に伝統性が歴史的に貼りついてる。そしてその伝統性に基づいた上で新しい選択をしていく。三沢は俺たちは裏切り者やないと言いながら次のように述べた。「馬場さんのプロレスを受け継ぐとは馬場さんのプロレスを少しづつ変えていくことだ。」馬場夫人や川田は三沢らを裏切り者と断罪した。せやけどほんまに三沢らは裏切り者なのやろうか。馬場夫人は「馬場さんならそんなことはしなかった」と三沢らの新しい選択を否定してたそうや。これは馬場さんを愛するが故の行動やと思う。変わることで馬場さんが忘れ去られてしまう、て思うたのやろうな。せやけどそれは馬場イズムを継承することになるのやろか?夫人のやったことは次々と時間の只中で生起している歴史の連続性にある伝統性を抜き出した過去の伝統性を守ろうとすることであり、それは伝統性とは無関係な過去の伝統性を押し付けることやったんや。馬場かておんなじこと反復してたのやのうて、客が帰り際に言うてる言葉を影で聞き耳立てて常に興行に反映さしてきたんや。馬場は三波春夫の「お客様は神様です」言う言葉に「この言葉を使った人は本心から言っているのだと思う」と共感寄せて集客の大変さ、換言したら絶えず変えていく絶えず更新していくことの大切さを痛感してた。川田は三沢らを脱線していった、一度脱線した列車は元に戻らない、て言うてたけどそれに対して三沢は馬鹿にしながら「脱線したのはどっちだよ」と非難してた。結論としてNOAHは全日イズムを、馬場イズムを継承する団体であり、夫人、川田は全日の伝統性とは関係が無い、武藤新体制は王道とは別の新しいプロレス、言うことですわ。現在の全日において王道言う言葉に違和感があるのはその為なんや。最後に書くと、夫人は最終的には当時を振り返って反省してたそうや。 おっちゃんは過去のプロレスの思い出して癒しを提供する気はないよ。なんでか言うたらそれは新しいものを何も生み出すことは無いからな。せやけどプロレスの発展のために時には過去を振り返ることは必要やと思う。次回は以上のことを踏まえて猪木は八百長やってたのか、について語りまっせ。
posted by つるじょあ |11:42 |
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