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  <title>現代プロレス論～近代プロレスの超克～</title>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-05-13T18:03:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-13T18:08:29+09:00</modified>
    <title>『ＤＲＥＡＭの陰鬱な黄昏　世俗的楽観論を超越する科学的客観論』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 ＤＲＥＡＭ３はそこそこ盛り上がったようやな。これを受けてＤＲＥＡＭはこれから上昇していくのやないかゆう楽観論がネットでは跋扈してるようやけど、それは間違ってると思う。 まず絶賛されたアルバレスｖｓハンセン戦は、まさしくマニアのための戦いやった。アルバレスもハンセンもそもそも物語り持ち込もうゆう気概がないし、高い競技性を発揮してたけどもそれがなんやゆうのやろうか？ボクシングでも白熱した試合はあるけども、それで誰が振り向くねん。喜ぶのはマニアだけでっせ。わざわざ足運ぶマニアは会場でスタンディングオベーションもするよ。せやけど銭儲けは世間振り向かしてなんぼやろ？近代社会ではナショナリズム背負って戦ってたから個人で物語り紡ぐことなく盛り上がったりするよ。せやけど今は現代社会や、なんで二人は殴り合うてるねん。アルバレスて誰やねん、ハンセンて誰やねん。最後のお互いの讃えあいも美談やけど、それは現代社会における世間が振り向くような物語とちゃうよ。なんで世間が振り向くような物語を紡いでいかへんのやろ。つまり銭のもうけ方しらんゆうことですわ。こんなことやってたら益々世間と隔絶することになるやろうな。何が上半期ベストバウトや、興毅ｖｓランダエダ、大毅ｖｓ内藤と比較してみたらわかるやろ、エンタメなんやで、世間に注目されてなんぼなんやで、マニアの物差しで測定しててもあかんのやで。 次に宇野ｖｓ川尻や。宇野が石田退けた後、川尻が宇野に挑戦状たたきつけたやんか。川尻ほんまに怒り狂ってたな(笑点）。これこそおっちゃんが常々必要として口をすっぱくして指摘してる、まさしく物語り、まさしく因果性、まさしくハプニングや。せやけどこれもよう注視する必要があるねん。そもそものこの遺恨の始まりは主催者の不備からやんか。前興行が失敗したからテコ入れで人気選手の宇野をたいした実績もないのにシードで出場さしたことによる遺恨や。これは不備である以上偶然性やし、宇野自身は亀田と違うて諸共同体やなしに小さな一つの共同体で好感振りまいてるローカルな英雄やし、川尻も敢えて盛り上げるために友情物語にコミットしてるのやのうて純粋に仲間意識から立ち上がってる部分にごっつうレベルの低さ感じるねん。確かに結果的には遺恨の物語り紡いでるから、現代格闘エンタの理念である競技性と演技性の統合が起こってて盛り上がってるといえるやろう。せやけど結果論やんか、長い目で見たら高度な必然性がないから、先行きは不安としかいいようがないわ。 今回おっちゃんは手厳しいことゆうたけど、楽観的にＤＲＥＡＭマンセーしてる諸氏に苦言を呈したかったんや。こんなことしてて野球やサッカーに勝てるか？競技性のみへの拘泥、体制の不備による偶然性、選手のローカル的態度、コミットできへん未熟な自我、どれとってもあかんやんか。課題は山積みでっせ。偶然の物語待つよりも必然の物語を紡ぐねん。楽観論ふいてるときちゃうやろ、危機的状況は今もそのまま温存されてるねんで。 ＤＲＥＡＭよ、偶然の、高度には必然の人生の交錯の場であれかし！ 次回はメイヘムについて書くわ。ほなな。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-05-13T14:28:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-13T14:33:13+09:00</modified>
    <title>『監獄の無限指定　亀田家を縛る近代的獄鎖　近代的体制を超克せよ！』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 端的に亀田を称賛したり非難したりする一般的観衆は、亀田の手の平で踊らされてることに無自覚な無垢なお客さんやからそれはええとして、ここで指摘したいのは価値観から離れて冷静に亀田の優秀さを認めてる人間による、現所属ジムからの離脱を肯定する意見や。 類稀なる資質を持った現代の英雄亀田家が所属ジムによって押さえつけられてたのは事実や。せやけど離脱したからゆうて、野に放たれた虎がまた咆哮するかとおもてたらそれは楽観的やと思う。なんでかゆうたら彼らを押さえつけてるのはジムを越えた協会やからや。 クラブ制度によって肥大化した権限を確保してる協会は、その体制の維持の為にそれを脅かす関係者をその権限で自由に取り除いてしまうねん。こうしてジム所属の強制による選手の拘束と、選手の移籍における高額な移籍金の発生による移籍の困難さと、多額の加盟料による新規ジムの加盟への敷居の高さと、ジムの会長職を世襲制にすることによる純血主義によって、新陳代謝を回避するねん。 近代社会の世間ゆう幻想の価値観を引き合いに出して、選手個々人の伸ばすべき個性を押さえつけ没個性的な選手を量産していく協会。その結果チャンピオンがこれだけそろってるにも拘らず絶望的な不人気や。以上を踏まえるとほんまに現所属ジムから離脱したからゆうて、それでええとおもうか？ 繰り返しゆうとな、亀田の態度に対して価値観に基づいて批判してる人間におっちゃんは話しかけてるのとちゃうねん、それは大事なお客さんやからそれでええねん。怒ったり時には感心したりして一喜一憂してるから銭おとしてくれるねん。そういった価値観から離れて客観的に亀田のジム離脱を肯定してる人間におっちゃんは話しかけてるのやで。 世間は各々の共同体によって理由は異なるけども、亀田のパフォーマンスを求めてるねん。そやからあれだけ世間を巻き込んで注目浴びたんや。世間は今競技自体やのうて、それを意味づけする関係性、すなわち演技性を求めてるねん。亀田家の自己演出は、近代の古くさい共同体の論理を越えて諸共同体を横断してたんや。 新ジムに移籍しても体制は温存されてるから亀田の苦戦は続くよ。これからも結果的にはボクシング上昇のために体制打破の問題提起をしていくことになるのやろうけど、そない社会闘争にコストかけんと自由に表現して欲しかったなあ。おっちゃんはかつてゆうた、敵は三方にあり、それは対戦相手と世間とそして体制や。 ほなな。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-05-10T20:57:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-10T21:03:16+09:00</modified>
    <title>『低迷する格闘エンタを救う救世主　その名も魔王、秋山成勲　近代を逆に行け！』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 プロレスに変わって格闘エンタとして人気を博してた総合やったけど、ここ数年は低迷してきてる。これは当然のことでな、格闘エンタの黎明期は直接性に応じてたらよかったのやけど、成熟期ではさらに関係性を求めるようになるねん。つまりいつまでも初期の反復やってても、時代に乗り遅れることになるねん。今格闘エンタにさらに求められてるのは関係性、すなわち演技性なんや。 演技性とは選手個々人の個性であり、その個性的個人の演出に基づいた物語なんや。それが成熟期の現代人の心を惹き付けるねん。そうゆうわけでな、初期の直接性に応じた競技性のみを反復してても誰も振りむくことはないねん。競技自体に捉われるのはマニアだけや。競技に付随した物語、選手の持ち込む人生がそのエンタメの浮沈を決定するのやで。 現代で注目される物語とはどの様なものなのやろうか？近代社会では国家規模の大きな共同体が単一に存在してて、価値観は平板やった。せやけど現代社会では価値観が多様化して小さな共同体が散在してるのが現状や。近代社会では一つの共同体に媚びてたらよかったのやけど、現代社会で媚びてたらそれはローカルな一つの小共同体の英雄が精一杯になるねん。そこで現代的英雄は諸共同体を横断せなあかん、つまり社会に完全に反目されんギリギリの所でスキャンダル・ハプニングを起こしていくねん。こうして価値観の異なる諸共同体の成員は、各々が称賛したり非難したりするのやけど、こうしてファンにもアンチにも注目されるようにすることが、現代における英雄な訳や。 物語を紡ぐゆうことは、嘘をつくゆうことや。嘘とは普段自己として生活してる虚構の自己のことでな、自己とは共生のための装置であって虚構でしかないねん。人間に生きる意味なんてないし、借金苦にして自殺やなんてそれは虚構を真実と受け取めてしまってる証拠や。親が死んだら泣くけども、キャベツが壊れたら泣くやろか？この世は物質的世界であり、それ以上でもそれ以下でもないのは分かってることやないか？つまり普段の自己とはロマンであり、幻想であり、虚構なんやで。この虚構としての自己を自覚しつつも操作する高度さ、これが高度な嘘なんや。 そさて秋山やけど、あいつは素晴らしい可能性を秘めてるねん。あいつは劣等感の塊でな、自己顕示欲であり怨恨感情であり承認欲求でありさまざまなものが動機になってる。そしてそれゆえにあいつは動物的な感性になってて嘘をつかんでも物語が噴出するねん。自覚的に表現するのが高度な嘘やから、無自覚的な嘘は程度が低いといえるやろう。せやけどあの野獣のような感性は他を絶してるねん。例えてゆうたら、あいつはパンドラの箱なんや。あけたら何が起こるかわからん、魔物が巣食ってるねん。 おっちゃんは前の記事で秋山を否定したのにここで肯定することは、矛盾してるようにおもえるやろう。確かに秋山は表現以前的な部分で問題があるよ。現代格闘エンタは試合間と試合で表現していくものやから、その試合でルール違反やってたら表現できひんやんか。せやけど秋山は劣等感を誰よりも持ってる分可能性があるねん。ルール厳守してても中身からっぽやったらおもろないやろ？そうゆう訳でな、反則についてはなるべく押さえるよう学習して欲しいところやな。 せやけど、使い道誤ったら大変なことになるねん。亀田は意識的に諸共同体を横断してる。秋山は無意識的に諸共同体を横断してる。亀田は社会を相対化した上で振舞ってるけど、秋山は社会への感受性無しでやってるから、無意識的な分社会の枠を超える可能性があるねん。大毅は人投げたらあかんことようわかってるねん。車はぶつけるものもほんまにおもってるわけとちゃうねん。感性として、感覚として悪さしてることはようわかってるねん。せやけど秋山はヌルヌルが悪いことは知性としては分かっててもその程度でな、感性としては、感覚としては分かってないねん。そやからばれて非難されても運が悪かった程度にしか感じてへんのとちゃうかな。 現代成熟期の格闘エンタは高度な嘘をつかなあかんのやけど、そうゆう意味では秋山の嘘に高度さはないよ。動物的な自己やから、長期的視座で見たらどつぼにはまる可能性があるねん。せやけどあれだけ潜在性あるののやから、期待してまうわ。 ほなな。</content>
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    <issued>2008-05-09T15:52:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-09T15:55:07+09:00</modified>
    <title>『桜庭のグランプリ参戦拒否の理由　前提条件のハードル』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 桜庭はいつまでもグランプリを拒否してるやんか。これはなんでかゆうたらな、秋山との対戦を拒んでるからやとおもう。 最初に桜庭が秋山と対戦したんは、秋山を信頼してたからや。つまりルールを厳守した上で戦ってくれるゆう信頼や。誰かて信頼が前提にあって戦うやろ？最初からルール無視することわかってたら誰が戦うかいな。それは野球でもサッカーでもあらゆるスポーツに言えることや。 結局秋山は桜庭の信頼裏切って、その後桜庭の信頼を回復するまでには至ってないやんか。もしここでグランプリ参戦してみい、それはおなじく参戦してる秋山の背信行為を認めてしまうことになるねん。前提となる条件すら守れんもんと、なんで対戦可能性のあるグランプリに出場せなあかんねん。筋からしたらまず秋山が信頼回復の為にもっと桜庭に対して謝罪をすべきやったんや。それを中途半端に済ませてるからこないなるねん。 こういった遺恨を試合に昇華せえ、てゆうてるやついてるけど、それは違うやろ。なんでかゆうたらな、試合の前提条件を充足してへんから試合やれへんてゆうてるのになんで試合で昇華できるねん。論理的に出来るわけないやろ。桜庭は秋山のことはこれからも避けて通るやろうな。 桜庭はな、相手が誰であれ逃げ出す奴とちゃうねん。体重が合うてて相手に最低限の信頼さえあったら誰とでも戦うよ。 あと秋山だけやのうて、主催者に対する信頼も揺らいでるよな(笑点）。主催者はん、ええかげんなことやってたら前提条件すらクリアできんと、皆離れていってしまうで。 ほなな。</content>
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    <issued>2008-05-09T15:08:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-09T15:12:06+09:00</modified>
    <title>『青木に掛かる期待　下せ鉄槌、鳴らせよ目覚まし時計　眠れる獅子か？それとも賞味期限切れのアンパンか？』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 青木ｖｓ永田やけど、また主催者側の不備によってこじれてるようやな。スケジュールがスケジュールやからこうなることは想定できたはずや。せやけど宇野ｖｓ石田でもそうやけど、何故かおもいもよらんところで遺恨がうまれるなあ。猪木や小川の紡ぐ遺恨の物語は、あくまで表現としての遺恨であって主催者の不備から生まれるような遺恨はレベルが低いのやけど、遺恨であるがゆえに盛り上がるのも事実や。青木ｖｓ永田、宇野ｖｓ石田は注目されることになるやろう。 さて、本題や（笑点）。永田がスケジュールずらされたことに対して主催者に不満を持つのは当たり前のことや。勝っても次の試合との間隔も狭まなるし踏んだり蹴ったりやで。せやけどここは我慢して戦いに昇華させようとしてる。そこで余計に口挟んだのが永田兄や。総合とプロレスは違うし、体重も違うから巻き込まれることはないとタカをくくってたのやろうなあ。青木や主催者に不満を吐露したんや。弟の代弁のつもりやったのやろうか？ これを見逃す青木やなかった。「お兄さんは関係ない」と正しく喝破した上で、大晦日での兄貴との対決をぶち上げたんや。永田兄と戦うことをおいしいとおもったのやろうな。おっちゃんは青木ようしらんのやけど、見直したで。半分は軽口にしても、簡単に言えるようでおいそれと口にできることやないよ。確かに部外者で擬似格闘技やってるもんに、「戦ってなんぼ、生き様魅せてなんぼ」なんて言われたくないわな。 新日にはかつて黒船が来航して開国を迫ったやんか。それが小川であり、ミルコやったんや。今回の青木はおそらくそれほど話拡がることはないやろうけど、それでも期待してまうわ。 最後に、おっちゃんが作った永田ア〇パンマンの替え歌や。 １． プロレスするのが幸せ　安全圏でおーどる 本気でなぐりー合ーう　そーんなのはいーやだ 忘れないでシナリオを　泣かさないで僕を だから僕はとーぶーんだ　ロープまでー そうさア〇パンマン　弱気の君は 行くな、マニアの夢まーもるたーめー ２． ベルトを持つのが幸せ　仲間内で回し合う 戦い合ってとーりあうー　そーんなのはいーやだ 忘れないで順番を　抜かさないで僕を だから僕はとーぶーんだ　場外までー そうさア〇パンマン　弱気の君は 行くな、リーマン生活まーもるたーめー ３． 白目をむくのが幸せ　マニアが見てよーろこぶ 戦いで世間を振り向かす　そーんなのはいーやだ 忘れないでプロレスだ　混同しないで総合と　 だから僕はとーぶーんだ　コーナー最上段からー そうさア〇パンマン　弱気の君は 行くな、既得権益まーもるたーめー ４． 敬礼するのが幸せ　弟がよーろこぶ ミルコと戦ってリベンジだ　そーんなのはいーやだ 忘れないでブックを　殺さないで僕を だから意識がとーぶーんだ　左ハイでー そうさア〇パンマン　弱気の君は 行くな、プロレス村をまーもるたーめー おい永田よ、おのれは世間に、そして体重軽い青木にすら馬鹿にされてるのやで。これはプロレスラー全体にいえることや。中邑よ、中西よ、馬鹿になって恥かいてもええから外に出るんや。他団体はええけども、闘魂を受け継ぐ新日は格闘技最先端をいかなあかんねん。迷わず行けよ、行けば分かるさ！！！ ほなな。</content>
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    <issued>2008-05-08T11:28:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-08T11:41:16+09:00</modified>
    <title>『総合のルーツはプロレスである　後編』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 文明化の過程を経て近代社会は、暴力の応酬から非暴力の応酬に変わることになるねん。こうして命を掛けてた格闘技は相手を殺すことなく勝敗を決する近代スポーツとなったんや。最初は特権階級の余暇の過ごし方やったスポーツは、人格形成のための学校教育に取り込まれて、やがてはアメリカにおいてエンターテイメントとなるねん。こうして格闘技とは異なる格闘技エンターテイメント、プロレスリングが誕生したんや。 【近代イデオロギーとしてのプロレス】 時代の区分は生産様式の区分でもあるねん。ある生産様式にはそれに照応・反映した社会が形成されて、その社会に住む人々の政治・道徳・宗教・哲学・芸術などの思想が規定されるねん。このような生産様式・社会的立場に制約された思想をイデオロギーてゆうのやけど、まさしくプロレスは近代のイデオロギーなんや。近代アメリカで支持を集めたプロレスは、近代日本においても戦後すさんだ大衆の気持ちを楽しませてくれた。戦後復興期の英雄は美空ひばりであり力道山やったんや。せやけど時代は変わるねん。物の豊かさを追い続けてた近代大工業やったけど、それが達成されると生産様式は情報化産業にその産業構造を変えることになるねん。こうして近代社会は終焉して現代社会へと移行していくことになるねん。近代イデオロギーとして近代社会で脚光を浴びてたプロレスは、現代に入って古くさくなってもうたんや。古くさくなったとは現代に即さんようになったゆう意味でな、例えば洗濯板ではもう誰も喜ばへんねん。近代格闘技エンターテイメントが現代社会に照応するような新しいものに変わっていかなあかんのは歴史的必然ですわ。 【イストワールとしてのパンクラチオン】 プロレスのルーツはパンクラチオンにあるて信じられてきたやんか。このイストワール（歴史）は勿論間違ってるのやけど、なんでパンクラチオンが持ち上がったのやろうか？これを端的に誤謬として退けることはできへんねん。このことについて説明するわ。 近代オリンピックが、スポーツを国家規模から世界規模に拡大さしたのは誰でも知ってることや。クーベルタンの「参加することに意義がある」のアマチュアリズムを端に発した近代オリンピックやったけど、この近代オリンピックのルーツも古代オリンピックとされてきた。当然古代オリンピックと関係なんてあるわけないのやけど、近代化に当たって欧州人は憧れをもって見つめてた古代オリンピックを近代化に利用することにしたんや。こうして古代オリンピックの競技への理解が不十分なままで、あるいは意識的に一部を黙殺した上で、古代オリンピックは欧州の近代化に利用されていったんや。競技者はアマチュアであり、平等な自由市民であり、目指すのは無報酬の栄光のみである、このような古代オリンピックのイストワールが信じられてた。 中国も近代化するために、日本に抑圧されたイストワールや、建国４０００年のイストワールを主張してるし、ナチス・ドイツもギリシャの後継者として自称してきたことを、ベルリンオリンピックの演出と成功によってそれを可視的にさした。これは近代国民国家ゆう虚構の共同体を動機付けるためのものでな、プロレスも無関係なパンクラチオンを利用したんや。 実際中国の主張する日本による抑圧は誇張されてるし、４０００年の歴史ゆうても同民族の政権交代やのうて別の民族の殺し合いやから４０００年の歴史の連続性はないし、ベルリンオリンピックでも孫や南が表彰台で悦に浸ってるとリーフェンシュタールは感動してたけど、実際は朝鮮人やのに当時朝鮮は日本の植民地やったから国家が君が代であることに悲しんでたのやし、オリンピックも古代では無報酬所か銭もろてたし、平等所か奴隷制は存続し女性は競技場への出入りは禁止されてたし、暴力の応酬で人が死ぬこともあったんや。そもそもアマチュアリズムを謳ってたクーベルタン自身も、女性の競技への参加に否定的で、またナチスによって年金を受け取ってたんやで。 このようにな、パンクラチオンのルーツは近代化するに当たって作り出された虚構のイストワールやったんや。せやけどこれを果たして端的に誤謬として退けることが出来るのやろうか？虚構のイストワールに動機付けられて近代化を支えてたのやから、「パンクラチオンがルーツなんて誤謬」の言は、虚構の共同体を支える「虚構性の真実性」を見誤ってるとおもう。虚構が誤謬やったら近代化した日本を否定するべきやし、今近代化しようとしてる中国も「中国国家は虚構の共同体であり国家と言う概念は誤謬」と否定するべきやろ？ジョシュはプロレスのルーツがパンクラチオンであることで動機付けになってるのやったらそれでええのやないか。わざわざ否定する理由がどこにあるのやろ？これがおっちゃんの考え方や。 【プロレスと総合の区別】 現代ではなんでプロレスと総合が分けて捉えられるかゆうたらな、それは歴史を無視して単に客観的に捉えてるからや。そらプロレスと総合は単純に比較したら違うよ。せやけど歴史的に捉えたら格闘エンターテイメントなのやからおんなじものゆうことになるねん。明治・大正・昭和は中身は違うけどもおんなじ日本やろ？大正の日本が偽で、昭和の日本が真なんてどないしていえるのやろうか？なんで区別されるかゆうたらな、古くさいことを今でもやってるからなんや。そら昭和で江戸時代のチョンマゲ結ってたら笑われるやろ。今竪穴式住居で生活しててみい、携帯代わりに狼煙上げてたらそら嘲笑されるわ。ほんまはプロレスはかつての総合のルーツとしてリスペクトされるべき所をやで、今でもチョンマゲ結って弓矢で野良犬追ってるから笑われるねん。 【格闘技エンターテイメントとしてのプロレスと総合】 プロレスも総合も、なんのために戦ってるのやろうか？力道山のプロレスは、けして宗教・祭祀でもなければパンクラチオンでもないしアマチュアリズムでもないねん。これはな、エンターテイメント、つまりお客さんを喜ばして銭もうけするためやないか？そうなんや、総合もプロレスもやってることはおんなじやねん、ただ出し物が変わっただけの話なんや。総合が競技性を帯びてるからルーツはパンクラチオンにあるとか、プロレスに競技性がないから総合とは無関係な別物とかゆう規定は、浅はかな解釈でしかないねん。競技性の勃興は観客のニーズに応えた結果なんや。総合のルーツはプロレスにこそあるねん。近代格闘技エンターテイメントであるプロレスは、時代が変わって大衆からの要求が変わったから現代格闘技エンターテイメントである総合に変容しただけの話でな、総合の現代初期におけるブームは偶然的バブルやのうて、時代の要求、時代の必然やったんや。これは当時の観客の感性が全てでな、近代におけるプロレスは観客を熱狂さしてたし、現代における総合は観客を熱狂さしてた。これが格闘技エンターテイメントの伝統性なんやで。 【総合の先にあるもの】 最後につけたしやけど、プロレスから総合に至るのが必然性であるように、総合から現代プロレスに至るのも時代の必然や。そしてその現代プロレスを明確に理念として目指してるのがＩＧＦなんやで。最近は凋落傾向にある格闘技やけど、プロレスが衰退したと同様にその役目を終えつつあるねん。 亀田、パリス・ヒルトンみてみい。この価値観が多様化した時代に全国的に人の注目を浴びる彼らにこそ、現代プロレスのヒントがあるねん。諸共同体を横断して完全に世間と反目せえへんギリギリの範囲内でスキャンダル・ハプニングを提供する新しい格闘技エンターテイメント、これが現代プロレスなんや。 ほなな。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-05-07T16:54:00+09:00</issued>
    <modified>2008-05-07T17:02:34+09:00</modified>
    <title>『総合のルーツはプロレスである　前編』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。一般にはプロレスと総合を分けて考えてるのが普通や。せやけどそれはちゃうねん、ほんまはプロレスが発展したもんが総合なんやで。そのことについて説明さしてもらうわ。 プロレスのルーツはランカシャーレスリングにあるて一般的に言われてるけども、これこそ誤謬やとしたら皆は驚くやろか？このことを理解するためには、当時の社会的背景を知る必要があるねん。 【近代スポーツの誕生】 近代以前において政権交代は、暴力の応酬によって行なわれてきた。つまり為政者を倒すことによって倒したもんが成り上がるねん。せやけど生産性が向上してきて暴力の応酬の必要性が失われてくると、その暴力は排除されるようになるねん。これが文明化の過程や。中世では殺しあってた武士も近世では専制君主の下に廷臣として仕えるようになって、近代では遂に暴力の応酬から議論の応酬に置換するように至ったんや。つまり近代の政権交代は、非暴力の応酬ゆう多党による議会制度によって行なわれるようになって、完全に暴力は排除されるようになるねん。せやけど議会制度を反暴力として捉えるとしたらそれは誤ってるねん。なんでかゆうたらこれは国家による暴力の独占であって、一方では法の措定と維持によって、他方では軍隊・警察による暴力に対する暴力によって行なわれる近代国家による暴力の独占に過ぎひんねん。 近代国家による暴力の独占が世界で始めて起こったんは、当時最も進んでたイギリスやった。そのイギリスの支配層であるジェントルマン(地主階級）は都市と田舎の両方に住居を構えてたのやけど、余暇を楽しむために下層階級の競技（ボクシング・クリケットなど）を上級階級に合わせた形で利用することになるねん。こうして元々地域共同体の競技が、地域を越えて広まる嚆矢になったわけや。これがスポーツ（余暇の過ごし方）の起源でな、スポーツの誕生は近代社会と同時的やねん。せやけどこの頃のスポーツは、ジェントルマンが有する特別な存在でしかなかったんや。 【近代スポーツの国内における拡大】 さて、産業ブルジョアジーが勃興しジェントルマンが衰退するようになるとスポーツは変容することになるねん。産業ブルジョアジーが支配層になるとな、スポーツは一部の優雅な楽しみから多数の教育に利用されることになるねん。生徒の自主性や責任、倫理観や人間関係の形成などのため学校教育に盛り込まれるようになってな、こうして学校間の対抗戦が期待されるようになると各々の学校によって異なってたルールが一般化されて、こうして統一ルールのスポーツが生まれることになるねん。こうして人格形成の為に利用されたスポーツは、普遍化していったんや。 【近代スポーツの世界的拡大】 スポーツゆうイギリスの言葉は今日的にも様々な国で使われてるのやけど、これはスポーツの誕生がイギリスが最初でありそれ以前にそれに変わる言葉がなかったことを意味してるねん。つまりスポーツはまずイギリスで始まって、それから世界に広まっていったんやで。ではどないしてイギリスのスポーツは世界に広がることになったのやろうか？ イギリス帝国主義は様々な国を植民地化していくのやけど、このことと近代スポーツが世界的に拡がることは密接な関係があるねん。つまりイギリスの兵士や商人が植民地で現地人とスポーツを楽しんだりするねん。こうしてイギリス国内のスポーツが世界に拡大するわけや。今日的な世界のスポーツのほとんどがイギリスに起源を持ってるのはそのためなんや。かつては不連続性でローカルに閉じてたスポーツが、交通手段の発達と時代の情勢によって連続性になりローカルを飛び越えて世界に伝播することになったんや。 【近代スポーツのエンターテイメント化】 さて、イギリスはアメリカの１３州を植民地にして支配するのやけど、この時にイギリスのスポーツがアメリカに伝わることになるねん。せやけどここでスポーツは大きな転換点を迎えることになるねん。これがアメリカナイゼーション（大衆化）や。ジャック・デンプシーやベーブ・ルースは２０世紀最初のスポーツの英雄になったのやけど、これはなんでかゆうたらマスメディアの発達があったからでな、東アメリカのマサチューセッツ州でラジオ放送が始まるのやけど、瞬く間に全国に広がって皆がラジオに釘付けにるねん。声によって英雄が目の前にいるかのような臨場感が伝わって、国民規模で支持されるようになったんや。こうしてジャック・デンプシーの試合には、今まではローカルな観衆やったのがボクシングとは無関係な貴婦人やその他幅広い層が集まるようになって、こうしてスポーツは世間を想定したエンターテイメントに変容することに至ったんや。 【格闘技エンターテイメントの誕生】 レスリングも他のスポーツ同様に大衆化を経てエンターテイメントになるねん。これがプロレスなんや。このプロレスは今までの格闘技とは異なるねん。これは前近代の宗教や祭祀でもなければ、パンクラチオンの時には死に至る暴力の応酬でもなければ、ましてや人格形成の為のものでもないねん。そうなんや、格闘技は大衆化を経て新しいものに生まれ変わったんや。つまり格闘技演劇としてや。プロレスのルーツは祭りでもなければパンクラチオンでもないし、ランカシャーレスリングでもないねん。それらの要素は取り入れたとしても、質的には全く異なるねん。全日にかつて上がったアントン・ヘーシンクはプロレスを馬鹿にしてたし、柔道をプロレスの一部とはとても捉えてなかったやろう。そうなんや、建前は総合格闘技のプロレスも、実際は擬似格闘技やったから格闘技の文脈とは異なってるねん。つまりマスメディアの発達によって隆盛した国家規模の格闘技エンターテイメントは、ここで始めて誕生したんや。プロレスのルーツはランカシャーレスリングでもなければ柔道でもなければボクシングでもないねん。メソッドとしてその要素を形式的には取り入れてたけども、格闘技エンターテイメントの歴史はサーカスの見世物からその延長線上のプロレスにはじまったのやで。 次回は格闘エンターテイメントとしてのプロレスが、いかにして総合格闘技になったかを説明するわ。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-04-28T15:34:00+09:00</issued>
    <modified>2008-04-28T15:38:29+09:00</modified>
    <title>『真・昭和プロレススーパースター列伝　其の参　沖識名』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 おっちゃんの頃は５０銭はなかったのやけど、一番上の兄貴の頃は５０銭がギリギリあってな、つまり５０銭ゆうのは１円の半分や。１円５０銭で芋買うたりするねん。小銭ゆうたらおっちゃんなんかはよう親の財布から銭掠め取ったもんや。コツとしては一度にようけとったらあかんねん、バレん程度に少しずつ取るのが極意や（笑点）。 沖識名はレフェリーでな、最後にはいっつもシャツ破られるねん。凶器隠してるの明らかやのにそれに気付かん振りして観客をやきもきさすねん。ドリフターズ志村の「後ろ後ろ」みたいなもんや（笑点）。昔のプロレスは個々人の自己演出とちゃうから、レフェリーも演出に一役買うことになるねん。そうゆう意味では沖識名は見た目はパッとせえへんかったけども、選手に脚光与えて観客を喜ばせた名脇役といえるのやないかな。 悪戯でゆうたらあとは余所様の荷台から果物盗んだりもしたなあ。おっちゃんは見られてへんのやけど、そんな悪戯する奴は決まってるやんか（笑点）。それでバレて叱られてなあ、おかんは鍬持って追いかけてくるねん。あれは恐怖体験やったで。アンビリバボーに投稿したろか？（笑点） 下駄の芳の里、剛毛マンモス、強かったオルテガ、ヤスリで歯を研ぐブラッシー、頭突きの大木、耳そぎ魔キラー・コワルスキー、鉄の爪エリック・・・。昭和の思い出は尽きることは無いけど、おっちゃんは思い出に浸るのは嫌やねん。常に最先端で居続けることこそ楽しく感じるねん。昭和は終わったんや、おっちゃんは先いくで。思いは近代プロレスから現代プロレスへ！ 追記：ブログ見てると昭和のプロレスと銘打つ記述が散見されるのやけど、その割には力道山に言及がないのはなんでやろか？力道山、芳の里、ブラジル、木村政彦抜きにしてどないして昭和のプロレス語るねん。ブッチャーとかブロディとかホーガンで昭和を代表されることは、おっちゃんの世代からしたらそれは誤りであり侮辱なんや。欧米のみで世界一の美女決めたら不愉快やろ？世界一の看板は立派やけど内容に偽りありやんか。昭和プロレス第二期とか、個人的昭和プロレス論として語って欲しいなあ。 ほなな。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-04-25T10:02:00+09:00</issued>
    <modified>2008-04-25T10:20:45+09:00</modified>
    <title>『ジョシュのプロレス最強宣言！　プロレスを対象化した悲しみ　愛を取り戻せ！』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 ジョシュが再び総合格闘技「戦極」に参戦、その会見場で「プロレスが最強であることを証明する」て気勢を上げたそうや。せやけどこの物言いには猪木の主張とはやや異なりがあるねん。それを説明するわ。 ジョシュは総合とプロレスの関係を良く理解してるねん。彼はかつて新日に参戦してたとき、共にパンクラチオンにルーツを持つプロレスと総合が今こそ一緒になる時、てゆうてた。一般の格闘技ファンは無知やからプロレスと総合を完全に分けて考えるのやけど、歴史的に見たら淵源はおんなじでありまた一緒になるべきことをジョシュは見抜いてるねん。 古代ローマに端を発する格闘技は、近代においてはプロレスになったんや。今でこそ八百長と馬鹿にされてるプロレスやけど、当時はこれこそリアルであり社会が要求してた格闘技やったんや。せやけど近代から現代に社会が変わると、格闘技はさらに変遷して現代初期においては総合になるねん。せやけどプロレスラーは既得権益にすがり付いて惰性でプロレスを継続して衰退していってるのが現状や。 ジョシュからしたらプロレスのあとは総合なのやから、分化して横道それたプロレスは収斂すべきと考えるのは当然のことやと思う。ＵＷＦを愛し総合を志したジョシュからしてみたら、プロレスは他人やないからこそ深く関わってるねん。彼はプロレスと総合の分化の現状を理解した上で、両者の収斂の物語を紡いでる訳や。 せやけどこのような分化は猪木からしたら認められることやないねん。猪木は「俺は格闘技とプロレスを分けて考えていない」てゆうてる。これはどうゆうことなのやろうか？プロレスにはあらゆる格闘技の要素が詰まったいわば総合格闘技である建前があるねん。現在の総合と質が異なるのは時代が変わっただけでな、近代においてはプロレスこそリアルやったわけや。これを一般人は「プロレスは八百長だった」とかゆうて過去のプロレスを笑うのやけど、価値観が単一で予定調和を望んでる時代に応じて形成されたプロレスは当時は正に総合格闘技やったんや。そんなプロレスを格闘技の近代から現代への伝統性からはじきだして対象化することは、猪木からしてみたら歴史認識の誤りでしかないねん。 ジョシュは現状を踏まえた上で冷静に分析して、愛すべきプロレスを現代格闘技に収斂すべく「プロレスが最強ゆうふかし」でプロレスを持ち出してくれた、これが今回の最強宣言の真意や。せやけど猪木はプロレスは近代から現代への変遷の只中で継承されていくものやから、格闘技からつまはじきにした他者として、分化することを認めるわけにはいかへんねん。力道山ゲノム、猪木ゲノムは近代格闘技の自意識で、この伝統性を現代社会の自意識に変えていくこと、これがＩＧＦの役割なんや。 猪木が橋本に小川ぶつけて、永田にミルコ・ヒョードルぶつけて、中西にＴＯＡ・藤田ぶつけて、新日に競技性の嵐を持ち込んだのは気付きを供給してプロレスを現代化させるためやったんや。なんで猪木の最後の弟子がＲＹＯＴＯなのか、なんでＩＧＦには総合出身の選手が大半を占めてるのか、なんで新日との対抗戦に拘るのか、それは近代プロレスを現代プロレスに変えるためやねん。猪木からしてみたらプロレスを格闘技とは別に分化させられることは屈辱であり、また誤謬やからこそ、現状のプロレスを「格闘技と分かれてない」て強弁することになるねん。 ジョシュは現状を正しく理解した上で両者を分化させその上で合流を望んでて、猪木は歴史を正しく踏まえた上で両者をおんなじものとして扱いその上で発展を望んでる。ジョシュにわざわざプロレス最強を名乗らせな格闘技と関係でけへん現状のプロレスの悲しさ。猪木が強弁せんと現代格闘技と関係でけへん現状のプロレスの悲しさ。縦と横の時間軸は異なってるし、分化・非分化で主張は一見へだったってる様で、結局ジョシュも猪木もおんなじことゆうてるのやで。このジョシュと猪木にプロレスは応えられるのやろうか？ほんまはジョシュの代わりを中邑が努めるべきなんや。それを何が「プロレスは最高」や。ほんま泣けてくるわ。 ほなな。</content>
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      <name>つるじょあ</name>
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    <issued>2008-04-24T17:25:00+09:00</issued>
    <modified>2008-04-24T18:08:09+09:00</modified>
    <title>『空手の死！　テイシェイラの脆弱性　教育からエンターテイメントへ　空手共同体から脱却せよ』</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">おっちゃんやで～。 期待されてたテイシェイラやけど、距離感がいまいちやったから踏み込むことを恐れて手打ちになってたな。体重が乗っかってへんから威力も半減や。せやけど確かに将来性を感じさせるよ。ただその将来性は、所詮は競技性のみにおいてや。 ホーストやシュルトの地位をテイシェイラが獲得したとして、それがどないやゆうねん。格闘エンターテイメントは競技性と演技性の統合なんや、朴念仁による世間無視の合理的勝利追求が一体何を生み出すのやろうか？物語やのうて格闘技自身に見出すマニアックな喜びだけなのとちゃうか？ 近代国民国家の樹立による国家の暴力の独占を背景に、暴力の応酬から非暴力の応酬として特権階級の遊びから人格形成のためにスポーツは利用されるようになるねん。これは空手や剣道や柔道も同様でな、強さだけやのうて精神性を重んじるところに特徴があるねん。せやけどK－１は教育にプログラムされたスポーツが大衆化（アメリカナイゼーション）を経て経済と結びついたもんや。このような格闘エンターテイメントは現代においては強さと自己演出が求められるねん。 すなわち空手は近代社会に適応するために、K－１は現代社会に存在してるのやから、その質には差異があるねん。一方では共同体に即した協調性によって没個性化して他方では自立によって個性的になることが求められるわけや。そうゆう意味で、共同体主義がプンプンするテイシェイラは見た目と違ごてええ人なのやろうけど、将来性ゆうても所詮はホースト・シュルト程度で集客に大きく結びつくことはないやろう。 哲学的にゆうたらな、精神における変化には二つあるねん。共同体における変化は本質の変化、一神教における変化は存在の変化や。本質の変化は一定の枠内における量的移行やから質的には不変なのやけど、存在の変化は自由による生成を経た非存在から存在への移行やから新しいものを生み出して質的に飛躍することになるねん。では空手はどちらの変化なのやろうか。 空手は共同体やから、友愛（フィリア）が働くねん。これはお互いが協力し合って助け合うことや。せやけど助け合うことによって力を生み出すのやけど個々人の脆弱性は温存されるから自立することはないねん。すなわち本質の変化やな。これが共同体における実存形式や。片や一神教に基づいた隣人愛（アガペー）は、相手を自立させようと働くから絶えず自己超克することになるねん。そやから個々人の脆弱性は克服されて自立することになるねん。すなわち存在の変化やな。そうゆう訳でな、テイシェイラが空手共同体に帰属する限り自立することはないから現代格闘エンターテイメントであるK－１で成功することは論理的にないよ。成功するには共同体からの離脱と、克己心を調達することやけど、現状では難しいと思う。 チーム茨城、GRABAKA、空手、馬場イズム、前田イズム、中日落合、協調して団結しても個々人の脆弱性が温存されてる限り明日は無いよ。これからは個々人の紡ぐ物語が人々を惹き付けるねん。現代エンタで共同体主義はすでに死に体や。テイシェイラがほんまに成功したかったら、隣人愛の権化アントニオ猪木に気付きを供給してもらうことやな。テイシェイラよ、ＩＧＦに来い！（笑点） ほなな。</content>
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