2012年01月08日

ラーキン選出なるか?疑惑強打者達への評価に変化は? 2012年殿堂入り投票結果発表の見どころ

現地時間の1月9日(月)は、全米野球記者協会選出による2012年の野球殿堂入り投票結果の発表日です。
この投票において75%以上の得票率を得ると殿堂入りとなり、7月22日にクーパースタウンで開催される記念式典に参加することになります。

今回の投票においては、90年代を中心にレッズ一筋で19年プレーしたバリー・ラーキンの当選が有力視されています。
彼は、打撃、走塁、守備すべてにおいて優れた成績を残した遊撃手で、95年のMVP獲得を初め球宴に12回選出、ゴールドグラブも3度受賞しています。
この万能振りが彼のセールスポイントではありますが、裏を返せば目に見える傑出した訴求点(例えば3000本安打や500本塁打、はたまた打撃タイトル獲得などなど)には欠けるのも事実です。

そんなどちらかと言えば玄人好みの選手が、殿堂入り資格を得て3年目で早々と当選する(であろう)というのは、やや意外な印象もあります。
なぜなら、09年に選出された70~80年代のレッドソックスのスラッガー、ジム・ライス(78年に本塁打と打点の二冠王&MVP)は殿堂入りまで15年を要していますし、通算254勝のジャック・モリス(91年ワールドシリーズ最終戦での完投勝利は伝説となっている)は12回の挑戦を経てもまだ足踏みを続けているからです。

もちろん、ラーキンの選出には私もなんら異論はありませんが、恐らく今回当選を果たすであろう事には以下の特殊要因も作用するだろうと見ています。

まずは、今年は比較的ライバルが少ないこと。
今年引退後5年を経て新たに資格を得た選手の中で、将来殿堂入りの可能性がありそうなのはバーニー・ウイリアムス(元ヤンキース)くらい。
その一方で、来年はバリー・ボンズやロジャー・クレメンス、マイク・ピアッツア、クレイグ・ビジオ、サミー・ソーサらが、再来年にはグレッグ・マダックスやトム・グラビン、フランク・トーマスらが参入してきます。
(ボンズやクレメンスはともかく)、多くの有力選手が対象となってくる前に「ラーキンに投票してあげよう」という心理作用が投票権を持つ記者たちに働くということはごく自然なことです。

そしてもうひとつは、ラーキンは前述の通り万能型で、とかく薬物使用が疑われがちな「筋肉モリモリ型」のホームラン打者では無いということではないでしょうか?
要するに記者たちは、安心して投票できるのです。
そう言えば、昨年殿堂入りしたロベルト・アロマーもラーキン同様の「バランス型」の二塁手でした。

言い換えれば、投票権を持つ記者たちには、ステロイド使用を疑われるスラッガーたちに対する評価にいまだに悩み、結果的に彼らへの投票を見合わせている傾向が見て取れるのです。
検査で陽性反応を示したラファエル・パルメイロ(史上4人のみの3000安打&500本塁打)やステロイド使用を告白したマーク・マグワイア(但し、本人は『使用は治療のためで、パワー向上のためではない』といまだに主張しています)らの得票がサッパリなのは当然としても、ジェフ・バグウェルやホアン・ゴンザレスらの「成績が良すぎて、または体格が立派過ぎて薬物使用を疑われている」強打者たちの得票も伸び悩んでいます。

今回、そんな「ステロイドボーイズ」らの得票にどんな変化があるか?も要チェックポイントでしょう。

posted by toyorashotaro |13:17 | MLBヒストリー | コメント(1) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年11月26日

今頃になってようやくですが・・・「マネーボール」を観てきました

封切りになってからかなり経ちますが、ようやく映画「マネーボール」を観てきました。

実は劇場で映画を観るのは5年ぶり。
到底映画を批評する資格はありませんが、一人の野球ファンの視点から感想を述べてみたいと思います。

この映画のコアなテーマは、野球界に限らずどの世界にも蔓延る「因習」への挑戦です。
それは野球界ではチーム編成における統計の軽視であり、新人の発掘や潜在力の評価での身体能力の偏重ですが、それらのような因習は私の働く業界にもあり、おそらくこれをお読みのあなたの社会でも同様でしょう。
この物語の主人公であるビリー・ビーンGMの偉大さは、既成概念にとらわれることなく球界で当時それほど主流では無かったセイバーメトリクスの活用路線をためらいなく推進したことにあります。

やや誤解されがちですが、ビーン自身がセイバーメトリクスに元々長けていた訳でも無ければ、映画の中でも名前と髭面の写真が紹介されているビル・ジェイムズに端を発する統計学的アプローチをチーム編成に初めて導入したのもビーンではなく、その前任のサンディ・アルダーソン(現在はメッツGM)です。
その意味では、ビーンはひとりの人間としての器の大きさに秀でたものがあったのであり、メジャーリーグのGMとして必要なビジネススキルが特に優秀だという訳では無いと私は見ています。

実際に、その後セイバーメトリクスが球界の常識になると、ビーン率いるアスレチックスは低迷を続け、「低予算でも勝つことはできる。しかし、勝ち続けることはできない」ことを証明することになってしまいました。
そのせいか、映画の舞台となった2002年当時は辣腕GMとしてその名を馳せたビーンですが、近年は彼を高く評価する声はそれほど多くなく、他球団からの引き抜き話も映画の中で紹介されていた02年オフのレッドソックスを最後に噂レベル以上のものは無いように思えます。

なお、映画の中ではマイケル・ルイスの原作には無かった「別れて暮らす娘との絆」という別のテーマが挿入されていますが、実際に02年オフにレッドソックスのオファーを断った理由は「東海岸に引っ越すと娘に逢えなくなる」だったと言われています。

それとちょっと気になったのが、劇中に再三登場するメジャーの世界で生きる男達の固有名詞やフラッグ・ディールでの攻防などの予備知識を必要とする部分。
アメリカの映画ファンや日本のメジャーファンはともかく、一般の日本の映画ファンにはちょっと判りにくかったのでは?と思いました。

それに対し面白いなあ、と思ったのがアート・ハウ監督。
演じていた俳優さんは、体型はともかく顔が結構本物に似ていたのにもかかわらず、キャラとしてはビーンの「マネーボール戦略」に対する抵抗勢力として描かれていたからです。
実際のハウは、フロントオフィスの意向に極めて従順だったらしいと聞いていただけに個人的にウケちゃいました。
まあ、その辺は「事実を元にしたフィクション」だと理解すべきなのでしょう。
最後に・・・
「事実を元にしたフィクション」と言えば、そもそも原作自体がノンフィクションでありながら、事実の捉え方(必要以上にセイバーメトリクスをアスレチックス躍進の理由のように描いていた点など)や、人物像に作者のルイスの主観が入りすぎているきらいがありました。
そんな「主観的なノンフィクション」を原作とした「事実を元にしたフィクション映画」をどう受け止めれば良いの?という部分は、映画をそれほど見馴れていない私にはちょっとした戸惑いでした。

しかし、今回の映画で来年春の東京でのアスレチックス対マリナーズの開幕戦の目玉がイチロー(&松井?)だけではなくなったのは確かでしょう。

posted by toyorashotaro |16:35 | MLBヒストリー | コメント(8) | トラックバック(1)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年09月15日

ウエイクフィールド200勝! 絶滅危惧種?のナックルボーラーの将来は実は楽観可能?

レッドソックスのティム・ウエイクフィールドがついに通算200勝を達成しました。
13日のブルージェイズ戦でのことです。
6回を投げ5失点を喫しましたが打線の援護もあり、7月24日のマリナーズ戦での199勝目から9試合目(8戦発目)での悲願達成です。
その間、タイガースのジャスティン・バーランダーは9勝をマークしていますから、やはり人並みならぬ産みの苦しみだったと申し上げて良いでしょう。
おめでとう!ウエイキー!

ものの本によると、ナックルボーラーとして通算7人目の200勝だそうです。
ナックルボールの起源は定かではありませんが、エディ・シーコットが考案したという説があります。
彼は、言わずと知れた1919年のワールド・シリーズでの八百長事件として悪名高い「ブラックソックス・スキャンダル」の首謀者のひとりです。
その年、「30勝したら特別ボーナス」との約束を所属するホワイトソックスのチャールズ・コミスキー・オーナーと交わしていましたが、シーズン終盤近くにシーコットが29勝まで達すると、この吝嗇なオーナーはシーコットを登板させぬよう監督に圧力を掛け、これが八百長事件の引き金のひとつになったとも言われています。

それはともかく、その後ナックルボールは1950年代くらいまでは、多くの投手がレパートリーのひとつとして投げるごくポピュラーな球種のひとつであったようです。
しかし、60年代くらいから急速にこの球種は衰退しました。
それには多くの理由があったようですが、そのひとつがチェンジアップの一種としての役割をサークルシェンジやスプリッターに奪われたことだと多くの野球史家が指摘しています。
ウエイキーの例を見るまでもなく、ナックルボールを投げるには明らかに投球フォームが他の球種と異なりますから、ナックルボール華やかなりし頃は現代のように「全ての球種を同じフォームで投げろ!」というような世知辛い?考えは無かったのでしょう。
牧歌的ですね。

今やナックラーはワシントン条約で保護すべき?絶滅寸前の存在とも言われていますが、実は私はその点に関しては結構ポジティブに考えています。
その理由は、筋力をそれほど必要としないことに起因するナックラーの選手寿命の長さです。
ウエイキーはすでに45歳ですし、過去の伝説的なナックラーであるホイト・ウエルヘルムやフィル・ニークロも40代後半まで現役を継続しました。
スポーツ医学の進化により、飛躍的に長寿の選手が増えた現代だからこそそれを活かすためにナックルボールに手を染める不逞の輩?が今後じわじわと増えるのではないかとひそかに期待しています。
「野球狂の詩」の岩田鉄五郎並みに50代の投手も出てくるかも?

posted by toyorashotaro |21:46 | MLBヒストリー | コメント(4) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年06月04日

情報求む! これはマニア垂涎の野茂英雄直筆サイン本?

カイシャ帰りの金曜の夜、立ち寄ったブックオフでこんな本を見つけた・・・
Ths is Nomo



続きを読む...

posted by toyorashotaro |14:04 | MLBヒストリー | コメント(4) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年05月21日

実は「暗黒時代」だった元祖サブウエイ・シリーズの「ニューヨーク3強時代」

時の流れは早いもの。
ようやく2011年シーズンが始まったと思ったら、現地時間21日(金)からはインターリーグが始まります。
このシリーズは6月17日から7月3日までのいわばインターリーグ・フェーズ2に先行して開催される前奏曲です。

ここでは、マーリンズ対レイズのシトラス・シリーズ、ジャイアンツ対アスレチックスのベイブリッジ・シリーズ、インディアンス対レッズのバトル・オブ・オハイオ等のご当地対決が多く組まれるのが特徴ですが、やはりここはヤンキース対メッツのサブウエイ・シリーズにトドメを指すべきでしょう。
この両球団は、インターリーグだけでなく2000年のワールド・シリーズでも相まみえています(4勝1敗でヤンキースに凱歌)。

「サブウエイ・シリーズ」という名称は、この両球団の本拠地が地下鉄で結ばれている(途中で乗り換える必要があります)からですが、元々の由来はかつての1940年代より50年代の「ニューヨーク3強時代」に遡ります。
当時は、毎年のようにア・リーグのニューヨーク・ヤンキースを軸にナ・リーグのニューヨーク・ジャイアンツとブルックリン・ドジャースが世界一の覇権を争ったのです。
ワールド・シリーズが華の都ニューヨークの中のみで専ら行われていたのですから、それはそれはかなりの盛り上がりだったようです。

当時のメジャー・リーグを代表するアナウンサーだったレッド・バーバー(あのビン・スカリーのお師匠さんです)は「メジャー・リーグは1947年から57年の11年間にその頂点に達した」という球史に残る名ゼリフを残しました。
言うまでも無く、1947年はあのジャッキー・ロビンソンがドジャースで黒人初のメジャー・リーガーとしてデビューした年で、57年はこの年限りでドジャースとジャイアンツが西海岸へ移転した年で、「3強時代」の最終年でした。
その間、ヤンキースではジョー・ディマジオからミッキー・マントルへの世代交代が行われ、ジャインアツにはウイリー・メイズが登場しました。
まさしく「3強時代」こそが「頂点」だったのです。

しかし、多くの野球史家が指摘しているように一見「黄金時代」のはずの「3強時代」は実はその華やかなイメージとは裏腹に「暗黒時代」だったようです。
要するに世間の注目がニューヨークの3強のみに集まった結果、全米としての盛り上がりには欠けていたのです。また、当時はテレビが普及し始めた時代でもあり、この新しいメディアをどう扱ったら良いかメジャー・リーグは悩んでいました。
テレビの普及は深刻な観客動員減をもたらすと見られており(実はその逆でしたが)、当時のフォード・フリック・コミッショナーは「テレビをコントロールできなければ10年以内にMLBは消滅する」という悲観的なコメントを発しました。
そして、ニューヨークでの最終年の1957年、ジャイアンツの観客動員は65万人でしかなく、ドジャースでさえ103万人でした。

こんなことも頭に置いてテレビ中継を見ていただければと思います(今週末のサブウエイ・シリーズは放送があるのかな?五十嵐もマイナー降格し日本人不在だけど)。

posted by toyorashotaro |00:08 | MLBヒストリー | コメント(0) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年05月18日

通算573本塁打のキルブリューさん逝く

1960年代を中心に、ワシントン・セネタース/ミネソタ・ツインズ(本拠地移転による名称変更で同一球団)で活躍した(現役最終年のみロイヤルズ)「キラー」ことハーモン・キルブリューが現地時間17日、アリゾナ州の自宅で死去しました。74歳でした。
昨年12月に食道がんと診断されたことを明らかにした後、闘病生活を続けていましたが、つい数日前「もうがんとの闘いは終わりに近づいている」という声明を発表していました。

現役時代の通算573本塁打は歴代11位。1975年に引退した時点ではハンク・アーロン、ベーブ・ルース、ウイリー・メイズ、フランク・ロビンソンに次ぐ5位でした。
また、2009年にアレックス・ロドリゲスに抜かれるまでは、アメリカン・リーグ史上最多本塁打の右打者でした。
獲得タイトルはMVP(1969年)を始め、本塁打王6回、打点王3回。投手力が優勢で本塁打が出にくかった60年代に6度も40本塁打以上を放っています。
通算打率は.256に過ぎずフル出場したシーズンで打率3割以上は1度もありませんが、四球が多く出塁率は.376と素晴らしく、その長打力もあって近年の出塁率と長打力重視の価値観で見ると一層高く評価できる打者です。

身長は5フィート11インチ(約180cm)と短躯ながらガッシリした体型で飛距離には定評がありました。
背番号「3」はツインズ史上初の永久欠番になっており、1984年には野球殿堂入りを果たしています。
苗字をもじって「キラー」などと物騒なニックネームを拝していましたが、人格者としても知られ22年の現役生活の間、退場は一度もありませんでした。
苗字と言えば、100数十年の長さを誇るメジャー・リーグの歴史の中で「キルブリュー」という名前は他にだれもおらず、「ハーモン」もファーフト・ネームとしては彼以外は皆無だそうです。
ご冥福をお祈り致します。

posted by toyorashotaro |21:11 | MLBヒストリー | コメント(2) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年05月04日

博覧強記のビン・スカリーさん

ドジャースのアンドレ・イーシアが、連続試合安打を継続しているこの機会を捉え、この記録の大御所であるジョー・ディマジオに関するこぼれ話をご紹介しましょう。

現地時間の今日5月3日は、ディマジオのメジャーデビューの記念日です。
1936年の今日、希代のスーパースターはヤンキースでデビューを飾っていますが、ヤンキースは彼のためのロースター枠を開けるために、ある選手をシカゴ・カブスに放出しています。
それが、後年ブルックリン・ドジャースのスターに成る若き日のディキシー・ウォーカーでした。

えっ?よくそんなこと知ってるなって?
実はこのネタは、今日の放送でドジャースのアナウンサーのビン・スカリーさんが、紹介していました。
ドジャースの放送では、いつも5回裏の前にスカリーさんが、「××年前の今日」という内容で史実を紹介するのが恒例になっています。
残念ながら、日本の放送局がドジャース戦を放送する時はこの場面はカットされてしまいます。
スカリーさんの英語は大変聞き取りやすいので、メジャーファンの方にはぜひMLB TV でご確認されることをお勧めします。

ちなみにスカリーさん、もう80歳を軽く越えていますがその博識ぶりはご立派で、今日の放送でもカブスの福留孝介が打席に入ると、彼の日本時代の数々のタイトル獲得の履歴だけでなく、「彼はカゴシマの出身で、カゴシマにはサクラジマという大きな火山があり・・・」と解説していました。
さすがですね。

なお、これはスカリーさんは紹介していませんでしたが、ディキシー・ウォーカーは南部出身ということもあり人種的偏見が強かったようで、1947年にジャッキー・ロビンソンが初の黒人大リーガーとなった際に、チームの決断に激しく反発、結果として他球団へ放出されることを選んだことでも知られています。

posted by toyorashotaro |16:27 | MLBヒストリー | コメント(2) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年04月16日

メモリアルデーに再認識するジャッキー・ロビンソンの偉大さ

現地時間の4月15日は、ジャッキー・ロビンソンのメモリアルデー。
全球場で、全選手がロビンソンの現役時代の背番号42を付けてプレーしました。

ロビンソン・デーが制定されたのは1997年のこと。
その年の4月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムでのメッツ対ドジャース戦で、当時のビル・クリントン大統領とバド・セリグコミッショナーが、ロビンソン未亡人のレイチェルさんを招いたセレモニーで、記念日の制定と背番号42の全球団での永久欠番化を発表しました。
その後、記念日には全選手が42を付けるまでになったのは、冒頭触れた通りです。

ロビソンがメジャー・リーグやアメリカ社会に記した足跡の偉大さには何の異論もありませんが、やや政治家やMLB機構のプロパガンダに利用されている側面は否定できない気がします。
また、「初の」ロビンソンに野球史家やファンの注目が集中するあまり、「2人目」で「ア・リーグ初の」ラリー・ドビーら他の初期の黒人選手達の功績や苦労がともすれば見落とされがちなのは残念です。

ところで、あまりにも伝説化されすぎたロビンソンは、その歴史的、社会的功績に注目が当たりすぎて、野球選手としての本質の部分が近年見えにくくなっている傾向があります。

彼のプレーを動画でご覧になった方もおられると思いますが、その走塁は大変野性味溢れるダイナミックなもので、身体能力の高さを感じます。
また、私が今までに読んだ文献によると、プレーのセンスが秀逸で走行守全てにおいて、とっさの判断が素晴らしく、アチラの表現を借りるなら、instinctに優れた選手だったようです。
さらに、守っては相手打者の傾向や見方投手の球種により、都度守備位置を微妙に変えるなどインテリジェンスにも秀でていたようです。

要するに、ジャッキー・ロビンソンは、体力、センス、知力という野球選手に必要な要素を全て兼ね備えていたのです。

posted by toyorashotaro |14:00 | MLBヒストリー | コメント(2) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2011年02月13日

名将タナーさん逝去で思い出す79年パイレーツ

70~80年代に、ホワイトソックス、アスレチックス、パイレーツ、ブレーブスで指揮を執ったチャック・タナー元監督が逝去されました。81歳でした。
監督として通算1352勝を挙げていますが、私の記憶に強烈に残っているのは1979年にパイレーツを世界一に導いたことです。

79年のパイレーツは私にとって、ある意味70年代の象徴のようなチームでした。
本拠地は、完全円形で人工芝のスリーリバーズ・スタジアム。
人はクッキー・カッターと揶揄しますが、当時は最先端ともてはやされていましたし、個人的にはレッズのリバー・フロントスタジアムなどとともに猛烈に懐かしさを覚えます。

お次は日本のデサント製の超サイケデリックなユニフォーム。
ボタンの無いプロオーバータイプでベルトレス。
しかも、ボディにぴっちり張り付いた「ボディコン」でした。
これが、ハイカットのストッキングとともに当時の流行でした。

そして、ユニのデザインはブラックとイエローとストライプの三種類。
これを上下、順列組み合わせで使用していていました。
上下ブラックもあれば、上がイエローで下がストライプというのもアリでした。

さらにキャップは円柱型で横のストライプ入り。
日本ではカストロ帽などと呼ばれますが、アチラ流に言えばランバーメンズ・キャップ。
おそらく製材所のオジサンがこのような帽子で作業をしているのでしょう。
もともとはこのタイプの帽子は、1976年にナショナル・リーグが100年祭を開催し、その年は同リーグ全球団が100年前に主流だったこのタイプの帽子でプレーしたのが発端でした。
翌年以降は、基本的に普通のタイプに戻しましたが、パイレーツのみはこのタイプを使用し続けたのです。

79年のワールド・シリーズは私はフジテレビの録画放送で観戦したのですが、対戦相手のオリオールズの本拠地、ボルチモアのメモリアル・スタジアムで開催された第1戦は、みぞれ交じりの極寒の中で始まり、試合終了時点では氷点下になっていたのを良く覚えています。

このシリーズ中、パイレーツが1勝3敗の苦境にあった第5戦の朝にタナーさんの母親が亡くなるという悲しい出来事がありました。
しかし、そのまま指揮を執り続けたタナー監督率いるパイレーツはそこから奇跡の3連勝で逆転の世界一に輝いたのです。

この年のメンバーは、プレーオフとワールド・シリーズとレギュラー・シーズンのMVP三冠王に輝いたキャプテンのウイリー・スタージェル、前年と前々年に連続首位打者のデーブ・パーカー、後に日本でもプレーしたビル・マドロック、今年殿堂入りを決めた通算287勝のバート・ブライレブンや当時どんどん存在が際立ってきていたクローザーのケント・テカルビーなど個性的なタレントが目白押しでした。

タナーさんがこの世を去ったことで、私にとっての70年代の思い出も一歩遠くに去っていってしまった感があります。

posted by toyorashotaro |15:01 | MLBヒストリー | コメント(12) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2010年12月25日

ホームラン打者の当たり年

メジャー・ファンの皆さま、昨日発売のSLUGGER2月号をご覧いただきましたでしょうか?
私が毎月楽しみにしているのが、「殿堂入りしていない英雄列伝」
「殿堂入りしていない」ところがミソで、ともすれば時の流れとともに忘れ去られてしまいがちな往年のスター(私が、メジャーに興味を持ち始めた70年代が中心なのもウレシイ)が毎月紹介されています。

今月は、飛行機事故で悲運の死を遂げた元ヤンキースの主将サーマン・マンソンが取り上げられています。
79年の8月、当時高校生だった私は夏休みの部活(当然野球部ですぞ!)から帰宅した夕方、何気で開いた新聞の夕刊に「マンソン事故死」の見出しを見つけ衝撃を受けたのを昨日のように覚えています。

そして、記事の中では「1947年生まれは名捕手の当たり年」ということが紹介されています。
ナルホド、マンソンの他にもカールトン・フィスクやジョニー・ベンチの殿堂入りコンビやゴールド・グラブ7度受賞のボブ・ブーンら1947年生まれには確かに名捕手が多いのです。

実は「当たり年」は他にもあります。
それは1931年で、この年に生まれた500本塁打達成者が4人もいるのです。
ウイリー・メイズ(660)、ミッキー・マントル(536)、アーニー・バンクスとエディー・マシューズ(ともに512)です。

1931年の次に500本塁打達成者が多いのは1968年生まれです。サミー・ソーサ(609)、フランク・トーマス(521)、ゲーリー・シェフィールド(509)の3人が達成しています。しかし、彼らが活躍した90年代が本塁打乱発の時代だったこと、トーマスを除く2人はともにステロイドの使用がほぼ間違いないことによりどうも1968年生まれを手放しに称賛するのは憚れます。
さらに言うと、1964年生まれもかなりのもので、762本塁打のバリー・ボンズと569本塁打のラファエル・パルメイロが居ます。
しかし、かれらに至ってはゲゲゲ・・・ですね。

posted by toyorashotaro |11:03 | MLBヒストリー | コメント(6) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2010年12月04日

シカゴのアイドルだったロン・サントさん逝く

悲しい知らせです。
60年代を中心に、カブスやホワイトソックスで15年間活躍したロン・サントさんが膀胱がんで亡くなりました。享年70歳。

サントさんは60年代を代表する強打で攻守の三塁手でした。
通算342本塁打に加え、ゴールドグラブ5度受賞という輝かしい球歴を誇ります。
当時のカブスには、投手ではファーガソン・ジェンキンス、野手ではアーニー・バンクスといった後に殿堂入りするスーパースターが在籍しており、サントさんは彼らと並ぶ人気者でした。
まだリグレー・フィールドに照明設備が無かった時代です。
引退後は、カブスのラジオのブロードキャスターとして活躍し、その情熱的で目一杯カブス贔屓の放送スタイルで、ある意味現役時代以上に人気を博しました。

お気の毒だったのは長きに亘る病気との戦い。
引退後には糖尿病で両足を切断しています。

私は現役時代の活躍は、本や雑誌の記事でしか知りませんか、一度だけお会いしたことがあります。
それは2004年の夏のこと。リグレー・フィールドの駐車場で「出勤」なさったサントさんに偶然出くわしました。
クルマから降り、車椅子に乗られたところでご挨拶程度ですが、声を掛けさせていただきました。
その時、スーベニアショップで買ったばかりのボールにもらったサインは私の宝物の一つです。

サントさんというと近年良く語られたのが、「殿堂入りを果たしていないが、本来はそれに値する」という議論です。通算2254安打と342本塁打は一般的には殿堂入りにはもう一歩なのですが、彼が主に活躍した60年代は、戦後では最も投手優位だった時代。
その時代の342本塁打は、一発が乱れ飛んだ90年代以降の 500本に匹敵するという声が強いのです。
私もある程度同感です。


posted by toyorashotaro |18:06 | MLBヒストリー | コメント(4) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年11月26日

「ドジャー・スタジアム」になるところだった(?)シェイ・スタジアム

来季のニューヨーク・メッツはどうやら伝統のピンストライプをメインのホームジャージとして採用するようです。
私のようなオールドファンにとっては嬉しいニュースです。

現在の白地のジャージもデザイン的には悪くないとは思いますが、ピンストライプは私にとってはメジャーリーグに興味を持ち始めた’70年代の思い出のユニフォーム。
‘74年の秋にヨギ・ベラ監督に率いられ来日したトム・シーバーやジョー・トーレ、フェリックス・ミヤーンらが身に纏っていたのがピンストライプでした。
もっとも、来季メッツが採用するのは当時の(というか’69年のミラクル・メッツの)ピンストライプそのものでは無く、ノスタルジーとモダンが融合した新デザインのものだそうですが、これはこれで楽しみです。

ジャージ以外でもメッツは歴史へのリスペクトを強めており、今後は本拠地シティ・フィールドのエントランスゲートや球場への通路となる橋にギル・ホッジス、トム・シーバー、ケーシー・ステンゲル、ウイリアム・シェイと言った球団の歴史に功績のあった人物の名を冠するのだそうです。

ところで、皆さんはウイリアム・シェイという人物をご存知ですか?
もちろん昨年までの本拠地だったシェイ・スタジアムのシェイさんです。
彼は、’58年にドジャースとジャイアンツが西海岸へ移転してしまったニューヨークを再びナリーグのフランチャイズ都市とするのに尽力した人物です。
もともと、「フラッシングメドウ・パーク・ミュニシパル・スタジアム」という名称となる予定だったこの球場は彼の功績に敬意を表しシェイ・スタジアムとなったのです。
ちなみに、シェイさんの前にもこの球場の構想段階で球団誘致を図った人物は存在しました。
ロバート・モーゼスというニューヨーク市のお役人が、エベッツフィールドからの移転を目論んでいたドジャースのウオルター・オマリー・オーナーにこの新球場への移転を働き掛けたのです。
但し、その時点では既にオマリー・オーナーの心は遠く西海岸にあったようでこの計画は日の目を見ませんでした。
もし実現していればシェイ・スタジアムがドジャー・スタジアムになっていたところでした。
もっともその場合はメッツという球団自体が生まれることも無かったでしょうが。

posted by toyorashotaro |22:43 | MLBヒストリー | コメント(2) | トラックバック(0)
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加