2008年11月20日

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(6)

ジュニアの育成(その1)

これまでは、日本の男子テニスが世界に通用しない理由として、日本の環境やテニス界全体に視野を向けて書いてきたが、今回はよりターゲットを絞って、日本のジュニアの育成、指導といった部分について少し取り上げてみようと思う。
実はこのジュニアの育成については、今回のシリーズの中でも最も取り上げたかったテーマの1つなのだが、実際に自分自身が体験・見聞きした部分というのは、全体から見れば極一部でしかなく、日本の~と謳うには、若干心許なかった為に先延ばしにしてきたファクターでもある。
しかし、ここに触れずに日本の男子テニスが世界に通用しない理由を語る事は出来ないのも事実であり、多少のご意見を頂戴するつもりで掘り下げてみようと思う。


ジュニアの育成と一言で言ってもその範疇はあまりにも広い。
スポーツ全体視野で捉えたものから、テニスに絞って捉えたもの、また指導の方向性、ジュニア育成に関するクラブ側の悩み、問題点に至るまで、挙げだせば枚挙に暇がない位いくらでも切り口は見つかる事だけに、いくつかのポイントに絞って取り上げる事とする。

まず最初に触れたいのが、スポーツ全体の事となってしまうが、日本の子供達がスポーツと触れ合っていく最初のステージである、スポーツ団体(学校の部活動、地域のスポーツ少年団)における子供達へのアプローチ方法についてだ。
これらスポーツ団体の多くは、まず新人が入ると、基本であるランニングや素振り・基本動作(競技によって、キャッチボールやパスやストローク・ドリブル)の練習からスタートさせる事がほとんどである。
また、球拾いをしながら先輩のプレイを見学して学ぶなどの事例も多い。
学校にしろスポーツ団体にしろいくつかの世代(年齢)のジュニアが一緒に集い練習をするのだから、当然、上の世代や試合に出る選手が優先的にグラウンドやコートを使うといった事情、また、物事をやるにはまず基本からという観点、そしてきちんとした基礎や正しいフォームが身についていれば、しなくてもよい怪我を未然に防げるという点を考えると、これは当然の手法であるといえよう。
しかし、私はここに多少の違和感を覚えずにはいられない。
スポーツの基本は楽しむ心であり、やっていて楽しいからこそ好きにもなるものだ。
“好きこそものの上手なれ”といわれるように、好きだからこそ上手くなりたいとも思うし、そう思ってやるからこそ上手くなるものであろう。
そして、先々続けていく中でいろいろな障壁を乗り越えていく際、最後に自分を支えるものは、この根底にある好きという気持ちに他ならない。
つまり、まず最初に「好き」ありきであるのは非常に重要な事だと捉えている。
皆、最初はテレビで観たり、人の話などを聞いたりして興味を持ったスポーツを、友達とあるいは新人同士ではじめる事からスタートする。
基本も何もないからフォームも何もあったものではないが、きっとそれはそれで、それなりに楽しいはずだ。
逆に何も教えられていない分、以外と上手くできる部分も少なくないだろう。
下手な知識や強制が入らなければ、人はその動作をするのに自分なりに最良の動きを選択する分、ちょっとした初心者よりもうまく出来たりするものだ。
とはいえ、所詮は素人芸、当然うまくいかない事のほうが多いが、そんな中でもいろいろ考え、試行錯誤しながらプレーする。
そうやってそのスポーツに触れ合っていく中で、そのスポーツの面白さを見つけられれば、いつの間にかそのスポーツが好きになっていくものではないだろうか。
中には自分に合わないと思う子や、勝てずに悔しくて嫌になる子もいるだろう。
そういった子には、ちょっとしたヒントを与えてみたり、違った視点から見る事を勧めてみたり、また違ったアプローチを試みるのも大切な事だ。
そして本人がそのスポーツに対し本気で取り組もうと思った時(好きだからもっとうまくなりたい、試合に勝てるようになりたいと思った時)、自分ひとりのやり方では行き詰まってしまったと感じた時、きっとコーチの声に耳を傾け、基本動作の練習の必然性を感じ、自らランニングや素振りをするようになるのではないだろうか。
これがスポーツに触れ合っていく自然な流れであって、この流れには2つの重要なポイントが存在すると考える。
1点目は、前述したように、まず最初にそのスポーツが楽しい、好きと思う気持ちを持つ事である。
取っ掛かりで持ったその気持ちこそが、今後ずっと育てていく自分の心の中の小さな種であるし、その種を少しずつ育てていくのが育成だと考えるからだ。
そして2点目は、練習する意味を知る事である。
スポーツを始めるにあたって、いきなり基本動作や素振り、ランニングをさせても、一体何故それをしなければいけないのか、それが本当に自分に必要な事なのかを、いくら言葉を尽くして説明してみても、真に理解する子供は少ないだろう。
何故それをするのか?それが今の自分に本当に必要な事なのかも解らず、ただ命じられた練習だからやるでは、練習の効果は押して知るべしである。
そうならない為にも、その子自身が自ら試行錯誤し、自分がもっと上手くなるには、もっと勝てるようになるにはどうすればいいのかを考える事は非常に重要な事である。

現状の多くの日本のスポーツ団体のやりようは、入った瞬間からもう既にそのスポーツが好きで、上手くなりたい意思を持ち、基礎が大切だと理解した子供を相手にしているという前提に立ってスタートしているという事に等しい。
この根拠のない大前提に立ったスタイルでスタートし、またその中で育ってきた日本の選手は、コーチの言われた通りに動き、(言われた事しかしない・出来ない)また、皆、同じようなフォーム、同じようなプレーをする傾向がある。
これに対し、まずは自分で思った通りプレーし、自分で工夫する、コーチもそこから更に長所を伸ばす様に指導をするような国では、独特なスタイルの選手が多く見られる。
またそういった国の選手達は、コーチから言われた事でも自分に合わない事であればコーチと話し合い、自分のやりたい事をコーチにぶつけ、常に自分がどうしたい、どうありたいかを自分の中に持っている。

ジュニアの指導者が、新人にすべき事は、まず子供達がそのスポーツを好きになるサポートであるべきと考える。
極端に言えば、最初は何もいう必要などないのだ。
子供達は遊びの天才である。道具を持たせ自由にやらせるだけで、その発想の翼をひろげいろいろな事をやるだろう。
時にはヒントを出し、危険と思われる部分だけをサポートすれば、後は見守るのみである。
この何もせず、自由にやらせる事こそが指導である事を、まず認識する必要があるのではないだろうか。
そうしていく中で自分自身の試行錯誤だけでは、うまくいかず落ち込んでしまったり、楽しさをうまく見つけられない子供達にちょっとしたヒントを与え、うまく回転するようにサポートする。
大きな枠組みの中でそこからこぼれそうになった子をうまくその枠組みの中へ返してあげ、そのスポーツの楽しさを子供達自身に気づかせる事が出来たなら、その指導者は非常に優れた指導者といえるだろう。
そういった段階を経て、自ら好きだから上手くなりたい、誰にも負けたくないという気持ちを持つ事で、ハードな練習を支えたり、取り組む姿勢に現われたりするのが本筋の所を、日本では最初から独自の精神論である努力や根性、気合に置き換えて押し付けてしまっているきらいもあるように思えてならない。
勿論、団体である以上、上級者もいれば中級者もおり、また実際の大会へ向けての練習もある中で、大抵の場合、それを指導する人も極少数という事を考えれば、確かに画一的にならざるをえない事情もわからないでもない。
また、新人と一言で括ってみても、新しく入った子供達の中には経験者もいれば、全くの未経験者もおり、どの子に対してどのプログラムを適用するのかといったような実際の現場と、こういった机上の理論とのギャップは少なからずあるだろう。
しかし、出来うる事であれば、既に上達に対して渇望し練習に取り組む子や大会に向けてハードな練習を望む子を指導する体制と、そのスポーツの取っ掛かりをサポートする体制は別の次元で考え、しっかりとした種を蒔いた上で育成をスタートする事を望んでやまない。


次に日本のスポーツ団体の傾向とそのジレンマについて触れてみたい。
一般に日本のスポーツ団体の多くは、いわゆる体育会系と呼ばれるような組織体系になっている事が多い。
体育会系と呼ばれる組織体系では、基本的に代表選手選考以外の部分においては年功序列を原則とし、先輩後輩の位置付けがはっきりしている。
これは日本の様に年功序列を機軸とした社会においては、それを学ぶいい経験の場ともなっており、長い間、よしとされてきた。
ジュニアにとってこの組織の中で自分の立ち位置を認識し、集団行動に順応する事は、確かに人間の育成という観点から見ると利点は多くあるように思われる。
しかしその反面、先輩だから勝てなくても当然というような気持ちにもなりやすく、自身の能力の伸びに、知らず知らずのうちに蓋をしてしまうようなケースも危惧されはしないだろうか。
日本のように学校制度では飛び級の仕組みを認めていない国では、特にこのような話が子供の心の中で当然のように受け止められがちだという事も考慮すべき所だ。
また組織側としても、学校の部活動では教育があくまでも基本理念である事、地域のスポーツ少年団といえども、全体の調和を重んじ、ある程度平等な精神の上に活動されている事も重なり合って、日本では一人の才能を徹底的に鍛え上げるような体制をとりにくい事は前述した通りだ。
更にジュニアの育成について、その存在を切り離せない親からすれば、いくら才能があるとはいえ、他人の子に対し指導が集中するような状況は看過できるものではなく、当然、問題としたり、そこを辞めさせてしまうというような事にも繋がりかねず、それはいわゆる一般のスポーツ団体にとっても本意とする所ではない。
いくらコーチがその才能を認め、伸ばしてあげたくとも、組織の事情もあいまってなかなかスムーズに事は進まず、では個人的でとなっても、肝心の親の意向や経済的な理由で、それが出来ない事もままある話だ。
この様に個人にしても、また指導する側の人間にとっても、いわゆる一般のスポーツ団体の仕組みの中では、一個人の才能を昇華させるのに適した環境とはいえないのが実情で、どちらかといえば組織力で戦うチームスポーツを強くするのに、向いた仕組みといえるだろう。

しかし、テニスに至っては完全なる個人競技であり(ダブルスはあえて置く)、小さな頃から年齢など関係なく、他の選手を押しのけても伸し上がる位の精神を持たねば、世界のTOPになる事は叶わない。
持てる才能を、常に高いレベルの環境に身を置く事で開花させていく環境は、今や必要不可欠になりつつある。
世界では、選手育成を商業ベースにのせて行う組織や、国の制度の中にエリートスポーツ選手を育成する仕組みを持つ国、あるいはそういった国に自国の才能あるジュニアを送り込んで、自国代表に還元させる手法を取る国など、個人の才能開花に貪欲な姿勢が今や当たり前の時代である。
日本でも、プライベートレッスンやジュニアの強化合宿など、個人または選ばれた者のみを育成する手法が全くないわけではないが、もっと露骨なアプローチ(営利目的の選手育成や代表選手強化の為のジュニア輸出プログラム等)があるべきだと感じる。
とりわけ、世界から経験豊富なコーチやスタッフを招き、TOPプロの養成やテニスで生計を立てる為の支援までを包括的に行う団体、アカデミーの設立、それらに対する補助政策といった部分に関しては急務であると考える。


ここまでは、組織や団体、そして抽象的な事柄に対しての話題だったが、もう少しテニスに対し具体的な部分については、ジュニアの育成(その2)で触れていく事としよう。

ジュニアの育成(その2)へ続く

※ここに書かれている事はあくまでも私見であり、必ずしも万人が納得するものとも思っておりません。
 ご意見は頂戴いたしますが、荒れると思われるようなコメントはお控え下さい。

posted by tenniscom |00:25 | テニス | コメント(12) | トラックバック(0)
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2008年11月14日

ATPツアーMVP

まだシーズン最終戦の途中ではあるが、私の選ぶ今年のMVPについては、既に決定しているので、勇み足ではあるが書いてみようと思う。
私が個人的に選ぶ今年のATPツアーMVPはといえば、全仏全英を連覇し№1に上り詰めたナダルでも、自身初のグランドスラムタイトルを獲得したジョコビッチでもなく、M・サフィンだ。
シーズン終盤には、また思うような結果が得られず、引退を匂わすようなコメントまで飛び出したサフィン。
確かに彼のキャリアからすれば、今シーズンも決して良いものとは言いがたい結果だったし、パリ・マスターズの結果たるや惨憺たるもので、本人もさぞやがっかりしたに違いない。
では何故サフィンがMVPなのか。
それは彼のテニスに取り組む姿勢に対し敬意を評するからに他ならない。
確かに身体能力にこそ恵まれてはいるものの、決してテニスセンスあふれる選手だと、私は彼の事を思っていない。
彼のコート上で見せるパフォーマンスは、全て彼が努力の上に勝ち得たものだと思うのだ。
過去2度のグランドスラムを制覇したチャンピオンに対しては甚だ失礼な言い様かもしれないが、彼のシニカルなコメントやコート上で見せる荒々しい気迫とは裏腹に、プレーそのものは実にシンプルかつ基本に忠実な事がそれを示していると感じている。
2005年の全豪以来、これといった華々しい活躍もなく、今年もシーズン前半は結果を出せずにランキングを90位台まで落としていた。
誰もが、今度こそもうサフィンは終わったと感じていたのではないだろうか。
そんな中、自分でも苦手だと公言していたウィンブルドンで、波に乗るジョコビッチをストレートで破った事は、周囲を驚かせるのに十分な出来事だった。
ジョコビッチにしてみても、今年の全豪優勝以来、TOPの2人以外に負ける事など考えていなかったのではないだろう。
その試合後、サフィンはインタビューの中でこう答えている。

「自分に対する義務がある。
目標を決めて。年の半ばで投げ出すわけにはいかない。
3ヶ月結果が出なかったら、自分にまたチャンスをあげなきゃいけない、またトライするんだ。
自分の半分しか努力してない、自分がコートで過ごす時間の半分しか過ごしてない人たちが勝つのを見ると少し悲しい。シーズン前に信じられないぐらい努力した。
でも今季の初めは全く結果が出なかった、どこへ行っても負けてた。
それでもジムに行って練習も続けた。もう結果が出ていい頃だ。
もちろん簡単じゃないけど。
負けて、負けて、また負けているのに毎日毎日自分をプッシュし続ける、コートに出て、ジムに行って、毎日の練習をこなすんだ。」

我々は表向きの試合の結果しか眼にする事は出来ない。
そしてプロである以上、結果で全ての物事を語られるのも仕方のない事だ。
だからこそ、あの試合に勝ってサフィンの言った「自分に対する義務がある」の一言は非常に重い。
駄目な時、うまくいかな時に、自分へ課した目標へ向かって自身に対する責務を全うし続ける事は、言葉で言うほど簡単な事ではない。

パリでの惨敗の後、テニスへの情熱を失いかけたコメントを残して姿を消したサフィン。
今は、誰の言葉も彼の心に響くことはないかもしれない。
しかし、彼は必ずや戻ってくると私は信じている。
何故なら、雨の日も風の日も、よかった時も、悪かった時も、コートはいつもそこにあって、両手を広げ彼が来るのを待っていた事を、気がつけばラケットとボールがいつも古きよき友人のように、いつも彼の傍らにあった事を、きっと彼ならば思いだすと思うからだ。

今はひっそりとした山奥でビールでも飲みながら過ごしているかもしれないサフィンに対し、何の価値もありはしないが、私から最大の敬意を込めてシーズンMVPをここに送ろう。

posted by tenniscom |17:21 | テニス | コメント(2) | トラックバック(0)
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2008年11月08日

ATPマスターズカップ

いよいよ、今年も大詰めのマスターズカップが来週から開幕となります。
出場選手は、もう皆さんご存知の通り以下の8名。
レッドグループ
 フェデラー
 マレー
 ロディック
 シモン
ゴールドグループ
 ジョコビッチ
 ダビテンコ
 デルポトロ
 ツォンガ

こうして並べると、ランキング1位のナダルこそいないですが、さすが今年のATPツアーを彩ってきたプレーヤー達が、ずらりと並んでます。(当たり前ですが)
個人的に一番応援しているのは、G・シモンですが、このメンバーに入るとさすがに厳しさは否めないですね。
でも、彼の事です、きっと何かやってくれるでしょう。
対戦相手にすれば、非常に嫌な相手である事は間違いありません。
そしてやはりナダルの欠場は残念ですね。
例年、ウィンブルドン後のハード、インドアシーズンでは膝の故障に苦しみ、失速する彼ですが、今年はトロント、その後の北京までほぼ勝ち続けハードでもその強さを見せ付けていただけに、シーズン後半もナダル一色になるかと思われましたが、やはり彼のプレースタイルで、あの試合数とあってはいたしかたないのかもしれません。

さて大会展望の前に少しだけ前置きを。
個人的に、来年の男子テニスツアーは5強になると予想をしています。
その5強とは、ナダル、フェデラー、ジョコビッチ、マレー、デルポトロ。
ここ数年間、1位フェデラー、2位ナダルの2強状態で安定していた男子ツアーも、去年後半のジョコビッチの台頭により、今年は3強の様相を呈して始まったわけですが、シーズン中盤にはナダルが圧巻の活躍でランキング1位を奪い取り、そしてシーズン終盤へきて本格化したマレーが一気に3強へ割って入る勢いを見せ、現段階では4強になりそうな気配を見せつつあります。
そしてここへ、将来必ずや№1になるであろうデルポトロが加わって、来年はこの5人で激しくポイントの奪い合いになるであろうと私は見ています。
だた、クレーでの圧倒的なアドバンテージがある分、№1の座はナダルで動かないとはみていますが。

それを踏まえた上でマスターズカップの展望ですが、前置きで名前の出た5人のうちナダルを抜く4人はというと、各グループに2人づつ入っており、基本予想としては、この4人が決勝ラウンドという事になるのですが、後はここ最近の勢い、状態を加味する必要があります。
フェデラーは直前のマスターズシリーズを自身の経歴初となる棄権で終えている事を考えれば、勢い、状態が決していいとは言えません。
但し、前回の決断がのマスターズカップを視野にいれての事であれば、状態に関してはそこまで悲観する事もないかもしれない上に、やはり過去の実績からも多少のアドバンテージがある様に思われます。
ジョコビッチは、シーズン前半の勢いこそ感じられませんが、シーズン後半に限っては、この中で一番消耗していない様に感じるので、まあ、そこそこはやるでしょう。(あまり気負いすぎてるといい結果が出ないように思います)
マレーは、ウィンブルドン以降の充実ぶりは前述した通りですが、さすがにここへ来て若干お疲れ気味とあり、少し割引評価。
日本にファンの多いダビデンコ、ロディックですが、そこそこやってくれるでしょうが、どちらかというとTOP選手には弱い2人だけに、今回もどうかなといった所。
私が最も評価するデルポトロは、この8人の中では一番経験値が低い事、足の怪我等でちょっと今回は厳しい展開が予想されます。
パリを制したツォンガですが、勢いではダントツ、更にシーズン序盤の活躍だけで終わらなかった事は、本人にとって非常に大きな自信に繋がった事と思います。
そういった意味でも、ここでも一発がありそう。
そして応援しているシモンですが、まあ、彼には彼流で頑張ってもらいましょう。
このシモンが何処で頑張るかが、グループリーグの鍵を握る気がします。

という事で、レッドグループはシモンが変な頑張りをしない限り、フェデラー、マレーの2人、ゴールドグループはジョコビッチ、デルポトロ、ツォンガの三つ巴からジョコビッチ、ツォンガを予想。
フェデラーは今年マレーに負け越してますが、今回はフェデラーに軍配が上がりそうに思います。
マレーのサーブが確変モードに入ってしまうと、マドリッドの時の様になってしまう可能性はありますが。
ゴールドグループは、どの試合も長く激しいストローク戦が見られそうです。
それだけに、足の爪の怪我が心配なデルポトロは1枚割引とさせてもらいました。
こう書いてみると、我ながら実にありきたりな展望です。(苦笑
準決勝の組み合わせにもよりますが、何となく決勝はフェデラー、ツォンガの顔合わせになり、フェデラーの3連覇、通算5度目のツアー最終戦優勝となるのではないかと思っています。
そもそもこの2人は、今年の頭、話題を独占した2人。
年内にサンプラスの持つグランドスラム14勝を抜く事は当然視され、年内グランドスラムもあるかと思われたフェデラーがジョコビッチに完敗し、怪我で才能開花に時間のかかったツォンガがナダルに完勝して、一躍脚光を浴びたのはまだ記憶に新しい所。
しかし今年の最後は再びフェデラーに光は射し込むように思います。
さてはて、結果はいかに。
今年最後のTOP選手の競演を、皆さんと一緒に堪能しましょう。

posted by tenniscom |22:44 | テニス | コメント(0) | トラックバック(0)
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2008年10月31日

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(5)

日本人のメンタリティー

見ている人が思う以上にテニスはハードなメンタルスポーツだ。
「テニスに勝つには80%のメンタル、20%の技術が必要だ」だとか「TOPハンドレットの選手には技術の差は殆どない、あとはメンタルな部分の差だけだ」といった選手達のコメントは、それを如実に物語っているだろう。
他の多くの競技と違い、テニスは試合中に一切のコーチングをうけてはならない。
うまくいかない時、苦しい状況の中でも、たった一人、自分自身だけで、おかれた現状を打破する事が出来なければ勝利の2文字を手に入れる事はかなわない。
その為には、強い精神力、集中力が必要とされる。
前4回では、環境・身体能力・文化という側面からみてきたが、今回はこの重要であるとされるメンタル面について取り上げてみようと思う。

昔から日本では、諸外国とは違いスポーツの世界においても精神論に常に重きが置かれてきた。
これは文武両道の言葉が示すとおり、日本でのスポーツの原点といえば武道であり、武道では技術そのものより、精神の修練に重きを置き、最終的な目標も無我の境地というような精神世界とされるほど、精神修行を重要視してきた事に由来すると思われる。
現代スポーツにおいても最高のパフォーマンスを発揮する為に、メンタルが非常に重要であるという意味においては、この精神論は正解であり、そういった事が本当に鍛えられるのであれば、スポーツ選手が座禅や滝打ち修行を練習に取り入れたり、一心不乱に技の修練に精を出すのも悪くはないのかもしれない。
しかし、私は「気合」や「努力」、「根性」を前面に押し出したスポーツに対する姿勢、そういった精神論というやつは、最高のパフォーマンスを発揮する為のメンタルとは多少赴きが異なると捉えている。
日本の体育会系での練習といえば根性論抜きには語れないという位、このしごきあげ式の練習は、昔からほぼ一般的に行われてきており、そういった側面もあって日本の選手の練習量というのは、多くの場合、諸外国の選手に比べて勝る事はあっても劣る事はない。
確かにこの根性論に基づいた練習により培われる部分の恩恵というものは、存在するように思われる。
練習に裏打ちされた自信でなければ、試合中に揺らいだ時には脆く崩れ去るだろうし、追い込んだ練習をしてきたからこそ、試合中、土壇場の状況の中で出せる力というものもあるからだ。
しかし、日本の精神論は、それだけに留まらず、練習の多くが根性論に偏りすぎ、試合でミスをすれば気合が抜けているとされ、結果がでなければ努力が足りないとされてしまう様な傾向がある。
以前、学生野球の日米交流試合の特集で、試合にかったのに、その試合でのミスについて監督からしかられている日本人を見て、アメリカの学生が「負けて叱られて、勝っても叱られて、日本の学生は一体何を楽しみにスポーツをやっているのか?」コメントをしていたのを、今でも覚えている。
それは当然の事で、アメリカでは試合に勝った時には、コーチを含めみんなで喜びを分かち合うのが当然であって、常に勝って兜の緒を締めようとする日本の精神論など、説明しても心底、納得はしてもらえないだろう。
現実には、勝ちたいと思えば思うほどミスは出てしまうものであるし、気合が入れば入るほど空回りしてしまう事もある。
人間である以上、長い試合時間の中で、ずっと最高の集中状態を保つ事も非常に難しいものだ。
そういった事で悪くなった流れを、もう一、ひっくり返して掴んだ勝利や、チームメイトのカバーによって勝利を手にいれる事が出来たなら、それはそれで評価すべき事だし、素直に喜ぶべき事だろう。
そのミスに言及してしまっては、「戦いに勝った後こそ、兜のひもを 締めるくらいの慎重さを持て」ということわざの真理が、実際にプレイしている選手にとっては、ひとつもミスが許されないという追い込まれた心理に摩り替わってしまうのもあるのではないだろうか。
試合でベストのパフォーマンスを発揮するという事は、あらゆる事から開放され、その時・その瞬間のプレイに集中する事で実現されるものであり、少しでも、ここでミスをしてはいけないと恐れるような精神状態になってしまっては、ベストのパフォーマンスなど期待できるはずもない。
日本の精神論が「過ぎたるは及ばざるが如し」になってしまっている顕著な例といえよう。
国際舞台での日本選手のプレイッシャーへの弱さは、あらゆるスポーツで見受けられる。
ここという大事な局面で、力みすぎたり、弱気なプレイをしてしまったりというのは、必要以上に、いろいろなものを背負っているという自覚を持つが故に、背負っているものに押しつぶされた姿に見えるのは私だけだろうか。
こういったメンタリティーの背景には、ジュニアの頃から長きに渡って、日本の精神論によるコーチングを受けてきた影響があるように思えてならない。

もう一つ日本人のメンタリティーとして挙げられるのが、リスクを犯してでも攻撃しポイントを奪い取るより、ミスをしない事で試合を有利に導く事に、より重きを置く傾向があるという事だ。
私がテニスをプレイしていて、よく耳にする言葉に、「強打して取っても1ポイント、相手がミスをしても同じ1ポイント」というのがあるが、これはレベルが低ければ低い程、有効な戦術であり、(つまりは私のレベルが低いという事なのだが)そういった意味では、ジュニアで手っ取り早く勝ちに繋げたければ、こういった方向でプレイしたほうが結果に繋がりやすい。
強打してミスするよりも、確実に相手の嫌な所へ落とす事で、勝利を掴む事は、慎重で相手に隙を見せない試合を良しとする日本の精神論にも合致する。
また、ジュニアの指導者・コーチなどは常に親からの視線、期待(中には直接口を出す人もいるだろう)を受けて、選手を指導し、多くの場合、早く結果を出す事を求められてもいる。
となれば、そういった指導方針になってしまわざるを得ない事情も察するに余りある。
しかし、世界のTOPランカーは、すべからく皆チャレンジする精神を持ち合わせている。
苦しい時こそ、前に出て、厳しい状況の中でこそ攻める気持ちを持たなければ、勝ちは拾えない事を知っているからだ。
また、普段のプレイにおいても常にトライする事を忘れない。
相手のセカンドサーブになれば、殆どの場合、ハードヒットしてリターンエース、もしくはリターンから崩して自分のポイントに繋げようとする。
セカンドサーブを叩かなければ、ほぼノーチャンスな世界で戦っている彼らにすれば、当然のプレイである。
また、サーブだけでなく、ストロークにおいても、常にフォアに廻り込む瞬間を虎視眈々と狙っている。
少しでも甘いボールがくれば、フォアで叩き込む姿勢でなければ、ラリーを制する事はかなわないからだ。
こういった世界を目指すのであれば、ジュニアの頃からチャレンジし続ける事が大切な事は、自明の理だろう。
喩え普段のプレイが攻撃的であっても、試合になれば、守りに入ってしまったり(そういう精神状態になったり)、大事なポイントになれば守りに入ったりするのが人間の心理である。
そこで常にプッシュし続けるメンタルを持つには、小さな頃から普段の練習の中でミスを指摘するよりも、チャレンジする大切さを常に前面に指導し、むしろチャレンジすべき所をしなかった時こそ、叱咤激励すべきだろう。
ミスをすればするほど、ミスを恐れれば恐れるほどラケットは振れなくなるものだ。
しかし、そういった時にこそもっとラケットを振っていかなければ勝利を手にする事はままならない。
ジュニアであっても、メンタルは常に世界のTOPプレイヤーと同じでなければならないと考える。
目先の結果ではなく、先に広がる世界の事を念頭においた指導によって培われたメンタルというものが、日本の男子テニスが世界の扉を開く一つの重要なファクターであると思えてならない。

更に、もう一つ取り上げておきたい事は、物事には努力・根性でカバーしていいものと悪いものがあるという事だ。
確かに、努力や根性というものは、決して悪いものではなく、スポーツの世界であれば必要不可欠のものではある。
強いメンタルには気合や根性が必須であるし、その根底を支える力は努力によって培われるものだからだ。
日々の努力なくして成功や栄達は望めないし、時には自分をとことん追い込んだ練習も必要であろう。
しかし、何もかも努力が足りない、根性がないに結びつけてしまうのは、過ちの始まりでもある。
試合に勝てなかった時、努力が足りなかったといって、更なる猛練習に取り組むのは日本ではありがちな光景だ。

勿論、相手に勝ちたければ、それ以上に努力する事は間違ってはいないが、遮二無二今までの練習を更にハードに繰り返してみた所で、結果が得られない場合もある。
何故なら結果が得られない原因がベストのパフォーマンスを発揮できる体調でなかったり、練習の方向性を間違えている場合もあるからだ。
ベストの状態を作り上げる為には、精神的にも肉体的にも休みが必要であるし、また、自分の弱点をカバーしようという練習をいくら積んでも、決定的な武器をもっていなければ、結局、試合には勝てないかもしれない。
勿論、このような単純な事例においては、今の現場では、根性論一本やりという光景もあまりみられないだろうが、もっと細かな部分で、この様にその時々に必要な要素は違うにもかかわらず、努力や根性と言ってしまっている部分はないだろうか。
こういった行き過ぎた努力・根性論の一番の弊害は、考える事を止め、猛練習する事で自己満足してしまう所にある。
勝てなかった理由を考え、自分に何が足りなかったかを考えた上で、必要な練習をいつもと同じだけする。
大切なのは自分で考えるという事、そしてその答えに対して練習を積む事、時にはコーチと意見をぶつけ合う事であるのに、それをせずに努力だ根性だと猛練習で蓋をしてしまっては、先行きが明るくなるはずもない。
日本の根性論で育てられた選手は、監督やコーチに服従し、いわれた事だけを行うような選手が少なくない。
しかし、テニスの試合では選手はいつも一人なのだ。
コートの中では、実際のプレイ以外の時間も、常に自分のメンタルは試されている。
うまくいかない時に、どうすればいいのか、どうやって現状を打破するのか、そこを自分自身で切り開く力を育成する為には、小さな頃から自分で考える事は、とても大切な事だと考える。

メンタルという事で非常に抽象的な表現が多くなってしまったが、日本の全ての指導者及び団体が、同様というわけではなく、独自の方針、方法をもってメンタル強化に取り組んでいる指導者も少なからず存在する。
また、上でも述べたが「気合」や「努力」、「根性」といった精神力は、決して悪いものではなく、強いメンタリティーの重要な構成要素である事は間違いない。
しかし、テニスはスポーツであり、スポーツの基本は楽しむ事にある以上、必要以上に追い込む必要もなければ、背負う事もないのだ。
得にジュニアに対しては、指導者による選手がのびのびプレイできる環境作り、より攻撃的に決めにいくテニスの実践、自分に何が必要か、どうすれば勝てるかを考える機会の提供を提言したい。
また、メンタルという意味では、島国という閉鎖的環境で育ったプレーヤー特有の世界に対する気後れをなくす為にも、早くからの国際経験も非常に重要であろう。
これら前提の上に日本特有の努力、根性があれば、世界に通用するメンタルを育てる事が出来るのではないだろうか。

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(6)へ続く


※ここに書かれている事はあくまでも私見であり、必ずしも万人が納得するものとも思っておりません。
 ご意見は頂戴いたしますが、荒れると思われるようなコメントはお控え下さい。

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2008年10月24日

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(4)

前3回では、テニスに特化して書いてきたが、いくつもの要因の中にはもう少し包括的に捉える必要があるファクターもあると考える。
純粋に日本で育ったプレーヤーがなかなか世界で活躍出来ないという結果になっていると考えられる要因について、今回は、そういったものを拾い上げてみようと思う。

日本のスポーツ環境

近年、体格に優れた東欧諸国の選手の活躍が目立つ男子テニス界だが、そんな中でも、伝統的に数々のTOPのプレーヤーを輩出してきた西欧諸国は、今でも非常に厚い選手層を持つ国が多い。
西欧諸国は、テニスのみならず、サッカー、自転車のロードレース、バスケット、バレーボール、ラグビーといった競技でも、TOPプレーヤーを多く出すなど、常に国際的なスポーツをリードしてきた。
国土こそ日本より広いものの人口は日本のより少ないこれらの国々で、何故これほどまでに、TOPアスリートが生まれるのか、ここを掘り下げてみる事で、逆に日本の男子テニスが世界で通用しない理由の一つを解き明かす事ができないだろうか。

西欧では、ジュニアがスポーツを始める場合、学校ではなく、地域のスポーツクラブで始める事が多い。
スポーツクラブには、小規模クラブから世界に名だたる巨大クラブまで、また、単一スポーツのものから、いろいろなスポーツが一つの場所で楽しめる総合スポーツクラブまで様々ではあるが、スポーツを楽しむだけでなく、そのどれもが地域住人に愛され、憩いの場ともなって定着している。
これらは、施設の所有は行政、(巨大クラブであれば自前の施設であるが、これも行政からの補助がある)運営はクラブ又は、行政・クラブ共同というのが一般的で、地域ぐるみかつ、官民一体となり地域のコミュニティーを形成し、ジュニアのスポーツへの足がかり的な役目として機能している。
運営費は地域住人(会員)の会費によって運営されているが、(巨大クラブになればテレビ放映料やグッズ販売益)スタッフに関してもボランティアや、地域の住人の副業等、協力を得ながら支えられている。
そして多くのスポーツクラブは、地域住人の誇りとなり、またスポーツの魅力を伝えると共に、各種スポーツのジュニア育成を担っていたり、世界(プロ)へ直結するルートを保有していたりもする。
この様に、西欧では行政も人民のスポーツ権をしっかりと認め、地域に根ざしたスポーツクラブを軸に、自然にスポーツに触れ、趣味としてスポーツを楽しんでいく人、地域のスポーツクラブを支える事に意義を見出す人、プロのアスリートを目指す人がうまく融合し、生活の中にスポーツが溶け込んだスタイルとなっている。
子供達は、ここでスポーツと触れ合い、スポーツを楽しむ事がらスタートし、自分にあった道を見つけ、更に自らの技術を磨き、競技レベルの向上を目指す場合には、専門的な指導を仰げるTOPクラブのカンテラであったり、各種アカデミーといった所へステップアップしていく事が出来る。
こういった背景が、数々のスポーツで才能ある多くのTOPアスリートを輩出する礎となっている事は、疑う余地がないだろう。

一方日本では、子供達は比較的どの地域でもクラブが存在しているサッカーや野球といったスポーツ以外となると、学校でスポーツを始める(クラブや部活動)事が多く、指導も必然的に教員が行うというのが一般的なスタイルとなる。
学校教育でのスポーツから社会人やプロのアスリートという図式は、決して悪い形ではなく、一部、それで成功を収めている競技も存在する。
しかし学校でのスポーツは、あくまでも教育が基本であり、技術や戦績よりも、スポーツを通しての人格形成、協調性、礼儀などに重きが置かれ、個人よりも団体が優先される傾向にある。
一人の卓越した素質があろうとも、そこだけに指導、資金を集中し、他を疎かにする事は許されない。
また、教員が指導者である事は、指導者のレベルの差に目を瞑らなければならない側面も有している。
必ずしもその競技の経験者が学校内の教員にいるとは限らないし、また、経験の有無以上に、その教員の情熱に差がある事の方が大きな問題となってくるからだ。
教員の立場からいえば、本来の職務とは別に付属的な活動であって、そこへ情熱をかけなければならない義務もなければ、本分である学業に力を注ぎたいと考える人がいてもなんら不思議ではない。
学校でのクラブ・部活動は無料で、所によっては非常に熱心な指導が受けられるというメリットもあるが、これにも格差がありすぎたり、学区の制約で自由に進路が選択できなかったりと、当たりはずれの要素が強い。
また、公共の施設であるにもかかわらず、学校のスポーツ施設(グラウンドやコート、体育館等)は、その学校の生徒専門の施設となり、殆どの場合、一般の人は使う事が出来ない。
さらにその学校の生徒といえども、いつでも自由に使えるわけではなく、監督者(教員)がいない場合は、空いていてもただ遊ばせておくスペースとなってしまう。
こういった事が、公共の施設数の割りに、地域住民に供給が行き届かない原因の一つともなっている。
日本でも近年では、西欧に習い、公共の総合スポーツセンターが、各地域に建設されてきたが、その数はスポーツ愛好家の需要に全く足りておらず、また行政の押し付け的な手法と地域住民の意向との乖離が甚だしいのが現状だ。
休日にスポーツを楽しもうと思っても、2ヶ月前に予約、それから抽選というような状況で、運良く当たったときだけ利用できるでは、とてもではないが一般の人が気軽に楽しめるような環境とは言いがたい。
それなら、民間のスポーツ施設を利用という事になるのだが、民間で施設の管理から運営まで行っていく事は容易ではなく、また税制面でもスポーツ施設は非常に苦境に立たされており、その数を年々減らしているのが実情だ。
更には、体を鍛えるならフィットネスクラブ、ゴルフならゴルフ練習場、テニスならテニスクラブと、それぞれ専門的かつ会員精度を有しており、全くの素人が利用するには敷居が高く、とりあえずそこへ行ってみようというような場所にはなっていないという面でも、日本では地域で気軽にスポーツに親しめる環境が整備されているとは言いがたい。
この民間のスポーツ施設の減少、スポーツ施設が地域のコミュニティーになりえていない現状は、地域によっては、自分のしたいスポーツが出来ないといった事に繋がり、そういった事で、若く才能あるジュニアが埋もれていってしまうケースも十分に考えられる。

ここまであえてスポーツという枠組みで書いてきたが、ことテニスに絞って考えてみても、上に書いたような事は決して例外とはいえない。
地域に根ざしたスポーツクラブの形態がうまく機能している西欧に比べ、日本ではテニスを始める敷居も高く、気軽に楽しめる場所も少ない。
更に、日本では、テニスの試合をテレビで見る事も叶わず(一部有料放送のみ)、TOPプレーヤーを間近に見る機会もほとんどないとなれば、子供達がテニスに夢を持つ事など殆どないのは、当然の成り行きであろう。
自然に子供達がテニスに触れ合っていく形が出来ていない上に、学校ではソフトテニスが中心である事、また子供達が夢を持つような環境整備が出来ていない事を踏まえると、日本の硬式テニスの底辺が世界に比べ脆弱であるのも無理からぬ事といえる。

また、スポーツクラブの運営以外においても、フランスやイギリスでは、政府の手によってスポーツマンの育成が図られており、テニス協会が国内テニスクラブを組織化し、トップ・プレーヤーの育成・支援を行っている。
更には4歳,5歳といった子供達に対しても「ミニテニス」と呼ばれるプログラムを用意して、自然にテニスに親しむことができる環境をサポートしたりしている。
これら全ては、行政からの一方的な押し付け制度ではなく、きちんと一般市民のスポーツ権に根ざした取り組みとして成功しているのに比べ、日本では、このような行政の取り組みがうまくいくケースは稀である。
これは、上記でも書いた日本の総合スポーツセンターのように、従来の形式や地域住民の声を無視した形で行政が形式だけを持ち込もうとした結果、うまくいかなかった顕著な例であり、取り組み自体はしているものの、全く結果に繋がらない悪いパターンといえるだろう。

ここまで日本のスポーツ環境に対し、否定的な意見を書いてきたが、全てが悪いわけでもなく、現状で一定の成功を収めている競技も少なくはない。
また西欧の仕組みをそのまま日本に持ち込もうとしても、風土も文化も違う国では、うまくいかない事を我々は十分に学んでもきたはずだ。
しかし、ことテニスにいたっては、現状のままでは、やはり西欧のシステムに一日の長があるのは否めない。
ここに、日本の男子テニスが世界で通用しない理由を全て押し付ける事はできないが、やはりTOPプレーヤーを生み出す土壌をしっかり整える事が、世界への最も近道であるようにも感じる。
これはこれで短絡的に、こうすれば全て解決というようなカンフル剤が存在する問題ではないのだが、少なくとも、民間スポーツ施設への補助や、税制の見直し、学校を含めた公共スポーツ施設の一般開放、そして地域ぐるみでのスポーツへの取り組みの推進に自治体が積極的に策を講ずる等、出来る事から少しづつ変えていくことが、明日につながっていくのではないだろうか。

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(5)へ続く


※ここに書かれている事はあくまでも私見であり、必ずしも万人が納得するものとも思っておりません。
 ご意見は頂戴いたしますが、荒れると思われるようなコメントはお控え下さい。

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2008年10月20日

マドリッドマスターズ

昨日、マドリッドマスターズがA・マレーの優勝で幕を閉じた。
決勝は、大方の予想を裏切る形で、A・マレーvsG・シモンの対戦となったわけだけど、この顔合わせになったからといって、全く盛り下がる事はなく、多くの人が楽しめた決勝だったように思う。

この2人、テニスのウェアの配色が実に対照的で、そこにその人となりが現われているように感じる。
マレーはスコットランドの田舎町ダンブレーンの出身で、ウェアもいつもベージュやグレーといった地味系、スターダムにのし上がった今でも、その垢抜けない印象は変わらない。
一方のシモンは、世界的保養地でも有名なフランス・ニースの出身、ウェアは黄色に黒、まさにこれ以上ない、どぎつい配色ながら、これをさらっと着てしまえる伊達男。
テニスインストラクターを親に持つマレーは、テニスに関しても、ある意味、生真面目であったり実直であったりという姿勢で、どちらかといえば消極的。
シモンはといえば、医者の母を持ち、比較的自由奔放に育ったせいか、多くのTOP選手が持つ勝利への執着心みたいなものが表からはあまり感じられず、よく言えば、いつも余裕があるように感じられる。
テニスは粘り強いタイプで、マレー同様ベースラインより下がって打ち合うタイプだが、その内容は強打が多く、消極的な印象はあまりない。 

決勝の内容は、もう他のブロガーの方も詳しく書かれているので省くとして、ここでは個人的な感想だけを書くとしよう。
個人的には、何とかシモンにもう少し粘ってもらって、フルセットに持ち込んでほしかった。
しかしながら、この日のシモンの動きには、前日の対ナダル戦の疲れの影響がありありと出ており、特に序盤の体の切れはいつものシモンとは比べものにならない程、悪かったように思う。
一方、マレーもひざの状態が万全でないとの報道もあり、心配されたが、100%ではないが、マレーらしいパフォーマンスは発揮できていたように思う。
ストローク戦も見ごたえは十分ではあったけど、次はもっとお互い万全の状態での試合も見てみたいという気持ちになった。 

優勝したマレーはUSオープン準優勝をはさんで、マスターズシリーズ2連勝と、今や完全に覚醒した感があるね。
以前から、プレー1つ1つには高い素質を感じさせるものがあったけど、どこか不安定だったり、いい時と悪い時のムラがあったりと今ひとつ伸びきらない所があった。
それが、ウィンブルドン以降、メンタル部分の著しい成長につれて、各ピースがピタッと収まるようになった感じがする。
今大会のプレーも、サーブとリターンが非常に良く、ストロークには粘りがあって、決して無理はしないが、行くべき所ではきっちりと行くというメリハリがある内容だった。
その中でも1番光っていたのは、リターンで、これによって相手サービスゲームであっても、常にプレッシャーをかけたゲーム展開を作り出す事に成功していたと思う。
次にサービスだが、1stサーブは、いまだムラがあり、入る時には手のつけられないビッグサーバー状態になるが、入らない時には全く入らなくなってしまう所が見受けられた。
しかし、対フェデラー戦の2セット目、3セット目の様ように、きっちり入った場合は、非常に高いPointsWonを叩き出すだけに、今後、更に安定するとなると、マレーのテニスはもう1段延びる気がする。 

片や準優勝のシモン。
今回の大会で個人的にMVPを与えるとしたら、このシモンで間違いない。
何といってもSFでのナダルとの一戦は、今年の私の選ぶベスト10マッチに入る好ゲームだった。
去年、今年と、その充実ぶりには目をみはるものがあるけれど、先にも書いたように、何といっても彼は独特の雰囲気をかもし出していて、他のTOPプレーヤーとは少し違う感じがする。
あれ程凄いショットを決めるのに、凄くイージーなボレーやスマッシュをミスしてしまうシモン。
しかし、その後の表情が実に彼らしい。チャレンジの時のリアクションといい、彼のテニスからは、まったく生活臭というものがしない感じがする。
テニスの内容は上でも少し触れたが、基本ベースラインより下がってストロークなのだが、フォア、バック共に実に攻撃的で、相手のミス待ちという印象はあまりない。
特に相手フォアのストレートが甘くなった際に、前に詰めてバックのジャックナイフをライジングで叩き込むシーンには、惚れ惚れするものがある。
そして、忘れてはならないのは、やはりこのシモンもリターンが非常にいい事だ。
現役№1ビッグサーバーのカルロビッチ、威力こそやや劣るものの、それでも200キロ超えで左ききを存分に生かしたナダル、そして調子が良い時は220キロ超えをコーナーに連発するマレーと、いずれをとっても屈指のサーバー達だが、エースをとられつつも、しっかりとリターンゲームを作っていたように思う。
現状のTOP選手はいずれも強力なサーブを持っていて、尚且つ甘いボールに対しては非常に攻めが早い為、このリターン能力が今後、非常に重要なポイントとなっていくように思う。
ともかく、次の大会でも頑張って、是非、最終戦のマスターズカップでもシモンを見たいと思っているのは私だけではないだろう。 


このマドリードの大会は、改めて今のATPツアーの面白さを認識させる大会であったと思う。以前のフェデラー全盛時代、それはそれで面白くはあったが、やはり今のように3強、そしてそれに食い込もうとするプレーヤー達がしのぎを削り、一体、誰が勝つのかわからないという展開は、実に興味深い。
今年は、ジョコビッチがGSを制し、ナダルが新王者となり、フェデラーがUSオープンでその維持をみせた。
しばらくは、この3人がタイトルを独占するかと思われたが、ここへきて完全に覚醒したマレー、古参をごぼう抜きにし、一気にのし上がってきたデルポトロ、この辺りは、今後5強を形勢していきそうな感じだ。
それに加え、古参のダビデンコ、ナルバンディアン、ロディック、フェレール、いつ覚醒してもおかしくないモンフィス、ツォンガ、ガスケと役者が揃っている。
残り少ない今シーズンの大会、年の最後を優秀の美で飾るのは果たして誰なのか。
そして来年のグランドスラムの行方は。
今後も私の寝不足が解消さる事はなさそうだ。

posted by tenniscom |17:40 | テニス | コメント(2) | トラックバック(0)
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2008年10月17日

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(3)

前2回でも書いたように、これは短絡的にこれという1つや2つの要素で語れる事ではない。
いくつもの細かな要因が重なりあって、今までの所、純粋に日本で育ったプレーヤーがなかなか世界で活躍出来ないという結果になっていると考えられる。
それらの中から代表的と思われる要因について、前回に引き続き拾い上げてみようと思う。

日本のテニス文化
日本では、昔からソフトテニスが広く競技され、ローンテニスは近年に至るまでそれほど、大衆化されてこなかったという歴史がある。
これは日本のテニスの創成期にはローンテニスで使用する硬式球を入手する事が困難であった事から、ゴムボールを使用し、学校等で指導・競技されるテニスも同様にソフトテニス主体となったとされている。
これらの歴史を背景に、現在でも中学校での部活動ではソフトテニスが主流で、日本の硬式テニスプレーヤーの中には、プロ・アマ問わずソフトテニスからの転向組みが数多く存在する。
現在でもソフトテニスは、生涯スポーツとされるテニス全般の中でもラケットの重量が比較的軽いこと、ボールが軽く身体的負担が少ない事から老若男女を問わず、幅広い層に指示され、その愛好者は多い。

何故、ここでソフトテニスに触れたかといえば、世界における日本の硬式テニスを考える上で、このソフトテニスは切り離して考える事が出来ない程、日本のテニス文化に影響を与えているからだ。
最初に断っておくが、ここで書く事は、決してソフトテニスがあるから世界に通用しないという事ではなく、またソフトテニスが硬式テニスに悪い影響を与えているという事でもない。
ソフトテニスは、日本が世界に誇る代表的なスポーツであるし、その愛好者は今や、日本や周辺アジアの国々だけでなく、世界に広がりを見せており、これからも是非、反映していってほしいスポーツの1つであると認識している。

まず、最初に触れた様に、日本ではソフトテニスをベースとしたテニス文化の中で、世界の硬式テニスに通用する選手を育てようとしている事を正確に認識する必要がある。
これは、日本の歴史であり、いい悪いの話ではなく、単純な現状把握としての見解である。
日本では、もし小さな子供がソフトテニスを愛好する両親と共にテニスコートを訪れ、親と一緒にテニスを始めるならば、当然ソフトテニスを始める事になる。
また中学生の部活動でテニスを始める時、あるいはテニスを始めようと思った時、周りの人達がソフトテニスの愛好者であったという場合などは、おおよそソフトテニスを選択する事になるだろう。
一方、硬式テニスを愛好する両親と共にテニスコートを訪れ、始めた場合や、世界の硬式テニスのスターに憧れて始めたり、ジュニアのテニススクールに通って始めた場合は、ミニテニスや硬式テニスという事になろう。
この様に、日本のテニスの底辺を支える、テニス愛好者、初心者、ジュニアといった人達は既に、ソフトテニスと硬式テニスに、二分されている状態にある。
これは野球などでも同じ事は言えるが、野球とテニスの違いは、硬式と軟式の違いの差が顕著な事だ。
野球の場合、ゴロの補給やバッティング理論に若干の違いこそあれ、軟式野球から硬式野球への移行は比較的スムーズに行え、基本的に軟式野球で培われたノウハウは、硬式野球でも、ほぼそのまま生かせる。
これに対しテニスの場合、硬式テニスとソフトテニスでは、グリップからフォーム、打ち方、サーフェイスによる特性、ルールに至るまで違いは想像以上に多い。
その為、ソフトテニスから硬式テニスへの移行は決してスムーズとは言い難く、(フォームの矯正、グリップの矯正(バックハンドやボレー)ルール変更、戦術の違い等)この移行の壁は以外と大きなものとなる。
幼少時から、または中学校ではソフトテニスをやってきたから、硬式テニスでも、即おなじようなプレーが可能かといえば、なかなかそうはいかず、結果的に硬式テニスを諦めてしまう人も少なくない。
勿論、ソフトテニスでの経験が、硬式テニスをプレイするにあたって役に立つ部分はあるが、長い時間をかけて体に叩き込んだソフトテニスのプレーを硬式テニスへ矯正するのに時間を要してしまったり、シングルスの戦術自体はまったくの白紙であったりと、やはりジュニアから硬式テニス一筋という人に比べ、若干の立ち遅れる部分は否めない。
ただ、過去には神和住純氏のように、ソフトテニスからその経歴をスタートさせ、日本のTOP選手へと上り詰めた選手もおり、そういった多くの事例からも、ソフトテニス~硬式テニスへの移行がデメリットというわけではなく、あくまでも最初から硬式テニスをしていたと仮定した時に比べ、若干の差があるであろうというレベルである事は正確に認識すべき所だ。
それを踏まえた上であっても、過去のそういった選手達が、最初からその経歴を硬式テニスでスタートさせていたらと想像してしまうのは私だけだろうか。

それはさておき、結果として、日本では、野球とサッカーという人気スポーツを持つ島国の中で、テニスを志す、相対的にみて少ない男子ジュニアの競技人口を、更にソフトテニスと硬式テニスという2つの競技に二分している様な状態になる。(勿論、硬式から軟式、軟式から硬式へ移行は可能で、厳密にいえば二分という表現は当てはまらないが、ここでは上で述べたような理由からあえて二分と表記する)
これは、そういった背景のない国々に比べ、硬式のテニスプレーヤーは相対的に少なくなってしまうのは間違いない。
また、二分するという事は才能も二分する事であり、体格的にも優れ、テニスセンスのある人が、同じテニスであっても軟式テニスのTOPプレーヤーになる場合もあり、結果的に硬式テニスの選手層が薄くなる可能性は否めない。
しかし、これは逆にソフトテニス側から見ても同じ事は言え、先にも述べたように、これは良い悪いの話ではなく、こういったテニス文化を持つ国であるという事なのだ。

そういった背景である以上、日本では、他のテニス先進国より、より多くのテニスの競技人口を獲得していく必要があったのだが、現実はそうはなってはこなった。
これまでも、老若男女を含めたテニスのプレイ人口という事で言えば、決して野球やサッカーに劣るものではなかった。
しかし、この30年間の男子ジュニアのプレイ人口に限れば、圧倒的に野球やサッカーに劣る事は間違いない。
戦後の大衆スポーツを常にリードしてきた野球と、近年、その人気を凌駕しつつあるサッカーが、多くの子供達にとって最初に触れあうスポーツであった事を考えれば、当然の結果だといえる。
この先、日本のテニスが世界で互角に戦っていく為には、まずはここを一番に考える必要があるだろう。
ジュニアのプレイ人口増加を図るには、テニスを気軽にプレイできる環境の整備、地域ぐるみでの奨励、大会の招致、TOPプレーヤーを見る機会の増加、ジュニアの育成強化プログラムの増加と整備といった多方面の事に力を注いでいく必要があると思われる。

また、日本のテニス事情という事になると、ダブルスの存在ぬきには語れない。
まず、一般や公共のテニスコートで、普段我々が目にするテニスは、殆どの場合、このダブルスである。
これはソフトテニスのみならず、硬式テニスであっても例外ではない。
また、一般のテニススクールに通ってみても、当たり前のように、雁行陣の戦術や平行陣の戦術を教え、シングルスの戦術や練習は殆ど行われていない。(ジュニアのスクールはこの限りではない)
これらは、スクール運営上、複数人を一度に教えるといった事情や、少ないコートで多くの人がプレイできる事(人数割りで低料金になる事)、そして個人競技よりチーム競技を好む国民性などにも、起因しているのだが、ダブルスが基本のソフトテニスの影響も多少はあると思われる。
ソフトテニスが中心だった日本では祖父の代、親の代からずっと、ダブルスが親しまれてきた事を考えれば、当然の結果ともいえるからだ。
先にも触れたが、ジュニアのカリキュラムについてはこの限りではないし、過去にはエドバーグのようにシングルス、ダブルス共に世界№1になった選手もおり、また、ネットプレーの上達など、ダブルスがシングルスのスキルアップに寄与する部分もある事をふまえると、ダブルスをやっていたからシングルスのデメリットになるとは考えられない。
そういった意味では、これが直接、通用しない理由とはならないわけだが、TOPになればなるほど、シングルスとダブルスでは必要なスキルの違い、試合中のメンタリティーの差などがあり、そういった部分の養成といった意味では、シングルスプレーヤーの育成に、若干の影響をもたらすとは考えすぎだろうか。
全てのジュニアが恵まれた環境でプレイできるわけではなく、コートの確保の難しさから、コート1面に対して多人数にならざるをえず、結果的にダブルスをプレーする事が多くなったりする事情や、普段から見たり聞いたりするテニスがダブルスである事が、他の国々の選手のように、より多くのシングルスプレーの経験値や、それを持つ者同士の切磋琢磨を繰り返してきた選手との、ほんの少しの差となってきたようにも思える。
勿論、ダブルスも立派なテニスなわけだが、世界で勝てるシングルスプレーヤーを育成するという意識を、より多くの人が持つという事は、やはり大切な事だと考える。

このような、日本のテニス文化、日本独自の事情といったものを踏まえ、この先、ソフトテニスと硬式テニスという2つのテニスが共存する事を逆にメリットとし、いろいろな所で、またいろいろな意味で、垣根を乗り越えて、日本のテニス界を盛り上げ、競技レベルの向上、プレイの推進に取り組んでいってほしいものだ。

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(4)へ続く


※ここに書かれている事はあくまでも私見であり、必ずしも万人が納得するものとも思っておりません。
 ご意見は頂戴いたしますが、荒れると思われるようなコメントはお控え下さい。

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2008年10月15日

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(2)

前回も述べたように、これは短絡的にこれという1つや2つの要素で語れる事ではない。
いくつもの細かな要因が重なりあって、今までの所、純粋に日本で育ったプレーヤーがなかなか世界で活躍出来ないという結果になっていると考えられる。
それらの中から代表的と思われる要因について、前回に引き続き拾い上げてみようと思う。

身体的特徴
これは日本だけに限った事ではなく、いうなればアジア全体の話として捉えてもよいだろう。
テニスも他の多くのスポーツと同様に長身選手が有利なスポーツである事に違いない。
バレーやバスケットの様に絶対的なアドバンテージにならずとも、長身から打ち下ろされる威力のあるサーブは、それだけでかなりの武器になるし、ラケットフェイス1つ分も多く届くリーチもコートカバーリングにおいて有利に働く、また長身であれば、ロブは抜かれにくい上、高く跳ね上がるスピン系のボールに対しても対処できる範囲が増える事は、かなりのアドバンテージとなる。
今年のUSオープンの錦織とデルポトロの試合でも、長身のデルポトロは打ち下ろしのファーストサーブを両サイドへ、そして高く跳ね上がるセカンドサーブを錦織のバック側へ打つ事で、完全にサービスゲームをコントロールする事に成功していた。
デルポトロのセカンドサーブは錦織のバック側でかなり跳ね上がる為、錦織は叩く事ができず、セカンドサーブをうまく攻める事ができなかった。
これなどは、身体的アドバンテージというものが明確に感じられるケースではないだろうか。
現在、多くの東欧の選手が活躍する背景には、この身長というアドバンテージが影響している事は、誰の目にも明らかだろう。
但し、全てのTOP選手が長身なわけではなく、長身でなければ活躍できないという事ではない。
マイケル・チャンの様な典型的なアジア人種体型であっても活躍した選手はいるし、フェレールのように現在のTOP10選手の中にも180cm以下の選手も存在する。
また、前述の錦織も、180cmに満たない身長ながら、世界に通用する事を証明しつつある。
しかし、あまり長身に見えないフェデラーやナダルであっても185cm、ジョコビッチは187cmと、やはりそれなりの身長がある事、その他にも、次世代を担うと言われるマレー(185cm)デルポトロ(198cm)、ガルビス(190cm)等、世界のTOPを狙っていく上で、この身長というアドバンテージは決して小さなものではない事は疑う余地の無い所だ。
また、近代のテニスにおいて、日本の男子プレーヤーの中で最も活躍した松岡修造氏は、日本人としてはかなり大きい部類となる188cmの長身だった。
彼がその長身から繰り出すビッグサーブで世界のTOPプレーヤーと戦ったのは、記憶に残る所で、彼が成功できた大きな要因である事は疑う余地もない。
よく長身選手は、足元が弱いとかボディへの対処が下手とか言われるが、長身であってもタッチにセンス溢れる選手は非常に多く、TOPにいるような選手は、それがマイナスに作用している感は全くない。
更に、TOPプレーヤーには、長身でありながらも抜群のフットワークを持つ選手も多く、一昔前でいえば、小さな選手の売りであったフットワークやコートカバーリング能力といった特性でさえ、長身でありながらきっちりと兼ね備えている。
身長が高くなくても活躍できるのと、身長が高い事がアドバンテージになる事は、全然、別の話だ。
平均身長があまり高くない日本人が、コンスタントに世界で活躍する為には、それ以外の要素で何かしらのアドバンテージを持つ必要があるという事になる。

また、昔から日本人は持久系のスポーツを得意とする傾向がある。
これは人種による筋肉の質の違いに起因するものだろうが、よく日本人の筋肉は、黒人や白人の筋肉に比べ、硬いといわれる事が多い。
これは、言い換えれば、柔軟性、瞬発性には不向きで、永続的に力を出すようなものに向いていると言える。
また、しばしば怪我が多い原因とされ、前出の松岡氏も自ら、筋肉が硬かったので怪我が耐えなかったとコメントしている。
そのように考えると、ストップ&ゴーを基本とした瞬発系の動きを基本とするテニスには、もともと日本人の筋肉が合わないという事になる。
勿論、この筋肉の質の差を感じられるレベルというのは、極々上り詰めた一部の人だけであって、我々一般人のレベルでいえば、この差などは、センスや練習によって得た技術の前に、何の意味も持たない話でしかない。
しかしながら、今、問うているのは世界のTOPの話であり、ここで活躍する話としては、筋肉の質の差の話は厳然として存在すると考えるのが妥当だろう。
単純に身体能力のみを比べる例として、オリンピックの陸上競技でとってみても、スプリントやジャンプ系の競技で日本人が活躍した例は、殆どお目にかからない。
逆に、日本人が得意とする持久系はといえば、テニスに限っていえばあまりその恩恵を得る事はない。
グランドスラムやデビスカップのように5セットマッチになれば、試合が長時間に及ぶ事もあり、スタミナも要求される所ではあるが、それとて、瞬発系の動きの連続の上に必要なものであって、そもそもそこまで渡り合えなければ、スタミナで勝負する事も適わないからだ。

このように日本人の平均的な身体的特徴というのは、世界でテニスを戦う上で、不利とまでは言わないが、決して恵まれているとは言えない。
これら身体的特徴は嘆いてみた所で変わるものでもなく、また全ての日本人が必ずそうであるわけでもない。
この先、松岡氏のように、長身の日本人テニスプレーヤーが活躍する可能性もあるし、瞬発力やバネのある日本人選手が活躍する可能性もある。
しかし、相対的にみれば、やはり今後も、体格的に勝る欧米人にアドバンテージがある部分であり、それを背負った上で、また別の要素で活路を開き、活躍できる選手が多く出てこないと、日本がテニス大国となる事はないだろう。
これまでの日本人プレーヤーは、そういった要素をなかなか作り出せてこなかった事が、日本の男子プレーヤーが世界で通用しない理由の一つとして数えられるのではないだろうか。
では、我々日本人は、何を武器とするかという事になるが、具体的にはコーデュネーションという事になるのではないだろうか。
つまり、各プレーの繋ぎであり、これらをスムーズに連携する事で、テニスの総合力を上げ勝利につなげるという事だ。
これには、どのショットもそつなくこなせる能力、フットワーク、正確で迅速な予測、バランスが必要となる。
現在、錦織が世界と戦い、我々に日本人の可能性を見せてくれているが、主に彼が武器としているのは、常にバランスを保ちつつ、ベースラインでのプレーだけでなく、ミドルエリア、ネットプレーもそつなくこなすプレースタイル、自分からゲームを作っていけるゲームメイク力、早い展開から遅い展開、遅い展開から速い展開への切換え、守備から攻撃への迅速な切換えといった総合的なコーデュネーション能力によるところが大きいと思われる。
今後、彼が更なる活躍をする事で、日本人の体格であっても、世界で戦っていけるよい実例となるだろう。
全ての人が同じようなプレーができるわけでもなく、する必要もないと思うが、そういったアドバンテージを持つプレーヤーが沢山でてきた時には、この身体的特徴というのが、世界に通用しない一つの理由から消える時であり、そういう日が来る事を待ち望んでもいる。

日本の男子テニスが世界に通用しない理由(3)へ続く


※ここに書かれている事はあくまでも私見であり、必ずしも万人が納得するものとも思っておりません。
ご意見は頂戴いたしますが、荒れると思われるようなコメントはお控え下さい。

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2008年10月12日

錦織圭 ストックホルムオープンSF

ほぼ満員のセンターコートの第2試合は地元ソデルリングが相手だけに完全アウェー状態となった。
そんな中でも、錦織の紹介のときは歓声も大きく、遠くスウェーデンの地でも、錦織の人気が高い事を感じさせた。
今日も弦を担いでか、緑のウェアーに白のアディダスキャップ。
右膝のテーピングが痛々しい。
ただウォーミングアップでの動きを見る限り、何とか動ける状態ではあるようだ。


第1セット
第1ゲームはソデルリングのサービスから。
いきなりのサービスエースからスタート。
220キロを超える1stサーブはさすがに威力がある。
しかもきっちりとコーナーへコントロールされており、これがコンスタントに入るようだと、ブレイクするのは至難の業のように思えた。
ソデルリングのダブルフォルトもあり、デュースまで持ち込むが、最後はサーブが決まりソデルリングがキープした。
第2ゲーム、注目の錦織の最初のサービスゲーム。
1stサーブが入るもソデルリングも動きがよく、錦織の厳しいストロークに対応する。
錦織は30ALLから得意のドロップショットを見せるが、これがネットにかかりブレイクピンチを迎える。
このポイントでソデルリングのリターンが深くはいり、錦織のフォアがバックアウトしてブレイクダウンしてしまう。
第3ゲームも、ストロークで優位に立ちながらもドロップショットをミスするなど、精細を欠きソデルリングがキープした。
序盤3ゲームでソデルリングの3-0と、錦織には厳しい立ち上がりとなった。
ソデルリングのサーブは前評判通り素晴らしく、サービスゲームをブレイクするのは難しい上、ストローク戦でも抜群のフットワーク、安定したストロークと、錦織も押し切れず、苦しい展開となった。
第4ゲームに入ると錦織の動きに精細を欠くシーンが多くなった。
逆にいい動きでストロークを拾うソデルリングの前に先にミスしてしまいここも30-40からブレイクダウンしてしまう。
ゲームカウント4-0と圧倒的優位に立ったソデルリングは、続く第5ゲームでは、ますます調子を上げ、威力ある1stサーブで、エース3本を取り余裕のキープを見せる。
錦織サーブの第6ゲーム。
ここは何とかキープして次のセットにつなげたい所だが、このゲームもストロークミスを連発し15-40となる。
しかし、錦織はここから吹っ切れたようにラケットが振れだし、サービスエースとストロークウィナーでこの試合初のキープに成功する。
第7ゲーム ソデルリングは210キロを超える1stサービスを連続で叩き込み、あっさりとこのゲームをキープして第1セットを奪取した。

第1セット1-6と、ほぼ見せ場なく一方的に押し切られた錦織。
途中、右膝を引きずるようなシーンがあったり、ソデルリングのサーブに1歩も反応しなかったりと、右膝の具合はかなり悪そうな印象だった。
しかし、セット終盤でサービスキープをした事で、一筋の光明は見えた感はあり、第2セットは何とかキープ合戦の状態に持ち込みたい所だ。


第2セット
第1ゲームは錦織のサーブから。
錦織は得意のストロークで押し切れず、動きのいいソデルリングに拾われる形から、先にミスしてしまい15-40となると、ここも簡単にミスをしてブレイクダウンしてしまう。
第2ゲームはソデルリングの2ndサーブからラリーに持ち込みポイントを拾い40-30と粘るも、最後は強力な1stサーブを入れられキープされる。
第3ゲームの錦織のサービスゲーム。このゲーム中、サービスのときも少し膝を気にする仕草を見せたり、屈伸したりして、相当、膝にきているのが伺い知れる。
その影響か、ダブルフォルト2つを献上し、このゲームもブレイクダウン。
第4ゲーム、ソデルリングが余裕でキープ後、第5ゲームでも30ALLからダブルフォルトでブレイクポイント このポイントで入れにいった2ndを叩かれてブレイクダウンを喫する。
後がなくなった第6ゲーム。
ソデルリングのサービングフォーザマッチ。
明らかに調子のおかしい錦織だが、最後まで必死に球を追いかける。
しかし、最後はソデルリング、この日12個目のサービスエースでゲームセットとなった。


ゲームカウント1-6,0-6の完敗。
サービスエースの数も圧倒されているが、アンフォースドエラーもソデルリング6に対し錦織14と精細を欠いた内容となった。
ほとんど何も出来ないまま終わったこの試合、試合前・試合中と、何度も錦織の頭の中をリタイアという文字が駆け巡った事だろう。
しかし、彼は試合に臨み、最後まで戦った。
結果は惨憺たるものではあったが、その事をまず評価したい。
彼はプロではあるが、同時にまだ18歳の青年でもあるのだ。
いくつかのリタイアでプロとして体が弱いと言われ、ゲーム中のメディカルタイムアウトや棄権で、ある選手のようにタイムアウトや、勝てないと棄権する選手と言われる事を危惧されてきた事に対し、今出来る範囲内で精一杯、そして最低限、前よりも前進した姿をきちんと示してくれたではないか。
錦織は試合後のインタビューで、「彼のビッグサーブの前に何もできなかった。膝は痛むけど、プレー出来ない程ではない」と気丈に答えていたが、いつも錦織のゲームを見ている人ならば、今日の彼の動きは、本来の動きとは程遠いものであった事は、明らかにわかるだろう。
ベーグルで終わったこの試合に対し、言い訳をしたくないという彼のプライドが出ているコメントの様に感じた。

今年は、出来すぎの年ではあるが、それでも、怪我や病気、疲れ等でリタイアしたり、あっさり負けてしまう時もある。
逆に言えば、それは当たり前の事でもあるのだ。
あのフェデラーやサンプラスであっても、最初から常勝だったわけではない。
彼らも、こんな風に何も出来ずあっさり負けたりしながら、階段を駆け上がっていったのだ。
今日の敗戦を含め、今はまだ、その1戦1戦について、厳しい評価を加えるより、松岡修造氏が言うように、2年後、3年後に、フルにツアーで戦える選手になる途上だという思いで暖かく見守っていきたい所だ。
何はともあれ、十分な体調でない中、セミファイナルまで残って戦ったのだから、今は黙って精一杯の拍手を送りたい。

今後の試合のエントリーが気になる所だが、本人の希望でもあるように、右膝の治療の為にアメリカに帰ってしっかり完治させる方向になる事を祈っている。

※一部、固有名称を修正致しました。

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2008年10月10日

錦織圭 ストックホルムオープンQF

錦織圭のQFは、対戦相手M・アンチッチの棄権によって、不戦勝でSFへ進む事になった。
アンチッチとは、ボブ・ブレッド繋がりで、縁の深い両者だっただけに、両者共にこの結果は非常に残念な事だろう。
しかし、錦織サイドにすれば風邪と右膝痛が未だおさまらない中で、この中1日は非常に助かったのは確かなのは間違いない。
ここで激戦となっていれば、昨日までの具合からみても、勝ったとしても次戦のリタイアを余儀なくされていた可能性も高く、そういった意味でいえば、やはりどこかツキがあるのだろう。
逆にアンチッチは伝染性単核症での長期リタイアから復活中だっただけに、本当にツキがない。
今回の風邪が単なる一過性のものである事を祈りつつ、早めの復活を期待したいところだ。

錦織のSFの相手は、地元のR・ソデルリングか北京オリンピックで苦杯の飲まされたR・シュトラーとなる。
地元だけにソデルリングが勝ち上がってきそうだが、ベテラン、シュトラーも健在で、今年は常時、好成績を残しているだけにどちらが勝ちあがって来ても不思議ではない。
錦織としては、どちらかといえば、年内に北京での借りをきっちりと返し、目標であったランキング50位内を射程に収めたいという所ではないだろうか。

しかし、明日は我が身という事もある。
まずは、明日まで少しでも体を休めて、SFのコートに無事に立つ事が今最も大切な事だ。

posted by tenniscom |23:37 | テニス | コメント(0) | トラックバック(0)
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