2007年09月27日
川崎フロンターレが、ACLで敗退したことを、湯浅さんのHPで知りました。http://www.yuasakenji-soccer.com/yuasa/html/topics_4.folder/07_acl_9.26.html
なんとも残念です。日本同士の決勝を期待していただけに、また、それが実現可能な目標(もちろん、目標なので、それが容易に達成できるものだとは思っていません。週末試合をこなしながら、かつ、代表戦も含めて、中東に飛び、東南アジアに飛び、ということをしてるのですから、移動、また、気候の変化から来る体への負荷を考えただけでも、相当しんどいはずです。かつ、トーナメントに勝ち上がってくるアジアのクラブのレベルは決して低くはないはずですから)として、今後、Jリーグのクラブの目指す地点となれば、より各クラブがそれぞれやるべきことのプライオリティ(優先順位)が明確になるでしょう。
例えば、ACLの先を見据えて、クラブワールドカップで上を目指そうとするクラブを作り上げる(最終的な目標はここでしょうが、中・短期的な目標として、それが可能なクラブは、日本では、ひとつ、ふたつでしょう)。まず、ACLへの出場権を確保しようとするクラブ。国内のタイトルを優先するクラブ。残留を意識しなければならないクラブ。などなど。これまで、漠然と全てに勝ちに行って、漠然と負けてしまうよりは、自分の目標がどこにあるのか、ということを、はっきりと意識できるようになったことは、今後のクラブ運営の経験値に関してもプラスになったはずです。
つまり、全てに勝ちに行って、全てに勝てるなら、理想的です。プロであるからには、そういった意識は必要でしょう。しかし、もし、クラブ単位で、それを目指すのなら、どれだけのコストがかかるのか、ということを考えなければならない。選手数は、2チーム+α分のハイレベルの選手が必要であり、それを常にトップコンディションでいられるように支えるスタッフが必要であり、例えば、ACLで遠征が続くようなとき、日程やコンディションの面から考えて、宿泊先、食べ物、飛行機はどういったレベルのものが必要なのか、といったところまで。
ヨーロッパのクラブを見れば、分かると思いますが、中堅規模のクラブがUEFA Cup、CLに参加して、疲弊しきった後に、残留争いに巻き込まれる、最悪、降格してしまう、ということが多々あります。おそらく、Jリーグも近いうち、そうなるでしょう。例えば、今シーズンの川崎フロンターレに、あらゆるタイトルを取れるだけの、クラブ全体の体力(規模)があるか、といえば、今年に限って言えば、”まだ”、ないと思います。そうなったとき、どれを取って、どれを捨てるのか、という優先順位なければ、そのチームは崩壊するでしょう、つまり、ディシプリン(規律)を確立できないのです。というのも、規律や、ルールというのは、やらなければならないことが明確になったとき、初めて効力を発揮するものですから。
極端な話、アタランタのようなクラブが出てきたとき、そのリーグは成熟を迎えたと言っていいと思います。まず、育成面での充実がファーストプライオリティで、セリエAにいるか、セリエBにいるかは、その次の問題。誤解して欲しくないのは、もちろん、彼らは、より上を目指すためにベストを尽くします。ただ、財政面から考えた場合、そのための補強費によって、クラブ自体の財政を圧迫し、なによりも大事である、育成のためのコストを削るようなことはしない、ということです。彼らは、自分のクラブから他クラブへ選手を売ることが収入源なので、その水源を枯らすわけにはいかないからです。
昔、読んだインタヴューで興味深かったのは、アタランタの役員のインタヴューで、「ワインのようなもので、豊作の年で、ユースからいい選手が出てくれば、必然的に上に行くし、全部獲られて、いい選手が出ない年は、下に行く。上にいることに越したことはないが、畑を荒らすわけにはいかない」というようなことを言っていたことです。つまり、彼らのファーストプライオリティが、どこにあるのか、ということを明確に認識しているわけです。
このような、目指すべき目標に基づいた優先順位は、クラブの多様化を促すでしょう。世界タイトルを目指すクラブ、国内タイトルを常時狙うクラブ、まず、なによりも、世界へ挑戦したいクラブ、できるだけ上のカテゴリーに残留することを目指すクラブ、選手を育てて売ることを目指すクラブ、コミュニティに認められ、根付くことを目指すクラブもあるでしょう(規模の大きさ順に書いたつもりです。つまり、そのクラブがコミュニティに認められることが、なによりも初めの一歩であり、全てはそこから、ということです。そういう観点から見ると、甲府や新潟のケースはひとつのモデルケースと言えるでしょう)。
逆に言えば、クラブそのものが、プライオリティと、そこから生じる取捨選択から、必然的に、かつ客観的に照射されてくる”価値観”のようなものが無ければ、そのクラブは淘汰されていくことでしょう。間違って欲しくないのは、初めに”価値観”といった精神面から始めてしまうと、絵に描いた餅のようになってしまう、ということです。あくまでも、プラグマティックに、そのつど、リスクを犯すことと、守らなければいけないものの計算から導き出される、やらなければならないこと、の優先順位から選択される行動のひとつひとつの積み重ねが、時間を経て、最終的に、他人から見て、「ああ、これがこのチームのカラーなんだな」と認知されるようになる、それが”価値観”と呼ばれるものだろう、と思います。
本当は、全然違うことを書くつもりでしたが、ACLや天皇杯の経過を改めて辿って行くうちに、こうなってしまいました。上から下まで、北から南まで、各カテゴリーに色々なクラブがあるんだな、という感慨のようなもので書いてしまいました。
次は、ちゃんと、サッカーそのものに関するものを書こうと思います、それでは。
posted by tazu |15:41 |
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2007年09月12日
どうも、こんにちは。
ヒット数を見ると、定期的に、このページをご覧になっている方々が、おられるようなので、嬉しい限りです。ありがとうございます。
自分の計画性のなさから、相変わらず、住所不定の身であります。
そういうわけで、なかなか、身のある内容を更新できず、申し訳ありません。
現在、居候の身ですが、異性との共同生活は、なかなか気を使うものですね、
気が強いし。お兄さんとの兄弟ゲンカは、負けたことがないとか、言うので、怒らせないようにしよう、と決心した次第であります。
再び、「リスク」という言葉が出てきたようなので、以前書いた文章を載せておこうと思います。二番煎じですが、ご容赦ください。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/tazu/article/11
posted by tazu |18:43 |
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2007年09月05日
村松さんという方が書かれている、「セレクトブログ」の、『日本はバルサを越えられる?!』というブログは、とてもプラグマティックで、面白いと思います。僕の、サッカーと何が関係あるのか、よくわからないような、突拍子も無いような文章よりも、100倍以上ためになります。オススメです。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/naoto/
というわけで、ずるいですが、ここで問われている、『日本サッカー界の根本的な問題』について、僕なりに考えてみたいと思います。次の段落からは、「です・ます」体を控えます、あしからず。
さて、ここでは、サッカーと限定されているが、おそらく、この「問題」は、日本のスポーツ界全体に根付いているものだと見ていい、と思われる。というのも、僕がどのジャンルのスポーツを、傍から眺めても、学生スポーツは、どこもそのようなものだからである。むしろ、サッカーは、まだ恵まれているように感じられる。ここでは、それが、ひとつのシステムとして、未だ力があり、機能していることから、「制度」として取り扱うことにする。
ひとつの手段として、「起源」を探る、という方法がある。ここでは、怠惰で申し訳ないが、Wikipediaに頼ることにする。
日本語、英語に共通しているのは、「語源」の部分で、ラテン語、特にフランス語から来ている、というもの。「Port(=運ぶ)]に、否定形の「Des」をつけた「Desport(=レジャー)]からの派生ということになるらしい。何か、頭にこびりついて離れないような事柄が、まとわりついている状態が「運んでいる」状態で、それを「運ばない」状態にする。つまり、「レジャー・気晴らし」という意味になる。
スポーツには、確かに、その側面がある。体を動かす、という行為には、何かしらの発散効果がある。また、ヨーロッパ圏の言語の関しては、スポーツ(特に球技)を「遊ぶ」と同義である”Play"、また、試合を”Game”に相当する語を使うので、これらの動詞や名詞は、語源の「気晴らし」という意味にしたがっている。前提的に、純粋に、そのニュアンスを辿っていくと、「余暇を楽しむ」という意味合いが強いことが読み取れる。したがって、チェスや、ポーカー、ダーツやビリヤードが、ヨーロッパでは、スポーツとして扱われる。
さて、英語版では、歴史的に、古代中国から、エジプト、ペルシャ、ギリシャ、と並べて、その発展が述べられている。一方で、ドイツ語版では、”20世紀の始め以来、「日常会話での口頭で、スポーツという言葉が広まって以来、・・・厳密な定義がなされておらず、もっぱら、文脈による」というような、スポーツという語の「定義」に論点を集めている。興味深いのは、1888年の辞書では、「結果如何で金銭が動かない」ことが、スポーツの特徴として捉えられていることだ。そうすると、現在の「極端なコマーシャリズム」は、そこから離れているのではないか、ということも言及されている。また、「観戦」もスポーツである、ということも興味深い。
日本語版では、どうだろう。「富国強兵の一環として」スポーツが入ってきた、というようなことが書かれている。要は「スポーツ」とは、心身を「鍛える」ためのものとして、日本に入って来た、ということらしい。僕は、現在の学生スポーツが盛んな制度は、アメリカの戦後統治、教育改正によるものだと思っていたが、レギュレーションはともかく、そもそもの、日本におけるスポーツの発端が、ヨーロッパ語圏の原義から違っているらしい。つまり、「楽しむ」ではなく、「鍛える」ということ。その際、「練習のための練習」という語は、矛盾無く、受け入れられる。それはつまり、「鍛える」ことだからだ。
少し、込み入った話をしよう。この19世紀という時代に、スポーツが成績を競う競技になり、より「鍛える」要素が増したのは、いわゆる近代的な「イデオロギー」による。つまり、帝国主義の時代であり、植民地主義、軍国主義の時代であり、「家父長」的な時代、ちょうど後期ロマン派から生じた「ナショナリズム」全盛の時代であり、一方で、それが資本の発展と密接につながる時代である。この時代に、ほとんどのヨーロッパのサッカー(スポーツ)クラブが成立していることは、偶然ではない、と思う。ここからは推測でしかないが、それは「帰属意識(コミュニティ)」に関わる問題だからである。「ナショナリズム」は、自らの起源に誇りが結びつくような事柄によって、明確に自らの帰属できる「場所」を提示する。一方で、そこには「階級」という縦の関係が存在する。つまり、「私」がどこで、どのようなものであるか、ということを「アイデンティファイ」できる空間がクラブというコミュニティなのではないか。その意味で、クラブとは、確かに、そこに所属する人間の「全て」なのである。なぜなら、そこに、その人のアイデンティティの全てがあるから。アイデンティティなど、社会的、他人によって認められない限り、自ら発見できないし、何の価値も無いからだ。
この時代、「闘争」という言葉がいたるところでキーワードのようになっていたのだが、軍国主義に象徴されるように、時代のモードがそういった潮流だったときに、日本にはスポーツが入ってきたことになる。
ヨーロッパにおいては、たとえ「鍛える」あるいは「競争」という意味合いが思想上強くなっても、根本に「余暇を楽しむ」ということが、あるために、それはニュアンスを代える、あるいは、数直線の上を、針が触れる程度のものだったが(彼らは「Play=遊ぶ」という語から離れない)、日本では、「偶然」その時代に、スポーツが入ってしまった。文学では、その時代、「偶然」に自然主義小説が入ってきて、以後の小説の流れを決定してしまったように、スポーツも、「軍国主義」時代の、「鍛える」ためのもの、という思想・発想のベクトルが、現在まで続いているのではないか。
論拠の弱い推論は、この辺で止めよう。
というわけで、脈絡も何もありませんが、当分、僕は旅に出ます。10月まで家がないので、転転とすることにします。それでは。
posted by tazu |06:59 |
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