2008年01月14日
Personlich, ziemlich personlich
先日、友人が僕のBlogを紹介してくれたことを発見した。
サッカーの楽しさを教えてくれた人、と書いてくれていた。
ちょっと、涙ぐんでしまった。
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posted by tazu |04:08 |
サッカー |
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先日、友人が僕のBlogを紹介してくれたことを発見した。
サッカーの楽しさを教えてくれた人、と書いてくれていた。
ちょっと、涙ぐんでしまった。
posted by tazu |04:08 |
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こんにちは。ドイツは寒いです、吹雪です。
本当に、なんと言っていいのか・・・
脳梗塞・・・身近に(祖父母ですが)、脳梗塞で倒れた人間がいるので、分かるのですが、脳のどの部分か、治療までにどれぐらい時間がかかったのか、というので、症状の重さが変わってくるようです。
日本代表の監督うんぬんといった問題ではなく、彼が人間としての自身の人生を、再び自らが望むように、生活できるようになることを、切に願います。はっきりいって、日本代表監督のポストなんて、この際、どうでもいいです。
***
ポリバレントについて。「ポリバレント」という言葉を使って、いかに人の気を引くか、ということに頭を使っている文章を多々、見かけるが、そもそも「”ポリバレント”って何?」という問いに答えてくれる文章を見たことがない。「サッカーに関しては、いろんな役割をこなせる選手のことだ」ということを言う人はいるだろう、要は”Multi Roll=Poly Valenz”だと。では、なぜマルチ・ロールではなく、ポリ・ヴァレンツなのか。
化学をやっている方は、漠然と分かるだろう。言語学も、化学からのアナロジーで、Valenzという言葉を使うようになっているので、まあ、なんとなく理解できる。
Valenzとは、「結合価」ということを指す。言語学上の、簡単な説明としては、要は、文を作るときに、動詞にどの言葉(主語、目的語)が結びつくか、ということを言う。Monoとは、「1、単数」を指し、Polyとは、「多・複数」ということを指す。要は、Mono Valenzは、あるひとつの対象としか結びつかないのに対して、Poly Valenzとは、いろんなものと結びつく、という「関係」のことを言うのだろう。
では、この結合間における「関係」とは何を指すのか?グラウンド上に目を移せば、ポジションの前後、左右の関係、バランス関係、敵との相対的な位置関係・・・いくらでも、恣意的に切り取って見ることができるだろう。
あるいは、チームをひとつの行動を長い間共にする、ユニットとして見た場合はどうだろう。人間関係、クラブとの関係、メディアとの関係・・・こちらも、いくらでも恣意的に切り取って、取り出すことが出来る。要は、サッカーの能力はもちろんだが、人間として、さまざまな面での組み合わせによって、チームというのが構成されていることがわかる。
再び、グラウンド上に目を移そう。今度は、原子と原子の組み合わせとしてのPoly Valenzを考えてみよう。「水を運ぶ」と関係するのかどうかは分からないが、水とは、H2Oの連続体から構成されている。水素と、酸素は、このValenzの基本となる。つまり、化学変化の溶媒として、もっとも単純で、シンボリックなものが「水」なのである。つまるところ、「水を運ぶ」とは、さまざまなレベルで交錯する関係を適切な形で結合させ、途切れさせないこと、と言える。
そうすると、「あれかこれか」という選択、「なぜ、これであって、あれでないのか」という問いに、自ずから答えられるようになるだろう。具体的な例を出そう。なぜ、鈴木啓太、遠藤、阿部であって、他の選手でないのか、ということだ。それはつまり、チーム、ユニットとしてのコンセプト・デザインを忠実に理解し、アウトプットできるインテリジェンスとパーソナリティ、それをピッチ上で体現するフィジカル、テクニカル、メンタルレベルでの組み合わせの「バランス」が、相対的に優れているということに他ならない。
posted by tazu |16:55 |
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こんにちは、今回は、また、サッカーと少し離れます。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20071109-00000002-spnavi-socc.html
アントニオ・ネグリがサッカーについて語ったそうです。
僕の記憶が正しければ、結構、左寄りの人でしたね。講演集を読みましたが、哲学者というよりは、活動家、といった感じの内容だった気がします。
彼の、地理学的な文化圏に基づいて考察した『帝国』という概念は、素晴らしい、と思いますが、未来に関しての急進的な感じには、ちょっと違和感があります。
22人のロボット、なんて表現も時代が時代なら、ステキに響いたのではないか・・・というわけで未来派(Futurisums)です。スポーツナビにも、コラムがありますね(『未来派宣言』愛読してます)。たしか、1910年代の終わりぐらいから、1930年代の初めに掛けて、主にイタリアで隆盛だった気がします。このパラダイムの妙な興奮した感じは、翻訳でも十分伝わってくるので、暇な方は、読んでみてください(Amazonで、新書で「未来派」と入れれば、入門編がいくつかでてくるでしょう)。ネグリと聞いて、連想されるのは、未来派の妙な高揚した感じです。なんとなく、イタリア人って、サッカーでも、車でも、このスピード感が好きなんだろうなあ、と勝手に思っています。
この興奮した感じは、科学技術のドラスティックな進歩、あるいは、技術が理論に追いついて、現実化されていったことに基づいている、と勝手に思っています。人類が飛び、音速を射程に捉える速度で走るようになる、変化。これは、現代の僕らには、想像も出来ないほど劇的なものだったのだろう、と思います。『速度』とは、瞬間Aと瞬間Bの間にある差異の大きさを知覚することによって、二つの時点間の変化を感じられるもの、とするならば、この時代に比べれば、現代は、なんとも鈍重に感じられるのではないか、全てが遠い世界の出来事のように(=Virtuelle)に感じられる、この閉塞感のようなものはなんなのだろう、と漠然と感じています。かといって、別に、憂鬱なわけでも、回顧主義なわけでもありません。なるようになるだろう、という感じです。
そんなわけで、民族的集合体としてのネーションが解体されるのは、すでに始まっているとして、ワールドカップが、現在のような意義を持つのはいつまでだろう、ということを漠然と考えたりしていました。
posted by tazu |05:46 |
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自分で、問題を提起してしまったので、経過を追っていくことにします。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/headlines/20071107-00000046-kyodo_sp-spo.html
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/headlines/20071108-00000046-kyodo_sp-spo.html
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/headlines/20071109-00000181-jij-spo.html
日付は、上から順に11月7日、8日、9日となります。
印象としては、クラブ側とドクター側の意見が食い違っている、ということと、これまでサッカー協会にドーピング規定が無かった、かつ、そのことに関して、これまでに国内の上の管轄(文部科学省)、国外の上からの管轄(FIFA)の両者から指摘を受けていた、ということに驚いた、というところでしょうか。
というのも、FIFAの権限に関しては、おそらく、何らかの形で公式に明文化され、定義されているはずであり、クラブ側にしろ、ドクター側にしろ、180度反対の、解釈は、この場合、し難い。にもかかわらず、ここでの(断片的ではありますが)やりとりは、それが起こっている。争点のひとつになりそうです。
ドーピング規定が、ようやく出来始めたことに関しては、基本的にポジティヴに捉えていいと思います。この問題が無かったら、もっと先送りになったはずですから、仮にドクターが敗訴したとしても、ここでの論争は、一定の価値があったのではないか、と個人的に思います。とはいえ、Jリーグのみに関わらず、スポーツドクターの、何らかの連盟や組織はないのだろうか、という疑問が湧きます(ありますか?)。というのも、この問題は、スポーツに限定されるものだけではなく、労働法にまたがってもおかしくない、ドクターの雇用問題であり、その場合、その職業上の自らの権利(と義務)を守る、あるいは主張する組織があってもおかしくない、と感じたからです。
個人的な意見ではありますが、「我那覇問題」というのも、あまりいい呼称ではないように思います(字数の省略の都合もあるのでしょうが)。というのも、この問題は、選手が個人的に行ったわけではなく、チーム管轄の行為の一環であり、かつ、この問題に関して、Jリーグ管轄のクラブ、ドクター間で現在係争中であることを考えると、Jリーグ・ドーピング問題、としておくのが無難なような気がします。
今年の天皇杯を含め、我那覇選手の今後の再起を期待しております。
posted by tazu |04:52 |
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こんにちは。
今回は、結局、何がなんだかよくわからない(ぼくの知識不足も相まって)、我那覇選手に対するドーピング問題に関してです。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/headlines/20071106-00000028-kyodo_sp-spo.html
ぼくの記憶が正しければ、この我那覇選手に対する注射についての解釈、違反か、そうではないか、の判定は二転三転した、あるいはダブルバインド(同時に、同じレベルで起こる矛盾のこと、ここでは、ある機関は違法である、といい、またある一方は、適法である、という矛盾した状態を指す)。
たしか、Jリーグ側は、違法である、と判断し、国際ドーピング委員会(合ってますか?)は適法である、という見解を示した、と記憶しています。
Jリーグ側が示した見解としては、「静脈への直接の注射」がドーピングに相当する、という判断であり、国際ドーピング委員会は、それは許容できる基準の範囲内である、という見解を示した、と覚えています。
この場合、国際基準との違いがあるのは受け入れられるとしても、Jリーグ側は、何を根拠として、それをドーピングである、と判断したのか、かつ、何を基準にして、罰金、出場停止処分(自主謹慎もありましたが)を決定したのか、というプロセスが、僕ら一般の人々にまで伝わって来ていない。
この場合、医師が自らの正当性を主張することは、妥当なことであって、雇用者であるクラブが(仮にその権利があるとしても)、そのことで不当な圧力を掛けたとするならば(というのも、クラブ側からの意見を、まだ読んでいないので)、むしろ、僕のようなへそ曲がりは、Jリーグとクラブ側の関係の不均等性に眼が行ってしまいます。
結局のところ、何も解決もしていないし、それどころか、何もはっきりしていない。この問題に関して、というよりは、AFCの件もそうですが、Jリーグ側は、それぞれの件に関して、何らかの形で改めて明文化する必要性があり、かつ、クラブ側は、自立自営を基にすることで、不当な干渉を拒否できる権利を主張できるはずです。
極端な話、Jリーグは、今、過渡期であり、サッカー協会には新たな法整備が必要なのかもしれません、法の前には誰もが平等であり、会長であれ、誰であれ、裁かれる、という法の原理に則った。
なんだかまとまらなくなってきましたが、この問題に関して、どれだけ掘り下げられるか、また、どのような視点を提示できるか、という点に注目してジャーナリストの動向を窺うのも、ひとつの視点でしょう。
というより、この問題をうやむやなまま放置して、忘れ去られるものにしてしまったのなら、サッカー・ジャーナリストと名乗る人々の責任もまた、問わざるを得なくなるでしょう、「あなたがたは、何をしていたのか?」と。
「ファンやサポーター」という言葉は、便宜的に使われるだけの表現ではない、ファンやサポーターは実体であり、彼らは見ている。継続的に、かつ、詳細に。
なんだか長くなってしまいましたね、それではこの辺で。
posted by tazu |08:52 |
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おひさしぶりです。
大学生活が始まって、一ヶ月、ものの見事に、なにも書きませんでした。というより、日本語のWEBページをじっくり見るのも、こうやって文章を書くのも、やけに久しぶりな気がします。
8時半には家を出て、帰宅すると、21時を回っている。その後、友人に呼ばれて飯を食うか、サッカーをしに、体育館まで、街の反対側までチャリをこぐ日々・・・日によっては、のべ30キロぐらい自転車で走っている気がします・・・182cm64kgだった、華奢な体型がますます細く・・・目標は、60Kg台キープです。
そういえば、いつ勉強しているのでしょうか、ぼくは。
ところで、そうなんです、今学期から、大学が運営しているインドア・サッカーに参加しているのです。
アジア人がいるだけで妙に浮くわけですが、やはり、最初はパスなんかくれないわけです。
ただでさえ新顔、しかも(ステレオタイプかもしれませんが)アジア人、どれだけボールを扱えるのか、向こうからすれば、未知数なわけです(まあ、数年ぶりのインドア・サッカーに、僕自身も未知数だったわけですが:笑)。
さて、どうするのか、といえば・・・走るしかないわけです。徹底的に走る。前線からのチェック・チェイシングして、中盤を突破されたら、ゴール前まで、DFのフォローに戻って、ボールを奪ったら、またゴール前へ・・・この繰り返しです。なおかつ、始めの時点では、イージーなミスは致命傷です、「コイツはアカン」と思われたら、一日中、信頼されません。
そんなわけで、アシストするとか、なにかしら、「コイツやるやんけ」と思わせるようなプレーをするまでは気が抜けません。とは言っても、足技が上手いとか、そういうのではなく、いわゆる「サッカーを分かっている」というプレーをする必要があるわけです。
チームにとって、どのプレーが一番効果的に還元されるのか、ということをベースに、献身的にプレーしていれば、自ずからパスは回ってくるようになるでしょう。
守備をしないFWは、ロナウドのように、2本に一本以上の確率で点を取るのでない限り、まず、チームで信頼されないでしょう。逆に、チームメイトは、追い込まれた状況で、痒いところに手が届くような、”気の利いた”プレー、例えば、中盤でサイドが崩されかけ、かつDFの枚数が足りなくなりそうなときに、前線から戻って、ボールを遅らせる、あるいは相手の攻撃の眼を潰してしまうようなプレーを覚えているものです。
パスが流れの中で自然に回ってくるようになれば、ようやく次のステップに進めるようになるわけで、日常の(ボールを使わない状況、休憩中や、ゲーム前)コミュニケーションが必要になってきます。
普段は、「外国人に言葉を教える」ことを専門とする学科なので、まあ、アジア人の発音に慣れているドイツ人や、そもそも世界中から来た人間を相手に会話をするので、相互間の歩み寄りがあるので問題がありませんが、ドイツ人のコミュニティだけで生活してきた人と会話をするとなると、勝手が違います。極端な話、ぼくが話している言葉を、ドイツ語として、認知しないわけです。
もともと、日本語でも日本人に通じないような発音の悪さなだけに、外国語なら尚更、というわけです。
とはいえ、少しずつではありますが、何人かとコンタクトを取れるようになってきたので、まあ、少しずつ前進しているような気がします(例えば、学食でばったり出会って、「おお、日本人!」と話しかけられるようになったりとか)。
次は、いつ、書けるようになるのか・・・
定期的にチェックしていただいてる方々、すみません。
なんだか、Blogのタイトル「Kicker~」から離れてきましたね。でも、まあ、SportsNaviで大概のことは伝えられているので・・・ぼくが翻訳する必要もないですね(笑)
P.S.ガンバ大阪の皆さん、ナビスコカップ優勝、おめでとうございます!
posted by tazu |03:47 |
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川崎フロンターレが、ACLで敗退したことを、湯浅さんのHPで知りました。http://www.yuasakenji-soccer.com/yuasa/html/topics_4.folder/07_acl_9.26.html なんとも残念です。日本同士の決勝を期待していただけに、また、それが実現可能な目標(もちろん、目標なので、それが容易に達成できるものだとは思っていません。週末試合をこなしながら、かつ、代表戦も含めて、中東に飛び、東南アジアに飛び、ということをしてるのですから、移動、また、気候の変化から来る体への負荷を考えただけでも、相当しんどいはずです。かつ、トーナメントに勝ち上がってくるアジアのクラブのレベルは決して低くはないはずですから)として、今後、Jリーグのクラブの目指す地点となれば、より各クラブがそれぞれやるべきことのプライオリティ(優先順位)が明確になるでしょう。 例えば、ACLの先を見据えて、クラブワールドカップで上を目指そうとするクラブを作り上げる(最終的な目標はここでしょうが、中・短期的な目標として、それが可能なクラブは、日本では、ひとつ、ふたつでしょう)。まず、ACLへの出場権を確保しようとするクラブ。国内のタイトルを優先するクラブ。残留を意識しなければならないクラブ。などなど。これまで、漠然と全てに勝ちに行って、漠然と負けてしまうよりは、自分の目標がどこにあるのか、ということを、はっきりと意識できるようになったことは、今後のクラブ運営の経験値に関してもプラスになったはずです。 つまり、全てに勝ちに行って、全てに勝てるなら、理想的です。プロであるからには、そういった意識は必要でしょう。しかし、もし、クラブ単位で、それを目指すのなら、どれだけのコストがかかるのか、ということを考えなければならない。選手数は、2チーム+α分のハイレベルの選手が必要であり、それを常にトップコンディションでいられるように支えるスタッフが必要であり、例えば、ACLで遠征が続くようなとき、日程やコンディションの面から考えて、宿泊先、食べ物、飛行機はどういったレベルのものが必要なのか、といったところまで。 ヨーロッパのクラブを見れば、分かると思いますが、中堅規模のクラブがUEFA Cup、CLに参加して、疲弊しきった後に、残留争いに巻き込まれる、最悪、降格してしまう、ということが多々あります。おそらく、Jリーグも近いうち、そうなるでしょう。例えば、今シーズンの川崎フロンターレに、あらゆるタイトルを取れるだけの、クラブ全体の体力(規模)があるか、といえば、今年に限って言えば、”まだ”、ないと思います。そうなったとき、どれを取って、どれを捨てるのか、という優先順位なければ、そのチームは崩壊するでしょう、つまり、ディシプリン(規律)を確立できないのです。というのも、規律や、ルールというのは、やらなければならないことが明確になったとき、初めて効力を発揮するものですから。 極端な話、アタランタのようなクラブが出てきたとき、そのリーグは成熟を迎えたと言っていいと思います。まず、育成面での充実がファーストプライオリティで、セリエAにいるか、セリエBにいるかは、その次の問題。誤解して欲しくないのは、もちろん、彼らは、より上を目指すためにベストを尽くします。ただ、財政面から考えた場合、そのための補強費によって、クラブ自体の財政を圧迫し、なによりも大事である、育成のためのコストを削るようなことはしない、ということです。彼らは、自分のクラブから他クラブへ選手を売ることが収入源なので、その水源を枯らすわけにはいかないからです。 昔、読んだインタヴューで興味深かったのは、アタランタの役員のインタヴューで、「ワインのようなもので、豊作の年で、ユースからいい選手が出てくれば、必然的に上に行くし、全部獲られて、いい選手が出ない年は、下に行く。上にいることに越したことはないが、畑を荒らすわけにはいかない」というようなことを言っていたことです。つまり、彼らのファーストプライオリティが、どこにあるのか、ということを明確に認識しているわけです。 このような、目指すべき目標に基づいた優先順位は、クラブの多様化を促すでしょう。世界タイトルを目指すクラブ、国内タイトルを常時狙うクラブ、まず、なによりも、世界へ挑戦したいクラブ、できるだけ上のカテゴリーに残留することを目指すクラブ、選手を育てて売ることを目指すクラブ、コミュニティに認められ、根付くことを目指すクラブもあるでしょう(規模の大きさ順に書いたつもりです。つまり、そのクラブがコミュニティに認められることが、なによりも初めの一歩であり、全てはそこから、ということです。そういう観点から見ると、甲府や新潟のケースはひとつのモデルケースと言えるでしょう)。 逆に言えば、クラブそのものが、プライオリティと、そこから生じる取捨選択から、必然的に、かつ客観的に照射されてくる”価値観”のようなものが無ければ、そのクラブは淘汰されていくことでしょう。間違って欲しくないのは、初めに”価値観”といった精神面から始めてしまうと、絵に描いた餅のようになってしまう、ということです。あくまでも、プラグマティックに、そのつど、リスクを犯すことと、守らなければいけないものの計算から導き出される、やらなければならないこと、の優先順位から選択される行動のひとつひとつの積み重ねが、時間を経て、最終的に、他人から見て、「ああ、これがこのチームのカラーなんだな」と認知されるようになる、それが”価値観”と呼ばれるものだろう、と思います。 本当は、全然違うことを書くつもりでしたが、ACLや天皇杯の経過を改めて辿って行くうちに、こうなってしまいました。上から下まで、北から南まで、各カテゴリーに色々なクラブがあるんだな、という感慨のようなもので書いてしまいました。 次は、ちゃんと、サッカーそのものに関するものを書こうと思います、それでは。
posted by tazu |15:41 |
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どうも、こんにちは。 ヒット数を見ると、定期的に、このページをご覧になっている方々が、おられるようなので、嬉しい限りです。ありがとうございます。 自分の計画性のなさから、相変わらず、住所不定の身であります。 そういうわけで、なかなか、身のある内容を更新できず、申し訳ありません。 現在、居候の身ですが、異性との共同生活は、なかなか気を使うものですね、 気が強いし。お兄さんとの兄弟ゲンカは、負けたことがないとか、言うので、怒らせないようにしよう、と決心した次第であります。 再び、「リスク」という言葉が出てきたようなので、以前書いた文章を載せておこうと思います。二番煎じですが、ご容赦ください。 http://www.plus-blog.sportsnavi.com/tazu/article/11
posted by tazu |18:43 |
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村松さんという方が書かれている、「セレクトブログ」の、『日本はバルサを越えられる?!』というブログは、とてもプラグマティックで、面白いと思います。僕の、サッカーと何が関係あるのか、よくわからないような、突拍子も無いような文章よりも、100倍以上ためになります。オススメです。 http://www.plus-blog.sportsnavi.com/naoto/ というわけで、ずるいですが、ここで問われている、『日本サッカー界の根本的な問題』について、僕なりに考えてみたいと思います。次の段落からは、「です・ます」体を控えます、あしからず。 さて、ここでは、サッカーと限定されているが、おそらく、この「問題」は、日本のスポーツ界全体に根付いているものだと見ていい、と思われる。というのも、僕がどのジャンルのスポーツを、傍から眺めても、学生スポーツは、どこもそのようなものだからである。むしろ、サッカーは、まだ恵まれているように感じられる。ここでは、それが、ひとつのシステムとして、未だ力があり、機能していることから、「制度」として取り扱うことにする。 ひとつの手段として、「起源」を探る、という方法がある。ここでは、怠惰で申し訳ないが、Wikipediaに頼ることにする。 日本語、英語に共通しているのは、「語源」の部分で、ラテン語、特にフランス語から来ている、というもの。「Port(=運ぶ)]に、否定形の「Des」をつけた「Desport(=レジャー)]からの派生ということになるらしい。何か、頭にこびりついて離れないような事柄が、まとわりついている状態が「運んでいる」状態で、それを「運ばない」状態にする。つまり、「レジャー・気晴らし」という意味になる。 スポーツには、確かに、その側面がある。体を動かす、という行為には、何かしらの発散効果がある。また、ヨーロッパ圏の言語の関しては、スポーツ(特に球技)を「遊ぶ」と同義である”Play"、また、試合を”Game”に相当する語を使うので、これらの動詞や名詞は、語源の「気晴らし」という意味にしたがっている。前提的に、純粋に、そのニュアンスを辿っていくと、「余暇を楽しむ」という意味合いが強いことが読み取れる。したがって、チェスや、ポーカー、ダーツやビリヤードが、ヨーロッパでは、スポーツとして扱われる。 さて、英語版では、歴史的に、古代中国から、エジプト、ペルシャ、ギリシャ、と並べて、その発展が述べられている。一方で、ドイツ語版では、”20世紀の始め以来、「日常会話での口頭で、スポーツという言葉が広まって以来、・・・厳密な定義がなされておらず、もっぱら、文脈による」というような、スポーツという語の「定義」に論点を集めている。興味深いのは、1888年の辞書では、「結果如何で金銭が動かない」ことが、スポーツの特徴として捉えられていることだ。そうすると、現在の「極端なコマーシャリズム」は、そこから離れているのではないか、ということも言及されている。また、「観戦」もスポーツである、ということも興味深い。 日本語版では、どうだろう。「富国強兵の一環として」スポーツが入ってきた、というようなことが書かれている。要は「スポーツ」とは、心身を「鍛える」ためのものとして、日本に入って来た、ということらしい。僕は、現在の学生スポーツが盛んな制度は、アメリカの戦後統治、教育改正によるものだと思っていたが、レギュレーションはともかく、そもそもの、日本におけるスポーツの発端が、ヨーロッパ語圏の原義から違っているらしい。つまり、「楽しむ」ではなく、「鍛える」ということ。その際、「練習のための練習」という語は、矛盾無く、受け入れられる。それはつまり、「鍛える」ことだからだ。 少し、込み入った話をしよう。この19世紀という時代に、スポーツが成績を競う競技になり、より「鍛える」要素が増したのは、いわゆる近代的な「イデオロギー」による。つまり、帝国主義の時代であり、植民地主義、軍国主義の時代であり、「家父長」的な時代、ちょうど後期ロマン派から生じた「ナショナリズム」全盛の時代であり、一方で、それが資本の発展と密接につながる時代である。この時代に、ほとんどのヨーロッパのサッカー(スポーツ)クラブが成立していることは、偶然ではない、と思う。ここからは推測でしかないが、それは「帰属意識(コミュニティ)」に関わる問題だからである。「ナショナリズム」は、自らの起源に誇りが結びつくような事柄によって、明確に自らの帰属できる「場所」を提示する。一方で、そこには「階級」という縦の関係が存在する。つまり、「私」がどこで、どのようなものであるか、ということを「アイデンティファイ」できる空間がクラブというコミュニティなのではないか。その意味で、クラブとは、確かに、そこに所属する人間の「全て」なのである。なぜなら、そこに、その人のアイデンティティの全てがあるから。アイデンティティなど、社会的、他人によって認められない限り、自ら発見できないし、何の価値も無いからだ。 この時代、「闘争」という言葉がいたるところでキーワードのようになっていたのだが、軍国主義に象徴されるように、時代のモードがそういった潮流だったときに、日本にはスポーツが入ってきたことになる。 ヨーロッパにおいては、たとえ「鍛える」あるいは「競争」という意味合いが思想上強くなっても、根本に「余暇を楽しむ」ということが、あるために、それはニュアンスを代える、あるいは、数直線の上を、針が触れる程度のものだったが(彼らは「Play=遊ぶ」という語から離れない)、日本では、「偶然」その時代に、スポーツが入ってしまった。文学では、その時代、「偶然」に自然主義小説が入ってきて、以後の小説の流れを決定してしまったように、スポーツも、「軍国主義」時代の、「鍛える」ためのもの、という思想・発想のベクトルが、現在まで続いているのではないか。 論拠の弱い推論は、この辺で止めよう。 というわけで、脈絡も何もありませんが、当分、僕は旅に出ます。10月まで家がないので、転転とすることにします。それでは。
posted by tazu |06:59 |
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8月の23日に、ギリシア対スペインがあったそうだ。僕は、その試合に関しては、知らない。内容も、特に興味がない。実際に試合が観られれば観るだろうが、そんな可能性もない。
芝生が悪かったらしい、ということを読んだ。相当ひどかったらしい、ということだった。
さて、少し、真面目な話をしよう。日本のニュース・ソースで伝わっているのかどうか知らないが、その試合の2日から3日後に、ギリシアのぺロポネス半島では、大規模な森林火災が発生した。火事は、オリンピアの街のそばにまで広がり、南ではスパルタに届く勢いだという。現在のところ、70人近くが死んでいるのが発見されており、3000人以上が家を焼け出された。
このニュースと、ギリシア対スペイン戦の芝生の悪さが関係ある、と読み手の方々は思われるだろうか?僕には、それらを繋ぐ、はっきりとしたひとつの原因が思い浮かぶ。強烈な乾燥だ。干ばつといってもいいかもしれない。この数年の間、ギリシア、イタリア、スペインといった国々の南部で、こういった乾燥が問題になっており、農業が脅かされている。農作物が育たない、ということは、当然、芝生が満足な状態に育つはずがない。こういう背景は知っておいた方がいい。
「それで?」と言われる人々がいるだろう。僕らには関係が無いじゃないか、と。多くの人々が、地球温暖化は知っているだろう。それは、確かに、地球の温度が上昇する、という現象である。だが、それと、それが原因となって実際に、僕らが直面する問題は、別なものと考えていい。僕ら学生が使っていた教材用のテクストによれば、それは、地球の気候の均衡が崩壊し、二極化するだろう、という傾向にある。つまり、元々、乾燥している地域は、ますます乾燥し、湿潤だった地域は、ますます激しく雨が降るだろう、という見解が、一般的である。台風や、竜巻の規模は、年々、大きくなっていく。実際、僕らは、アメリカの南西部で何が起きたのか、映像越しとはいえ、見ている。ギリシアや、イタリア、スペイン南部の乾燥も、こういった二極化の一部であると見ていい。
何が言いたいのか?では、こう言い換えたら、どうだろう。近い将来、「ボールも人もよく動くサッカー」というものを見る機会が減る傾向にある、と。それも、それはサッカーの発展とは別な方向の制限によって。つまり、満足にピッチコンディションを維持できなることによって。例として挙げれば、実際、イタリアのサッカーを見ている方々は分かると思うが、全てとは言わないが、イタリアのピッチは酷い。市が管理しているからだが、管理している市には、ピッチを満足に維持できるコストをかけることができない。つまり、それだけお金がかかるのだ。それだけのお金をかけられるのは、ごく限られた地域ではないだろうか。
もっと分かりやすい例を挙げよう。気候的な面で、これからアジアで戦うのは、厳しくなる。東南アジアの方へ行けば、より暑くなり、よりスコールは強くなり、湿度はより上がるだろう。西アジアへ向かえば、温度は相変わらず高く、乾燥が酷く、満足にボールが転がるようなピッチコンディションにはならないだろう。アラブの王様が本気になれば、ピッチを整えることも可能だろうが、日本とサッカーの試合をするときに、そこにメリットは無いだろう。「今日のグラウンドは、悪かったですね」と言うとき、前提的に、芝生が整えられていて当然、という認識の下に発せられている。だが、これからは、「今日のグラウンドは、幸い、良かったですね」と言い換えられる日が近い将来、来ることも考えられる。
もちろん、これらは、ひとつの可能性であって、実際に、そのようになるかは、別の話だ。しかし、近年の傾向から、このように推測するのも、あながち不自然な話ではない。仮に、2010年に、南アフリカのワールドカップに出場できたとして、その際、絨毯のような芝生の上でサッカーができる保証はどこにもないのだ(FIFAが威信をかけて、最高のコンディションに持っていくことは考えられるが)。
飛躍はしている。というのも、わざと大げさに書いたからだ。だが、普段、縁が無いと思われる環境問題を身近に考えるヒントには、なったのではないだろうか。何で読んだのかは忘れてしまったが(確か、日経だったと思う)、元・横浜Fマリノスの岡田監督は、現在、そういったエコ・プロジェクトに参加しているそうだ。僕は、それを読んで、感心したのを覚えている。こういったことは、もっとアナウンスされていいはずだ。
地球は丸い、これは事実である。ペルーの地震がきっかけになって、津波が日本にまでやってくるように、大気が地球を取り囲んでいる限り、僕らは、直接的にであれ、間接的にであれ、望むと望まずにかかわらず、世界中の問題を共有しているのだ。
普段、特別こんなことを考えることもないし、そもそも、この文章だって、特別専門的な知識を用いて書いているわけでもない、一般常識で書いている。したがって、この問題に関する、専門的な研究者のような人に、詳細な事例・データで反駁されたら、僕には、この論争で勝てる見込みは無い。ただ、こういった側面があることは、知らないよりは、知っておいて損はないだろう、と思う。Live8のような、ポップ・カルチャー系でこういったコマーシャリズムを絡めた運動ができるのなら(効果の良し悪しは別として、何かしらのムーヴメントを起こそうという動機としては、理解できる)、スポーツでもできるだろう。サッカーは、その有力なソフトである、と僕は思うのだ。
posted by tazu |22:27 |
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