2007年09月09日
伊野波雅彦(FC東京)を見るたびに、「よくわからない選手」だと思う。
FC東京・倉又寿雄前監督の伊野波評は、
「色々なことをやらせるよりも、1つの役割に集中させたほうが良い選手。センターよりサイド」。
主力選手として全幅の信頼を置き、DFラインの中央で起用するU-22代表反町康治監督は、
「あそこしかできないと思う」
という。
ただし彼が台頭してきた経緯を思えば、U-20代表における守備的MFでのプレーが評価された結果だし、阪南大学を休学して入団したFC東京でも、デビュー当時はガーロ監督から中盤の底で起用されていた。今季は原博実監督に、右サイドバック、守備的MFとして重宝されている。
ここまで書き連ねてきたとおり、伊野波はプロ入り以降、非常に多くのポジションでプレーしてきた。守備的なポジションなら、ほとんど全てでプレーできるといって良い。
ただ冒頭の倉又、反町両監督のコメントを見ると、「ユーティリティー・プレーヤー」という評価が正しいのかどうか、わからなくなってしまう。周囲も本人も、ベストポジションをつかみきれていないだけではないのか。「センターよりサイド」という倉又監督が昨シーズン終盤センターバックで起用していたこと、「センターバックしかできない」という反町監督が左サイドバックで起用したことがあることを考えるとなおさらだ。
伊野波自身はボランチに愛着があり、「U-22代表でもボランチをやってみたい」と言っているようだが、五輪最終予選サウジアラビア戦では、今まで通り3バックの中央で起用された。負傷で初戦のベトナム戦を棒に振った伊野波にとって、最終予選の最初の試合。負傷からの復帰という意味でも、FC東京での復帰を待たずに、負傷後初の試合を迎えることになった。
キャプテン・マークは水本裕貴(千葉)に譲った。だが伊野波のプレーが、変わることはない。
結局、ポジションや地位はこの男にとって、重要なことではないのだろう。伊野波はどこでプレーしていようと、自分にできることに集中して役割を全うし、闘志をむき出しにしてギリギリのところで身体を張ってくれる。
この日のハイライトは、30分過ぎのプレー。相手がフリーでシュートに行こうとした場面でスライディングに行き、水際でピンチを逃れた。
率直に言って、伊野波がDFラインのセンターにいることに、不安はある。
反町監督就任後初の試合、昨年8月の中国戦でこのポジションを任された時には、
「ほとんど初めてのポジション」
と本人も語っていたが、このポジションでプレーし始めてまだ1年、時折不慣れな面もうかがわせる。
だが伊野波は、いつだって全力でプレーし、ピンチには身体を張って防いでくれる。彼がU-22代表の不動のレギュラーであることや、A代表に選出されていることには疑問の声もあるようだが、私は彼を応援したい。
posted by taka911 |22:11 |
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2007年08月22日
国立競技場から、千駄ヶ谷駅へと向かう道中。意外なほどに明るい表情が目に入ってくる。
この日スタジアムを訪れた2万人を越える観客のうち、何人が満足し、笑顔で帰路に着いたかはわからない。だが私は、笑う気にはなれなかった。ひどく落胆していた。U-22代表の戦い振りへの不満は怒りを通り越して失望となり、今後を憂わずにはいられなかった。
とにかく、このチームには気持ちが見えない。2次予選から言われ続けていることだが闘志が希薄で、弱い相手に合わせてボンヤリと試合を終えてしまうことも少なくない。
大事な最終予選の初戦だというのに、ベトナム戦もそうだった。引いた相手からでも点を取るんだという迫力も、このボールは譲れないんだというような球際の厳しさも、残念ながらほとんど見られない。変わりに見られるのは、気の抜けたようなパスミスと、急にボールが来たかのように準備不足でチャンスを逃すFWたちの姿。セットプレーからの青山直晃(清水)のゴールを守りきり、しっかりと勝ち点3をとったことは評価できるが、しかし評価できるのはそれだけといっても過言ではないような試合だった。
一体いつになれば、相手を打ちのめすような激しい気迫が見えるのだろう。難敵・サウジアラビアやカタールが相手になれば、闘志が前面に押し出されるのか。あるいはU-20ワールドカップ組の抜擢による選手間の競争の激化や監督交代のような、強烈な刺激が必要なのか。いずれにしても闘志の発露なしには、北京五輪出場は不可能に近い。
しかし最も私を落ち込ませたのは、スタジアム内の時計が87分を過ぎた頃に、決して少なくない人が足早に帰路につき始めたことだった。それは公式試合らしくない行動であり興醒めだ。だがこの事実は、1-0と苦戦したU-22ベトナム代表という相手が、わずか1点のリードしかない後半終了間際に結末を見届けることなく帰っても平気な、「怖くない相手」でしかなかったことを如実に物語っている。
ただし同時に、これはU-22日本とは残り数分でも「何かを見せてくれる」と期待させるようなチームでもなければ、「最後まで頑張れ」と応援したくなるような魅力あるチームでもないことをも物語っている。だからこそ“重い”のだ。
サポーターも、選手も、もっと予選らしい緊迫感を。落胆の帰路でさえ北京への道程であることを信じたい私が今望むのは、これだけだ。
もっとも、選手が魅力あるサッカーをするようになれば、サポーターの熱も自然と高まってくるとは思うが。
posted by taka911 |23:47 |
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2007年06月16日
3月のはずが……
元々は、3月にUAEで開催されるはずの大会だった。だがイラク情勢のために、11月に延期。結果的にこの延期は、日本にとって幸いした。
3月といえば、ちょうどJリーグが開幕する時期。試合勘の面では、日本にとって元々いい時期ではない(欧州ではシーズン終盤)。
さらにいえば、高卒2、3年目の選手がほとんど、ルーキーも少なくないチームにとって、8ヶ月でのJリーグでの成長も決して小さくなかった。DF永田充(柏=当時)などは、出場こそなかったもののジーコ監督の率いるA代表にも選出されている。
こうして実りある延期で力を蓄えたチームは、イングランドとの初戦に坂田大輔(横浜FM)のゴールで勝利。続くコロンビア戦は1-4で大敗したが、第3戦エジプト戦を1-0で制し、決勝トーナメントに進出した。
勢いづけた2トップと守護神
そのエジプト戦で決勝ゴールを上げたのが、当時国見高校3年だった平山相太だった。この大会スーパーサブとして起用をされていた平山は、同じく切り札的な存在だった谷澤達也(柏)のスルーパスから抜け出し、最後はGKをかわしてゴール。しなやかな身のこなしと日本人離れした高さは、将来のエースと予感させた。
その平山は2ゴールと、大会前に負傷で離脱した矢野貴章(柏=当時)の穴を埋めて余りある活躍をした。それはその他のFW、阿部祐大朗(横浜FM=当時)や茂木弘人(広島=当時)がノーゴールに終わった中での出来事だったが、平山以上のゴールラッシュを見せたのが坂田だった。グループステージで2得点を挙げた坂田のハイライトはトーナメント一回戦の韓国戦で、延長での決勝ゴールを含む2得点。通算4得点で、大会得点王にも輝いた。
一方守備では、GK川島永嗣(大宮=当時)の活躍が目を引いた。至近距離からのシュートにも鋭く反応し、果たしていくつの失点を防いでいたか、定かではない。その後移籍した名古屋では楢崎からポジションを奪えず、川崎Fに移籍した今年、ようやくA代表にも選出された。今後は「川口越え」を期待されるが、当時の活躍を知る者にとっては、「遅すぎる」活躍と感じられることだろう。
その他にこの大会に出場していたのは、小林大悟(東京V=当時)、山岸智(千葉)、徳永悠平(早大=当時)、菊地直哉(磐田)といったあたり。ボランチとして、キャプテンとしてチームの中核を担っていた今野泰幸(札幌=当時)を除けば、いずれも才能に見合った成長をしていない印象がぬぐえない。
posted by taka911 |14:09 |
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2007年06月15日
今日6月15日、来月カナダで開幕するU-20ワールドカップに臨む日本代表メンバー21人が発表された。
梅崎、内田、柏木らタレントがそろう今回のメンバー。彼らが世界を相手にどんな戦いを見せるか、興味が尽きない。
それを展望する前に振り返っておきたいのが、過去のワールドユースで、日本のU-20代表が、どんな戦いを見せてきたのか。僕がリアルタイムで観戦した01年以降の3大会を、3夜連続で振り返る。その初回となる今夜は、01年アルゼンチン大会。81年、82年生まれの選手を中心に構成されたメンバーは、いかに世界と戦ったのだろうか。
谷間の世代
彼らは揶揄され続けた。事の発端は96年に、それまで2大会連続で出場していたU-17世界選手権の出場権を逃したこと。それに起因する国際経験の不足に、中田英寿、小野伸二のような鮮烈なタレントの不在もあいまって、いつしか彼らは「谷間の世代」と呼ばれるようになった。
そのため、幸か不幸か期待値は高くなく、99年ナイジェリア大会の準優勝の再現を期待する声は大会前からほとんど聞かれなかった。そして出た結果は、1勝2敗。準優勝どころか、4大会連続の決勝トーナメント進出もできなかった。つまりこの時点では、「谷間の世代」という評価を覆すことはできなかったのである。
「こいつら、バカじゃないのか」
不運といえば不運だった。Jリーグ最年少デビュー記録を持ち(当時)、このチームでも中心と期待された阿部勇樹(市原=当時)は、負傷のため選出されず。この年がルーキーイヤーで、国見高校でもJリーグでも得点を重ねていた大久保嘉人(C大阪)も負傷で出場を見送った。
ただし、阿部はアジアユースでも負傷のためプレーできず、急成長の大久保は、スーパーサブとして流れを変える存在でしかなかった。つまりチームは、決定的な存在を失ったわけではない。それでも勝てなかった。初戦のオーストラリア戦は完封負けで、続くアンゴラ戦も1-2で競り負けた。この結果第3戦のチェコ戦を前に、グループステージ敗退が決定した。
しかしここで、チームは本領を発揮する。74分、森崎和幸(広島)のゴールで先制すると、山瀬が豪快に追加点。終了間際にも田原豊(横浜FM=当時)がダメを押し、3-0で快勝した。
第3戦でようやく爆発した才能。しかしそんな彼らを、「敗退が決まり、プレッシャーのない状況では、実力を出せて当たり前」と切り捨て、快勝に喜ぶ選手を見て「バカじゃないのか、と思った」というのは、後にU-23代表で「谷間の世代」を中心にチームを構成した山本昌邦。だがその山本も、皮肉なことにアテネ五輪ではグループステージ敗退が決まった第3戦でしか勝てず、やはり「谷間」のレッテルをはがすことはできなかった。
新生日本代表の屋台骨に
しかし現在、「谷間の世代」という言葉はそれほど聞かれなくなった。それはオシム監督の元でスタートした新生日本代表の中心を、彼らが占めていることが大きい。チームの中心は、阿部や鈴木啓太といった、81、82年生まれの選手だ。ワールドユース、アテネ五輪では勝てず、ジーコにも好まれなかった世代が、今ようやく日本サッカーの中心になりつつある。
ただしその中に、この01年ワールドユースを経験している選手が何人いるか。鈴木、田中達也(浦和)、松井大輔(京都=当時)は西村監督に好まれず、メンバーに選出されていた佐藤寿人(市原=当時)も、やはりレギュラーではなかった。それは当時のメンバー選考のシステムに問題があったからなのか、選手の伸び悩みが原因なのか。当時の主力選手で、今、代表で主力となっているのは、左サイドのレギュラーだった駒野友一(広島)くらいだ。
posted by taka911 |22:40 |
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