2006年11月27日
12月22日、午後12時30分スタート。レースはほぼ、酒井の予想通りに進んだ。
1区・藤野がトップから14秒差、3連覇を狙う優勝候補の報徳(4位)からは9秒差の6位で2区につなぐ。2区の松本和男が区間賞の力走で4位に順位を上げた八幡大付は、3区の中本慎一が先頭の市立船橋、さらに報徳も交わして先頭に立つ。その後、4区で報徳に並ばれ、5区では差を17秒に広げられるが、6区の尾座本一起が再び区間賞の走りで報徳を追走。アンカーの有馬が尾座本からタスキを受けた時、報徳の西尾は約80メートル先にいた。
前年の都大路では1区を走り区間26位だったものの、その積極性を買われてアンカーに起用された有馬は、スタート直後から迷うことなくピッチを上げ、3キロ過ぎにはついに西尾をとらえた。勢いにのってそのまま交わそうとするが、西尾も喰らいつき、どうしても引き離せない。
それでも西京極陸上競技場に先頭で入ってきたのは、イエローのユニフォームだった。直後にピタリと西尾。歓声と悲鳴の交錯する中、有馬は鬼の形相で引き離しにかかる。
しかしゴールテープを先にきったのは西尾の方だった。「最後の100メートルで勝負をかける」と道中、耐え忍んできた小柄な2年生は最終コーナーにさしかかった辺りで、たった一度の爆発的なスパートを見せ、一瞬にして有馬を引き離した。拳を突き上げてゴールに飛び込んだ西尾の10メートル後方で、天を仰ぐ有馬がいた。
報徳学園の優勝タイム2時間6分43秒は、当時の高校最高記録。八幡大付の同45秒も大会新記録であった。
約2キロ、時間にして6分ほどの間に繰り広げられたデッドヒート。多くの名勝負の中で、あのレースの印象が強く残るのは、闘志をむき出しにして走る有馬の姿に、次第に失われつつある男の闘争本能を見たからだろうか。
その激走があまりに強烈だったがゆえ、彼の走破タイム、14分34秒が区間新記録であったことは、あまり知られていない。
〈了〉
posted by Asaki |00:25 |
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2006年11月25日
トップでタスキリレーした報徳学園(兵庫)に遅れること、わずか15秒。タスキを受け取った八幡大付(現九州国際大付)のアンカー・有馬啓司は猛烈な追い込みを始めた。
最終区間の7区は5キロ。鮮やかな黄色のユニフォームはがみるみる先頭の西尾康正に迫り、やがて両者の並走が始まる。一気に抜き去ろうとスピードを上げる有馬。独走は許さないと喰らい付く西尾。
1985年12月22日。36回目を迎えた全国高校駅伝は最後までファンをテレビの前に釘付けにした。
今でこそ福岡県の高校駅伝とえいば、今回(2006年)で21年連続の県代表となり、その間に3度の全国優勝を誇る大牟田高校の名が挙がるが、当時は福岡大大濠が強かった。1977年から1983年までの7年間で6度出場し、79年を除いていずれも入賞。81年から3年連続で県大会を制していた。数年前から有力中学生の勧誘に力を入れていた酒井寛監督の率いる八幡大付も「打倒・大濠」に燃える1校だった。
「傑出した選手はいなかった」と酒井は当時のメンバーを振り返る。むしろ高校に入って陸上競技に対する意識が向上した選手が多かった。そして「打倒・大濠」という目標。「新しい歴史を作ろう」という呼びかけに、選手たちは奮い立った。ハードな練習にも真っ向からぶつかっていたメンバーたちは、めきめきと力をつけた。
こうして迎えた84年、八幡大付は激戦の末に福岡大大濠を突き放し、念願の初優勝を果たす。全国大会では7位入賞。大健闘といってよい。都大路を走ったメンバーが6人残った翌年は、絶対の自信を持って予選に臨んだ。結果は圧勝。
「全国でも上位争いには加われる。展開次第では…」
酒井は密かな手応えを掴んでいた。
問題はどの選手をどの区間に起用するかである。各区間の距離やコースの起伏、ライバル校の選手起用などを計算に入れての駆け引きは、駅伝という競技において時に勝負を大きく左右する。
特に最長の10キロを走る1区での失敗は致命傷になりかねない。メンバーのうちエース的存在は藤野圭太(現九電工マラソン部女子部コーチ)だった。前年の全国大会では6区(5キロ)で区間2位。スピードだけでなく、前の選手についていける粘り強さも兼ね備えている。
酒井は藤野を1区で起用したいと考えていた。だが彼はプレッシャーの少ない場面で確実に力を発揮するタイプの選手である。これまで大きな重圧のかかる1区や最終7区を外してきたのも、そうした理由からだった。しかし今回は最初で最後の大きなチャンスである…。
「1区を頼む」
苦渋の決断を下した酒井の要請に藤野がようやく応じたのは、京都に向かう新幹線の中だったという。
(…つづく/文中敬称略)
posted by Asaki |00:23 |
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2006年08月07日
(…つづき)
■ファンからの手紙
1994(平成6)年9月、6度目の防衛戦で敗れた鬼塚勝也は網膜剥離と診断され現役を引退、24歳で第二の人生が始まる。しかし彼のリズムは変わらなかった。
「枠を設けず、それまで体験できなかったことをひとつひとつ味わっていこう」
直前の試合だけを見据え、それに向かって走り続けた現役時と同じように、目の前のことに一喜一憂する人生を選んだ。
テレビCM、ドキュメンタリー番組や映画への出演…。自ら売り込むことはしなかったが、依頼があれば耳を傾けた。海外にも積極的に出掛け刺激を求めた。自らのボクシングスタイルに関しては周囲の声に耳を貸そうともしなかった彼だったが、引退後は多くの人との出会いを大切にしようとした。
現役時代、鬼塚はファンから多くの手紙をもらっている。「自分のために闘っている」ことを公言する彼に、老若男女を問わず多くの人が共鳴した。
自分に自信が持てるようになったと報告してくる若者。
登校拒否を続けていた子供が立ち直ったと感謝の思いを綴る母親。
自分のやっていることが、多くの人の励みになっている。こんなに幸せなことはない。そういう人たちに、自分ができることは何か…。
7年前に開設したジムは、その思いを形にしたものだ。
プロボクサーを育てるための専門ジムではない。特に募集もしなかった。それでも入門依頼が相次いだ。中学生、中年の会社員、若い女性…。ボクシングを通して、劣等感や弱さを克服したいという人が多かった。
大きな声で挨拶をすること、トイレ掃除をきちんとすること。それが基本ルールだ。自らを鍛えたいと決意して入門してきた以上、甘えは一切認めない。鬼塚はその決意を慎重に見極めたうえで入門を許可する。
だが、それでも人間は自分に甘い。彼が手を差し伸べるのを待つ人、口先だけで行動を伴わない人、器用にその場をしのごうとする人…。
結局、行動するのは自分なのだ。その自覚のない人はここにいる意味はないし、いる必要もない。
「この場所だけは汚されたくないからね」
生活やお金など、何かのためにやっているわけではない。だからこそ信念を徹底できる。自分が自分に正直になれる場所。
それが「スパンキー・K セークリット ボクシングホール」だ。
■ 「感じることに麻痺しない」
彼の醸し出す「気」は圧倒的だ。彼が近付いただけで幼稚園児が泣き出してしまったという逸話もある。そうした近寄り難さに加えて「周りが何と言おうと自分は自分。そうでしょう?」といった態度からは、人との安易な協調を拒む孤高さと同時に、ある意味冷めた生き方であるという印象を受けた。
しかし話をしてみると実は感情豊かな人であることに気付く。母校である豊国学園高のボクシング部員が監督の紹介で、鬼塚のもとに練習に訪れていたことがある。才能には決して恵まれていないのだが、試合に向けて必死に頑張る彼らに心を動かされ、ジムをあげて応援した。
「高校生の試合に自分が出ていって大きな声で指示を出すのは、子供の喧嘩に大人が出ていくようで恥ずかしいですよ。でもね。厳しい練習を課して、それを一生懸命こなしていたのを見てきたから、声を出さずにはいられないわけですよ」
ボクシングの技術以前に日常生活において問題のある少年たちもいる。
挨拶ができない。
人と満足に目を合わせることすらできない。
そんな彼らがボクシングの練習を通して鬼塚の目を見て挨拶ができるようになった時、彼は生きている喜びを感じる。自分のやっていることは間違っていない、と。
「形(チャンピオン)を得れば何かを感じることができると思ってボクシングを続けてきた。でも今は、何かを感じるために形(ボクシング)がある」
どんなに小さなことでも、感じることに麻痺しないように生きていきたいと鬼塚は思っている。
更衣室があるジム二階の入口ドアには、彼の生き方が悠然と刻まれている。
真実は自分の中にある
だから自分に嘘はつけない
練習生たちはこの言葉を自分に言い聞かせて、今日も一階練習場に下りていくのだろう。(おわり)
posted by あさき |12:41 |
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