2007年11月03日

ボンズ、注釈つきの記念ボールの展示を拒否

うーむ……まぁ、ボンズ側からすればそう言うのも無理はないかと。ただ、ファン側としては真実は闇の中、という感じなので、未だ疑惑の渦中にあるボンズの記念ボールにアスタリスクをつけるのは妥当なんでは、と思うんですけどね。

posted by sportsbaseball |22:40 | 大リーグ |
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2007年11月03日

マルチナ・ヒンギス引退?

今回の話はテニス界から。
マルチナ・ヒンギスが、何でもウィンブルドンでの大会でコカインの陽性反応が出たそうなのです。ヒンギス自身は無実を訴えており、今回の引退は年齢を考慮してとのこと。


以下、ウィキペディアより抜粋


マルチナ・ヒンギス(Martina Hingis, 1980年9月30日 - )は、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。安定したバックハンドのストレートを武器にする、融通のきく頭脳プレーの名手である。

ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した4大大会初制覇(1997年全豪オープンに16歳3ヶ月で優勝)、世界ランキング1位(16歳6ヶ月)、4大大会年間3冠獲得はすべて歴代最年少記録である。

1980年9月30日、チェコスロバキアのコシツェで生まれる。誕生時に、当時チェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身の名選手マルチナ・ナブラチロワにあやかって娘を「マルチナ」と命名した。(この当時ナブラチロワは24歳で、1978年と1979年のウィンブルドン選手権に2連覇していた)。母親の影響で2歳の頃からテニスを習い、早熟な才能を開花させた。スロバキア人であった実の父親とは、マルチナが7歳の時に別れている。8歳の頃にスイスへ移住した。

1994年10月14日、14歳の誕生日の2週間後にプロデビュー。直ちに1995年の全豪オープンで4大大会に初出場を果たし、同年の女子テニス協会「最優秀新人賞」を受賞する。

1996年10月にドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」でWTAツアー初優勝。女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「チェイス選手権」)に大会初出場で準優勝、年末の最終ランキングを4位に上げる。この2回戦で、ヒンギスは日本の伊達公子選手の現役最後の相手となった(スコア:ヒンギスの 6-1, 6-2)。

1997年1月25日、4大大会史上最年少の「16歳3ヶ月」で全豪オープン初優勝を達成。同年3月31日に「16歳6ヶ月」で史上最年少の世界ランキング1位になり、こうしてヒンギスはモニカ・セレシュが持っていた2つの最年少記録を更新した。(セレシュの記録:1990年全仏オープンに16歳6ヶ月で優勝、1991年3月に17歳3ヶ月で世界ランキング1位)その後ウィンブルドン・全米オープンも制覇し、史上最年少の16歳で4大大会3冠を達成した。

ヒンギスは少女時代から日本での広告出演で人気を獲得し、グリコの「カフェオーレ」(1996年)やタニタのヘルスメーター、日本食研の「バランスデイト」(ともに1998年)のテレビCMで日本語を披露したことで、日本のお茶の間にも広く浸透した選手になった。

しかしながら、あまりにも早くして頂点に上り詰めたせいか、ヒンギスは徐々にテニスへの情熱を失っていく。この頃から女子テニス界は、リンゼイ・ダベンポートやビーナス、セリーナのウィリアムズ姉妹などのパワーテニスの時代になりつつあった。情熱を失ったヒンギスは、彼女たちに押されてゆき、少しずつテニス成績が降下していった。1999年全豪オープンを最後に、ヒンギスは4大大会のシングルス優勝から見放されてしまう。

唯一優勝がない全仏オープンでは、1997年の決勝ではクロアチアのイバ・マヨリに 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、2年後の1999年にはシュテフィ・グラフとの“新旧女王対決”の決勝で 6-4, 5-7, 2-6 の逆転で敗れてしまった。全豪オープンではシングルスで「6年連続」決勝進出の記録を持つが(1997年 - 2002年)、最初は大会3連覇、後は3年連続準優勝になっている。

2002年全米オープンの4回戦でモニカ・セレシュに完敗した後、同年10月の「ポルシェ・グランプリ」2回戦敗退を最後にツアーから離れ、2003年の全豪オープンの時期に新聞を通じて引退表明を行った。それ以後は日本で開催される「ヨネックス・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは異なる分野でテニス振興活動を続けてきたが、2005年11月に次年度からの現役復帰を表明する。


2006年1月にオーストラリア・ゴールドコーストの「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」で現役復帰を果たし、フラビア・ペネッタ(イタリア)との準決勝まで勝ち進む。全豪オープンで4大大会にも復帰し、1回戦でロシアのベラ・ズボナレワに快勝して再出発を飾り、第2シードのキム・クライシュテルスとの準々決勝まで勝ち進んだ(スコア:クライシュテルスの 6-3, 2-6, 6-4)。同大会の混合ダブルスでは、ダブルスの名手であるマヘシュ・ブパシ(インド)と組み、決勝でダニエル・ネスター(カナダ)&エレナ・リホフツェワ(ロシア)組を 6-3, 6-3 で破って優勝した。2月の東レ・パン・パシフィック・テニス(東京体育館開催)にも4年ぶりに出場し、準決勝でマリア・シャラポワを 6-3, 6-1 で圧倒したが、2月5日の決勝戦でエレナ・デメンティエワに 2-6, 0-6 で敗れた。奇しくも、2002年10月のポルシェ・グランプリ2回戦で敗れた最後の対戦相手がこのデメンティエワであり、東京では雪辱を果たせなかったことになる。

3ヶ月後の5月21日、イタリア・ローマで行われた「イタリア国際選手権」決勝でディナラ・サフィナ(マラト・サフィンの妹)を 6-2, 7-5 で破り、復帰5ヶ月目で復活優勝を飾った。5年ぶりの復帰となった全仏オープンでは第12シードを得たが、準々決勝でクライシュテルスに 6-7, 1-6 で連敗した。その後はウィンブルドン3回戦で杉山愛に敗れ、全米オープンは2回戦で止まったが、8月下旬の「カナダ・マスターズ」準優勝で世界ランキングトップ10にも復帰した。年末のWTAツアー選手権にも6年ぶりの出場を果たし、ヒンギスは世界ランキング「7位」の位置で2006年のシーズンを終えた(注:WTAツアー選手権は2003年から競技方式が大幅に変更されている。詳しくはこちらを参照)。同年11月に、幼なじみであるチェコの男子プロテニス選手、ラデク・ステパネクと婚約した。

2007年の全豪オープンでは、2年連続でクライシュテルスに準々決勝で敗れたが、東レ・パン・パシフィック・テニスの決勝でアナ・イワノビッチ(セルビア)を 6-4, 6-2 で破り、大会最多の5度目の優勝を遂げた。3月初頭にはカタール・ドーハ大会のダブルスでマリア・キリレンコ(ロシア)とペアを組んで優勝し、復帰後のダブルス初優勝を果たした(2006年度はダブルスの優勝はなかった)。

体力勝負のパワーテニスが優勢な時代にあっても、彼女ならではの頭脳的なテニスが今なお高い水準にあることを示している。

8月、ヒンギスとステパネクは婚約の解消を発表した。

つうわけなんですが、つまり、ヒンギスは引退を宣言するのはこれで二度目。ひょっとしたらもう一度現役復帰すんじゃないの、と思うのは俺だけでしょうかね?

posted by sportsbaseball |19:44 | その他スポーツ |
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2007年11月03日

ジョー・トーリー氏、ドジャースの監督に

これはヤンキースとの試合が楽しみですね。プレーオフで対戦、となったらもうワクワクものです。

posted by sportsbaseball |00:16 | 大リーグ |
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