2007年10月13日

お疲れ様、ピクシー

セルビアリーグのレッドスター・ベオグラードのドラガン・ストイコヴィッチ会長が、1会長職を辞任するそうです。

 ストイコビッチ曰く「ご存知の通り私は疲れた。人生にもスポーツにも何かを始めたり、変えたり、あるいは終わらせたりするのに正しい時があることを認識するのは大事なことです」

色々、大変なことがあったのだろうと思います。今はゆっくり休んでください。以下、ウィキペディアより抜粋。


ドラガン・ストイコビッチ(Dragan Stojković、 1965年3月3日-)は、旧ユーゴスラビア(セルビア共和国)ニシュ出身のサッカー選手。ニックネームは「Pixy(ピクシー)」。
現役時代はユーゴスラビア代表として活躍。ユーゴスラビアサッカー史上最大の英雄のひとり。
Jリーグの名古屋グランパスエイトに約7年間在籍し、外国人のJリーガーとして長く活躍した。そのため、日本人にとってもなじみが深い選手のひとりでもある。
現役引退後はセルビア・モンテネグロサッカー協会会長に就任。現職はレッドスター・ベオグラード会長。その他にも名古屋グランパスエイトのアドバイザーや、日本外務省の委嘱で西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を務めている。

ゲームメーカー(攻撃的ミッドフィールダー)やフォワードをその役割とし、スピードを生かした華麗なドリブル・ボールコントロール・パスセンス・フリーキック・体の使い方などヘディングを除くサッカーに必要なほとんどの要素で芸術的かつ高レベルのプレーを見せる。ユーゴスラビア代表においては周囲からの絶大な信頼を受けたカリスマである。

代表では当初、もう一つのエースナンバーである7番を着けていたが、1980年代後半途中(90年W杯欧州予選のアウェーフランス戦で代表10番デビュー)から2001年に引退するまで、サッカーにおけるエースナンバーである背番号10を背負いキャプテン(初キャプテンは89年の親善試合のギリシャ戦)を務めた。

周囲からの信頼を物語るものとして、1990年代に隆盛を極めたイタリアのACミランで、かのR・バッジョにすら背番号10を譲らなかったジェニオ(天才)サビチェビッチもユーゴスラビア代表では友人ストイコビッチに対し、栄えある背番号10を譲っていたというエピソードもある。

クラブのレッドスターでは1988-89~1989-90シーズンに同じく旧ユーゴを代表するトップテクニシャンのサビチェビッチ、プロシネツキと共にプレーし、それぞれの個性を損なうことなく見事に共存。旧ユーゴリーグでは圧倒的な強さと美しいパフォーマンスを見せた(レッドスターでも10番とキャプテンマークを着けたシンボリックな存在だった)。ちなみにこの3者は時期は異なるが、後にそれぞれが所属した当時西側の代表的なビッグクラブでも10番を着けたことでも有名である(ストイコビッチはオリンピック・マルセイユで。プロシネツキはレアル・マドリードで。そしてサビチェビッチはACミランで)。

国名が新ユーゴに変わってからも、当時レアル・マドリードのエースで新ユーゴ代表のエースストライカーでもあったミヤトビッチは、名古屋グランパスの10番ストイコビッチに代表でのエースナンバーを譲っている。

ストイコビッチ自身も10番に強いこだわりを持っており、1996年のJリーグオールスターサッカーでは、この試合を最後にパリ・サンジェルマンへの移籍が決まっていた レオナルド(当時鹿島アントラーズで10番を主につけていた)に10番を譲らなかった(この試合でレオナルドは9番をつけた)。

ちなみに来日当初のストイコビッチはなかなか10番をつけることができなかった。これは当時のJリーグが背番号固定制を導入しておらず、1番から11番がスタメン、12番から16番が控えの番号(ただし1番と16番はゴールキーパー)と決まっていたためで、途中出場の多かったストイコビッチは14番、またスタメンで出場してもゲーリー・リネカーが出場する時はリネカーに10番を明け渡し、8番で出場していた。なおストイコビッチ自身はリネカーなら譲ってもいいか、と思っていたそうである。

彼の現役生活は明暗の起伏に富んでいる。若くして自身の憧れでもあった国内の名門クラブレッドスター・ベオグラードやユーゴスラビア代表で活躍。特に、ユーゴスラビア代表では同国内で名将の呼び声のあったイビチャ・オシムのもとで、その能力を発揮していった。1990年イタリアW杯では、「1986年メキシコW杯は“マラドーナの大会”と言われたように、W杯'90は彼の大会になる」との前評判が立つほど大いに期待され、実際にもスペイン戦での美しい2得点や、負けはしたもののアルゼンチンとの準々決勝であのマラドーナをも上回るプレイを見せるなど国際的なプレイヤーとしてその評価を間違いのないものとする。敗北に突っ伏して泣くストイコビッチにマラドーナは「泣くんじゃない。君はこれからの選手なんだ」と声を掛けたという。(ちなみにマラドーナとストイコビッチが対戦したのはクラブチーム・代表チームでもこれが最初で最後だった) W杯後は、当時欧州最高レベルであったフランスのオリンピック・マルセイユに高額で移籍した。

しかし以降は自身のケガや、オリンピック・マルセイユの八百長問題、ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビアの国際大会への参加禁止制裁などの不運により徐々に表舞台から遠ざかり、「終わった選手」と思われるようになった。欧州でのキャリアが困難を極めたその時、日本の名古屋グランパスエイトへ半年の期限付きで移籍した。元イングランド代表ゲーリー・リネカーが在籍していた事もきっかけの一つだったという。グランパスに移籍した当初、いくつかの試合で伝説的とも言える素晴らしいプレーを披露したが、初公式戦の広島戦では前半のうちにイエローカード2枚で退場など慣れない環境やチーム事情もあり彼らしいプレイを見せることはできなかった。

転機はアーセン・ベンゲルのグランパス監督就任だった。モナコ時代にストイコビッチの活躍を目にしていたベンゲルは、始めはなかなかうまくいかなかったものの、リーグ中断期間までかけてグランパスをストイコビッチを中心としたチームに作り替えることに成功した。ストイコビッチは水を得た魚のように活躍し、2度の天皇杯優勝などグランパスの躍進に貢献した(ベンゲルがアーセナルの監督に就任した際にはストイコビッチも一緒に連れて行こうとしたという逸話もある)。また、1998年フランスW杯では制裁措置が解かれたユーゴスラビア代表にも招集され、チームの中心としてベスト16進出の原動力となり世界に健在を示す。

当初は2000年末での現役引退を公言していたが、名古屋サポーターの強い慰留の声とストイコビッチ自身の「名古屋でリーグ優勝したい」という思いもあり、引退を半年延長。リーグ優勝は果たせなかったものの、2001年第1ステージを最後に惜しまれつつも引退した。

旧ユーゴスラビア連邦出身の選手には、民族紛争や連邦分裂等の複雑な事情に対して、スポーツ選手という立場を政治的主義の主張に利用する者もいたが、ストイコビッチは「スポーツと政治は無関係」という立場を貫き通した。1999年のNATO空爆に対しては、ユニフォームのアンダーシャツに書いた「NATO Stop Strikes」(NATOは空爆を中止せよ)のメッセージを見せるパフォーマンスを行うこともしたが、彼は「これは人道的な観点によるメッセージであり、政治的な意味は持たない」とした。

なお、彼をこの行動に駆り立てたのは、1992年にイタリアのヴェローナへレンタル移籍されている最中に、チームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラガン・ミロシェビッチ」呼ばわりされたことも一因だった。90年から始まる一連のユーゴスラビア紛争では、独立の気概を持つ諸国が、セルビアに一方的に弾圧されているという決めつけの報道がなされており、ユーゴスラビア対岸のイタリアでさえそう受け止められていた。

ニックネームの「ピクシー」(Pixy、Piksi)の由来は、その美しく華麗なプレーぶりからつけられたとする説もあるが、ストイコビッチ自身が説明しているように、実際は子供のころ大好きだったアニメ「ピクシー&ディクシー」に由来する。彼はサッカーの試合をさぼってまでこのアニメを見ていたことから当時の友達に付けられたという。

また、「ピクシー=妖精」と紹介されるが、ピクシーは一般的にイメージされる(例えばピーター・パンに出てくるティンカーベルのような)羽根のある女性の姿をした妖精ではない。イングランドの伝説によると、眼はやぶにらみで口が大きく色白で痩せた男性の小人で、旅人を道に迷わせたり、鉱夫を騙して喜ぶなどずる賢く悪戯好きの妖精である。相手チームのディフェンスを翻弄するパスや頭脳的なプレーなど、こちらの方がストイコビッチのイメージに近いのかもしれない。

家族は妻と1男2女。 現役時代からの愛煙家でもある。

東方正教会の一派セルビア正教会を信仰(セルビア人の大半はセルビア正教徒である)。好物はイタリアン、日本で覚えた納豆で「自分の経験から、米は疲労回復に最適」というのが持論。2004年7月、セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住し、現在も暮らしている。

ちなみに少年時代のアイドルはミシェル・プラティニであった。ただ同時に一般論として、個人マークの厳しい現在のプレッシング・サッカーにおいて、単純にプレースタイルを比較することはできない、ともしている。ピクシーが実は喫煙者であることを余り知られてない。その喫煙のきっかけになったのが、ミシェル・プラティニである。彼に憧れていたピクシーが、ロッカーでタバコを吸う姿に格好よさを感じ吸い始めた。

現日本代表監督イビツァ・オシムには絶対的な信頼を寄せており「オシムがベストだ。」と言って憚らず(ベンゲルとオシムが現役時代に会った最高の監督とも発言している)、「どんな困難な状況でもベストの選択をする。オシムをサポートすれば日本は必ず強くなる」と太鼓判を押している。また現実的には実現は困難だが、その師弟関係から日本代表のコーチとしてオシムの右腕になるのではないかとマスコミ等で話にあがる事もあった。





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posted by sportsbaseball |13:09 | その他スポーツ |
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