2007年10月31日
スポーツ選手の華は、何と言っても現役時代。だが誰にだって引退は付き物であるし、キャリアのピークも必ずある。中には晴れ舞台すら経験できずに現役を退く決断を強いられる選手もある。華やかな生活の裏では、類い稀存在なだけに、より厳しい現実に直面する。これがプロ、と、私は考える。
現役引退後の進路は様々で、プロ野球やサッカー選手ならば指導者、解説者、評論家、或いはテレビタレントとしての職に就ける人あれば、球団・チームの社員、スカウト、チーム編成担当等、縁の下のなんとやらとして雇われるケースだってある。
潰しが利かない、といわれているスポーツ選手だが、時として運も左右する。
例えば、元ボクサーであり現俳優の赤井英和さん。初めての世界タイトル戦に敗れた後の復帰戦で、急性硬膜下出血・脳挫傷という生死に関わる状態に陥いった。運良く、手術が成功し回復に至り、その後、縁あって俳優の道へ。そして現在に至る。
赤井さん主演で有名な映画は、「どついたるねん」。だが、最初に出演した映画が何であったかを知っているだろうか?
1988年に公開された、「またまたあぶない刑事」へのゲスト出演が、それである。横浜港署のタカ&ユウジに対峙する犯罪組織の一員という役で、エンドロールには、現役時代のニックネームであった『浪速のロッキー』のテロップ付きで紹介されている。
ここで何が言いたいかというと、有名なスポーツ選手に限ったことだが、たまに映画ゲスト出演するケースがある。そして、その映画を観た人のの大半は、ある有名アスリートが出演していた、という事実に気付かないことが多い。いずれ、何かの拍子で、【あ、アレか!?】という具合に気付くことがある。
長引かせてしまったが、今回は、そんな、あるプロスポーツアスリートを紹介したい。
映画、「死亡遊戯」。これで誰か分るという方、貴方は相当のNBA好きでしょう。
posted by Takayuki Kanno |00:02 |
NBA |
コメント(2) |
トラックバック(0)
2007年10月25日
今の時代、どこへ行っても外国人がいる。
自分の国では働き口が無いから外国へ行く。海外の方が給料が良いから自分だけ出稼ぎに行く。
理由は様々なれど、海外という言葉に、船で何十時間もかけて航海していた時ほどの重みは感じられなくなった。ちょっと行ってきます。その程度の距離に今は思えてしまう。
だが、近年では海外労働者への風当たりは弱くはない。過度に労働力が入ってくるということは、地元人の働き口を奪うことにも直結する。欧州では、移民制度に反対の声が多数上がっている。海外で働くということが容易に感じられるようになったものの、現実には問題山積みのようだ。
翻ってスポーツになると、話しは変わってくる。
どこの国のどんなスポーツにも大抵外国人選手は付き物。彼らがチームにもたらしてくれる物は、何も優勝旗や名声だけではない。下世話だが、資金・スポンサーという大きな副産物がある。
posted by Takayuki Kanno |15:35 |
スポーツ |
コメント(0) |
トラックバック(0)
2007年10月16日
別件の為、久しぶりにNBA専門紙に目をやっていたときのことだった。どのくらい観ていなかったかがハッキリと現われるほどに、各チームの有力選手の移動が激しかった。
私の記憶ではレイ・アレンはシアトルスーパーソニックス所属だったし、アレン・アイバーソンはフィラデルフィア・76サーズの看板選手だった。それが、レイ・アレンはボストンセルティックスに、アイバーソンはデンバーナゲッツへと移籍していた。
今はちょうどトレーニングキャンプの時期。選手は新しくなったチームでの生き残りを賭け、日々アピールと鍛錬を繰り返す。
パラパラと専門紙をめくっていたのだが、そこにいても良いはずの選手の名前が載っていない。ナゲッツにいたはずのお気に入りの選手の名前が無い。移籍したのだろうか?と思い、他のチーム情報を隈なく探したもの、見当たらない。
デンバーナゲッツの#11、アール・ボイキンズの所在が気になり、ネット環境整う自宅に急いだ。
posted by Takayuki Kanno |22:50 |
スポーツ |
コメント(3) |
トラックバック(0)
2007年10月05日
名選手が必ずしも名将になるとは限らない。
ありきたりの台詞になってしまっているが、頷ける格言である。
では名将の条件とは何なのだろうか?
まず間違いの無いことは、成果を挙げられるかどうかだと思う。つまり、目に見える実績。プロスポーツなら勝利する、ということが第一条件にくる。
その下に若手の起用など、先見の明に関わる、すなわち目には見えにくい実績が付いてくるのではなかろうか。
ピッツバーグパイレーツ監督、ジム・トレーシーは上記した二つの実績のうち、どちら寄りの監督なのだろうか。
2001年から2005年まで指揮を執ったLAドジャースでは、監督職から退いた05年のシーズンを除く4シーズンで地区優勝を果たした。
LAを離れた後、低迷を続けていたパイレーツ監督に就任。就任から3年目の今シーズンも、パイレーツは下位に留まり、仕事らしい仕事が出来なかった同監督の退陣必至という記事が、地元紙ポストガゼッタ紙に掲載されていた。
選手としてはわずかに2年間シカゴ・カブスでプレーしただけの選手に終わったが、監督としての才覚があることは、ドジャース時代の実績が物語っている。NYヤンキースら人気球団の台所事情と比べれば火の車だったに違いないこのチームではよくやったと言われてもいいのかもしれないが、結果は結果。
監督が変わるという事は、チームの方針も変わるということに繋がる。ベテランの経験を買っていたトレーシー監督の後任はいったい誰になるのか。
MLB復帰、パイレーツ復帰を熱望する桑田真澄にとっては、多少なりとも気になる事ではなかろうか。
果たして、良い監督とはどんな監督なのだろう。
posted by Takayuki Kanno |13:57 |
MLB |
コメント(1) |
トラックバック(1)
2007年08月29日
きっかけは視線に入ったモニター画面だった。何物かもわからず、夢中とまではいかないまでも気になる存在になっていったモノだった。
それがオーストラリアで盛んなFootyというスポーツだとわかるまで、大して時間を要したわけでもなかった。そして、忘れようと思えばすぐに忘れられる存在でもあった。
しかし、Footyが段々と私の脳から心から侵食していく。スピードこそ遅いものの、勢いは熱帯低気圧並に、私の中身に強風を浴びせてきた。
何故だかわからないけれど、これを見ないといけないと感じた。思ったよりも、感じたのだ。あれから1年が経ち、私はオーストラリアに渡ることになった。Footyを生で観戦するのだ。
友人に言われたようにビールとミートパイを持って。見知らぬ土地ながらも地域住民のように興奮するのだろう。腹同様に心も満たされるのだろうか?
行かなきゃわからないから行くのだ。
理由なんて要らない。Footyを知ってしまったから。
それだけで十分だ。
posted by Takayuki Kanno |21:49 |
AFL |
コメント(0) |
トラックバック(0)
2007年08月15日
夢は必ず覚める。生きていれば必ず厳しい現実にぶつかる。
ピッツバーグパイレーツは、桑田真澄投手に、今期戦力外であると告げた。19試合で防御率9点台では何も言えない。そんなことは本人が一番わかっていたことだ。
クビだと宣告される側よりも、する側の方がどれだけ心が痛むだろうか。それを人としても友人としても尊敬に値する人間に対してならどれだけ辛いのか。パイレーツ監督以下、GMにしてもきっとそうだったのだろう。
地元ピッツバーグポストガゼッタ紙によれば、パイレーツは桑田になんらかの形でチームに貢献してもらいたい、と、選手以外の分野での残留を望んでいるようだ。それがコーチとしてなのか、フロントとしてなのかは定かではないが、それだけ桑田の経験を買っているのだろう。そこに投手としての成績が伴うことをずっと祈っていたのかもしれない。
「感謝の気持ち、それだけです。」
ピッツバーグパイレーツ桑田真澄としての最後の記者会見でこう話した桑田に悲壮感など微塵もなかった。堂々と、しっかりとした口調で。でもどこかスッキリとした表情のように見えたのは私だけだっただろうか?
再挑戦か、それとも引退なのか。メジャー挑戦も子供の一言で決断したというくらいだから、「家族と相談して決めたい」、というのは本心からのことだろう。
ジャイアンツ2軍球場の外野には、一部芝が剥げてしまった部分がある。肘の手術後、リハビリに励んでいた桑田が走り続けてそうなった場所で、桑田ロードと呼ばれている場所だ。ただのランニングにも生き様が映っていたようだった。桑田真澄の野球人生には、だから惹かれるのかもしれない。
栄光から挫折。肘の手術からのカムバック。引退説を吹き飛ばすメジャー昇格。夢から覚めても、辛い現実にぶつかろうと、「さぁ行こう!!」と、いつつでも前に進む姿をファンに見せてきた桑田なら、悔いの残らない道を決断するはずだ。
これまでもずっとそうだったのだから。
posted by Takayuki Kanno |20:18 |
MLB |
コメント(0) |
トラックバック(1)
2007年08月02日
太陽の陽が煌々と照らす緑の芝生にそぐわない一本の垂れ下がったロープ。それは太く、まるで注連縄のようでもあった。
そこに群がる海パン姿の筋骨隆々とした男たち。おもむろにそのロープを握り、腕の力だけで上に上がりだす。想像に難くないが、すぐに腕はパンパンになり、握力も萎えてくる。しかし登りだしたら止まれない。止まる事は許されなかったのかもしれない。
場所は、アメリカフロリダ州タンパ。プロレスの神様こと、カール・ゴッチの自宅だった。
posted by takayuki kanno |19:30 |
プロレス |
コメント(0) |
トラックバック(0)
2007年07月14日
少しだけ昔話をさせてもらう。
6年前の4月。初めての飛行機が初めての海外渡航になり、私にとって初めての外国生活となった年、同じ土地に一人の日本人メジャーリーガーが降り立った。イチローという名のその東洋人は、7年連続首位打者という偉業を肩に下げ、アメリカに挑戦する為にシアトルにやって来た。
開幕戦、第一打席。センターオーバーのヒットは、シアトル市民に期待を抱かせ、在留日本人の誇りとなった。
私もまた、当時のホームステイ先でイチローについて訪ねられ、彼ならやれるさ、と鼻高々につたない英語で言ってみたもんだった。アメリカの学校の宿題はとても多く、まだまだ生活のペースが掴めなかった私にとっては毎日がまさしく闘いであった。自分が悪いと言えばそれまでだったけど、0点を取ってしまい、それを挽回するために、日に一時間睡眠というスケジュールで勉強に励んでいた(今思えば異常でした。)。
通学時間は片道約一時間。バスの中で居眠りする時間が朝の定番だったその年の6月。2001年は、シアトルでMLBのオールスターゲームが開催されることになっていた。
バスが高速を降り、法定速度に落ちた辺りで目が覚めた私の右側にはセーフィコフィールドが大きくそびえ立っていた。主力選手のパネルがチームグッズ店の壁に大きく並んでいた。
イチローの姿が、早くもそこにあった。
posted by Takayuki Kanno |19:58 |
MLB |
コメント(0) |
トラックバック(1)