2008年03月14日
スポーツを観て楽しむということ 【プレミアF】
スポーツは肌で感じることに意義がある。会場で視覚を駆使し、聴覚を張り巡らせ、感覚で空気を読み取る。それが本来のスポーツを見て楽しむということだと私は思っている。 しかし科学技術の発達により、スポーツが数字で表すことのできるようになってきている現代では、その感覚が人々に欠如してきているような気がしてならない。 最もわかりやすい例えは野球だろうか。 リーグ最速の男、クルーンがマウンドに上がり、振りかぶる。指先から放たれたボールは空気を切り裂き、バッターの手が出るはずもなく、キャッチャーのミットに納まる。判定はストライクで見逃しの三振。その刹那、スタンドから歓声が上がる。これが本来の姿であると私は思う。だが、ここで奇妙な現象が起こることがある。時々、少し遅れて気持ちが空振りしたかのような吐息が漏れるのだ。 またある時、クルーンがマウンドに上がり、同じように振りかぶる。放たれたボールは切れがいまひとつでバットに当たり、弾き返される。ファールとなり、アウトは取れていない。ゆえに歓声が上がるはずもない。だが、奇妙なことに少し遅れたタイミングで統制の取れない合唱団のような歓声が上がることがある。 この2つの現象の理由はつまりこういうことだ。 『クルーンが三振を奪った。その瞬間、ボールの迫力と勢いの前に思わず「凄い」と思ってしまった。しかし、球速は149キロだったから、その三振はとりわけ凄くない。』 『クルーンが投げたにしては速いボールには見えなかった。バットにも当てられ、ファールにされた。「大したボールではない」と思った。しかし、球速が160キロだったから、そのボールは凄かった。』 こう思う方が非常に多いのではないか。 しかしどうしても私はこの現象に疑問を覚えてしまう。個人的には数字が肌感覚に勝ることは、スポーツを見る上では有り得ないのではないかと思っているからである。 確かに数字とはスポーツを楽しむことに加わった新たな要素であるし、楽しみ方なんて人それぞれだ。完全に間違っているとは思わない。だがいうならば、数字とは肌感覚に上塗りされたワックスのようなもの。その床を際立たせるためにワックスを塗るのだが、床の種類によってはワックスが意味を成さないこともある。逆に床を傷めてしまうことさえある。だから必ずしも床にワックスを塗ることが有意義なことだとは思わない。また、ワックスによって平凡な床が綺麗に見えてしまうことが好ましいことだとも思わない。 MAX162キロを誇るクルーンが投げた149キロのボールは凄くないのか。サッカーにおける0-0の試合はゴールが生まれなかったから面白くないのか。オリンピックでメダルを取れなかったからその選手は駄目だったのか。私はそうは思わない。数字がどうあれ、凄いものは凄い、凄くないものは凄くないと思うし、本当に凄いものは数字で計れないところに差があるからだと思っているからである。 例えば昨夏日本中を賑わせ、鳴り物入りでヤクルトに入団した佐藤投手だが、甲子園では自慢の真っ直ぐを弾き返され、早々に大会を去った。プロに入団してからも順風満帆とは行かず、結果を出せない日々が続き、開幕2軍スタートが決まった。 157キロのストレートを持っていても打者を抑えられるとは限らないのである。もし157キロという数字で打者をねじ伏せられるのであればチーム随一のスピードを誇る彼の右腕が開幕ローテーションに残らないはずはない。だが現実は違う。 高校時代はスピードが評価されていたかもしれないが、プロになってからはむしろ数字ではかれない部分、そう、球のキレの方がよほど重要だからである。今の彼は、数字で計れる部分を評価することはできるが、数字ではかれない部分に足りないものがある、ということなのだ。 だからプロだけではなく、観る側の人間も“目に見えない部分”をもっと評価し、重要視すべきではないか。 確かに議論の場で、主観の混じる肌感覚によって相手を納得させることは難しいだろう。数字的な要素の必要性は避けられない。しかし、数字とは結果であって、内容ではない。数字とは頭で考えた後付の評価であって、肌で感じられるその刹那の人間的な感覚ではない。 ゆえに全てのことを数字で計ろうとすることが懸命なことだとは思えない。 149キロだとしても、自分が「凄い」と思ったなら自分の感覚を疑う必要はないのだから。0-0だとしても、自分の見方に間違いを感じることはないのだから。メダルを取れなかったとしても、その選手に何かを感じることが出来たなら、選手自身が何かを感じられたなら、それは素晴らしいことなのだから。 肌で感じ、その刹那を楽しむことが、スポーツの醍醐味だと私は信じている。
posted by so-ma |20:09 |
■渾身コラム |
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