2008年05月14日

続・アーセナルに黄金期は訪れるのか?【プレミアF】

・アーセナルに黄金期は訪れるのか?

上記のコラムに関してコメントを下さったliga2さん、農民さん、虹色さん、poさん、カチディスさん、こりきさん、yukihiroさん、DDAさん、akaさん、marvinさん、taka4さん、sk8er boiさん、pingさん、coffeeさん、co-maさん、piyoさん、kkさん、footさん、aiさん、HFIさん、sinfoniaさん、TOMEさん、Bergkampさん、いんてりすたさん、エスパーニャさん他、貴重なご意見本当にありがとうございました。

前回のコラムでは、説明不足な部分があったかと思いますので、その部分を補足し、新たな記事という形で前回のコメントの返事とさせていただきますことをご了承ください。


■アーセナルというクラブ

前回のコラムでキーワードとして上がったのが“青田買い”そして“30歳以上の選手に対する単年契約”についてではないかと思う。

アーセナルというクラブの体質はある意味健全だといえる。巨額の投資に頼り、クラブの収益等を度外視した選手補強を繰り返し、オーナーの私有物と揶揄されても仕方ないクラブは少なくない。そんな中、アーセナルは身の丈にあった経営でクラブを運営し、なおかつプレミアシップの厳しい戦いにおいても(3期無冠とはいえ)ある程度の結果を残している。資金が他のクラブに劣っていれば単純に移籍マーケット等で劣勢になり、ライバルに後れを取ることになるわけだが、それでもガナーズは今期リーグ3位、CLでもベスト8に進出したのだ。

そして、この成果を上げるげられたのはガナーズの策略である若手選手の獲得と、クラブの方針である30歳以上の選手に対する処遇にあると考えられるだろう。

ゆえに今回は、この2つをピックアップして記事を書いていこうと思う。


1. 若手選手の獲得(青田買い)

・GOOD
-世界中にネットワークのあるアーセナルだけに、有望な選手が集まりやすい
-若手選手を獲得することにより、選手にかかるコストを抑えられる
-若いうちからアーセナルに触れ、チームのフットボールにフィットしやすい

・BAD
-獲得コストの高いイングランド人プレイヤーの優先順位は低くなる
-若いうちからトップチームで活躍するケースが少なくなく、他のクラブに狙われやすい
-チームへの愛着が沸きにくい(?)
-アーセナル自体に“ステップアップするためのクラブ”という印象がつきかねない
-若手を優先しすぎ、ベテラン軽視の傾向に


個人的にはひとつの方法論だと考えている。資金力で他のビッグクラブに劣るアーセナルが、それでもトップであり続けるのは他ならぬ若手獲得を優先するというクラブ方針の成果なのだから。頭のいい方法だし、賢明な判断だといえる。事実、セスク・ファブレガスを筆頭に、現在のアーセナルを支えているのはこういった形で獲得したプレイヤーたちだ。多くのビッグクラブが名の知れた有名選手を獲得してチームを強化しているのに対して、アーセナルは未知数の若手を我慢強く育て上げているのである。若いうちからアーセナルのフットボールを学べばチームにフィットしやすいこともメリットだ。

結果、若いが実力は確かな将来の明るいプレイヤーが次々とエミレーツのピッチに立ち、我々をワクワクさせてくれる。これはいまや、アーセナルの魅力のひとつであり、この方針にはアーセナルファンも賛成している。

だが反面、デメリットも少なくないのはご存知のとおりだろう。例えば現在、アーセナルのトップチームで定期的に出場しているイングランド人はフィオ・ウォルコットのみ。それに次ぐのはジャズティン・ホイトだがサニャやクリシーの牙城は崩せずにくすぶっている。これは少なくない問題だし、アーセナルがフランスでもスイスでもなくイングランドのクラブだということを考えれば異常事態といえる。

「フットボールに国籍は関係ない」「国籍でプレイヤーは選ばない」というのがアルセーヌ・ヴェンゲル監督の口癖だが、だからといってイングランド人がこれほどまでに少ないというのは少し考え物だ。それに現状を見ると私には国籍も重要な要素であるように思える。

07-08シーズン王者のユナイテッドにはリオ・ファーディナンド、ポール・スコールズ、ウェイン・ルーニーというイングランド人が各ポジションの核となっている。その前に王者の座についていたチェルシーにもジョン・テリー、フランク・ランパード、J・コールがいる。そしてアーセナルが無敗優勝を達成した時ですら、ソル・キャンベルがゴール前に壁として君臨し、A・コールのオーバーラップがピレスやアンリを助けていたのだ。イングランド人のいないチームがプレミアを制覇することは本当に難しいことだと私は思っている。

コメントを下さった方の中には「リザーブには優秀なイングランド人が沢山いる」と主張する方がいたが、私はこれを疑問視している。例えばクインシー・オウス=アベイエと共に有望な若手ベスト3として上げられていたマシュー・コノリー、ケリー・ギルバートといった選手たちはトップチームで活躍することなく、既にアーセナルを去った。そして今期、ガナーズのリザーブリーグを数試合観戦した私の印象に残っているプレイヤーはジャスティン・ホイトでも弟でも他のイングランド人プレイヤーでもなく、ソングであり、ジュルーであり、トラオレである。彼らは今期、トップチームで出場機会を得ており、それなりに活躍しているが、対してイングランド人はどうだろうか。少なくとも私は知らない。

昔、ジャーメイン・ペナントがクラブを去る際に吐き捨てていった言葉が印象的だ。

「アーセナルでイングランド人は生き残れない」

この言葉は、予想以上に重くアーセナルにのしかかっている。



そしてフラミニのケースでも分かるとおり、せっかく一流のプレイヤーに育て上げたとしても他のビッグクラブが資金力を武器に彼らを掻っ攫ってしまう可能性が高い。そうなると資金力で敵わないアーセナルはお手上げである。今では、若手に留まらず、フレブのような中堅でさえ、他のクラブに引き抜かれようとしているくらいだ。しかも中心選手としてシーズン過ごしてきたにも関わらず、である。ユナイテッドのキャリックが、チェルシーのJ・コールが、リバプールのバベルが、今オフに他のクラブへ移籍するなど考えられるだろうか?他のクラブでは、ちょっと考えられない事態である。これではいくら若手を育てたり、かかるコストは安いが実力のあるプレイヤーをクラブへ招き入れてもきりがないのではないか。

また選手生活の晩年を地元のクラブで過ごしたいという選手も出てくるだろうし、そうなると経験豊かなプレイヤーが集まらない。セスクやジウベルトは「アーセナルにいたい」とコメントしているがあのアンリですら生涯アーセナルとはいかなかったのだから果たしてどうか。

このように、メリットが多い反面、デメリットも少なくないのが青田買いの欠点なのである。上記したように、方法論としては間違いだとは思わないため、批判するわけではないが、現状を改善していかない限り、負のスパイラルを止めることは難しいだろう。


2. 30歳以上の選手に対しての単年契約

・GOOD
-コストを抑えられる

・BAD
-複数年を希望する選手側にとっては受け入れにくい
-そもそも他のビッグクラブと比べると給料が高くない
-そのため選手にとっては単年契約にするメリットがない
-移籍金なしで移籍できるため、他クラブに流れやすい
-アーセナル側も移籍金を受け取れない


30歳を超えると年俸が高くなる反面、怪我や衰えの心配が増す。素晴らしい若手を多く抱えるアーセナルは競争も激しく、いつポジション争いから漏れるかもわからないベテランに多くを投資することはできないのが現状なのだろう。もちろん若手を使うこともリスクを伴うが、同じくらいのリスクを抱えるのであれば伸びしろがあり給料も安い若手を試合に起用したほうがメリットは大きい。ヴェンゲルはそう考え、チームを築き上げてきたのではないか。

ただ、単年契約のリスクは意外に多いのではないかと私は思う。上記したような理由でベテラン選手が集まりにくくなった結果、経験不足に陥り、今期終盤の重要な試合を全て落としてしまった。また、最近でいえば30歳を超えたガットゥーゾをバイエルンが巨額の資金を投じて獲得しようと試みているように、30歳を超えたプレイヤーでもほしがるチームはある。だが単年契約ではシーズン終了と共に契約は切れるわけだし、フリーでの移籍が可能になってしまう。これでは経験豊富なプレイヤーを繋ぎとめておくことは難しい。

現実的なことを言えば、最後は金の力がものをいう世界なのだから。
私は愛を信じたい。愛に忠実なプレイヤーもいる。だが自分の評価が反映された年俸という数字を見て、将来を決める者が多いのではないか。

アーセナルはこのことをどう考えているのだろう。個人的には、デメリットが多いこの規定は少々理解に苦しむものなのだが…。



以上のように、2つの項目でメリット、デメリットを上げてきたが皆さんはどう思われただろうか。私の考えは上記したとおりである。方法論としてはありだと思う。が、必ずしもメリットだけだとは思わない。デメリットも多いわけだし、現に現在はデメリットの方が目につく状態になっている。

アーセナルがこの状況をどのようにして打開していくのか。現状を貫くのか、変化する時期が来たと判断するのか。そろそろタイトルが恋しいアーセナルだけに、彼らの動きに注目したい。

posted by so-ma |05:00 | 渾身コラム | コメント(27) | トラックバック(0)
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2008年05月10日

アーセナルに黄金期は訪れるのか? 【プレミアF】

「今シーズン、若手が成長したから、来シーズンこそ素晴らしい成績が残せる」

アーセナルのファンたちは、3位に終わるであろう07-08シーズンを上記のような言葉でまとめることだろう。実際に、シーズン終了を前にしてこのような趣旨の発言を目にすることは多い。

それもそのはず。大黒柱のティエリー・アンリがバルセロナへと移籍し、経験豊富なベテランプレイヤーであるフレディー・リュングベリもクラブを去ったことにより、ガナーズの命運は若いプレイヤーたちに託された。シーズンが始めってみれば「優勝争いに絡むことすら出来ない」という前評判を覆し、序盤から首位を独走。中盤から終盤にかけて、疲労の蓄積とエドワルドのアクシデントが重なったことに加え、経験の乏しさから重要な試合を相次いで落としてしまい、タイトルレースから脱落してしまったが十分に評価できるシーズンだったといえる。

完全にチームの核となり、アーセナルのタクトを握っているセスク・ファブレガスを筆頭に、マシュー・フラミニ、アデバイヨール、エブエ、ガエル・クリシー、フィオ・ウォルコット、ニコラス・ベントナーなど、25歳に満たない若いプレイヤーたちは着実に力をつけ、経験という自分たちに無かったものを得たことだろう。私自身、彼らの成長を願ってやまないし、欧州でも1、2を争う美しいフットボールの完成形を観てみたい気持ちはある。だが同時に私は思ってしまう。

「アーセナルに黄金時代が到来する日は、本当に来るのか」と。


■数年前から叫ばれている「黄金時代の到来」

03-04シーズン、アーセナルはリーグ無敗優勝というイングランドフットボール史に燦然と輝く偉業を達成し、黄金時代の到来を予感させた。前述のアンリやフレディーを筆頭に、デニス・ベルカンプ、パトリック・ヴィエラ、ロベール・ピレス、A・コール、ソル・キャンベル、ジウベルト・シウバにローレンといった実力者を擁し、また若手育成に定評のあるアルセーヌ・ヴェンゲル監督の下、有望株が着実に力をつけていたからである。

ただ、実際にはこの時代は長く続かなかった。49試合連続無敗記録をユナイテッドに破られると、その敗戦を引きずった結果、優勝を逃す。そしてヴィエラの移籍を合図に、無敗優勝に貢献したプレイヤーたちは次々とアーセナルを去っていったのである。現在では03-04シーズンを知り、今もなおレギュラーとして活躍している選手はコロ・トゥレぐらいとなってしまった。


■素晴らしい若手は育つものの…

素晴らしいフットボールを展開し、素晴らしい結果を残している反面、このクラブを去るプレイヤーは少なくない。アーセナルのクラブ方針である30歳以上は単年契約という方針をのめなかった者(ヴィエラ、ピレス等)、年俸に納得がいかなかった者(A・コール等)、イングランドに馴染めなかった者(レジェス等)、クラブに留まれなかった個人的理由を持つ者(アンリ、キャンベル等)、若手の台頭もありレギュラーを獲得できなかった者(ローレン、シガン等)など理由は様々だが、実力の問題でクラブを後にしたわけではない主力選手の方が多いくらいだ。

その穴をセスクを筆頭に若手選手が埋めてきたものの、無敗優勝時代の輝きを取り戻すまでには至らず。そして04-05シーズンも06-07シーズンも、例の「来期こそは」との声が聞かれたわけだが、いまだにあの輝きを取り戻せてはいない。


■またひとり…負のスパイラル

しかも今期、また1人アーセナルを去る者が現れた。セスクの横を縦横無尽に駆け回り、主力の1人として活躍したマシュー・フラミニである。彼もまた今期成長を遂げた1人であり、実力的には来期もレギュラーとしてピッチに立てることの出来る人物だ。だが、契約(年俸の問題等)面で好条件を提示したミランにあっさりと寝返り、来期は赤と黒のユニフォームに袖を通すこととなる。

確かにプロである以上、自分を高く評価してくれるクラブへ行くことは理に適っているし、当然だろう。だが4年前から手塩にかけて育ててきたプレイヤーがこうもあっさりと出て行ってしまうというのは…。これではいくら素晴らしい若手を育てても追いつかない。

クラブ側からすればやむを得ない部分はある。経済面で他のビッグクラブより劣っており、単年契約等のクラブ方針は曲げられないだろうし、法外な年俸を提示することもできるはずがないのだから。だからこそ、若手を安い値段で取ってきて育てているわけだが、その選手たちもタダで去ってしまう現状…。

フレブのインテル行きやエブエの周辺でも移籍話が絶えない現状は、今期を来期への布石として考えていたであろうヴェンゲル監督にとって頭痛の種となっていることだろう。また一から来期の構想を練らなければならないのだから。大黒柱であるセスクがアーセナル愛を口にして憚らないことが唯一の救いだが、これでは強大なライバルがいるプレミアシップにおいて毎年タイトルを取り続けることは難しいだろう。

アーセナルファンはこの現状をどう思っているのだろうか。それにしても…知り合いのアーセナルファンの口癖ともなっている言葉が頭をよぎってしまう。

「やっぱ金なのか」


個人的にはアーセナルの方針が間違いだとは思わないし(頑なにベテラン選手を獲得しないところは「?」だが)、このやり方を貫く姿勢は素晴らしいと思う。しかし肝心の選手たちを長くクラブに繋ぎとめていられない現状ではいくら素晴らしいフットボールを披露しようとも、彼らの黄金時代を築くことは極めて難しいだろう。この体質を変えることが出来なければ、黄金時代どころか、プレミアシップのタイトルひとつを獲得することでさえも………。

posted by so-ma |00:06 | 渾身コラム | コメント(47) | トラックバック(1)
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2008年05月09日

フーリガンに関する報告書 【プレミアF】

“イングランド=フーリガン”

そんなイメージを抱く方がいまだに多いかと思います。ですが実際に現地で80試合近くを観戦している私ですが1度としてフーリガンと遭遇したことはありません。

フーリガンとは何なのか。イングランドは誤解されていないか。

イングランドを愛する者として、これは皆さんに伝えておかなければならない情報だと思っています。なので、今回は以前あるサイトに掲載したコラムを再掲載という形で、皆さんに読んでいただきたいと考えております。

いつも以上に堅苦しい文章ですが、よろしければお付き合いのほどを。


■フーリガンに関する報告書

私が知る限り、日本に“フーリガン”というワードが浸透した背景にはフットボールが存在した。「フーリガンと呼ばれた少年たち―子供たちの大英帝国―」のあとがきにはこのような一節がある。

「本書(1992年1月発行)が世に出てから七年あまり。―――その間をふりかえって気づく最大の変化は、「フーリガン」という言葉のこの浸透度ではないだろうか」

1990年に終止符が打たれたサッチャー政権における負の遺産として残された格差社会や現在もなお色濃く残る階級問題が当時の英国フーリガンに何らかの影響を及ぼしていたとも考えられるが1992年といえばプレミアシップが開幕し、フットボールを観戦するために必要な環境が整えられた年である。事実、ヘイゼルの悲劇(1985年)やヒルズボロの悲劇(1989年)を越える惨劇はこれ以降起こっていない。

では1992年以前には世間であまり認知されていなかった“フーリガン”という言葉がなぜ日本で浸透したのか。これは容易に説明がつく。

1992年は日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが開幕した年であり、翌年の1993年は日本サッカー史における最大の“事件”として語り継がれているドーハの悲劇が起こっている。つまり、日本においてサッカーという競技が、歴史上最も注目されていた年のひとつだったといっても過言ではないのだ。

後のアメリカW杯、フランスW杯におけるサッカーへの注目度も含めて、この時期に“フーリガン”という言葉が急激に日本へ輸入され、定着したと考えても不思議はないだろう。そして2002年日本にW杯を招聘するに辺り、“フーリガン”の一般名詞化は決定的となった。私自身、フーリガンという言葉を意識するようになったのはこの頃からである。やはりフーリガンが浸透した背景にはフットボールが存在していたのだ。

しかし多くの者はフーリガンという言葉は知っていてもその成り立ちやフットボールとの関わりについては知らない。近年、イタリアやアルゼンチンなどでフーリガン問題が表面化し、全世界に危険は潜んでいることが明るみになったものの、依然として“フットボール・フーリガン=イングランド”と認識する者が多い。(個人的にはこれが大きな問題だと考えている。)

ゆえに今回は、フーリガンとはどのようなものなのか?フーリガン問題を考える上で何が重要なのか?について触れてみたいと思う。


■“フーリガン”の起源は?

まず“フーリガン”という言葉について触れておく必要がある。今でこそ辞書などでも“フーリガン=熱狂のあまり騒動を起こすサッカーファン”という表記がされ、世間でもこのように認識されているが厳密に言えばこれは正しくない。

第一に、正確にはフットボールの試合で暴れる者は“フットボール・フーリガン”であり、フーリガンという言葉自体はフットボールと混ぜて考えるべきものではない。もともとのフーリガンの意味は「暴れ者、ごろつき、不良」であり「フットボールにおいての…」などの注釈はない。

では第二の理由を挙げる前に、ここでは少しフットボールとは離れ、改めてフーリガンという言葉の意味とこの言葉が生まれた背景である19世紀のイギリスについて振り返ってみることにする。


■19世紀イギリスの栄光ある孤立

言葉の意味を知る上で重要な要素となるのが、その言葉の起源を知ることであろう。ただ実は“フーリガン”の起源は明確には分かっておらず、今なおこれに関する議論がなされ、諸説入り乱れている。いくつかある説の中で共通していることといえば「当時のロンドンの特定地域に縄張りを持つ不良のリーダーの名前」であること。あるいは「悪党として名を知られたアイルランド人の名」であるということ。つまり現在最もポピュラーな説として考えられているのが「アイルランド人の悪党・不良の名」がフーリガンという言葉と結びつくのではないか?というものなのだ。事実、もともと“フーリガン”は英語ではなく、アイルランド語である。

ここで疑問なのは、なぜ英語が絶対的公用語のイギリスにおいてアイルランド語の“フーリガン”が当てられたのか。ここが面白いところ。実は“フーリガン”という言葉には当時のイギリスが抱えていた問題が凝縮されている。

「栄光ある孤立」

義務教育の社会科の授業を受けたものなら間違いなく一度は目にした事のある言葉だろう。言うまでもなく、19世紀のイギリスが非同盟政策を敷いて国際的に孤立していたことを象徴する言葉である。

これが“フーリガン”と何の関係があるのか?感の良い方ならお分かりの方もいるだろう。

“フーリガン”という言葉がイギリス中に知れ渡ったのは1898年だったといわれている。栄光ある孤立を放棄したのが1902年なわけだから、政策が続きながらも確実に時代の流れに取り残されつつある現状に揺れていた頃なのだ。そんな時勢を象徴するように、イギリス中の都市では(とりわけ労働者階級の)若者集団による暴動問題が深刻化していた…。

つまりだ。
当時の(中産階級の)イギリス人たちの間ではイギリス国内で起こるこれらの現象から目を背けたいという、イギリスとは関係のない“非イギリス的現象”として見たいという心情が働いていたのである。

ゆえに外来語(アイルランド)に起源を求め、「暴れ者、ごろつき、不良」の意味を持つ“フーリガン”という新語が英語として誕生したのだ。

確かにフットボールとフーリガンは共にイギリスで起こった(生まれた)。これは事実だ。だが上記したように、“フーリガン”はフットボールが原因で出来た言葉ではなければ、フットボールに限定した行為でもない。根本的なフーリガン問題の理解を深めるためにもこの事実は是非覚えておいてほしい。


■フーリガンはフットボールに“熱狂”しているのか

さて、長くなったが第二の理由に移ることにしよう。
第二に、必ずしも「熱狂のあまり」暴れるとは限らないという点が挙げられる。

確かに酔った勢いだとかサポーター同士で対立しあう険悪なムードが暴力に発展することは多々ある。そして残念ながら手を上げてもこの“非日常的行為”が決してめずらしい光景ではない環境がスタジアム等にはあった。

しかし多くのフーリガンの自伝やフーリガンに関するレポートなどに目を通すと、フーリガンたちはフットボールに熱狂するのではなく、暴力に熱狂していることが分かる。つまりフットボールを目的としてスタジアムやパブへ行くのではなく、最初から騒ぎを起こすためにそれらの場所へ足を運ぶ“確信犯”が大多数をしめていたのだ。例えば、フーリガンたちの行動を綴った「フーリガン戦記」には次のような“事実”が記されている。

「そいつを、ここ、サッカーの試合でやらなかったら、どっか別のとこでやるだけだ。……そいつはおれたちのなかにある。」

ここでいう“そいつ”とは暴力のことである。つまり「暴力をフットボール・スタジアムで振るうことが出来なければ、どこか別のところで……」というわけだ。現代的に言うならば、本来歌を歌うことが目的であるはずのカラオケボックスに、ストレスを発散するために行く…といった感覚だろうか。少し違うかもしれないがニュアンスはお分かりいただけるかと思う。今でこそ人々の興味が多様化し、行動の選択肢が大いに増えているが当時はそういった場が限定されており、数少ないストレス発散の場がスタジアムだったと考えられる。

このことからもフットボールへの熱狂と暴力が必ずしも結びついていないことが分かる。問題はフーリガンたちの介入を許してしまうスタジアムやシステムにもあるのだ。

確かにフットボールの歴史を紐解けばフットボールと暴力との関連性は否定できない。フットボールはもともと村同士で競われる遊び(宗教行事)だったが勝利に固執するあまり、お互いを妨害し小競り合いが多発し、最悪の場合死者が出るケースも少なくなかった。

だがフットボールのルールが確立され、戦いではなくスポーツとして行われた時点でこの2つは切り離して考えるべきでだろう。上記したとおり、フーリガンという言葉の起源がフットボールに関係しているわけでもない。


■フーリガンを考える上で…

・フーリガン=フットボールでとらえないこと

・所謂フーリガン行為は、フットボールとは関係のない場面でも起こりえるということ
(ギリシャのバレーボールの試合で起こった事件は記憶に新しい)

・フーリガン=イギリス(イングランド)というイメージがスケープゴートになってしまっているが、フーリガン行為は世界中のどんなところでも発生する可能性を秘めているということ

・フーリガン行為という名称がつかなくとも似たような現象は各地で起こっていること


フットボールが“フーリガン”を広めてしまったことは事実であるが、これらの真実を念頭に置き、問題を考えていかなければならないと思う。

「責任転嫁じゃないか?」こう思われる方もいるだろうが私はそう思わない。事実、現状はフーリガンという言葉に全てを押し付け、問題の本質を隠している節があるからだ。

完全に、とは言わないがイングランド国内のフーリガン問題はスタジアムの整備(立見席の廃止、全席指定制)でほぼ解決した。今では日本人女性が一人で安心して観戦できるほどで、欧州一安全との評判もある。つまりスタジアムが「そいつ」を振るう場所ではなくなったということだ。環境の整備により、フーリガン問題は改善できることをフーリガン発祥の地イングランドは世界に示して見せたといってよい。

逆に06-07シーズン、CLローマ対マンチェスター・U戦でのフーリガン問題は警備面の不備が指摘されていると同時に、問題を起こしたのがイングランド人(=フーリガン)という固定観念が原因の根源ではないか。イタリア国内でフーリガン行為が起きたのも、以前から指摘されていたスタジアムの整備(警備面も含む)が不十分で「そいつ」を振るう場所を与えてしまったところに問題があったことは明らかである。

スケープゴートに惑わされては的確な議論はできない。問題も解決できない。フーリガン問題は思っている以上にデリケートな問題だ。今後もどこかでフーリガン行為が発生してしまうだろうが、その度に本質を見て議論を重ねてほしいものである。

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引用、および参考文献

フーリガンと呼ばれた少年たち(井野瀬久美恵著)
フーリガンの社会学(ドミニック・ボダン著)
フーリガン戦記(ビル・ビュフォード著)

posted by so-ma |02:46 | 渾身コラム | コメント(2) | トラックバック(0)
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2008年05月02日

“アンチ・フットボール”は排除されるべきか? 【プレミアF】

■Fiorentina 0-0 Rangers (0-0) 
Rangers win 4-2 on penalties 

210分の激闘を制し、勇敢なるスコットランドの雄がイタリアの地で雄叫びを上げた。
5月14日、シティー・オブ・マンチェスター・スタジアムで行われるUEFAカップ決勝に進出したのはバイエルンに完勝したゼニトと、レンジャーズに決まった。


■気になるレンジャーズに対する批評

残念ながら、私はこの試合を見ることができなかったのでどのような試合だったかは文字情報でしか確認が出来ていない。それによると、ボールを支配し続けたのはホームのフィオレンティーナだったがレンジャーズの懸命の守備の前に、得点を奪うことが出来なかった。結局120分でも決着がつかず、命運はPK戦へとゆだねられ、その結果レンジャーズがファイナルへの道を切り開いた、というもの。

ただ、私が目を通したこの試合に対する批評の中には残念なものがあった。簡単に要約すると…「試合を支配していたのはフィオレンティーナ。レンジャーズはただ守っているだけの“アンチ・フットボール”に終始していた。そんなチームが勝ちあがったことが悲しい」というもの。

しかし、私はこの意見にどうにも賛同できない。そもそもアンチ・フットボールとは何なのか。いい機会なので考えてみたいと思う。


■レンジャーズは批判されるべきか

一般的に、アンチ・フットボールといわれる戦術として挙げられるのが、パスを繋ぐことや攻撃を放棄し、ひたすら守備に徹するというものかと思う。自陣に引き、ボールを奪ったらショートパスではなく、クリアやロングボールを前線へ送り、後はどうにかしてもらう…というのをひたすら繰り返すもの。確かにこのようなフットボールは一般的には煙たがられ、退屈だと揶揄される傾向にある。

そう考えると、この日レンジャーズが用いた戦術もアンチ・フットボールの類に入るのかもしれない。上記したような批判が出ることも想像がつく。

しかしながら、それでもなおこの批評に賛同が出来ないのは、フィオレンティーナのファンや中立の立場で見ている者はまだしもレンジャーズのファンは彼らの選手たちが披露したフットボールを非難しているとは思えないからである。グラスゴーに居を構える青のチームは、自らの功績に誇りを持ち、ファンたちは賞賛しているに違いないだろう。


■レンジャーズは誰のためにプレーしたのか

(ここからは私個人の考えであるため、異論反論あるかと思うが辛抱して読んでほしい。)

果たしてレンジャーズの選手たちは誰のために戦っているのか。そう考えたとき、私は彼らのファンのためにではないかという考えに行きつく。クラブのために戦っていたにしてもクラブはファンがいなければ成り立たないし、自らの名声のために戦っていたとしてもファンに支持を得られなければ大きな名声は得られない。そもそもプロフットボールはファンがいなければ成り立たないものであり、どんな思想の下、戦っていたとしてもファンたちを避けては通れないのである。

何が言いたいかといえば、選手たちは中立の立場で見ている者を楽しませるためにフットボールを行っているわけではなく、自分たちのファンのために戦っているのだから、ファンたちが楽しみ、喜ぶような戦いをし、そのような結果に終わったのならばどんなフットボールを行おうと許されるのではないか、と私は考えている。

もし内容が退屈であり、ファンたち自身が非難する声を上げるのであれば問題だが、はっきり言って周囲の“部外者”に何と言われようと自分たちが自分たちのフットボールを支持できるのであれば何の問題もない。繰り返すが、クラブはファンのためにある。いくらフットボールが商業化しているとはいえ、この昔から続く根本的思想に疑いの余地はない。


■アンチ・フットボールは排除されるべきか

そしてそもそもレンジャーズは好んでアンチ・フットボールという戦術を取ったのだろうか。いや、そうではないだろう。対戦相手であるフィオレンティーナの戦力や相性を考え、現実的な戦術を選んだといえる。つまりフィオレンティーナの強さをある程度認め、格上ともいえるチームから勝利をもぎ取ろうと必死だったのだ。

私にはこの判断を批判することはできない。むしろ潔い、清清しい判断ではないか。極端な話、マンチェスター・Uと3部リーグのチームが対戦するとき、後者はじっと耐えて数少ない得点機をうかがうしか強敵に勝利する術はない。しかしながらジャイアントキリングを夢見て、希望を持って戦っているのだ。もちろん、彼らのファンもこれを理解している。決して、彼らはフットボールを放棄しているのではない。つまり、こういった戦術を“アンチ・フットボール”と非難することは、力の劣るクラブに「おとなしくくたばれ」と言っているようなものなのである。この方が“アンチ・フットボール”と叫ばれているものより、よほど不健康ではないか。


確かに細かくパスを繋ぎ、攻撃的フットボールでファンを魅了する“理想的”フットボールは見ていて面白いかもしれない。だからと言って、そのようなフットボールだけが“理想”とされ、守備的なフットボールが非難されることは好ましい現象だとは思わない。今回、レンジャーズはファンのために戦い、その姿をファンは誇りに思っている。それだけで十分ではないか。

アンチ・フットボール。このように叫ぶことこそ、本来のフットボールの本質から逸脱した、本当のアンチ・フットボールなのである。


※フットボールの好みは個人個人で変わってくると思います。ここでは“一般的に”考えられるアンチ・フットボール、あるいは理想的フットボールを定義として考えているため、この辺りに関する突っ込みはNGでお願い申し上げます。

posted by so-ma |18:34 | 渾身コラム | コメント(38) | トラックバック(0)
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2008年04月12日

人間臭さ溢れるUEFAカップという舞台 【プレミアF】

なんという残酷な結末か。

火曜日にリバプール対アーセナルという激戦を目撃したばかりだったというのに、まさかその2日後に、その激戦に勝るとも劣らない死闘を目にすることになるとは…。UEFAカップ準々決勝、ヘタフェ対バイエルンの第2レグは極上のドラマと信じられないほどの残酷さが入り混じった、最高の試合だった。


■賞賛されるヘタフェ

試合をざっと振り返ると、まず最大のハイライトのひとつとなるであろうシーンは開始早々に訪れた。6分にヘタフェの要であるデ・ラ・レッドがレッドカードにより一発退場。ヘタフェはほぼ一試合まるまる、10人で戦うことを余儀なくされた。だが果敢なスペインの雄はブンデスリーガで首位を走るチームに真っ向から向かい合い、2度の、最大2点のリードを奪い、歴史的快挙を成し遂げる寸前までこぎつけた。しかし44分に奪った虎の子の1点を守りきれずに、試合終了間際にリベリーに同点弾を許すと、延長で2点のリードを奪いながらもこれまた試合終了間際にトニに起死回生の逆転弾を決められ万事休す。アウェイゴールによりバイエルンがセミファイナル進出を決めるに至った。

だが一夜明けたスペインではヘタフェを絶賛する声が相次いでいる。ファンからは「感動した」とのメッセージが多く届き、この日観戦に訪れていたレアル・マドリードのキャプテンであるラウールですら「彼らを誇りに思うべきだ」とのコメントを残してた。それほどまでに、彼らの戦いはスペイン人の心を打ったのだろう。

ヘタフェの例に限らず、UEFAカップという舞台においてはドラマティックな試合が少なくない。もはや勝利至上主義に犯されているといっても過言ではないCLでは起こりえないようなとびっきりの浮世話。いや、むしろ人間臭さ溢れる舞台だと私は思っている。

例えば思い出されるのは05-06シーズン、UEFAカップにおけるボロの躍進だ。


■ボロの演じた快進撃

このシーズン、ミドルスブラは劇的な、ほとんど映画といっても過言ではない逆転劇を演じ、決勝へと駒を進めた。惜しくも決勝では力尽き、準優勝に終わったものの、そこまで歩んできた彼らの道筋を本当に信じられないものだった。

準々決勝バーゼル戦、アウェイで0-2の敗戦を喫し、後がないボロだったがホームでもバーゼルに先制され、さらに絶体絶命に。しかしそこから怒涛の反撃を繰り広げ、ロスタイムにはマッカローネが値千金の逆転ゴールを決め、トータルスコア4-3でボロが劇的な逆転勝利を収めた。しかも物語りは終わらない。

準決勝ステアウア・ブカレフト戦のアウェイを0-1で落とし迎えたリバーサイドスタジアムでの第2戦、2点を先攻され、またも窮地に追い込まれた。しかしマッカローネ投入をキッカケにチームは奮起。4得点を奪い、土壇場で逆転に成功したのだ。おそらくサポーターたちはこの日のことを棺に入れられても忘れることはないだろう。わたしもまたしかり。

現ボロの監督で、当時主将だったサウスゲイトは「(決勝戦では)ファンを少しがっかりさせてしまった。しかし、UEFAカップで見せた快進撃は、忘れられない夜をファンにプレゼントできたと思う。(中略)決勝での敗戦は受け入れがたい。しかし、ミドルズブラが欧州カップ戦の決勝に進出することなど、5年前、いや5ヶ月前でも考えられなかった。我々のようなクラブにとっては大きな進歩だ。信じられない快挙だ。」と恥じることなく語っている。


■UEFAにも注目を!

最近はCLやら“ヨーロッパスーパーリーグ”やらといった話に関心が集まる傾向にあるような気がする。これらは(後者は実現すれば)世界最高峰の大会であり、魅力のあるプレイヤーたちの集いだということに疑いの余地はない。

だが、世界最高峰の戦いが最も魅力的な試合であるとは限らない。UEFAカップはもちろん、チャンピオンシップやJリーグにしても侮ることはできないし、そういった目でものを見るのは愚かなことであると思う。特にUEFAカップは「CLの下のカテゴリー」という認識がなされているため、注目されないことが多い。

だから私は言いたい。ヘタフェやボロの例のように、UEFAカップにも多くのドラマが存在する。それもCLよりもより人間臭いドラマが。CLなどだけではなく、UEFAカップにも注目すれば、より多くの楽しみを得ることができるかもしれない。

posted by so-ma |07:53 | 渾身コラム | コメント(7) | トラックバック(0)
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2008年03月14日

スポーツを観て楽しむということ 【プレミアF】

スポーツは肌で感じることに意義がある。会場で視覚を駆使し、聴覚を張り巡らせ、感覚で空気を読み取る。それが本来のスポーツを見て楽しむということだと私は思っている。

しかし科学技術の発達により、スポーツが数字で表すことのできるようになってきている現代では、その感覚が人々に欠如してきているような気がしてならない。

最もわかりやすい例えは野球だろうか。

リーグ最速の男、クルーンがマウンドに上がり、振りかぶる。指先から放たれたボールは空気を切り裂き、バッターの手が出るはずもなく、キャッチャーのミットに納まる。判定はストライクで見逃しの三振。その刹那、スタンドから歓声が上がる。これが本来の姿であると私は思う。だが、ここで奇妙な現象が起こることがある。時々、少し遅れて気持ちが空振りしたかのような吐息が漏れるのだ。

またある時、クルーンがマウンドに上がり、同じように振りかぶる。放たれたボールは切れがいまひとつでバットに当たり、弾き返される。ファールとなり、アウトは取れていない。ゆえに歓声が上がるはずもない。だが、奇妙なことに少し遅れたタイミングで統制の取れない合唱団のような歓声が上がることがある。

この2つの現象の理由はつまりこういうことだ。

『クルーンが三振を奪った。その瞬間、ボールの迫力と勢いの前に思わず「凄い」と思ってしまった。しかし、球速は149キロだったから、その三振はとりわけ凄くない。』

『クルーンが投げたにしては速いボールには見えなかった。バットにも当てられ、ファールにされた。「大したボールではない」と思った。しかし、球速が160キロだったから、そのボールは凄かった。』

こう思う方が非常に多いのではないか。

しかしどうしても私はこの現象に疑問を覚えてしまう。個人的には数字が肌感覚に勝ることは、スポーツを見る上では有り得ないのではないかと思っているからである。

確かに数字とはスポーツを楽しむことに加わった新たな要素であるし、楽しみ方なんて人それぞれだ。完全に間違っているとは思わない。だがいうならば、数字とは肌感覚に上塗りされたワックスのようなもの。その床を際立たせるためにワックスを塗るのだが、床の種類によってはワックスが意味を成さないこともある。逆に床を傷めてしまうことさえある。だから必ずしも床にワックスを塗ることが有意義なことだとは思わない。また、ワックスによって平凡な床が綺麗に見えてしまうことが好ましいことだとも思わない。

MAX162キロを誇るクルーンが投げた149キロのボールは凄くないのか。サッカーにおける0-0の試合はゴールが生まれなかったから面白くないのか。オリンピックでメダルを取れなかったからその選手は駄目だったのか。私はそうは思わない。数字がどうあれ、凄いものは凄い、凄くないものは凄くないと思うし、本当に凄いものは数字で計れないところに差があるからだと思っているからである。

例えば昨夏日本中を賑わせ、鳴り物入りでヤクルトに入団した佐藤投手だが、甲子園では自慢の真っ直ぐを弾き返され、早々に大会を去った。プロに入団してからも順風満帆とは行かず、結果を出せない日々が続き、開幕2軍スタートが決まった。

157キロのストレートを持っていても打者を抑えられるとは限らないのである。もし157キロという数字で打者をねじ伏せられるのであればチーム随一のスピードを誇る彼の右腕が開幕ローテーションに残らないはずはない。だが現実は違う。

高校時代はスピードが評価されていたかもしれないが、プロになってからはむしろ数字ではかれない部分、そう、球のキレの方がよほど重要だからである。今の彼は、数字で計れる部分を評価することはできるが、数字ではかれない部分に足りないものがある、ということなのだ。

だからプロだけではなく、観る側の人間も“目に見えない部分”をもっと評価し、重要視すべきではないか。

確かに議論の場で、主観の混じる肌感覚によって相手を納得させることは難しいだろう。数字的な要素の必要性は避けられない。しかし、数字とは結果であって、内容ではない。数字とは頭で考えた後付の評価であって、肌で感じられるその刹那の人間的な感覚ではない。

ゆえに全てのことを数字で計ろうとすることが懸命なことだとは思えない。

149キロだとしても、自分が「凄い」と思ったなら自分の感覚を疑う必要はないのだから。0-0だとしても、自分の見方に間違いを感じることはないのだから。メダルを取れなかったとしても、その選手に何かを感じることが出来たなら、選手自身が何かを感じられたなら、それは素晴らしいことなのだから。

肌で感じ、その刹那を楽しむことが、スポーツの醍醐味だと私は信じている。

posted by so-ma |20:09 | 渾身コラム | コメント(5) | トラックバック(0)
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2008年03月03日

改めて、レフェリー問題に物申す ~見解とコメントへの返事~

元記事
■改めて、レフェリー問題に物申す

たくさんのご観覧およびコメントを下さったTOMEさん、マコさん、平八さん、少年レベル審判さん、なおんさん、solさん、kenさん、てつさん、旅人さん、ジェロさん、名無氏さん、haTshさん、審判さん、シラネギさん、ろっくくんさん、でぃなもみんすくさん、クンさん、siroutoDESUさん他、誠にありがとうございます。多くの方にご意見をいただいたので、コメント欄ではなく、こちらに改めて大筋の見解およびコメントに対する返事を記したいと思います。


この“改めて、レフェリー問題に物申す”ですが、この記事で触れたことは先日のゼロックス・スーパーカップに限ったことではない。

当事者である家本レフェリーは“その筋”では有名な方であり、そのせいもあって家本レフェリーへの批判が大半をしめているようだが、残念なことになにも彼に限ったことではないということをご理解いただきたいと思う。

もちろん、家本氏の経歴を考えれば、正直なところSR(=スペシャル・レフェリーの略だが、私は常々Special Rubbishの訳だろうか?と思ってしまう)どころかプロの試合を吹くに値するとは私には思えないし、香港研修などを行ってなお、改善が見られないところを見ると彼のレフェリー資質に疑問を向けざるを得ないというのが率直な意見だ。ゼロックスにしても、私は1試合を通してみていないので、彼のジャッジを総評することはできないが、少なくとも上記したようにこれまでの経歴が今回の騒動に繋がっていることは間違いなく、非難されても仕方ない現状になってしまったのは彼自身の未熟さといえる。


ただ、繰り返すが本質はそこではない。1試合の、1審判のレフェリングを批判しているのではなく、レフェリー陣全体の現状を、そして彼らを半ば放置して使い続けるJリーグ側に向けて書いたのが“改めて~”なのである。

彼のような問題を起こすレフェリーは少なくない。しかもなぜか決まってそのレフェリーはSRだったりする。つまり、試合の流れやエンターテイメントの場を壊してもルールブックには則っているから一定の評価を得てしまうということだ。問題を起こすがSRになっているという矛盾が日本サッカー界の現状なのである。

そしてレフェリーの模範であるべきSRのリストに問題を起こすレフェリーの名前が載っているということは、つまりJリーグ側の審判評価基準や根本的な体制の不備を映し出しているのに他ならないのだ。

オリベイラ監督は判定に対する不満やファンも含めて誤審に半ば泣き寝入りしている現状に対して苦言を呈したが、返す言葉もないほど彼の言葉は適格だと私は思う。

Jリーグはミスを続けるレフェリーをかばい続け、彼らを匿おうとバリケードを張っている(監督、選手などへのレフェリーに対する発言の制限等)がこんなことが有益に働くのだろうか。ミスを犯しても罰が与えられなければ彼らが同じことを繰り返すことは目に見えているし、実際、繰り返してしまっている。自分で自分の首を絞めかねない。

その後、スポーツニュースやサッカー番組等でどのような報道がなされたのか(誤審らしきシーンや審判問題を取り上げたのか)は海外に住んでいる関係で知ることはできないが、今回の騒動が少しでもレフェリーの質の向上やJリーグ側の姿勢の改善に繋がることを祈る。特にマスコミの方々、これからはレフェリーに関してのコメントも公共の電波に乗せてください。いいことも、もちろん、悪いことも。

以上、この記事をもってコメントへの返事に変えさせていただきます。

最後に、昨年のベストメンバー規定騒動を皮肉って締めくくることにしよう。

“鬼武さん、我々は裏切られています”

誰にかは………言わずともわかってください。

posted by so-ma |02:27 | 渾身コラム | コメント(12) | トラックバック(0)
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2008年03月02日

改めて、レフェリー問題に物申す

現在、日本ではゼロックス・スーパーカップにおける審判問題が大きく取り上げられているようなので、これを機にJリーグの審判問題について触れておきたいと思う。


■フットボールを知っているレフェリーと知らないレフェリー

日本にいた頃の週末の過ごし方といえば、昼過ぎから行動圏内にあるスタジアムで行われるJの試合を観戦しに出かけ、帰宅後、海外サッカーを見て就寝…というのが定番の流れだった。サッカー好きとしてはたまらない一日である。

ただ、土曜日の夜、海外サッカーを観戦し、翌日Jリーグを見てがっかりした経験は数え切れないほどあるのが残念でならない。

なぜ“がっかり”してしまったのか。

このようなことを書くと“選手のレベルが低いから”Jを観ていない偽サッカーファンだと勘違いされてしまうのだが、決してそんなことが要因となっているわけではない。JにはJの良さがあり、頭ごなしに「レベルが低いから」とJリーグを馬鹿にするような輩などサッカーを愛するものではないと私は思っている。もちろん自身が不届き者であるはずもない。

では、何に“がっかり”だったのかといえば…そう、それが今回取り上げる“審判”についてである。

正直な話、私が愛しているイングランドのフットボール界…とりわけ世界最高峰のリーグといわれるプレミアシップですら誤審は少なくない。そのせいで勝敗が変わってしまう試合などいくらでもある。そして両リーグを実際見ている者としては、絶望的な差がイングランドと日本のレフェリーの間にあるとは思えない。

にもかかわらず、それでも私がイングランドのフットボールを愛し、イングランドのレフェリーを好むのは、彼らがフットボールを知っているからである。逆にいえば日本のレフェリーはサッカーを理解しきれていないように映るのだ。


■試合のコントロール

“知っている”とはどういうことか。

フットボールはスポーツである。ゆえに勝敗が全て…ではあるのだが、安くない料金を払い、チケットを買って、スタジアムへ足を運ぶファンがいるのだから、プロのクラブとして、あるいはクラブを統括するリーグとして、ファンを少しでも楽しませて帰路につかせることはある種の義務となっている。そこで重要になってくるのが試合内容であり、面白い試合になるか否かがレフェリーのジャッジにかかっている比重は決して小さくないのである。

例えばフットボールの要素として“流れ”というものがある。“流れ”が重要なスポーツであるフットボールで必要以上に笛を吹くことは試合を遮断する行為であり、試合の熱自体を奪ってしまう危険性がある。逆にファールを流しすぎて荒れた試合になることもあり、このあたりの加減、つまりジャッジの基準は難しいところなのだが“知っている”レフェリーはどの程度の基準で笛を吹けば試合の流れがスムーズになるか、面白い試合になるか、ある程度把握しているように思う。

言い換えればこういうことだ。イングランドとJリーグのレフェリーの大きな違いは“試合をコントロールする能力に長けているか否か”なのである。正直なところ、多くのJリーグの審判には試合をコントロールする意識があるのか疑いたくなるのが現状だ。

試合開始直後になんでもないファールに対しイエローカードを提示し、流れを読まずに試合を遮断し、レッドカードで試合を壊す。ファールの基準に達していれば状況に関係なく笛を吹き、目の前で起こった事態を機械的に捌いているのが現状といえるだろう。これでは試合が落ち着くことはない。そういう意味では日本の多くのレフェリーには応用力が欠けているといわざるを得ない。

例えばゼロックス・スーパーカップで岩政選手に退場を命じらた家本主審について。岩政のプレーは既に1枚イエローカードをもらっているにしてはあまりに軽率だったといわざるを得ない。だが悪質なプレーだったわけではないし、タイトルマッチの、しかもまだ前半12分ということを考えれば、注意にとどめておける場面だった。もし残り70分近く残っている状況で11人対10人のゲームになったなら試合が壊れることは目に見えているのだから。タイトルマッチに意義を持たせるためにも、このジャッジは重要だった。だが彼の判断は…ご存知のとおりである。

海外にいる関係で、断片的にしか試合を見れずにいるが、話を聞く限り、あのレッドカードで少なからず試合は変わったようだし、選手の心理状態にも変化が生まれ、後のプレーに影響したことは間違いないだろう。もしかしたら審判自身の心理にも、負い目というかネガティブな意味で変化が生まれたかもしれない。それはつまり、あの判定がまさしく“試合を壊す行為”であり、レフェリー自身にレッドカードが提示されてもおかしくない場面だったかということである。


■魅力的なリーグを作るために…

また日本サッカーにおける審判の判定基準にも一言いわせてもらいたい。

これは私がプレミアシップを見ているせいかもしれないが、Jリーグは審判の判定の甘さによって試合自体が面白みを失ってしまいかねないと思っている。ファールを極力抑えているプレミアシップは確かに誤審も多いが、試合の“流れ”を審判が壊すということは誤審ほど多くはない。

しかし、Jリーグはどうだろう。なんでもない行為に笛は簡単に吹かれ、試合の流れはそのたびに切れている。

せっかく相手選手を振り切り、カウンターのチャンスを作ったのに、笛が吹かれてチャンスがふいになる。自分のファールならまだしも相手のファールで自分の利益を失う笛を吹かれる。相手ではなく審判にボールを奪われチャンスを潰される。当然選手は怒るだろう。その選手のなんでもない抗議、異議申し立てに対してイエローカードは出され、またフラストレーションは溜まる……。この悪循環の繰り返しが多くの試合で見受けられるのが現状といえるのではないだろうか。

日本ではこのようなカードを乱発させる審判を(特にマスコミは)「厳格なジャッジ」たる言葉でかくまう傾向にあるが、本当にそれでよいのだろうか。

これは全く個人的な見解だと最初に断っておくが、判定を人間が行う以上、誤審が生まれてしまうのは仕方がない。だが誤審により勝ち星を落とすチームもあれば拾うチームもある。1試合の勝ち負けではなく、シーズン通してのポイントで判断すればプラスマイナスはほとんど生まれないのではないだろうか。なのだからせめて試合が面白くなるような基準を作り、リーグに魅力を持たせ、ファンが納得するだけの組織を作り上げる必要があるように思う。

つまりそれは判定基準の再考であり、試合を作ることのできるレフェリーの選出、ということである。

“審判が目立つ試合に好ゲームなし”

この格言が胸に響く。繰り返すがJリーグを見ていると試合ではなく、審判にフラストレーションが溜まることが少なくない。試合のコントロール技術とファールの基準。現在、日本サッカーに求められるのはこの2つであると私は常々思っている。

posted by so-ma |05:08 | 渾身コラム | コメント(30) | トラックバック(3)
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2008年02月27日

イングランド・フットボールへの誘い。

近年、イングランド・プレミアシップのクラブは巨額の投資や大富豪により引き入られることが多くなっている。ゆえに多額の移籍金を払うことが可能となり、有能な選手がイングランドの地へ集まり、結果、世界1人気のあるリーグといわれるようになった。最近はその人気ゆえ、莫大な放送権料を手にし、ますます豊かになっている。これからもアラブの石油王やらアメリカのビジネスマンやらが興味を示すであろうことは間違いないといえるだろう。

そのため、イングランドのアイデンティティーを危惧する声が多く上がっており、これはイングランドのみならず、世界中で議論の的となっている。

個人的にはイングランドのフットボールに関心が集まることは好ましいこと“だった”。日本人が興味を持てばプレミアシップを日本にいながらにしてみることができるし、多くの情報が伝わってくるのだから。事実、今ではスカパーどころかNHKでも見ることができる環境になっている。(筆者はまだ後者の放送を見たことがないので番組のクオリティー云々はわからないが。)

ただ、少なからず考えが変わってきたというのが最近の心境だろうか。いや、もっと前から思っていたことなのだが気づかない振りをしていただけなのかもしれない。少なくとも最近になってもう見て見ぬ振りはできないほどにこの考えが頭を占める割合は大きくなってきたといえるのだろう。

“必ずしもプレミアシップではイングランド・フットボールの魅力を堪能できない”

それが率直な意見である。すなわちそれは前述したイングランドのアイデンティティーが失われかけているということであり、これから改善していかなければならない問題ということだ。

なぜそう思うようになったのか。

ピッチ上の問題ももちろんだが、私はピッチ外の、もっと言えば観客層の変化が問題なのではないかと考えている。簡単に言えば、昔はフットボールを見に来る者のほとんどは、自分のチームを熱狂的に応援するコアなサポーターばかりだったのが、近年のグローバル化と人気の向上により、有名選手の名前しかしらないようなライトなファンが増えたということである。例えばいまだにアンリがバルセロナへと去ったということを知らずにアーセナルを彼目当てに観に行く者もいるぐらいだ。

勘違いしてほしくないのだが必ずしもこの現象に苦言を呈しているのではない。ライトなファンを取り込むことがビジネスにとって…もう少し押し進めていえばそのクラブにとって重要なことなのだから、現状は良好であるとの見方もできる。

ただ、他の記事でも何度も書いているが特にイングランド・フットボールの魅力はサポーターたちが作り出す独自の雰囲気にあると私は思っている。彼らがいない試合など私には価値を見出すことはできないし(そう、だからプレミアの海外公式戦など失笑ものである)、彼らの中に混じり(できればチャントを歌って)初めてイングランドのフットボールを体験できた、といえると思うのだ。

ゆえにそういった観点から見れば観光客に囲まれて試合を観なければならない現状が好ましいとはいえない。


だから私は以下のことをお勧めしようと思う。

ミーハー気分を味わいたいなら、もしくはそれらのチームのファンならばアーセナルやマンチェスター・Uの試合を観に行けばいいが、イングランドのフットボールが好きなのであれば、是非とも下部リーグの試合を観に行くべきだ、ということを。

先日、レイトン・オリエントというリーグ1(実質3部)に所属するチームを観に行ったのだがそこで痛感させられた。

確かに下部リーグの試合が満員になることは少ないし、チャントの声量やフットボールの内容ではプレミア上位のチームには到底かなわないだろう。ただ、下部リーグにはコアなファンが多い。観客は少なくとも密度は濃い。だから本当の雰囲気が味わえるのだ。

不甲斐ないプレーに頭を抱え、空振りした選手を笑い飛ばし、不可解な判定に激怒し、ゴールに歓喜する。

こんなことを幼稚園生から白髪の老人まで、皆が行っているのだ。私にはこの光景が素敵で素敵でたまらない。過去に下部のチームを見に行った経験はまだ10回前後ほどだがほとんどのスタジアムでこのような密度の濃い光景を目にすることができた。

だから日本に住んでいる方たちより少しだけイングランド・フットボールに触れられている者としてオススメしたい。フットボール観戦旅行の予定を立てるときには、是非下部リーグの日程もチェックしてほしい、ということを。きっと貴重な体験ができるはずだから。

何でもそうだ。有名な高級レストランより個人が経営している小さな店の料理の方が美味しかったりする。食材が高級でなかったとしてもそれを補う店の雰囲気やオーナーのキャラクター性、何より親しみやすさに我々は惹かれてしまうことが多い。

騙されたと思って行ってみてほしい。他人には自慢できないかもしれないが、自分だけの貴重な思い出を作ることができるはずだから。



PS:最近、数人の方からイングランド・フットボール観戦に関しての質問をいただいたのですが、観戦方法やチケットの手配等まで質問がある方は是非メールいただければと思います。ひとりでも多くの方がイングランド・フットボールを味わってくだされば、と思い、お手伝いしたいと思っている次第です。

posted by so-ma |23:38 | 渾身コラム | コメント(8) | トラックバック(0)
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2007年12月17日

My football life

■始まりはあの日から…

Jリーグの開幕と三浦知良がサッカーというスポーツを教えてくれた。ドーハで日本がイランにやれた日、学校の教科書やテレビの教育番組からは決して学ぶことの出来ない愛国心と、何よりの悲しさを味わった。マレーシアでサウジアラビアに勝った日、前園真聖の目から“信念”を学び、マイヤミでは奇跡を目にした。

そんな少年がイングランドに心を奪われたのは2002年のことだった。

初めて彼らを目にしたのはおそらく98年だろう。ただその記憶はもはや忘却の彼方だ。オーウェンのセンセーショナルなゴールもベッカムとシメオネの因縁も後に目にした後付の記憶でしかない。曖昧だが覚えているのはフランスワールドカップが終わった後のこと。当時、幸運にも自宅には広まり始めていたケーブル・テレビがあり、スポーツ専門チャンネルで週1試合放送されていたプレミアシップを欠かさず見ていたこと。だからクラスメイトが誰も知らなかったシェイ・ギブン(彼はアイリッシュだが)やJ・コールが私のアイドルになったのだろう。必然的にイングランドにも親近感を持つようになり、日韓大会を迎えることとなる。

決定打となったのはアルゼンチン戦だった。後に村上龍氏は「あの試合を目にし、イングランドのサッカーが好きではなくなった」とどこかのコラムで書いているが、私は逆だった。真逆もいいところだった。

決してコンディションの万全ではなかったオーウェンのドリブルに興奮し、98年の借りを返して見せたベッカムのPKに心臓が高鳴った。そして、アルゼンチンの猛攻から、4年の時を越えたベッカムの魂が奪った虎の子の1点を守っている時間が永遠のように感じられた。

残り30分、時計は時を刻むという自らに課せられた唯一の仕事を放棄してしまったようだった。おそらく腕時計もテレビ画面の隅に映っているデジタル時計も皆、ボイコットだかストライキだかに入ってしまったのだろう。(ああ!なんてことだ!!)多くのイングランドファンがそうであったように、私もまた緊張の連続に疲弊し、手に汗握り、灰になりかけていたし、もはや天命を待つしか手立てはなかった。そんな長く辛くひもじい時間が続いたのだ。

しかしようやくスト(彼らが要求しているものが何かは分からないが、今でもと時々ストは起こる。もちろんフットボールを観ている時だ)が終焉を迎えた時の感情の爆発と理性の喪失、そして極上の安堵感といったらたまらない。

それらの科学的結合要因を解説できるほどの理系的知識を持ち合わせてはいないが、自分の中に何か抑えることのできない激烈な感情が生まれたことは確かだった。つまりこれがイングランドへの愛(よく“恋に落ちた”という表現が使われるがこの場合“恋”ではなく“愛”だと思う。子どもが産まれた時、彼らに恋する父親はいない。両親が持つのは我が子への愛だ)であり、後に渡英を果たす私の原動力になった唯一無比のエネルギーだった。


■なぜ英国に行かなければならなかったのか?

人間には選ぶ権利がある。少年時代に少年らしいことをせずに(つまり、目の前にボールやテレビゲームがあってもそれを見過ごし、机に姿勢を正し、腰をかけ、分厚い教科書を片手に、因数分解や英単語の暗記に励むこと。当然僕には無理だった)、私立中学、名門高校、一流大学へ行き、大手企業に就職するのも、ゲームセンターでタバコを吸い、女を従え、すれ違う善良な一般市民たちにガンを飛ばすのも自由だ。

そして人間の思想とは実に不可解であり、不安定であり、時に不条理ですらある。相対性理論の“相”も理解していないのにアインシュタインを崇めたり、歴史の教科書に載っていたというだけで織田信長を尊敬したりする(彼らの多くは信長の宗教弾圧が日本における宗教戦争の撲滅に繋がったことを知らない。彼らが知っているのは“鳴かぬなら殺してしまえホトトギス”だけだ)。ヒットばかりの野球はつまらないと言う者がイチローを敬愛し、バリー・ボンズを嫌っていようともなんら不思議ではない。

私もまた自由を与えられた人間のひとりだ。つまりロック・ミュージックを聴かず、ピアスの穴を開けていない人を殴ったこともない読書好きな青年がフットボールを見にイングランドまで訪れようとも取り立てておかしなことではない。フットボールを死ぬほど愛し、意中にはウエストハムがあり、今こうして英国へ来てしまったこともまたしかり。

ただ、九州や大阪にすら行ったことのない青二才が異国の地(北はスコットランドのエディンバラ、南はポーツマス、サウサンプトンまで)をひとりで歩き回るという行動は日常的なものではない。友人の多くは(2,3年後嫌でも働かなければならないというのに)アルバイトに精を出し、酒とタバコに酔い、就職活動に歩き回っているというのに。

こちらの方が20前後の男にとってはよほど健全で実用的な行動だということも重々承知している。アントン・ファーディナンドの巧みなポジショニングを見なくともアルバイト経験があれば就職してからも自分の居場所を見つけるに苦労はしないだろうし、ベルバトフのテクニックに酔っている間に企業説明会へ行ったほうがよほどためになることなのだろう。

しかしそれらの日常的な生活は私の望むものではなかった。私は金子達仁氏がメキシコ・ワールドカップやスペインである種の世界的フットボール感を体感したことを心から羨ましく思うし、テレビ中継の技術が飛躍的に向上した現代においても後藤氏のスタンスはフットボールの原点を忘れない素敵なものだと思う。そしてニック・ホーンビィがそうであったように私もまたフットボールのスケジュール表が生活の中心にある(残念なことに友人との飲み会や親戚の懇談会は二の次だ。馬鹿騒ぎや世間話に付き合うのも悪くないが、一方でハマーズの勝利やジェラードの強烈なミドルシュートを見逃すことなど耐えられない。例えそれがテレビの向こうの世界だったとしても。パートナーがこんな私を理解ある目で見てくれているは本当に幸いなことである)。

だから人間に与えられた権利を最大限に活用しない手はないと思った。軽挙妄動ではない。異国の地での日々は多事多難なものになるかもしれない。ただひとつ言えることは実践躬行しなければ何も始まらないということである。そのようなわけで英国へ足を踏み入れた。今回は旅行ではなく、約1年間、フットボールの国での生活を満喫するために。

posted by so-ma |23:46 | 渾身コラム | コメント(4) | トラックバック(0)
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