2008年02月23日
1.「あんたを必ず、アンフィールドに連れて行ってやる!」
陽気なタクシーの運転手だった。聴き取りにくいリヴァプール弁丸出しのだみ声で、運転中に私にしきりに話しかけてきた。
「この時間帯はいつもこうなんだが、ロンドンの渋滞と比べたら、可愛いもんだろ?あんたにとって、今晩の試合は大事な試合のようだな。よし、あんたを必ず、アンフィールドに連れて行ってやる!任せておけ!でも、この渋滞だと、到着するのは、前半が終わった頃かもしれんがな・・・笑。」
私も笑いながら、それならば、リヴァプールのゴール前のペナルティースポットの上で降ろして欲しいと頼んだ。彼は下品に笑いながら、キックオフまでに間に合わなかった時は、必ずそうしてやると言い放つと、ハンドルを握りなおして気合を入れるふりをした。
「今晩は、リヴァプールの宿は、どこもイタ公で溢れ返っている。イタリアからインテルを追いかけて、7000人は乗り込んで来ていると、さっきラジオで言ってたっけな。そう言えば、以前、日本人の女性客を乗せた事がある。彼女のお目当ても、あんたと一緒でアンフィールドにフットボールの試合を観に行く事だった。彼女は何と、その為に、はるばる日本から飛んできたと言っていた。たったそれだけの為に。信じられるかい?どうやったら、そうなるんだよ。でも、その女性は日本で飲食店を何軒か経営していて、カネには困っていないようだった。だから、言ってやったんだ。リヴァプールには美味い日本食レストランが無いから、こっちで店を出せば、いくらでもアンフィールドに試合を観に行けるって、な・・・笑。フィッシュ・アンド・チップスがある訳だから、スシ・アンド・チップスも、悪くないんじゃないか?」
ブルーカラー層が多い港町ならではの、一見無骨で乱暴な会話でも、その中身は、とても暖かかった。こんな温もりを感じるタクシーの運転手とのやり取りは、ロンドンではなかなか体験できない。
2.想像していた以上に小さかった、アンフィールド
アンフィールドには、キックオフ1時間前には到着していた。
コートの襟を立てながら、陽が落ちたばかりのアンフィールドの周りを、ウォーミングアップも兼ねて一周してみた。これが5回もビッグイヤーを手にしたクラブのホーム・スタジアムなのか?と、首を傾げてしまうほど、アンフィールドは、想像していた以上に小さかった。それは、ピッチとスタンドがいかに近いスタジアムであるかを物語っていた。アンフィールドもまた、イギリスでは良くある、普通の住宅街の中に建てられたスタジアムだった。
センテナリー・スタンドの1階で見つけた自分の席に座って、少し落ち着こうとしたその時、ウォーミングアップの為にピッチに出てきた両チームの選手達につられて、周囲の観客達がいっせいに立ち上がった。スタジアムに入場する前から威勢良くインテル・コールを鳴らしていたインテルのULTRASサポーター達は、警察官達とスチュワード達によって、アンフィールド・ロード・スタンドのゴール裏の隅の方に用意されたアウェーサポーター専用区画に早めに手際よく誘導され、リヴァプールのサポーター達とは完全に隔離されていた。
運が良かった。ロンドンを出発する前に聞いていた予報では、チケットが入手出来たとしても、それはインテルのサポーター専用区画の方の席になるはずだったが、手配先の何かの手違いで、試合当日の朝に、ロンドンで冷や汗をかきながら160ポンド(約3万4千円)を払って手に入れたチケットは、リヴァプールのサポーター達が陣取る、タッチライン沿いの、素晴らしく眺めの良い席のチケットだった。とても嬉しい誤算だった。でも、一歩間違っていれば、アンフィールドを外から拝むだけでロンドンに帰る展開になっていた。
3.リヴァプールが、強い時
先週15日土曜日のFAカップの試合で、2部リーグに所属するバーンズリーにまさかの敗北を喫したリヴァプール。これで、今シーズンはカーリングカップに次いで、FAカップからも姿を消す事になった。プレミアリーグでは首位アーセナルに勝点で19ポイントも離されて、現在5位。今シーズンのプレミアリーグ優勝は、もはや絶望的だ。2月19日(火)の夕方、寒い中、アンフィールドに集まったリヴァプール・サポーター達の胸中は、穏やかではなかったはずだ。
このチームは、何故か、チャンピオンズリーグの試合になると、めっぽう強くなる。チャンピオンズリーグの試合で力なくうな垂れているスティーブン・ジェラードやジェイミー・キャラガー、サミー・ヒーピアらのイメージは、頭の中に浮かんでこない。過去に5回も欧州チャンピオンの座を勝ち取ったクラブチームのプライドがそうさせているのだろうか。チャンピオンズリーグの試合になると発揮されるあの気迫は、闘志は、底力は、一体どこから生まれて来るのだろうか。その一方で、何故、国内では、精彩を欠いた試合がこうも多いのだろうか。確かに【チャンピオンズリーグで勝つチーム】は、必ずしも【国内リーグ戦や国内カップ戦で調子の良いチーム】とイコールではない。それを理解しているつもりでも、リヴァプールのこの極端なチャンピオンズリーグでの変身ぶりは、私にとっては大きな「謎」だ。そのリヴァプールとは正反対の事をやってきたのが、欧州一の内弁慶、インテルだが、インテルがチャンピオンズリーグで勝てない理由は、何となく解るような気がする。
「今日は勝ってくれ!」、「絶対に勝て!」という応援のし方はあっても、「負ける事を恐れるな!」という応援のし方は、あまり聞いた事が無い。だが、負けを恐れずに勝負に挑むチームほど強いチームは無いと思う。勝つ事を意識すればするほど、負ける事に対する恐怖もまた募る。光を意識するという事は、同時に闇を意識する事でもあるように。負ける事を恐れない、勝つ事も恐れない、光から闇を剥がそうとしない、勝負を恐れない・・・そういう勝負への挑み方と、勝利に対する執着心の両立。強い時のリヴァプールは、それが出来ているように見える。真っ先に思い浮かぶのが、あのイスタンブールのリヴァプールだ。そして、アンフィールドに集うリヴァプールのサポーター達は、「リヴァプールが強い時」の事を良く知っているのだろう。その証拠に、今回、アンフィールドの熱狂の中で、負ける事を極端に恐れる人達によって放たれる「殺気」は、全く感じ取れなかった。サンシーロでは、この「殺気」がスタジアムを呑み込んでいる時が、シーズン中に何度かあったりする。イタリア人のほうが、イギリス人よりも精神的に追い込まれ易いのだろうか。
4.自ら暗雲を吹き払った、ベニテス監督
リヴァプール対インテル。この試合には、リヴァプールのベニテス監督の首が、リヴァプールの今シーズンがかかっていた。リヴァプールのキャプテン、ジェラードは、「サンシーロに行く前に、今シーズン最高のリヴァプールが必要だ」と、この試合の為に出版されたマッチ・デイ・プログラムの中で述べている。もう失敗は許されないという重苦しいムードが圧しかかっていたはずのベニテス監督。だが、彼の采配は見事だった。試合の流れを完璧に読みきって、自ら暗雲を吹き払った。その、情け容赦の無い、自信に満ちた采配の前に、退場者や負傷者が出て防戦一辺倒にならざるを得なかったインテルのマンチーニ監督は、なす術が無かった。そして、リヴァプールの選手達もまた、ベニテス監督の期待に見事にこたえた。
キックオフ直後からエンジン全開モードで試合の主導権を握ったリヴァプール。マテラッツィが2枚目のイエローカードを受けて退場するまでの間、中盤でインテルにプレーを組み立てさせるスペースを一切、与えなかった。青白い炎を放つどころか、ガスの元栓をいきなりリヴァプールに塞がれたインテル。問題のマテラッツィの退場の場面も、私は素直に頷けた。マテラッツィは、警戒していたフェルナンド・トーレスのスピードに翻弄されて、パニック状態に陥っていたように見えた。確かにあの審判のジャッジには疑問が残るが、マテラッツィは、トーレスのスピードに全くついて行けていなかったのも事実だ。
それにしても、前半29分のマテラッツィの退場は、インテルにとっては痛かった。10人になりながらも、試合の終盤まで何とか持ちこたえていたインテルだったが、サネッティ、スタンコビッチ、マイコンらに疲れが見え始めていた頃、後半19分、ベニテス監督はMFルーカスに替えてFWクラウチを投入、3トップでインテルに止めを刺しに来た。この決断のタイミングは絶妙だった。
5.見逃してはくれなかった、リヴァプール
そして、キヴと共にインテルのゴールを死守していたコルドバが負傷し、担架でピッチから運び出された時・・・私は、インテルが0-0のスコアをミラノに持ち帰れない結末を覚悟した。インテルのペナルティーエリア内で、クラウチの高さ、カイトの運動量、トーレスのスピードという、3つの選択肢を持ったリヴァプールは脅威だった。その3トップの背後には、ジェラード、マスケラーノ、ペナント、ファビオ・アウレリオ、フィンナンがインテルの選手達を自陣のペナルティーエリアの中に閉じ込めていた。時計に何度も目をやりながらも、インテルが崩れる瞬間が訪れるのは時間の問題に思えた。そんなインテルを、リヴァプールは・・・見逃してはくれなかった。最後の5分間で、インテルのゴールは、2度もリヴァプールに破られてしまった。特にジェラードの2点目の時は、ようやく納得の行くリヴァプールをアンフィールドで観れた事で、シーズン中に鬱積していた苦痛から一気に開放された、リヴァプール・サポーター達の怒りにも似た歓喜の渦が、私の周囲で大噴火を起こし、一瞬、身の危険を感じた。
インテルのボール支配率は30%ぐらいだっただろうか。放ったシュートはたったの3本、全てオフ・ターゲット。コーナーキックも1本だけ。いろいろなエピソードに左右された試合ではあったが、それにしても、リヴァプールに思うようにプレーをさせてもらえなかったインテル。最後の5分でリヴァプールに崩されたインテル。久し振りに観た、インテルの敗北。泥臭い両チームのサッカーだったが、そこがまた、チャンピオンズリーグ・ノックアウトステージらしいサッカーでもあった。
インテルがアンフィールドでのこの0-2のスコアを3月11日(火)、サンシーロで逆転出来る可能性は、ゼロではないにせよ、その極めて難しいミッションを達成する為には、今度は「今シーズン最高のインテル」が必要だ。1965年の欧州チャンピオンズカップ準決勝で、インテルはアンフィールドでリヴァプールに1-3で破れた後、サンシーロで3-0でリヴァプールに勝ち、不可能を可能にした事がある。歴史は繰り返されるだろうか。次のサンシーロでは、マテラッツィ(出場停止)、コルドバ(怪我)を使えないインテルだが、私は、まだ諦めてはいない。
6.12人目のプレーヤー
私のすぐ後ろに座っていた(立っていた?)、歳は50代の大柄の男性リヴァプール・サポーターは、試合中、ずっとインテルを大声で罵り続けていた。放送禁止用語をシャウトしまくっていた彼は、何度か勢い余って、私の背中や頭を小突いたり、寄りかかってきたが、その度に「すまん。夢中になると、いつもこうなんだ。大丈夫か?痛くはなかったか?」と、心配そうに私に声をかけてきては、気が付くと、また後で罵声を張り上げていた。
アンフィールドの観衆は、終始立ったまま観戦する、最も熱狂的なザ・コップ・グランドスタンドの観客達を除くと、リヴァプールが攻撃する時は皆、いっせいに席から立ちあがり、敵にボールを奪われると、いっせいにまた席に座る。なかなか忙しい、でも、周囲に合わせていれば、視界が遮られたり、後方の観客から座るよう注意される事は絶対にないスタジアムだ。
それにしても、誰かが指揮を執っている訳でもないのに、どうして、あれだけの数の人達の声援がピタッと一致するのだろうか。テレビで試合を見ていた時は、自然に湧き出ているものだとばかり思っていたスタンドからの各種チャントや拍手は、実は何一つ、自然に起きていたものではなかったようだ。長い長い年月と観衆の集中力によって熟成された、ピッチとスタンドを連動させる、同化させるシステム。たかが一回、アンフィールドで試合を観戦したところで、その、アンフィールドならではのシステムを全て理解するまでには、とても、とても、至れない。でも、アンフィールドには、確かに、リヴァプールの12人目の物凄いプレーヤーが実在していた。それだけは、私にも十分、理解できた。
7.「You’ll Never Walk Alone」
リヴァプールのサポーター達を、昔から個人的に【世界一のサポーター達】と崇めている理由の一つに、彼らの応援歌「You’ll Never Walk Alone」の存在がある。
嵐の中でも、上を向いて歩こう。闇を恐れる事はない。嵐の向こうには金色に輝く空が広がっていて、ひばりの美しい銀色の囀り声が聞こえるはずだ。歩き続けよう、風の中を。歩き続けよう、雨の中を。たとえ夢が投げ出されて壊れてしまったとしても。歩き続けよう、歩き続けよう、希望を胸に抱きながら。そして、貴方は決して独りで歩く事はない。貴方は決して独りで歩く事はない。
・・・こんなしびれる歌詞の応援歌を、毎試合、試合結果を問わず、スタンドを埋め尽くしたサポーター達が、赤や紅白のマフラーをかざしながら熱唱してくれたら、ピッチに立つリヴァプールの選手達は、魂を削ってでも、心臓が破裂しそうになってでも、サポーター達に勝利をプレゼントしようとするだろう。「You’ll Never Walk Alone」の大合唱が生み出す、あの時のスタンドとピッチの一体感は、世界中でもアンフィールドでしか味わえない。今回、アンフィールドで、試合開始前、後半開始前、試合終了後、3度に渡って「You’ll Never Walk Alone」の大合唱の中に身を浸す事が出来た事を、私は一生サッカーの神様に感謝し続けるだろう。
もし、今、誰かに、これから欧州サッカーを楽しみたいが、欧州のクラブの事を知らないので、応援しがいのあるチームを一つ、紹介して欲しいと聞かれたら、私は迷わず、その人にリヴァプールを勧めるだろう。そして、出来る事なら、その人に、「You’ll Never Walk Alone」を、あの、鳥肌が立つような感動を、是非、一生の間のどこかで体験してもらいたいと願うだろう。間に合えば、是非、あの、リヴァプール愛に満ち溢れた、アンフィールドで。
posted by sinfonia |05:47 |
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2008年02月22日
記事の方は別途、掲載する予定です。
posted by sinfonia |11:04 |
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2008年02月17日
昨日、サンシーロで行われたインテル対リヴォルノ戦で、スタジアムの北側2階席のゴール裏に陣取るインテルのULTRASの連中が、先日、試合中に左足の膝蓋腱断裂という重傷を負ったミランのロナウドを嘲笑うチャントを試合中に披露した事が、イタリアで話題になっている。
インテルのULTRASの輩達は、昨シーズン、マドリッドからミラノに戻ったロナウドが、赤黒の縦縞ユニフォームに袖を通した事を、まだ許していない。昨シーズンのミラノダービで、「ロナウド笛」を3万個も用意した呆れた連中だ。でも、今となっては、まだ、ミランのロナウドに対する笛攻撃の方が、可愛かったと思う。
インテルの宝だったロナウド。インテリスタ達から寵愛されていたロナウド。そのロナウドが宿敵・ミランの選手になってから、インテルのULTRASの輩達は、アンチ・ロナウドの立場を取る事で、インテルへの異常かつ過激な忠誠心を世間に示すようになった。「ミラニスタのロナウド」を、何かにつけて揶揄する彼らのチャントの中身は、単なるウケ狙いのポーズやひねりの効いた野次に止まらない、ロナウドに対する正真正銘の悪意に満ちている。
全治まで最低でもあと9ヶ月、これから選手生命をかけた、人生をかけた、長く険しいリハビリにまた立ち向かわなければならないロナウドに、「ロナウドよ、俺達と一緒に飛び跳ねてみろ!」、「ロナウドの膝は、なくなっちゃったよ!」といったチャントが、サンシーロで、それもインテル側のクルヴァで湧き起こるとは・・・インテルのULTRASの輩達は、やはり、頭の中のネジが何本か抜け落ちた連中なのだろう。
80年代後半にトラパットーニ監督やマテウス、ブレーメらがインテルをスクデットに導いた後、長い間スクデット争いにまともに加われず、セリエAで低迷していたインテルが、90年代後半から欧州のビッグクラブの仲間入りを果たせたのは、1997年の夏にロナウドがインテルの一員になった事が大きなきっかけになっている。
「イル・フェノーメノ(超常現象)」と呼ばれた彼の、人間業とは思えない爆発的な加速力と、その驚異的な加速の中で保たれるボディーバランス、ステップのキレ、ボールを操るテクニック、正確でパワフルな決定力。スポーツ医学素人の私でも、あの彼独特の人間離れしたプレースタイルを可能にする、高速での激しい体重移動が彼の膝にかける負荷は尋常ではない事は、容易に想像出来る。
2000年4月12日。ローマのオリンピコ・スタジアムで行われたラツィオ対インテル戦、コッパ・イタリアの試合。ロナウドが右膝を壊したあの試合の事は、出来れば思い出したくなかった。あの試合は、悪くした右膝のリハビリに長い間、専念していたロナウドが、久し振りにインテルの戦列に復帰した試合でもあった。後半の途中にリッピ監督によってピッチに投入されたロナウドは、敵陣のゴール前でボールを受けると、前に何歩かステップを踏んだ。その時、ロナウドの右膝の「お皿」が大きく下にズレたのがテレビの画像から見て取れた。ロナウドは、悲鳴を上げながら、ピッチの上に崩れ落ちた。激痛に苦しむロナウドの周りに集まったインテルとラツィオの選手達。泣き叫ぶロナウドを担架に乗せてピッチから運び出したメディカルスタッフ達。その光景を、一部始終、泣きそうな顔でピッチサイドから眺めていた、リッピ監督。
この直後にロナウドが受けた手術では、単に断裂した右足の膝蓋腱をつないだだけではなく、右膝が治っても、彼のあの独特のプレースタイルにしっかり耐えられるよう、膝蓋腱を強化する為の施しも外科的になされたと言われている。彼の持って生まれた身体は、彼のプレースタイルから来る衝撃に耐えられない、というのが、当時のドクター達の見解だったようだ。
先日、パリで左足の膝の手術を受けたロナウドだが、今度の左足の膝蓋腱の断裂は、2000年に彼が右足の膝蓋腱を断裂した時よりも、ダメージの度合いは若干軽いと報じられている。それでも、彼の選手生命に赤信号が灯っている事に変わりはない。痛みに耐えながらも、復活を望む強い気持ちが萎えないよう、サッカーの神様にも、何とかロナウドを支えて欲しいと思う。
私が今まで見てきたサッカー選手達の中で、ロナウドを超えるプレーヤーは、マラドーナしか思いつかない。そのマラドーナでさえ、「トップスピードの状態でのプレー」に比較のドメインを絞ったら、ロナウドにはかなわない。そんなサッカー界の宝を、ピッチ上の超常現象を、インテルのULTRASの連中は、一体、何だと思っているのか。選手生命の危機を迎えているロナウドを、裏切り者として憎み続ける事が、彼らのインテルに対する絶対的な忠誠心の表現方法なのであれば、それは、何と脆く、虚しく、醜い忠誠心の表現のし方だろうか。
サッカーとは全く関係の無い、過激な保守思想を体現することに酔っているだけの、自律神経がいかれた悲しい輩達。その内の何人かは、来週火曜日、リヴァプールの街に乗り込んでくるだろう。場合によっては、そんな連中の隣で、アンフィールドでインテルを応援しなければならないかも知れないと思うと、気分が悪い。情けない。
posted by sinfonia |09:47 |
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2008年02月16日
サンシーロでインテルの試合を観戦していると、試合中に、決まってアウェーのチームの方がインテルよりも輝いて見える瞬間がある。憎悪が突然愛情に変異する事は絶対にあり得ない、数万人規模の大観衆によって四方を包囲され、濃密な敵意が漂う、退路を絶たれたピッチの上で、信じられるのは、自分達の力のみ。敵地ならではの孤独とプレッシャーに追い詰められながらも、その自分達の力を100%以上引き出す事に集中し、最後の最後まで戦う覚悟を胸に秘めたチームにしか放てない、青白い輝き。4年半前、私は生まれて初めて、ホームのアーセナルを相手に、美しいハイバリーの緑の絨毯の上で、カクテル光線を浴びながら青白く輝くインテルを観た。
トルド、サネッティ、カンナヴァーロ、マテラッツィ、コルドバ、ファンデルメイデ、クリスティアーノ・ザネッティ、エムレ、キリ・ゴンザレス、クルス、マルティンズ・・・あの日、インテルの選手達一人一人が魅せてくれた青白い輝きを、インテルのホーム、サンシーロで観る事はなかなか出来ないだろう。日本が世界に誇るフルHDスペックの大画面薄型テレビでも、あのインテルが放っていた青白い眩しさをお茶の間で再現することは不可能だ。セリエAでは、特にホームのサンシーロでは、オレンジ色の炎を放ちながらでも試合に勝てるインテルだが、チャンピオンズリーグでドーバー海峡を渡る時は、その炎がオレンジの色のままでは、ホームでファン達と一体化したプレミアリーグの強豪を相手に勝つ事は出来ない。炎の温度を高めて行くと、その色は暖色系から寒色系に変化する。インテルが過去にチャンピオンズリーグで失敗して来たのは、選手達がピッチの上で放つ炎が高温に達していなかったからなのではないか・・・そんな気がしてならない。
来週の火曜日、同僚達のお陰で仕事を休める事になった。ロンドンのユーストン駅から電車に乗って、チャンピオンズリーグのアウェー戦でしか観れないインテルの青白いスパークと、再会してこようと思う。ハイバリーでインテルを観た頃に比べて、私の視力は、この数年間で著しく低下してしまった。メガネをかけるのは、もう、時間の問題だ。恐らく、今度が、裸眼で観る最後のインテルの試合になるような気がする。しっかりと、この眼に焼き付けてこようと思う。それにしても、幼少の頃から密かに恐れてきた、怖いコワイ赤鬼達が、鋭い爪を研ぎながら待ち構えているアンフィールドに一人で潜入するというのは、どんな気分なのだろうか。何としても、You’ll Never Walk Aloneの大合唱には耐え抜いて来たい。帰りの電車の中でも、鳥肌が立ったままになっているような、そんな一日になるのではないかと想う。
posted by sinfonia |08:37 |
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2008年02月06日
明け方。寝室に入って来た母に叩き起こされると、玄関の方から聞こえてきたのは、けたたましい呼び鈴の音。慌てて着替えると、私はサッカーボールを抱えて家を飛び出した。外はまだ暗く、確か、雪がちらついていた。玄関先には、広島カープの赤い帽子をかぶり、目から下をマフラーで覆った、怪しげな少年が立っていた。K君だった。当時、横浜で、赤ヘル軍団・広島カープの帽子をかぶっていた少年は、街中を探してみても、彼しかいなかったかもしれない。そういう私も、浜っ子でありながら、「C」と「D」の白い刺繍が段違いで入った青い帽子をかぶって小学校に通っていたので、人の事は言えないが。
K君と交わした約束。私の家の前の公園で、毎朝、学校に行く前に、早起きをして、サッカーをやろう、という約束。きっかけは、学校の体育の授業で、サッカーをやった事だった。当時、小学生は皆、例外なく「野球」に夢中だった。サッカーは、まだ、ドッジボール以下の存在でしかなかった。私は赤組、K君は白組。この紅白戦で、私とK君は、二人で何と両チームの全得点を叩き出した。狙ったところにボールをまっすぐに蹴れたのが、クラスの中でK君と私しかいなかったから、という説もあるが。その体育の授業が終わった後、それまで、特に仲が良かった訳でもないK君が、いきなり、突拍子も無い提案を私にしてきた。そして、私は、K君と約束してしまった。
それからK君は、毎日、朝の5時半ごろになると、私の家の呼び鈴を容赦なく鳴らし続けた。私の両親は、この連日のK君の「明け方呼び鈴攻撃」による強烈な睡眠妨害にかなり参っていたらしく、K君が呼び鈴を鳴らす前に、支度をして、家の前でK君を毎朝、待っていられるのであれば、早朝サッカーを許可する、それが出来なければ、すぐにK君に謝って約束を取り消す、という、厳しい条件を、私は両親から突きつけられていた。
K君:「おせーぞ!」
私:「ごめん。今日も、起きれなかった・・・。」
こんな感じのやり取りが、早朝に私の家の玄関先で何日か続いた。
雨の日も、雪がちらつく日も、そして、もちろん、晴れの日も、両手が霜焼けで真っ赤になっても、私の家の前の公園で、K君と私の早朝サッカーは続いた。最初は二人でひたすらパスを続けるだけだったが、そのうち、スローイン、ヘディング、トラップ、ボールキープ、シュートと、二人でやるサッカーのバリエーションは自然に膨らんでいった。寒い中、少しでも早く身体が温まるように、二人で想像力をフル回転させた結果だ。
私とK君は、完全にサッカーの虜になっていた。誰かに注意されなければ、そのまま、学校にも行かず、二人で夕方まで公園でサッカーを続けていた事だろう。それを阻止したのは、父の出勤時刻だった。「お前達、いつまでやってるんだ!」と我々を睨みながら公園の横の小道を通って出勤する父の姿が目に入った時、-7時25分- が、二人が家に戻って顔を洗って朝食を食べて学校に行く支度をする為の、ギリギリのタイムリミットになっていた。
この早朝サッカーの存在を知っていたのは、K君と私だけだった。他のクラスメイトや担任の先生には、言ってはいけない秘密になっていた。だが、近所には、他のクラスメイトも何人か住んでいた。ある日の朝、公園でM君が待っていた。M君は、早朝の薄暗い公園でボールを蹴っている我々二人を、自分の部屋の窓から覗いていたらしい。M君が加わって3人になった直後、近所に住んでいたT君、Y君も立て続けにメンバーに加わり、口が五つにもなれば、秘密保持は困難になり、ついに、公園から少々遠くに住んでいたクラスメイト達までもが、自転車を飛ばして、毎朝続々と私の家の前の公園に集まってくるようになった。最初はマネージャー志願に止まっていたクラスの女子も、次第にプレーヤーの一員として、早朝サッカーの仲間に入れて欲しい、早朝サッカーは、男子だけのものではない、と主張し始めた。その主張に胸をときめかせた男子はいても、ノーと拒んだ男子は一人もいなかった。
寒さが緩んで公園に植えてあった桜が開花した頃には、7対7、8対8のミニゲームが毎朝出きるほどまでに、早朝サッカー隊の人口は膨れ上がっていた。日曜日の朝などは、チームを3つ作って、リーグ戦が出来るほど、公園はクラスメート達で賑わっていた。そして、気が付くと、誰も放課後に「野球、やろうぜ」とは言わなくなっていた。我が5年3組に突如到来した、大サッカーブーム。このブームは、学年で残る2クラス、5年1組と5年2組にも飛び火し、放課後は校庭で、クラス対抗戦が頻繁に行われるようになった。
どんなに早朝サッカーのメンバーが増えようが、私のライバルは、早朝サッカーを最初に考案したK君だけだった。K君はMF、私はFWを名乗り、ミニゲームでは必ず敵同士、お互いが、どちらがクラスで一番かを、常に意識していた。好きな選手も、K君はベッケンバウアーで、私はクライフ。本当は、インテルのロベルト・ボニンセーニャやサンドロ・マッツォーラの名前を出したかったところだが、ベッケンバウアー、クライフ、ペレ、釜本の4人の名前を知っている事を誇りに思っていたK君に気遣い、とりあえず、クライフにしておく事にした。その一方で、クラス対抗戦になると、同じチームで一緒にプレーをして、一緒にゴールを狙うという、普段は体験できない一体感、チームメイトとしてお互いを意識する感覚を楽しんでいた。
早朝サッカーは、我々が6年生に進級した後も続いた。夏休みに、ラジオ体操の会場に公園が使われた時は、ラジオ体操が始まる前にミニゲームを一試合こなしてから、皆でラジオ体操をして、カードにスタンプを押してもらってから、家に帰るのが日課になっていた。そして、昼過ぎからは、私はほとんど毎日、小学校のプールで、市の大会に向けて水泳の練習もこなしていた。身体は決して大きい方ではなかったが、水泳の練習が終わった後も、暗くなるまで近所の友達と遊べるだけの驚異的なスタミナに、当時は恵まれていた。私は、いつ、勉強や宿題をしていたのだろうか。そのシーンは、認めたくは無いが、ほとんど記憶に残っていない。
そして、秋も深まったある日曜日、K君と二人で始めた早朝サッカーの集大成となり得る、嬉しい出来事が起きた。我々がいつものように早朝サッカーに夢中になっていた時、ジョギング帰りの見知らぬオジサンが、鼻水をすすりながら、我々に話しかけてきた。
「君達、何年生?どこの学校に通チているの?本当に良く続いているね。雨の日も、風の日も。毎朝、出勤する時に君達を見ているよ。今度、X月XX日、日曜日に、隣町のS小学校で、少年サッカー大会が開催される。出てみないか?オジサンが、その日だけ、コーチとして、皆を大会の会場まで引率するから。弁当だけ、お母さんに用意してもらってきてよ。」
この突然のオファーに、皆が痺れた。K君も私も、飛び上がって喜んだ。まるで、プロのスカウトの目にとまったような気分だった。チームのキャプテンに任命されたK君がすかさずチーム名を考えたが、その名前は、さすがにもう覚えていない。その名前で、我々6年3組・早朝サッカー隊は、少年サッカー大会に登録され、大会当日、我々は、ハナミズさん(名乗ってくれなかったので、我々がオジサンに勝手に付けたあだ名)に連れられて、隣町の会場に出向いた。チームを代表して、副キャプテンの私がクジを引いた結果、見事に、一回戦の対戦相手に、我々も良く知っていた、隣町の超強豪クラブチームを引いてしまった。相手は全員スポーツ刈りで、格好の良いユニフォーム姿、全員が黒いスパイクシューズを履いて登場。一方、こちらは、全員、「6-3」と胸にマジックで書き込まれた体操着姿に運動靴。この差だけで、我々は、試合開始前から、完全に相手に呑まれていた。
試合の結果は、8対0。お話にならないような負けっぷりだった。FWだった私は、相手のあまりのレベルの違いに愕然としながらも、試合時間のほとんどを、暇をもてあましていた相手GKの前に突っ立っているだけで過ごしてしまった。でも、そこから眺めていた光景は、今でも忘れていない。自陣のゴール前で、仲間達が相手から集中砲火を浴びていた、あの光景。普段は笑顔しか見た事が無かったクラスメイト達の、必死の形相。「最後まであきらめるな!頑張れ!」と、試合中、ピッチサイドから声援を絶やさなかったハナミズさんは、試合が終ると、我々を慰める為に、ジュースを全員分、近くのスーパーに買いに行ってくれた。だが、そんな事はおかまい無しに、我々は、変な充実感に浸りながら、太陽に温められたピッチサイドの芝の上に座り込んで、笑顔で弁当箱を開けていた。
こんな感じだったと思う。
今日は東京では雪が降ったようだが、寒い春節の時期を迎えると、時々思い出す、あの頃の早朝サッカー。我が愛しのサッカー小僧時代。
posted by sinfonia |19:35 |
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2008年02月01日
1970/71 UEFA カップ アーセナル 対 ラツィオ 2-0
1979/80 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 ユヴェントス 1-1
1993/94 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 トリノ 1-0
1994/95 欧州スーパーカップ アーセナル 対 ミラン 0-0
1994/95 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 サンプドリア 3-2
1999/00 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 フィオレンティーナ 0-1※
2000/01 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ラツィオ 2-0
2001/02 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ユヴェントス 3-1
2002/03 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ASローマ 1-1
2003/04 チャンピオンズ・リーグ ハイバリーで【伝説】が生まれる
2005/06 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ユヴェントス 2-0
もしかすると、1970/71よりも前にロンドンでイタリア勢がアーセナルと戦った記録がどこかにあるのかも知れないが、以上が、私が知っている、ロンドンでのイタリア勢とアーセナルの過去の戦歴だ(08年2月1日現在、親善試合、プレシーズンマッチ等を除く)。アーセナルは、1999/00にロンドンで、フィオレンティーナ/バティストゥータの一撃に沈められた事があるが、その時は、試合はアーセナルのかつてのホームスタジアム、ハイバリーでは行われず、ウェンブリー※で行われた。ハイバリーでは、イタリア勢は一度もアーセナルに勝った事がなかった--2003年9月17日までは。
ロンドンに赴任してからまだ1ヶ月も経っていなかった、あの日の夕方、私は仕事を終えると、事務所から一番近い地下鉄の駅まで車を飛ばし、ピカデリーラインに飛び乗った。アーセナル駅で下車し、地上に出ると、目の前には、ロンドン市内のどこにでもありそうな住宅街がオレンジ色の夕日に染まっていた。高級住宅街とは形容し難いが、その閑静な住宅街のど真ん中に、プレミアリーグを代表するクラブチームのホームスタジアムの古めかしい外観がひっそりと佇んでいた。もし、私が、ハイバリー付近に迷い込んだ、サッカー観戦が目あてではない旅行者だったら、恐らく、あのスタジアムの存在には気付かずに通り過ぎていただろう。それ程、ハイバリーは住宅街の中に、完璧にとけ込んでいた。目の前にあるのに、住宅街にたち並ぶ家と家の間を、目を凝らして探さないと見つからないスタジアム。信じられない光景だった。
私はプログラムを買った後、早めにスタジアムの中に入った。試合開始まで、1時間はあっただろうか。チケットに書いてあった座席番号をノースバンク・スタンド2階のゴール裏で見つけ、椅子に腰掛けた。対面の、大きな古時計がトレードマークのクロック・エンド・スタンドにも、観衆が徐々に集まり始めていた。眼下に広がる、長方形の空間を見事に均一に埋め尽くした芝の鮮やかな緑色の輝きは、眺めているだけでため息が漏れてしまうほど美しかった。ビッグゲームを目前に控えていたにもかかわらず、ゆっくりと、ゆったりと流れていた、ハイバリーの贅沢な時間。今、想えば、あの時が、イギリスに来て良かったと、はじめて実感出来た時だったのかもしれない。
ヴェンゲル監督の傑作、フランス系イギリス美女。ティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラ、ロベール・ピレスのアーセナル。あんな芝目の美しいピッチに日頃から磨かれていれば、あのアーセナルのような極上のヴィンテージ・シャンパンがロンドンで出来てしまっても不思議ではない。プレミアリーグでは異質の、シャンパンが持つ独特の清涼感と、どこか観ている人の気持ちを高揚させるドラマチックな優雅さを、想像していた通り、持ち合わせたチームだった。
私は、試合が始まっても、スタンドでおとなしくしていなければならなかった。ノースバンク・スタンドにアーセナル・ファン達が集い始めていた頃、私はスチュワードに優しく丁寧に忠告されていた。
「その、首に巻いている黒と青のマフラーを、今、すぐにしまってください。試合中も出来るだけ静かに観戦される事をお勧めします。貴方が座っている場所は、ハイバリーでも最も熱狂的なアーセナル・ファン達が陣取るところです。この忠告を守って、試合を楽しんでください。」
キックオフ直前に私の隣の席に座ったイタリア人の親子もまた、スチュワードから、私が受けた忠告と全く同じ内容の忠告を受けていた。小学校高学年ぐらいの息子を私の隣に座らせ、息子の隣の席に腰掛けた父親が、首に巻いたマフラーをジャンパーの奥に押し込みながら、愛嬌たっぷりの表情で私に話しかけてきた。
「やれやれ。とんでもないところに迷い込んでしまったようだな。ダフ屋でチケットを買うと、どこに座らされるか判ったものじゃない。」
私は、父親の耳元でつぶやいた。
「ご心配なく。私も貴方と同じ色のマフラーを、実は上着の下に隠しています。」
その瞬間、私とイタリア人の親子の3人は「運命共同体」の契りを交わした。スタンドは、見渡す限り、赤と白のアーセナル・カラーで埋め尽くされていた。
苦しい試合だった。「運命共同体3人衆」は、行儀良くスタンドに座ったまま、こみ上げてきた笑いをこらえるのに、立ち上がって雄叫びをあげたくなる衝動を抑えるのに必死だった。点が入る度に、泣き出しそうな表情で「カモン!アーセナル!!」と檄を飛ばしていた周囲の方々に気を配りながら、我々は声を殺してハイタッチならぬロータッチを足元で何度も繰り返した。勝負は前半の45分間でついてしまった。フリオ・クルスが均衡を破り、アンディー・ファンデルメイデが続き、仕上げにオベファミ・マルティンズの歓喜の宙返り4連発が炸裂した時、我々「運命共同体3人衆」は、天に昇った気分だった。チャンピオンズ・リーグのグループステージの試合で、ヴェンゲル監督のアーセナルを相手に、由緒のあるハイバリーで、伝説が生まれた瞬間に、まさか自分が居合わせるとは。夢を見ているようだった。
イギリス美女達との出会い。この「後編」では、かなり本題から脱線してしまった。「前編」、「中編」の投稿から、あまりにも間隔があいてしまったので、集中力が完全に途切れてしまった。ピーター・ウィズ、デニス・モーティマーのアストン・ヴィラ、グレン・ホドル、オズワルド・アルディレスのトッテナム・ホットスパーズ、今では「サー」の称号が付いているトレヴァー・ブルッキングのウェストハム・ユナイテッド、ポール・マリナー、ジョン・ワークのイプスウィッチ・タウン、ブライアン・ロブソンのマンチェスター・ユナイテッド・・・英国病の病魔がスタジアムにフーリガニズムを蔓延させ、「ヘイゼルの悲劇」(1985年)が起きてしまう前までは、私は、イギリス美女達に、次から次へと魅了されてしまう浮気者だった。だが、「浮気者」と「ただの好色家」は、この場合、明確に区別されるべきだろう。浮気者には、必ず「本命」が存在する。フォトジェニックな美人ではない。プライドの高さだけは一人前だが、不器用で詰めが甘い温室育ち。でも、時折見せる笑顔が天使のように可愛く見えるその幼馴染の娘のところに、どういう訳か、いつも舞い戻ってしまう。そんな「本命」に結局、一番尽くしてしまう、愚かな私だったりする。
《完》
posted by sinfonia |06:56 |
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