2008年01月17日

イギリス美女達との出会い(中篇)

「ロビンフッド」の地として知られているイギリス中部の街、ノッティンガム。人口は30万人にも満たないこの街の南に流れるトレント川のほとりに、シティー・グラウンドという、3万人を収容するサッカースタジアムがある。そのシティー・グラウンドをホームとするノッティンガム・フォレストは、今、イギリスの「リーグ・ワン」(3部に相当)に所属している。このチームが、クラブ設立以来、一世紀にわたり、一度もトップリーグから降格した経験がないインテルと同じ数だけ欧州チャンピオンになっている、という事実は、今でも信じ難い。だが、このチームの140年以上の歴史を振り返ると、今の姿が「正常」で、あの頃の姿が「異常」だったと考えるべきなのだろう。

百年をゆうに越えるイングリッシュ・フットボールの歴史の中で、トップリーグに昇格したばかりのチームが、いきなりそのトップリーグで優勝してイギリス王者になった事が、過去に一度だけあった。それが、あのノッティンガム・フォレストだ。1976/77シーズン、ノッティンガム・フォレストはイギリスのセカンド・ディヴィジョンで3位になり、ファースト・ディヴィジョン(現在のプレミアリーグの前身)に昇格した。すると、翌1977/78シーズン、当時欧州最強だったリヴァプールを抑えてファースト・ディヴィジョンを制覇、クラブ史上初の(そして、今のところ唯一の)イギリス国内チャンピオンのタイトルを手に入れた。

イギリスのチャンピオン・チームとして欧州チャンピオンズカップに出場した1978/79シーズン、欧州では無名のチームだったノッティンガム・フォレストは欧州チャンピオンズカップの大舞台でも「ジャイアント・キリング」を連発した。初戦でいきなりぶつかった同郷の欧州チャンピオン、リヴァプールに勝ち、AEKアテネ、グラスホッパーズを倒し、当時奥寺(現在、横浜FCの代表取締役会長兼GM)が在籍していた1FCケルンにも準決勝で競い勝ち、あれよ、あれよと言う間に決勝まで駒を進めてしまった。そして、1979年5月30日、ミュンヘンで行われた決勝戦では、スウェーデンのマルメを1-0で下し、ビッグイヤーを持ち上げてしまった。シーズン開幕当初は、ノッティンガム・フォレストのファン達や関係者達も含め、誰もこのチームが欧州クラブの頂点に立つとは、夢にも思っていなかったはずだ。決勝戦では、マルメのカテナッチョ戦術にてこずり、攻めあぐんだノッティンガム・フォレストだったが、前半終了間際に、ノッティンガム・フォレストのWG、ジョン・ロバートソンが左サイドを崩して浮かせたクロスボールを、バーミンガムから移籍してきた「イギリス初の100万ポンド・プレーヤー」トレヴァー・フランシスが頭でゴールにねじ込んだ1点が決勝点となった。

この決勝戦を「欧州チャンピオンズカップ史上、最も盛り上がらなかった決勝戦」と酷評したサッカー評論家もいた。あのノッティンガム・フォレストは、《前編》で取り上げたリヴァプールやアーセナルに比べると、明らかに無骨で華のないチームだった。ピッチの上を泥だらけになりながら走り回る選手達からは、イギリスの片田舎で一日の労働を終えた後、パブでビール・ジョッキを抱えながら、だみ声を張りあげて騒いでいる輩達と同質のオーラを、私は感じ取っていた。今では伝説の人物となっている、あのノッティンガム・フォレストの数々の奇跡のプロデューサー、ブライアン・クラフ監督は、選手達に、試合前にいったいどんな催眠術をかけていたのだろうか。容姿端麗で目の保養になるチームではない。賢くて器量の良いチームでもない。なのに、気になって、気になってしかたが無い。当時の私にとって、あのノッティンガム・フォレストは、そんなチームだった。初顔合わせの強豪チームを前にしても、全く物怖じしないふてぶてしさ。不恰好でも、なりふり構わぬプレースタイル。何も失うものが無いチームというのは、いきなりあそこまで強くなれるものなのだろうか。そんな彼らの欧州チャンピオンズカップでのバンカラな生き様に、私は不思議な美しさを感じていた。

このサクセス・ストーリーには、まだ続きがあった。イギリス国内ではリヴァプールに次いで2位に終ったノッティンガム・フォレストは、欧州チャンピオンのタイトルホルダーとして、1979/80シーズンの欧州チャンピオンズカップにも出場した。次々に欧州の強豪クラブを撃破していく姿が板についてきたノッティンガム・フォレスト。準決勝でアヤックスを退け、1980年5月28日、マドリッドで行われた決勝戦で、ケビン・キーガンや西ドイツ代表のフェリックス・マガット、マンフレッド・カルツ、ホルスト・フルベシュらを擁するハンブルガーSVと対戦した。この試合、ノッティンガム・フォレストは終始、ハンブルガーSVに攻め込まれ、サンドバッグ状態になっていた。ハンブルガーSVがいつ得点してもおかしくない戦況が続く中、ゲームの流れを変えたのは、またしてもロバートソンだった。前半21分、彼は左サイドでボールを受けると、中に切り込んで右足でグラウンダーのロングシュートを放った。そのロバートソンのシュートをセーブしようと、懸命に腕を伸ばしたハンブルガーSVのGK、ルドルフ・カーグスの努力も空しく、ボールはファーポストに当たりながらゴールネットを揺らした。1-0。ワンチャンスをものにしたノッティンガム・フォレスト。その後も、ハンブルガーSVの猛攻は、試合終了のホイッスルが鳴り響くまで続いた。しかし、この日のノッティンガム・フォレストのGK、ピーター・シルトンは、目を疑うようなスーパーセーブを連発し、サンチャゴ・ベルナベウに乗り込んでいたハンブルガーSVのサポーター達を絶望の淵に追いやった。

こうして、ノッティンガム・フォレストは、欧州チャンピオンズカップ連覇を成し遂げた。マドリッドの夜空に向けてノッティンガム・フォレストのキャプテン、ジョン・マクガヴァンがビッグイヤーを持ち上げた時、驚きは、もはや驚きではなくなっていた。今日現在、私が知る限り、国内チャンピオンになった回数よりも、欧州チャンピオンになった回数の方が多いチームが在るとすれば、それはノッティンガム・フォレストだけだ。今のように、まず、32チームを4チーム×8グループに分け、ホーム・アンド・アウェー方式の2回総当りで争い、各グループで1位と2位のチーム、計16チームがノックアウト・ステージに進み、そこからホーム・アンド・アウェー方式によるトーナメントが始まるUEFAチャンピオンズリーグのスキームでは、あのノッティンガム・フォレストのような新星が勢いに乗って欧州チャンピオンになる事は、極めて難しいだろう。

イギリスの小さな街の無名のシンデレラ・チームに、ビッグイヤーを2年連続で持ち上げる事が許されるとは、あの頃のサッカーの神様は、何と懐が広かった事か。サッカー資本主義が排出する二酸化炭素の濃度が、今よりもはるかに低かった頃。私は、インテルのセリエAでの快進撃を追いかけながらも、ノッティンガム・フォレストが欧州チャンピオンズカップで勝ち進む度に書き足されていったサクセス・ストーリーのページをめくる事に夢中になっていた。

(後編に続く)

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2008年01月15日

イギリス美女達との出会い(前編)

良く、サッカーファンの間で、「私は死ぬまで、○○の事だけを応援し続けます」とか、「たとえ下部リーグに降格になっても、私は、○○の事を応援し続けます」といった声を耳にする。素晴らしい志だと思う。そんな人達に好かれたチームは、幸せだと思う。私の場合は、インテル教に入信してもう30年以上になるが、その間、インテル以外のチームにも、胸をときめかせた事が何度かある。人生の伴侶よりも目先の美人に、目が行ってしまった事が何度もある。特に70年代後半から80年代前半、私がまだ10代半ばだった頃の「浮気癖」は酷かった。当時の私の浮気相手は、決まって「イギリス美女」だった。インテルには無い、イタリアのチームには無い、眩い煌き。見る側を圧倒する直線的なスピード。最後の最後まで諦めずに全力で闘う直向さ。そんなイギリス美女達に、私は一時、首っ丈になっていた事がある。

当時の欧州サッカーは、イングリッシュ・フットボールによって支配されていた。しばらくの間、ビッグイヤーは、ドーバー海峡を渡って欧州大陸に移る事は無かった。

1976/77: リヴァプール
1977/78: リヴァプール
1978/79: ノッティンガム・フォレスト
1979/80: ノッティンガム・フォレスト
1980/81: リヴァプール
1981/82: アストン・ヴィラ

欧州クラブチャンピオンのタイトルが、一つの国に、これほどまで長くとどまった事は無い。イギリスでプレミアリーグが発足したのは1992年だが、70年代半ばから80年代前半にかけて、イングリッシュ・フットボールは、欧州では泣く子も黙るような存在だった。

私は当時、リヴァプールが大嫌いだった。嫌いだった、と言うよりは、怖かった、と言った方が正しいだろう。当時、インテルはおろか、イタリア最強と信じていたユヴェントスでさえ、あのリヴァプールと一緒に同じピッチの上に立ったら最後、八つ裂きにされてしまうのではないかと思っていた。あのリヴァプールは、私にとって、破壊的なスピードでピッチ上を縦横無尽に切り裂く鬼、シリアル・キラーの集団だった。鬼の中の鬼、「マイティーマウス」ことケビン・キーガンの驚異的なスピードとキレを堪能する余裕は、当時の私には無かった。キーガンがハンブルガーSVに移籍した後、リヴァプールの背番号7番を受け継いだケニー・ダルグリッシュもまた、見ているだけで身震いしてしまいそうな、恐ろしいキャラクターだった。今でも、赤いユニフォームに拒絶反応を示してしまうのは、あの頃のリヴァプールを思い出すからなのだろうか。だが、この極端な恐怖の感じ方は、同時に、私がイングリッシュ・フットボールに強い関心を抱きはじめた兆候でもあった。

1979年5月。私は、生まれて初めて、FAカップの決勝戦をテレビで見た。あの日のロンドンは、良く晴れていた。試合前にマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの選手達がウェンブリー・スタジアムの美しい緑の絨毯の上に一列に並び、チャールズ皇太子がテレビ画面にアップで映され、英国国歌の大合唱が終ると、各チームのキャプテンが、チャールズ皇太子に、選手達を一人一人、順序良く丁寧に紹介していたのが印象的だった。赤いユニフォームに白いパンツのマンチェスター・ユナイテッド。黄色いユニフォームに紺色のパンツのアーセナル。キックオフ直前、私はアーセナルを応援する事に決めた。ユニフォームの色で決めたと言うよりは、アーセナルのOMF、背番号7番をつけたリアム・ブレーディに目が釘付けになっていたからだ。アイルランド人で、アーセナルのファン達からは「チッピー」という可愛いニックネームがつけられていたが、ピッチの上では、蝶のように舞い、蜂のように刺す、当時のイギリスでは屈指の技巧派レフティーだった。左足からズドンと放たれる弾丸ライナーのロングシュート。バックスピンをかけて、ふわっと浮かしたピンポイント・クロスボール(=チップキック=ニックネーム「チッピー」の由来)。同じ足からボールが蹴られているとは思えないほど、ブレーディの左足は私にとっては不思議な「魔法の左足」だった。

試合はアーセナルがブライアン・タルボットとフランク・ステープルトンの前半の得点で2-0とリードし、それがそのままファイナル・スコアになると思われた後半41分、マンチェスター・ユナイテッドのゴードン・マックィーンが1点を返すと、その2分後にはサミー・マクロイが同点ゴールをあげ、マンチェスター・ユナイテッドは土壇場で試合を振り出しに戻した。静まり返ったアーセナル・サポーター達。歓喜に沸くマンチェスター・ユナイテッドのサポーター達。試合の流れは完全にマンチェスター・ユナイテッドに傾いたかと思われた後半44分、アーセナルのアラン・サンダーランドが劇的な勝ち越しゴールを決めて、息をのむようなゲーム終盤の展開に終止符を打った。サッカーの試合は、最後の最後まで、何が起こるかわからない事を思い知らされ、FAカップ・ファイナルならではの、鳥肌が立つような厳かさに心を射抜かれた私は、その勝者・アーセナルに、のぼせ上がってしまった。ブレーディ、タルボット、ステープルトン、サンダーランドの他に、GKのパット・ジェニングス、キャプテンでRSBのパット・ライス、デイヴィッド・オレアリーとウィリー・ヤングのCBコンビ、LSBのサミー・ネルソン、MFのデイヴィッド・プライスとグラハム・リックスの名前を、あの90分間で覚えてしまっていた。

そのアーセナル熱は、長続きはしなかった。1979/80シーズンが開幕し、インテルが12回目のスクデット獲得に向けて、セリエAで快進撃を始めていた為、私はミラノの幼馴染のもとに駆け足で戻った(過去ブログ記事【インテルが、インターナショナルではなかった頃】参照)。だが、イタリア国内から欧州に目を向けると、そこでは、今度は別のイギリス美女(?!)の、信じられないようなサクセス・ストーリーが欧州大陸を圧巻し始めていた。

(中篇に続く)

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2008年01月13日

こんなところにも感じる、サッカーの魔力

私が現在勤務する事務所の守衛は、英国生まれのパキスタン人で、敬虔なイスラム教信者だ。一日の仕事を終えて事務所を後にする時、玄関前の守衛室から顔をのぞかせては、いつも笑顔で挨拶してくれる。その彼は、大のサッカー好きだ。そして、彼もまた、私もサッカーが大好きな事を良く知っていて、短いサッカー談義を、時々、別れ際に交えてくれる。先週金曜日の会話は、こんな感じだった。

守衛「今晩は遅いですね。そういえば、数日前にテレビで報道されていましたが、セルティックが日本人選手をもう一人、獲ったらしいですよ。ご存知でしたか。」

「そうなんです。【ミズノ】という名前の選手です。まだ若い選手ですが、潜在能力は高く、私も彼のこれからのセルティックでの成長が楽しみです。彼がセルティックでどこまで通用するかは、彼自身がピッチの上で結果を出さない事には何とも言えませんが、彼の名前を、覚えておいてくださいね。」

守衛「でも、もう一人、良い日本人選手がセルティックにいましたよね。何という名前でしたっけ、あの、フリーキックが凄く上手い選手・・・。」

「ああ、【ナカムラ】ですか。今シーズンは怪我に泣かされていますが、昨シーズンはセルティックで大活躍した選手です。」

守衛「ところで、最近はどうしてプレミアリーグに日本人選手が来ないのでしょうか。アーセナルのヴェンゲル監督が日本から呼んで来て、後にフルハム等でプレーした【イナモト】と、ボルトンで短い間、プレーした【ナカタ】。プレミアリーグでプレーした事がある日本人選手で私が知っているのは、この二人だけです。【ナカタ】は、イタリアのセリエAでプレーしていた時代に、名前は忘れましたが、イタリアのマイナーなチームで、それから、ASローマで、大きな功績を残したそうではないですか。06年のW杯で日本の試合をテレビで見ましたが、思っていた以上に、日本は世界を相手に健闘したと思います。ブラジルと同じ組になっていなかったら、グループリーグであんなにあっさりと敗退しなかったのではないでしょうか。」

「そう言って頂けて嬉しいです。でも、日本にプロサッカーリーグが出来て、日本のサッカーが本格的に世界を意識し始めてから、まだ15年しか経っていません。100年以上もの長い歴史を持つ欧州のサッカーに、少しでも近づこうと、今でも頑張っています。昨年末に日本で行われたFIFAクラブワールドカップでも、日本のクラブチームでアジア・チャンピオンのウラワ・レッズが、欧州チャンピオン、ACミランの胸を借りました。クラブ世界一を決める、クラブ版ワールドカップと言うよりは、クラブ版コンフェデレーションズカップのような大会ですが、その準決勝で、負けはしましたが、日本のクラブチームがあのACミランと戦ったという栄誉を、我々日本人は素直に喜べるところまで来ています。しかしながら、日本のサッカーは、欧州や中南米に比べると、まだまだ発展途上の段階にあり、先は長いです。でも、そう遠くない将来、プレミアリーグでも日本人選手が活躍する時代が、必ず来ると思っています。」

守衛「私もプレミアリーグで日本人選手が大活躍するところを見てみたいです。若手の将来有望株の選手達を発掘する事に長けたヴェンゲル監督が、馴染みのある日本から、優れた若手日本人プレーヤーを発掘してくれると良いのですが。」

「そうですね。近い将来、あのヴェンゲル監督の目にかなう日本人選手がまた出てきて欲しいものです。帰りますね。良い週末を。」

守衛「貴方にも、良い週末が訪れますように。運転にお気をつけて。」


1日に5回、メッカの在る方角に向かって礼拝し、豚肉、酒は教えを守って口にせず、ラマダーン(断食)やメッカ巡礼の行いを重んじ、我々社員が家路についた後、空になった事務所を守ってくれている英国系パキスタン人の守衛と、大和民族の私が、この僅かな時間の中で、短い接点の中で、ここまで滑らかに、ここまで自然に、意を通わせる事が出来ただろうか。【サッカー】の力を借りずして。

「英語をしっかり勉強して覚えれば、世界中の人達と話が出来るようになる。」

昔、中学校の英語の先生が、授業中にそんな事を言っていた。もし、その先生に再会する機会があったら、今度は私が教えてあげたい。実は、サッカーの方が、英語よりもはるかに世界共通言語として優れている時がある事を。サッカーがこの惑星で最もポピュラーな球技である事は言うまでも無いが、その理由は、サッカーが、国境を越え、肌の色を越え、宗教や思想を越えて、一瞬にして人と人の心をつなぐ、とてつもない魔力を秘めた【世界共通言語】としても機能しているからではないだろうか。この言語に出会えた事に、この言語を通して、今までたくさんの恵みを世界の様々な国の人達から受けて来た事に感謝しながら、これからも、この言語を錆付かせないよう、大事にして行きたいと思う。情報化、IT化時代の到来により、いくら地球が小さくなったとは言え、このサッカーという言語のメンテナンスは、現状維持だけでも、費やさなければならないエネルギーは、半端ではないが・・・。

posted by sinfonia |11:27 | My thoughts | コメント(8) | トラックバック(0)
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2008年01月03日

The Soccer Tribe

デスモンド・モリス氏というイギリス人の動物学者が1981年にThe Soccer Tribeという本を出した。当時ミラノに住んでいた私は、たまたま見ていたスポーツTV番組にゲストで招かれていた彼と、この彼の著書の存在を知り、通っていた学校の図書担当の先生にねだって、この本を英国から取り寄せてもらった。15歳の英語力ではとても読みきれない内容の本だったが、学校の食堂で使っていたトレーと同じぐらいのサイズの、大きくて重たい本であった事を覚えている。カラー写真が満載されたこの本は、ページをめくっているだけで、大好きなサッカーの魅力の根源を探っているような気分にしてくれた。何かえたいの知れない世界とサッカーを結びつけたものを、図書館の椅子に座りながら、ただ両手で抱えていただけなのに、胸が高鳴っていた事を覚えている。きっと、そういう年頃だったのだろう。その大きくて重たい、80%以上読解不能の文章がただの飾りと化していた本をめくりながら、私が見つけた、3つの発見。

一つは、生まれて初めて、サッカーの景色というのは、ピッチ上でボールを追いかける22人のプレーヤー達だけではない、という事に気づいた事だった。ファン達の様々な表情を写したカラー写真を眺めながら、実に様々な表情がピッチの中から外を眺めてみると見えてくる、そういう視点も、サッカーにはある、そういう景色も、サッカーの景色である、という事実を目の当たりにした事による驚き。今でこそ当たり前に思える事だが、この本に掲載された写真の数々に出会うまでは、スタンドからピッチを眺める視点でしか、サッカーを見た事が無かった。

もう一つは、この本の題名にも含まれているTRIBEという言葉のサッカーにおける意味だった。辞書を引くと、この言葉は「(共通の風習・伝統をもつ)部族」とある。私がまず連想したのは、アフリカのキリマンジャロ山麓あたりに住むマサイ族のような、文明のあまり進んでいない、閉鎖的で排他的な野蛮人の集落だった。 確かに、ミラノダービーでは、サンシーロの客席は2つの敵対する部族によって埋め尽くされる。試合前には北側、南側の両クルヴァから罵り合い、威嚇のし合いがひっきりなしに続き、2つの敵対する部族を代表する戦士達がピッチに入場して来ると、サンシーロを埋め尽くしたそれぞれの部族民達は、11人の部族代表戦士達に全ての想いを託すかのように、うねりのような、呻きのような大声援で自分達の化身達の背中を後押しする。その大声援を受けて、11人の部族代表戦士達は自身を奮い立たせ、帰属する部族の為に全力で戦う。何かを守る為に。その「何か」の正体は、良く解らなかった。今でも良く解っていないが、恐らく、「血」のようなものではないかと、当時、私は考えていた。インテルの血の色は黒と青。ミランの血の色は赤と黒。例えば、私のようなインテリスタには、赤い血液とは別に、黒と青の血が流れている。ユニフォームの色はその部族の血の色。その血に、敵に敗北する事で不純物が、敵の血が混じってはならない。敵に支配されない為に、敵を支配する。部族を守る、存続させる、という事は、その血を守る事。部族は、長い間、幾つもの戦いを繰りひろげながら、その純血を守ってきた。サッカーとは、実は、部族の血の純血性を、部族そのものを絶やさない為の戦いなのではないか、と。

最後の一つは、この本のあちこちに登場したRITUALという言葉のサッカーにおける意味だった。辞書を引くと、この言葉は「(宗教などの)儀式形式, 式次第, 典礼」とある。確かに、サッカーは儀式だらけのスポーツ、否、サッカーの試合そのものが儀式なのかも知れない。ファン達が叫ぶチャントやコール、スタジアムを彩るコレオグラフィー等は、儀式である。選手達がピッチに入場する際に子供達と手をつないで入場してくるのも、ある意味で儀式のようなものだ。得点を決めた選手の歓喜の表情も儀式の一部だし、試合終了後に、両チームの選手達がそれぞれのファン達が見守るスタンドに挨拶する姿も、儀式だ。また、儀式には、選手固有の儀式、チーム固有の儀式があったりする。余談になるが、今、チーム固有の儀式の中で、私が最も見てみたいのは、ベンフィカの試合前の儀式だ。試合前に、ベンフィカのシンボルである鷲がスタジアム上空から舞い降りてくる光景は、いつか生で見てみたい。

サッカーにおいて、この儀式(RITUAL)は、部族(TRIBE)と密接な関係にあるように、私には思える。例えば、マサイ族のライオン狩りでは、マサイ族の男児が野生のライオンと槍一本で格闘し、死んだライオンの尾を掴むことで自分の勇気を示し、部族の英雄となる。危険なライオン狩りという儀式を実施する事で、マサイ族の男児達は部族を守る力を象徴する戦士に成って行く。そんな事は知る術も無かった当時の私でも、サッカー=【儀式】とするならば、イタリアでは、クラスで一番の人気者になる為には、サッカーがクラスで一番上手い事が必須条件である事は、確かに、理解していた。儀式は、部族の血を守って行くためのルールで、部族は様々な部族固有の儀式の実践を通して、その血を守ってきたのではないか、という、漠然とした、でも、無視出来ない関係を、The Soccer Tribeは私に意識させてくれていた。

以上3つの発見は、私がこの本を読解する力が不十分であったが為に働かす事になった想像力と好奇心の産物だが、サッカーは、時に理性や知識だけでは理解できない顔を持つ。そんな顔の部分に、もっと触れてみたい。その為の様々なヒントが、このThe Soccer Tribeという本に秘められているような気がしてならない。残念ながら、この本はすでに絶版になっており、手に入れる為には多少手間がかかるが、今年の目標、というか、楽しみの一つとして、是非、この本を入手して、当時の私の好奇心と想像力の産物と照らし合わせながら、デスモンド・モリス氏が探求したThe Soccer Tribeを、読んでみたいと思う。

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