2008年10月07日
中南米、例えばブラジルでは、決して珍しい事ではないのかもしれない。でも、イタリアでは、先日、イブラヒモビッチがボローニャ戦で決めたようなゴールが飛び出すと、それは【伝説のゴール】として後世語り継がれる事になる。アクロバティックなゴールシーンは数あれど、踵を使ったゴールは、狙う人は多くても、それがきれいに決まるケースは意外に少なかったりする。
とっさの判断、というよりは、条件反射のようなものだと思う。断ち切ることができない流れの中でボディーバランスを保ちつつ、勘で瞬時に脳裏に描いた、背後にあるゴールマウスに向けて、0.1秒のズレも許されない絶妙のタイミングで踵を飛んできたボールにヒットさせる。【まぐれ】の産物なのか。否、まぐれではない。踵を使ったスーパーゴールが出る時は、プレーヤーが踵でしかボールをヒット出来ない、踵を使う以外に選択肢が無い場面が多い。その踵から描かれる弾道の角度や勢いには、プレーヤーの意志が確かに入っている。その意志をゴールという形に結びつける事が出来るのは、天から才能を授かった者達だけに許された【特権】なのかも知れないが。
だが、こうしたスーパーゴールの想い出を頭の中の引き出しから引っ張り出してみると、意外な事に、踵でボールをクリーンヒットしたゴール、【踵を使ったスーパーゴール】と言い切るには疑惑が残るようなゴールシーンも数多く湧き出てきた。どれも、うっとりするようなスーパーゴールであった事には間違いないのだが。
私の記憶というのは、どうしてもイタリア系に偏ってしまうので、その辺りをご容赦頂きながら、断片的に想い出せたものを幾つかご紹介したい。
1971年、サンシーロで行われたミラン対ユヴェントスの試合。ユヴェントスのベッテガがミランのゴール前で右から入ってきたグラウンダーのクロスボールを右足でなでるようにミランのゴール隅に流し込んだシーン。イタリアのテレビがまだ白黒の映像を放映していた頃。当時、小学生になったばかりの私にとっては衝撃的なゴールだった。後に判った事だが、このゴールは、ベッテガが左足を前に出してステップを踏みながら、残った右足のインサイドでボールを撫でて角度を変えたゴールだった。
1980年、ウディネーゼ対インテル戦。インテルのアルトベッリが入れたゴールも、前述したベッテガのゴールに良く似ていた。ウディネーゼのゴール前で、右から入ってきたグラウンダーのクロスボールに、前に出た左足を軸に残った右足のインサイドでボールの角度を変え、ウディネーゼのゴール隅に転がしたシーン。これも踵でクリーンヒットしたゴールとは言い難い。
1997年、UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦。ボルッシア・ドルトムントが2-0でユヴェントスをリードしていた試合の後半、ユヴェントスはデルピエロのマジックゴールで1点を返したが、このゴールも良く見ると踵ではなく残った足のインサイドを巧みに使ってゴールにボールを流し込んでいる。デルピエロは今日に至るまで、何度も踵でゴールを狙ってきている。2002年のトリノ・ダービーで、ネドベドの左からのフリーキックをゴール前で踵でちょこんと合わせて決めたゴールの方は、間違いなくデルピエロが踵でクリーンヒットした産物だったが。
1999年、パルマ対ラツィオ戦。ミハイロビッチのコーナーキック。左からのライナー性のクロスボールをラツィオのロベルト・マンチーニが相手DFのプレッシャーを避けながら踵でヒット、ニア・ポストをカバーしていたはずのパルマのGKとDFは、一歩も動けなかった。この時のマンチーニの足の振り方をスローで見ると、インパクトの直後、マンチーニの右足のスパイクシューズの裏が返っており、一瞬、足の裏で押し込んだようにも見えたが、ゴールネットを揺らしたあの弾道の勢いと角度から察するに、踵でクリーンヒットしていた可能性が高い。
そして、この超有名なゴール。チェルシー対ノーウィッチ、2002年FAカップ戦。世界中のベストゴール集に必ず登場するジャンフランコ・ゾーラのゴール。右からのレ・ソーのコーナーキック。ゾーラがノーウィッチ・ゴールのニアポスト前にスルスルッと出てきたかと思うと、低い弾道のクロスボールを両足で挟み込むようにしながら右足でちょこんと合わせたゴール。あのゴールをめぐり、以前、私はイタリア人の友人と熱い議論を展開した事がある。私は絶対にゾーラの踵がボールにクリーンヒットしていると主張したが、友人の解釈はそうではなく、ゾーラは実は踵ではなく、空中で、左足を前に出してバランスを保ちながら、残った右足の、踵に近いインサイドの部位で上手く合わせた可能性が高いと主張。2003年のローマ・ダービーでローマのマンシーニがやってのけたゴールなら、友人も私の【踵でボールをクリーンヒットしている!】という主張を理解してくれたと思うが。いずれにせよ、ゾーラのあのゴールはリプレイを見る度にため息が出るようなスーパーゴールだ。
最後に、2006年のポルトガルでのユーロ・欧州選手権、イタリア対スウェーデンの試合。イタリアのゴール前での混戦から飛び出したのは、イブラヒモビッチの踵から放たれた、微妙な放物線。イタリアの選手がゴールラインの上でヘディングで必死にクリアしようとしたが届かず、ボールはゴールの中に吸い込まれていった。スーパーゴールとは言い難いかもしれないが、あれは、イブラヒモビッチが間違いなく踵でボールを蹴り上げたゴールだった。
世間一般的には【踵を使ったスーパーゴール】と紹介されることが多い、こうしたスーパーゴールの幾つかは、少なくとも私が記憶しているものの中には、意外にも、踵の部位だけに限定されない、より広い足の範囲から生み出されているものもありそうだ。そう考えてみると、先日、ボローニャ戦でインテルのイブラヒモビッチが魅せた、テコンドーの選手顔負けのスーパーゴールは、踵でボールをクリーンヒットしている、という意味では、珍しいゴールなのかもしれない。もっとも、彼には、難しいスーパーゴールを試合中に果敢に狙って頂く事は大変結構な事だが、同時に、シンプルなシュートの方も、もう少し確実にゴールネットの奥に沈めてもらいたいものだが・・・。
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2008年02月06日
明け方。寝室に入って来た母に叩き起こされると、玄関の方から聞こえてきたのは、けたたましい呼び鈴の音。慌てて着替えると、私はサッカーボールを抱えて家を飛び出した。外はまだ暗く、確か、雪がちらついていた。玄関先には、広島カープの赤い帽子をかぶり、目から下をマフラーで覆った、怪しげな少年が立っていた。K君だった。当時、横浜で、赤ヘル軍団・広島カープの帽子をかぶっていた少年は、街中を探してみても、彼しかいなかったかもしれない。そういう私も、浜っ子でありながら、「C」と「D」の白い刺繍が段違いで入った青い帽子をかぶって小学校に通っていたので、人の事は言えないが。
K君と交わした約束。私の家の前の公園で、毎朝、学校に行く前に、早起きをして、サッカーをやろう、という約束。きっかけは、学校の体育の授業で、サッカーをやった事だった。当時、小学生は皆、例外なく「野球」に夢中だった。サッカーは、まだ、ドッジボール以下の存在でしかなかった。私は赤組、K君は白組。この紅白戦で、私とK君は、二人で何と両チームの全得点を叩き出した。狙ったところにボールをまっすぐに蹴れたのが、クラスの中でK君と私しかいなかったから、という説もあるが。その体育の授業が終わった後、それまで、特に仲が良かった訳でもないK君が、いきなり、突拍子も無い提案を私にしてきた。そして、私は、K君と約束してしまった。
それからK君は、毎日、朝の5時半ごろになると、私の家の呼び鈴を容赦なく鳴らし続けた。私の両親は、この連日のK君の「明け方呼び鈴攻撃」による強烈な睡眠妨害にかなり参っていたらしく、K君が呼び鈴を鳴らす前に、支度をして、家の前でK君を毎朝、待っていられるのであれば、早朝サッカーを許可する、それが出来なければ、すぐにK君に謝って約束を取り消す、という、厳しい条件を、私は両親から突きつけられていた。
K君:「おせーぞ!」
私:「ごめん。今日も、起きれなかった・・・。」
こんな感じのやり取りが、早朝に私の家の玄関先で何日か続いた。
雨の日も、雪がちらつく日も、そして、もちろん、晴れの日も、両手が霜焼けで真っ赤になっても、私の家の前の公園で、K君と私の早朝サッカーは続いた。最初は二人でひたすらパスを続けるだけだったが、そのうち、スローイン、ヘディング、トラップ、ボールキープ、シュートと、二人でやるサッカーのバリエーションは自然に膨らんでいった。寒い中、少しでも早く身体が温まるように、二人で想像力をフル回転させた結果だ。
私とK君は、完全にサッカーの虜になっていた。誰かに注意されなければ、そのまま、学校にも行かず、二人で夕方まで公園でサッカーを続けていた事だろう。それを阻止したのは、父の出勤時刻だった。「お前達、いつまでやってるんだ!」と我々を睨みながら公園の横の小道を通って出勤する父の姿が目に入った時、-7時25分- が、二人が家に戻って顔を洗って朝食を食べて学校に行く支度をする為の、ギリギリのタイムリミットになっていた。
この早朝サッカーの存在を知っていたのは、K君と私だけだった。他のクラスメイトや担任の先生には、言ってはいけない秘密になっていた。だが、近所には、他のクラスメイトも何人か住んでいた。ある日の朝、公園でM君が待っていた。M君は、早朝の薄暗い公園でボールを蹴っている我々二人を、自分の部屋の窓から覗いていたらしい。M君が加わって3人になった直後、近所に住んでいたT君、Y君も立て続けにメンバーに加わり、口が五つにもなれば、秘密保持は困難になり、ついに、公園から少々遠くに住んでいたクラスメイト達までもが、自転車を飛ばして、毎朝続々と私の家の前の公園に集まってくるようになった。最初はマネージャー志願に止まっていたクラスの女子も、次第にプレーヤーの一員として、早朝サッカーの仲間に入れて欲しい、早朝サッカーは、男子だけのものではない、と主張し始めた。その主張に胸をときめかせた男子はいても、ノーと拒んだ男子は一人もいなかった。
寒さが緩んで公園に植えてあった桜が開花した頃には、7対7、8対8のミニゲームが毎朝出きるほどまでに、早朝サッカー隊の人口は膨れ上がっていた。日曜日の朝などは、チームを3つ作って、リーグ戦が出来るほど、公園はクラスメート達で賑わっていた。そして、気が付くと、誰も放課後に「野球、やろうぜ」とは言わなくなっていた。我が5年3組に突如到来した、大サッカーブーム。このブームは、学年で残る2クラス、5年1組と5年2組にも飛び火し、放課後は校庭で、クラス対抗戦が頻繁に行われるようになった。
どんなに早朝サッカーのメンバーが増えようが、私のライバルは、早朝サッカーを最初に考案したK君だけだった。K君はMF、私はFWを名乗り、ミニゲームでは必ず敵同士、お互いが、どちらがクラスで一番かを、常に意識していた。好きな選手も、K君はベッケンバウアーで、私はクライフ。本当は、インテルのロベルト・ボニンセーニャやサンドロ・マッツォーラの名前を出したかったところだが、ベッケンバウアー、クライフ、ペレ、釜本の4人の名前を知っている事を誇りに思っていたK君に気遣い、とりあえず、クライフにしておく事にした。その一方で、クラス対抗戦になると、同じチームで一緒にプレーをして、一緒にゴールを狙うという、普段は体験できない一体感、チームメイトとしてお互いを意識する感覚を楽しんでいた。
早朝サッカーは、我々が6年生に進級した後も続いた。夏休みに、ラジオ体操の会場に公園が使われた時は、ラジオ体操が始まる前にミニゲームを一試合こなしてから、皆でラジオ体操をして、カードにスタンプを押してもらってから、家に帰るのが日課になっていた。そして、昼過ぎからは、私はほとんど毎日、小学校のプールで、市の大会に向けて水泳の練習もこなしていた。身体は決して大きい方ではなかったが、水泳の練習が終わった後も、暗くなるまで近所の友達と遊べるだけの驚異的なスタミナに、当時は恵まれていた。私は、いつ、勉強や宿題をしていたのだろうか。そのシーンは、認めたくは無いが、ほとんど記憶に残っていない。
そして、秋も深まったある日曜日、K君と二人で始めた早朝サッカーの集大成となり得る、嬉しい出来事が起きた。我々がいつものように早朝サッカーに夢中になっていた時、ジョギング帰りの見知らぬオジサンが、鼻水をすすりながら、我々に話しかけてきた。
「君達、何年生?どこの学校に通チているの?本当に良く続いているね。雨の日も、風の日も。毎朝、出勤する時に君達を見ているよ。今度、X月XX日、日曜日に、隣町のS小学校で、少年サッカー大会が開催される。出てみないか?オジサンが、その日だけ、コーチとして、皆を大会の会場まで引率するから。弁当だけ、お母さんに用意してもらってきてよ。」
この突然のオファーに、皆が痺れた。K君も私も、飛び上がって喜んだ。まるで、プロのスカウトの目にとまったような気分だった。チームのキャプテンに任命されたK君がすかさずチーム名を考えたが、その名前は、さすがにもう覚えていない。その名前で、我々6年3組・早朝サッカー隊は、少年サッカー大会に登録され、大会当日、我々は、ハナミズさん(名乗ってくれなかったので、我々がオジサンに勝手に付けたあだ名)に連れられて、隣町の会場に出向いた。チームを代表して、副キャプテンの私がクジを引いた結果、見事に、一回戦の対戦相手に、我々も良く知っていた、隣町の超強豪クラブチームを引いてしまった。相手は全員スポーツ刈りで、格好の良いユニフォーム姿、全員が黒いスパイクシューズを履いて登場。一方、こちらは、全員、「6-3」と胸にマジックで書き込まれた体操着姿に運動靴。この差だけで、我々は、試合開始前から、完全に相手に呑まれていた。
試合の結果は、8対0。お話にならないような負けっぷりだった。FWだった私は、相手のあまりのレベルの違いに愕然としながらも、試合時間のほとんどを、暇をもてあましていた相手GKの前に突っ立っているだけで過ごしてしまった。でも、そこから眺めていた光景は、今でも忘れていない。自陣のゴール前で、仲間達が相手から集中砲火を浴びていた、あの光景。普段は笑顔しか見た事が無かったクラスメイト達の、必死の形相。「最後まであきらめるな!頑張れ!」と、試合中、ピッチサイドから声援を絶やさなかったハナミズさんは、試合が終ると、我々を慰める為に、ジュースを全員分、近くのスーパーに買いに行ってくれた。だが、そんな事はおかまい無しに、我々は、変な充実感に浸りながら、太陽に温められたピッチサイドの芝の上に座り込んで、笑顔で弁当箱を開けていた。
こんな感じだったと思う。
今日は東京では雪が降ったようだが、寒い春節の時期を迎えると、時々思い出す、あの頃の早朝サッカー。我が愛しのサッカー小僧時代。
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2008年02月01日
1970/71 UEFA カップ アーセナル 対 ラツィオ 2-0
1979/80 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 ユヴェントス 1-1
1993/94 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 トリノ 1-0
1994/95 欧州スーパーカップ アーセナル 対 ミラン 0-0
1994/95 カップ・ウィナーズ カップ アーセナル 対 サンプドリア 3-2
1999/00 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 フィオレンティーナ 0-1※
2000/01 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ラツィオ 2-0
2001/02 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ユヴェントス 3-1
2002/03 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ASローマ 1-1
2003/04 チャンピオンズ・リーグ ハイバリーで【伝説】が生まれる
2005/06 チャンピオンズ・リーグ アーセナル 対 ユヴェントス 2-0
もしかすると、1970/71よりも前にロンドンでイタリア勢がアーセナルと戦った記録がどこかにあるのかも知れないが、以上が、私が知っている、ロンドンでのイタリア勢とアーセナルの過去の戦歴だ(08年2月1日現在、親善試合、プレシーズンマッチ等を除く)。アーセナルは、1999/00にロンドンで、フィオレンティーナ/バティストゥータの一撃に沈められた事があるが、その時は、試合はアーセナルのかつてのホームスタジアム、ハイバリーでは行われず、ウェンブリー※で行われた。ハイバリーでは、イタリア勢は一度もアーセナルに勝った事がなかった--2003年9月17日までは。
ロンドンに赴任してからまだ1ヶ月も経っていなかった、あの日の夕方、私は仕事を終えると、事務所から一番近い地下鉄の駅まで車を飛ばし、ピカデリーラインに飛び乗った。アーセナル駅で下車し、地上に出ると、目の前には、ロンドン市内のどこにでもありそうな住宅街がオレンジ色の夕日に染まっていた。高級住宅街とは形容し難いが、その閑静な住宅街のど真ん中に、プレミアリーグを代表するクラブチームのホームスタジアムの古めかしい外観がひっそりと佇んでいた。もし、私が、ハイバリー付近に迷い込んだ、サッカー観戦が目あてではない旅行者だったら、恐らく、あのスタジアムの存在には気付かずに通り過ぎていただろう。それ程、ハイバリーは住宅街の中に、完璧にとけ込んでいた。目の前にあるのに、住宅街にたち並ぶ家と家の間を、目を凝らして探さないと見つからないスタジアム。信じられない光景だった。
私はプログラムを買った後、早めにスタジアムの中に入った。試合開始まで、1時間はあっただろうか。チケットに書いてあった座席番号をノースバンク・スタンド2階のゴール裏で見つけ、椅子に腰掛けた。対面の、大きな古時計がトレードマークのクロック・エンド・スタンドにも、観衆が徐々に集まり始めていた。眼下に広がる、長方形の空間を見事に均一に埋め尽くした芝の鮮やかな緑色の輝きは、眺めているだけでため息が漏れてしまうほど美しかった。ビッグゲームを目前に控えていたにもかかわらず、ゆっくりと、ゆったりと流れていた、ハイバリーの贅沢な時間。今、想えば、あの時が、イギリスに来て良かったと、はじめて実感出来た時だったのかもしれない。
ヴェンゲル監督の傑作、フランス系イギリス美女。ティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラ、ロベール・ピレスのアーセナル。あんな芝目の美しいピッチに日頃から磨かれていれば、あのアーセナルのような極上のヴィンテージ・シャンパンがロンドンで出来てしまっても不思議ではない。プレミアリーグでは異質の、シャンパンが持つ独特の清涼感と、どこか観ている人の気持ちを高揚させるドラマチックな優雅さを、想像していた通り、持ち合わせたチームだった。
私は、試合が始まっても、スタンドでおとなしくしていなければならなかった。ノースバンク・スタンドにアーセナル・ファン達が集い始めていた頃、私はスチュワードに優しく丁寧に忠告されていた。
「その、首に巻いている黒と青のマフラーを、今、すぐにしまってください。試合中も出来るだけ静かに観戦される事をお勧めします。貴方が座っている場所は、ハイバリーでも最も熱狂的なアーセナル・ファン達が陣取るところです。この忠告を守って、試合を楽しんでください。」
キックオフ直前に私の隣の席に座ったイタリア人の親子もまた、スチュワードから、私が受けた忠告と全く同じ内容の忠告を受けていた。小学校高学年ぐらいの息子を私の隣に座らせ、息子の隣の席に腰掛けた父親が、首に巻いたマフラーをジャンパーの奥に押し込みながら、愛嬌たっぷりの表情で私に話しかけてきた。
「やれやれ。とんでもないところに迷い込んでしまったようだな。ダフ屋でチケットを買うと、どこに座らされるか判ったものじゃない。」
私は、父親の耳元でつぶやいた。
「ご心配なく。私も貴方と同じ色のマフラーを、実は上着の下に隠しています。」
その瞬間、私とイタリア人の親子の3人は「運命共同体」の契りを交わした。スタンドは、見渡す限り、赤と白のアーセナル・カラーで埋め尽くされていた。
苦しい試合だった。「運命共同体3人衆」は、行儀良くスタンドに座ったまま、こみ上げてきた笑いをこらえるのに、立ち上がって雄叫びをあげたくなる衝動を抑えるのに必死だった。点が入る度に、泣き出しそうな表情で「カモン!アーセナル!!」と檄を飛ばしていた周囲の方々に気を配りながら、我々は声を殺してハイタッチならぬロータッチを足元で何度も繰り返した。勝負は前半の45分間でついてしまった。フリオ・クルスが均衡を破り、アンディー・ファンデルメイデが続き、仕上げにオベファミ・マルティンズの歓喜の宙返り4連発が炸裂した時、我々「運命共同体3人衆」は、天に昇った気分だった。チャンピオンズ・リーグのグループステージの試合で、ヴェンゲル監督のアーセナルを相手に、由緒のあるハイバリーで、伝説が生まれた瞬間に、まさか自分が居合わせるとは。夢を見ているようだった。
イギリス美女達との出会い。この「後編」では、かなり本題から脱線してしまった。「前編」、「中編」の投稿から、あまりにも間隔があいてしまったので、集中力が完全に途切れてしまった。ピーター・ウィズ、デニス・モーティマーのアストン・ヴィラ、グレン・ホドル、オズワルド・アルディレスのトッテナム・ホットスパーズ、今では「サー」の称号が付いているトレヴァー・ブルッキングのウェストハム・ユナイテッド、ポール・マリナー、ジョン・ワークのイプスウィッチ・タウン、ブライアン・ロブソンのマンチェスター・ユナイテッド・・・英国病の病魔がスタジアムにフーリガニズムを蔓延させ、「ヘイゼルの悲劇」(1985年)が起きてしまう前までは、私は、イギリス美女達に、次から次へと魅了されてしまう浮気者だった。だが、「浮気者」と「ただの好色家」は、この場合、明確に区別されるべきだろう。浮気者には、必ず「本命」が存在する。フォトジェニックな美人ではない。プライドの高さだけは一人前だが、不器用で詰めが甘い温室育ち。でも、時折見せる笑顔が天使のように可愛く見えるその幼馴染の娘のところに、どういう訳か、いつも舞い戻ってしまう。そんな「本命」に結局、一番尽くしてしまう、愚かな私だったりする。
《完》
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2008年01月17日
「ロビンフッド」の地として知られているイギリス中部の街、ノッティンガム。人口は30万人にも満たないこの街の南に流れるトレント川のほとりに、シティー・グラウンドという、3万人を収容するサッカースタジアムがある。そのシティー・グラウンドをホームとするノッティンガム・フォレストは、今、イギリスの「リーグ・ワン」(3部に相当)に所属している。このチームが、クラブ設立以来、一世紀にわたり、一度もトップリーグから降格した経験がないインテルと同じ数だけ欧州チャンピオンになっている、という事実は、今でも信じ難い。だが、このチームの140年以上の歴史を振り返ると、今の姿が「正常」で、あの頃の姿が「異常」だったと考えるべきなのだろう。
百年をゆうに越えるイングリッシュ・フットボールの歴史の中で、トップリーグに昇格したばかりのチームが、いきなりそのトップリーグで優勝してイギリス王者になった事が、過去に一度だけあった。それが、あのノッティンガム・フォレストだ。1976/77シーズン、ノッティンガム・フォレストはイギリスのセカンド・ディヴィジョンで3位になり、ファースト・ディヴィジョン(現在のプレミアリーグの前身)に昇格した。すると、翌1977/78シーズン、当時欧州最強だったリヴァプールを抑えてファースト・ディヴィジョンを制覇、クラブ史上初の(そして、今のところ唯一の)イギリス国内チャンピオンのタイトルを手に入れた。
イギリスのチャンピオン・チームとして欧州チャンピオンズカップに出場した1978/79シーズン、欧州では無名のチームだったノッティンガム・フォレストは欧州チャンピオンズカップの大舞台でも「ジャイアント・キリング」を連発した。初戦でいきなりぶつかった同郷の欧州チャンピオン、リヴァプールに勝ち、AEKアテネ、グラスホッパーズを倒し、当時奥寺(現在、横浜FCの代表取締役会長兼GM)が在籍していた1FCケルンにも準決勝で競い勝ち、あれよ、あれよと言う間に決勝まで駒を進めてしまった。そして、1979年5月30日、ミュンヘンで行われた決勝戦では、スウェーデンのマルメを1-0で下し、ビッグイヤーを持ち上げてしまった。シーズン開幕当初は、ノッティンガム・フォレストのファン達や関係者達も含め、誰もこのチームが欧州クラブの頂点に立つとは、夢にも思っていなかったはずだ。決勝戦では、マルメのカテナッチョ戦術にてこずり、攻めあぐんだノッティンガム・フォレストだったが、前半終了間際に、ノッティンガム・フォレストのWG、ジョン・ロバートソンが左サイドを崩して浮かせたクロスボールを、バーミンガムから移籍してきた「イギリス初の100万ポンド・プレーヤー」トレヴァー・フランシスが頭でゴールにねじ込んだ1点が決勝点となった。
この決勝戦を「欧州チャンピオンズカップ史上、最も盛り上がらなかった決勝戦」と酷評したサッカー評論家もいた。あのノッティンガム・フォレストは、《前編》で取り上げたリヴァプールやアーセナルに比べると、明らかに無骨で華のないチームだった。ピッチの上を泥だらけになりながら走り回る選手達からは、イギリスの片田舎で一日の労働を終えた後、パブでビール・ジョッキを抱えながら、だみ声を張りあげて騒いでいる輩達と同質のオーラを、私は感じ取っていた。今では伝説の人物となっている、あのノッティンガム・フォレストの数々の奇跡のプロデューサー、ブライアン・クラフ監督は、選手達に、試合前にいったいどんな催眠術をかけていたのだろうか。容姿端麗で目の保養になるチームではない。賢くて器量の良いチームでもない。なのに、気になって、気になってしかたが無い。当時の私にとって、あのノッティンガム・フォレストは、そんなチームだった。初顔合わせの強豪チームを前にしても、全く物怖じしないふてぶてしさ。不恰好でも、なりふり構わぬプレースタイル。何も失うものが無いチームというのは、いきなりあそこまで強くなれるものなのだろうか。そんな彼らの欧州チャンピオンズカップでのバンカラな生き様に、私は不思議な美しさを感じていた。
このサクセス・ストーリーには、まだ続きがあった。イギリス国内ではリヴァプールに次いで2位に終ったノッティンガム・フォレストは、欧州チャンピオンのタイトルホルダーとして、1979/80シーズンの欧州チャンピオンズカップにも出場した。次々に欧州の強豪クラブを撃破していく姿が板についてきたノッティンガム・フォレスト。準決勝でアヤックスを退け、1980年5月28日、マドリッドで行われた決勝戦で、ケビン・キーガンや西ドイツ代表のフェリックス・マガット、マンフレッド・カルツ、ホルスト・フルベシュらを擁するハンブルガーSVと対戦した。この試合、ノッティンガム・フォレストは終始、ハンブルガーSVに攻め込まれ、サンドバッグ状態になっていた。ハンブルガーSVがいつ得点してもおかしくない戦況が続く中、ゲームの流れを変えたのは、またしてもロバートソンだった。前半21分、彼は左サイドでボールを受けると、中に切り込んで右足でグラウンダーのロングシュートを放った。そのロバートソンのシュートをセーブしようと、懸命に腕を伸ばしたハンブルガーSVのGK、ルドルフ・カーグスの努力も空しく、ボールはファーポストに当たりながらゴールネットを揺らした。1-0。ワンチャンスをものにしたノッティンガム・フォレスト。その後も、ハンブルガーSVの猛攻は、試合終了のホイッスルが鳴り響くまで続いた。しかし、この日のノッティンガム・フォレストのGK、ピーター・シルトンは、目を疑うようなスーパーセーブを連発し、サンチャゴ・ベルナベウに乗り込んでいたハンブルガーSVのサポーター達を絶望の淵に追いやった。
こうして、ノッティンガム・フォレストは、欧州チャンピオンズカップ連覇を成し遂げた。マドリッドの夜空に向けてノッティンガム・フォレストのキャプテン、ジョン・マクガヴァンがビッグイヤーを持ち上げた時、驚きは、もはや驚きではなくなっていた。今日現在、私が知る限り、国内チャンピオンになった回数よりも、欧州チャンピオンになった回数の方が多いチームが在るとすれば、それはノッティンガム・フォレストだけだ。今のように、まず、32チームを4チーム×8グループに分け、ホーム・アンド・アウェー方式の2回総当りで争い、各グループで1位と2位のチーム、計16チームがノックアウト・ステージに進み、そこからホーム・アンド・アウェー方式によるトーナメントが始まるUEFAチャンピオンズリーグのスキームでは、あのノッティンガム・フォレストのような新星が勢いに乗って欧州チャンピオンになる事は、極めて難しいだろう。
イギリスの小さな街の無名のシンデレラ・チームに、ビッグイヤーを2年連続で持ち上げる事が許されるとは、あの頃のサッカーの神様は、何と懐が広かった事か。サッカー資本主義が排出する二酸化炭素の濃度が、今よりもはるかに低かった頃。私は、インテルのセリエAでの快進撃を追いかけながらも、ノッティンガム・フォレストが欧州チャンピオンズカップで勝ち進む度に書き足されていったサクセス・ストーリーのページをめくる事に夢中になっていた。
(後編に続く)
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2008年01月15日
良く、サッカーファンの間で、「私は死ぬまで、○○の事だけを応援し続けます」とか、「たとえ下部リーグに降格になっても、私は、○○の事を応援し続けます」といった声を耳にする。素晴らしい志だと思う。そんな人達に好かれたチームは、幸せだと思う。私の場合は、インテル教に入信してもう30年以上になるが、その間、インテル以外のチームにも、胸をときめかせた事が何度かある。人生の伴侶よりも目先の美人に、目が行ってしまった事が何度もある。特に70年代後半から80年代前半、私がまだ10代半ばだった頃の「浮気癖」は酷かった。当時の私の浮気相手は、決まって「イギリス美女」だった。インテルには無い、イタリアのチームには無い、眩い煌き。見る側を圧倒する直線的なスピード。最後の最後まで諦めずに全力で闘う直向さ。そんなイギリス美女達に、私は一時、首っ丈になっていた事がある。
当時の欧州サッカーは、イングリッシュ・フットボールによって支配されていた。しばらくの間、ビッグイヤーは、ドーバー海峡を渡って欧州大陸に移る事は無かった。
1976/77: リヴァプール
1977/78: リヴァプール
1978/79: ノッティンガム・フォレスト
1979/80: ノッティンガム・フォレスト
1980/81: リヴァプール
1981/82: アストン・ヴィラ
欧州クラブチャンピオンのタイトルが、一つの国に、これほどまで長くとどまった事は無い。イギリスでプレミアリーグが発足したのは1992年だが、70年代半ばから80年代前半にかけて、イングリッシュ・フットボールは、欧州では泣く子も黙るような存在だった。
私は当時、リヴァプールが大嫌いだった。嫌いだった、と言うよりは、怖かった、と言った方が正しいだろう。当時、インテルはおろか、イタリア最強と信じていたユヴェントスでさえ、あのリヴァプールと一緒に同じピッチの上に立ったら最後、八つ裂きにされてしまうのではないかと思っていた。あのリヴァプールは、私にとって、破壊的なスピードでピッチ上を縦横無尽に切り裂く鬼、シリアル・キラーの集団だった。鬼の中の鬼、「マイティーマウス」ことケビン・キーガンの驚異的なスピードとキレを堪能する余裕は、当時の私には無かった。キーガンがハンブルガーSVに移籍した後、リヴァプールの背番号7番を受け継いだケニー・ダルグリッシュもまた、見ているだけで身震いしてしまいそうな、恐ろしいキャラクターだった。今でも、赤いユニフォームに拒絶反応を示してしまうのは、あの頃のリヴァプールを思い出すからなのだろうか。だが、この極端な恐怖の感じ方は、同時に、私がイングリッシュ・フットボールに強い関心を抱きはじめた兆候でもあった。
1979年5月。私は、生まれて初めて、FAカップの決勝戦をテレビで見た。あの日のロンドンは、良く晴れていた。試合前にマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの選手達がウェンブリー・スタジアムの美しい緑の絨毯の上に一列に並び、チャールズ皇太子がテレビ画面にアップで映され、英国国歌の大合唱が終ると、各チームのキャプテンが、チャールズ皇太子に、選手達を一人一人、順序良く丁寧に紹介していたのが印象的だった。赤いユニフォームに白いパンツのマンチェスター・ユナイテッド。黄色いユニフォームに紺色のパンツのアーセナル。キックオフ直前、私はアーセナルを応援する事に決めた。ユニフォームの色で決めたと言うよりは、アーセナルのOMF、背番号7番をつけたリアム・ブレーディに目が釘付けになっていたからだ。アイルランド人で、アーセナルのファン達からは「チッピー」という可愛いニックネームがつけられていたが、ピッチの上では、蝶のように舞い、蜂のように刺す、当時のイギリスでは屈指の技巧派レフティーだった。左足からズドンと放たれる弾丸ライナーのロングシュート。バックスピンをかけて、ふわっと浮かしたピンポイント・クロスボール(=チップキック=ニックネーム「チッピー」の由来)。同じ足からボールが蹴られているとは思えないほど、ブレーディの左足は私にとっては不思議な「魔法の左足」だった。
試合はアーセナルがブライアン・タルボットとフランク・ステープルトンの前半の得点で2-0とリードし、それがそのままファイナル・スコアになると思われた後半41分、マンチェスター・ユナイテッドのゴードン・マックィーンが1点を返すと、その2分後にはサミー・マクロイが同点ゴールをあげ、マンチェスター・ユナイテッドは土壇場で試合を振り出しに戻した。静まり返ったアーセナル・サポーター達。歓喜に沸くマンチェスター・ユナイテッドのサポーター達。試合の流れは完全にマンチェスター・ユナイテッドに傾いたかと思われた後半44分、アーセナルのアラン・サンダーランドが劇的な勝ち越しゴールを決めて、息をのむようなゲーム終盤の展開に終止符を打った。サッカーの試合は、最後の最後まで、何が起こるかわからない事を思い知らされ、FAカップ・ファイナルならではの、鳥肌が立つような厳かさに心を射抜かれた私は、その勝者・アーセナルに、のぼせ上がってしまった。ブレーディ、タルボット、ステープルトン、サンダーランドの他に、GKのパット・ジェニングス、キャプテンでRSBのパット・ライス、デイヴィッド・オレアリーとウィリー・ヤングのCBコンビ、LSBのサミー・ネルソン、MFのデイヴィッド・プライスとグラハム・リックスの名前を、あの90分間で覚えてしまっていた。
そのアーセナル熱は、長続きはしなかった。1979/80シーズンが開幕し、インテルが12回目のスクデット獲得に向けて、セリエAで快進撃を始めていた為、私はミラノの幼馴染のもとに駆け足で戻った(過去ブログ記事【インテルが、インターナショナルではなかった頃】参照)。だが、イタリア国内から欧州に目を向けると、そこでは、今度は別のイギリス美女(?!)の、信じられないようなサクセス・ストーリーが欧州大陸を圧巻し始めていた。
(中篇に続く)
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2008年01月03日
デスモンド・モリス氏というイギリス人の動物学者が1981年にThe Soccer Tribeという本を出した。当時ミラノに住んでいた私は、たまたま見ていたスポーツTV番組にゲストで招かれていた彼と、この彼の著書の存在を知り、通っていた学校の図書担当の先生にねだって、この本を英国から取り寄せてもらった。15歳の英語力ではとても読みきれない内容の本だったが、学校の食堂で使っていたトレーと同じぐらいのサイズの、大きくて重たい本であった事を覚えている。カラー写真が満載されたこの本は、ページをめくっているだけで、大好きなサッカーの魅力の根源を探っているような気分にしてくれた。何かえたいの知れない世界とサッカーを結びつけたものを、図書館の椅子に座りながら、ただ両手で抱えていただけなのに、胸が高鳴っていた事を覚えている。きっと、そういう年頃だったのだろう。その大きくて重たい、80%以上読解不能の文章がただの飾りと化していた本をめくりながら、私が見つけた、3つの発見。
一つは、生まれて初めて、サッカーの景色というのは、ピッチ上でボールを追いかける22人のプレーヤー達だけではない、という事に気づいた事だった。ファン達の様々な表情を写したカラー写真を眺めながら、実に様々な表情がピッチの中から外を眺めてみると見えてくる、そういう視点も、サッカーにはある、そういう景色も、サッカーの景色である、という事実を目の当たりにした事による驚き。今でこそ当たり前に思える事だが、この本に掲載された写真の数々に出会うまでは、スタンドからピッチを眺める視点でしか、サッカーを見た事が無かった。
もう一つは、この本の題名にも含まれているTRIBEという言葉のサッカーにおける意味だった。辞書を引くと、この言葉は「(共通の風習・伝統をもつ)部族」とある。私がまず連想したのは、アフリカのキリマンジャロ山麓あたりに住むマサイ族のような、文明のあまり進んでいない、閉鎖的で排他的な野蛮人の集落だった。 確かに、ミラノダービーでは、サンシーロの客席は2つの敵対する部族によって埋め尽くされる。試合前には北側、南側の両クルヴァから罵り合い、威嚇のし合いがひっきりなしに続き、2つの敵対する部族を代表する戦士達がピッチに入場して来ると、サンシーロを埋め尽くしたそれぞれの部族民達は、11人の部族代表戦士達に全ての想いを託すかのように、うねりのような、呻きのような大声援で自分達の化身達の背中を後押しする。その大声援を受けて、11人の部族代表戦士達は自身を奮い立たせ、帰属する部族の為に全力で戦う。何かを守る為に。その「何か」の正体は、良く解らなかった。今でも良く解っていないが、恐らく、「血」のようなものではないかと、当時、私は考えていた。インテルの血の色は黒と青。ミランの血の色は赤と黒。例えば、私のようなインテリスタには、赤い血液とは別に、黒と青の血が流れている。ユニフォームの色はその部族の血の色。その血に、敵に敗北する事で不純物が、敵の血が混じってはならない。敵に支配されない為に、敵を支配する。部族を守る、存続させる、という事は、その血を守る事。部族は、長い間、幾つもの戦いを繰りひろげながら、その純血を守ってきた。サッカーとは、実は、部族の血の純血性を、部族そのものを絶やさない為の戦いなのではないか、と。
最後の一つは、この本のあちこちに登場したRITUALという言葉のサッカーにおける意味だった。辞書を引くと、この言葉は「(宗教などの)儀式形式, 式次第, 典礼」とある。確かに、サッカーは儀式だらけのスポーツ、否、サッカーの試合そのものが儀式なのかも知れない。ファン達が叫ぶチャントやコール、スタジアムを彩るコレオグラフィー等は、儀式である。選手達がピッチに入場する際に子供達と手をつないで入場してくるのも、ある意味で儀式のようなものだ。得点を決めた選手の歓喜の表情も儀式の一部だし、試合終了後に、両チームの選手達がそれぞれのファン達が見守るスタンドに挨拶する姿も、儀式だ。また、儀式には、選手固有の儀式、チーム固有の儀式があったりする。余談になるが、今、チーム固有の儀式の中で、私が最も見てみたいのは、ベンフィカの試合前の儀式だ。試合前に、ベンフィカのシンボルである鷲がスタジアム上空から舞い降りてくる光景は、いつか生で見てみたい。
サッカーにおいて、この儀式(RITUAL)は、部族(TRIBE)と密接な関係にあるように、私には思える。例えば、マサイ族のライオン狩りでは、マサイ族の男児が野生のライオンと槍一本で格闘し、死んだライオンの尾を掴むことで自分の勇気を示し、部族の英雄となる。危険なライオン狩りという儀式を実施する事で、マサイ族の男児達は部族を守る力を象徴する戦士に成って行く。そんな事は知る術も無かった当時の私でも、サッカー=【儀式】とするならば、イタリアでは、クラスで一番の人気者になる為には、サッカーがクラスで一番上手い事が必須条件である事は、確かに、理解していた。儀式は、部族の血を守って行くためのルールで、部族は様々な部族固有の儀式の実践を通して、その血を守ってきたのではないか、という、漠然とした、でも、無視出来ない関係を、The Soccer Tribeは私に意識させてくれていた。
以上3つの発見は、私がこの本を読解する力が不十分であったが為に働かす事になった想像力と好奇心の産物だが、サッカーは、時に理性や知識だけでは理解できない顔を持つ。そんな顔の部分に、もっと触れてみたい。その為の様々なヒントが、このThe Soccer Tribeという本に秘められているような気がしてならない。残念ながら、この本はすでに絶版になっており、手に入れる為には多少手間がかかるが、今年の目標、というか、楽しみの一つとして、是非、この本を入手して、当時の私の好奇心と想像力の産物と照らし合わせながら、デスモンド・モリス氏が探求したThe Soccer Tribeを、読んでみたいと思う。
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2007年10月17日
最近、目覚めの悪い日々が続いていた私にとって、今朝の目覚めは格別だった。昨夜降っていた雨は上がり、雲ひとつ無いピカピカの青空が、目を覚ました瞬間、窓から私の中に飛び込んできた。
私が最後にサッカーボールを蹴ったのは、いつの事だったか。6年前、私はまだ日本にいた。良く晴れた秋の休日、家の近所の公園を一人で散歩していた時、目の前にサッカーボールが転がってきた。小学生の女の子が小走りでそのボールを追いかけてきた。私がトラップしたそのボールを両手で抱え込むと、彼女は甲高い声が弾む方に戻って行った。
彼女を呼び戻した空間。それは、散歩道の脇に立つ数本の銀杏の木の下にあった。そこでは、小学生達がミニ・サッカーの試合に夢中になっていた。私は、しばらく立ち止まって、その試合模様を眺めていた。4人対3人。その3人の中に、その女の子がいた。案の定、3人の方はかなり劣勢だった。それでも、芝生の上に落ちた銀杏の葉を蹴散らしながら、ボールを追いかけ回す、ポニーテールのその女の子は、元気が漲っていた。そして、再び、ボールが私の足元に転がってきた。その時、私は、つい、口走ってしまった。
「混ぜてよ。女の子の方のチームに。」
それから20分ほど、私も銀杏の葉を蹴散らしながら、ボールを追いかけた。小学生達の巧さと俊敏さに翻弄されつつ、ボールを追いかけながら、次第に笑いが込み上げてきた。その笑いは、己の錆付いた駆動系を実感する事によって生じる、自分自身に対する、ごまかしの笑み以外の、何ものでもなかった。事実、汗だくになって息を切らしていたわりには、不思議なほど、楽しくなかった。得たものに対する喜びが、失ったものに対する悲しみに、うまく相殺されてしまっていたからなのか。今、日本で、大のオトナが公園でサッカーに高じている小学生達に「混ぜてよ」などと口走ったら、変質者と間違えられてしまうかもしれない・笑。
そんな、もう、ボールを蹴れば蹴るほどガッカリする人生のステージに突入して久しい私でも、まだ、プレー出来る。スーパーゴールだって、決める事が出来る。今朝のように、夢の中で。
今朝の夢は、私が何故かバイエルン・ミュンヘンの真っ赤なユニフォームを着てスタジアムのピッチ上に立っていたところから記憶している。対戦相手は、ボルシア・メンヒェングラートバッハで、ユニフォームの色も緑と黒だった。スタジアムの様子から、バイエルンは、ホームのアリアンツ・アリナではなく、どうやらアウェーのボルシア・パークで試合をしているようだった。アリアンツ・アレナの繭のような外観を形成する半透明の特殊フィルムは、スタジアムの内側からは外の景色を眺めることができ、バイエルンの試合がある日は、チームカラーである赤色に発光する事で有名だが、私がピッチ上から眺めていたスタジアムは、そんなハイテクさを全く感じさせない、オーソドックスなスタジアムだった。ここまでは、かなり凝った、リアルなストーリー設定&展開だった。何故、私がドイツのブンデスリーガでプレーしているのかは、全く不明だが。
私の目の前で展開された、バイエルンの攻撃。ボルシアのペナルティエリア左に切り込んだバイエルンのプレーヤーが、早いグラウンダーのボールをゴール前に流すと、それをズラタン・イブラヒモビッチがタップインして、ボルシアのゴールネットを揺らした。ボルシア0-バイエルン1・・・イブラヒモビッチ?!先制ゴールは、間違いなく、彼のゴールだった。バイエルン・ミュンヘンのイブラヒモビッチ。背番号は9番を付けていた。試合は、圧倒的に、我々(?!)バイエルンのペースだった。PKを得た後、セットプレーでもう1点追加し、スコアを0-3としながら、試合の終盤を迎えていた。
そこまで早送りで進んでいた映像が、突然ノーマルな再生スピードになった時、私はセンターサークル付近でボールを運んでいた。夢の中の設定では、この試合、私の調子は今ひとつだったようだ。チームは勝っていたにもかかわらず、得点に絡むような、目立った活躍はしていなかったようだ。だが、この、中盤でボールを持った私は、目の前に立ちはだかるボルシアのディフェンダーを一人かわし、また一人かわし、最後のボルシアのディフェンダー、ヨアヒム・レブ(?!)をかわすと、ボルシアのゴール前でGKと一対一になっていた。右足のインサイドで蹴ったボールが、飛び出してきたGKの脇をすり抜けて、妙に弱々しくゴールの中に吸い込まれていった。割れんばかりの大歓声の中、チームメイト達に手荒い祝福を受ける私(?!)。
「今の俺のシュート、マラドーナみたいじゃなかったか?」
調子にのった私がそう言い放った瞬間、祝福してくれていたチームメイト達が、いっせいに私に背を向けた事を、鮮明に覚えている・笑。その中に、ルーカ・トニもいた。
試合はバイエルンの完勝に終わり、スタジアムの外では号外の新聞が配られていた。それを受け取ると、表紙には私のスーパーゴールの写真が大きく掲載されていた。記者の採点によると、私のこの試合の評価は「7」。もう少し、高い評価でも良いのに、と思いながら、私は自宅らしきところに戻ると、すかさず日本の友人、知人にメールや電話で連絡を取り、日本で各種スポーツ新聞を買い集めるよう、お願いしていた。なんと、私の直筆サイン入り色紙と引き換えに・・・笑。
夢のような、夢だった。
心理学者・フロイトは、夢を、「夢を見る人が抑圧している願望が、偽装された形で充足されたもの」と定義している。今朝の私の場合は、バイエルン・ミュンヘンのプレーヤーとして(?)、スーパーゴールを決める事(?!)が、抑圧している願望を、偽装された形で充足しようとした結果なのだろうか。総論的にはあっているような、でも、各論的にはかなり間違っているような・・・考えれば考えるほど、ますます、自分が解らなくなってくる。
このような夢を見るのは、初めてではない。だが、頻繁に見るような夢でもない。そもそも、普段の朝は、目覚まし時計の上に片手を置きながら、ギリギリまで枕にしがみついているタイプの私は、朝の1分の重さの前で、見た夢を振り返るような余裕は無い。いつもこんな夢を見ていれば、気分が爽快な朝を、いつも迎えられるのかもしれないが、そうなったら、多分、私は、自分の深層心理の健全性を疑うだろう。でも、私は、きっと、心の底から、サッカーが好きな人間なのだと、今更ながら、思う。
posted by sinfonia |22:34 |
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2007年09月20日
その人の職場は、長靴の格好をした国にあった。しばらく、そこで仕事をした後、駐在任期満了に伴い、その人が母国日本に帰国する日が近づいていた。そんなある日のこと、その人は、職場で苦楽を共に過ごした、ある現地人の同僚から、餞別の品の希望を聞かれたそうだ。
「何でもいいんだな?本当に、何でもいいのか?」
「もちろん。何でも、好きなものを、一つ、言ってくれ。絶対に、叶えてやるから。」
「そうか。そこまで言うのなら・・・そうだな、サイン入りのユニフォームが欲しいかな。私と同じ日本人で、ASローマにいる、私を魅了して止まない、H.N.の。これで、どうだ?参ったか?」
「・・・分かった。約束する。今日のその勝ち誇った態度、忘れるなよ。」
実は、その人は、照れ隠しの為に、あえて入手不可能に限りなく近いアイテムを餞別の品として選んだのだそうだ。その人は、本当は、同僚のその気持ちだけで、胸いっぱい、お腹いっぱいだったらしい。ところが、その人に難題を突きつけられたはずの同僚は、困チた顔をするどころか、青い目の奥底で、メラメラと闘志を燃やしていたそうだ。
それから、数週間が過ぎたある日、日本帰国を数日後に控え、その人がオフィスで片づけをしている時に、机の上の電話が鳴ったそうだ。電話の主は、その同僚だった。
「今、出先からだ。今日、オフィスに小包が届くと思う。それを、開けてみてくれ。」
彼はそれだけをその人に業務連絡時と変らぬ口調で伝えると、電話を切ったそうだ。その時、その人は、「約束」の事は、完全に忘れていたらしい。そして、その日の夕方、その人宛の小包は、確かにその人のもとに届いた。小包の中に入っていたのは、ASローマのユニフォームだった。裏返すと、背番号8番の上に、その人の期待通りの人物の名前がローマ字でプリントされていた。その8番の背番号の上に、マジックでこう書いてあったそうだ。
【その人さんへ】。【A sonohito con amicizia】(伊語で「その人に、友情を込めて」の意)。そして、大きく、均整の取れた、読解不能の【直筆サイン】が、背番号からはみ出るよう書かれていたそうだ。
その人は、慌てて同僚の携帯に電話をかけて、詳しい説明を求めたらしい。
「これは、一体、どういう事なんだ?!」
同僚は、その人の動揺した声を聞いて、とても満足していたようだ。
「ナメてもらっては、困る。俺は、欲しいモノは、とことん、手に入れるまで、追いかける。どうだ、参ったか。」
そして、同僚は、その人に、信じられないような話をし始めた。
「それを手に入れるのは、確かに、大変だったよ。まず、ローマの表も裏も知り尽くしている、人脈豊かなローマ人の友人に、このミッションの詳細を説明し、快諾してもらい、それを即、実行に移してもらった。彼がひいきにしている、ある、ローマ市内のレストランに、よく、ブルーノ・コンティが出没する。そう、あの82年スペインW杯でこの国を優勝に導いた世界チャンピオン達の中の一人、あの「ファルカオのローマ」で大活躍した彼だ。彼は引退した後も、ASローマには非常に顔が利く、名誉OBの一人だ。その彼に、何と、あの、ブルーノ・コンティに、このミッションは、ローマ人の友人からバトンタッチされたんだ。ASローマの練習場にも顔パスのコンティなら、朝飯前の事だろうと、思っていた。
ところが、それから数日後、コンティは悲しい顔をしながら、手ぶらで私のローマ人の友人の前に現れた。何でも、H.N.のマネージャーのガードが固く、H.N.のASローマのユニフォームまでは手に入れられても、H.N.のサインまでは、天下のOB、ブルーノ・コンティの頼みでも、そう簡単には首を縦に振ってくれないらしかった。そこで、ローマ人の友人は、コンティに夕食をおごり、もう一度勇気付け、この、難局を迎えていたミッションの再トライを依頼した。今度は、コンティは、ASローマのキャプテンのところに直談判に行った。さすがに、チームキャプテンからの依頼なら、H.N.のマネージャーも、H.N.も、受けてくれるだろう、というのが、コンティの計算だった。ASローマのキャプテンとは、言うまでも無く、フランチェスコ・トッティの事だ。
トッティは、練習の後にH.N.に彼の試合着のユニフォームを渡し、問答無用で、自分の目の前で即、ユニフォームにサインする事をH.N.に指示したという。その時、H.N.のマネージャーは、幸い、トッティとH.N.のそばにはいなかったらしい。トッティは、サインのし方まで、H.N.に指示したそうだ。H.N.はキャプテンの指示に従い、背番号8番の上に、日本語、ひらがなで、まず、【その人さんへ】と書いて、次いで、伊語でも一言、書いた。この時、トッティがH.N.に、そのフレーズとスペルを教えたそうだ。そして、最後に背番号の下にH.N.が大きなサインを入れると、トッティはそれをコンティに渡し、コンティは俺のローマ人の友人に渡し、そのローマ人の友人から俺が昨晩、それを受け取り、今朝、お前のいるオフィスに出先から郵送した。こうして、この、「ミッション・インポッシブル」は完了した。
凄い話だろう?信じられないだろう?これが、全部、本当だと言ったら、お前は今晩、眠れないだろう?日本に戻っても、俺達の事を、忘れないでくれよな。」
ところが、その人は、実に罪深き男だった。この同僚の話を、実は、何一つ、信用していなかったのだ。当然ながら、送られてきたサイン入りユニフォームも、その人は、完全に偽物だと信じて疑っていなかったようだ。ローマにごまんといる、日本人観光客の誰かをつかまえて、適当に書かせたのだろうとしか思っていなかったらしい。その人は、この同僚とは、職場では固い友情で結ばれてはいたが、同僚の安請け合いに何度も騙された経験があり、同僚の方にも、それまでの言動に落ち度が全く無かった訳ではない事を、その人の名誉の為に、付け加えておく。ただ、その人は、黙って騙されたまま、日本に帰国する事で、手の込んだ芝居をうってくれた同僚への感謝の気持ちだけは残したかったようだ。
その人が、そのサイン入りユニフォームは、実は本物である事を知ったのは、日本に帰国してしばらくたった頃、都内のある有名なサッカーグッズ専門店内を徘徊中に、店の壁に飾ってあった立派な額の中にあった「中田英寿選手直筆サイン」と書かれた色紙を目にしたのがきっかけだったそうだ。そのサインの形をしばらく眺め続けて目に焼き付け、家に戻ってタンスの奥底にしまってあったASローマのユニフォームを、息を切らせながら広げてみると、カタチからマジックのはね方まで、店で眺めていた色紙のサインにそっくりのサインが、8番の背番号の下の方に書かれていたらしい。その人は、この時、しばらく、腰が抜けて立てなくなっていた、という説もある。
その人は、このサイン入りユニフォームを、これからもずっと大事にして、棺の中まで持って行かないと、きっと、地獄に落ちる事になるだろう。酷いことをしたものだ・笑。
posted by sinfonia |04:58 |
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2007年09月05日
最近、インテルからトリノにレンタル移籍したレコバが前節のセリエA・レッジーナ戦で変った背番号を着けていた。彼のようなFW(フォワード)の選手が「4番」、というのは、とても新鮮だ。サッカー選手達の歴史は、それぞれが背負ってきた背番号の歴史でもある。以下、今日はあいにく雨の休日なので、のんびりと、「私の背番号史」を書いてみる事にする。
私は小学校5年生の時に「13番」でデビューした。CF(センターフォワード)が着ける9番を誰かがアイロンで焦がしてしまい、その代わりに9番を縫い付けるスペアのユニフォームも無く、当時、背番号9番は我が小学校では「永久?欠番」になってしまっていた。隣の小学校との対抗戦で、「おーい、そこの13番、補欠かよ!」と、敵のサポーターから野次られて凹んでいた私を、ベンチから見ていたサッカークラブ顧問の先生に、「悔しかったら、後半、点を取れ!西ドイツの爆撃機、ゲルト・ミューラーは、13番だぞ!」と、ハーフタイムにハッパをかけられ、それで発奮したかどうかは定かではないが、試合終了直前に自ら決勝ゴールを決め、チームメイト達に祝福されながら、わざと敵のベンチの前を、涼しい顔でゆっくり歩いて戻った想い出がある、大切な背番号だ。赤い襟の黄色いユニフォームに赤いパンツだった。
中学に進むと、「7番」が待っていた。サッカー部でWG(ウィング)をやっていた先輩が夏休み中に脚を骨折し、中学最初の夏休みに、タナボタでまわって来たレギュラーポジション。炎天下での練習が終った後、他の一年生達とグラウンド整備に汗を流していた時に、キャプテンに呼び出され、「明日の△×中との練習試合、お前、○○の代わりに、出ろ。」と言い渡された時の、あの衝撃は、今でも忘れられない。しかし・・・年上の先輩達の中でやるのは、肩身が狭かった。試合中も、やたらと先輩達から指示や檄が飛んできて、「うるせえな!」と言い返したくても言えず、睨み返すのがやっとだった。すばしっこさを買われての抜擢だったと思うが、スタメンの中では身体が一番小さく、よく相手DF(ディフェンダー)に身体を当てられて吹っ飛ばされていたので、「お前、背番号が軽すぎるんじゃないか?」と、先輩達にひやかされた。この「7番」に、あまり良い想い出は無い。水色のユニフォームに黒いパンツだった。
中学後半から高校時代を欧州で過ごした私は、通っていた現地の高校のチームと、家の近所にあった教会の神父がコーチを勤めていたチームに二股をかけていた。
高校でのポジションは、主にMF(ミッドフィールダー)、でも、背番号はいつも「5番」だった。クラスメイトでもあったCB(センターバック)を拝み倒して、私に割り当てられていた8番と交換してもらった。もし、コーチに怒られたら、全部、私のせいにするというのが条件だったが、コーチからは何も言われなかった為、その瞬間から「5番」は、晴れて私のモノになった。この背番号は、当時、ASローマでプレーしていた、私の「神様」、パウロ・ロベルト・ファルカン、ファルカオの背番号だった。この高校に、サッカー部は存在しなかった。その代わりに、ユニークなサッカーチームの編成方法が校内で採用されていた。クラス単位で行われた体育の授業は、男子はサッカーのミニゲームになる事が多かった。そんな時、体育の先生とは別に、いつもコーチの姿がグラウンドにあった。彼は黙って、腕を組みながら、授業中の我々生徒達を見ているだけだったが、我々は、彼の前で良いところを見せようと必死だった。そして、試合の数日前になると、校内の掲示板に、全校男子生徒の中からコーチが選んだスタメン11人とリザーブ4人が発表され、試合前日まで、選手達は放課後にグラウンドに集まり、コーチから直接指導を受けた。掲示板に名前が載る事は名誉な事だったが、ポジションは、必ずしも我々の望み通りにはならなかった。試合ごとに違うポジションを任されていた、不運なチームメイトも中にはいた。黒い襟の真っ赤なユニフォームに黒いパンツだった。
神父がコーチを勤めていた近所のチームでは、トップ下を任され、背番号も「10番」をもらっていた。近所の友達に誘われて入ったこの教会のクラブチームは、カトリック教信者でも何でもない日本人の私を、何故か重宝してくれた。背番号「10番」は、やはり、サッカー小僧なら、誰でも一度は着けてみたいと願うだけの事はある、実に気分を良くしてくれる背番号だった。それに加えて、試合の時はキャプテンの腕章まで巻くはめになった。チームメイトからは、「うちのキャプテンは、将来、日本代表入り、間違い無し!ところで、日本に代表チーム、在るの?」と、良くロッカールームでひやかされたが、控えの選手達も合わせて、たまに起きた試合中の乱闘劇を除けば、最高にイイ奴らの集まりだった。キャプテンらしい仕事といえば・・・、試合中の小競り合いがエスカレートして理性を完全に失ったチームメイトを、審判から退場処分を受ける前に、相手から引き離す事ぐらいだったが。若い頃はプロのサッカー選手を目指していた時もあった神父が、黒い神父服に運動靴姿で、教会の裏にあるグラウンドに、時間になるとサッカーボールがたくさん入ったネットをかつぎながら登場する姿が印象的だった。白と黒の縦縞のユニフォームに黒いパンツだった。たまに試合で活躍した時、神父の私に対する褒め言葉は決まっていた。
「今日のお前は、少しだけ、ファルカオみたいだったな。」
高校を卒業して欧州から日本に戻り、一年間の予備校生活を送った後、大学に進学すると、体育会のサッカー部には入部せず、夜学に通う学生達がつくったサッカーサークルに混ぜてもらった。日中は働いている夜学生達の精神年齢の高さ、一人一人のバイタリティーに惹かれ、やっと日本でもサッカーを一緒に純粋に楽しめる仲間達に巡りあえたと思った。それに、夜、ライトに照らされた大学のグラウンドで、夏は涼みながら練習が出来るのも大きな魅力だった。当時、私は夕方から小学生達を相手に、寺子屋のような塾の講師をアルバイトでやっていた。ある日、その塾で、授業中に「先生は、塾が終ったら、いつも何をしているの?」と子供に聞かれ、「学校に戻って、サッカーの練習だよ。」と答えると、クラス中の子供達から「エェーッ!ウッソー!!こんなに遅くに?!」という、懐疑心たっぷりのリアクションを頂戴し、家に帰って夕飯を食べ、風呂に入り、学校に行く支度をしたら、後は顔を洗って寝るだけの健全な小学生達に、事情を説明するのに骨が折れた。そのサークルでは、私はMFを任されていた。背番号は「8番」。白いユニフォームに紺のパンツで、アウェー用は紺のユニフォームに白いパンツだった。胸には、チームメイトの一人が日中勤務していた飲食店のロゴが入っていた。
大学を卒業して社会人になると、新入社員の自己紹介が掲載された社内報に「サークル活動ですが、大学ではサッカーをやっていました。」という文章が載った事があだとなり、問答無用で即、会社のサッカー部に入部させられた。ポジションは、またWG。先輩からの「ウィングはやった事はあるか?」という質問に、コクリと一度、頷いただけで決まってしまった。大学生活終盤の不摂生がたたり、もう、この頃には、90分を走り切る体力は無かった。だが、チームメイトの先輩方の中には、私よりも、もっと走れそうに無いオジサマ達が何人かいたので、しかたなく、この汗かき役を引き受けた。背番号は「25番」。サッカー部が創立されてから、私が25人目の部員だった。白いユニフォームの胸に会社のロゴが入り、パンツは青。アウェー用はユニフォームもパンツも青。練習や試合の後、皆で一杯やりに行くのが楽しみだった。ちなみに、私は酒は一滴も飲めない。それでも、最高に楽しい先輩達の最高におかしな話の数々に、ウーロン茶を飲みながら、いつも腹を抱えていた。
会社勤めを始めてから6年が過ぎた1994年春、今度は会社の駐在員として再び欧州に舞い戻った。そこで一緒に働いた現地のスタッフとサッカーチームをつくり、ユニフォームの色も皆で意見を出し合って決めた。パンツ、ソックスまでワインレッド一色、胸にはやはり会社のロゴを入れた。私の背番号は「11番」。ポジションは、DFだろうが、MFだろうが、FWだろうが、30分以上、走らないですむところなら、どこでも良かった。それ以上は、もう、走れなかった。練習は貴重な体力を消耗するので行わず、30分ハーフの試合を月に一回ペースでこなすのが精一杯だった。私の背番号の記録は、この「11番」を最後に、今日まで更新されていない。
13→7→5→10→8→25→11。たくさんの想い出を、有難う。
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2007年08月23日
これまでのサッカー狂人生の中で、気をつけて来た事がある。特定の選手を崇めない事。特定の選手を自分の中で神格化してしまう事で、天と地の境界線をまたがない事。この境界線をまたいでしまうと、自分にせっかく備わっている、サッカーをじっくりと味わう為の感覚器官が、知らず知らずのうちに衰えてしまう。そして何よりも、その選手が実は神様ではない事を知った時に、癒す事が出来ない痛みに遭遇する事になる。まるで脚に羽が生えたように見える時もある、今が旬真っ只中のミランのカカーやマンUのクリスティアーノ・ロナルドでさえ、時が経てば、その羽が脚から抜け落ちる日が必ずやってくる。
でも、過去に一人だけ、崇めてしまった選手がいる。テレビで姿を見る度に、新聞や雑誌で彼に関する記事を読む度に、頭の中でひざまづいて、深々と祈りを捧げていた選手がいる。ペレ、ジーコ、マラドーナ・・・。「サッカーの神様」と人々から呼ばれた選手は過去に何人かいる。 きっと彼らも、誰かの「神様」になっていた事があるだろう。私の「神様」は、地上では、『パウロ・ロベルト・ファルカン』と名乗っていた。
1980年夏。イタリア人純血主義をしばらく貫いていたセリエAで、外国人助っ人を獲る事が解禁になった夏。ASローマにブラジルのフラメンゴからジーコが来るという噂が連日のようにイタリアのスポーツ紙を賑わせていた。ところが、ブラジルからローマにやって来たのはジーコではなく、ファルカンだった。あの時は、イタリア中が肩透かしを食らった気分になっていた。ブラジル、ポルト・アレグレのインテルナシオナルで数々の勲章を手に入れ、南米最優秀選手にも輝いたファルカンだったが、当時、イタリアでは彼の存在はあまり知られていなかった。
彼の名前をイタリア風に読むと「ファルカオ」と発音される。そのファルカオが「8代目ローマの王様」の称号を、気位の高いローマ市民から授かるまで、そう時間はかからなかった。この称号は、後にラッツィオで活躍したジュゼッペ・シニョーリ、現ASローマのキャプテン、フランチェスコ・トッティもローマのファン達から授かっているが、当時のファルカオのロマニスタ達からの崇められ方、特にオリンピコ・スタジアムの南クルヴァに陣取る熱狂的なULTRASロマニスタ達からの崇拝のされ方を考えると、シニョーリとトッティには気の毒だが、その称号はあっさり諦めて欲しいと思う。でも、ファルカオには、もう一つ、特別な称号が与えられていた。「il Divino(神々しい男)」。82-83年シーズン、ファルカオがASローマを41年ぶり2回目のスクデットに導いた頃に授かった称号だ。あれから四半世紀が過ぎた今でも、あの82-83年シーズンのASローマを、ロマニスタ達は「ファルカオのローマ」と呼び、彼らの大きな誇りになっている。日本では「ローマの鷹」という異名で紹介される事が多い彼だが、私の「聖書」には、彼がそのようにローマで呼ばれていたという記述はどこにも出てこない。
優秀なMF選手に備わっていなければならない要素を心・技・体に分けてチェックする数々の項目が、気が付いたら頭の中で全部、一つ残らず「100点満点」で埋まってしまっていた選手を、私は他に知らない。彼のASローマでのポジションは、一応、「MF」と世間では認識されていたが、「GK以外の全てのポジション」とした方が、恐らくより事実に即していただろう。そんなファルカオの比較の対象となるような選手は、私の内にも、外にも、どこにも存在しなかった。ピッチ上での絶対的&カリズマティックなその存在感は、当時の私にとって「奇跡」だった。そこまで行くと、私の中で行き着くところはただ一つ。ファルカオ=「神様」。そこしか、彼を置いてあげるところが無かった。強いて人間にこのファルカオを置き換えてみるとするならば、ブロンドの巻き毛をなびかせながら、顔をあげ、背筋をピンと伸ばし、膝を高く上げながら大きなストライドでピッチ上を縦横無尽に駆け巡る気高い彼の姿は、「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーの雄姿と重なるものがあった。
ファルカオは、ブラジル人独特のこぎみの良い足技を連発して、観衆を沸かすような選手ではなかった。その気になれば、いくらでも出来たはずなのに、彼はそれを「自分は水族館で演技をするアシカにはなりたくない」と拒んだ。でも、いざという時、ここぞという時に、彼の魔法の引き出しからは不可能を可能にする力と技能とインスピレーションが溢れ出ていた。それだけではなかった。彼は当時のブラジル人選手らしからぬフィジカル面での強さとスピード、そして強靭なスタミナをも兼ね備えていた。82年W杯スペイン大会で世界中をうっとりとさせた「黄金のカルテット」の中でも、彼が抜きん出ていたところだ。彼は、あの4人の中では、最もヨーロッパ的な選手だった。そこがまた、たまらなく良かった。
ファルカオの語りつくせない程の様々な超能力の中でも、私が最も首を傾げていたのは、ダイナミックなプレーの中で見せた、ボールタッチ一つ一つの超人的な柔らかさだった。
「ボールがガラスで出来ていても、彼の脚ならヒビ一つ入れずに扱えるのではないか。」
あるイタリア人の友人は、当時、私にこう言いながら同意を求めてきた。また、あるイタリア人のサッカー評論家は、もっとうまい事をテレビで言っていた。
「ファルカオのボールタッチは、まるで愛しい女性を両腕で包み込んで、優しく髪を撫でてあげているかのようだ。」
素晴らしくイタリア人的な例え方だった。
その「神様」が、人間になってしまった時。1984年5月30日。ファルカオ達の本拠地、ローマのオリンピコ・スタジアムで行われたASローマ対リヴァプール。欧州チャンピオンズカップ決勝戦。試合は1-1のスコアのまま延長戦でも決着がつかず、PK戦になった。この時、ファルカオはPKを蹴らなかった。ピッチ上でチームの指揮を執り、長い間、セリエAの中堅チームの座に甘んじていたASローマをスクデットを争えるチームに変身させ、欧州チャンピオンズカップ決勝戦にまで引っ張りあげた張本人が、何故、あの大事な場面でPKを蹴る事を拒んだのか。ASローマはそのPK戦を落とし、地元ローマでビッグイヤーを持ち上げる一世一代のチャンスを逃した。そして、あの晩、「神様」は、私の中で「神々しい男」をも飛び越えて2階級降格となり、私と同じ普通の人間になってしまった。あの時の痛みは、二度と体験したくない。
ちなみに、私はロマニスタではない。でも、ファルカオは私にとって、「神様」だった。余談だが、最近、私はファルカオと同じピッチの上に立ち、そこで一緒にプレーをした。夢の中で・笑。なかなかいい夢だった。
posted by sinfonia |05:48 |
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