2009年07月22日
先日18日の試合で中日の吉見一起投手との同姓対決に敗れた
横浜の吉見祐治投手でしたが、
この試合で吉見祐治投手がプロ通算50本目の安打を放ったそうです。
この投手の50安打というのが、どれほど価値のあるものなのかと思い調べてみたのですが
現役で50安打以上している投手は下記5人しかいないのですね。
選手名 実働年数 打数 安打 本塁打 打率
山本昌 24 1141 133 0 .117
三浦大輔 18 724 87 1 .120
石井一久 14 491 63 3 .128
石川雅規 8 358 63 0 .176
吉見祐治 9 206 50 0 .243
※記録は7月21日現在
吉見よりプロ入りの遅い石川の方が安打数が多いのですが、
石川がヤクルトの主戦投手として毎年コンスタントに投げているのに対して、
吉見は2年目に11勝したものの、以降は伸び悩み気味で
それほど投球回数も多くないことから打数では大幅に下回っています。
この吉見の打率.243というのは投手としては驚異的なハイアベレージであり、
現役投手中の最強打者と言っても過言ではないと思います。
では、現役という括りをはずして、
NPB史上の投手の最強打者というと、誰になるのでしょうか?
打撃が良いとされる投手の成績を調べてみると、こんな感じです。
選手名 実働年数 打数 安打 本塁打 打率
別所毅彦 17 1972 500 35 .254
金田正一 20 2054 406 38 .198
真田重蔵 12 1386 353 12 .255
梶本隆夫 20 1466 299 13 .204
米田哲也 22 1556 266 33 .171
桑田真澄 20 890 192 7 .216
堀内恒夫 18 1010 174 21 .172
ムーア 3 105 31 0 .295
投手の最多本塁打の記録を持つ金田正一は
「投手でありながら、チームの打撃練習の時間を独占していた」
「代打としてしばしば起用された」などのようにバッティングに関するエピソードも多く、
「投手の最強打者」と目されることも多いのですが、
それでも打率は2割を切っているのですね。
その金田を上回る安打数を残しているのが別所毅彦で500安打で打率は.254。
別所さんは戦前や戦後すぐの頃は投げない際には一塁や外野でも出場していました。
(金田さんは一塁を守ったことが1試合あるのみ)
しかし、この500という安打数はかなりものですよ。
わたしは「巨人70周年」「阪神70周年」といった周年もののカードを度々手掛け
各球団80名ぐらいのOBをカード化したのですが、通算500安打以上していると
たいてい、このメンバーの中に入ってくるんですね。
吉田孝司(476安打)緒方耕一(486安打)安藤統夫(457安打)
辻佳紀(486安打)木戸克彦(505安打)といった感じです。
そういう数字を投手である別所さんがクリアしているのですよ。さらに、別所さんは
44年と45年(22歳から23歳にかけて)は戦争の影響でプレーしていないのです。
打者に転向していれば2000本安打ぐらいは軽く行ったでしょうね。
真田重蔵さんは以前にも取り上げたことがありますが
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/100
規定打席に未達ながら3年連続で3割を打って現役最終年は野手登録となったほど。
梶本隆夫さんも登板しない日には一塁で出場することがあったとか。
こうして見ると、かなりバッテイングがよいとされる投手でも
2割の壁がなかなか越せないのですね。
2割半ばも打てば史上最強レベルの投手の強打者ということになるのでしょう。
吉見投手もそのレベルにあると思うのですが、「吉見はバッティングもいい」という
情報がファンにも伝わるよう、さらなる活躍を期待しています。
カードは「ホークス70周年記念カード」の別所昭(旧名)
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2008_hawks70/index.html
BBM横浜ベイスターズ2009の吉見祐治
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_baystars/index.html

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2009年07月17日
今年のライオンズカードの企画カード「背番号物語」を6回にわたって紹介してきましたが
中西太さん、稲尾和久さんの西鉄時代の永久欠番が球団譲渡にあたって失効してしまった
という件が気に掛かりました。これは現在の感覚からするとおかしな措置で
「今からでも遅くないから、中西さん、稲尾さんの永久欠番を復活させよう!」と
勢い込んだ原稿を書こうと思い立ったんですね。で、とりあえず、事実関係を確認しようと
当時の週刊ベースボールを当たってみたところ、意外な事実関係が分かってきました。
この西鉄の永久欠番の失効に関してウィキペデイィアには下記のような記述があり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E6%AC%A0%E7%95%AA
6-中西 太(三塁手) 1969年制定、1973年福岡野球株式会社への球団譲渡により失効
24-稲尾和久(投 手) 1972年制定、1973年福岡野球株式会社への球団譲渡により失効
この説が世間に流布しているのですが、どうもその認識は正しくないようなんですね。
中西は62年に選手兼任監督となってからも背番号「6」を背負い続けたのですが
黒い霧事件の影響もあって69年限りで監督を退任、同時に現役も引退となり、
以降72年まで、この番号は欠番となっていました。
そして、稲尾が69年限りで引退して(引退時点でまだ32歳!)中西の後任の監督となります。
で、稲尾も背番号は現役時代と同じ24番を背負い続けるのですが、
72年のオフに西鉄から福岡野球株式会社に球団が譲渡されることになり
同球団は心機一転を図って背番号を大幅に入れ替えます。
稲尾は「24」から「81」と監督らしい番号に変更され、「24」は欠番となります。
しかし、この時点で24番が永久欠番に認定されたわけではなく、
「球団としては24番を永久欠番にはしない。将来有望な選手が入団してきたら24番を
プレゼントしたい」との当時の球団首脳のコメントが載っていました。
※そして24番は76年入団の古賀正明が背負うことに。
通算38勝ながら12球団から勝利を挙げた悲運の投手、古賀正明
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/88
で、この際に中西の6番も復活するのですね。
6番の後継者は72年に初めて規定打席に到達した菊川昭二郎内野手。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/157
菊川は、栄光の6番を背負うのは恐れ多いし、お客さんからもヤジられると
この背番号変更を嫌がったのですが、「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と
この変更を盛んに薦めたのは稲尾監督その人だったのだそうです。
自分はてっきり、選手やファンの意向を無視して
球団サイドが強引に永久欠番を失効させたのかと思っていたのですが、
どうもそうではなかったようなんですね。
とにかく、西鉄末期の沈滞ムードを一掃して新生球団として出直そうという
気持ちの方が強かったらしいのです。
永久欠番にしても、それが確固とした制度として定着していたわけではなく
「偉大な先人に敬意を評して、なんとなく誰もつけないままになっていた」というのが
真相のような気がします。自分たちの時代の尺度を過去にあてはめるのは危険ですね。
実は以前にも下記のようなブログを書いたことがありました。
謎の新人王特例規定:蔭山和夫(南)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/41
蔭山和夫という選手が1年目の50年に大活躍していたにもかかわらず
それを上回る活躍をした選手がいたので新人王は落選。
しかし、翌51年も活躍したので2年目に新人王に輝いたということがあったのです。
やはりウィキペデイィアに「1951年に限り、1950年に入団した選手にも資格を与えた」と
特記事項が書かれているのですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%84%AA%E7%A7%80%E6%96%B0%E4%BA%BA_%28%E9%87%8E%E7%90%83%29
これも51年にそういう特例措置があったたというよりも
まだ新人王規定があいまいだったので(新人王ができたのはセ・パ分立の50年から)
こういう事態が起きてしまったというのが真相のような気がします。
ところで、明日から3連休の方も多いと思いますが、
下記のようなカードのイベントもあるそうなので、お近くの方はお出掛けください!
19日(日)「鎌スタ☆祭 '09」にBBMカードショー出店
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_event/index44.html
20日(月・祝)「BBM埼玉西武ライオンズ2009」先行販売
ベースボール・カードまつり in 西武ドーム
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_event/index50.html
カードは「BBMライオンズ・クラシックカードセット2008」の中西と稲尾
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2008_lions-classic/index.html

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2009年07月15日
ベースボール・マガジン社では2007年4月に浅尾美和を含むビーチバレーのカード、
同年末にオグシオを含むバトミントンのカードが発行されましたが
今月24日に今度はボウリングのカードが発売されることになりました。
2007BBMビーチバレーカードセット Move On!
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2007_beachvolley-moveon/index.html
バドミントン日本代表カードセット2008 Be ACTIVE
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2008_badminton-beactive/index.html
このセットにはBS日テレを中心に放映されているTVマッチ
「P☆LEAGUE」に出場している女子選手18名が収録されています。
http://www.p-league.jp/index.html
ボウリングカードというのはアメリカでも時々発行されていたのですが
ボウリングという競技の特性からか相当平均年齢が高く
ふつうのおじさんみたいな人がカードになっていて
初めて見た際にはけっこう驚いたものでした。
RITTENHOUSEというメーカーが発行した2007年版のカード
(全米プロボウリング協会公認)が日本でも流通していたようなので
今でも探せば入手できるかもしれません。
日本版のカードとしてはボウリング場大手のラウンドワンが2006年から発行している
日本プロボウリング協会公認の「プロボウラーズカード」があります。
http://www.round1.co.jp/probowlerscard/2009/index.html
しかし、これはラウンドワンのボウリング場でプレーして初めて1~3枚がもらえる
という仕組みなので、おそろしくコンプリートが難しいカードとなっています。
(2009年版は全276種類)撮りおろしのクオリティーの高い写真を使った労作だけに
これはもっと広く知ってもらいたいカードシリーズですね。
話は「P☆LEAGUEカードセット」に戻りまして、このセットは1選手について
「投球シーン」と「ポーズカット」の2種類があってレギュラーカードは36種類。
プラスしてスペシャルカードが2枚(「直筆サインカード」か「箔サインカード」か
「フォトカード」)入って計38枚入りで3,990円(税込)。3,000セット限定で
直筆サインカードは合計2,700枚が投入されているので、かなり高確率で出現しそうですね。
7月27日には神保町の書泉ブックマートでサイン会も予定されているので
お時間ある方は参加されてみてはいかがでしょうか。
■P☆LEAGUEカードセット発売記念サイン会 酒井美佳選手&浅田梨奈選手
【日時】7月27日(月)19:00開始
【場所】書泉ブックマート隣 神田近江屋ビル2F
【受注期間】7月15日(水)~7月27日(月)
書泉ブックマート B1Fにて受付
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-21-6 電話03-3294-0011
【参加条件】書泉ブックマートにて『P☆LEAGUE カードセット』(3,990円税込)を
1セットお買い求め(ご予約)のお客様(先着200セット)に酒井美佳選手・浅田梨奈選手、
両選手から大判フォト(253×203mm BBM刻印入り)へサインをしていただきます。
また、選手との握手や、カメラをご持参のお客様は両選手との3ショット撮影などもできます。
※サインしていただく対象は当日弊社よりご用意させていただく大判フォトに限ります。
※選手との3ショットおよび2ショットは一人一回とさせていただきます。
カード(上)が酒井美佳選手、(下)が浅田梨奈選手

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2009年07月10日
ライオンズ背番号物語の6回目、最終回は背番号「41」の歴代選手を紹介します。
この番号は渡辺久信監督の現役時代の番号という印象が強いのですが、
どんな選手がいたのでしょうか?
ライオンズ歴代背番号「41」
1953 窪田幸則
1954 長坂 衛
1955 島田 一
1957~64、66~68 浦田直治
1969 鈴木五朗
1970~72 ポインター
1973 乗替寿好
1974 中川信秀
1975~78 松岡高信
1979 柴田保光
1980~81 大石友好
1982~83 小林誠二
1984~97 渡辺久信
1998~2005 鳥谷部健一
2006 後藤光貴
2007~ 木村文和
ライオンズに初めて背番号「41」の選手が登場するのは53年のこと。
なにしろ球団創設当初は30名そこそこしか監督・選手がいなかったので
「41」という大きな背番号は必要なかったのです。
初代の窪田幸則はシーズン途中に南海から移籍してきた外野手でしたが
一軍での出場がないままにこの年限りで退団。
2代目は長坂衛は実働4年で1勝のみ。
背番号「41」は1年のみで2年目からは「17」に昇格。
前所属が「明治座」というのが驚きます。
3代目の島田一投手は一軍での出場がないまま1年目の途中で退団。
4代目の浦田直治になって、初めて知った名前に出会います。
といっても選手としての実績ではなく西武球団のスカウトとしてスポーツ紙誌等で
その名前をよく見ていたからなんですけどね。
現役時代のポジションは捕手で実働8年で16安打。
背番号「41」をつけていた期間が1957~64、66~68と2期に分かれていますが
これは64年限りで一旦は引退して66年に復帰しているんですね。
続く背番号「41」は鈴木五朗。鈴木一朗(イチロー)と1字違いですが、
入団当初は背番号「51」(!)で56番を経て「41」に。実働6年で82安打でした。
6代目は外国人選手のポインター。
歌手のポインター・シスターズの兄ということでも知られた選手で
来日1年目は4番に座って22本塁打を放ちますが、
2年目、3年目は出場機会も減り、72年限りで退団。
続く乗替寿好は珍名ですね。「のりかえ・ひさよし」と読みます。
福井県の若狭高出身の投手で、1学年上の川藤幸三(元阪神)とともに甲子園に出場。
69年にドラフト2位で入団したものの、背番号は1年目から「17」「34」「41」と
どんどん大きくなって、未勝利のまま広島にトレード。
この際の交換相手は、後年、変則左腕で活躍する永射保だったのですよ!
乗替氏は地元のクラブチーム、福井ミリオンドリームズのコーチをされているそうです。
8代目の中川信秀は内野手で、大分の津久見高で甲子園に出場し、
ホームランも記録しますが、プロでは一軍未出場で退団。
9代目の松岡高信投手(大阪学院大)も一軍未出場。
10代目の柴田保光は江夏豊とのトレードで日本ハムに移籍してから開花します。
西武では在籍5年で8勝。
背番号「41」は1年目のみで、2年目からは「12」に昇格しました。
11代目の大石友好捕手も背番号「41」は最初の2年だけで3年目から「9」に昇格して
西武球団の初優勝に貢献しますが、伊東勤の成長もあり、85年に中日へトレード。
田尾安志←→杉本正・大石友好というトレードでしたね。大石は中日でも優勝を経験します。
12代目の小林誠二は在籍年数こそ2年と短かったものの印象的な働きを見せてくれました。
82年の初優勝の際の胴上げ投手で、日本シリーズでも2勝。
84年には広島に復帰して日本シリーズでも1勝を挙げ
セ・パ両リーグのチームで日本シリーズの勝ち投手となりました(史上初)。
そして迎えた13代目が84年のドラフト1位投手の渡辺久信。
おそらく、41番の渡辺久信も、同時期に活躍した47番の工藤公康も早い段階で
球団からもっと若い番号にしないか? と提案されたと思うのですが
2人とも西武時代はこの番号で通しましたね。
工藤の47番などは現在では左腕投手が憧れる番号となったのですから素晴らしい。
続く鳥谷部健一は渡辺久信を上回る190cmの巨漢右腕で
「ナベQ2世」と期待されましたが10試合2勝1敗のみで05年オフに自由契約に。
06年は巨人から復帰した後藤光貴が41番を背負いますが一軍登板がないまま引退。
07年からは高校生ドラフト1巡目の木村文和が背番号「41」をつけ、
やはり「ナベQ2世」の期待を背負って二軍で盛んに起用されています。
今後もこの番号をつけた若手投手はもれなく「ナベQ2世」と呼ばれることでしょう。
渡辺監督の実績を上回る投手が出現しない限りは…。
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_lions/index.html

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2009年07月09日
ライオンズ背番号物語の5回目は背番号「16」。
ライオンズ歴代背番号「16」
1950 北川桂太郎
1950 今久留主淳
1951~57 大津 守
1958~59 佐藤好夫
1960~65 安藤敏雄
1966~67 浜村健史
1968 柳田俊郎
1969 羽里 功
1970~74 三輪 悟
1975~76 松林 茂
1977~78 竹田和史
1979~89 松沼雅之
1990~2004 潮崎哲也
2005~08 涌井秀章
2009~ 石井一久
※1950年のみ球団名は西鉄クリッパーズ
初代の背番号「16」の北川桂太郎投手(島田商)は46年にプロ入りしますが
セネタース(46)-東急(47)-急映(48)-東急(49)-西鉄(50)-毎日(50途)と
所属する球団が毎年異なる(ただしセネタース・東急・急映は同一球団)慌しさ。
しかも50年はシーズン途中に毎日に移籍。
トレードまでに6試合1勝3敗という成績でしたが、
交換相手が今久留主淳・小田野柏という両ベテランなのはちょっと不釣合いですね。
ところでこの北川投手は51年限りで毎日を退団して社会人の大昭和製紙入り。
56年になって高橋球団に今度は内野手として復帰するという不思議なキャリアを描きます。
2代目の今久留主淳は32歳になる50年に別府・星野組から毎日入り。
ご存知のように初期の毎日は西本幸雄、荒巻淳ら、
別府・星野組からの転進者が多かったのですが、
そんなオリジナルメンバーをシーズン途中でトレードに出すというのは不可解ですね。
今久留主が九州に帰りたかったのでしょうか?
今久留主は中西太が入るまでは三塁、その後は二塁を守って56年限りで引退。
彼は最初のシーズンのみ、背番号「16」をつけますが
やはり野手らしくないと思ったのか翌年からは背番号を「1」に変更します。
今久留主というのは珍しい名前ですが、桑田真澄・清原和博らとともにPL学園で戦い、
のちに大洋入りする今久留主成幸はこの今久留主氏の親戚に当たるそうですね。
そして、西鉄球団2年目に背番号「16」を背負ったのが大津守。
大津は51年に21勝を挙げるなど活躍した投手ですが、
元々は社会人の西日本鉄道からの転進組。
初年度は背番号「20」だったのですが、2年目は西鉄クリッパーズと西日本パイレーツの
合併の余波か背番号「16」に変更。しかし、大津は56、57年と未勝利だと自由契約になり、
近鉄に移籍。弱かった近鉄で奮闘し58年10勝22敗(最多敗)、59年11勝20敗と連続20敗。
続く背番号「16」は東北高出身の佐藤好夫。在籍2年で無安打で退団。
佐藤は外野手兼投手だったようですが、投手では1試合の登板のみでした。
次の安藤敏雄は芦屋高出身の投手でしたが在籍6年で1勝のみ。
6代目の浜村健史は西鉄最初のドラフト1位。
浜村は高知商出身の内野手ですが、同校同期の江本孟紀も
このドラフトで西鉄から4位指名を受けたものの「4番でエースの自分の評価が
3番の浜村より低いのは納得がいかない」と指名を拒否したと著書で書かれていますね。
浜村は2年目からショートに起用されるようになり、68年からは背番号「7」に昇格。
同選手はその後、巨人に移籍しますが事故で小指を失い
(車のドアに挟んだと記憶しています)72年限りで引退も
76年になって突如、太平洋クラブライオンズに復帰して話題となりました。
次に背番号「16」を継承したのが後に巨人で「史上最強の5番打者」と称され活躍した
柳田俊郎。柳田の1年目の背番号は「77」というコーチのような番号だったのですが
高卒2年目に「16」に昇格。しかし、柳田はこの年のオフに巨人にトレード。
高卒2年目にトレードというのはちょっと不思議ですね。
交換相手は元西鉄の田中久寿男でした。
続く羽里功投手は広島からの移籍でしたが未勝利のまま1年で退団。
次の三輪悟投手は70年ドラフト2位の入団で同年は河原明、東尾修などとともに
投げまくり7勝14敗の成績を挙げオールスターにも選ばれ(西鉄から唯一の出場)ますが
74年オフに広島へトレード(三輪悟投手・米山哲也内野手←→西沢正次捕手・松林茂投手)。
75年のカープの初優勝時には中継ぎ投手として活躍したことをご記憶の方も多いのでは。
引退後もマネージャーや球団広報として広島球団に長く務められていました。
その三輪とのトレードでやってきた松林茂が背番号「16」を継承し
2年間で40試合3勝2敗の成績を挙げますが、76年のオフに今度は中日にトレード。
このトレードは当初は基満男←→藤波行雄・竹田和史というものだったのですが
藤波がトレードを拒否して松林と竹田の1対1のトレードとなりました。
こうして背番号16を受け継いだ竹田は2年間で52試合2勝7敗の成績を残して
78年オフに再び阪神にトレード。これは史上に名高い真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・
竹田和史←→田淵幸一・古沢憲司というトレードでした。
そして西武球団となった79年から16番を背負ったのが松沼雅之。
ライオンズの背番号「16」の選手は大津守以降
なかなか成功選手を出せていませんでしたが
西武球団となって以降は16番は外れのない状況となっています。不思議なものですね。
松沼雅之は東都大学歴代2位の39勝を挙げた評判の投手で
この年のドラフトの目玉選手だったのですが、巨人との激しい争奪戦を制した西武が
実兄の松沼博久とセットでドラフト外で獲得して世間をあっと言わせました。
5年連続2ケタ勝利で通算69勝と活躍。
続いて16番を継承したのが90年のドラフト1位、潮崎哲也。
この年のドラフトは野茂英雄に8球団が集中した年でしたが、
西武は松下電器の潮崎を単独指名。潮崎も期待に応えて健闘。
魔球と呼ばれたシンカーを駆使して常勝・西武のセットアッパーとして活躍しました。
そして、現役の涌井秀章。
正直、当初「高卒1年目の投手に16番? まだまだ時間かかるだろうに」と懐疑的で、
こんなに早くエース級の投手になるとは思ってもみませんでした。
そして、涌井は今季から横浜高の先輩・松坂大輔の背番号「18」を引継ぎ
昨年、FA移籍してきた石井一久が待望の背番号「16」をつけることに。
今後も、この番号が外れのないまま続いていくのでしょうかね?
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_lions/index.html

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2009年07月08日
ライオンズ背番号物語の4回目は背番号「14」。
この背番号「14」はつけた歴代選手も多く、これまた波乱を感じさせますね。
ライオンズ歴代背番号「14」
1950 山口幹雄
1951~52 野本喜一郎
1955 太田正男
1956~58 三竿 徹
1959 阿部八郎
1960~65 安部和春
1966~67 本間 勝
1968 藤本和宏
1969 徳久利明
1969~70 秋葉敬三
1971~72 高橋 明
1974~75 高橋二三男
1976~81 五月女豊
1982 木村 広
1983~86 野口裕美
1988 森 博幸
1990~91 村岡耕一
1992~93 中尾孝義
1994~2001 石井 貴
2003~ 小野寺力
※1950年のみ球団名は西鉄クリッパーズ
初代の山口幹雄(長崎工)は2年の在籍で未勝利。
2代目の野本喜一郎の名前に反応するのは、
もうかなりのオールド野球ファンということになりますかね?
埼玉の上尾高、浦和学院の監督を長きにわたって務めた高校野球の名伯楽で
山崎裕之(ロッテ・西武)、会田照夫(ヤクルト)、仁村徹(中日・ロッテ)、
鈴木健(西武・ヤクルト)らが教え子になります。
今や甲子園の常連となった浦和学院が初めて甲子園に出場した
86年夏の開会式当日にお亡くなりになったのも劇的でした。
プロ経験があるというのは知っていましたが、28歳になる50年に西日本パイレーツ入り。
エースの緒方俊明(同年20勝13敗。52年のシーズン当初に大下弘とのトレードで
深見安博とともに東急に移籍した話は先のブログにも書きました)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/153
に次ぐ11勝19敗。51年に西日本が西鉄に合併して以降は出場機会が減じ
近鉄に移籍した53年限りで引退。で、野本さんがすごいのは引退してから
東洋大に進学したこと。引退時点で31歳ですよ!
こんな例は半世紀たった現在でも珍しいのではないでしょうか。
野本さんと東洋大の縁から上尾高、浦和学院から東洋大に進む選手も多かったのですね。
3代目の太田正男(長崎商)は西鉄では勝ち星を挙げられませんでしたが
大映・大毎で通算16勝31敗。57年に60試合に登板して6勝20敗というのは何事でしょうか?
4代目の三竿徹(倉敷工)は珍名ですね。「みさお」と読むそうなのですが
ポジションは外野で、実働4年で6安打のみ。
続く阿部八郎(石川中←現在の学法石川!)は阪急で通算86勝と
実績のある投手でしたが西鉄では未勝利のまま引退。
ここまで成功選手がなかなか登場しませんが、次の安部和春は63年に10勝、64年に11勝し
63年の西鉄最後の優勝にも貢献します。独特の変化球は「アベボール」とも呼ばれました。
その安部は65年オフに阪神にトレードされ、その交換相手・本間勝が14番を背負います。
この本間は60年には13勝もした投手だったのですが西鉄では未勝利のまま引退。
この本間さんは引退後のキャリアがふるっていて、引退後に新聞記者となって
82年に球団広報として阪神に復帰、02年に退職後は日刊スポーツにも寄稿されています。
http://blog.nikkansports.com/baseball/professional/honma/top-honma.html
で、次の14番は藤本和宏。3年在籍で未勝利のまま自由契約となり広島に移籍。
71年にノーヒットノーランを達成し、10勝を挙げ防御率1位にもなりますが、
活躍はこの1年だけで通算でも10勝のみという珍しいほどの典型的な一発屋で終わります。
次の徳久利明も有名な投手ですよね。高知商を出た61年に近鉄で15勝24敗で新人王。
西鉄では未勝利のままそのまま引退となります。
この年、27歳という若さでしたが大変な酒豪だったそうなので、
この若さにして、もう既に衰えがきていたのでしょうか。
続く秋葉敬三は徳久と時期がダブっていますがシーズン途中の入団。
おそらく、この時期に多かった夏の都市対抗が終わってからの入団だったのでしょう。
早々に現役に見切りをつけた徳久が背番号「14」を譲った形でしょうが
その秋葉も在籍5年で未勝利で退団。
71年に巨人から移籍してきたのが高橋明。巨人で2ケタ勝利3度という実績のある投手。
高橋明・田中章・梅田邦三←→浜村健史・広野功というトレードだったのですが
黒い霧事件の影響で投手不足に苦しむ西鉄に対する温情トレードだったと
当時は評されていたそうです。高橋は期待に応えて移籍した71年に14勝を挙げますが
翌年は1勝のみで引退。また、同時期に同姓同名の高橋明外野手がいたため、
若い方の高橋外野手が「高橋外」と表示されたというエピソードも有名ですね。
その後2年空いてドラフト1位で新日鉄広畑から高橋二三男外野手が入団。
1年目に91安打とさっそく活躍しますが、73年は一旦名鑑から名前が消え、
75年に復帰します。これは確かアメリカに野球留学に行っていたのだと思います。
しかし、そうまでして育成した高橋も75年に6安打のみだと自由契約。
高橋はロッテに転じますが、1年目を上回る活躍はできませんでした。
そして、翌76年に背番号「14」をつけたのが阪神から移籍の五月女豊。
交換相手は捕手の片岡新之助でした。
五月女はそのステキな名前とはうらはらにかなりの巨漢投手で、
もくもくと敗戦処理を務めていたイメージがありますね。
しかし、阪神もドラフト1位投手をたった3年で放出するとは…。
五月女は太平洋・クラウン・西武と5年間で8勝8敗。
82年からは大洋に移籍します。
続く木村広は76年の入団で背番号が「38」「52」「14」「37」と
めまぐるしく変わった選手でしたが、8年間の在籍で3勝のみ。
83年のオフにあの江夏豊の交換相手として柴田保光とともに日本ハムに移籍。
その木村の背番号「14」を奪っていったのが83年のドラフト1位投手、野口裕美。
米子東高時代から評判だった速球派投手で立大に進んで通算27勝28敗の成績を残し
82年秋のドラフトの目玉選手で阪急・中日・西武が競合した末に西武入り。
しかし、このサウスポーは在籍6年で未勝利のまま引退となります。
最後の2年は背番号も「58」に降格。
ドラフト上手と評されるライオンズにしては珍しい失敗例とされますが
複数球団が競合するような素材はたいてい成功するんですけどねえ~。
そして1年あいて88年には常勝・西武時代に代打で活躍した森博幸が背負います。
森は入団1年目の87年が背番号「75」で88年に「14」、翌年は「62」に降格して
90年に「20」になってようやく落ち着いたのですね。
その間に背番号「14」を襲っていたのは大洋から移籍の村岡耕一。
駒崎幸一・青山道雄・秋元宏作←→村岡耕一・河野誉彦というけっこうな大型トレードで
やってきた村岡でしたが、西武では数字を残せず2年で退団。
続く14番は中尾孝義。中日時代にMVPを獲得する活躍を見せた中尾でしたが
巨人を経て92年途中に大久保博元とのトレードで西武入り。
巨人入りしたデーブ大久保がブレイクする一方で、中尾は数字を残せず2年で引退。
しかし、ここまでライオンズの背番号「14」は流転を繰り返しましたね。
そこそこの有名選手もいるのに、ここまでは6年間背負った安部和春が最長ですからね。
43年間で18人ですから1人平均2~3年ですよ。
そして、この流転する背番号「14」にストップをかけたのが石井貴だったのですが
01年に5勝に終わると、気分転換もあったのでしょうか、
背番号を唐突に21番に変更します。結局、石井の背番号「14」も8年で終了。
つづいて1年空いて、03年からは現役の小野寺力。
しかし、この14番はちょくちょく1年空いたり、2年空いたりするんですよね。
けっこう若いいい番号なのになんででしょうか?
また、小野寺はこの背番号で7シーズン目ですから早くも歴代2位の長さですよ!
巨人では沢村栄治の番号として永久欠番になっているぐらいの番号なんですから
大事にしてもらいたいものです。
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2009_lions/index.html

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2009年07月07日
ライオンズ背番号物語の3回目は背番号「11」。
ライオンズはご存知の通り60年代半ば以降、かなり波乱万丈なことになるのですが
この背番号「11」の歴代選手からもその波乱の歴史が垣間見れます。
ライオンズ歴代背番号「11」
1950 川口敬次郎
1951~52 伴 勇資
1953~55 松井 清
1956~59 久保山誠
1960~67 井上善夫
1968~69 吉田勝豊
1970~71 中井悦男
1972~75 加藤 初
1976~78 玉井信博
1979~88 森 繁和
1989~97 石井丈裕
1998~2002 安藤正則
2003~2005 森 慎二
2007~ 岸 孝之
※1950年のみ球団名は西鉄クリッパーズ
初代背番号「11」の川口敬次郎(熊本工)は社会人の西日本鉄道からの転進組。
1年のみの所属で0勝3敗。翌年には阪急に去ります。
川口の前所属が中島飛行機製作所というのが時代を感じさせますね。
2代目の伴勇資(福岡工-早大)も西日本鉄道からの転進。
ポジションは捕手で在籍3年で37安打。後に国士舘大の監督も務めたそうです。
3代目の松井清は高松一高で中西太の1年後輩。
ポジションは捕手でしたが、在籍2年9安打のみで退団。
この時期のプロ野球はまだスカウト網が発達しておらず、
三原脩監督の郷里で地縁がある香川から入団する選手が多かったようです。
続く久保山誠(鳥栖工)も捕手で、在籍6年29安打で阪急に去ります。
ここまでなかなか成功選手が生まれていなかったライオンズの背番号「11」ですが
次の井上善夫が初めての成功例と言えるのではないでしょうか。
井上は東京の日大二高の出身で甲子園でも活躍。当時としては大型の180cmの長身で
64年にはノーヒットノーランも達成して17勝。在籍8年で46勝を挙げますが
67年オフに吉田勝豊・益田昭雄との交換トレードで巨人に移籍。
井上さんは広島を経て引退後、東京・恵比寿で飲食店を経営されており、
オールドファンに人気のお店となっているようです。
続いて11番をつけたのは、その井上との交換で移籍してきた吉田勝豊。
東映フライヤーズで活躍後、5番打者を探していた巨人に移籍しますが出場機会が減じ、
佐賀・武雄出身ということもあって、最後は西鉄に移籍してきたのでしょうか。
しかし、復活はならず69年限りで引退。
次の中井悦男は阪神からの移籍。大鉄高-関大と進み、63年にはウエスタンで
最優秀防御率・最多勝・最高勝率の投手3冠王に輝きますが、
その後、交通事故にあって低迷。西鉄では在籍3年4勝3敗で引退。
続く加藤初はプロ19年で西鉄・太平洋が4年、巨人に移籍して15年というキャリアなので
現在では巨人のイメージが強いのかもしれませんが、キャリアのスタートは西鉄でした。
西鉄最後の年に大昭和製紙吉原からドラフト外で入団したのですが、
その際には後に所属することになる巨人からも誘われていたそうなんですね。
しかし、出場機会を求めて西鉄入りし、見事17勝を挙げて新人王に輝きます。
東尾修とともにライオンズの2枚看板となった加藤でしたが
75年オフにトレードで巨人に転じます。
加藤初・伊原春樹←→関本四十四・玉井信博というトレードだったのですが
移籍した加藤がノーヒットノーランを達成したり通算141勝を挙げるなど活躍したのに対し
関本・玉井がほとんど戦力とならなかったため、
今もこのトレードを残念がるオールド・ライオンズファンが多いです。
次いで背番号「11」を背負ったのが加藤の交換相手の玉井信博。
玉井は松山商-東洋大-三協精機という球暦で
73年にイースタンの最多勝投手となって頭角を現し
一軍でも74年に6勝、75年に3勝していた中堅投手でした。
移籍した76年には規定投球回数を超えるほど投げますが3勝13敗。
ライオンズでは実働3年で4勝のみ。
引退後は打撃投手に転向し、現在もスコアラーとしてチームに残られています。
続く森繁和は西武初年度のドラフト1位。
西武球団の初優勝にも貢献して通算57勝62敗82Sという成績を残します。
次の石井丈裕も92年にレギュラーシーズン、日本シリーズともにMVPと活躍。
早実時代はあの荒木大輔の2番手投手だったのですが、法大-プリンスホテルを経て西武入り。
通算68勝と荒木の通算勝ち星を上回ります。
12代目の背番号「11」、安藤正則は98年のドラフト1位投手でしたが
在籍5年で一軍未出場のまま退団します。西武のドラフト上位指名では珍しい失敗例ですね。
専大松戸時代から有名な投手だったそうですが、高卒時には「野球を辞める」と
宣言してプロを拒否、その後、一般推薦で専大に進んで野球部入りしたそうなのですが…。
続く13代目は森慎二。入団時の背番号「19」から03年になって背番号を変更したその意味は?
06年にメジャーに転じたものの故障で以降の登板はなく、
今年からBCリーグ・石川ミリオンスターズの選手兼任コーチとなりましたが
いまだ登板はないようです。ビッグカムバックを期待しています。
そして、現在の背番号「11」を背負うのは岸孝之。岸投手は07年希望枠での入団ですが、
この背番号はこのところドラフト上位の選手がつけることが多いですね。
そして、岸もまた涌井秀章とエースを争うほどになっているので、
今後もこういう傾向が続きそうです。しかし、岸投手は背番号「11」が似合います。
それがプロ野球選手として良いことなのか、悪いことなのかは判然としませんが、
「11」という数字の並びで同投手の細い身体がいっそう細く見えるんですよね。
「岸と言えば11番」そんな一世を風靡するような背番号になる予感がしています。
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
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2009年07月06日
ライオンズの背番号物語の2回目は背番号「6」。
この番号は“怪童”中西太の背番号というイメージが強烈ですね。
■ライオンズ歴代背番号「6」
1950~51 上野義秋
1952~69 中西 太
1973~74 菊川昭二郎
1975~76 白 仁天
1977~84 鈴木葉留彦(治彦)
1986 安部 理
1987~99 田辺徳雄
2001~02 原井和也
2003~ 後藤武敏
※1950年のみ球団名は西鉄クリッパーズ
ライオンズの初代背番号「6」は福岡工出身の上野義秋。
戦前の40年の1年のみ金鯱に所属していましたが、その後、社会人の西日本鉄道入り。
同社がプロ球団を持つことになり上野も30歳となる50年にプロに復帰します。
1年目は102試合に出場したものの、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併した
51年にはわずか1試合のみの出場で翌年、広島に去ります。
そして2代目が高松一高出身の中西太。説明不要の“怪童”
中西は62年から選手兼任監督となりますが、背番号は最後まで6番で通します。
69年限りで退団後は、この6番は永久欠番になっていたのですが
72年限りで西鉄が経営権を手放し、この永久欠番も失効することに…。
この栄光の番号を継いだのは長崎・鎮西高出身の菊川昭二郎。
近鉄から移籍してきた選手で、前年72年には正遊撃手として起用され、
初めて規定打席に到達して打率.276(リーグ17位)、
105安打6本塁打という成績を残したホープ(73年で28歳)でした。
しかし、太平洋初年の73年こそ打率.264(リーグ19位)、112安打2本塁打と
レギュラーを務めたものの、翌74年には出場機会が激減して
同年オフにロッテにトレードされます(交換相手は76年の首位打者・吉岡悟!)。
そして、翌年は日本ハムからトレード(交換相手は東田正義)
されてきた白仁天が背負います。白にしろ東田にしろ、両チームの看板選手だったのですが
この時期、東映が日拓を経て日本ハムに、西鉄は太平洋、クラウンと身売りが相次ぎ
チームカラーの変更を狙って大胆なトレードが横行します。
白は移籍してきた75年に首位打者に輝きますが、わずか2年でロッテに再びトレード…。
これは安木祥二・白仁天←→長谷川一夫・倉持明という交換トレードだったのですが
倉持は79年に再度トレードでロッテに復帰してから実力が開花して人気者となります。
この復帰トレードは古賀正明・倉持明←→成重春生・山崎裕之という内容だったのです!
そして77年から背番号「6」を背負ったのが鈴木葉留彦。
74年のドラフト3位で、この年の2位が楠城徹。
2人は早大の同級生で、当時経営が危うくなっていたライオンズに
東京六大学のスター選手が加入ということで話題となりました。
楠城は地元の名門・小倉高の出身でもあったので人気がありました。
74年に鳴り物入りで来日したフランク・ハワードがこの楠城と鈴木を両脇に抱えるようにして
いるカードの写真が有名ですね。ハワードがすごく大きくて両選手が子供みたいなんですよ。
鈴木は入団当初、背番号「5」だったのですが、翌年、元南海・広島の国貞泰汎が入団すると
5番を譲って51番に降格(鈴木の1年目は1安打のみ)。76年に97安打で規定打席未満ながら
3割を打って77年から再び1ケタ番号の「6」を背負います。
結局、鈴木も楠城も選手としてはそれほど数字を残すことはできなかったのですが
引退後はスカウトとして活躍、鈴木は現在も西武の編成部に、楠城は楽天の編成部に在籍し、
息子の楠城祐介も小倉高-青学大-パナソニックを経て今季楽天入りしています。
続いて6番を継いだのは常勝・西武時代に代打で活躍した安部理。
しかし、安部はこの年、一軍未出場で背番号「6」は田辺徳雄のもとに渡ります。
田辺は米国留学が長く、実績のほとんどない選手だったのですが
この抜擢に応え、石毛宏典を三塁に追いやって見事、正遊撃手となります。
西武のこういう抜擢人事は見事ですね。
後年も実績のない中島裕之に背番号「3」を与えて売り出し、それが見事成功しました。
この話は中島が背番号「3」となった04年の早い段階で
週刊ベースボールのコラムにも書いた覚えがあります。
そして、その田辺が巨人に移籍後はユーティリティープレーヤーの原井和也が2年間、
6番を背負い、03年ドラフト自由枠の後藤武敏に渡ります。
後藤は言わずと知れた松坂大輔とともに横浜高で春夏連覇を飾った主砲で、
東京六大学で三冠王を獲得した期待の大砲。
背番号「6」も怪童の再来を期待されてのものだと思いますが、
今季は故障もあって二軍でも出場機会が限られています。大成を期待して止みません。
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
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2009年07月03日
埼玉西武ラインオンズのチームカードが今月下旬に発売されますが
今回からは、その中の企画カード「背番号物語」を紹介したいと思います。
カード表面で同じ背番号を背負った現役選手とOB選手を対比させ
裏面では、その背番号を背負った歴代選手の一覧を掲載しています。
前回、横浜ベイスターズのカードでも同企画のカードを作り、
それに関するブログを141回から146回までで取り上げておりますので、
よろしかったらそちらもご覧ください。
さて、ライオンズ歴代の背番号「4」の選手はこんな感じ。
■ライオンズ歴代背番号「4」
1950 林 幹雄
1958~59 平塚 宝
1963~67 ロイ
1968~78 基 満男
1979 マルーフ
1980 大北敏博
1982~86 片平晋作
1987~97 笘篠誠治
1998 ラービー
1999 シアンフロッコ
2000~08 高木浩之
2009~ 清水崇行
※1950年のみ球団名は西鉄クリッパーズ
やはり、「4」は日本では基本的に忌避番号なので外国人選手や移籍選手が目立ちます。
初代の林幹雄(熊本高)は一軍試合出場のないまま1年で退団。
その後7年、空き番号で2代目の平塚宝(久留米商)も一軍で6安打のみ。
そして、63年に来日したロイは四番に入って活躍。同年の西鉄最後の優勝の立役者となります。
ロイは5年間で108本塁打を放って68年に近鉄に移籍。
この4番を継いだのが67年入団の基満男。
長くセカンドのレギュラーを務め、在籍12シーズン中100安打以上したシーズンが8回、
ライオンズでの通算1255安打は球団歴代9位でオールスターにも5回出場
(移籍後にも1回出場)した低迷期を支えた中心選手でした。
この時期、どこのチームも背番号「4」は外国人選手がつけていることが多く、
日本人の中心選手が4番を背負っていたのは珍しかったのですが、
守備番号の「4」と見ればそんなに奇異でもありません。
この基が78年オフに大洋に去り(根本隆、鵜沢達雄両投手とのトレード)
球団は西武に身売りをし、フランチャイズを所沢に移転します。
西武のユニフォームを着た基も見たかったような…。
そして西武初代の背番号「4」となったのが外国人のマルーフ。
1番レフトに入って146安打で打率.290(リーグ17位)とそこそこの活躍を見せますが
12本塁打と長打力不足のため、翌年はスティーブに取って代わられます。
続く4番は巨人から移籍の大北敏博(交換相手は成重春生投手)。
高松商時代に甲子園に出場して活躍し(3年夏に3試合連続完封でベスト4)
71年にドラフト2位で巨人に入団した選手で、
プロ入り後、打者に転向して二軍の首位打者にも輝きますが、
一軍では実績を残せず西武でも1安打のみで退団となります。
大北は巨人時代にカルビーカードにも登場していて驚いたことがあります。
当時は「パ・リーグの主力選手より、巨人の二軍選手の方が有名」といわれるほど
露出の格差があったわけですが、これなどその最たる例ではないでしょうか。
その次の4番が今回のカードにも登場している現二軍監督の片平晋作。
山下律夫・山村善則←→黒田正宏・片平晋作という南海とのトレードだったのですが
片平の放出はもったいないなあ~と思ったものです。
片平は王貞治ばりの一本足打法で有名になった選手で、
76年から5年間で2ケタホームランも4度(80年は21本塁打)、
32歳となる81年に8本塁打だったので、ここらが限界とみなされたのでしょうか?
あと、片平の守備位置は一塁だったため、スティーブや田淵幸一とダブるのでは?
とも思ったのですが、結局、スティーブを三塁、田淵をDHに追いやって一塁を守り、
西武在籍の5年間は毎年2ケタ本塁打し、西武の初優勝にも貢献して、
83年にはゴールデングラブ賞にも輝きます。
その片平が大洋に移籍した後、4番を継いだのが83年のドラフト2位、笘篠誠治。
内・外野を守って常勝・西武のバックアッププレーヤーとして長く貢献しました。
続く、ラービー、シアンフロッコは1年ずつの在籍で記憶が薄いですね。
ラービーは37試合、シアンフロッコは15試合のみの出場と
西武では珍しく大はずしの外国人選手となってしまいました。
2000年から背番号「4」を継いだのが高木浩之。
従前の背番号は「40」でしたが、「40」から「4」への昇格は先の笘篠も同じでした。
レギュラーを務めた期間は短かったのですが、14年間の在籍で1002試合に出場しました。
西武となってから1000試合以上に出場した選手は、実は10人といないのです。
そして今季から4番を背負うのが巨人から移籍の清水崇行。
現在は調子を落としてファームに落ちていますが、
ロイ、片平のように優勝の使者となれるでしょうか? 期待しています。
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
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2009年07月02日
埼玉西武ライオンズカードの企画カード「タイトルホルダーの系譜」を紹介する6回目、
最終回はライオンズ歴代最多盗塁選手についてです。
この項目が今回、一番驚いたのですが、ライオンズ盗塁王は
なんと90年の秋山幸二が最初だったのですよ!
<ライオンズ歴代最多盗塁選手>
1990年 秋山 幸二(西武) 51盗塁
1994年 佐々木 誠(西武) 37盗塁
1997年 松井稼頭央(西武) 62盗塁
1998年 松井稼頭央(西武) 43盗塁
1999年 松井稼頭央(西武) 32盗塁
2007年 片岡 易之(西武) 38盗塁
2008年 片岡 易之(西武) 50盗塁
つまり九州時代のライオンズは盗塁王を輩出していなかったんですね。
ライオンズの前身、西鉄クリッパーズは50年からシーズンをスタートさせているので
実に40年にも渡って盗塁王が出ていなかったのです。
盗塁王というと60年代の広瀬叔功(南海)、70年代の福本豊(阪急)のように
特定の選手が長く独占しており、南海・阪急の得意技だったような感があります。
西鉄時代に俊足選手はいなかったのでしょうか?
そういえば、中西太さんは「体型から誤解されているけど、ワシは足も速かった」
とよくおっしゃっています(53年には3割30本30盗塁を達成!)が
自己最多の36盗塁した53年はリーグ5位タイ。
豊田泰光さんも球団歴代5位の192盗塁(西鉄在籍時のみの成績)していますが
54年の33盗塁が自己最多で盗塁王には遠く及びませんでした。
しかし、球団最初の盗塁王が
石毛(球団歴代2位=242盗塁)でも辻(同4位=220盗塁)でもなく
ホームランバッターの秋山というのも意外ですね。
秋山は球団歴代2位のホームラン数(328本。1位は清原和博の329本)を残す一方で
盗塁の方も歴代3位の227盗塁をマークしているのですね。
そして、秋山に次いで盗塁王となるのが、その秋山とのトレードで
94年に移籍してきた佐々木誠。彼もまた走れるスラッガーでしたね。
続いて、松井稼頭央が97年から3年連続の盗塁王で球団初ともいえるスピードスターが登場。
03年限りでメジャーに転出しますが、そこまでに残した306盗塁が球団歴代1位の記録なのです。
しかし、通算306盗塁はNPBのランキングでは通算25位(26位は303盗塁の秋山)
に過ぎないので、やはり伝統的にあまり盗塁が多くないチームということになりましょうか。
そして、ここ2年連続して盗塁王に輝いて片岡易之。
片岡は昨日まで通算141盗塁で球団歴代10位ジャスト。
(11位はなんと、前監督・伊東勤の134!)あと1個で9位・中西に並びます。
今季は日本ハムの田中賢介と激しく盗塁王を争っていますが、3年連続の受賞はなるか?
埼玉西武ライオンズのカードは7月24日の発売予定! お楽しみに!
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次回からは、もうひとつのサブセット「背番号物語」を紹介する予定です。

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