2009年04月23日

大洋・横浜球団背番号物語(その6)背番号「26」

6回にわたって連載してまいりました大洋・横浜球団背番号物語の最終回は、
背番号「26」の歴代選手を紹介します。

■大洋・横浜球団歴代背番号「26」■
1950~54	宮崎 剛
1955~56	一柳忠尚
1957	大石幸夫
1958~72	近藤和彦
1973~91	田代富雄
1992	シーツ
1993~2000	佐伯貴弘
2001	杉山賢人
2002~06	小田嶋正邦
2007~	佐伯貴弘

大洋・横浜歴代で背番号「26」の選手は60年間でのべ10人、現役の佐伯選手が
2度にわたってつけているので、人数としては9名の選手しかつけていません。
これは途中で長く背負っていた選手が複数名いたからです。

まず、初代は宮崎剛。戦前に阪神に入団後、戦後は国民リーグでもプレーしたあと
50年に新設なった大洋球団に参加し、一番・セカンドとして活躍。
引退後は長くコーチとして働き、74年(前任が青田昇、後任が秋山登)には監督も
務めましたが、後年「湘南電車カラー」と呼ばれるオレンジとグリーンの
カラフルなユニフォームを考案したのが、宮崎氏だとされています。

2代目の一柳忠尚は捕手でしたが16試合1安打のみで2年で退団。

3代目の大石幸夫はまったく記録が残っていない選手で
甲府工を卒業後、大洋入りしましたが、1年でその名が見えなくなっています。

そして迎えた4代目が近藤和彦。平安高、明大を経て58年に大洋に入団といいますから
長嶋茂雄とは東京六大学時代からのライバルということになります。
近藤和さんというと、60年から3年連続で打撃ベストテンの2位というのが有名ですが
60、61年の首位打者が長嶋さんでした。
近藤和は実に15年にわたって背番号「26」を独占し、
球団歴代3位の1737試合、同3位の1725安打を放ちます。

その近藤和が73年に近鉄に移籍したあと、26番を継いだのが田代富雄。
これまた、大洋球団の球団史に残る名選手ですが、この時点では高卒1年目の新人選手。
地元の藤沢商出身とはいえ、ドラフト3位のまだ海のものとも、山のものともしれない
ルーキーに大物選手がつけていた26番が贈られたのは不思議な気もしますが、
田代は先輩の近藤和を上回る19年もこの番号をつける選手に成長するのですから
面白いですね。「オバQ」のニックネームで親しまれた田代は球団歴代2位の
278本塁打を放って91年限りで引退。現在も二軍監督としてチームに在籍し、
その育成手腕は高く評価されています。

続いて26番を継いだのはMLBでもかなりの実績を残したラリー・シーツ。
(メジャー8年で通算607安打94本塁打)
150安打100打点26本塁打、打率.308という素晴らしい成績を残し打点王に輝きますが
契約が不調で、在籍はこの1年のみ。もったいなかった!

93年、チーム名が「横浜ベイスターズ」と改まり、背番号「26」はこの年のルーキー・
佐伯貴弘の手に渡ります。尽誠学園から大商大に進み、関西六大学野球の
ホームラン記録を打ち立てた期待のスラッガーですから伝統の26番を贈られたのも
うなづけます。佐伯は既に球団歴代4位の1707試合に出場し、安打数では同5位、
打点で同4位(記録はいずれも08年終了時点)という数字を残していますが
昨年までの16年間で規定打席に到達したことが6度しかないこともあって、
主力選手としてのイメージがもうひとつ希薄です。

佐伯は01年から背番号を「10」に変更します。
前任の駒田徳広からチームリーダーの座を引き継ぐという意味合いでの
背番号変更だったと思うのですが、07年から再度26番に戻すのだったら
そのまま継続していればよかったのにと思いました。
近藤和が15年、田代が19年背負った伝統の番号ですからね。

佐伯が背番号を変更したあと、26番を背負ったのは01年途中に近鉄から移籍してきた
杉山賢人。投手として、初めてこの背番号を背負うことになりました。
西武時代の93年に新人王に輝いた杉山はその後、阪神、近鉄と移り、
かつての恩師である森祇晶監督が率いる横浜にやってきたわけですが
この年32試合に登板したもののこの年限りで自由契約となり
翌年から打撃投手に転じます。

続いて26番を背負ったのは東海大から入団した強打の捕手・小田嶋正邦。
捕手または一塁手として起用され
03年には代打サヨナラ満塁本塁打を放つなど印象的な働きを見せますが
レギュラー定着には至らず07年に仁志敏久とのトレードで巨人に移籍。

そして、07年から再び佐伯が26番を背負い、今日に至っているわけです。

というわけで、6回連続でお届けしました「大洋・横浜球団背番号物語」は
これにて終了。カードの方は5月末に発売となりますので、よろしくお願い致します。

明日からは新しい連載を開始するとかしないとか…。
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2009年04月22日

大洋・横浜球団背番号物語(その5)背番号「13」

大洋・横浜球団背番号物語の5回目は、背番号「13」の歴代選手を紹介します。

■大洋・横浜球団歴代背番号「13」■
1972	島田源太郎
1974~75	鬼頭 洋
1980	宮本幸信
1981~84	佐藤政夫
1985	池内 豊
1986	広瀬新太郎
1987~88	永射 保
1989~92	石田文樹
1993~2001	五十嵐英樹
2002~04	岡本直也
2005~	那須野巧

昨日ご紹介した背番号「9」の選手がやたら多かった(60年間で22人!)のに対して
こちら背番号「13」はその半分11人しかいません。

というのも、この背番号「13」、72年に島田源太郎がつけるまで
1950年の球団創設から実に20年余に渡って誰もつけていなかったのです。
はっきりとした理由はわかりませんが、親会社の大洋漁業が国際的な会社だったことから
「13」という数字がキリスト教圏で忌避されているということを知っていて
あえて欠番としていたのでしょうか?

で、最初にこの番号をつけた経緯もちょっと不思議なのです。
オールドファンの方なら「島田源太郎といえば背番号20だろ!」と思われたでしょうが
同投手はなぜか、この1年だけ13番をつけたのです。

島田投手は60年に完全試合も達成した大洋球団の球団史に残る投手ですが
実は70年限りで一旦引退しており、72年はコーチを務めていて
背番号も往年の20番から70番に変わっていたのですが、
この年途中に突如現役復帰し、3勝を挙げたのです。
で、その際に背番号を「13」にしたらしいのですが、
どの時点で「13」にしたのか今ひとつ判然としません。
この年、誰か他の選手が20番をつけていたので
同投手が空き番号の「13」をつけたのかと思いきや、
この年は誰も20番をつけていなかったのです。
そして、翌71年は開幕時から往年の背番号「20」に戻しているのですよ。
まったく不可解です。

続く鬼頭洋は70年にノーヒットノーランを達成した投手ですが、
当時の背番号は「21」。その後、73年にロッテにトレードされ
(小山正明←→鬼頭洋・安田泰一)
1年で大洋に戻り、空き番号の「13」をつけます。
わずか1年での出戻りというのも不可解ですが、
当時の大洋・ロッテ(東京)間ではしばしばこういうトレードが行われていました。
しかし、鬼頭は復帰後、勝ち星を挙げることなくそのまま引退。

その後、またしばらくブランクがあって80年に日本ハムから移籍の宮本幸信が
1年背負います。宮本は昭和50年の広島初優勝時にリリーフで活躍した投手として
ご記憶の方も多いはず。しかし、大洋では6試合1勝のみで引退。

続く佐藤政夫は中日を自由契約になって大洋入りしますが、その後の
「大洋・横浜の背番号13」のイメージの原型となった投手と言っても過言でないかも?
左のサイドスローという変則投手で、球も決して早くなかったのですが、
移籍した81年にはリーグ最多の57試合に登板して6勝4敗。
先発に抑えにとフル回転し、3完投1完封をマークしたのでした。
当時、高校の同級生のKくんが「あんな、オレでも打てそうな球!」と
彼の投球を評していましたが、それでもそれなり以上に通用してしまうのですから
プロの世界は奥深いのですね。

84年限りで佐藤がロッテに去ると、
翌85年は阪神から移籍してきた池内豊が13番を背負います。
この池内もまたサイドスローの中継ぎ投手。同投手は江夏のトレードにともない
南海から阪神に移籍した選手の1人として知られれていますが
(江夏豊・望月充←→江本孟紀・島野育夫・長谷川勉)
82年には当時のリーグ記録に並ぶ73試合に登板するなど中継ぎとして長く活躍。
84年のオフに長崎啓二とのトレードで大洋入り。
82年の首位打者で、長らく大洋の主軸を務めた長崎の交換相手としては
どうかなと思ったのですが…。池内はこの年23試合に登板したものの、
防御率4.93と精彩を欠き、わずか1年で自由契約となります。

翌86年は81年のドラフト1位投手・広瀬新太郎が13番を背負います。
広瀬の従前の背番号は「18」。誰か有力な投手が入団したので
18番を剥奪され13番をつけたのかと思いきや、この年は誰も18番をつけていませんでした。
(同年の中山裕章は背番号「19」)単なる気分転換だったのでしょうか?
ドラフト時、広瀬の名前は全国的には知られていなかったのですが、
あの野村克也監督と同じ京都・峰山高の出身ということが話題になりました。
(同校OBにはタレントの太川陽介、新日本プロレスの中邑真輔も!)
しかし、広瀬は結局、大洋では開花せず、87年にトレードで西武に去り、
(広瀬新太郎←→片平晋作・永射保)
現役最後には大先輩の野村監督が率いるヤクルトでプレーして
現役生活にピリオドを打ちます。

片平&永射という大物2人が広瀬の交換相手というのも不思議ですが
どちらかというと、盛りを過ぎた両ベテランが最後の働き場所を求めてやってきたのが
たまたま大洋だったという感じです。

永射はご存知の通り「左のサイドハンド」というプロ野球史上に残る変則投手でしたが
同投手は2年の在籍でダイエーに移籍。

続く13番は取手二高時代にKK要するPL学園を下して優勝投手に輝いた石田文樹。
その後、早大に進んだものの中退して社会人の日本石油に進みます。
89年に大洋入りして、あのKKのライバルがプロでどのような活躍を見せるのか
期待されたものの、結局大成せず、わすか1勝のみで94年限りで引退。
その後、横浜で打撃投手を務められていましたが、
昨年夏、直腸ガンのため41歳の若さで亡くなられたのは残念でした。

93年から背番号「13」を背負ったのは、ご存知「ヒゲ魔神」五十嵐英樹。
98年の優勝時にはストッパー・佐々木主浩に繋ぐセットアッパーとして活躍しました。

02年からは岡本直也が13番を継ぎ(現在は37番)
ここまで「大洋・横浜の13番」というと「トリッキーな中継ぎ投手」という
イメージなのですが、05年からはドラフト1位の大型左腕・那須野巧が
13番を背負うことに。ここにきて、従来のイメージを払拭する本格派の登場か、
と期待したのですが、那須野はここまで4年間で通算13勝。
今シーズンは先発ではなく中継ぎを務めていますが、
再度先発のマウンドに返り咲いてもらいたいものです。

次回は背番号「26」を背負った歴代選手を紹介したいと思います。
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2009年04月21日

大洋・横浜球団背番号物語(その4)背番号「9」

大洋・横浜球団背番号物語の4回目は背番号「9」の歴代選手を紹介します。

■大洋・横浜球団歴代背番号「9」■
1950	長持栄吉
1951	新井寛次
1952	永井 馨
1953	綱島新八
1954	中村国雄
1955	南 温平
1956~58	勝浦将元
1959~69	金光秀憲
1969	ロジャース
1970~72	安田泰一
1973~75	重松省三
1976	ゲーリー
1977	ウォルトン
1980~83	斉藤 巧
1983~86	若菜嘉晴
1987~91	銚子利夫
1992~94	堀江賢治
1995~96	飯塚富司
1998	マラベ
1999	ポゾ
2000~06	田中一徳
2007~	下窪陽介

この番号も球団創設の50年から56年まで、毎年異なる選手が背負うという混乱ぶり。

初代の長持栄吉は戦後、セネタース・フライヤーズに加入した選手で
50年の1年のみ大洋に在籍。
翌51年には広島に移籍して39歳までプレーし、通算942安打を放ちます。

2代目の新井寛次はまったく記録が残っていない不思議な選手で
出身校は「立命大」となっていますが、この年「19歳」とも記載されているので
大学に通いながらプロ生活を送っていたのでしょうか?

3代目の永井馨も一軍での出場がないまま1年で退団。

4代目の綱島新八は松竹からの合流組で34歳となるこの年限りで引退。
(53年に松竹ロビンスと大洋ホエールズが合併して大洋松竹ロビンスとなります)
この選手、名前は「しんぱち」ではなく「しんや」と読むそうです。
プロ入りまでのキャリアがすごく長いんですよ。
高崎商-立大-明電舎-増田化学工業-山藤商店
で、引退後は拓大の監督も務められたそうです。

5代目の中村国雄も3試合1安打のみで1年で退団。

6代目の南温平(「おんぺい」と読むそうです)は巨人からの移籍で
巨人では3年間で3試合にしか出ていませんでしたが
55年に大洋で復帰してセカンドのレギュラーに抜擢されます。
しかし110試合で打率.172でわずか1年で引退。

7代目の勝浦将元は浪商で坂崎一彦、山本八郎とクリーンアップを組んだ選手でしたが
一軍では13試合1安打のみで引退。

流転する大洋の背番号「9」がようやく落ち着くのが8代目の金光秀憲。
関西学院大から59年に入団した金光は主に代打として活躍し
実働11年で325安打27本塁打。60年の日本シリーズでは5番に入って
打率.400で首位打者、1本塁打4打点でチームの日本一に貢献しました。

続く9代目は身長191cmの巨漢・ロジャースでしたが打率.210で1年で帰国。
ちなみに、ロジャースは入団当初、背番号「4」だったのですが
シーズン半ばで9番に変更。この年、コーチ兼任で9番をつけていた金光は
背番号「50」に変更して、ほぼ専任コーチとなります。
(金光はこの年1試合のみの出場)
成績が上がらないための気分転換だったのか、
誰かから「日本で4番は縁起が悪い番号」とでも聞いたのか…。

10代目の安田泰一は宇部商から68年に入団して当初の背番号は「65」でしたが
70年から9番に昇格。しかし、一軍定着には至らず73年にロッテへ移籍。
(小山正明←→鬼頭洋・安田)

11代目の重松省三は前回でもご紹介したように
従前の6番をボイヤーに譲って9番に変更。

続くゲーリーは75年に日本ハム入りした際には姓のジェスターを名乗っていましたが
76年は名のゲーリーを登録名としました。ボイヤーの後釜としてサードに入り
1年間ほぼフル出場して18本塁打したものの打率.236で1年限りで解雇。

13代目のウォルトンも9本塁打、打率.215で1年のみ。

14代目の斉藤巧は83年のキャンプ中にロッテにトレード。
その交換相手がレオン・リーでした。大洋時代は内野手でしたが
ロッテでは捕手も務めそこそこ活躍しました。実働14年で268安打19本塁打。
大洋時代はほとんど実績を残していないにもかかわらず
1度カルビーカードに登場したことがありました。
どうも、当時在籍していた主軸投手の斉藤明夫と間違えられたようです。

で、83年途中に大洋に加入して背番号「9」をつけたのが若菜嘉晴。
スキャンダルがあって阪神を退団後、アメリカに渡っていましたが
日本球界に復帰しレギュラーとして起用されます。

87年には背番号「22」の銚子利夫と背番号を交換。
若菜さんから「田淵耕一に憧れていた」という話をお聞きしたことがあるので
この背番号変更は、その影響でしょうかね。

銚子は市立銚子高のエース兼4番として甲子園に出場し
「銚子高の銚子くん」ということで少し話題になり
東京六大学の法大で活躍し(広島の小早川毅彦が同期)
84年にドラフト1位で大洋に入団。
88、89年はレギュラーのサードとして活躍も
古葉竹識監督から須藤豊監督に代わった90年から
サードには清水義之が起用されるようになり、
銚子は92年に広島に去ります(トレードの交換相手は長内孝)。

続く堀江賢治は89年、広陵高からの入団で従前の背番号は「50」でしたが
91年に自己最多の42安打して、翌92年から「9」に昇格。
主に代打で活躍したもののレギュラー定着には至らず
95年にトレードでオリックスに移籍。
(水尾嘉幸・渡部高史・堀江賢治←→伊藤敦規・飯塚富司)
堀江は移籍したオリックスでファームの首位打者を獲得したものの
一軍での出場機会に恵まれず、再び近鉄にトレードされて98年限りで引退。

続いて9番をつけたのが堀江とのトレードで移籍してきた飯塚富司。
飯塚はファームで首位打者と本塁打王を獲得した実力者でしたが
当時ブルーサンダー打線と呼ばれ、層が厚かったオリックスの野手陣の中で
出場機会に恵まれず95年に横浜入り。しかし、ここでも2年でわずか16試合で退団し、
現役引退後はパ・リーグの審判に転進します。

98年はマラベ、99年はポゾと外国人選手が背負いますが、どちらも1年限りで退団。
ポゾは小柄な黒人選手で名前も「アルキメデス・ポゾ」とキャラが立っていたので
もう1年ぐらい見てみたかったですね。

続く田中一徳はさらに小さい165cmの選手で、PL学園の出身で甲子園でも活躍し
ドラフト1位で入団し、早くから一軍でも使われましたが、06年限りで戦力外となり退団。
その後、アメリカの独立リーグでもプレーしていましたが昨年限りで引退。

そして、07年から9番をつけているのがかつてのセンバツ優勝投手の下窪陽介。
下窪が鹿児島実業のエースとしてセンバツで優勝したのは96年のことですから
松坂大輔らの世代よりも2コ上ですよ。日大に進んで野手に転向、
現在、横浜の主砲となった村田修一は日大で下窪の2級下になります。
大学卒業後、社会人の日本通運に進み主軸を務めるも、
なかなかドラフトにかからず、もう下窪のプロ入りはないのかな?
と思っていたのですが、28歳となった07年にようやく横浜に入団。
ドラフト5巡目指名ながら、背番号も1ケタの9番を送られ
1年目からの活躍が期待され同07年は72試合に出場したものの
昨年08年は14試合と出場機会が減少。今季もまだ一軍での出場がありませんが
30歳を迎えた今季、なんとかブレイクの足がかりをつかみたいところですね。

次回は背番号「13」を背負った選手を紹介したいと思います。
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2009年04月20日

大洋・横浜球団背番号物語(その3)背番号「6」

週が明けまして、大洋・横浜球団背番号物語の3回目。
今回は背番号「6」の歴代選手を紹介します。

■大洋・横浜球団歴代背番号「6」■
1950~51	長富政武
1952	木村  勉
1953	中津正三
1954	荻原 隆
1955	枡 重正
1956~60	黒木弘重
1961	太田 勝
1962~65	森 徹
1966	スタンカ
1967~72	重松省三
1973~76	ボイヤー
1977~87	高木由一(嘉一)
1988~96	高橋雅裕(眞裕)
1998~2003	中根 仁
2004~07	多村 仁
2008	ビグビー
2009	松本啓二朗

やはりというか、この番号も最初の方は出入りが激しい上に
現在に名前が伝わっていない選手が並びます。

初代の長富政武はノンプロの大洋漁業からの転進組で2年で退団。

2代目の木村勉は通算1118安打もしている割には、あまり知られていない選手ですね。
戦前に南海入りした後、戦後は国民リーグにも参加。
52年に大洋入りして1番センターでレギュラーとして起用されますが
1年限りで広島に去り、キャリア後半は近鉄で活躍します。

3代目の中津正三はプロ入り後、投手から打者に転向した選手で
背番号は入団した50年から2年間は「14」、52年に「21」となって
53年は「6」を背負いますが、同年限りで退団。

4代目の枡重正も入団1、2年目の背番号「29」から
3年目に「6」に変わって同年限りで退団。

5代目の黒木弘重はこの年に入団した「明大5人衆」の1人で
(秋山登・土井淳・岩岡保宏・黒木弘重・沖山光利)
60年の初優勝時に活躍した黒木基康の実兄ですが
弟ほどは活躍できず、その60年限りで退団。
弟の基康は60年の入団なので、この年だけ兄弟が同一チームに在籍していたわけですね。
ちなみに、黒木姓は元ロッテの黒木知宏など宮崎県に多い名前ですが
こちらの黒木兄弟も宮崎県出身でした。

6代目の太田勝は中大を経て61年に入団しますが、この年、4試合2打席だけの出場で
1年のみで退団してしまいます。今では考えられないような見切りの早さです。

7代目の森徹は中日からの移籍ですが、59年の本塁打王&打点王というビッグネーム。
長嶋茂雄と同期で早大から中日入りして4番を務めるも
濃人渉監督との確執から大洋にトレードされ、クリーンアップも務めたものの
4年で再び東京オリオンズに去ります。

続く8代目のスタンカも移籍の大物。
南海で大活躍した外国人投手ですが、子息の事故死もあって65年、南海を退団して帰国。
この66年、1年のみ大洋に在籍して6勝を挙げ、
通算勝利数を100まで伸ばして日本を去ります。
投手が背番号「6」というのはかなり異色ですが、スタンカは南海時代も
6番を背負っていたので、大洋でも空いていた同番号をつけたのでしょう。

9代目の重松省三は62年の入団で当初は背番号「32」をつけていましたが
64年には149安打15本塁打、打率.296(リーグ7位)という好成績を残して
ベストナイン(外野手)にも選ばれ、67年になって、
ようやくレギュラー選手らしい背番号「6」を与えられるのです。
しかし、その後は中塚政幸、江尻亮らの台頭があって、重松は徐々に控えに追いやられます。

10代目は大物大リーガーのクリート・ボイヤー。
入団1年目は背番号「4」をつけていたのですが、2年目から6番に変更。
ヤンキース時代に同じ番号をつけていたことから6番を所望したのだと思います。
で、前任の重松は同年「9」に変更となります。

その後、このボイヤーの6番を継いだのが叩き上げの高木由一。
真偽のほどは分かりませんが、彼を買っていたボイヤーが高木に6番をつけさせろ
と申し渡したという説もあります。高木は相模原市役所からドラフト外で入った
まったくの無名選手でしたが、76年に56安打7本塁打を放って頭角を現し
背番号が「6」となった77年には140安打20本塁打、打率.323(リーグ9位)と打って
大洋の主軸打者に成長します。まさに、シンデレラストーリーですね。

その高木が87年に引退した後、背番号「6」を継いだのが高橋雅裕。
87年に背番号「32」でショートのレギュラーの座を掴み
背番号「6」となった88年は159安打、打率.293(リーグ8位)という
自己ベストの成績を収めます。ルックスもよかった高橋は人気を高めつつあったのですが
90年に古葉竹識監督から須藤豊監督に代わったのを機に出場機会が減じ
打撃に勝る進藤達哉が台頭、96年限りでロッテに去ります。
高橋がショートのポジションを奪ったことで引退に追い込まれたのが
人気者の山下大輔だったのですが、高橋もまた次代の若手に乗り越えられたのでした。

そして、98年に近鉄から移籍してきた中根仁が13代目の背番号「6」に。
中根は東北高時代から甲子園で活躍し、法大でも首位打者を獲得した
アマのスター選手だったという点では、現6番の松本啓二朗に通じるものがあります。
このトレードの交換相手が生え抜きのドラフト1位投手・盛田浩妃だったことから、
当初は盛田への同情論が多く聞こえていたものの、
中根はバットでチームの38年ぶりの優勝に貢献し、そうした声を打ち消します。
人気選手の交換相手として移籍してきた選手は大変ですよね。
実際うまく行かなかったケースが多いように思うのですが、
これは珍しく成功した例だと思います。

この中根が「エリート派」だったのに対して14代目の多村は「叩き上げ派」でしょう。
名前は同じ「仁」なんですけどね。多村は横浜高から95年にドラフト4位で入団。
同年の横浜高は紀田彰一(横浜1位)、斉藤宜之(巨人4位)、多村とクリーンアップが
そろってプロ入り。この時点では多村は守備と走塁が売りであり、
3人の中では一番評価が低かったのですが、
結果的にはその多村が一番成功を収めるのですから、分からないものです。
しかし、その多村も前回書いた内川以上にブレイクに時間がかかりました。
03年に18本塁打して頭角を現しますが、これが9年目のことで
翌04年から背番号「6」に昇格して40本塁打を放ち、その名を全国区としますが
07年に寺原隼人とのトレードでソフトバンクに去ります。

翌08年は外国人選手のビグビーが6番を背負うも1年限りで退団。

そして、今季から背番号「6」をつけるのがドラフト1位ルーキーの松本啓二朗。
横浜の中心選手である金城龍彦をベンチに追いやって開幕スタメンに起用されたのですから
球団の期待の高さがうかがえます。

■参考■37年ぶりに2人の新人が開幕スタメン
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/137

松本の父・吉啓氏は76年夏の甲子園を制した桜美林高のエースで
その父が監督を務める千葉経大付高のエース兼4番として甲子園に出場し
あのダルビッシュに投げ勝ったこともありましたが早大入りして外野手に転向。
東京六大学では史上28人目となる通算100安打を達成してベストナインも5度。
まさに「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」とでも形容したいような
エリート選手で、オープン戦でも結果を残し新人王の有力候補との評価を得ましたが
ここまでは結果を残せていません。さてさて、どうなりますか…。

大洋・横浜球団背番号物語、次回は背番号「9」の選手を紹介したいと思います。
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2009年04月17日

大洋・横浜球団背番号物語(その2)背番号「2」

大洋・横浜球団背番号物語の第2回は背番号「2」の歴代選手をご紹介します。

■大洋・横浜球団歴代背番号「2」■
1950	山崎善平
1951	岡本三男
1952~53	岩本義行
1954~55	高橋真輝
1956	杉川喜久雄
1957~59	坂本盛明
1960~64	浜中祥和
1966~67	杉本公孝
1968~82	中塚政幸
1983~85	レオン
1987~89	片平晋作
1990~93	山崎賢一
1994~2000	波留敏夫
2001 金城龍彦
2002~	内川聖一

初代の山崎善平外野手は「1試合6盗塁」という記録で球史に名を残している
選手ですが、それは中日に移籍してからマークしたもの。
山崎この年、明大から加わった選手ですが、この年わずか6試合のみの出場で
無安打1盗塁のみ。翌年途中に中日に加わったという記録があるので
一旦は自信をなくして球界を離れていたということでしょうか。

2代目の岡本三男捕手は前年、西日本に入団してこの年、大洋に移籍。
横浜高商出身だそうですが、これは今の横浜国立大学の前身ですね。
しかし、既に30歳ということで、この年限りで引退。

3代目の岩本義行外野手は後に野球殿堂入りも果たす大選手で
大洋でも4番を打ちますが、52年で40歳であり、2年で東映に去ります。

4代目の高橋真輝外野手も在籍わずか3年、通算13安打のみで引退。

続く5代目の杉川喜久雄は通算8勝の投手ですが、
1年目が「48」2年目が「5」3年目が「3」4年目が「2」と
毎年背番号が変わった不思議な選手です。
(不思議なのは杉川投手ではなく大洋球団なのでしょうが…)

6代目の坂本盛明外野手も実働わずか3年で通算8安打で退団。
「2」という若い数字の番号なのに、ここまで実績のない選手が続くのは不思議ですね。

7代目の浜中祥和は大洋が60年に初優勝した年に立大から加わった期待の遊撃手でしたが
164cmという小兵でプロレベルではやはり厳しく、
これに飽き足らない三原脩監督が近鉄から鈴木武を移籍させて
ショートに据えるという話に繋がって行きます。

浜中は65年に中日に移籍しますが、66年にサンケイから移籍してきて
2番を継いだ杉本公孝は立大で浜中の1年後輩でポジションも同じショート。
国鉄時代には一時レギュラーとなりますが、やはり打力が弱く2年で退団。

ここまでの18年間で8人が入れ替わった背番号「2」がようやく落ち着くのが
9代目の中塚政幸。PL学園から中大を経て68年にドラフト2位で大洋入り。
1番センターに入って長く活躍し、通算1440安打は球団歴代7位の記録で
74年には盗塁王にも輝いています。
メガネをかけた一番打者というのでキャラが立っていましたね。

その中塚が82年に引退した後を襲ったのはロッテから移籍のレオン。
レオンが大洋に在籍していたことは覚えていましたが、
背番号は「2」だったことは失念しておりました。
4番ファースト、最終の85年には4番サードに入って同年も31本塁打110打点、打率.303
という好成績を残しますがなぜか契約を更新せず、レオンはヤクルトに去ります。
移籍した翌86年も34本塁打97打点、打率.319だったので、
この判断は当時も随分不思議に思われたものでした。

続く片平晋作は西武からの移籍。田淵幸一をDHに追いやって一塁を守った名手ですが
86年に清原和博が入団してはみ出し、同年オフに変則左腕の永射保とともに大洋に移籍。
87年には13本塁打を放ち、40歳となった89年限りで引退。

次代の山崎賢一は二軍暮らしが長かった選手ですが、主力選手たちの間隙をついて台頭。
背番号「59」という一軍選手らしからぬ背番号を背負って時に4番を打ち
89年にはリーグ5位の打率.309でベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞。
翌90年から背番号も「2」に昇格し、この年もゴールデングラブ賞を連続受賞しますが
好調は続かず、93年限りで山崎はダイエーに去ります。
「つちのこバット」と呼ばれた特徴的なバットで人気を呼び
当時放映されていた野球アニメ『ミラクルジャイアンツ童夢くん』でも
主人公・童夢くんのライバルとして登場していたのですが、ピークは短かった…。

そして13代目が波留敏夫ですが、小回りの効くプレーヤーということで
ある意味、2番らしい選手だったと思うのですが、
その「2番らしい」というイメージの元になっている選手って誰なんでしょうね?
最近では小笠原道大や城島健司といったスラッガータイプの選手も2番をつけているので
背番号のイメージもだいぶ変わってきているとは思うんですけどね。

ところで、その波留は01年に背番号を「1」に変更して
「2」は前年、首位打者と新人王を受賞した金城龍彦に渡ります。
しかし、波留は同年途中で中日に移籍したため再び「1」が空き、金城がこれを継承します。

で、02年から背番号「2」をつけているのが昨年の首位打者・内川聖一。
01年のドラフト1位選手ですが、ブレイクしそうでし切れないという状態が
数年続いてベイファンもやきもきしていたと思うのですが、
(こういう状態が続くと結局大成しないことが多い)
昨年入団8年目で初めて規定打席に到達し、首位打者を獲得。
先のWBCでの活躍も記憶に新しいところですが、
小笠原や城島同様、彼もまた新しいタイプの背番号「2」なのかもしれません。

しかし、同選手が入団当初につけていた「25」もいい番号なんですよ。
今は内川より後に入団したチームの主砲・村田修一がつけていますが
それ以前には球団歴代1位の330本塁打を放った松原誠が背負っていたのですから。
内川選手が今後どのようなキャリア曲線を描いて行くのか楽しみですね。

次回は背番号「6」の選手について、紹介したいと思います。
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2009年04月16日

大洋・横浜球団背番号物語(その1)背番号「1」

現在、横浜ベイスターズの2009年版のカードを制作しているところなのですが
その中の企画カードとして「背番号物語」というカードを作っています。
カード表面に新旧の選手で同じ背番号の選手を組み合わせ
裏面にその背番号を背負った歴代選手の一覧と解説原稿を入れるというものです。
過去にも何度か他チームで同趣向のカードを作っているのですが、
大洋・横浜球団の背番号変遷というのは、また他球団とは異なる伝統があり、
調べていてなかなか面白かったのですよ。解説原稿もわたし自ら書いたのですが
分量が少なく、その面白さが伝えきれていない嫌いがあるので、
このブログで補足させていただこうと思った次第です。
全部で6回の連載のつもりですが、
その1回目は背番号「1」の歴代選手を紹介したいと思います。

■大洋・横浜球団歴代背番号「1」■
1950	岩本信一
1951	有馬義一
1952	小西得郎
1953	森 雅功
1954	水谷則一
1955	楠 拡応
1956~58	藤井 勇
1960~74	近藤昭仁
1975~88	山下大輔
1989~92	谷繁元信
1993~2000	進藤達哉
2001	波留敏夫
2002~	金城龍彦

大洋・横浜球団の背番号を調べていて最初に驚くのは、大洋初期の混乱ぶりです。
初期の大洋はおそろしく選手の出入りが激しく
(53年には松竹ロビンスと合併して一時は「大洋松竹ロビンス」を名乗ります)
この背番号「1」などは50年から56年まで、毎年つける人が異なっていたのです。

初代の岩本信一投手はこの年、南海から移籍して7勝を挙げますが、
翌年、実兄・岩本義行のいる松竹に移籍。

2代目の有馬義一は大洋の第2代監督、3代目の小西得郎は同3代監督
と監督が続き(3年目まで監督も毎年変わっています)

4代目の森雅功はノンプロの大洋漁業からの転進組で
この年、背番号「1」に変更も同年限りで引退。

続く第5代・水谷則一は二軍監督。

第6代・楠拡応は旧名の「楠安夫」と書けば分かる方には、分かるかも?
草創期の巨人で投手/捕手として活躍された方で、この年1年のみ在籍して引退。

第7代の藤井勇に至って、ようやく「毎年違う人が背負う」という状況はストップします。
同選手は日本で最初にホームランを放った選手(36年春=阪神在籍時)として知られ
球団創設の50年から大洋入りして主軸を担い、その年34本塁打するなど活躍しますが
当初の背番号は「3」、55年に監督兼任となって「30」(当時の監督の定番番号)、
ところが監督は1年限りで(またか!)、現役1本に戻って空き番号の1番を背負います。
その藤井が42歳となる58年限りで引退して1年開いて運命の1960(昭和35)年を迎えます。

この年は大洋が知将・三原脩監督を迎え、待望の初優勝を達成する年ですが、
同年、早稲田から入団したのが近藤昭仁で、背番号「1」を継承します。
三原監督と同じ香川の出身、早大の後輩ということで、
同監督の秘蔵っ子として重用され、1年目から二塁の定位置を獲得、
同年の日本シリーズではMVPも受賞し、10年余りレギュラーを務めて73年限りで引退。
(近藤昭の後のセカンドが“ライオン丸”シピンでした)

球団創設10年にして、ようやく然るべき選手の手に渡った背番号「1」でしたが
これを継いだのが人気者の“大ちゃん”山下大輔。
山下大輔=背番号「1」というイメージがあまり強く、
入団時から1番を背負っていたかのように思っていましたが、
同選手の1年目の背番号は「20」だったんですね。
近藤昭仁の引退にともない75年から背番号「1」を背負います。

同番号を近藤昭仁が15年、山下大輔が14年つけ、ともに大きな期待を背負って
監督に就任します(近藤は「横浜ベイスターズ」となってから最初の監督)が、
残念ながら成果は上がらずわずかな年数で退任となってしまいました。

続いて背番号「1」をつけたのが、これまた期待のルーキー、谷繁元信でした。
しかし、谷繁は捕手のため、プロテクターのストラップが背番号「1」を
まるまる隠してしまうこともあり、球団が横浜ベイスターズと改称した
93年から背番号「8」に変更します。結果的に谷繁は背番号を変更した
同年からレギュラーに定着したので、これはこれで良かったのかもしれません。

そして、その1番の後任となったのが進藤達哉。
従前の背番号は「36」でしたが、高卒5年目の92年に108試合に出場して
頭角を現し、93年から背番号「1」に昇格。その後、98年の優勝時の
正三塁手として活躍、現在は横浜球団のスカウトを務めています。

その進藤が00年限りでオリックスに去り、01年は波留敏夫が背番号「1」を背負います。
波留といえば背番号「2」の印象が強いと思うのですが、
この年1年だけ「1」だったんですね。前年00年はわずか60試合の出場に留まり
01年からは森祇晶氏が監督に就任したこともあって
気分転換を図ったものと思われるのですが、しかし、波留は同年途中に中日に
トレードされ、チームを離れることに(交換でやってきたのが種田仁と山田博士でした)。

背番号「1」と「2」というと随分テイストが違う感じがするのですが、
次代の金城龍彦もまた、背番号「2」から「1」への変更となりました。
金城はご存知の通り、00年に彗星のごとく登場し、首位打者と新人王をダブル受賞。
01年には背番号が「37」から「2」に昇格します。
しかし「2」はこの年のみで翌年から「1」に再度変更されます。
金城の通算安打数は08年終了時点で1233で通算1183安打の近藤昭仁を上回り歴代12位と、
既に球団史に残る名選手としての実績を残していると思うのですが、
今季はスーパールーキー・松本啓次朗の出現で
開幕スタメンの座を奪われることになりました。
その松本の調子が上がらず、金城が先発する機会も多くなっていますが、
このところ成績を落としている金城にとっては正念場でしょうね。

というのが大洋・横浜球団の歴代背番号「1」の選手の変遷でしたが、
次回は背番号「2」のそれについて紹介したいと思います。
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2009年04月15日

次々と挑戦者を跳ね除けてきた男:金子誠(日)

日本ハムのベテラン・金子誠選手の打率がえらいことになっています。
現在、打率.531でパリーグの首位打者なのですが、
セの首位打者・金本知憲の.528を上回るというのですからすごい! 
しかも、ここ6戦連続で二塁打を放っていて、
今日(4/15)二塁打を打てば日本記録の更新となるそうなのです。

金子選手はご存知の通り96年の新人王で、昨年まで日本ハムの選手会長を務めていた
チームの顔とも呼べる存在なのですが、正直、打撃はもうひとつとみなされており
これほど打撃好調にもかかわらず相変わらず定位置の「9番」に座り続けているのですね。

そして、近年の日本ハムは毎年のようにショートを守れる選手を補強しています。
チームとしては「金子もいるけど、もう少し打てる遊撃手が欲しいなあ~」
というところなのでしょう。

03年には報徳学園で選抜Vを果たした大型遊撃手の尾崎匡哉をドラフト1位で指名。
しかし、尾崎は金子に挑戦する域までには達せず、今季から捕手に転向。

04年は社会人から稲田直人が入団。現在のファイターズでは「なごみ系キャラ」の
スーパーサブのようになっていますが、広陵高-駒澤大とエリートコースを歩んだ選手で
駒大の太田誠監督をして「天才」と言わしめたほどの選手だったのです。

続く05年は元ヤンキースのエリック・アルモンテ
(02年に巨人に在籍したへクター・アルモンテの実弟)が入団し、
シーズン当初は金子を二軍に追いやってショートを守りますが
結局17安打(打率.193)3本塁打8打点のみで1年で帰国。

06年は陽仲壽、高口隆行が入団。昨年は金子が96試合、陽が25試合、高口が26試合
ショートを守りましたが、いまだ金子の牙城を崩せないでいます。

そして、今季、超難敵の二岡智宏が巨人からトレードされてきましたが、
ご存知の通り、同選手は体調が万全ではなく、開幕からDHで出場しており、
調子ももうひとつ上がっていません。

■金子誠選手の通算成績■
年度	試合	安打	本塁打	打点	盗塁	犠打	打率(順位)
1995年	4	2	0	0	0	0	.333
1996年	117	103	4	33	15	38	.261(19)
1997年	134	142	12	53	13	36	.277(23)
1998年	127	100	4	26	11	20	.263(22)
1999年	135	114	3	29	4	18	.274(15)
2000年	113	93	3	31	12	15	.231(30)
2001年	140	127	8	56	9	10	.253(31)
2002年	104	112	6	29	9	17	.285(13)
2003年	117	91	3	33	8	6	.244
2004年	109	85	3	39	5	6	.256(30)
2005年	79	50	4	24	2	8	.240
2006年	126	100	6	40	7	15	.254(28)
2007年	132	102	4	53	9	20	.243(32)
2008年	96	63	2	29	0	13	.216
通算	1533	1284	62	475	104	222	.256

このように、レギュラー選手であるにもかかわらず、
毎年毎年ライバルが入団してくるという例では
巨人の森昌彦(現・祇晶)捕手の例が有名ですね。

1959年にレギュラーを獲得しながら、やはり打力がもうひとつとみなされ
63年 慶応から大橋勲
65年 市立神港高から吉田孝司
67年 東京六大学の三冠王・槌田誠(立大)
   中京商高の矢沢正
70年 東京六大学の首位打者・阿野鉱二(早大)
と容赦なく強力なライバルが入団しますが、それらをことごとく
打ち破って森は現役生活をまっとうします。

金子誠の打棒はこのまま好調を維持してまたしてもライバルを葬り去るのでしょうか?
二岡も黙っていないはずですし、二軍では圧倒的な数字を残す陽がいよいよブレイクを
果たすかもしれません。今季のファイターズも楽しみですね。
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2009年04月10日

元太平洋/クラウン監督・鬼頭政一氏死去

現在の西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ、
クラウンライターライオンズで監督を務められた鬼頭政一さんが亡くなられていたそうです。
といっても、同氏の名前を覚えておられるのは、わたし以上の年齢の方か、
かなりプロ野球がお好きなマニアの方でしょうね。

鬼頭さんが太平洋の監督に就任したのは76年のこと。
実はこの年、同球団はMLBの2000勝監督、
レオ・ドローチャー氏を監督に招聘することになっており
当時の選手名鑑にもデカデカと同氏の顔写真が掲載されていたのですが
同年71歳を迎えるドローチャー氏は健康が許さないとして結局来日せず、
ヘッドコーチの鬼頭さんにお鉢が回ってきたのでした。

当時の他球団の監督は巨人・長嶋(40)阪神・吉田(43)広島・古葉(40)大洋・秋山(42)
南海・野村(41)阪急・上田(39)ロッテ・金田(43)日本ハム・大沢(44)とみな若く
同年56歳の鬼頭監督は、当時プロ野球を見はじめたばかりのわたしには
1人だけおじいさんのように見えて、とても奇異に思えたものでした。
ただ、当時は多くの大人のプロ野球ファンにとっても「鬼頭、Who?」という状況だったのです。

鬼頭さんは1920年2月9日、名古屋の生まれで
40年に川上哲治を押さえて首位打者を獲得した鬼頭数雄が実兄(戦没)で、
実弟・勝治もプロ野球選手という3兄弟プロ野球選手だったのですね。
そのキャリアは日大三中-名古屋(40)-ライオン・朝日(40~42)-
八幡製鉄-西鉄(50~51)-近鉄(52~58)
というもので、52年に打率.320でリーグ4位、54年に打率.292でリーグ9位
となって以降はあまり出場せず、58年限りで引退。
通算713試合511安打19本塁打、打率.239という成績の上、
引退後は長らくアマ野球に転じておられたため、一般的な知名度はそれほどなかったのです。

アマでは福岡の柳川商高の監督も務められていたそうなのですが、
若菜嘉晴・真弓明信・立花義家ら同校からライオンズに進む選手が
多く出たのもその影響があったのでしょうね。

68年に10年ぶりにプロ球界に復帰したところ、翌年には黒い霧事件があって
辞任した中西太監督の後を受けて代理監督を務めるなど、この頃から受難が始まっていました。

75年には闘将・江藤慎一を兼任監督に迎え8年ぶりにAクラス入りしたものの
(この後6年間Aクラスなし)同監督に飽き足らないとドローチャー氏を招聘。
(このあたりの経緯は下記「江藤慎一波乱万丈記」をご覧ください)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/94

しかし、結局、その招聘劇は失敗に終わり、コーチ陣の長老格・鬼頭さんが監督を務めることに…。
この年のライオンズのメンバー表を見ると一軍コーチに3名、
二軍も二軍監督を含めて3名のコーチしか名前がありません。
この当時の太平洋・クラウンの窮乏ぶりというのは伝説的なものがあり
球団が今にも潰れそうだったため、選手の動揺も激しく、
そんなチームを束ねることは筆舌に尽くし難いものがあったはずです。

結局、健闘むなしく76、77年と連続最下位となって鬼頭監督は2年で去りますが
その後任となったのが前広島監督の根本陸夫氏。そう、後に西武・ダイエーで
辣腕を振るい「球界の寝業師」と呼ばれた根本氏だったのです。
同氏は鬼頭氏の日大三中の後輩であり、近鉄にも同時期に在籍したので、
おそらく根本氏の監督就任には鬼頭氏の導きがあったはずです。
このバトンタッチがなければ、後年の常勝・西武や福岡ダイエーホークスは
生まれていなかったのかもしれないのです。

太平洋・クラウンの時代というのは、今流に言えば球界の「黒歴史」であり、
忘れてしまいたい過去(※)なのかもしれませんが、
そんな苦しい時代でも、それを担ってくれた方たちがいたからこそ、
今日に歴史が繋がっているのだと思います。鬼頭さん、どうもありがとうございました。
改めて、ご冥福をお祈り致します。

(※)「太平洋」「クラウン」というのは実際の親会社ではなく看板料を払うスポンサーであり、
現在でいうところのネーミングライツであった。しかし、後年、経営の悪化した近鉄球団が
ネーミングライツの構想を発表した際には「そんな前例はない」と一蹴されてしまったのである。
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2009年04月08日

井口資仁史上7人目の全打順本塁打を達成

昨日のロッテvs日本ハム戦でロッテの4番・井口資仁がホームランを放ち
史上7人目の全打順本塁打を達成しました。過去の達成者は下記の通り。
確かになるほどなあ~というメンバーですね。

記録達成日	選手名(所属球団)	達成時の本塁打数	通算本塁打	
89年5月 5日	古屋英夫(日本ハム)	通算163号	通算180本塁打
96年4月27日	松永浩美(ダイエー)	通算200号	通算203本塁打
97年8月12日	田中幸雄(日本ハム)	通算166号	通算287本塁打
98年5月26日	堀幸一(ロッテ)	通算 87号	通算179本塁打※
99年6月 3日	小川博文(オリックス)	通算 65号	通算100本塁打
02年4月21日	五十嵐章人(近鉄)	通算 26号	通算 26本塁打
09年4月 7日	井口資仁(ロッテ)	通算150号	通算150本塁打※
※は現役(記録は4月7日現在)

で、各選手がその打順で初めて本塁打を打った年というのを調べてみました。
数字は初本塁打を打った年度で「*」がついているものが一番最後に本塁打を記録した打順です。

選手名	1番2番3番4番5番6番7番8番9番
古屋	78 78 83 79 79 79 78 78 89*
松永	89 81 83 85 82 82 82 81 96*
田中	89 90 88 95 97* 88 87 87 86
堀	89 91 90 91 91 98 95 98* 90
小川	99* 91 94 95 94 92 92 90 89
五十嵐	94 94 95 01 96 96 95 02* 91
井口	98 97 99 09* 98 98 98 97 97

■古屋英夫■
古屋さんが最初にこの記録を達成したことはうっすらと覚えていて
その際には「チームの主軸を務めた古屋を9番で使うなんて失礼だなあ~」と思ったものでした。
しかし、今回記録を調べてみたところ、入団1、2年目は下位で使われることが多く
9番にもよく入っていたのですがホームランは出なかったんですね。
古屋さんにとって鬼門は実は「3番」だったのです。
そういえば、古屋さんって「5番打者」ってイメージがありますよね。
現役15年でも3番に入ることが最も少なかったはずです。

■松永浩美■
松永さんも最後まで残っていた打順は9番でしたが、彼にとっての鬼門は「1番」。
89年まで1番に入ることはなかったのですが、89年になって突如、上田利治監督が
松永さんを1番に起用することになって、すぐに達成されました。

■田中幸雄■
田中選手のパターンは分かりやすいですね。若い頃は下位で起用され
段々中軸を打つようになってついに全打順本塁打を達成という感じで
その成長曲線は一編のビルドゥングス・ロマンを見る思いです。

■堀 幸一■
堀選手の場合、なぜだか6・7・8番という下位の打順で苦しみました。
90・91年で3・4・5番というクリーンアップの打順で本塁打していますが
中距離打者の堀選手に4番に起用しなければならなかったところに
当時のロッテの苦闘ぶりがうかがえます。

■小川博文■
小川選手は1番が最後まで残りましたが、3・4・5番という
クリーンアップの打順で打てたのは、やはり「仰木マジック」の賜物ですね。
他の監督だったら達成は難しかったと思います。

■五十嵐章人■
五十嵐選手は全打順本塁打と合わせて全ポジション制覇も達成している
ことがよく知られています。最後の方は多分に狙って達成した感がありましたが
ポジションはともかく、ホームランを狙って打つのはなかなか至難の技。
全打順本塁打達成者の中で最少の通算26本塁打、
それも最後の26本目で達成したのはすごいですね。

■井口資仁■
井口選手が全打順本塁打にリーチをかけていたことは
事前のスポーツ紙の報道で知っていました。
小久保裕紀、松中信彦ら強打者揃いだったダイエーの中に
あって井口が4番に入ったことはなかったのです。
井口は99年に3番でホームランを放ち、全打順本塁打にリーチをかけたのですが
そこから実に10年を要してこの記録を達成したのです。
これが仰木監督だったら、井口に何試合か4番を打たせ、
早々に記録を達成していたかもしれませんね。

井口選手は青山学院時代にリーグ記録の24本塁打を放ち
「20世紀最後の大物」と喧伝され鳴り物入りで入団したのですが
成長には時間を要しました。1年目は8本塁打も打率.203(規定打席未満)。
2年目.221でリーグ36位、3年目.224で同32位で2年連続でリーグの
最低打率打者となります。これは元阪急の大橋譲のパターンかな?
とさえ危惧していました。大橋さんは当時の東都記録の20本塁打を放った
スラッガーで、史上最高の豊作年と呼ばれた68年秋のドラフトで
12球団のトップで指名されたほどですたが、
プロ入り後はなぜか守備の人になってしまったのでした。
(詳しくは下記をご覧ください)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/57

しかし、井口はそこからよく持ち直し、01年に30本塁打、
03年にはリーグ4位の打率.340、翌04年も同4位の.333の数字を残し、
05年からMLBに渡り、本年、NPBに復帰して全打順本塁打を達成したわけです。

しかし、この記録を達成した7人がすべてパ・リーグの打者というのが特徴的ですね。
やはり、セ・リーグだと9番はほとんど投手が入るので
なかなか達成しにくいのでしょうし、DHはフレキシブルにいろんな打順に
組み込めるので、達成が容易になっているのでしょうね。
次にこの記録をマークするのは誰でしょうか?
shrimp-81185.jpg


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posted by shrimp |14:29 | 野球 | トラックバック(0)
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2009年04月07日

37年ぶりに2人の新人が開幕スタメン

プロ野球の2009年シーズンが始まりましたが、
個人的に、おっと思ったのが横浜ベイスターズが
2人の新人選手をスタメンに起用したこと。

これは、なんと37年ぶりのことなんだそうですが、
37年前の1972年、開幕スタメンを果たしたのは
阪神の中村勝広、望月充の両名だったそうです。

さらに、横浜の前身球団である大洋では1959年に
麻生実男、桑田武、金光秀憲と3人の新人選手を起用しているので
横浜球団的には「50年ぶりの複数新人の開幕スタメン」ということになりますね。

で、自分が興味があったのは、これらの新人選手は、
誰に代わって先発したのか? ということで、ちょっと調べてみたのでした。

■1972年の阪神タイガース■
この年の開幕戦に1番・セカンドで中村勝広(早大出身)、
3番・レフトで望月充(立大出身)という2人の新人が起用されます。

中村勝広さんは、のちに阪神の監督となり、
現在もオリックスの球団本部長を務められているのでご存知かと思いますが
望月充さんは、それほど数字は残せず(通算216安打30本塁打)
後年、江夏豊といっしょに南海にトレードされた選手として記憶されていると思います。
しかし「望月充」という名前は「眉月光」(from「侍ジャイアンツ」)ぽくって
カッコイイ名前ですね。この1年目はオールスター出場も果たしたそうです。

そんな2人が誰に代わって出場したかというと、
二塁は野田征稔で、外野がカークランドなんですね。 
(ただし、中村・望月とも、この年はレギュラーを確保できたわけではなく 
出場試合数としては野田・カークランドの方が上回っていました) 

野田さんはPL学園から最初にプロ入りした選手で 
70年代前半に阪神の二塁のレギュラーを務めましたが
打撃がもうひとつ(通算打率.223) 。
より打てる打者ということで中村さんが二塁に入り 
実際、74年からレギュラーとなります。 
野田さんは先の「侍ジャイアンツ」にもよく登場していて 
ものすごく頬骨が出っ張ってる人のように描かれていましたね。 
野田さんは昨年からBCリーグ・福井ミラクルエレファンツのコーチを務められています。

一方、カークランドは68年に阪神入りして同年には37本塁打を放った人気者ですが
前年71年は14本塁打、打率.219と数字が下降しており
72年には38歳ということで、若い外野の長距離砲が望まれていたのです。
しかし、カークランドはこの年、 20本塁打、打率.266とやや持ち直し、
73年まで在籍。75年にロッテから池辺巖が入って外野のピースが埋まり 
望月さんはトレードとなります。 

この時期の阪神はV9巨人にあと一歩と迫っていた時期で 
戦力の上積みを考えての新人登用だったのでしょう。 

■1959年の大洋ホエールズ■
一方、59年の大洋の新人登用は、それとはかなり赴きを異にするものでした。 
球団草創期の大洋球団というのは陣容が固まっておらず、 
毎年選手の出入りが激しく(53年には松竹と統合) 
例えば、背番号「1」の選手は50年から56年まで 
毎年違う選手がつけていたという混乱期だったのです。 
当然成績もひどいもので54年から59年まで6年連続最下位という体たらく。 

そんな大洋球団が本腰を入れて新人選手を入れだしたのが56年から 
●56年=秋山登・土井淳・岩岡保宏・沖山光利・黒木弘重=明大5人衆 
●58年=島田源太郎(気仙沼高)近藤和彦(明大)鈴木隆(川崎トキコ) 
●59年=桑田武(中大)金光秀憲(関学)麻生実男(倉敷レーヨン) 
とそうそうたる顔ぶれが並びます。 

で、その桑田、麻生、金光にポジションを奪われたのが 
三塁手の中村敏行、遊撃手の岡田守男、外野手の中島執という 
現在に名前が伝わっていない選手たちです。 

中村は兵庫県の赤穂高出身でこの年23歳。 
58年に9本塁打、59年に5本塁打しているので 
この当時としては長打力があった方ですが 
通算打率が.204と奮わず、59年は二塁のレギュラーを務めたものの 
翌年、早稲田から近藤昭仁が入って引退。 

岡田は和歌山県の新宮高出身でこの年22歳。 
58年、毎日から移籍し21打点を挙げるも打率.227で翌年限り引退。 

中島は福岡県の糸島中出身でこの年(59年)29歳。 
56年に巨人から移籍してレギュラーとなるも通算6本塁打74打点、打率.223という選手。 

弱小だった球団でなんとか定位置を確保できていた選手が 
名の知れた大型ルーキーたちの入団によって押し出されたかっこうで 
ルーキーの桑田は1年目から四番を打って31本塁打でホームラン王に輝きます。 

こうした戦力の充実があって翌60年に知将・三原脩の下 
大洋は初優勝を遂げ、60年代前半には
しばしば優勝争いを演じる黄金時代を迎えます
(しかし、結局2度目の優秀を果たせず、
再び長い低迷期を送ることになるのですが…)。

■2009年の横浜ベイスターズ■
そして、今回の横浜ベイスターズ。
新人の松本啓次朗の場合、取って代わられたのは
なんと00年の首位打者・新人王の金城龍彦! 
昨年までに近藤昭仁や桑田武の安打数を上回る
1233安打を放っている (球団歴代12位)
球団史に残る名選手のはずですが、昨年は打率.247と奮わず、
開幕戦はスタメン落ちとなってしまいました。 

一方、山崎憲晴の場合は主砲・村田修一の故障離脱という緊急事態で 
三塁でスタメンとなりましたが、オープン戦から好調であったことから 
三塁でなくても遊撃(こちらが本職)でスタメン出場していたかもしれません。 

昨年は5位ヤクルトから19ゲーム差も離されるぶっちぎりの最下位で 
もう後がない大矢監督だけに、チームの顔である金城を外してまで 
新人選手の松本を起用して雰囲気を変えたかったのではないでしょうか? 

しかし、そこまでするなら、いっそのこと、捕手も
ルーキー・細山田をスタメンに起用した方がよかったかもしれません。 

59年にスタメンに3人の新人選手を起用したものの、 
大洋はこの年も結局、最下位に沈んだのですが、 
翌60年の初優勝を準備したという評価を得ています。 
さて、今季のベイスターズの戦いぶりや、いかに?  
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posted by しゅりんぷ池田 |16:27 | 野球 | トラックバック(0)
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