2007年09月29日

身長2m超のドラフト候補選手:関口将平(丸亀城西)

高校生ドラフトが近付いており、中田翔(大坂桐蔭)、佐藤由規(仙台育英)らの
交渉権をどのチームが得るか注目されていますが、個人的注目なのが、この選手。
スポーツ紙・誌のドラフト候補選手を上から順にずーっと眺めて行くと、
高校生・投手の項でとんでもないサイズが飛び込んできて驚きます。

関口将平 投手 丸亀城西	202cm	102kg	左投左打

この手のリストでかつて目にしたことがない「202cm」という数字!
「丸亀城西」というのは、かつての「丸亀商業」ですね。

この選手、甲子園にも出場していないので、全国的には無名なのですが、
ベースボール・マガジン社の夏の甲子園展望号でその写真を見ることができます。
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/070701z/index.html

同投手は小豆島の出身だそうですが、この秋のドラフトには
同島出身の候補選手がもう一人います。
下記で紹介しているトヨタ自動車の佐竹功年投手がそれなのですが
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/101
島から2人もドラフト指名選手が出たら大騒ぎでしょうね。
方や202cm、方や169cmというコントラストもすごいのですが…。

日本のプロ野球で2m超の身長というと外国人選手を除いてほとんど例がないのですが、
これほど高身長だと、バスケットボールやバレーボールといった
長身がアドバンテージになるスポーツや柔道や相撲などの格闘技に流れるのが一般的。
日本の球界では、後述するように「190cmを超える大型投手は大成しない」という
ジンクスめいたものもあって、2m級の選手はほとんど例がありませんでした。

過去、日本人の最高身長といえば、元巨人の馬場正平の209cm。
そう、のちのジャイアント馬場ですね。
しかし、BASEBALL ENCYCLOPEDIAの表記では200cm。
プロレス入り後に身長が伸びたはずで、
そうなると、関口がプロ入りすれば歴代最長身となるのかも?

馬場さんは二軍では56年から3年連続で最優秀投手となるなど活躍したそうなのですが
http://www.giant-baba.com/030library/10oudou16mon/oudou16mon04.php
一軍では57年に3試合に投げて0勝1敗の成績が生涯成績の全てなのです。
唯一先発した試合では中日の杉下茂投手と投げ合い(馬場は5回で降板)
1-0で惜しくも敗戦投手となるのですが、この勝利が杉下投手の200勝目だったのだとか。

58年に入団してきた長嶋茂雄と最初にキャッチボールをしたのが馬場という
エピソードもありますが、結局、59年限りで巨人を整理され
翌60年、大洋の春季キャンプでテストを受けていたところ、風呂場で転倒、
左ヒジの筋を切り、野球を断念、プロレスに転向することになったのです。
昨日のブログでも触れましたが、
馬場さんにも「二軍のタイトルホルダー」の悲哀を感じてしまいますね。

上記の「王道十六文(完全版)」で、馬場さんが
「大男だから足腰が弱い。大男だから粗雑でコントロールが甘い」という偏見に
苦しめられたと述懐されていますが、馬場さんが大成しなかったこともあって、
このような見方が球界ではさらに強まった感があります。

その後も身長193cmのジャンボ・仲根政裕も
73年からの5年間で2勝8敗の成績だと、打者に転向。
いつの頃からの習慣か分かりませんが190cm以上ある投手は
「188cm」程度に逆サバを読むことが半ば慣例化しました。

土浦日大高時代は190cmと喧伝されていた阪神の工藤一彦投手の登録は「186cm」で
「188cm」と公称されていた江本孟紀さんもやはり実寸は190cmあるそうなのです。
最近ではさすがに実寸発表のチームがほとんどになってきましたが、
まだ一部には残っているようなので、180cm代後半とされているピッチャーの身長は要チェックですね。

さて、202cmの関口投手は指名されるでしょうか?
2mから投げ下ろす快速球を見てみたいですね。

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2007年09月28日

オリックス・迎祐一郎、二軍で三冠王に

今季の二軍の日程は既に終了したのですが、オリックスの高卒8年目、
迎祐一郎選手がウエスタンリーグで三冠王を獲得したそうです。
しかし、これは喜んでいい記録なのか、そうではないのか…。

ファームの三冠王は過去に77年の庄司智久(巨人)、97年のボニチ(オリックス)、
00、01年2年連続でポール(西武)の例がありますが、
現在のファンの方がその名前を記憶に留めているかというと疑問です。
※庄司さんは下記でも触れていますがロッテに移籍後、ブレイク。
81年にはオールスターにも出場しましたが通算532安打44本塁打に終わります。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/69

第1号の庄司さんは打撃三冠に加えて盗塁王も獲得し、四冠王も獲得したのですが
同年は一軍試合出場なし。翌年は44試合に出場しましたが、打席は10打席のみ
(わずか1安打)で、代走要員がもっぱらで、翌年にはロッテにトレード。
当時の巨人一軍の外野陣は張本勲・柴田勲・柳田眞宏がレギュラーで
控えにも淡口憲治、山本功児、二宮至らがいて、
二軍の四冠王ですら食い込む余地がなかったのです。

97年のボニチも同年の一軍出場は3試合のみ(無安打)。
一軍ではニール、ドネルス(C・D)が活躍していてボニチは第3の外国人だったのです。
しかし、オリックスは二軍の三冠王、ボニチの活躍に期待して、
高額年俸のニールを解雇したものの、翌98年、ボニチが開幕から
11打席連続無安打(結局無安打のまま帰国)だと、慌ててニールを呼び戻し、
ボニチはシーズン途中に帰国することに…。

2年連続三冠王のポールは99年途中に入団して12本塁打を放つ活躍を見せながら
翌00年にトニー・フェルナンデス(MLB2158試合2276安打92本塁打)、
レジー・ジェファーソン(MLB680試合637安打72本塁打)という大物が来日して
第3の外国人に追いやられ、01年はカブレラ&マクレーンのツインバズーカが好調で
一軍試合はないまま、ファームで2年連続三冠王を獲得しながらリリース…。

二軍で三冠王を獲ろうとするなら1シーズンほぼフルに出場する必要があるのですが
好調でも一軍に呼ばれないというのは、上の同じポジションに磐石なレギュラー選手が
存在するという証左でもあります。

今回、ファームの三冠王を確認すべく、過去のイースタン・リーグ、ウエスタン・リーグの
受賞者一覧を見てみたのですが、二軍のタイトルを取って一軍のスターに
駆け上がった選手よりも、結局、「二軍の四番」で終わってしまった選手の方が目につきました。
二軍でタイトルが獲れるほど長期滞留してはいけないということなのでしょうかね。

今季、迎選手の一軍出場は10試合のみで25打数3安打で打率.120。
9月18日に出場登録され、22日の日本ハム戦は一番・センターで先発出場も果たしました。
今季のオリックスの外野は村松、下山、大西らが務めていましたが、
来季はまた新外国人外野手も入ってくるでしょう。
ファームの三冠王・迎選手がここに割って入れるでしょうか? 期待しています。
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posted by しゅりんぷ池田 |11:25 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年09月26日

チームに30本塁打以上が4人は過去、何例?

昨日の巨人vs中日の首位攻防戦は巨人が
小笠原 31号、阿部 33号、高橋由 34号、二岡 20号と一発攻勢で快勝しましたが、
巨人には30本塁打以上している打者が3人もいるんですね。
そして、昨日は不発だった李も28本塁打していて、もう少しで30本塁打。
1チームから30本塁打以上打った打者が4名も出るのはかなりレアなケースなのです。

最近、流行の検定風ですが、そういう例は過去、何例あったのでしょうか?
正解は下記の5例なんですね。

1978年 広島(3位)	山本44、ギャレット40、ライトル33、衣笠30
1984年 中日(2位)	宇野37、谷沢34、モッカ31、大島30
1985年 阪神(1位)	バース54、掛布40、岡田35、真弓34
2001年 ダイエー(2位)	小久保44、松中36、城島31、井口30
2004年 巨人(3位)	ローズ44、小久保41、阿部31、高橋30

みなさんが、一番よく覚えているのは85年の阪神の優勝時のそれでしょうね。
バース・掛布・岡田のクリーンアップトリオに加えてトップバッターの真弓までもが
ホームランを量産。打って、打って、打ちまくっての優勝だったので印象的です。
しかし、この5例中、優勝したのが阪神だけというのも意外な結果ですね。
これだけ点を取ってくれれば、試合展開も楽そうなものですが、
必ずしもそうならないのが野球の面白いところです。

そして、チームの最多本塁打記録を持っているチームはというと、
これも85年の阪神かと思いきや、それは3位タイの記録で
1位は04年の巨人の「史上最強打線」の計259本なんですね。

04年 巨人(3位)259本  ローズ 45、小久保41、阿部33、高橋 30
80年 近鉄(1位)239本  マニエル48、羽田30、栗橋28、平野 23 
80年 西武(4位)219本  田淵 43、タイロン35、山崎 25、土井 23 
85年 阪神(1位)219本  バース54、掛布 40、 岡田35、真弓 34

この年の巨人は上記4名以外にもペタジーニ29、仁志28、清水16、清原12と
打っていて、「史上最強打線」の名に違わぬ働きを見せましたが、
それでも優勝できなかったんですね…。

この巨人の259本が出るまで、長らく記録になっていた80年の近鉄、
確かにマニエルがよく打っていて全体的に打撃のチームだった記憶はあるのですが、
ちょっと意外な感もありました。この年の近鉄の主要メンバーというと…

(中)平野光泰	23本
(一)小川 享	15本
(右)佐々木恭介	19本
(指)マニエル	48本
(三)羽田耕一	30本
(捕)梨田昌崇	15本
(遊)吹石徳一	12本
(二)石渡 茂	9本

(内)アーノルド	11本
(捕)有田修三	16本

レギュラー選手はほとんど2ケタ本塁打していて、控えの2選手までもが2ケタ本塁打。
なるほど、これなら史上1位(現在は2位)にもなりますね。

さてさて、巨人は残り3試合しかないのですが、李選手は30号に到達するでしょうか?
そして、優勝の行方は…。まだまだ、目が離せませんね。
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posted by しゅりんぷ池田 |13:05 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年09月25日

同一高出身同一チーム20発超:村田修一&吉村裕基

横浜の吉村裕基選手が今季20号を放ち、
チームメートで東福岡高の先輩・村田修一とともに2年連続20本塁打以上をマーク。
同一チームで同じ高校出身の選手が20本塁打以上を2度記録したのは、
79~80年、ロッテのレオン・リー、レロン・リー兄弟以来で、日本人では初、
という記事がスポーツ報知に載っていました。
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070924-OHT1T00047.htm

相変わらず、すごい記録を発掘してくるなあ~と感心してしまうのですが、
「2度記録したのは初」とあるので、過去に1度記録したコンビがいるはずですよね。
いったい、誰と誰なんだろう? と気になって仕方がありません。

しかし、この条件は意外に厳しいですよ~。
PL学園や横浜高のような、プロ野球選手を多数輩出している名門校もあるので、
同じチームに同じ高校出身の先輩・後輩、同級生がいることは、ままあるのですが、
どちらもレギュラー選手というのは、なかなかないこと。
投手を除く8つのポジションのうち2つを同じ高校出身の選手で占めた上に、
どちらも20本塁打以上する長距離砲でなければならないのですから…。

例えばPLだと84年から95年にかけて、
広島に西田真二(60年生)と小早川毅彦(61年生)が同時に在籍していましたが、
西田はシーズン13本塁打が最多で条件に合いません。

98年から02年にかけて、阪神で坪井智哉(74年早生)&今岡誠(74年生)の
PLコンビもありましたが、坪井は阪神時代は2ケタ本塁打はマークしていません。

では、横浜高はというと、横浜の多村仁(77年早生)が05年に31本塁打、
後輩の小池正晃(80年生)が20本塁打と、この条件をクリア!
あら、まあ、簡単に見つかっちゃいましたね。それも村田&吉村ペアと同じベイスターズとは…。

このコンビは多村選手の移籍で解消されてしまったわけですが、
多村選手が94年にドラフト4位で入団した際の横浜のドラフト1位が
やはり横浜高の同級生だった紀田彰一。
(この年は同じく同級生の斉藤宜之が巨人に4位指名され、
横浜高のクリーンアップトリオが揃ってプロに進み、話題となりました)
紀田は結局プロで1安打のみで終わってしまったのですが、同選手が大成していれば
史上まれな高校の同級生によるホームランデュオが誕生していたかもしれません。

他にそういう例はないのでしょうか?
だいたい、同じ高校出身の選手が同じチームで
同時期にレギュラーだったという例自体が珍しいですものね。

思いつくのは、古い例ですが、57年から71年にかけての、
大毎の榎本喜八(36年生)と醍醐猛夫(38年生)の早実コンビ。
しかし、これも醍醐さんのMAXが15本塁打で及びません。
早実だと71~75年のヤクルトで荒川堯(47年生)&大矢明彦(47年生)の
同級生コンビがありましたが、2人とも20本塁打に達せず。

これは! と思ったのは76~79年の巨人の張本勲(40年生)&高田繁(45年生)の浪商コンビ。
日本ハムからトレードされてきた張本さんに押し出される形で高田さんがサードに
コンバートされたものの、ここでも2年連続でゴールデングラブ賞を獲得する大活躍で
コンバートの大成功例として記憶されていますが、
その高田さんも77年の17本塁打が最高と届かず。

高校の同級生コンビで有名なのは79~82年、
阪神の若菜嘉晴(53年生)&真弓明信(53年生)の柳川商コンビですが、
若菜さんには2ケタ本塁打の記録がありません。
75~78年、広島の大下剛史(44年生)&三村敏之(48年生)の広島商コンビも
72~83年、ロッテの有藤道世(46年生)&弘田澄男(49年生)の高知高コンビもしかり。

そう考えると、村田&吉村の同窓・ホームランデュオというのは奇跡的に思えてきますね。
それにしても、この2人のコンビは気持ちが良いです。
かつてのヤクルトの広沢克己&池山隆寛の「イケトラコンビ」が
売り出したころに似た雰囲気で、明るい未来を予感させます。
リー兄弟の同一高出身同一チーム20発超の記録は79、80年の2年間のみで
終わっているのですが、村田&吉村(何かコンビ名が欲しいところですね)の
それは3年、4年と続いて行きそうな気がしますね。応援しています。
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posted by しゅりんぷ池田 |14:56 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年09月15日

僕らの知らないあんな会社、こんな会社:丹羽鉦電機、あけぼの通商

前回、元阪神の伊藤文隆さんのことを調べていて
出身企業の三協精機(現・日本電産サンキョー)が
オルゴールを製作していたということを始めて知って大変驚きました。
長野県の会社ということで時計とか精密機器の製造をしている会社かな?
と思っていたのですが、意外な事実に驚いた次第です。

このように、プロ野球選手を多く輩出している有名な会社でも
では、実際何をやっている会社か? と問われると、
よく分からない企業というのが、まま、あります。

例えば、この夏の都市対抗野球でもベスト4入りした鷺宮製作所。
「鷺宮(さぎのみや)」というのは東京都中野区の地名なのですが、
では、何を製作している会社なのか? 
調べてみたところ、自動制御装置を製造する会社なのだそうです。
http://www.saginomiya.co.jp/

元中日の松本幸行投手、元広島の川口和久を輩出した
大阪のデュプロは印刷機器の会社で、
http://www.duplo.com/index.html

既に野球部は廃部となった北海道のサンワード貿易は商品先物取引業の会社、
http://www.sunward-t.co.jp/index.htp

元ロッテの仁科時成投手も在籍していた香川の大倉工業は合成樹脂フィルム等
(ゴミ袋、レジ袋等々)を製造する化学メーカーだそうで、業界でもかなり大手なのだとか。
http://www.okr-ind.co.jp/okhp/w.html

「○○自動車」「○○生命」のようなエンドユーザーに直結している会社だと
業務内容も把握しやすいのですが、そうでない会社はやはり分かりにくいですね。
僕らの知らない、意外な大企業というのが世の中には、まだまだたくさんあるようです。

そして、プロ野球マニアの間でよく話題に登る、謎の社会人チームというと
「丹羽鉦電機」と「あけぼの通商」。どちらも、元日本ハムの柴田保光投手、
島田誠外野手のプロフィール上に現れてくる企業名ですね。

◆柴田保光	
島原農-丹羽鉦電機-あけぼの通商-西武(79<2>)-日本ハム(84~93引)
通算346試合84勝97敗13S、ノーヒットノーラン(1990.4.25)

◆島田 誠
直方学園-九州産業大-丹羽鉦電機-あけぼの通商-日本ハム(77外)-ダイエー(91引)
通算1576試合1502安打76本塁打352盗塁、打率.279

丹羽鉦電機は1928年、愛知県瀬戸市に丹羽鉦一氏により設立された会社で、
88年に社名変更して、現在は株式会社ニワショーセラム。
ファインセラミックス、電磁器の製造及び販売をしている会社だそうです。
http://www.niwasho.co.jp/index.html
これまた、専門性の高そうな会社ですねえ~。

丹羽鉦電機からは74年秋のドラフト、日本ハムの2位で川原昭二(通算30勝)、
翌75年秋も日本ハムの1位で福島秀喜(一軍未出場)、
3位で中村 武義(一軍未出場)と3名が指名され、
それは3人とも投手で日本ハムという深い結びつきで、
先の柴田、島田もまた日本ハムに在籍という不思議な因縁。

で、この丹羽鉦電機野球部が不況もあって76年秋に廃部となったものの
プレーの継続を願った部員たちが当時の池田和隆監督の下に結集し
同監督の郷里・福岡で立ち上げたチームが「あけぼの通商」だったそうなのです。
(詳細は下記をご参照ください)
http://www.taiken.ac.jp/kitakyushu/topics/t060725073821.html

この会社の社長は池田監督の実父・池田義定氏で
柴田さんたちは海産物の行商をしながら野球を続けていたそうなのです。
(その際の苦労譚を綴った柴田さんの実録マンガを読んだ記憶があります。
作画は、「名門!第三野球部」のむつ利之先生だったような…)

このチームは9年ほど継続し、下記8名がプロ入りします。
生田裕之	77年2位	中日	一軍試合出場なし
島田 誠	77年外	日本ハム	1504安打76本塁打
柴田保光	79年2位	西武	84勝97敗13S
井上幹夫	79年外	阪急	一軍試合出場なし
地頭方一男	81年外	西武	一軍試合出場なし
粕谷和彦	85年外	南海	一軍試合出場なし
原田賢治	86年外	阪急	7勝6敗3S
広瀬真二(※)	89年外	ダイエー	一軍試合出場なし

(※)広瀬真二はその後、九州三菱自動車を経由しての入団

8名中6名がドラフト外というのがいかにも雑草軍団という感じで、
多くの選手が一軍試合出場なしで終わっていますが、
柴田保光、島田誠と大成功した選手を2人も出しているのは立派です。

最近も、社会人野球のチームの廃部が相次ぎ、各地にクラブチームや
独立リーグが立ち上がっていますが、30年前にも、このように苦労して
野球を続けていた選手たちがいたことを覚えておいてください。
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2007年09月14日

元阪神、伊藤弘利・宏光・文隆、苦悩の現役14年

9月30日(日)の神戸のカードショーで阪神タイガースの85年優勝時のメンバーである、
真弓明信、伊藤文隆、両氏のトークショー&サイン会が行われるそうです。
阪神ファンにはたまらない顔合わせではないでしょうか? 詳しくは下記をご覧ください。
http://www.jin.ne.jp/hoopkids/info.htm

真弓さんは超有名選手なので、みなさんもよくご存知だと思うのですが、
伊藤さんの方は覚えていますか? 2ケタ勝利を挙げたのは1シーズンのみだった
のですが、阪神の苦闘の80年代を支えたローテーション投手の1人でした。

当時の投手陣の中でもナンバーワンの球威を誇り、毎年、「今季こそエースに!」と
期待をかけられながら、なかなか成績が挙らず、改名・背番号変更を繰り返すなど、
チーム状況同様に、苦闘を強いられていた選手という印象があります。

伊藤さんは77年秋のドラフト1位で三協精機から阪神に入団。
江川卓が法大4年で、クラウンから1位指名を受けた年ですね。

伊藤さんの出身チーム、三協精機は、他にも現巨人の会田有志投手の父親で
ヤクルトでも活躍した会田照夫投手、83年の新人王、二村忠美外野手(日本ハム他)
などを輩出した長野県の社会人野球チーム。
スピードスケートの清水宏保がかつて所属していたスケート部も有名ですね。

野球部は既に解散していたはず…と思って調べてみたところ、なんと、会社自体が
日本電産の傘下に入り、「日本電産サンキョー」と社名を変えていたのですね。
で、これは全然知らなかったのですが、かつての三協精機はオルゴールの世界的な
メーカーで、盛時には世界のオルゴールムーブメント(オルゴールの機械部分)の
シェアの80%を占めていたのだとか! 

話は伊藤さんの現役時に戻りますが、年度ごとの成績をまとめてみるとこんな感じ。

年度	登録名	背番号	成績		順位	監督
1978年	伊藤弘利	20	18試合	1勝1敗	6位	後藤次男
1979年	伊藤宏光	20	23試合	1勝3敗	4位	ブレイザー
1980年	伊藤宏光	20	21試合	4勝6敗	5位	ブレイザー/中西
1981年	伊藤宏光	20	33試合	8勝8敗	3位	中西 太
1982年	伊藤宏光	20	27試合	10勝10敗	3位	安藤統男
1983年	伊藤宏光	20	35試合	6勝7敗	4位	安藤統男
1984年	伊藤宏光	20	32試合	4勝11敗	4位	安藤/佐藤
1985年	伊藤宏光	20	25試合	5勝5敗	1位	吉田義男
1986年	伊藤文隆	20	29試合	8勝8敗	3位	吉田義男
1987年	伊藤文隆	20	19試合	0勝9敗	6位	吉田義男
1988年	伊藤文隆	14	6試合	2勝0敗	6位	村山 実
1989年	伊藤文隆	14	27試合	3勝8敗	5位	村山 実
1990年	伊藤文隆	14	24試合	2勝4敗	6位	中村勝広
1991年	伊藤文隆	14	1試合	0勝1敗	6位	中村勝広

入団した78年、阪神は球団史上初めての最下位に沈んだ年であり、
即戦力と期待された伊藤さんもわずか1勝に終わり、翌シーズンからは
「伊藤宏光」に改名。81年からは6年連続で100イニング以上に投げ
ローテーションの一角を占め、82年に自身初の2ケタ勝利となる10勝。

85年も5勝を挙げて優勝に貢献したものの、やはり納得の行く成績ではなかったのか
翌年から現在の「伊藤文隆」に改名。その86年は8勝を挙げたものの、
翌87年、0勝9敗でチームも最下位に沈むと今度は背番号を変更。

そして迎えた88年シーズンは開幕から2連続完封と、34歳にしてついに開花か?
と思われたのですが、続く3戦目、一塁にベースカバーに入った際にスパイクを
受けて右足を負傷。この年は結局わずか6試合の登板に終わり、
3年後に引退を迎えることになります。実働14年で通算54勝81敗。
苦しみ抜いた14年という感じですが、この時期はチームの低迷期で
この間に仕えた監督がなんと8人(代理監督を含む)。
強い時期のタイガースであれば、また、伊藤投手も違ったキャリア曲線を
描いたのかもしれませんが、苦しい中で長くローテーション投手を務め、
85年優勝時にも立ち会えたということで、ファンの心に残り、
現在も阪神戦のテレビ中継の解説者として活躍されているのだと思います。

9月30日の神戸カードショー、お近くの方はぜひ行ってみてください。
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2007年09月06日

社会人野球に1年しか在籍しなかった選手:江本孟紀、高橋直樹、他

最近は社会人野球の記事ばかり読んでますが、元阪神の江本孟紀さんが
都市対抗野球で古巣の熊谷組のユニフォームを着て始球式を行なったそうです。
http://news.www.infoseek.co.jp/society/story/photo02mainichiF20070904k0000m040076000c/

これはなかなかの好企画ですね。そして、元日本ハムの高橋直樹さんも
日本鋼管のユニフォームを着て同様にセレモニーを行なったのだとか。

熊谷組は江本さん以外にもパンチ佐藤や波留敏夫を輩出した名門チームでしたが、
不況のあおりを受けて94年に休部、
高橋さんの方の日本鋼管は川崎製鉄と統合してJFEスチールとなりました。
日本ハムの稲田直人選手が所属していたJFE西日本は、かつての日本鋼管福山ですね。

ところで、江本さんは実は熊谷組に1年しか在籍しなかったのですよ。
最近では、社会人野球の場合、高卒は3年間、大卒は2年間在籍してからでないと
プロに入団できなくなっているのですが、この規定ができたのは73年のことなのです
(当初は高卒、大卒に関わらずドラフト指名は2年間禁止だったのですが、
77年から高卒選手は禁止期間が3年に延長)。

江本さんは、法大時代、同期に六大学の最多勝記録を持つ山中正竹がいたため
登板機会に恵まれず、4年秋には事情があって、ベンチ入りしていなかったのですが
プロ入りを熱望し、熊谷組入社後もツテを頼って駆けずり回り、
なんとかドラフト外で東映入団に漕ぎ着けたそうなのです。

その一方で、有力選手が、高卒時、大卒時のドラフト指名を拒否して
社会人に進み、その秋に再度指名を受けて
在籍1年のみでプロに転じるというケースもままありました。

67年秋のドラフトで全体1位で南海から指名された慶大のエース、藤原真投手は
これを拒否して鐘紡に進み、翌年サンケイ(現ヤクルト)の1位指名(全体で5番目)
を受けてプロ入りしました。しかし、藤原は1年目こそ9勝を挙げて2年連続ドラフト
1位の面目躍如たる活躍を見せましたが、以降は勝ち星が挙らなくなり、
実働8年、23勝48敗の成績で引退してしまいます。

名球会投手の平松政次さんの場合は、さらに複雑で、
65年秋の第一回のドラフトでは夏の甲子園の準優勝投手、木樽正明投手と
ともに目玉選手の一人と目されていた(その年のセンバツの優勝投手で
39イニング連続無失点という記録を樹立)のですが、指名はなんと中日の4位!

この回のドラフトの方式は複雑で、また初回のため各チームの駆け引きもあって、
思わぬ選手が上位指名されたり、有力選手が下位になってしまったりと混乱した
そうなんですね。平松さんの場合、下位指名が不服というよりも、
巨人入りを熱望し、これを拒否して日本石油に進みます。

さすがに評判の好投手だけに、社会人でも、すぐに活躍を始めたのですが、
その年の都市対抗の準決勝、熊谷組との対戦でサヨナラホームランを浴びて敗退
したことが大変悔しかったそうで、その年の秋のドラフトで大洋の2位指名を受けた
ものの、これを保留して、翌67年も日石に残留。夏の都市対抗で優勝を収めてから
シーズン途中に大洋入りしたのでした。ところが、中途半端な時期に入団したために
背番号が開いておらず、平松投手は背番号「3」を付けたのでした(翌年から「27」に変更)。
これは、「長嶋ファン」だった、平松さんのリクエストだったそうなんですね。

実は、このように指名されたものの、翌年の都市対抗に出てからシーズン途中に
入団するという事例も過去にはよくあったのですが、これもまた73年に
「前年の交渉権が生きている社会人選手も、シーズン中のプロ入りはできない」という
規定ができて禁止になってしまいました。

先述の高橋直樹さんも67年秋に東映(現日本ハム)の3位指名を受けて
翌68年10月に入団されました。多くの文献でこの67年秋時点での高橋さんの
所属が日本鋼管となっているのですがこれは誤りで、高橋さんは同年近鉄に
1位指名を受けた三輪田勝利さんと同じ早大4年生だったのです。
1945年2月15日生まれの高橋さんと
1945年7月11日生まれの三輪田さんがどうして同級生だったのか? 
高橋さんが大学進学時に浪人したのかといえば、さにあらず。
実は、高橋さんは子供のころ身体が弱かったこともあって、
小学校に1年遅れで進学したそうなのです。
これは高橋さんご本人に聞いた話なので、確かです。
つまり、高橋さんはドラフトの交渉権を保留したまま就職して、
都市対抗に出場、就業1年足らずでプロに転じたわけです。
http://sunfish-web.hp.infoseek.co.jp/naoki.html

企業の人事部の方に言わせると、新入社員のリクルーティングや研修に
相応の費用がかかっているので、早々に辞められてはたまったものでないという
ことなのですが、この場合はどうなんですかね?
野球部員の場合、リクルーティングは高校や大学の推薦で決まるでしょうし、
社業の研修に力を入れているようにも思えないですから。

確かに1年足らずで会社を去るというのはなんとなく憚られる気もしますし、
高卒3年、大卒2年というドラフト指名禁止期間は妥当なような気もしますが、
人材のモビリティーが高まった現在において、指名禁止期間を設けることが
本当に正しいのかどうかは疑問が残る部分でもあります。

この制度ができてから、もうかなりの時間が経っているので
在籍1年で社会人野球を通過してしまう選手がいたことをご存知ない方も
多いのでは? と思い書き留めてみました。
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2007年09月05日

社会人野球のチームに9年間在籍した男:福間納(元阪神)

ベースボール・マガジン社のムック「シリーズ野球彩色」の第3弾、
「憧れの記憶」連続写真で見るスーパースター 投手編が発売となりました。
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook500/index.html
(野手編も同時発売!)
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook501/index.html

週刊ベースボールでず~うっと続いている、中カラーの選手のピッチングフォーム、
バッティングフォームを連続写真で紹介している、あのページをまとめたものですね。
写真ばかりで、そんなに読むところはないのかな? と思っていたら、
それぞれの選手の紹介文も相当量が載っていて、なかなか読み応えがあります。

で、何気なく読んでいたら、85年の阪神優勝時に中継ぎとして活躍した福間納投手の
ページで、「社会人野球の松下電器に進んでからは、投手を続ける傍ら、
外野手を務めることもあった」と書かれていて驚きました。
え! そんなことがあったの!? という感じです。

で、調べてみたら、福間さん、現在もマスターズリーグで活躍中なのですが、
登録はなんと「外野手」で、最多安打を記録したシーズンもあったのだとか!
http://www.89master.com/team/osaka_html/fukuma.html

この福間投手、実はプロ入りがすごく遅かったので印象に残っています。
69年の春のセンバツに島根・大田高のエースとして出場したあと、
翌70年に社会人野球の強豪、松下電器に入部。
その年のドラフトでも阪急から7位指名を受けたもののこれを拒否し、
78年秋のドラフトでロッテの1位指名を受けてようやく入団したのですから、
同社に実に9年の長きに渡って勤めていたわけです。

福間さんはあの太田幸司投手と同期で、高卒でプロ入りした同級生には
下記のようなメンバーがいるのですが、八重樫のように大器晩成型の選手を除けば
ほとんど70年代の選手というイメージで、80年代に活躍した福間さんとは
世代がズレているような感がありますね。

福間 納	阪神他。90年引退
太田幸司	近鉄他。84年引退
八重樫幸雄	ヤクルト。93年引退
西井哲夫	ヤクルト他。87年引退
井原慎一郎	ヤクルト。84年引退
柳田 豊	近鉄他。87年引退
間柴富裕	日本ハム他。90年引退
河埜和正	巨人。86年引退

太田さんは79年を最後に勝ち星が挙がらなくなり、
現役最後の84年には福間さんと同じ阪神に所属したのですが、
結局、一軍未登板のまま引退。一方の福間さんはこの年、当時の日本記録に
あと1試合と迫る77試合に登板してリーグ記録を樹立したのですから、
本当に好対照な結果となりました。

話が前後しますが、福間さんが70年に松下入りした後、翌71年には
岡山・津山商から福井保夫、73年に関西大から山口高志が相次いで入部。
74年秋のドラフトで1番クジを引いた近鉄がその年の最大の目玉選手であった
山口をスルーして、同チームの準エース、福井を指名し、2番クジの阪急が
山口を獲得、山口が期待通りの活躍を見せて阪急の連覇に貢献したのに対して、
福井は実働5年で2勝3敗に終わるという、これまたドラフト史上に名高い大失敗の
例となったのですが、福間さんはこの2人に次ぐ3番手の投手だったそうなのです。

しかし、9年間も社会人でプレーを続けるというのはモチベーションが保ちにくかった
と思うんですね。「外野を守ることもあった」というのは、そういう野球に飽きかけた
福間さんのモチベーションを持続させる、ひとつの手立てだったような気がするのです。

福間さんはその後の78年ドラフトで1位指名を受け、ようやく入団したものの、
その当時は毎年のように「主な指名漏れ選手」という欄に名前が載っていたような
覚えがあります。社会人でもトップクラスの松下電器のエースですから、
入団すれば、それなりの活躍が見込めたのでしょうが、そこまでプロ入りが遅れると
「福間を指名するなら1位でないと…」みたいな微妙な空気が生じたのではないでしょうか?

そして、ようやく、福間投手を1位に据えたのが、当時、ドラフト指名候補選手から
もっとも忌避されていた不人気球団のロッテ。前々年76年秋のドラフトでは
1位の森繁和(駒澤大。のち西武)、2位の前川善裕(早稲田大-日本鋼管)に
相次いで拒否されたりしていたのですが、プロ入り待ったなしの年齢になった
福間を1位指名すれば、間違いなく入団してくれるだろうという計算もあったの
ではないでしょうか? なにしろ、この年も2位指名した、全日本の四番・菊地恭一
(東芝。のち大洋入り)、4位指名の武藤信二(我孫子高)にも拒否されていたのです。

1位で27歳の福間投手を指名したロッテは、3位でも間もなく25歳を迎える
高齢選手を指名したのですが、それが後の三冠王、落合博満(東芝府中)だったのです!
4名中2名しか入団してくれなかったものの、結果的に、
この年のロッテのドラフトは大成功だったと言えるでしょう。

ところが、当の福間投手はロッテでは芽が出ず、2年間在籍したのみで
(27試合で0勝1敗)、阪神にトレードされてしまいます。
ドラフト1位投手が2年で放出されるというのは珍しいケースですが、
これも高齢入団選手ならではの事情でしょうね。

しかし、このトレードを機会に福間投手は阪神の中継ぎ役にぴったりはまり、
82年からの4年間は毎年50試合以上に登板して83年には最優秀防御率の
タイトルも獲り、85年には日本一も経験。一方、交換相手の深沢恵雄投手も
それまでの不振(5年間で1勝3敗)を払拭して、2ケタ勝利を3度挙げる投手に
成長したのですから、双方が益を得る、大成功トレードとなりました。

この福間選手の社会人チームに9年在籍というのはすごいことなあ~と思っていた
のですが、現在のプロ野球には社会人に10年以上在籍した選手がいるのです!
その1人は日本ハムの立石尚行投手で、同選手は市立船橋高を出たあと、
NTT関東に加わり、10年在籍したあと日本ハムにドラフト3位指名を受けて入団。
また、楽天の草野大輔内野手は延岡学園卒業後にNTT東京、NTT九州、ホンダ
熊本と渡り歩いて、社会人在籍11年! その草野選手と同年生まれで同年入団の
山崎隆広外野手は大学中退後に社会人入り(NTT東海-NTT西日本)したため、
正確な在籍年数はわかりませんがやはり10年前後在籍していたのではないでしょうか?

最近では30歳を超えてプレーを続ける社会人野球の選手も増え、
今回の都市対抗でも72年生まれ(35歳!)の選手たちが活躍して話題となりました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/shakaijin/archive/news/2007/09/02/20070902ddm035050151000c.html

科学的なトレーニングの発達でプロ野球選手の寿命の伸びが顕著になっていますが、
社会人野球にもその傾向があるんですかね?
ドラフト制施行以降の最高齢入団は83年、中日の市村則紀投手(1952年7月16日
生まれで、この年、31歳!)ですが、今後はこれを上回るケースも出てきそうです。
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2007年09月04日

同一学年から最もプロ野球選手を輩出した学校は?

阪神の桜井広大選手が大活躍中ですね。
早くから若き長距離砲として期待されていたものの、林威助、喜田剛(現広島)と
似たタイプの野手が多く、どうかな? と思っていたのですが、
高卒6年目にして、ついに頭角を現してきました。

同選手はPL学園の出身ですが、同期にはロッテの今江敏晃内野手、
楽天の朝井秀樹投手、ソフトバンクの小斉祐輔外野手がいたのですね。
いち早く活躍を始め、ロッテの若き主砲となっている今江選手に、
今季ようやくローテーション投手となった朝井投手、
育成選手から這い上がってきた小斉選手と多士済々ですが、
同級生4人がプロ入りしているなんて、すごいですね。
リアル『ドカベン』みたいで、ワクワクしますが、
こういう同一学年から複数名のプロ入りというのは意外によくあるケースです。

みなさんも、すぐ思い浮かぶのは、KK世代のPL学園でしょう。
桑田真澄(前パイレーツ)、清原和博(オリックス)に松山秀明(元オリックス)、
内匠政博(元近鉄)、今久留主成幸(元西武他)の5人が入団。
その2期下でも立浪和義(中日)、片岡篤史(元阪神他)、野村弘樹(元横浜)、橋本清
(元巨人他)の4人がプロ入りし、総合力ではKK世代に劣らない活躍を見せました。

最近でも松坂世代の横浜高から松坂大輔(レッドソックス)、後藤武敏(西武)、
小山良男(中日)、小池正晃(横浜)の4名がプロ入り。
その後も01年夏の甲子園を制した日大三高からは、近藤一樹(オリックス)、
千葉英貴(元横浜)、都築克幸(元中日)、内田和也(西武)と一気に4名が
ドラフト指名を受け、話題を呼びましたが、既に千葉と都築は退団しています。

また、大学では91年秋のドラフトで東北福祉大から
斎藤隆(ドジャース)、作山和英(元ダイエー)、浜名千広(元ダイエー他)、
伊藤博康(元巨人)、金本知憲(阪神)の5名が一挙に入団。

もっと古い例では1956年に明治大から大洋に秋山登、土井淳、岩岡保宏、
沖山光利、黒木弘重の5名が一気に入団し、「明大五人衆」と呼ばれましたが、
この学年では他にも松岡一郎という選手が中退して松竹入りしているそうです。

それでは、同一学年から最もプロ野球選手を輩出した学校はどこになるのでしょうか?

プロ野球草創期には、チームの陣容が整わず、特定の大学からこぞって選手が
プロ入りしたりもしているのですが、戦前は学制が現在のものとは異なり、
大学に入学する年齢がまちまちだったので、誰と誰が同期だったのか判然としません。

個人的に、ドラフト制施行以降で、この年代が最多では? と思っているのが
谷沢&荒川世代の早大の7人です。

谷沢健一(中日1位)			2062安打273本塁打
荒川 堯(大洋1位-ヤクルト)		195安打34本塁打
小田義人(大昭和製紙-ヤクルト2位-他)	610安打67本塁打
千藤三樹男(北海道拓殖銀行-東映7位)	617安打42本塁打
阿野鉱二(巨人2位)			33安打5本塁打
安田 猛(大昭和製紙-ヤクルト6位)	93勝80敗17S
小坂敏彦(巨人1位-日拓・日本ハム)	9勝8敗2S

この中で特に有名なのは首位打者2度の谷沢健一さんと
後年、『がんばれ!!タブチくん!!』にも登場する人気者となった、
ペンギン投法の安田猛さんのご両名でしょうが、他のメンバーもなかなかのもの。

現在はヤクルトのスカウト部長を務めている小田義人さんは、日本ハムに移籍した
75年に太平洋の白仁天と首位打者を争い、ベストテン2位の打率.319。
その後も南海、近鉄と移籍を繰り返し、落ち着かなかったこともあって
通算成績は残せませんでしたが、メガネをかけた一塁手として印象に残っています。

日本ハムで代打や外野の控えとして渋い活躍を見せた千藤三樹男さん。
後楽園球場時代に同選手を取り囲む少年ファンたちを並ばせ全員に
サインを書いてくれた(100余名ほどもいたのだとか)ということで、
そのうちの1人だった、のちのタレント、伊集院光さんが
日本ハムファンになったというエピソードの持ち主です。

小坂敏彦さんは渡辺秀武さんの回でも取り上げましたが
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/98
早大時代は、のちの新人王、安田さんを差し置いて通算22勝を挙げた大エース。
安田さんのプロでの実績からすれば、小坂さんももっと活躍しておかしくなかったと
思うのですが、必ずしもそうならないのが、野球の面白いところ。

大学時代はエース格の投手がほとんど投げていて、
控え投手は登板機会がなかったのに社会人を経由する等してプロ入りし、
その控え投手が大成するなんてこともままあります。
亜細亜大時代は小池秀郎(元近鉄他)がエースで、控えが高津臣吾(ヤクルト)、
そのまた控えが川尻哲郎(元阪神他)だったという例もありました。

捕手の阿野鉱二さんは、V9時代の森昌彦、吉田孝司らとの競争に敗れ
ついにレギュラーポジションは獲れませんでしたが、
背番号「10」の控え捕手として、ご記憶の方も多いと思います。

そして、最後に紹介するのが、荒川堯さん。
荒川さんの養父は王貞治に一本足打法を伝授した伝説の打撃コーチ、
荒川博氏で、69年秋のドラフトでは巨人かヤクルト入りを熱望し、
大洋が1位指名したものの、これを拒否。
翌70年暮れにヤクルトへの移籍を前提に大洋に入団することになったのですが、
当然、大揉め(以降、このような三角トレードは禁止に)となります。
明けて71年正月には大洋ファンと思われる暴漢に襲われて頭部を負傷。結局、
この後遺症で視力が減退し、実働わずか5年で引退に追い込まれてしまったのです。

プロ入り2年目の72年には83試合の出場ながら18本塁打、打率.282の
好成績を収め、ハンサムなルックスも相まって期待されていたのですが、
結局、大成することなく球界を去ったのはかえすがえすも残念です。
早大在学中には荒川さんが19本塁打、谷沢さんが18本塁打していたのですから、
荒川さんがキャリアをまっとうしていれば、
谷沢さんに勝るとも劣らない活躍をしていたと思うのですよ。

今後も、同じ学校から、複数のプロ入り選手が出ることはあると思うのですが、
7名もの大量入団となるとなかなか難しそうですね。

冒頭で取り上げた、今江・朝井・桜井・小斉の4選手はまだ20代半ばの若さですが、
将来的にはどうのようなキャリア曲線を描いて行くのでしょうか? 楽しみですね。
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2007年09月03日

「ハンカチ王子」の手本となったトヨタ・佐竹投手の母校

本日、準決勝を迎える都市対抗野球。毎日新聞が主催社ということで、
同大会の模様を詳しく伝えてくれているのですが、日頃あまりニュースに載らない
アマチュア選手の動向が分かったりして面白いですね。

例えば、95年の春のセンバツで優勝投手となった久保尚志選手
(観音寺中央高-中央大)がベスト4に進出した東京の鷺宮製作所で活躍している
報を目にして大変、懐かしく思いました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/shakaijin/local/news/20070902ddlk13050097000c.html

同年は阪神大震災があった直後の大会として記憶されていますが、
わたしの地元の香川県の学校が久々に優勝を遂げたということもあって
同選手の動向も気にかけておりました。大学に進んで野手に転向し、
社会人入りした頃にはドラフト候補にも名前が挙っていたのですが、
最近はその名を目にすることもなくなっていたので、
どうしているのかな? と思っておりました。
それが、今回、久々に名前を目にして、まだ現役を続けていることを知った次第です。

そして、本日の紙面ではトヨタ自動車の佐竹功年投手が紹介されておりました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/shakaijin/news/20070903k0000m050076000c.html

同投手は169cmという小兵ながら、早稲田大時代からドラフト候補にもあがっていた
有力選手で今秋のドラフトでの指名が確実視されていますが、
わたしも早大時代から注目しておりました。
というのも、同投手の出身校が「土庄高」だったからです。

この地名、「とのしょう」と読むのですが、瀬戸内海の小豆島の地名なのです。
自分は小豆島がある香川県出身なので、知っていたわけですが、
中央球界ではまったく無名の高校から、
ドラフト候補投手が浮上してきたので驚いたわけですが、
プロ野球で過去に1度だけ、この校名がクローズアップされたことがありました。

1965年秋の第1回ドラフトで阪神の1位指名を受けた石床幹雄投手の出身校が
その土庄高だったのです。
この回のドラフトで、阪神は地元・兵庫育英高の鈴木啓示投手を
指名すると目されていたのですが、
佐川直行スカウトが一世一代の大博打を打って、
中央球界ではまったく無名の石床を指名し、鈴木は近鉄へ…。

甲子園の出場経験こそないものの、高校2年次の練習試合で
のちの200勝投手、平松政次(岡山東商)と投げ合って完封した石床投手を
隠し玉として指名したのですが、この大博打は大ハズレとなってしまいました。

石床投手は内臓疾患のため、わずか5年で引退、通算1勝1敗という成績に終わり
近鉄の大エースとして君臨し、通算317勝を挙げた鈴木啓示とのコントラストが
あまりに大きかったため、その後も、
ドラフト史に残る大失敗事例として記憶されています。

その後、石床さんは郷里の小豆島で活魚料理店を経営されていましたが、
04年11月に心不全で他界。
母校・土庄高はその後も甲子園に出場することなく、プロ入りする選手もいなかったのですが、
40余年を経て、ついにプロ入り第2号選手が登場しようとしているのです。

佐竹功年投手がプロ入りすれば、再びこのエピソードが紹介されるようになると思いますが、
因縁の阪神も同投手をリストアップしているのだとか…。この秋のドラフトが早くも楽しみです。
20070903-00.jpg


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