2007年08月30日

真田重蔵って知ってる?

昨日のブログで書いた「プロ野球コーチから高校教師に転身した人物を描く実話を
元にしたドラマ」の件、近年話題になった例というと高畠導宏さんしかいないので
おそらく間違いないとは思うのですが、ひょっとしてはるか昔の真田重蔵さんとか
じゃないだろうな? と思ってちょっと調べてみたのです。

みなさんは、真田重蔵さんってご存知ですか?
同選手は殿堂入りもしており、ノーヒットノーランも2回達成、
2リーグ分立の1950年には年間39勝を挙げて松竹ロビンズの初優勝にも
貢献した大選手ですが、現役引退後の63年には大阪の明星高の監督として
夏の甲子園で優勝を果たすという珍しい経歴の持ち主なのです。
(真田さんは選手としても戦前に優勝経験あり)

その真田さんが高校野球の監督になる前にコーチ経験があるかも? と思って
調べてみたのですが、同選手は現役引退後はコーチにならず、評論家から
高校野球の監督となり、それ以前にコーチ経験はなかったようです。

ところが、ここで新発見ですよ。通算178勝を挙げた真田さんですが、
現役最後の56年は、なんと「内野手」登録であり、
この年は野手一本で通していたのですね。びっくりです。
で、真田さんは打撃が良いことでも知られていたそうで50年から52年にかけては
規定打数不足ながら、3年連続で打率3割もマークしているのです!

50年	松竹	73試合54安打、打率.314	投手61試合
51年	松竹	39試合19安打、打率.317	投手24試合、三塁2試合
52年	阪神	78試合41安打、打率.318	投手38試合

と、いずれも守備機会よりも出場試合数の方が多いので
投げない時にはしばしば代打として登場していたのでしょう。
今秋のドラフトの最大の目玉、中田翔選手がプロでも投打二刀流を目指したいと
希望を述べていますが、今から半世紀前には、こういう選手もいたのですね。
で、改めて真田さんの生涯成績を見てみると、日本記録をやたら持っており、
それがすべて46年のパシフィック在籍時に達成されているのです。

シーズン最多被安打422	  2006年最多=三浦大輔(横)227
シーズン最多失点202    2006年最多=一場靖弘(楽)103
シーズン最多自責点163  2006年最多=一場靖弘(楽)94
ゲーム最多被安打22

とまあ、おおむね、現在の最多記録の倍ぐらいの数字なのですが、
それもそのはず、このシーズンの真田さんは現在のローテション投手の倍に当たる
投球回数464回2/3(昨年の最多は三浦大輔の216回2/3)を投げているのです!

この投球回数は42年の林安夫(朝日)の541回1/3、
同年の野口二郎(大洋)の527回1/3に次ぐ、史上3位の記録なのです。
400回でも驚くのに、それを上回る500回以上投げた投手が2人もいたのですね。
(この記録については、下記の回のブログでも言及しています)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/64

この年のパシフィック球団は8チーム中7位タイの最下位であり、
真田が25勝26敗、筒井研一が13勝18敗、湯浅芳彰が3勝12敗で全42勝中、
この3人で41勝を挙げているので、ほとんどこの3人でまかなっていたわけです。

そんなわけでこの年の真田投手の成績は63試合(リーグ最多)で
43完投(リーグ最多、史上4位タイ)、25勝(リーグ2位タイ)26敗(リーグ最多)、
464回2/3(リーグ最多)、被安打422(リーグ最多、史上最多)、
与四球205(リーグ最多)、200奪三振(リーグ最多)、防御率3.15(リーグ12位)
というすさまじい成績を残したのです。

真田さんは甲子園の優勝監督となった翌年からプロにコーチとして復帰、
東京、阪急、近鉄で81年までコーチを務められました。
当時、選手名鑑を見て、随分お爺ちゃんのコーチだなあと思ったものですが、
81年時点で58歳ですから、まだ還暦前だったのですね。
そして、その真田重蔵(さなだ・じゅうぞう)という戦国武将か忍者のような
名前にもインパクトがありました。

真田さんについては50年の松竹優勝時にMVPを受賞できなかったために
いざこざがあった(MVPは本塁打と打点の二冠王の小鶴誠)というエピソードが
有名ですが、他にもいろいろあった方なんですね。
ちょっと調べていたら、そんなエピソードが見つかったので、書き留めてみた次第です。
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posted by しゅりんぷ池田 |11:51 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年08月29日

元南海コーチ、高畠導宏さんがドラマ化(?)

本日「NHKのドラマオーディション中に硬球が目に直撃する事故があった」
というニュースがあったのですが、同記事中に「プロ野球コーチから高校教師に
転身した人物を描く実話を元にした内容」とあるので、
ああ、これは高畠導宏さんのことだなと思いました(違っていたらごめんなさい)。
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200708/gt2007082902.html

高畠さんのお名前をご存知の方はかなりのプロ野球通だと思うのですが、
29歳の若さで打撃コーチとなり、そこからのべ7球団で25年の長きに渡って
コーチを務められた名伯楽なのです。高畠さんのプロフィールはこんな感じです。

高畠導宏(たかばたけ・みちひろ) コーチ時代の登録名:康真(やすまさ)
1944年1月18日生~2004年7月1日没 
岡山南高-丸善石油(62)-中央大(63)-日鉱日立(67)- 
南海(ドラフト5位、68~72引、73~77)-ロッテ(78~88)-ヤクルト(90)- 
ダイエー(91)-中日(95~97)-オリックス(99~01)-ロッテ(02)-
福岡・筑紫台高(03~04)

わたしがプロ野球を見始めたころ、高畠さんは既に南海の打撃コーチを務められて
いたのですが、随分若いコーチだなあ、それに現役時代にあまり成績を残していない
(実働5年で通算258試合99安打8本塁打、打率.263)のに、
よくコーチをやっているなあと不思議に思っていたのです。

その長年の謎が晴れたのが05年に出された
『甲子園への遺言~伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(門田隆将、講談社)
という評伝でした。

一旦、丸善石油に就職しながら大学に進んだというのも珍しいパターンですね。
その後進んだ中央大、当時は素晴らしいメンバーが集っていたのです。
2期上に末次利光、武上四郎、同期に高橋良昌、1期下に中塚政幸、宮本幸信、
水沼四郎とのちにプロに進んで活躍した選手たちがキラ星のごとく集っていたのですが、
高畠さんはその中でも主軸を打っていたのですから、その実力のほどがうかがえます。

大学卒業時に巨人からドラフト5位で指名されたものの、これを拒否して日鉱日立入り。
全日本チームで四番を打つスラッガーとして名を馳せ68年にプロ入り。
この年の新人王の有力候補と目されていたものの、肩のケガで出遅れ、
結局、そのケガが完治せず、代打が主になったのですが、
規定打数には足りないもののプロ3年目に打率.312、4年目に.310と
意地を見せます。結局、現役生活はわずか5年で終わるのですが、
その打撃術を評価していた野村監督によって弱冠29歳の打撃コーチが誕生したそうなのです。

アマの有力選手がドラフト下位で指名されることも、
その選手が大成しない(「全日本の四番は大成しない」というジンクスもありますね)
ということも、ままあるわけですが、高畠さんの場合はあまりに時代が遠すぎて
わたしは知らなかったのですが、前掲書によって、その事実を初めて知ったわけです。

高畠さんは77年オフの野村監督の解任騒動の際に行動をともにしロッテに移籍。
野村さん自体は1年でロッテを去るのですが、
高畠さんは同球団に残ってコーチを続けます。
ロッテでは落合博満、高沢秀昭、西村徳文を首位打者に育て
落合現中日監督も同コーチを恩人の1人として挙げるほどです。

その後の球団でもイチローや田口壮、小久保裕紀らを育て、
名伯楽の名を欲しいままにしたのですが、高畠さんは還暦を前にして
高校野球の指導者になることを決意。5年の歳月をかけて教員免許を取り
03年、福岡の筑紫台高に着任するのですが、志半ばで(プロ経験者は着任後
2年間は指導できない)膵臓癌のため60歳の若さで亡くなってしまったのでした。

あの有名な打撃コーチの高畠さんが高校の先生に転じたというニュースはちょくちょく
伝えられていたのですが、その報からほどなくして訃報が聞こえてきたので驚いたものです。

高畠さんはこれほど多くのバットマンを育てたにも関わらず、
コーチ時代もあまりその業績が語られることはなかったのですが、
前掲書が出されて、その業績が再評価されることになったのはうれしい限り。
現役時代の輝かしい実績こそないものの、
こんな名コーチがいたことを覚えておいてもらいたいものです。

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posted by しゅりんぷ池田 |13:28 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年08月27日

元巨人、広島、渡辺秀武さん逝去

「メリーちゃん」の愛称で親しまれた元巨人、広島の投手、
渡辺秀武さんが亡くなられました。
引退後はカープの在京スカウトを務められ川端順、長冨浩志、山内泰幸、澤崎俊和、
新井貴浩、栗原健太らを担当して名スカウトと呼ばれました。
昨年限りでスカウトを退かれたばかりだったので驚きです。
1941年9月16日生だそうなので、まだ65歳だったんですね。

渡辺さんというと、183cm×86kgという立派な体格に似合わずハートは強くなく、
「メリーちゃん」というニックネームがぴったりでした。
目がぱっちりしていて、まつげも長く、もみあげもクルクル巻いていて
当時小学生だった自分は、「高見山みたいだなあ~」なんて思ったものです。

渡辺さんは73年のキャンプイン直前に日拓(現日本ハム)にトレードされたのですが
今振り返ってみるとトレードに出されたのがとても不思議なのです。

渡辺さんはアンダースローに転向した66年に13勝すると
以後、13→1→10→23→10→10と7年間で6度2ケタ勝利を挙げ
堀内恒夫、高橋一三に次ぐローテーション投手として活躍していました。
V9当時の巨人というのはONを中心にした打撃は優れているものの
投手陣はややコマ不足で弱体とされていました。
それなのに、どうして安定して2ケタ勝利を挙げられる渡辺投手を放出したのか?

交換相手は67年の新人王で71年に完全試合を達成した高橋良昌投手。
プロ6年で2ケタ勝利3度、通算50勝を挙げており、渡辺より3歳下なので、
1対1なら、まあまあ、釣り合いが取れていると思うのですが、
巨人はさらに小坂敏彦投手を加えているんですね。
この選手は通算9勝8敗という成績で終わっているので、
ご記憶の方は少ないと思うのですが、69年秋のドラフト1位投手で、
高松商、早稲田大時代には甲子園や神宮でも大活躍しており、
トレードに出された前年72年には4勝4敗の成績を残し、
いよいよ開花かと目されていた有望選手だったんですね。
これだと、日拓の方が断然有利となります。

なんとなく不可解に思い、当時の週刊ベースボールのバックナンバーに当たってみたところ
当初、「張本←→渡辺+小坂+α」というトレードを巨人が申し込み
日拓が「+α」に当時の巨人の左のエース、高橋一三を所望してきたため
このトレードが流れ、急遽「高橋良←→渡辺+小坂」のトレードとなった
という観測記事が載っていました。この当時から巨人は張本を狙っていたんですね。
「高橋良←→渡辺+小坂」の1対2のトレードだと巨人側が不利なのですが、
その後の張本獲得に向けて、日拓側に貸しを作ったということなんでしょうか?

渡辺さんは移籍した1年目に11勝14敗の成績を残しますが、
一方の高橋投手は1勝5敗と誤算。同投手はその後中継ぎが主となり
75年に53試合、77年に45試合と健闘したものの、その77年限りで引退。

渡辺さんの方も、その後、年齢から来る衰えもあったのでしょうか、
勝ち星が挙がらなくなり、先発の機会が減って、やはり中継ぎが主になりましたが、
広島に移籍した79年からは3年連続で40試合以上に投げ
ストッパー、江夏豊に繋ぐセットアッパーとして活躍、広島の連覇にも貢献しました。
81年終盤には40歳になっていたのですから
「メリーちゃん、まだ投げてるんだ。すごいなあ~」と思ったものです。

渡辺さんのキャリアは
巨人(63)-日拓・日本ハム(73)-大洋(76)-ロッテ(78)-広島(79~82)
というもので、セ3球団、パ2球団に所属したのっですが、
惜しくも日本ハムから勝ち星を挙げることができず全球団勝利はなりませんでした。

調べてみると、渡辺さんは、江夏豊が9者連続三振を奪って全セが全パを5投手の
継投でノーヒットノーランに抑えた71年のオールスターで2番手で登板していたり、
72年、爆弾爆発予告で試合が中断した際に登板していたり、
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070806183.html
伝説の日拓の七色のユニフォームの集合写真(下記カード参照)に加わっていたり、
日本ハムの高橋博士選手が1試合で全9ポジションを守った試合で
同選手の後を受けて試合を締めくくったり、
異なる3球団(巨人・日本ハム・大洋)で開幕投手を務めたり、
引退試合で死球を与え、当時の日本記録を更新したり、等々
面白いエピソードがたくさんある方だったので、
もっともっとお話をお聞きしたかったですね。ご冥福をお祈りします。
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posted by しゅりんぷ池田 |17:24 | 野球 | トラックバック(2)
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2007年08月21日

シーズン代打最多安打26:三沢今朝治(東映)

先日、ヤクルトの真中満選手が今季23本目の代打安打を放ち
代打成績が集計されている1962年以降でのセ・リーグ記録(※)となった
そうなのですが、それを伝える記事に
「日本記録は1969年、三沢今朝治(東映)の26安打」とあって驚きました。

(※)従前の記録は1966年の宮川孝雄(広島)、1986年の永尾泰憲(阪神)、
1988年の若松勉(ヤクルト)の22安打だったそうです

三沢さんといえば永年、日本ハムの編成部長を務められた方ですが、
現役時代についてはあまり知らなかったので、驚いた次第です。

三沢さんは松商学園から駒澤大に進み、
3年秋と4年春に東都大学の首位打者となり、63年に東映に入団。
プロ入り後は66年にイースタンで首位打者になりましたが、一軍では
実働11年で592試合に出場、155安打10本塁打91打点、打率.247と
目立った実績は残されていませんでしたが、守備機会を見ると
外野で73試合、一塁で26試合のみですから、ほとんどが代打だったのですね。
知りませんでした。

三沢さんは東都大学の首位打者となりましたが、駒澤勢の首位打者としては
歴代2人目だそうで、初代は三沢さんより4期上の太田誠さんだそうです。
そう、35年の長きにわたって駒大の監督を務められた、あの太田監督です。
そんな縁もあって、日本ハムは歴代、駒澤大出身の選手が多かったですね。

大宮龍男(76年4位)、83年からは3年連続して駒澤出身者がドラフト1位で
83年・白井一幸、84年・河野博文、85年・広瀬哲朗、その後も田口昌徳(92年4位)、
現役でも武田久(02年4巡)、稲田直人(03年5巡)がいます。

さらに高校の後輩で91年センバツの準優勝投手、上田佳範もドラフト1位で指名。
03年オフには国内復帰したSHINJO選手を獲得に尽力し06年の優勝に結びつけます。

三沢さん自体は05年限りで日本ハム球団を定年退職されたのですが、
現在は、北信越BCリーグ、信濃グランセローズの球団社長を務められているんですね。
同球団の監督は木田勇さんで投手コーチは島田直也コーチとここにも日本ハムOBが!

そして、やはり日本ハムとの縁を生かして
すでに日本ハム二軍との交流戦も実現しているんですよ。
http://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/p-hf-tp0-20070514-198519.html
ゆくゆくは信濃グランセローズから日本ハム入りする選手も出るかもしれませんね。

プロ野球で長く貢献された方が定年後、
郷里に戻って野球普及のために尽くされているというのも立派ですね。
信濃グランセローズの今後にも注目していきたいと思います。
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posted by しゅりんぷ池田 |16:13 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年08月20日

SHINJO現役復帰?

昨季限りで引退した新庄剛志氏が昨日の「24時間テレビ」で、
冗談交じりとはいえ現役復帰を匂わせて話題となっています。自分なんかは、引退直後から、
「何年か経ったら、SHINJO復帰プロジェクトなんてのが動き出したりたりして…」
などと仲間内で語り合っていたので、「きた、きた!」という感じです。

戦争の前後でキャリアを分断された例を除けば、
ブランクを経て復帰して成功を収めたという例は過去にもほとんどないですよね。
そういう、人がやってないことをやりたがる同氏の性癖(パイオニア精神?)からして、
この復帰話、まんざら、ない話でもないと思うのですが、どうでしょうか?

「成功例がほとんどない」と書いた直後ですが、
ブランクから復帰しての成功例が現在進行形で進んでおります。
そう、パ・リーグでホームラン王と打点王の2冠を獲りそうな勢いのオリックスのローズ選手です。
同選手は昨年春にレッズのキャンプに参加したもののMLB入りは果たせず、
引退を表明していたのですが、今季オリックスで復帰するとこの活躍。
日本にいなかったので、引退していた事実があまり喧伝されておらず、
今季のカムバック賞を撮り損なうんじゃなかろうかと心配しておりますが、
明らかに昨シーズンはプレーしていません。

「引退」からの「復帰」というので有名なのは、
巨人のV9初期のエースだった城之内邦雄さんのケース。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/17
同投手は71年限りで引退したあと、解説者として活躍していたのですが、
73年にかつての同僚、金田正一氏(※)がロッテの監督に就任すると
城之内さんに現役復帰を薦め、中2年を経て74年に復帰。
しかし、結局5試合11イニングを投げたのみで再び引退となりました。

(※)1969年10月10日の対中日戦、先発・城之内が4回まで3-1で抑えたあと
5回から金田が登板、金田に最後の400勝目をプレゼントしたのが城之内だった。

入団5年目までに101勝と爆発的に活躍しながら
後半の5年で40勝しか挙げられず、寂しく去っていった「エースのジョー」に
世論も同情的で、この復帰劇はそこそこ話題となったようですが、
結果を残すまでには至りませんでした。

一旦引退した選手が現役復帰を果たすというのはやはりマンガの中の話なのか…。
(『翔んだカップル』~『特命係長・只野仁』などで有名なマンガ家、柳沢きみおさんの作品に
やはり、プロ野球選手のカムバックを題材にした『男の自画像』という作品がありましたね)

プロ野球の選手名鑑の選手名の前に「○」が付いているのが「新入団」、
「△」が「移籍」で、「□」が「復帰」なのですが(※)、
従来あまり見なかった「□」を最近よく目にするようになりました。

(※)この記号はいつ、だれが発明したんですかね?
ファン・関係者の間で、これほど定着している記号もないでしょう。

それまでも背広組が現場のコーチに復帰して「□」が付くことはよくあったのですが
選手の「□」は珍しかったのです。
最近、やたらと多い、「出戻り外国人選手」がこのケースですね。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/81

あと、ヤクルトの高津臣吾投手や木田優夫投手のように
MLBから日本球界に復帰した選手にも、「□」が付きます。
これらのケースは海外のチームから日本のチームへの「△移籍」のような気もしますが
国内球団への「□復帰」と捉えられているのですね。

また、ヤクルトの宇野雅美投手のように、プロを退団後、社会人を経由して
再度プロ入りした場合も「□」が付きます。
これもプロ・アマの垣根が高くなかった時代はままあったケース
(背面投げの小川健太郎、他)ですが、その後のプロ・アマ断絶期にはその姿を消し
昨今の雪解けでまた出始めた例です。
宇野投手はプロ復帰後、05年に6試合に登板したのみで、
目立った実績は残していませんが、再びNPBのステージを夢見て
社会人や国内外の独立リーグでプレーしている元プロ選手も多いので頑張ってもらいたいですね。

また、ロッテの代田建紀選手は03年のシーズン最終戦で脚を骨折後、
自由契約となり、1年の浪人期間を経てトライアウトに合格、05年から再び
旧所属のロッテと契約という素晴らしくドラマチックな復帰を果たすのですが、
一軍で常時出場というレベルには至っていません。

浪人ということでは、同じくロッテの小宮山悟投手。
02年、36歳にしてメジャーに挑戦するものの1年で解雇。
翌03年は所属球団がなく、解説者を務め、04年、38歳で古巣、ロッテに復帰。
敗戦処理も厭わず、現在も根気良く投げ続け賞賛されていますが、
やはり当然のことながら、往年のエースだったころの輝きには及びません。

かように、ブランクから復帰した選手というのは、これまで復帰するのが精一杯
(もう、それだけで十分に賞賛に値するとは思うのですが)という状況なだけに
復帰後、全盛時並に働いているローズはもっと賞賛されてもいいと思うんですけどねえ…。
(一度引退していた選手にここまで活躍されるというのは、
NPBのレベルが下がったのか? という危惧もありますが…)

そういう難しい挑戦なだけに、「あの男」が現役復帰に興味を持つ気持ちも分かります。
さてさて、どうなりますか…。
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posted by しゅりんぷ池田 |16:43 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年08月14日

最後のクラウン戦士、立花義家

まだまだ昔話が続きます。
先日の回で紹介した江藤さんの後任監督、鬼頭政一さんなんですが、
1940年の首位打者、鬼頭数雄(ライオン)さんの実弟という以外
ほとんど何も知らなかったので、調べてみたところ、
太平洋の監督としてプロ球界に復帰する以前は
柳川商(現校名は柳川高)野球部の監督をされていたのだとか。

鬼頭政一	1920.2.9生	名古屋市出身
日大三高-名古屋(40)-ライオン・朝日(40~42)-西鉄(50)-近鉄(52~58)

なるほど、なるほど、そういう縁もあって当時は
ライオンズに柳川商出身の選手が多かったのですね。例えば
高橋明(50年生)、真弓明信(53年生)、若菜嘉晴(53年生)、加倉一馬(57年生)、
立花義家(58年生)、清家政和(59年生、83年に阪神から移籍)らです。

ちなみに、高橋明は巨人から来た投手の高橋明ではなく、
同投手のため「高橋外」と表記された選手です(下記参照)。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/74

ここで、鬼頭さんが日大三高出身というのもポイントのひとつ。
鬼頭監督の後を襲ってクラウン・西武の監督となった故・根本陸夫さんが同校の後輩。
おそらく、そういうルートで根本さんを後任監督に招聘したのではないでしょうか?
さらに、先に取り上げた76年のドラフト1位投手、
古賀正明さんも日大三高の出身なんですね。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/88

話は先の柳川勢に戻りますが、76年秋のドラフトでは
柳川商から3人の選手が指名され、話題となりました。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/33

クラウンの1位が立花義家、近鉄の1位が久保康生
(近鉄・阪神で通算71勝。現阪神投手コーチ)、日本ハムの3位が
同年夏の甲子園で8打席連続安打をマークした末次秀樹。
末次さんはこの指名を拒否して中央大に進み、
後年母校の監督として甲子園にも出場しました。
02年には末次監督の長男、峰明選手が四番を打ったことも話題になりましたが、
その峰明選手は現在、俳優の宇梶剛士さんが総監督を務める赤べこ野球軍団に
所属し、24日から始まる都市対抗野球に出場するそうです!
http://sports.geocities.jp/akabekoboys/akabekomenu.html

話は相変わらず蛇行しまくりですが、76年秋のドラフト1位で入団した
立花義家選手は1年目こそ一軍出場はありませんでしたが、
78年から就任した根本監督に抜擢され、「19歳の三番打者」と話題になりました。
「たちばな・よしいえ」という戦国武将のような名前もインパクトがありましたね。

この年の成績は124試合に出場して115安打0本塁打39打点、打率.250
(リーグ27位)と、高卒2年目の選手としては上々の成績を挙げるのですが、
惜しくも新人王はならず! この年の新人王は南海の村上之宏という投手で
40試合に投げて5勝8敗3S防御率3.61(リーグ12位)という成績。同投手は
結局14勝 25敗 5Sという通算成績でわずか5年で引退してしまったこともあり、
史上最も不可思議な新人賞受賞者と言われることが多いのですが、
この際の得票数が村上96票で、立花は82票という僅差!
立花さんはこのころからついてなかったのか?

翌79年には球団が西武ライオンズに代わり所沢に移転。
79年4月14日には西武球場開場第1号も放ちます。
80年には全130試合に出場して144安打18本塁打60打点、打率.301
(リーグ13位)とキャリアハイの成績を残し、82、83年と連続日本一の栄誉に浴しますが
以降はライオンズの強大戦力の中に埋没し、代打での出場が主となります。
91年には一軍出場がなくなり、92年に金銭トレードで阪神に移籍も1年で
自由契約となり、翌93年は台湾でもプレーしました。
引退後はサラリーマンも経験されたそうですが、98年、ダイエーの打撃コーチとして
球界に復帰、オリックスを経て、04年から古巣の西武の打撃コーチを務められています。

西武は球団買収後、盛んにトレードを繰り返し、
西鉄・太平洋・クラウン時代の旧勢力をどんどん他チームに放出しました。
88年限りで旧クラウン時代の先輩の東尾修も引退し、
91年にはクラウン時代から引き続きライオンズに在籍した最後の選手となったのです。
(旧クラウンから阪神に移籍した真弓明信は95年まで現役)

西武球団は福岡時代の歴史をまったく黙殺しており、
それはプロ野球ファンに評判が悪いのですが、
西鉄・太平洋・クラウン時代のOBをないがしろにしたかといえばそんなことはありません。

76年に加藤初投手とのトレードで関本四十四投手とともに巨人から移籍してきた
玉井信博投手は現在もスコアラーを務め、73年秋のドラフト3位で早稲田から入団した
鈴木葉留彦さんは現編成部長。同年やはり早稲田からドラフト2位で入った
楠城徹さん(現楽天)、77年にロッテから移籍してきた長谷川一夫さん、
76年に阪神から移籍してきた鈴木照雄さんなども長らくスカウト部門で活躍されていました。
これは、故・根本さんがそうされたのだと思うのですが、
経営が落ち着かず苦労したOBたちをないがしろにすることはなかったのです。

そして、クラウンライター・ライオンズの最後の希望の星だった
「19歳の三番打者」立花さんも、コーチとして西武に戻ってきました。
かつて「張本2世」とも呼ばれた、その打撃術を若い選手たちに伝えてもらいたいものです。
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2007年08月10日

江藤慎一波乱万丈記(3):太平洋で兼任監督就任も1年でクビ

「闘将」江藤慎一さんについてまたまた書きたいと思います。

江藤慎一波乱万丈記(1)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/22
江藤慎一波乱万丈記(2)
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/93

わたしがプロ野球を見始めたころ、江藤さんは既に大洋に在籍しておりました。
「セ・パ両リーグで首位打者を獲ったという江藤選手というのはこの選手なのか!」
とテレビ中継を見ていたのですが、同時期には300勝投手の小山正明投手も
大洋に在籍(現役最後の73年、1年のみ)しており
「300勝投手の小山さんも大洋にいるのか! でも、すごく、おじさんだなあ~。
というか、ほとんど、お爺さんみたい」とか思っていたのですが、
調べてみたら、その年、小山さんは41歳。現在の自分より若かったんですね…。
大洋在籍時の江藤さんの成績はというと…

72年(34歳)	69安打	18本塁打	51打点	打率.250
73年(35歳)	103安打	15本塁打	44打点	打率.282(リーグ6位)
74年(36歳)	110安打	16本塁打	67打点	打率.291(リーグ9位)

とまあ、全盛時から比べれば少し陰りが出てきていたのですが、
74年のオフに突如、トレードで太平洋に移籍。
しかも、「選手兼任監督」として迎えられることになったのです!
チームの監督がトレードでやってくるって、すごいですね。

そして、当時のライオンズのオーナーが先にロッテから江藤さんを放出した
中村長芳氏だったというのが、これまた奇しき縁。
(ロッテのオーナーがなんでライオンズのオーナーにスライドしているのか?
その辺の事情を説明するのはすごく大変なので今回は端折ります。
下記「波瀾興亡の球譜~失われたライオンズ史を求めて」
(坂井保之著)などをご参照ください)
http://bookcart.sportsclick.jp/bbmshop01/7.1/BBM105035/

この75(昭和50)年という年はかつてのスター選手たちが
続々と監督に就任した年でした(年齢はシーズン開幕時の年齢)

巨人	長嶋茂雄(39歳)
阪神	吉田義男(41歳)
大洋	秋山 登(41歳)
太平洋	江藤慎一(37歳)

江藤さんの37歳(10月の誕生日で38歳)というのは
現在の中日の立浪選手とかと同じ年回りです。どんだけ、若かったのか…。

しかし、この年の太平洋クラブライオンズは「山賊野球」というニックネームが付いた
ぐらいのユニークなチームだったのです。前年オフ、監督の江藤慎一から始まって、
近鉄から「無冠の帝王」土井正博、日本ハムから韓国出身の白仁天が加入。
江藤監督は、さらに当時しきりとトレード説が囁かれていた親友の張本勲にも
「うちに来ないか?」と誘っていたそうなのですが、これは実現しませんでした。

75年の前期は2位、後期は4位で通算3位と、「黒い霧事件」で低迷していた
チームを8年ぶりにAクラスに浮上させ、土井が「無冠の帝王」のニックネームを
返上する初戴冠でホームラン王、白が首位打者で、エース・東尾が最多勝を獲得します。
この年の3位は後年から見るとできすぎの感すらあるのですが

年度	球団名	監督	順位
67年	西鉄	中西	2位
68年	西鉄	中西	5位
69年	西鉄	中西	5位
70年	西鉄	稲尾	6位	
71年	西鉄	稲尾	6位	
72年	西鉄	稲尾	6位	
73年	太平洋	稲尾	4位	
74年	太平洋	稲尾	4位	
75年	太平洋	江藤	3位
76年	太平洋	鬼頭	6位
77年	クラウン	鬼頭	6位
78年	クラウン	根本	5位
79年	西武	根本	6位
80年	西武	根本	4位
81年	西武	根本	4位
82年	西武	広岡	1位

中村オーナーは「やっぱり、江藤に監督は無理」と見限って
秋には江藤の後任に大沢啓二前ロッテ監督(!)を据えようとします。
これは江藤派の巻き返しもあって流れ、一旦は江藤監督の留任が発表になったのですが
10月になって、メジャーの2000勝監督、レオ・ドローチャー氏を招くことになり
江藤さんは選手兼打撃コーチに降格されますが、さすがにこれには不服で
退団を申し入れ自由契約となり、古巣のロッテに引き取られることになります。

そして、件のドローチャー氏は結局来日せず、ライオンズは泥沼状態に突入、
ついには福岡の地を離れることになるのです。
「山賊野球」を継続していれば、とわたしなんかは思ってしまいます。
中村オーナーに2度までも裏切られた江藤さんの心中やいかに…。

一方の江藤さんも、采配を執りながらの試合出場は難しかったのか成績は急降下、
結局76年限りで引退となってしまいます。

74年(洋)	111試合	110安打	16本塁打	67打点	打率.291
75年(太)	88試合	69安打	8本塁打	36打点	打率.228
76年(ロ)	69試合	49安打	6本塁打	24打点	打率.229

以降、江藤さんは監督どころかコーチに招かれることもないままになっているのです。
強烈な個性ゆえにキャリア後半は所属チームが落ち着かなかったのは
残念で仕方がありません。
こんな波乱万丈の人生を送った名選手がいたことを覚えておいてください。
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posted by しゅりんぷ池田 |11:28 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年08月09日

首位打者放出の不可解:71年、江藤慎一トレードの真相

昨日、71年オフに行われた江藤慎一(ロ)←→野村収(洋)のトレードについて書きましたが、
この件についてもっと詳しく知りたいと思って、またまた資料室に行って
当時の「週刊ベースボール」のバックナンバーをひもといてきました。

わたしは、この江藤慎一さんという方が大好きなんですね。
いかにも男性的な風貌で、「闘将」というニックネームもぴったり。
熱血漢で誤解を受け易かったのか、現役時代も数々のトラブルに見舞われもしたのですが、
史上唯一、セ・パ両リーグで首位打者を獲得した大打者です。
そんな大選手も、引退後はプロ球界と距離ができて、
「忘れられた名選手」のようになっているのが残念でたまりません。
そんな思いもあって、再び江藤慎一さんについて書いてみようと思ったのです。

きっかけは71年7月13日に起こった試合放棄事件。
この年は阪急とロッテが優勝を争っていたのですが、その阪急との対戦で事件が起こります。
7回表、四番・江藤のハーフスイングの判定を巡って紛糾、
ロッテサイドが試合再開に応じず、放棄試合が宣告されたのですが、
ロッテの濃人渉(「のうにん・わたる」と読みます)監督は球団代表を通じて
当時の中村長芳オーナーから「試合の再開に応じなくてもよい」との
メッセージが届けられていたそうなのです。

その10日後、この事件の責任を一身に負わされたかのように
濃人監督の更迭(二軍監督への降格)が発表されるのです。
濃人監督は江藤さんの社会人時代からの恩師であり、一時路頭に迷いかけていた
(詳しくは下記をご参照ください)江藤さんを救ってくれた恩人です。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/22

わたしはてっきり、この処分に不満を持った江藤さんが自らトレードを志願したのかと思った
(そのように書かれていることもあります)のですが、事実は微妙に異なっていたようです。

まず、放棄試合事件があったのが7月13日で、
4日後の7月17日にこの年のオールスター戦が行なわれます。
全パの指揮を執ったのは前年パ・リーグを制したロッテの濃人監督だったのですが、
この試合で全パは阪神の江夏豊から9者連続三振を喫し、
5投手の継投によるノーヒットノーランを喫してしまうのです。
この試合の中継のゲスト解説に招かれていた阪急の西本幸雄監督(ロッテの前身、
大毎の優勝監督でもあった)が、濃人監督の無為無策を猛烈に批判したのだとか。

球宴明けの7月21日、ロッテ球団に対して先の放棄試合に対する
制裁金200万円を科すというペナルティーが発表されます。
翌22日からペナントレース後半戦が再開され、ロッテは因縁の阪急と対戦したものの
2戦連続で惨敗を喫し、それに怒った中村オーナーが濃人監督の解任を決意
という流れだったそうなのですが、はたから見れば、
どうしても放棄試合の責任を濃人監督に押し付けてしまったように映ります。
それも一軍監督から二軍監督へ降格。

熱血漢の江藤さんのことですから、恩師に対するこの処遇に激怒していたと思われますが
監督交代以後も同僚のアルトマンと首位打者争いを繰り広げ首位阪急を猛追します。
前回、中日時代のトラブルの件もあって、
濃人監督から「ここは自重せよ」と戒められていたのでしょう。
逆転優勝はなりませんでしたが、
江藤は前人未踏の両リーグでの首位打者獲得という偉業を達成します。

そんな江藤さんのトレードが発表されたのは、
その年の最終戦10月6日終了後の納会での席上だったそうです。
この時点で、濃人二軍監督のフロント転出も決まっており、
後任監督、大沢啓二監督の采配に支障が出ないように
不満分子となりかねない江藤を放出したということではないでしょうか?

また、このオフには主砲の一人だったロペス(この年153安打24本塁打、打率.301)、
長らくオリオンズの看板選手だった榎本喜八も放出します。
対外的には大沢監督が標榜する「機動力野球」に合わないため、と発表されましたが
当時、経営に苦しんでいたロッテ球団が高年俸の選手を整理せざるを得なかった
というのが真相ではないでしょうか?

しかし、この際の江藤さんは恨み言ひとつ言わずに大洋に移籍するのです。
恩師を追い、自らも追った中村オーナーに対して憤懣やる方ないものが
あったと思うのですが、それから3年後、その中村オーナーが転じた
太平洋クラブライオンズの選手兼任監督として、
江藤さんは迎えられることになります…(この項続く)。
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posted by しゅりんぷ池田 |13:24 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年08月08日

日本プロ野球史上最初に全12球団から勝ち星を挙げた投手、野村収の軌跡

先日、12球団から勝ち星を挙げた2番目の投手、古賀正明さんについて書きました。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/88

交流戦がなかった当時、全12球団から勝ち星を挙げようとすると
セ・パ2球団ずつに属さなければならなかったため、
古賀さんも3回のトレードを経験し、そのトレード相手がいずれも
大物選手や有望選手だったということを書いたのですが、
最初に全12球団から勝ち星を挙げた野村収投手の場合はどうだったのか?
それを知りたくて少し調べてみました。

野村さんが駒澤大からプロ入りしたのが69年のこと。
その前年68年秋のドラフトは山本浩司、田淵幸一、有藤道世、星野仙一、山田久志、
東尾修らを輩出したドラフト史上でも最高の豊作年として知られる年ですが
野村さんはその年、大洋に1位で指名されます。
全体で9番目の指名だったのですが、そのあと10番目が星野、11番目が山田、
12番目が東尾だったのですから、その期待の高さがうかがわれます。

しかし、野村はなかなか頭角を現さず、初勝利を挙げたのが2年目の70年ながら
この年はその1勝のみ。3年目は4勝3敗としたところで、ここで早くもトレード。
交換相手はなんと、その年のパ・リーグの首位打者、ロッテの江藤慎一!
首位打者がどうしてトレードに出されることになったのか?

江藤さんが中日時代に水原監督の不興を買って一時引退に追い込まれ
社会人時代の恩師でもあるロッテの濃人渉監督の尽力で復帰できたという
顛末は以前このブログでも紹介したことがありましたが
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/22

71年7月にこの濃人監督が放棄試合を起こした責任もあって二軍監督に降格(!)され
(この際に二軍監督から一軍監督に昇格したのが大沢親分!)、
シーズン終了後にユニフォームを脱いだのですが、
この処遇に不信感を持った江藤と球団との間に
感情のもつれが起こりトレードされることになったようなのです。

なにしろ、パ・リーグの首位打者の交換相手ですから、相応のレベルの選手で
なけれればならないのですが、交換相手に選ばれたのが3年前のドラフト1位投手、
3年間で5勝の野村だったのです。

その時点ではロッテ不利のトレードと思われていたでしょうが、
野村は移籍1年目の72年に突如開花して14勝!
これはロッテ球団の慧眼が讃えられるべきでしょう。
しかし、翌73年オフに再び野村に悲劇が襲います。

ロッテはこの73年から、あの金田正一が監督に着任します。
この当時、東映(73年は日拓)に実弟の金田留広がおり69年の入団以来、
18勝→24勝→15勝→20勝と大活躍していたのですが、
「実兄の正一率いるロッテ相手には投げたくない」「ロッテにトレードしてくれ」と造反。
このシーズンは7勝16敗と大きく成績を落とします。

兄弟の情とはいえ、どう考えても留広投手のわがままなのですが、
73年オフに日拓が再度、日本ハムに身売りするとチームの改造を考えていた
三原脩球団社長は同投手の申し入れを容れ、ロッテへのトレードを認めます。
(そして、留広投手はロッテに移籍した74年に16勝を挙げて優勝に貢献、MVPに選ばれます)

なにしろ5年間で84勝の大エースですから相応の交換相手でなければ…
ということで、再び野村に白羽の矢が立ったわけです。
野村は6年目にして3球団目に所属することになります。

日本ハムに移って2年目の75年には11勝3敗で最高勝率のタイトルを獲得しますが
この年のファイターズは最下位だったのに、このタイトルを獲るとはさすがです。
最下位チームからの最高勝率というのは、これ以降、98年の黒木知宏しか
例がないそうです(しかし、この年の黒木は13勝9敗、勝率.591で
史上初めて5割代での同タイトル獲得となりました)。
翌76年は13勝16敗でリーグの最多敗と弱かったころの日本ハムで奮闘します。

そして、77年のオフ。当時、古巣の大洋は2年連続で最下位に沈んでいたのですが
78年からは横浜スタジアムに本拠地を移すことになっており、チームの沈滞した
ムードを一掃するべく、77年から再度着任した別当薫監督が大ナタをふるいます。
当時の週刊ベースボールを見ると、
エースの平松政次もトレード候補に挙がっていたのですが、
投手陣の柱と期待されて野村が再び大洋に呼び戻されたのです。
(ちなみに最初に野村が大洋に所属していたころの監督も別当)

野村はその期待に応えて移籍1年目の78年に17勝を挙げ最多勝を獲得。
前年5勝だったこともあり、カムバック賞も受賞します。

一方、野村の交換相手として出ていったのが杉山知隆と間柴茂有。
杉山は前年9勝を挙げていた大洋の主力投手の1人で
間柴は期待されながらも8年間で13勝しか挙げられていなかった左腕投手。

割と釣り合いの取れたトレードだったと思うのですが、
杉山は移籍1、2年目に9勝、11勝と活躍、間柴はハムに移って開花し、
81年には15勝無敗と驚異の勝率10割で日本ハムの優勝に貢献します。
移籍したどの選手も活躍するとは珍しいケースですね。

その後、野村は80年にも15勝を挙げますが、81年は3勝、82年は5勝と成績を落とし、
30代も半ばを超え(82年に36歳)、そろそろ力が落ちてきたと判断されたのか、
中塚政幸の引退などで手薄となった外野手の補充もあって
阪神の加藤博一とトレードされます。

阪神の加藤はブレイザー監督が指揮を執った80年には打撃ベストテンの5位に
つける打率.314、34糖類と活躍したのですが、
監督が代わって以降は出場機会が減って不遇をかこっていたのです。
それが大洋に移って近藤貞雄監督の下、
「スーパーカートリオ」の一員に加わり一時代を築きます。

一方、阪神に移籍した野村は83年に12勝を挙げて復活。
(この年にもカムバック賞をあげてほしかった!)
同年5月には古巣・大洋からも勝ち星を挙げて全12球団からの勝利という
初めての記録を達成し、翌84年には37歳にして開幕投手を務めます。
そして、これまで弱いチームにばかり属して優勝経験のなかった野村さんが
85年に優勝を初体験、日本シリーズでも2試合で1回1/3のみながら登板を果たし、
翌86年限りで引退します。実働18年、579試合に投げて121勝132敗。

前回の古賀正明さんの生涯はかなり悲しい内容だったのですが、
今回の野村収さんの場合は環境を変える度に好成績を残し
交換相手もみなハッピーな結果となったのは幸いです。
こんなに運命に翻弄されるかのように、度々トレードに出される選手というのは
今後は現れないでしょうね。
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2007年08月06日

川上憲伸、打者転向?

中日のエース、川上憲伸投手が先日通算100勝を達成しましたが
そのコメントの中で同投手が、右肩痛で成績が上がらず
(1年目14勝で新人王も2年目から8勝→2勝→6勝)
一時は投手をやめて野手に転向しようと思ったこともあったと述べていて驚きました。
これは有名な話なんでしょうか? 自分は初めて聞いたので驚きました。

川上投手はご存知のようにバッティングも良く、現役最多の7本塁打を放っている
(同投手もその記録には執着があるようで、公式HPのプロフィールコーナーには
その7本のホームランを打った投手と球種まで!書かれています)
http://www.kk11.jp/profile.html
のですが、「そこまでバッティングに自信があるのか」とか
「そこまでしても野球を続けたかったんだな」とか、いろいろ考えてしまいました。

かつてのエースが故障で投げられなくなり、野手に転向というケースは過去にも
例がありますが、戦前の投打兼業の時代を除くとほとんど成功例が見当たりません。

川上の中日の大先輩、権藤博は入団1年目に35勝、2年目に30勝と爆発的に
活躍しますが、3年目から10勝→6勝と落ち込むと5年目(この年まだ26歳!)に
打者に転向し、65年からの3年間は三塁手、遊撃手として出場します。
入団1年目は投手ながら31安打、2年目には4本塁打しているので
バッティングにも少し自信があったのでしょうが、やはり野手専任だと
荷が重かったようで、65年からの打率は.199→.179→.215で
67年の5本塁打、27打点、リーグ最多犠打26が目立つ程度で
翌68年は投手に復帰したものの9試合に投げて1勝1敗、防御率11.00と
往年の輝きは戻りませんでした。

それ以前には、51年にシーズン19連勝を含む23勝を挙げて新人王を獲得した
松田清さんが52年に13勝したあとは勝ち星が挙らなくなり、
http://www.sportsclick.jp/sportscard/column01/index27.html
56年に国鉄に移籍してシーズン途中から外野手に転向(この年まだ25歳!)。
57年からの3年間はレギュラー選手として活躍しましたが、
これはまあ、成功した部類でしょう。

それから、70年代に南海の代打男として活躍していた
林俊宏(旧名、俊彦)さんという選手がおられました。
175cm×87kgというズングリムックリした体型で
いかにも当時の南海らしい選手だったのですが、
この方は中京商時代はのちに中日に進んだ木俣達彦さんとバッテリーを組んで
甲子園でも活躍した有名な投手だったそうで、
65年には17勝3敗の好成績を挙げ最高勝率のタイトルも獲得します。

しかし、以降、勝ち星が挙らなくなり、70年に打者に転向。
同年4月27日に俊彦から俊宏に改名しているので、
打者転向を機に名前も変えたのでしょうね。
林さんは78年まで現役を続けたものの通算成績は132安打10本塁打なので
成功したとはちょっと言いがたい結果です。

その後も、82年に20勝して最多勝を獲得した日本ハムの工藤幹夫投手が
翌83年こそ8勝を挙げたものの肩を故障、晩年(といっても27歳のシーズン)、
野手に転向したものの、一軍出場は果たせず引退したというケースもありました。

ある程度成績を残した投手が打者に転向したケースのほとんど唯一にして
最大の成功例がプロ野球解説でおなじみの関根潤三さんでしょう。

法政のエースとして活躍した関根さんは球団が設立されたばかりの近鉄に
入団したものの、同球団がものすごく弱かった時代で、
関根さんが投手だった8年間の通算成績が65勝94敗で勝率.409!
5年目の54年に16勝12敗としたのが唯一の勝ち越しシーズンで
入団以来7年連続で2ケタ敗戦を喫していたのです。

そして、8年目の57年のシーズン当初に投手としての限界を感じた
関根さんは突如として打者転向を宣言。以降近鉄の主軸打者として活躍し、
1137安打59本塁打、打率.279の好成績を残して65年まで現役を続けられました。
関根さんの現役時代は当然わたしも知らないのですが、
投手としても打者としても成功を収めた稀有な選手として記憶されるべきでしょう。

個人的には、「阿波の金太郎」水野雄仁投手の打者転向が見てみたかったです。
入団2年目の86年に8勝、翌87年に10勝したものの、以降はケガの連続で
通算39勝29敗の成績に終わったものの、高校時代に池田高の「山びこ打線」を
牽引した、あの猛打をプロのステージでも見たかったですね。

投打の分業が進み、高校レベルでの「四番・投手」という例も少なくなっているので
今後こういうケースはますますマレになるでしょうね。
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