2007年07月26日

通算38勝ながら12球団から勝利を挙げた悲運の投手、古賀正明

昨日、通算53勝ながら15球団から勝ち星を挙げた緒方俊明投手について書いたところ、
「通算38勝なのに全12球団から勝利した古賀正明さんもすごいですね」という観想をいただきました。
そうそう、12球団以上からの勝利を挙げた投手というと下記の投手がいますが、

野村 収	通算121勝
古賀正明	通算38勝
武田一浩	通算89勝
門倉 健	通算75勝(※)
吉井理人	通算89勝(※)
小野正一	通算184勝
工藤公康	通算218勝(※)
緒方俊明	通算53勝
スタルヒン	通算303勝
(※)現役選手は昨日現在の成績

38勝というのはダントツの少なさです。なにしろ、古巣の西武、巨人からは1勝した
のみでの到達ですから、大変効率が良く、幸運のように見えますが、さて…。

古賀さんのプロフィールは下記の通り。
1949.4.11生	189cm	88kg	右投右打	福岡県久留米市出身
日大三高-法政大-丸善石油-太平洋・クラウン(76年ドラフト1位)-
ロッテ(79)-巨人(80)-大洋(81~84)

この古賀正明さんという選手、個人的にも昔から興味があったので、
ちょっと調べてみることにしました。その興味の原点は、
74年秋のドラフトで阪神からの1位指名を拒否したところにあります。

実は阪神は翌年も足立義男というドラ1投手から拒否されるのですが、
阪神がドラフト1位から指名拒否されたのはこの2例のみ。
当時も現在も球界を代表する人気チームであり、厚遇が望める阪神入りを拒否して
当時、球団経営が落ち着かず、人気も低迷していた太平洋に入ったのか?

74年秋以降の「週刊ベースボール」のバックナンバーをひもといてみたところ、
途中には「丸善石油の古賀、阪神と合意」と書かれていて、
75年シーズンの展望にも、古賀投手の名が載っているのですが、
結局、交渉は決裂してしまいます。条件面でのくいちがいも多少あったものの
「直接交渉に来たのは2回のみ。あとは電話連絡だけとは…」と
感情面でのもつれもあっての交渉決裂だったようです。

翌年、再度、太平洋から1位指名を受けた古賀は、「2年連続ドラ1」の実力を見せつけて、
チームでは東尾修の13勝に次ぐ11勝を挙げますが、
新人王争いでは南海の藤田学に僅差で及ばず。

同年の2人の成績は
藤田(21歳)	27試合11勝3敗	149回2/3	防御率1.98
古賀(27歳)	33試合11勝13敗	189回1/3	防御率3.10

この年の南海が2位、太平洋は6位ですから、バックの差が相当あったわけです。
古賀の不運はこの辺から始まっていたのでしょうか?

翌77年3月、熊本での巨人とのオープン戦での登板で古賀は右ヒジを痛めてしまいます。
この試合のレポートが、やはり当時の週刊ベースボールに載っていたのですが、
雪が舞う中で好投する古賀投手の姿が大きく写されており、
本文中には「この日の気温、マイナス1度」と書かれています。

今なら、当然、中止となっているはずですが、当時のオープン戦は
現在のような「調整試合」的な位置付けではなく、
貴重な収入源となる「地方興行試合」の側面が強かったのです。
しかも、対戦相手は当時、人気絶頂だった巨人であり、
資金面に不安のあるライオンズはこの試合を中止にすることはできなかったのでしょうし、
主力投手である古賀を投げさせて体面を保たねばならなかったのでしょう。

この試合に先発した古賀は5回を1失点に抑えて勝利投手となったものの、
その代償は大きく、古賀は以降2ケタ勝利を挙げることなく、
右ヒジ痛と戦いながら、各チームを転々とすることになります。

77年5勝、78年4勝だと同年オフにロッテにトレード。
成重春生、山崎裕之(ロ)←→古賀正明、倉持明(ク)

のちの2000本安打打者、山崎との交換ですから相当期待されていたはずですが、
ロッテでも4勝のみ。ともに転出した倉持がリリーフで活躍、
カツラのCMにも出演する人気者となる副産物もありました。

ロッテは1年のみで再び巨人にトレード。
小俣進、田村勲、庄司智久(巨)←→小川清一、古賀正明(ロ)

小俣投手は引退後に巨人の長嶋茂雄終身名誉監督の専属広報なども務め
現役時代から同監督の信任の厚かった長身投手。
田村投手は定岡正二、西本聖と同期入団でやはり期待されていた投手です。
庄司は77年にイースタンで打撃三冠に加え、盗塁王も獲った選手なのですが
一軍では代走要員でしかなかったものの、ロッテに移ってなかなかの活躍を見せました。

※庄司選手については下記のブログでも触れています
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/69

巨人では谷間の先発も務め、6勝を挙げますが、またしても1年限りで大洋にトレード。
松原誠(洋)←→古賀正明(巨)

そう、名球会会員で、横浜球団の最多本塁打記録も保持する
昭和40~50年代の大洋ホエールズを支えた、あの大打者です。

かように、古賀は3度のトレードを経験しますが、交換相手は有力選手ばかり。
各球団が古賀の潜在能力の高さに目をつけて交換相手に指名してきたと思うのですが、
彼の豪速球が甦ることはついぞありませんでした。

そして、4球団目となった大洋で83年10月に古巣・巨人から勝ち星を挙げて
史上2人目の全12球団からの勝利を達成(1人目の野村は同年5月に達成)するのですが、
この勝利が古賀の現役最後の勝ち星となってしまいました。

古賀がもしも75年に阪神入りしていれば極寒の中で投げることを強いられることも
なかったかもしれません。同投手がヒジを痛めた77年のキャンプレポートには
当時のキャンプ地、島原球場の小石が原因で右足首を捻挫したという記述もありました。
恵まれた環境のチームにいれば、もっと大成できたのでは? とも思われます。

古賀がケガのないまま、ライオンズのエースであり続けたなら、
トレードに出されることもなかったはずです。
全12球団からの勝利というラッキーな記録は、
ケガという不運がもたらした副産物だったのですね…。
調べていて、複雑な心境になりました。
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posted by しゅりんぷ池田 |14:29 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年07月25日

15球団から勝利を挙げた投手がいた!

横浜の工藤投手が昨日の対巨人戦で勝ち星を挙げ、
13球団からの勝利を挙げた投手となりました。

以前にも、「工藤以前に13球団から勝利を挙げていた投手がいた」というタイトルで
ブログを書いたことがあったのですが、
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/60

今回の記録達成で13球団どころか、15球団から勝利を挙げた投手がいたという
参考記録が報じられ、驚きました。
西鉄などに在籍していた緒方俊明という投手なのだそうですが、
全然知らない選手だったので、なおさら驚きました。

緒方のキャリアは熊本商-早稲田大-熊本クラブ-巨人(47)-西日本(50)-
西鉄(51)-東急・急映(52途~55)というもので、
戦後の47年に25歳でプロ入りしたものの、巨人での3年間で5勝8敗だと
50年には新設球団の西日本パイレーツ(セ・リーグ所属)に供出されます。
ここで緒方はエースとして活躍、20勝13敗を挙げるのですが、西日本は1年で消滅、
選手の大部分は同じ福岡に本拠地を置いていた西鉄ライオンズに合流します。

※ちなみに、同投手はセ・リーグ史上、最初に三振を奪った投手でもあるそうです
http://www.npb.or.jp/CGI/cl/kiroku_put.cgi?id=00028&type=2

西鉄の1年目には11勝8敗という成績を残しますが
翌52年のシーズン当初に戦後のプロ野球復興のシンボルともいえる、
青バットの大下弘とのトレードで西鉄の主砲・深見安博とともに東急へ移籍します。

この深見さんのことは存じ上げていたのですよ。
というのも、同選手はこのシーズン25本のホームランを打って本塁打王となるのですが
同年は西鉄で2本、東急で23本打っており、
複数球団にまたがってタイトルを獲得した史上唯一のケースとして有名だからです。

この深見選手のキャリアは報徳商-中央大-西日本鉄道-西鉄(50)-東急(52途)
-高橋(54)-南海(55~57)というもので、西日本鉄道では都市対抗でも優勝し、
50年に同社がプロ化するにともない、プロに転向したということなのでしょう。
30歳でのプロ入りですから、随分遅いスタートだったのですが、
1年目に早速22本塁打し、3年目にはホームラン王も獲得。
しかし、やはり実働期間は短く通算85本塁打に終わります。

大下ほどの大物選手なら、チーム生え抜きの主砲の放出も仕方なかったのかな、と
深見選手のことは記憶に残っていたのですが、同時に移籍したもう一方の
選手がこんな珍記録を持っていたいたとは…。

緒方投手は結局、実働9年で53勝62敗の成績で引退。
タイトル獲得もなかったので、まったく「忘れられた選手」となっていたのですが
「15球団からの勝利」という記録はもっと喧伝されていい記録ですよね。

同投手の在籍時、1リーグ時代には8球団、セ・リーグ時代は8球団、
パ・リーグ時代は8球団(51~53年は7球団)存在していました。
パで2球団に所属していたので、8球団から勝利を挙げたのでしょう。
(記録が古く詳細を把握しきれませんでした)
一方、セでは古巣の西日本が1年しか存在しなかったため、
西日本からは勝ち星が挙げられず7球団からの勝利で、
計15球団からの勝利に留まりました。

その時代に存在したすべての球団から勝ち星を挙げたわけではないということで
この記録は看過されているようなのですが、記憶に留めておいていい記録だと思います。

ちなみに、スタルヒン投手も15球団から勝利を挙げているそうです。

posted by しゅりんぷ池田 |12:59 | 野球 | トラックバック(2)
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2007年07月24日

プロ野球職人列伝:永射保×清川栄治

前号から隔月刊となった『ベースボールマガジン』の9月号が発売となりましたが、
今回のテーマは「プロ野球職人列伝」。
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball-q/0709/index.html

巻頭対談は異色の左のサイドスロー投手として鳴らした
永射保(元西武他)と清川栄治(元広島、近鉄)。渋いですねえ~。

他にも王貞治へのワンポイントリリーフ役として活躍した大洋の平岡一郎、
74年に救援で5勝を挙げ中日の20年ぶりの優勝に貢献した竹田和史
(のちクラウンに移籍し、79年オフの田淵・古沢←→竹田・若菜・真弓・竹之内の
大型トレードで阪神に移籍した1人となりました)、
75年の広島の初優勝時に中継ぎとして活躍した渡辺弘基などについても
言及されています(写真もあり!)。

派手な数字を残したわけではないこれらの選手が誌面に載ったり、
話題に上ることは滅多にないので、
それらの選手の全盛時の写真を見れるのはまさに眼福です。

それは野球カードの世界でも同様です。
ベースボール・マガジン社でも、球界OBの方のカードをよく作らせて
いただいているのですが、カード化されているのは、
やはり名球界入りしているような大選手に偏りがち。

「大物選手もいいけど、もうワンランク下ぐらいの渋い選手のカードも作ってよ」
というようなご意見を、コレクターの方からよく頂戴します。
ベースボール・マガジン社のカードは1991年からスタートしているので
それ以前に活躍した選手が特に要望されますね。

それ以前には73年からカルビーのカードも発行されていましたが、
現在のBBMカードのように全選手がカード化されているわけではなく
各チーム数名から多くても10名程度
(巨人だけは10数名ほどカードになっていましたが…)だったので
中継ぎ投手あたりはなかなかカード化されていませんでした。

調べたところ、永射投手がカルビーカードに登場しているのは82年1年だけのようです。
79年に63試合、80年に56試合、81年に61試合に投げ、
3年連続でリーグの最多登板投手となって、ようやくカルビーカードに登場となったのですね。

あと、個人的に覚えているものでは、メンコメーカーの山勝という会社が出していた
野球カードにクラウンライター・ライオンズ時代の永射投手のカードがありました。

永射投手は当初、広島に入団したのですが、2年目のオフに太平洋に移籍。
チームがクラウンとなった77年には49試合に投げて(先発は15回)9勝10敗6S、
防御率3.33はリーグ13位(同投手が規定投球回数に達したのはこの1年のみ)
という好成績を残します。チームでは山下律夫の12勝、東尾修の11勝に次ぐ
3番目の勝ち星を挙げたということで、カード化がなったのでしょう。

永射投手の通算成績は606試合に投げて44勝37敗21S。
リーグの最多登板投手となること4回で通算606試合の登板という数字は
かなりのものですが、それでも歴代28位タイ(1位は米田哲也の949試合)。
http://bis.npb.or.jp/history/ltp_g.html

数字だけを基準にカード化する選手を決めていたのでは、
こういう選手を汲み取ることはできません。
「プロ野球職人列伝」のカード版も、そのうち是非、実現させてみたいですね。
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posted by しゅりんぷ池田 |16:07 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年07月12日

最高打率から最多安打へ:価値基準の転換

先日、ヤクルトの青木宣親選手が373試合で500安打に到達し、
従前の記録を更新する最速記録となったという記事を見て、
よくまた、そんな記録を拾ってきたものだと、感心してしまったわけですが
従前の記録保持者が別当薫さんというので、また驚いてしまいました。

最速500安打というと、入団1年目から大活躍した長嶋茂雄さんか、
やはり入団早々からバリバリ働いた外国人選手(ブーマーとか)
ではなかろうかと思ったのですが、違ったのです。

別当さんの従前の記録が386試合で2位、3位がブーマーで390試合、
以下やはり外国人選手の名前が並んでいて、
長嶋さんは418試合でなんと11位なんですね。

長嶋さんは1年目が打撃ベストテンの2位(この年、首位打者なら三冠王!)で、
翌年からは3年連続で首位打者で、入団1年目から6年連続でセ・リーグの
最多安打打者でもあったのですね。しかし、その数は153、150、151、158で
青木の202、192(05、06年)とはかなりの差があります。

青木の05、06年の打数が588、599なのに対して
長嶋は502、449、452、448と100打数以上の差があります。
一番打者の青木に対して中軸を打っていた長嶋の方が打席が少ないというのも
ありますが、当時はリーグ全体の打率が今ほど高くなかったので
打席が巡ってくる機会がより少なかったのでしょう。

一方の別当さんは1年目からの安打数が114、184、160、123(48~51年)で
500安打に到達。これはやはり49、50年に使用されたラビットボールの影響でしょう。
イチローが94年に210安打を打つまでのシーズン最多安打記録だった
藤村富美男さんの191安打もやはり50年に作られた記録ですしね。
(藤村さんについてはベースボール・マガジン社のHPのコラムでも
触れているので、そちらもご覧になってみてください↓)
http://www.sportsclick.jp/sportscard/column01/index37.html

しかし、最多安打という記録に注目が集まるようになったのは
そのイチローの出現以来です。イチローが年間200安打に到達するのでは?
となって注目が集まり、その94年からタイトルとして表彰されるようになりました。

「打率は日々変動するけど、安打数は日々積み上げられて減らないので
そちらの方を目標にしている」というイチローの発言以来、
安打数が注視されるようになり、実際それ以降、
最多安打のタイトルのレベルが上がり、190本台の争いとなり、
青木のようにイチローに続いてシーズン200安打を達成する打者が出てきました。

そういえば、それに反比例するように首位打者への注目度が落ちている
ような気がするんですね。首位打者は、かつては「バッティングチャンピオン」と
称されるバッターにとっては最高の栄誉だったのですが、最近はより直接的に
勝利に結びつくホームランの方に価値が置かれるようになっている気がします。
かつて一流打者の証明のように言われていた「打率3割」も、
現在では比較的容易に達せられるようになって価値が減じています。

打率というのはヒットを打つ技術の指標だと思うのですが、
「打率志向」から「安打数志向」に変わったということは、
技術を競う時代から成果を競う時代に変わってきているということなんでしょうか?
(まあ、もちろん技術が一定レベル以上ないと成果は上げられませんが…)

野球道を究めて打率を上昇させるよりも、打率は低くとも安打数を稼いで
チームの勝利に貢献する方向に変わっているんですかね。
前者の場合、ややもすると、チームの勝利を度外視してでも
自分の打率を高めようとする弊害が出ることがあります。
苦手な投手の際には欠場してみたり、
打率を維持するために最後の数試合を欠場したりとかの例ですね。
そうすると、かつての「打率志向」よりも現在の「安打数志向」の方が
野球の本来の目的(チームの勝利)に適っているのかもしれません。

まあ、どちらが正しいかというのは判断できないところですが、
何か、やはり野球の質が変わってきているんだなというのを感じた次第です。
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posted by しゅりんぷ池田 |15:06 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年07月05日

「自動車工」という校名の学校があった

ベースボール・マガジン社から突如3冊同時に発売された「にっぽんの高校野球」シリーズ。

にっぽんの高校野球 vol.1 東京編
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook487/index.html
にっぽんの高校野球 vol.2 大阪編
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook488/index.html
にっぽんの高校野球 vol.3 東海編
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook489/index.html

いろいろな学校が紹介されていて面白いですね。
思えば、高校野球を通じて全国各地の地名を覚えたものです。
子供の頃からプロ野球の選手名鑑を暗記するほど読み込んで、
そこから漢字もいっぱい覚えましたし、
思えば、「人生に必要なことはすべて野球から学んだ」という感じです。

その「東海編」に元ロッテの袴田英利さんのインタビューが載っていたんですが、
袴田さんの出身校は「自動車工」! あった、あった!
袴田さんは、法政で江川卓さんとバッテリーを組んでいた頃から知っていますが、
その出身校が「自動車工」と記されていて、随分珍しい学校名だなあ~と
当時から思っていました。

元祖・背番号「0」でおなじみの長嶋清幸さんも同校の出身ですが、
現在は「静岡北高」と改称されているそうで、残念と言ったらあれですが、その落差に驚きます。

自動車産業は現在でも日本の基幹産業であり続けていますが、
それがストレートに学校名というのは、時代にそぐわないのですかね。

かつてはよくあったのに、今は少なくなった校名というと、「○○電波高校」というのもあります。

プロ野球で有名なのは元ヤクルトの浅野啓司さん、元ロッテの村田兆治さんを
輩出した福山電波工高(現在は近大福山)、
元阪急の井上修さん、元大洋の小金丸満さんらを輩出した福岡電波高
(現在は福岡工大城東高。元横浜の永池恭男も同校出身)等で、
全国各地に「○○電波(工)高校」という学校がありましたが、
現在は校名変更をしているところが多いようです。

「○○電波高校」というのは、当時は時代の最先端の名称だったのでしょう。
今で言えば「○○IT学院(専門学校とかでありそう)」みたいなもんでしょうか。
でも、それも時代が進むと陳腐化してしまう。きっと、「○○IT学院」なんて名称も
将来的には時代遅れになってしまうんでしょうね。

もうひとつ、こういう産業学校系の名称で思い出すのが「名古屋電気」。
現校名は「愛工大名電」でイチローも輩出した、全国的に有名な野球名門校ですが、
現横浜の工藤公康投手を擁して甲子園に登場した際の校名は「名古屋電気」で、
工藤投手の活躍もあって印象に残りました。

あと、僕の大好きな土井正博さんや、福本豊さんの出身校、大鉄高
(現・阪南大高。現校名になってからも元日本ハムの岩本勉投手を輩出)も、
そういう産業学校系の名称かと思っていたのですが
(東京の岩倉高のような鉄道関係の学校かと)
調べてみると、創立に貢献された方が大阪鉄道株式会社(現在は近鉄に吸収)の
社長さんだったそうで、その略称「大鉄」が校名に使われたそうです。
本筋からははずれますが、調べていての発見だったので書き記しておきます。

しかし、学校の校名なんて、未来永劫変わらないような普遍的なもののかと
思っていたら、やはり時代の影響を受けるのですね。
最近も「○○商業」や「○○工業」から、普通課っぽい校名に変わる学校も多いですしね。

よろしかったら、「にっぽんの高校野球」シリーズご購読ください。
なつかしい校名がいっぱいですよ!
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posted by しゅりんぷ池田 |11:32 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年07月04日

オールスターへの興味が減じている自分がいる

オールスターの投票で楽天の選手が大量に選出されて話題となっています。
これに対して、「ネットを駆使した組織票か?」なんて観測もありますが、
元データを見ればそんなことはないのは明らか。
親会社の楽天がIT企業だから出てきた邪推でしょう。

ファン投票の結果を見ると…
http://www.gulliver-allstar.com/final_result.html

インターネット	 545,992(11.6%)
携帯電話	       1,308,314(27.8%)
ハガキ		2,856,823(60.6%)
合計		4,711,129

と圧倒的にハガキが多いのです。
このIT時代にまだまだハガキが多数というのは不思議な気もします。
プロ野球ファンはアナログ派が主流で、
ネットを使う層はプロ野球には関心が薄いのかなあ~、とも思えます。

こういう組織票の問題は先にも取り上げた太田幸司さんの件から始まって
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/73
78年の日本ハムの組織票事件、
最近でも03年の川崎憲次郎への投票集中事件など度々問題となってきました。

しかし、太田さんのころは投票数が20万通ほどだったので、
組織票が効力を発揮したのも理解できるのですが、
投票数が470万通にも上る現在でもそれが有効とは驚きです。

1970年	得票数20万票	太田投手得票4万票	最多得票:長嶋13万票
2007年	得票数470万票	田中投手得票57万票	最多得票:山崎109万票

ハガキでの投票といっても、わざわざ郵便料金をかけてまで投票する人は
そんなに多くないと思うので、料金がかからない、球場での投票が多かったと思うのですが、
なんでも、今年、オールスターが開催されるフルキャスト宮城での投票は
投票用紙がなくなってしまうほど、盛り上がったのだとか…。

その結果、地元・楽天の選手が大量に受かってしまったようなのですが
一地域の盛り上がりが全体に影響を与えてしまうというのは
全体の投票数が少ないということなんでしょうね。

MLBでは投票数が膨大なので、ちょっとやそっと組織票を投じても
全体に影響を及ぼすことはできないと言われていますが、
MLBの応募総数は約1850万通だそうなので、驚くほどの差ではありません。
http://mlb.yahoo.co.jp/feature/2007_7/vote03.html

一体、どこまで、投票数が伸びれば、こういう事態が避けられるのか…。

そして、ここからが本題。
今回の騒動はオールスターの権威にも関わる大問題だとも思うのですが、
正直、わたしは関心が薄いのですよ。
「オールスターの権威に関わる由々しき事態」とか義憤を感じたりはしないのです。
オールスターゲームに対して、もうあまり興味を感じていない自分がいて、
それがまた不思議なのです。

子供の頃、オールスターゲームといったら、
TVの前で正座して見るぐらい熱中したものでした。
日頃、あまり見れないパ・リーグの選手なんかも一挙に見れるわけで、
「へえ~、太平洋のユニフォームって、こんなデザインなんだ」と
まばたきをするのがもったいないぐらい、食い入るように見ていたものです。

それはやはり、当時はプロ野球の情報が少なく、スター選手を一挙に見れる
オールスターは絶好の機会だったのですが、
時代は下って、パ・リーグの選手の姿もテレビで見れるようになり、
さらに05年からは交流戦も始まって「夢の顔合わせ」も新鮮味を失ってしまいました。
民放による妙な演出も、オールスターの権威が失墜した一因だったような気もします。

そんなわけで、わたしの中でのオールスターゲームのマインドシェアは
随分低下してしまいました。同様の感を持つプロ野球ファンの方も多いのでは?
ありていに言えば、「歴史的使命を終えた」感があるのですが、
みなさんは、どう思われますか?
オールスターゲームが再び輝きを取り戻す日は来るのでしょうか?
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posted by しゅりんぷ池田 |15:35 | 野球 | トラックバック(1)
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