2007年06月29日

東西ネーミング考:プリンス・フィルダー~関本四十四

ミルウォーキー・ブリュワーズのプリンス・フィルダー選手が
ナ・リーグのホームラン王を獲りそうな勢いで本塁打を量産しています。
フィルダーの父親はご存知の通り、阪神タイガースにも在籍し、
帰国後メジャーで本塁打王2度のセシル・フィルダー氏なので、
プリンスには親近感があって、その活躍はうれしいですね。

セシルの息子が、父親に似て巨漢で、野球もやっていて、
なかなか有望というのは日本にも早くから伝えられていましたが、
当時から不思議に思っていたのは「プリンス」というネーミング。

日本では、「ハンカチ王子」斎藤佑樹や「ハニカミ王子」石川遼が活躍中ですが、
海の向こうで活躍中の「フィルダー王子」はそれが本名なんですよね。

日本人の感覚からすると、それってどうなの? と不思議ですが、
ミュージシャンのプリンスも、やはりそれが本名だそうで、
欧米ではわりとよくある命名なのかもしれません。
その辺は文化の差なので、なんとも言えない部分ですよね。

逆に、欧米から見たら、日本人の「一郎」「二郎」「三郎」という
生まれた順番に数字を当てるナンバリングネーミングなんか不思議かもしれません。

太平洋戦争が勃発した当時、アメリカの軍部が日本の連合艦隊司令長官、
山本五十六の名前を見て、「彼は56番目の子供なのか!」と驚いたところ、
「いや、そうではない。彼は父親が56歳のときに生まれた子供だそうだ」という
返答が却ってきて、再度驚いたというエピソードを聞いたことがあります。

その山本五十六と同様の命名例が元ジャイアンツの関本四十四さんですよね。
やはり、父親が44歳のときに生まれた子供ということで、命名「四十四(しとし)」。

関本さんはV9末期に活躍された投手で、
入団4年目の71年に10勝を挙げて新人王を獲得。
新人王の受賞規定では「入団5年目」までとなっていますが、
入団5年目で新人王になったケースはなく、現在も入団4年目での新人王は
98年の小関竜也(当時西武、現巨人)と並んで、史上最も年数のかかった受賞となっています。

関本さんは74年には再び10勝を挙げて、同年は最優秀防御率(2.28)の
タイトルも獲得しますが、その当時の背番号は「20」でした。

ところが、翌75年、甲子園の人気者だった定岡正二が入団して背番号「20」となり、
関本投手のそれは「44」となったので、
「あれあれ、関本は活躍したのに背番号降格なのか?」と不思議に思いましたが、
これは、関本さんの背番号変更希望が先にあってのことだったそうなんですね。
名前と同じ背番号「44」というわけです。

関本さんは翌76年に太平洋に移籍し、さらに大洋に移って78年限りで引退。
通算27勝という成績ですが、そういうユニークなエピソードもあって印象深い選手でしたね。

で、そんな関本さんのトークショーが近々あるそうなのですよ。
ジャイアンツが去年から行なっている「集え!ジャイアンツおやG!!」という
イベントなのですが、お喋りも上手な関本さんですから、面白い話が聞けそうですよ。
ご興味のある方は申し込みをされてみては、いかがでしょうか?
(同イベント参加には当日の試合入場券も必要。詳しくは下記をご参照ください)
http://www.giants.jp/G/gnews/news_20070619_0003.html
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2007年06月28日

どうしてこんなに増えた? プロ野球の出戻り外国人選手

補強期限の6月末日が迫り、各チームの駆け込み補強が進んでいますが、
目につくのが以前にプレーしていた外国人選手の出戻りです。

6/27公示	ドミンゴ(楽天)	元中日
6/26公示	オーティズ(ロッテ)	元オリックス
6/20公示	アレックス(広島)	元中日
6/11公示	シコースキー(ヤクルト)	元巨人

これまでも、成績が落ちて解雇になった外国人選手が
最晩年に違うチームに移籍するというケースはままありましたが、
Aチームでダメだったのに、Bチームで成績が良くなったという例はほとんどないですよね。

かつて、ヤクルトで活躍したロジャー・レポーズの例があるぐらいで、
その後、セギノールが出現するまで、こういうケースの成功例はなかったと思います。

ロジャーは73年、「レポーズ」の登録名で太平洋に在籍しましたが、
66試合	41安打12本塁打30打点、打率.220という不成績で自由契約。
74年からヤクルトに転じて、登録名を「ロジャー」に変更すると
本当に人が変わったように打ち始め、
同年から25本、27本、36本と打ちホームラン王を争うまでになりました。

移籍の前後で登録名を変更するというのも、彼が最初でしょうか?
その後、ジェリー・ホワイト(84西武=ホワイト、85大洋=ジェリー)の例があったあと
ドミンゴ・グスマン(02-03横浜=グスマン、04-06中日、07楽天=ドミンゴ)、
ケビン・バーン(03-04近鉄=バーン、05オリックス=ケビン)、
セドリック・バワーズ(04-05横浜=セドリック、06楽天=バワーズ)、
リック・ショート(03ロッテ=ショート、06-07楽天=リック)、
と最近、流行の兆しを見せています。

中古品を新品に見せるトリックなどと言われることもありますが、
イメージ一新でいいんじゃないですかね?
広島に戻ってきたアレックス・オチョアも「オチョア」にすればよかったのに、と思っています。

そして、04年のホームラン王、セギノールですが、
初来日は02年のオリックスで、この年は23本塁打したものの
57安打で打率.204、三振104で1年で自由契約になりました。
04年に復帰した際にも、活躍を予想する声は聞かれなかったのですが、

04年	135安打	44本塁打	110三振	打率.305(12位)
05年	141安打	31本塁打	141三振	打率.288(14位)
06年	143安打	26本塁打	119三振	打率.295(15位)

と、相変わらず三振は多いのですが、意外に打率も安定していて、
「出戻り外国人選手」久々の成功例となりました。

このセギノールのケースに触発されたわけでもないでしょうが、
最近、こういうケースが増えましたね。
その1人、楽天のリックの場合は成功と言えるのか、どうか微妙なところ。

03年	ロッテ	143安打	12本塁打	58打点	打率.303(17位)
06年	楽天	126安打	4本塁打	34打点	打率.314(3位)

率はいいものの長打力に欠けるので、ロッテは1年でリリースしたのでしょうが
昨年の楽天での成績も中身的には変わってないですね。

では、どうして、出戻り外国人が増えたのか?
これにはMLBの年俸の高騰が関係しているのでは? と自分は思っています。
NPBでは、どんなに活躍しても年俸数億円がMAXなのに対して
MLBだと、もう1ケタ上も狙えます。日本に行って2~3億円を狙うのか?
メジャーで10億円を狙うのか? NPBで成功する確率も、MLBで成功する確率も
どちらも未知数であることには代わりがないので、
アメリカに留まる選手が多くなったのでは? と自分は考えました。

日本の球団フロントも、40本塁打する可能性も秘めているものの、
日本の投手に対応できなければ10本塁打に終わるかもしれない選手よりも、
20本ぐらいは確実に打つことを既に証明済みの選手に照準を合わせることが
多くなっているような気がします。

この流れはそうそう変わらないような気がするので、
今後も「帰ってきた外国人選手」が多々登場しそうな気がしています。

オリックス解雇後に韓国球界に復帰(来日以前も韓国で活躍)したブランボーは
三冠王が狙えるぐらいの活躍を見せているそうですよ!

個人的にはセギノールと同時にオリックスに入団したシェルドン
(コラムニストのえのきどいちろうさんが、「2人とも風邪薬の名前みたい」
とはしゃいでいましたが、26本塁打したものの155三振で三振王!)とか、
カブレラとのコンビが「ツインバズーカ」と呼ばれたマクレーン(03年限りで解雇も
04年途中に西武に復帰。その年、なぜだかイースタンのホームラン王)なんか
また見てみたいですね!

さてさて、今後、どんな外国人選手が出戻ってくるのか?
もう誰が戻って来ても驚きませんよ。
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2007年06月27日

最近、甲子園の優勝投手のプロ入りが少ない

横浜のルーキー、下窪陽介選手がなかなか頑張っていますが、
昨年のドラフトで同選手が指名されたのには驚きました。
下窪選手といえば、松坂大輔投手が横浜高で春夏連覇した2年前の
96年の春のセンバツの優勝投手。日大に進んで野手に転向し、
社会人の日通で野球を続けていることは知っていましたが、
もう年も年だから、ドラフト指名はないかなあ~と思っていたのですが、
28歳になってついにプロ入りを果たしました。

そこで思ったのですが、最近、甲子園の優勝投手のプロ入りが少なくなりましたよね。
松坂以降の8年間でプロ入りしたのは、現在のところ、
正田樹(99夏・桐生一-日本ハム-阪神)
近藤一樹(01夏・日大三-近鉄-オリックス)
西村健太朗(03春・広陵-巨人)
田中将大(05夏・駒大苫小牧-楽天)の4人だけです。

昔はスカウト網も発達していなかったので、
甲子園の優勝投手は取りあえず押さえておいたのが、
最近はスカウトの情報も緻密になってきたために、
甲子園の優勝投手だからといって、必ずしも指名しなくなったのかな?
と思って、ドラフト制度が始まった1965(昭和40)年以降を調べてみたところ…

昭和40年代	9名
昭和50年代	15名
85~94年	9名
95~04年	6名

という結果になりました。意外なことに、昭和40年代よりも50年代の方が
優勝投手のプロ入りが多かったのですね。
「箕島の春夏連覇~逆転のPL~池田の山びこ打線~KK時代」の頃です。
(※桑田・清原の高3時が昭和60年)

しかし、プロ入りした甲子園優勝投手を一覧にして改めて思ったのは
「甲子園の優勝投手は大成しない」のジンクスは、どうも正しいようだ、ということです。

プロでの勝ち星順に並べると…

1位	平松政二(大洋)	201勝
2位	桑田真澄(巨人)	173勝
3位	松坂大輔(西武)	108勝
4位	野村弘樹(横浜)	101勝
5位	中西清起(阪神)	63勝
6位	渡辺智男(西武)	45勝
7位	水野雄仁(巨人)	39勝
8位	三沢興一(巨人)	28勝
9位	西川佳明(南海)	25勝
10位	正田 樹(日本ハム)	24勝
※現役選手の勝利数は06年終了時点

という感じで、100勝以上した投手は4名のみ。
甲子園優勝投手でプロ入り時に既に打者に転向していた選手を除くと32名。
そこから100勝以上した4投手の勝利分を引くと28名で123勝。
1名平均わずか4.4勝ですよ! これは少ない!

なにしろ通算2勝以下という投手が28名中13人もいるのです。

水江正臣(72夏・津久見-ヤクルト)	一軍登板なし
永川英殖(73春・横浜-ヤクルト)	1試合0勝0敗0S
黒田真二(76春・崇徳-ヤクルト)	49試合0勝7敗2S
愛甲 猛(80夏・横浜-ロッテ)	61試合0勝2敗0S	
榎田健一郎(82春・PL-阪急)	7試合0勝0敗0S
南 竜次(90夏・天理-日本ハム)	11試合0勝0敗0S

なんで、こんなに成功率が低いのか? 
巷間よく言われる、高校時代の投げ過ぎが原因なのでしょうか?

しかし、かつては「四番で投手」というパターンの選手が多く、
投手で失敗しても打者に転向して盛り返すことも可能でした。

愛甲猛(80夏・横浜-ロッテ)	61試合0勝2敗0S	1142安打108本塁打
畠山準(82夏・池田-南海)	55試合6勝18敗	483安打57本塁打
吉岡雄二(89夏・帝京-巨人)	一軍試合登板なし	867安打131本塁打

ですが、時代が下るにつれて、投打の分業化が進み、
「投手でダメなら打者で」という方便も使えず、
甲子園の優勝投手の指名が減る一因になっているのかもしれません。

05年夏の優勝投手(当時2年)、田中将大投手が昨日も勝ち星を挙げましたが
同投手はジンクスを破って名投手となれそうな予感がしますね。期待しています!
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posted by しゅりんぷ池田 |12:11 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年06月26日

フォークボールの元祖・杉下茂さん

週末はよく図書館に行って本を借りて読んでいるのですが
この週末、遅ればせながら、フォークボールの元祖、杉下茂さんが2004年に
出されたた「幻のメジャーリーガーとフォークボール」(本の友社)を読みました。
http://www.hontomo.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-89439-456-1

こういう本が出ていることには気付いていたのですが、
いかにもメジャーブームに便乗したようなタイトルと、
「杉下さんのことぐらい、もう十分知っている」という思い込みから
食指が動かなかったのですが、パラパラと本をめくっていたら
「巨人の投手コーチになったときは50歳」という記述が目に入り
「え! そんなに若かったの!」と驚き、
これはまだまだ見逃している部分がありそうと思って、改めて借りて読んでみました。

僕らぐらいの世代だと、杉下さんといえば第一次長嶋政権時代の投手コーチ
(76~80年)のイメージですよね。黒ブチのメガネで、もう60歳代(失礼しました!)
かと思っていたのですが、1925年生ですから、就任時はまだ50歳だったんですね!
何度も書きますが、昔の人は老けていた(失礼!)というか、貫禄がありました。

そして、杉下さんはその時代の方としてはすごく長身(185cm)で、投手交代で
マウンドに行くと他のどの選手よりも大きかったという画も印象に残っています。

同書を読んで驚いたのは杉下さんの引退の経緯。
杉下さんは58年に引退しているのですが、この年11勝。
54年に32勝して中日の初優勝に貢献したあとは26→14→10→11という推移。
全盛時に30勝した投手からすれば不本意な数字で、それで引退したのかと
思っていたのですが、58年の成績をよくよく見てみると、46試合に投げて
投球回は218(!)。昨年のセ・リーグの最多投球回は三浦大輔の216回2/3ですよ。
そして防御率はリーグ5位の1.78。年齢もその年33歳ですから、
とても引退する年齢でも成績でもありません。

杉下さんの引退の経緯は「30歳以上の高年俸の選手を整理したい」という
球団の意向に沿ったものだったそうなのです。
で、同年限りで西沢道夫(通算212本塁打。52年には首位打者&打点王の二冠王)、
服部受弘(投手で112勝、打者として447安打。41年、ホームラン王)
といった功労者もチームを去ります。

そして、杉下は翌年から監督に昇格するのですが、
大先輩を差し置いての監督就任に杉下が抵抗を示したため、
西沢と服部の背番号が永久欠番になったそうなのです。
いやあ、この永久欠番にそんな政治的な意図が込められていたとは驚きです。

やはり、こういう知らない発見があるので、読書は欠かせません。

さらに、もう1点の発見は杉下さん自身が「フォークボールは卑怯」という認識が
あってフォークをあまり投げなかったそうなのです。

杉下さんが現役時代、それほどフォークを投げなかったというのは有名な話ですが、
それはフォーク以外の球で勝負できたから、投げる必要があまりなかったのだろう
と思っていたのですが、杉下さんがフォークにネガティブな印象を持っていて
投げなかったというので驚きました。

喩えは変ですが、時代劇などでよくある、刀で斬り合っている場面で銃が登場して、
「飛び道具とは卑怯なり!」とか言ってる、あの感じでしょうか。
フォークがそれだけ頭抜けて威力のある球だったということでしょうが
杉下さんはそんな武士道精神のような意識をもってプレーしていたのですね。
現在のプロ野球の状況からは想像できないようなメンタリティーです。

今の選手なら自分の成績にこだわって(それはまたサラリーにも反映される)
1球1球に血道をあげているわけですが、それ以前には自分の成績に拘泥しない
牧歌的な時代があったんだと改めて気付き、驚きました。

まだまだたくさん読むべき本がありますね。
みなさんも、是非、地域の図書館にお出掛けください。
現在書店では入手不可能な文献もあったりして、きっと、思わぬ発見がありますよ。
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posted by しゅりんぷ池田 |12:03 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年06月25日

代打男、川又米利(中日)

来る7月1日(日)に名古屋で
元中日ドラゴンズの川又米利さんのサイン会が行なわれるそうです。
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2007_dragons/index02.html

川又さんというと、規定打席に到達したのは85~87年の3年
(山内一弘監督~星野仙一監督のころ)で、キャリア後半はもっぱら代打として活躍。
代打本塁打16本はやはり中日OBの大島徳康さんと並ぶ
セ・リーグ2位(1位は元広島の町田公二郎の20本)の記録で、
キレイなバッテイングフォームで定評のあった選手ですね。

ドラゴンズ色が強い川又さんですが、実は東京の調布市出身で
出身校は話題の「ハンカチ王子」斎藤佑樹と同じ早稲田実業。

調布といえば、やはり甲子園のアイドルだった元ヤクルトの荒木大輔投手を生んだ
「調布リトル」が有名ですが、川又さんも、その調布リトルの出身ですから、
調布リトルから早実というルートがあったんでしょうね。

川又さんの早実野球部時代の同期には荒木さんのお兄さんもいたそうで、
昨年早実を優勝に導いた和泉実監督は1級下ですから、
川又さんも、「大ちゃんの兄貴分、佑ちゃんの大先輩」なんてのを
トークの導入部にしていることでしょう。

早実から中日というのは意外にも例が多く、川又さんの少し前に
内野の控えを務めていた田野倉利男さん(73~84=中日、85~88=ロッテ)、
早大時代に首位打者も獲った有賀佳弘さん(82~85=阪急、86=中日)、
選手としての記憶はまったくないのですが、
長嶋茂雄さんの引退試合に出場していたことで知っていた
西田暢さん(70~75=中日。実働5年で26安打2本塁打)、
95年、高木守道監督の辞任後監督代行になったものの、
さらにふるわず代行の代行(島野育夫)が起用されることになった徳武定祐さん
(61~67=国鉄・産経、68~70=中日)とかなり例が多いんですね。

このルートの源流を探ると、早実からのプロ第1号選手で、プロ野球創設当初に
名古屋にもうひとつあった球団、金鯱軍の監督を務めていた岡田源三郎さんに
行き着きます。岡田さんはなんと第1回の春のセンバツに出場した方で、
その後、明大に進んで、後に監督も務められ、殿堂入りも果たした大物で
中日といえば有名な明大閥の球団なので、その辺で関係があったのかもしれません。

しかし、早実なのに、早大に進まず明大というのも不思議な感じがしますが、
早実は早大の「付属」ではなく、少し遠い「系属」ということで、
必ずしも全員が早大に進めるわけではなかったので、
他大学を経てプロ入りした選手も散見されます。横浜の大矢明彦監督は駒大、
ソフトバンクの石渡茂二軍監督は中大を経てのプロ入りですね。

さてさて、話は全然前に進みませんが、そんな早実出身の川又さん、
最近、「NAGOYA23」(http://www.n-23.net/)というクラブチームを立ち上げられ、
46歳にして現役復帰(選手兼総監督)されたのには驚きました。

川又さんがレギュラーを務められたのは85~89年の5年間。
同氏はファーストかライトを守ることが多かったのですが、
87年に落合博満が移籍、92年にパウエル(この選手も過剰に忘れられている選手
ですが、3年連続で首位打者も獲得した超優良外国人選手でした)が加入して
はじき出された格好で、代打男として活躍したものの、出場機会が限られ
内心忸怩たるものがあったのではないでしょうか? 
そこで燃焼しきれないものがあっての10年ぶりの現役復帰のような気もします。

ちなみに、球団名「NAGOYA23」の「23」は川又さんの背番号「23」なのですが、
川又さんの後にその番号を継いだのが調布リトルの後輩、関川浩一
(桐蔭学園-駒大-阪神-中日-楽天)というのも因縁めいていますね。

そんなわけで、ドラゴンズファンのみなさん、ご都合がつくようでしたら
是非カードショーにご参加ください。
川又さんのクラブチームでの活躍も期待しています!
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posted by しゅりんぷ池田 |12:22 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年06月22日

盗塁が減って、ホームランが増えた(下)

「盗塁が減って、ホームランが増えた」というトレンドを検証する第3回目。
盗塁編を見て行きましょう。

■年代ごとの盗塁数変遷(セ)■
50’s	60’s	70’s	80’s	90’s	00’s
762個	505個	433個	533個	408個	394個	

50年代→60年代(34%減)	打線の大型化
60年代→70年代(15%減)	打線の大型化
70年代→80年代(23%増)	松本匡史・高橋慶彦・屋鋪要時代
80年代→90年代(23%減)	ID野球の影響(?)、捕手のレベルアップ(?)
90年代→00年代(3%減)	打線の大型化

セ・リーグの盗塁数はホームラン数の増加に合わせてやはり減る傾向にあるのですが
80年代に一時盛り返すのです。この時期、古葉竹識監督の広島、
スーパーカートリオの近藤貞雄監督の大洋のように「走る野球」を標榜した
チームがあったためなのでしょうか?

続く90年代は球場サイズの拡大でホームラン数が減ったのですから
盗塁数が増えても良さそうなものですが、減っています。なぜでしょうか?

想像するに、その要因のひとつは90年代を席巻した
野村・ヤクルトのID野球ではないかと思うのです。野村監督は後述するように、
70年代に福本豊の足を封じるためにクイックモーションを導入したのですね。
その野村監督が徹底した盗塁封じを行い、
またこの時期の古田敦也捕手の盗塁阻止率もすごく高く、
他チームにも谷繁元信、中村武志など優れた捕手がいたこともあって、
危険性が増した盗塁を試みる機会が減ったのでは? と思うのですが、いかがでしょうか?

■年代ごとの盗塁数変遷(パ)■
50’s	60’s	70’s	80’s	90’s	00’s
967個	570個	702個	572個	551個	450個

50年代→60年代(41%減)	打線の大型化
60年代→70年代(23%増)	福本豊の時代
70年代→80年代(19%減)	抑制の時代
80年代→90年代(4%減)	3・3・3信仰
90年代→00年代(18%減)	打線の大型化

パ・リーグの場合、50年代はものすごく走っていて、
特に54年から56年にかけての3年間は毎年1000盗塁を超えていたのです。
中でも南海と阪急の数が飛び抜けて多かったのですよ。

しかし、56年から西鉄が3連覇すると野球の形が変化します。
特に南海が西鉄に強力打線に対抗すべく、従来の緻密な野球から
「400フィート打線」と呼ばれる大型打線へとチームを改造したのが象徴的で、
全体にパワー野球の傾向が増し、盗塁も減少の一途を辿ります。

続く70年代には希代のスピードスター、福本豊の時代
(70~82年=13年連続盗塁王)となります。
野村克也・王貞治の出現によってホームラン時代が到来したように、
「優秀な個体が出現すると全体のレベルが上がる」という現象が
ここでも起きたわけですが、それは持続しませんでした。

福本は72年に年間106盗塁という前人未到の記録を打ちたてます。
そして、翌年、翌々年こそ95盗塁、94盗塁と90個代を保ちますが、
以後数字は伸びなくなるのです。

これは当時の南海の野村監督が、福本の足を封じるために
クイックモーションを導入し、それが功を奏した結果だと思うのです。
その模様を紹介したNHKのドキュメンタリーがあったのですが、すごく面白かったです。
http://www.nhk.or.jp/spotai/onair/82/index.html

こうして80年代には再び60年代のレベルに戻るのですが
80年代から90年代は微減に留まっていますし、セ・リーグよりは高い水準にあります。

■年代ごとの盗塁数変遷■
           50’s	60’s	70’s	80’s	90’s	00’s
(セ)	762個	505個	433個	533個	408個	394個	
(パ)	967個	570個	702個	572個	551個	450個

これは何なんでしょうか? 
セ・リーグほどの捕手の人材がいなかったということもあるかもしれませんが、
1つ仮説を提案させていただきたいのが、表中に記している「3・3・3信仰」です。

83年に阪急の簑田浩二が30年ぶりに「3割30本30盗塁」を達成し
この記録が注目を集めることになります。
ところで、その30年前に「3割30本30盗塁」を達成したのが中西太さんというのも
ビックリじゃないですか? これまた昔の打者はよく走ったの証左だと思います。

88年にはホセ・カンセコ、89年には秋山幸二、90年にはバリー・ボンズがこれを達成し、
「3・3・3」の万能型の選手こそが野球選手の理想型という考え方が流行ります。
そして、80年代から90年代に一世を風靡した西武ライオンズの野球が
まさにそういうタイプだったと思うのです。

とまあ、妄想も含めて、あれこれ考えてきましたが、
1950年代と2000年代の野球を比べると、大雑把に言って
ホームラン数は倍増して、盗塁は半減したと言っても過言ではないと思います。

	50’s	→	00’s
セ本塁打	493本	→	890本(81%増)
パ本塁打	464本	→	860本(85%増)
セ 盗塁	762個	→	394個(48%減)
パ 盗塁	967個	→	451個(53%減)

わたしも30年以上にわたってプロ野球を見てきたわけですが、
この間でもすごく変化があったわけです。
これからも、まだまだ野球の形は変容していくんでしょうね。
怖いような、楽しみなような…。
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2007年06月21日

盗塁が減って、ホームランが増えた(中)

「盗塁が減って、ホームランが増えた」というトレンドを検証すべく、
2リーグ分立以降、各年ごとのリーグの本塁打総数、盗塁総数を入力してみたのですが、
1年1年を見比べてみても差が分かりにくいので、
10年ごとに区切って平均値を出してみました。その結果が下記で、
それぞれに分析を加えてみました。
(設立当初のセ・リーグは8球団、パ・リーグも7~8球団だったので、
統計的にはそれを修正しないといけないのですが、今回はそのままです)

■年代ごとの本塁打数変遷(セ)■
50’s	60’s	70’s	80’s	90’s	00’s
493	636	816	828	746	890	

50年代→60年代(29%増)	王貞治の出現
60年代→70年代(28%増)	王とそのライバルたちの競争
70年代→80年代(1%増)             山本浩二時代~バースら外国人選手の台頭
80年代→90年代(10%減)	球場サイズの拡大
90年代→00年代(19%増)	順応の時代。松井秀喜&外国人選手時代

62年に王が最初のホームラン王になり、そこから13年連続のホームラン王。
最近でも「松坂世代」や「ハンカチ世代」がそうであるように、
優秀な個体が出現するとそれに対抗すべく競争が激しくなって活性化、
全体のレベルが上がるという現象が起こるのですが
王の出現によってホームラン時代が到来、
それを追って田淵幸一や山本浩二らが本塁打数を伸ばします。

そうして、「打高投低」が行き過ぎるとその反作用として球場のサイズが拡大します。
88年に東京ドームが開場、92年に甲子園がラッキーゾーンを撤廃し、
97年にナゴヤドームが開場し、ホームラン数も減少します。

しかし、化学の進歩なのか、球場サイズが大きくなっても
打者はすぐにアジャストして飛距離を伸ばし
00年代のホームラン数は過去最高のレベルにまで達しています。

■年代ごとの本塁打数変遷(パ)■
50’s	60’s	70’s	80’s	90’s	00’s
464	651	773	917	729	860

50年代→60年代(40%増)	野村克也の出現
60年代→70年代(19%増)	長池・大杉らの切磋琢磨~外国人選手の台頭
70年代→80年代(19%増)	落合博満とそのライバルたちとの競争
80年代→90年代(21%減)	球場サイズの拡大
90年代→00年代(18%増)	順応の時代。ローズ&カブレラ時代

パ・リーグの方では野村克也の出現(61~68年=8年連続本塁打王)で
ホームラン時代が到来。その後を襲って長池徳二(阪急)、大杉勝男(東映)が
高いレベルで競争したことによって全体のレベルが上がったのだと思っています。

69年	長池41本★大杉36本	3位=土井正博27本
70年	長池28本	 大杉44本★2位=野村克也42本
71年	長池40本	 大杉41本★2位=土井正博40本
72年	長池41本★大杉40本	3位=野村克也35本
73年	長池43本★大杉34本	3位=張本 勲33本

そして80年代は落合博満がホームランダービーをリード。
この時期に頭角を現してきた秋山幸二を盛んに「口撃」していたことを覚えています。
82年に三冠王(32本塁打、99打点、打率.325)に輝いたものの
「数字的には物足りない三冠王」との謗りを受けると体重を増加させてパワーアップ、
2年連続で50本塁打以上打って連続で三冠王となり、セ・リーグに転出したのも鮮やかでした。

84年	落合33本	 秋山4本	ブーマー37本★
85年	落合52本★秋山40本	ブーマー34本
86年	落合50本★秋山41本	ブーマー42本
86年	落合(移籍)秋山43本★ブーマー40本

そして93年に福岡ドーム、97年に大阪ドームが開場。
球場サイズの拡大の影響はセ・リーグ以上に顕著で、
00年代に入っても80年代のホームランレベルを超えていないのですね。

再び長くなってしまったので、盗塁編とまとめは、また明日!
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2007年06月20日

盗塁が減って、ホームランが増えた(上)

野球カードの資料として過去の大物選手たちの成績をよく調べているのですが
「あれ? この選手のホームラン数はこの程度だったんだ」とか
「この人、主軸打者なのに、こんなに盗塁してるんだ!」と驚かされることがよくあります。

例えば 、“じゃじゃ馬”青田昇さんはホームラン王を5回も獲ったのですが、
その際の本数は25、32、31、25、22で、
16年の実働で30本以上打った年は3季しかありません。

59、60年のパ・リーグのホームラン王、“かっぱえびせん”山内一弘(当時は和弘)さんは
実働19年で通算396本塁打(通算300号に到達した最初の打者)を放っていますが、
30本塁打以上したのはやはり3季のみ。

49年、藤村富美男の46本、50年、小鶴誠の51本、
別当薫の43本という異常値はありますが、
これは当時使われていたラビットボールの影響で、
ホームランの本数が常時40本を超えるようになったのは
62年に野村克也が44本塁打、63年に王貞治が40本塁打して以降で
それ以前は20~30本代でホームラン王のタイトルは決していたのです。

一方、盗塁の方ですが、例えばパ・リーグ初代のホームラン王、別当薫さんは
48年にプロ入りして以降の盗塁数が16、13、34、22、40、14、34…。
現在なら盗塁王を何回も獲っている数字です。

レコードブックの巻末の日本プロ野球歴代記録の通算盗塁の項には上位10名が
名を連ねていますが、8位に飯田徳治(通算390盗塁)、
10位に古川清蔵(通算370盗塁)の名が見えます。

飯田さんは衣笠祥雄さんの前の連続試合出場記録の保持者で50年代の強かった
南海で「四番・ファースト」に座り、打点王2回の大物。今で言ったら、
ホークスの松中信彦のような重鎮イメージのこの打者がすごく走ってたんですよ!
52年からは6年連続40盗塁以上で国鉄に転じた57年には、
ついにセ・リーグの盗塁王を獲得。

一方の古川さんは42、43年にホームラン王(といっても8本と4本ですが)を
獲った戦前の長距離砲ですが、この方も50年に56盗塁したのを含め
30盗塁以上したシーズンが5季もあったんですね。

かつての「投高打低」の時代から「打高投低」の時代に転じ
打者がどんどんパワーを増してホームラン時代になったので
盗塁を試みて細かく得点を狙うのではなく、ランナーを貯めて一発ドカン! 
を狙うようになったということなのでしょう。

選手にしてもケガの危険性もある盗塁を試みるよりも
ホームランをたくさん打った方が給料も上がるということで
こういうトレンドになっていると思うのですが、実際のところ
盗塁数とホームラン数はどのぐらい変化しているのか、ちょっと調べてみたのです。
その結果の発表はまた明日に…。
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posted by しゅりんぷ池田 |12:49 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年06月18日

プロ野球同姓同名列伝

先日、元巨人の山本功児さんについて書いたところ
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/69
友人のかとうけんそう(加藤賢崇)くんから
http://www.manuera.com/kenso/
「そういえば山本功児さんって、昔、ニセコージ! とかヤジられてたよね。
こういう例は他にもあるのかな?」という突っ込みがあったので
調べてみたらなかなか面白かったので、ここで発表したいと思います。

山本浩二(69~86=広島)と山本功児(76~83=巨人、84~88=ロッテ)というと
昔、作家の小林信彦さんがW・C・フラナガン名で「素晴らしい日本野球」という
パロディ野球批評を書いて「日本の野球は選手層が薄いので球団を掛け持ちする
選手がしばしば存在しており、広島の主砲、ヤマモト・コージは巨人の野手も務め、
巨人のスミ投手はヤクルトの野手も兼任する」なんてことを書いたら
慶応大学の池井優教授(先日の西武の裏金問題の追及委員会で委員長を
務められた方です)がそれをパロディだと気付かず
真剣に批判してしまうなんていう珍事もありました。

山本浩二と山本功児はそれぞれなかなかの有名選手だと思いますが
さらにもう一人、同時期に山本幸二(82~91=巨人)という捕手もおりました。
名電高で工藤公康とバッテリーを組んだ選手ですが、
あれれ、山本功児さんと2年間在籍期間がダブってるんですね。

なにしろ、同一球団に漢字まで同じ、まったくの同姓同名選手が存在した
という例が過去に2例あるぐらいですからね。

有名なのは先に2000本安打を達成した田中幸雄選手。
田中幸雄(投手。82~89=日本ハム、90~91=中日)と
田中幸雄(内野手/外野手。86~=日本ハム)ですが
この際には年上の田中幸雄投手を「田中幸」、
年下の田中幸雄内野手を「田中雄」と表記して区別したのですね。

同姓同名のもう1例は71~72年、西鉄の高橋明。
高橋明(投手。61~70=巨人、71~72=西鉄。通算71勝)
高橋明(外野手。69~72=西鉄。通算3試合1安打)

この際には高橋明投手が実績のある選手で、
高橋明外野手がほとんど実績のない選手だったため、
投手の高橋明を「高橋明」、野手の高橋明を「高橋外」と表記したそうです。

最近では吉本亮の例もあります。読みはどちらも「ヨシモト・リョウ」。
吉本亮(捕手。93~96=広島、96=近鉄、97=広島、98~04=阪神)
吉本亮(内野手。99=ダイエー・ソフトバンク)
これは後者の吉本亮が松坂世代で高校時代(九州学院)に
けっこう話題になった選手なので、混同することはないと思います。

あと、外国人選手でも同姓同名選手が来日しておりルイス・ロペス選手がそれ。
ルイス・ロペス(96~97=広島、98=ダイエー、00~02=広島)
ルイス・ロペス(05=楽天)ですが、
前者のロペスが打点王を2回獲った有名選手なのに対して
後者は1年のみの在籍なので、この例に気付いている方は多くないのでは?

さらに、今やロッテの看板選手となった西岡剛ですが、これも先例があり、
87年に近大からドラフト1位でヤクルトに入団した投手が、
西岡剛(87~92=ヤクルト、93~94=オリックス。通算0勝)だったのですね。
これも投手と野手で、在籍期間もズレているので、混同されることはないでしょう。

一方で、混同が心配されるのが、藤本博史のケース。
藤本博史(内野手。82~98=南海・ダイエー、98=オリックス。通算105本塁打)
藤本博史(捕手。02~03=オリックス。一軍試合出場なし)

ダイエーの初期に勝負強いバッティングで渋い活躍を見せていた巨漢内野手、
藤本博史のことを覚えている方は多いと思いますが、
捕手の方の藤本博史は一軍の試合に出場したことがないので
ご記憶の方はほとんどいないはずです。

藤本捕手はその後、欽ちゃん球団に所属して(現在は退団し台湾で現役続行)
「元オリックスの藤本博史」と紹介されることが多かったのですが、
ちょっとプロ野球に詳しい方なら、元ホークスの藤本博史が最後の最後に
オリックスに移籍したことをご記憶のはず。
そうなると、「ああ~、あの藤本博史はまだ野球を続けているんだ。頑張るなあ~」
と誤解されてしまう危険性が大ありです。

元ホークスの藤本博史さんは現在は福岡のテレビ局で解説の仕事をされていて
往時の口ヒゲもそのままに人気を博しています。どうか、誤解なきよう!
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2007年06月15日

高卒ルーキーでファン投票1位:70年、太田幸司の場合

いつも、しゅりんぷブログをご愛読いただきまして、ありがとうございます。
わたしが書く、オールドプロ野球ネタを楽しみにして下さっているみなさんは、
昨日の田中将大のネタは太田幸司さんの話に展開して行くと期待された方も
多かったと思うのですが、本日再度展開させていただきます。

1969(昭和44)年の夏の甲子園の決勝で延長18回で引き分け、
再試合で松山商に屈した青森・三沢高のエース、太田幸司は
現在の斎藤佑樹にまで連なる、甲子園のアイドルスターの嚆矢だったわけです。

そして、プロ入りした翌70年のオールスターのファン投票が波紋を呼ぶことになります。
圧倒的な人気を誇った太田投手ですが、さすがに即戦力とはいかず、
前半戦に1勝を挙げたのみだったのに
パ・リーグの居並ぶエースたちを押しのけて得票1位となったのです。

1位	太田幸司(近鉄)	40,243票	25試合1勝4敗
2位	小山正明(ロッテ)	31,663票	38試合16勝11敗
3位	木樽正明(ロッテ)	24,911票	42試合21勝10敗

この当時のプロ野球といえば、大人の男性の娯楽。
そこに女性ファンの投票が大量に舞い込んだわけで、
「ミーちゃん、ハーちゃん(←こういう、言い方がもう時代がかってますね)
が野球も知らないで投票しおって…」と当時のファンを嘆かせたそうなのですね。

最近も、ゴルフのマナーを知らない、にわかファンが石川遼選手見たさに
ゴルフ場に詰めかけ顰蹙を買ったわけですが、
それと似たような光景が37年前にもあったわけです。

で、この年のオールスターに出場した太田は第1戦の三番手で登板するのですが
一死しか取れずに2安打2四球で2失点で退きます。
そして第2戦で1イニング、第3戦で1/3回と全3試合に登板したんですね。
当時の全パの西本幸雄監督も困ったと思います。

しかし、太田騒動はこれで収まらず、
翌71年、翌々年72年もファン投票で1位になっちゃうんですよ!
71年は0勝1敗、72年は2勝1敗なのに…。

さらに太田が甲子園で活躍した翌年にやはり甲子園で人気者となった
「第2のコーちゃん」島本講平(箕島高)が南海入りすると
71年一塁手部門で得票1位になってしまったのです!

1位	島本講平(南海)	10,273票	2安打2本塁打
2位	大杉勝男(東映)	10,203票	154安打(リーグ最多)41本(本塁打王)

わずか70票差に泣いた大杉はなんと、監督推薦からも漏れてしまう…。

こういう人気選手が入って来た場合は監督も大変だと思いますが、
太田が入団した近鉄の当時の監督は名将・三原脩。
興行面も鑑みて太田を25試合に登板させ、7回も先発に起用
(そしてこの難物を抱えながらチームは3位)したのに対して、
南海の野村克也監督は新人の島本を7試合にしか使わず
(その僅かなチャンスで2本塁打したのもすごいのですが…)
翌72、73年は一度も一軍に出場させなかったというのも対照的です。

そして太田の4年目、73年はついにファン投票1位の座を明け渡しますが
(それでも1位山内新一46,343票に次ぐ2位27,708票)
この年は太田もいよいよ実力を発揮し始め、
監督推薦で4年連続4回目の球宴出場を果たします。

73年、近鉄は最下位だったこともあって6勝14敗
(11勝の鈴木啓示、7勝の神部年男に次ぐチーム3位)ながら
28試合に先発して防御率3.23(リーグ13位)となかなかの健闘を見せたのです。

そして、西本監督が就任した74年からは10勝、12勝、9勝、10勝と
ローテーション投手として安定した働きを見せ、ようやく人気と実力が噛みあってきます。

74年	10勝14敗	ファン投票1位	54,759票はONに次ぐ全体3位
75年	12勝12敗	ファン投票1位	116,794票は全体1位
76年	9勝7敗	ファン投票2位	初のオールスター落選
77年	10勝14敗	ファン投票3位	オールスター最後の出場(7回目)

ちなみに、「コーちゃん2号」島本は75年に太田と同じ近鉄に転じ、
西本監督の熱血指導もあって開花。76年63安打4本塁打28打点、
77年83安打12本塁打37打点の成績を残し、
2年連続でパリーグの外野手部門の3位となり、
ファン投票でオールスターに選ばれました。

その後、太田さんは巨人、阪神に転じて84年まで現役を続けられ
通算58勝85敗という成績を残します。

ほとんど実績を残さないうちから3年連続でファン投票1位という
過剰な期待を寄せられながら、それに押し潰されることなく
2ケタ勝利を3度挙げ、実力でオールスターに選ばれるようになったのですから
立派だと思います。太田さんの出現によって、プロ野球がより大衆化、
「国民的娯楽」へと浮揚したわけですから、彼もまたプロ野球の恩人だと思うのですね。
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