2007年04月30日

名球会規定、400本塁打以上はいかが?

日刊スポーツのHPのトップには、
http://www.nikkansports.com/
毎日、ヤンキースの松井秀喜選手の日米通算安打の数が表示されていて
2000本安打への期待が高まっています。

ところで、この松井選手、調べてみると、いつの間にか日米通算400本塁打に到達していたんですね。
4月29日現在で日米通算411本塁打。
それも、とっくの昔、2005年の9月7日に到達していたのですが、
今回の2000本安打のように話題になっていなかったので気付いていなかったのです。
しかし、400本塁打というのはけっこうな数字ですよ。
NPBでは王貞治の868本塁打を筆頭に秋山幸二の437本塁打まで、
計13人しかマークしていない好記録なのです。

一方の2000本安打はその倍以上の34人が記録しているのですから、
希少性でいえば400本塁打の方が上です。
なのに、名球会の入会規定が2000安打以上なので、こちらの方が注目を集めるんですね。

名球会のHPのQ&Aのコーナーに
http://www.meikyukai.co.jp/newqa/index.htm
「名球会の基準、200勝・2000本安打はどこから生まれた数字ですか?」という問いが
あって、金田正一会長が
「選手として限界に近い数字であろうと言うことで決めた」と回答されています。

ちなみに名球会では200勝・2000本安打に加えて最近、250セーブという基準が加わり
高津臣吾と佐々木主浩が同会入りを果たしているのです。
ならば、400本塁打以上している打者も名球会に加えてあげたらどうでしょうか?

ちなみに、400本塁打以上しているようなスラッガーはほとんどが2000本安打も
達成しているのですが、唯一2000本安打に達していない400本塁打打者が
田淵幸一さん(通算474本塁打)なのです。

田淵さんは400本塁打以上した打者の中でもっとも短い実働16年で
他の12人が全員2000試合以上に出場しているのに対して
出場試合数は1739試合で安打数は1532なんですね。

ちなみに300本塁打以上している打者は31名いて、
原辰徳は382本塁打で1675安打、
現オリックスのローズは4月29日現在で369本塁打で1453安打です。

将来的には田淵さんもおそらく殿堂入りはされるとは思うのですが、
名球会の方にも加えていただきたいですね。金田会長いかがでしょうか?
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posted by しゅりんぷ池田 |11:57 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年04月26日

背番号に思う

今週の「週刊ベースボール」は背番号特集なのですが、
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/070507/index.html
「背番号」というのは野球が発明した最大のヒット作だと自分は思っています。

数字自体には何の個性もないはずなのに、
その番号を付けた選手の色がその数字にも浸透して
数字にキャラクター付けがなされるのです。

「1」、「3」はチームの主力打者(王、長嶋)、
「18」はエースナンバー(中尾、藤田、堀内ら巨人の歴代エース)、
正捕手は「27」、「39」(巨人の森、大洋の土井)、
左腕エースは「34」、「47」(金田、工藤)、外国人長距離砲は「44」等々が
プロ野球ファンには共通認識になっていると思います。

こういうふうに数字が一人歩きしてくれたおかげで
数字が入っただけのTシャツが商品にるのですから、すごい発明じゃないですか。

各球団の背番号の変遷表を掲載した季刊ベースボールマガジンの
(今年度から隔月刊化!)
背番号特集号も数年に1回は発行される恒例企画となっていますし、
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball-q/0607/index.html
この発明のおかげで様々なビジネスチャンスが広がったわけです。

このオフ、巨人が大量の背番号変更を行なって話題となりましたが、
「この選手にこの番号は合わない」とか「この剥奪はかわいそう」等々、
一部マニアの間では喧々諤々の議論が交わされたりしましたが、
そういうのもまた一興。

プロ野球ファンの知り合いと飲んでいても
「あの選手は最初○○番だったけど、活躍して■番になった」とか
「あの選手は△△球団では●番を着けていた」等々の
他愛のないトリビア話は留まるところを知りません。

背番号の発明がなかったら、その種のヨタ話もできないわけですからね。

わたしも野球カードで、
昔その背番号を付けていた選手と現在その背番号を付けている選手を対比させた
カードをちょいちょい作っていたりするんですが、
選手が個々に自由に背番号を付けられる制度がなければ
なんとも味気ないものになっていたでしょう。

背番号には感謝してもし足りないのであります。
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posted by しゅりんぷ池田 |16:01 | 野球 | トラックバック(2)
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2007年04月25日

ああ、20敗投手!

昨日、東尾さんの負け数の多さについて書いたのですが、
ではシーズン最多敗というのはどのぐらいなのかな? と思い確認してみたのですが
最多敗戦はなんと29敗! 1940年、金鯱の中山正嘉投手がマークしたものですが、
同投手の同年の記録はリーグ最多の61試合に投げて18勝29敗、
防御率は2.86(リーグ23位)ですからやはりチームが弱体だったのでしょう。
(この年の金鯱は9チーム中の7位)

そして東尾さんが72年にマークした25敗は歴代12位なのですが、
これがパ・リーグの最多敗戦記録だそうで、
この72年を最後に20敗以上した投手は現れていません。
調べてみたところ、20勝以上した投手が歴代のべ283人いるのに対して
20敗投手はのべ91人しかいないので、ある意味、稀少です。

ピッチャーのローテーション制が形成される以前は
大学野球のごとくエースと準エースが交互に投げていたので
勝ち星も負け数も大きかったのでしょう。

セ・リーグでは68年に小川健太郎(中日)が20敗、
翌69年に外木場義郎(広島)がやはり20敗したのを最後に20敗投手が消滅。

パ・リーグでは65年までコンスタントに20敗投手が出現していたのですが、
以後は68年に森安敏明(東映)が23敗で、
72年に東尾修(西鉄)が25敗したのが最後となりました。

またレコードブックの巻末に載っている「各年度最多敗戦」のページを見てみると
セ・パ分立直後にチームの陣容が整わなかった国鉄、大洋、近鉄あたりが
多く最多敗投手を輩出しています。

55年には大洋の権藤正利が3勝21敗という驚異的な勝率(敗率?)で最多敗。
有名な28連敗が始まった年なのですが、この年の権藤の防御率は3.73で
リーグ13位ですから、打線の援護があればここまで負けなかったはずです。

翌56年からは同じく大洋の秋山登が4年連続で最多敗戦投手に。
しかし、この年56年に入団した秋山の奮闘ぶりはすごいものがあります。

年度	登板	先発	完投	交代完了	勝敗	投球回	チームの順位
56年	58	35	26	21	25勝25敗	379回2/3	最下位
57年	65	40	27	20	24勝27敗	406回	最下位
58年	62	36	20	24	17勝23敗	359回	最下位
59年	56	34	17	21	14勝22敗	300回1/3	最下位
60年	59	26	8	20	21勝10敗	262回1/3	優勝

57年の投球回406というのは今の投手の2年分ですよ!
秋山さんは結局通算193勝で200勝にあと7勝足りなかったのですが、
初期に少し打線が奮起してくれていれば200勝はゆうに達成していたことでしょう。

現在では先発ローテーション投手は年間25試合ぐらいしか投げないので
全敗するぐらいの勢いで負け続けないと20敗に達しません。
そこまで調子が悪かったら、途中から投げさせてもらえなくなるでしょうから、
事実上、現在では到達不可能な記録なのではないでしょうか。
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posted by しゅりんぷ池田 |13:43 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年04月24日

西鉄・太平洋・クラウン・西武

今回掲載しているカードは5月末に発売される予定の
ジャイアンツカードの大道典嘉選手のカード。
過去に在籍してきた南海・ダイエー・ソフトバンクのユニフォームをまとった
大道の4枚の写真を1枚にまとめた企画カードで、
他にも今季他球団から移籍してきた門倉、吉武、小笠原、小田嶋、谷の同趣向のカードもあります。

大道は南海最後の年、88年の入団なのでギリギリ間に合ったのですね。
同期入団で現楽天の吉田豊彦と並んで「最後の南海戦士」ということになります。

しかし、大道のキャリアは南海・ダイエー・ソフトバンク(88~06)と
19年間の在籍で2度も球団の身売りがあったのですからすごいですね。
こういうキャリアの選手は他にいないだろうと思っていたら、その上を行く人がいました。

元西武監督の東尾修さんが西鉄・太平洋・クラウン・西武(69~88)という履歴なのです。
20年の在籍で3度の名称変更!
(太平洋~クラウンでは経営権の譲渡はなく、
現在でいうネーミングライツなのですが、その件はまた別の機会に…)

この時期のパリーグには阪急・山田久志、近鉄・鈴木啓示、ロッテ・村田兆治と
各チームに絶対的なエースがいて東尾もその1人だったのですが、当時の東尾の印象というと、
とにかく「勝ち星も多いが負け数もすごく多い投手」というものでした。

72年の成績はなんと18勝25敗で勝率.419、
その前年の71年は負け数が勝ち数の倍もある8勝16敗で勝率.333!

この当時の西鉄は黒い霧事件の影響で弱体化、
70年からは3年連続の最下位で勝率が.355、.311、.370だったのですから
東尾のこの負け数の多さも仕方がないのかもしれません。

弱いので観客動員の面でも大苦戦。
73年に発売を開始したカルビーのプロ野球スナックで太平洋の選手のカードが出ると
背景の観客席がガラガラどころか、まったくの無人なので驚いたものでした。

東尾は通算で251勝を挙げた、いわゆる名球界投手で、
最終的に251勝247敗と勝ち越せたのですが、
この時期の大負けを考えると、それが奇跡的にすら思えます。
(名球界で負け越しているのは梶本隆夫の254勝255敗のみ)

クラウン最後の年の78年終了時点の通算成績が128勝144敗で勝率.471。
その後、西武が親会社となってライオンズは強豪チームへと変貌を遂げるのですが
東尾は85年に17勝3敗という驚異的な勝率を残し、
通算成績を218勝218敗として通算勝率を五分に持ち込みます。
それが引退する3年前のシーズンですから、東尾さんの感慨もひとしおだったのでは…。

ライオンズは球団が弱体化する過程で給料の高い有力選手をどんどん放出したため、
西鉄・太平洋・クラウン・西武という履歴を歩んだ選手はこの東尾と大田卓司の2人しかいません。
(他に現在巨人でヘッドコーチを務める伊原春樹が
西鉄・太平洋-巨人-クラウン・西武という履歴)

東尾さんは、なんとも波乱万丈の球暦でしたが、時代が大きく動いている現在、
球団の親会社がドンドン変わることがまたありそうな予感がしています。
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posted by しゅりんぷ池田 |13:03 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年04月17日

MLBで監督・コーチを務めるなつかしの来日外国人選手たち

「月刊メジャー・リーグ」5月号のMLB選手名鑑を見ていて改めて思ったのですが
http://www.sportsclick.jp/magazine/major/0705/index.html
メジャーはコーチの数が少ないですね。
ベンチコーチ、一塁ベースコーチ、三塁ベースコーチ、
打撃コーチ、投手コーチ、ブルペンコーチの6名ぐらいが基本です。

そして、よく言われることですが、MLBの指導者には現役時代に有名だった人が少なく、
監督・コーチの欄には知らない人の名前が多いですね。
それに比してよく目につくのが、かつて日本の球団に在籍していた元来日外国人選手たちです。

【レッズ】ブルック・ジャコビー(打撃、93年=中日) 
【ドジャース】マリアーノ・ダンカン(一塁、98年=巨人) 
【フィリーズ】チャーリー・マニエル(監督、76~78、81年=ヤクルト、79~80年=近鉄) 
【パイレーツ】ジム・トレーシー(監督、83~84=横浜) 
ジム・コルボーン(投手、90~93年=オリックス・コーチ) 
ジェフ・マント(打撃。96年=巨人) 
【ジャイアンツ】ウイリー・アップショー(一塁、89~90年=ダイエー) 
【オリオールズ】サム・パラーゾ(監督、80年=ヤクルト) 
【ツインズ】ジェリー・ホワイト(一塁、84年=西武、85年=横浜) 
【ヤンキース】リッチ・モンテレオン(投手特別指導。95年=中日。登録名はモンテ) 
【アスレチックス】タイ・バン・バークレオ(打撃、87~90年=西武) 
【ブルージェイズ】ミッキー・ブラントリー(打撃。93年=巨人) 

マニエルのように、日本で大成功を収めた選手もいれば、
こんな選手いたっけ? とよく思い出せない選手もいます。

80年にヤクルトに1年だけ在籍していたパラーゾ。
133安打で15本塁打、43打点で打率.281とそこそこの成績で
残留するかと思われましたが結局1年限りだった遊撃/二塁手。
なんか印象的な働きをした試合が1試合だけあったような記憶があるのですが、
なんだか思い出せない。まあ、そのぐらいの選手なので、
よほど熱心なヤクルトのファンでもないと覚えていないと思うのですが、
それが今や名門オリオールズの監督。
これ、あのパラーゾ? 同姓同名の違う人かな? と思ったのですが
生年月日が同じで、オリオールズの公式HPにもその旨書いてあるので確かなようです。

アメリカ人は若いうちに成功を収めて、早々に引退することを良しとしており、
メジャーで成功した選手も、そういう傾向にあるようです。
死ぬまで仕事に関わり続けたいと願う日本人とはえらい違いですね。

また、最近も、殿堂入りを果たした名選手が指導者の道を目指してコーチ修行を始めたものの、
米国の指導者は選手同様に下のレベルから再び叩き上げて行かねばならず、
その元名選手はマイナーチームのオンボロバスでの移動に耐えかねて、
たった1年でコーチ修行を切り上げてしまったそうなのです。
往年の名選手がそのネームバリューだけで監督に招かれる日本とは
またシステムが異なるのですね。

一方で、日本にやってきた外国人選手はというと、
フランク・ハワード(メジャーで本塁打王2回)のような例外もありますが、
だいたいは米国であまり実績のない選手で、早々に引退できるほどの蓄えもなく、
また野球をできる環境を求めて日本にまでやってくるハングリー精神の持ち主ゆえに
引退後も野球に関わり続けている人間が比較的多いのでは、
と推測するのですが、いかがでしょうか?

来日外国人選手から日本のチームの監督へ転身というと、
かつての阪神・南海のドン・ブレイザー、そして現在の広島のマーティー・ブラウンと
その先例がありますが、MLBでも実績のあるデーブ・ジョンソンやケン・モッカが
日本で采配を振るう姿もまた見てみたいですね

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posted by しゅりんぷ池田 |12:23 | 野球 | トラックバック(2)
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2007年04月16日

カードショーのゲストは大島康徳さん

4月22日(日)に東京ドーム・プリズムホールで大規模なカードショーが行なわれるのですが、
http://www.sportsclick.jp/sportscard/card/2007_bbm-cardshow/index.html
ゲストは元日本ハム監督の大島康徳さんと
やはり日本ハムのピッチャーだった岩本勉さんです。

大島さんは以前、「スポーツカード・マガジン」でもインタビューを
させていただいたことがあるのですが、
本格的に野球を始めたのが高校からというのですから
プロ野球選手としては異色の経歴です。

大島さんのデビューは華々しく、入団3年目に初めて一軍に上がって
その最初の試合で特大のホームランを放って注目され
4年目の72年にはレギュラーとなって規定打席にも到達。
しかし、そこからは年ごとの打席が437→368→294→183と
ドンドン減って控えに甘んじます。

ところが、大島さんはこの雌伏の期間に代打として活躍、
76年にはシーズン最多代打本塁打の記録となる7ホーマーを放ちます。
代打で出てきては快打を放つ大島選手を見て
「与那嶺監督はなんで40番(当時の大島さんの背番号)をレギュラーで
使わないんだろう?」と不思議に思っていたのですが、
大島さんに訊いてみたところ、「そのころは遊びが楽しくてねえ~。
1日4打席立つと集中力が続かなかったんだよ。もったいないことしたなあ~」と
驚きの告白をしてくれました。つまり、“リアルあぶさん”だったんですね。

そんな大島さんが一念発起して野球に集中するきっかけとなったのが
お兄さんの死だったそうなのです。その77年に5年ぶりに規定打席に到達して
打率.333を打ってベストテンの4位、27本塁打、71打点と
いずれも自己最高の数字をマークします。

以後の活躍はご存知の通りですが、大島さんの転機となったのが
87年オフの日本ハムへのトレード。

実はこの年から星野仙一さんが中日の監督に就任したのですが、
星野さんと大島さんは69年の同期入団。
とはいうものの、大卒と高卒の違いがあって星野さんが4年年長で、
大島さんは若いころから随分、星野さんにかわいがってもらっていたそうなのです。

星野さんがすごいのは前年の着任時に、看板選手だった谷沢健一選手に
「あと3年できないんだったら辞めてくれ」と勧告、
実際、谷沢さんは引退してしまったのです。
最後のシーズンの谷沢さんは39歳ながら94試合に出場して、
60安打13本塁打35打点、打率.273の成績ですから、
まだまだ現役を続けられたはずなのですが…。

そして、チームの若返りを図るために大島さんも日本ハムへトレード。
星野さんから直接説明を受けて大島さんはこのトレードを受け入れたそうです。
大島さんもトレードの際にはもう37歳でしたから
「引退」という選択肢もあったと思うのですが
前年に結婚されたばかりだった(1)大島さんは
「新婚生活を東京でというのもいいな」ぐらいの気楽な考えで東京に来られたそうなのです。

1)36歳での結婚は当時にしても現在にしても異例に遅い結婚で、
現役時代の大島さんは「球界最後の独身貴族」の称号もありました。

ところが、このトレードが大成功。
五番・ファーストに定着して移籍した88年から2年連続で130試合にフル出場、
そこから7年も現役を続けられ、90年には当時最高齢(のちに新井宏昌が更新)の
39歳11ヶ月で2000本安打に到達しました。

中日にそのまま在籍していたら出場機会に恵まれず
とても2000本には到達していなかったでしょうから
まったく何が幸いするか分かりません。

15歳で野球を始め、ちゃんと野球に打ち込み始めたのが27歳からと
とんでもなく遅咲きの選手だった(2)わけですが、それがかえって良かったのか
実に44歳まで現役を続けられたのですから、すごいですよね。

2)26歳までの通算成績が388安打60本塁打、
27歳以降が1816安打322本塁打ですから、若いころの遊びすぎがなかったら
とんでもない成績を残していたかも?

そんな異色の経歴の大島さんですから、きっと面白いお話を聞かせてくれると思います。
また、4月22日(日)は東京ドームで日本ハムvsソフトバンクの試合も行なわれており、
そのチケットがあればカードショーへの入場は無料だそうですので、
日本ハムファンの方は是非、重点的にご来場ください! よろしくお願いしま~す。
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posted by しゅりんぷ池田 |15:42 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年04月14日

ポジションがダブった

今季も中日とセ・リーグの首位を争っている阪神ですが、
セカンドが関本と藤本、ライトが濱中と林の併用となっています。
開幕スタメンは関本と濱中だったのですが、
両選手が不調で、藤本、林の出場機会が増してきました。

しかし、藤本は過去の実績も充分あり、
林は一軍での実績こそ足りないものの、早くから注目されていた期待の長距離砲。
どちらも関本、濱中に遜色ないレベルの選手だと思います。

このまま併用が続いていくのか、藤本、林が圧倒的な好成績を残して
先行していた関本、濱中を追い落とすのか。

チーム的には右の関本と左の藤本、右の濱中と左の林と左右の差があるので
両方を併用したいかもしれませんが、そういうのがうまくいったケースってほとんどないですよね。
どちらも中途半端な使われ方をして、両方ダメになって行くことが多いような気が…。 

他に空きポジションがあれば、そこにコンバートすることも可能でしょうが、
現在の阪神はレギュラーが固定しています。

こういう場合、メジャーならポジションのダブった選手はバンバン
トレードに出しちゃうのですが、日本のチームは選手を抱えたがります。

球団の思惑としては、
今季33歳のサード・今岡が衰えたら関本か藤本のどちらかを回そう、
(現在もゲーム終盤に入ると今岡がハズれて、サード・関本、セカンド・藤本となることが多い)
やはり39歳のレフト・金本が衰えたら濱中か林のどちらかを回そう、
なんて思っているかもしれませんが、
関本が29歳、藤本30歳、濱中が29歳で林が28歳なので、
そのころにはこの4選手も相応に衰えていると思います。

今ならけっこう良い選手とトレード可能かと思うんですが…。
ショート・川崎の故障で緊急補強が必要なホークスにどちらかを放出して、
ソフトバンクでダブつき気味のピッチャーをもらってくるなんてのもありだと思うのですが…。

阪神でポジション争いというと、やはりわたしがプロ野球を見始めた当初にあった
佐野仙好と掛布雅之のサード争いを思い出します。
中央大からドラフト1位で入った佐野と習志野高から同6位で入った掛布。
実は阪神は名手、三宅秀史以降、三塁手に人材を欠いていたので、
この2人の新人にも入団早々チャンスが巡ってきました。
2人の入団1年目からの成績は下記の通り。

1974年 
佐野     (三)39試合      34安打 2本塁打          11打点 打率.238
掛布     (三)40試合      33安打 3本塁打          16打点 打率.204
1975年    
佐野     (三)63試合      36安打 6本塁打          16打点 打率.201
掛布     (三)98試合      78安打 11本塁打         29打点 打率.246
1976年    
佐野     (三)21試合      27安打 4本塁打          11打点 打率.241
掛布     (三)116試合    132安打          27本塁打         83打点 打率.325

76年には掛布が抜け出して、この競争に決着を付けたのですが、
幸い、阪神はこの時期、外野も世代交代の時期だったため、
佐野はレフトにスライドすることができました。

そして、この2人は四番・掛布、六番・佐野として
(五番・岡田もサードからの転向組ですね)
85年の日本一に貢献したことは、みなさんもご存知の通り。

選手の併用って本当難しいですね。
成功したケースは近鉄の有田修三と梨田昌崇の捕手併用ぐらいしか記憶にないです。
2人の捕手としての年度ごとの出場試合数を比較するとこうなります。

年度     74 75 76	77	78	79	80	81	82
有田     74 112 124	82	102	37	46	39	69
梨田     115 45 45	77	53	108	102	98	67

わたしが思うのは、ダメになる選手が1人でも減ってほしいということ。
利己的な考えで人材を抱え込まず、球界全体の利益を考えて
トレードも積極的に行なって欲しいですね。

posted by しゅりんぷ池田 |09:24 | 野球 | トラックバック(0)
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2007年04月13日

一番、ピッチャー、外山(ヤ)

昨日、わたしの高校の先輩、三原脩さんのことを書きましたが
わたしが野球を見始めたころはヤクルトの監督をされており、
アニメ『侍ジャイアンツ』でも、娘婿である中西太コーチとセットでよく登場されていました。
その73年が監督として指揮を執った最後の年で、
眼鏡をかけておられて、もう相当「おじいちゃん」という感じに描かれていたのですが、
調べてみると、三原さんはその年62歳。
今の野村監督(72歳)、王監督(67歳)よりも若かったのですよ。不思議ですねえ~。

で、この三原監督、「知将」「魔術師」というニックネームや
「三原マジック」という言葉が残っていますが、奇手を弄する人だったんですよね。
先発メンバーを当て馬だらけにしたり、
ヤクルト在籍時には外山義明という選手を投手と野手の二刀流で使ったりしました。
(これ以前の近鉄時代にも後に首位打者を獲り、
マンガ『あぶさん』のモデルになったと言われる永淵洋三を二刀流で起用)

外山は投手として通算9勝22敗、打者として85安打、9本塁打という
成績しか残していないので、ご記憶の方は少ないと思うのですが、
後年、南海に移籍した際に背番号29の外野手となり
選手名鑑上ではあの門田博光さん(背番号27)の真下で
2人の経歴が同じ「天理高-クラレ岡山」だった(出身中学も同じなのだとか)ことが
個人的には強く印象に残っていました。

で、改めて、この外山選手の成績を調べてみたところ、
1年目の70年は43試合に登板して4勝10敗ながら規定投球回をクリアして
防御率3.39はベストテンの13位という成績ですから、なかなかのものです。

翌71年も33試合に登板して5勝11敗、防御率3.25の一方で
外野手としても起用され74試合で20安打、3本塁打、11打点、打率.211と
投手兼任の打者としては非凡な成績を収めます。

で、この年の8月22日の大洋戦(神宮)で、三原監督は外山を「一番・投手」で
先発させたのですよ! しかし、この奇策は成功せず、
外山は被安打4与四球4の大乱調で5点を失って1回1/3で降板してしまいます。

今や、光の部分しか語られない三原監督ですが、
多分、こういう無茶をして失敗したケースも多々あったと思うのですよ。

で、折角、二刀流で売り出した外山なのに、
そのオフにはロッテにトレードに出されてしまいます。
しかも、交換相手は外国人選手のロペス。
外国人選手とのトレードというのも珍しいケースなので、記録マニアのわたし的には、
この件でも外山義明さんの名前がインプットされているのです。

ロペスは東京・ロッテでの4年間で596安打、91本塁打を放った
優良外国人だったので、交換相手も相応なレベルが求められたのでしょう。

しかし、外山さんはその後、投手としては1勝も挙げられないまま、
74年に南海に移籍して中学時代からの同僚・門田さんと再び合流、
主に代打として78年まで現役を続けられ、
91年に44歳の若さでお亡くなりになるのですが、
なんとも、運命に翻弄された感があります。

「一将功成りて万骨枯る」という言葉が頭の中を去来した次第です。
20070413-00.jpg


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2007年04月12日

横浜、12球団初の4000敗

何かネタがないかネット上を徘徊していたら、
「横浜、12球団初の4000敗」(※)という記事を発見しました。
http://www.sanspo.com/sokuho/0404sokuho068.html
僕らぐらいの世代だと「12球団最弱は広島」というイメージがあったので、ちょっと意外でした。

(※)これは1950年の2リーグ分立後の記録。
1935年創立の阪神は昨シーズン終了時点で4108敗、
36年創立の中日も4088敗を喫している。
   34年創立の巨人はまだ4000敗に達していない(3503敗)

カープは75年に優勝するまでは3位になったのが1回あるのみという
東京六大学の東大のように番外地的に弱いチームだったのですが、
昭和50年代に古葉竹識の下、4度優勝するという黄金時代を築き、
一気に形勢を逆転させました。

ちなみに、昨シーズン終了時点での勝率順に12球団を並べると、こんな風になります

1位	巨人	.587
2位	西武	.534
3位	オリックス	.522
4位	ソフトバンク	.5205
5位	阪神	.51738
6位	中日	.51735
7位	ロッテ	.506
8位	広島	.478
9位	日本ハム	.471
(近鉄	.4671)
10位	ヤクルト	.4669
11位	横浜	.451
12位	楽天	.381

これは、なかなか意外な結果ではないでしょうか?
黒い霧事件後に低迷期もあったライオンズが西武になってからの快進撃で2位。
南海末期から低迷していたホークスが過去の貯金が効いたのか4位。
それとは逆に過去の貯金を90年代の大スランプで吐き出してしまった5位の阪神と
なかなか面白い様相を呈しています。楽天はまだ2シーズンのみですから
仕方ないにしても、横浜、こんなに弱かったのか! と思ってしまいます。
まあ、確かにペナントレースの優勝が2回しかないというのは楽天を除けば最下位ですからね。

横浜(大洋)と広島、それからパで弱かった近鉄の敗戦ペースを比較すると、こんな感じです。

63年終了時点	大洋1046敗	広島1025敗	近鉄1106敗
78年終了時点	大洋2045敗	広島2020敗	近鉄2117敗
93年終了時点	横浜3063敗	広島2858敗	近鉄2975敗

とまあ、意外なことに敗戦ペースでは常に横浜(大洋)が広島を上回っています。
カープファンのみなさん、失礼いたしました!
さらに87年には近鉄に抜かれて12球団中最多敗戦チームとなってしまったのです。

ご存知のように大洋は1960(昭和35)年、三原脩監督の下で初優勝を遂げ
62年、64年にも阪神と優勝を争うのですが、このとき2度目の優勝をしていれば
その後のホエールズの歴史も変わったのではないでしょうか?

ところで、一方の雄(?)、近鉄も創立当初はすさまじい勢いで負けていたんですね。
50年にスタートして4年連続で7位! 
近鉄もまた前期の三原脩監督が着任して成績が向上するのですが、
それ以前の18シーズンで14回も最下位になったのですからただごとではありません。

特に61年には千葉茂監督の下、前代見聞の103敗!
同監督在任時の3シーズンの通算勝率がわずか.284で
千葉さんの生涯打率と同じだったという…。

しかし、そういうセ・パのお荷物球団を浮揚させたのですから、
三原さんの手腕はすごいですね。僕の高校の大先輩(香川・高松高)なんですが。

大洋・横浜は、実はそんなに最下位になったことはないのですが、
地味にコツコツと黒星を重ねてきたわけですね。

広島が弱かったというのはある意味、理解できるのです。
広島というスモールマーケットの町で、大きな後ろ盾もなく、
補強もままならなかったわけですから。

しかし、神奈川県をフランチャイズにする横浜球団が弱いのは理解に苦しみます。
神奈川県は今や大阪府を抜いて日本で2番目に人口の多い都道府県なのに…。

今後、12球団の強弱マップというのはどう変わっていくんですかね?
20070412-00.jpg


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posted by しゅりんぷ池田 |12:33 | 野球 | トラックバック(1)
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2007年04月11日

背番号6の投手

オリックスの外国人投手、デイビーが去年から背番号6を付けているのですが、
ピッチャーが1以外の1ケタ数字を背負っているのは見慣れない光景なので、
見掛けると、いまだにギョッとします。

高校野球では背番号は守備番号を付けていて投手は1なので、
プロでも背番号1の選手はちょいちょいいますね。「草魂」鈴木啓示(近鉄)を筆頭に、
最近ではロッテのルーキー、大嶺祐太も1を背負っています。

1以外の1ケタ番号というと、僕ら世代だとマンガ『侍ジャイアンツ』の
主人公・番場蛮の4ですよね。背番号4の投手というとバッキー(阪神)、
武田一浩(日本ハム)、キーオ(阪神)、藪恵壹(阪神)と実際に活躍した投手もいました。

あるパーティーで武田投手(わたしと同じ昭和40年組)に
「なんで4にしたんですか?」と尋ねたところ「番場蛮に憧れて」と言っていましたが、
当時背番号13を付けていた同僚の柴田保光投手から
「4番、13番という縁起の悪い番号で揃えて、相手チームに嫌がられる存在になろう」
と背番号変更を勧められたという話も聞いたことがあります。

背番号0も松浦宏明(日本ハム)の例がありましたが、
その他の1ケタ番号で見覚えがあるのは
現在阪神で投手コーチを務める久保康生が96年のシーズン途中に
阪神から近鉄に復帰した際に空き番号がなく6を付けたことがあるぐらいで、
本当に珍しいですね。

あと、クイズ問題とかでよくある、江川卓の阪神在籍時の幻の背番号が3だった
という有名なエピソードもありますが、これは書類上の手続きだけで、
実際にはユニフォームも制作されなかったのでしょう。

わたしも知らない時代の話では、南海のスタンカ投手が背番号6というのも有名ですね。

ヤンキースが背番号を付け始めた当初から、投手は10番台という伝統があるので
1ケタ背番号の投手というのは今後もアクシデント的にしか発生しないと思うのですが
2とか9を付けた投手が出てきたら、それだけで話題になりそうですよね。
しかし、デイビーの6もそんなに話題になってないからダメか?
20070411-00.jpg


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posted by しゅりんぷ池田 |11:55 | 野球 | トラックバック(0)
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