2007年08月09日
首位打者放出の不可解:71年、江藤慎一トレードの真相
昨日、71年オフに行われた江藤慎一(ロ)←→野村収(洋)のトレードについて書きましたが、 この件についてもっと詳しく知りたいと思って、またまた資料室に行って 当時の「週刊ベースボール」のバックナンバーをひもといてきました。 わたしは、この江藤慎一さんという方が大好きなんですね。 いかにも男性的な風貌で、「闘将」というニックネームもぴったり。 熱血漢で誤解を受け易かったのか、現役時代も数々のトラブルに見舞われもしたのですが、 史上唯一、セ・パ両リーグで首位打者を獲得した大打者です。 そんな大選手も、引退後はプロ球界と距離ができて、 「忘れられた名選手」のようになっているのが残念でたまりません。 そんな思いもあって、再び江藤慎一さんについて書いてみようと思ったのです。 きっかけは71年7月13日に起こった試合放棄事件。 この年は阪急とロッテが優勝を争っていたのですが、その阪急との対戦で事件が起こります。 7回表、四番・江藤のハーフスイングの判定を巡って紛糾、 ロッテサイドが試合再開に応じず、放棄試合が宣告されたのですが、 ロッテの濃人渉(「のうにん・わたる」と読みます)監督は球団代表を通じて 当時の中村長芳オーナーから「試合の再開に応じなくてもよい」との メッセージが届けられていたそうなのです。 その10日後、この事件の責任を一身に負わされたかのように 濃人監督の更迭(二軍監督への降格)が発表されるのです。 濃人監督は江藤さんの社会人時代からの恩師であり、一時路頭に迷いかけていた (詳しくは下記をご参照ください)江藤さんを救ってくれた恩人です。 http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shrimp/article/22 わたしはてっきり、この処分に不満を持った江藤さんが自らトレードを志願したのかと思った (そのように書かれていることもあります)のですが、事実は微妙に異なっていたようです。 まず、放棄試合事件があったのが7月13日で、 4日後の7月17日にこの年のオールスター戦が行なわれます。 全パの指揮を執ったのは前年パ・リーグを制したロッテの濃人監督だったのですが、 この試合で全パは阪神の江夏豊から9者連続三振を喫し、 5投手の継投によるノーヒットノーランを喫してしまうのです。 この試合の中継のゲスト解説に招かれていた阪急の西本幸雄監督(ロッテの前身、 大毎の優勝監督でもあった)が、濃人監督の無為無策を猛烈に批判したのだとか。 球宴明けの7月21日、ロッテ球団に対して先の放棄試合に対する 制裁金200万円を科すというペナルティーが発表されます。 翌22日からペナントレース後半戦が再開され、ロッテは因縁の阪急と対戦したものの 2戦連続で惨敗を喫し、それに怒った中村オーナーが濃人監督の解任を決意 という流れだったそうなのですが、はたから見れば、 どうしても放棄試合の責任を濃人監督に押し付けてしまったように映ります。 それも一軍監督から二軍監督へ降格。 熱血漢の江藤さんのことですから、恩師に対するこの処遇に激怒していたと思われますが 監督交代以後も同僚のアルトマンと首位打者争いを繰り広げ首位阪急を猛追します。 前回、中日時代のトラブルの件もあって、 濃人監督から「ここは自重せよ」と戒められていたのでしょう。 逆転優勝はなりませんでしたが、 江藤は前人未踏の両リーグでの首位打者獲得という偉業を達成します。 そんな江藤さんのトレードが発表されたのは、 その年の最終戦10月6日終了後の納会での席上だったそうです。 この時点で、濃人二軍監督のフロント転出も決まっており、 後任監督、大沢啓二監督の采配に支障が出ないように 不満分子となりかねない江藤を放出したということではないでしょうか? また、このオフには主砲の一人だったロペス(この年153安打24本塁打、打率.301)、 長らくオリオンズの看板選手だった榎本喜八も放出します。 対外的には大沢監督が標榜する「機動力野球」に合わないため、と発表されましたが 当時、経営に苦しんでいたロッテ球団が高年俸の選手を整理せざるを得なかった というのが真相ではないでしょうか? しかし、この際の江藤さんは恨み言ひとつ言わずに大洋に移籍するのです。 恩師を追い、自らも追った中村オーナーに対して憤懣やる方ないものが あったと思うのですが、それから3年後、その中村オーナーが転じた 太平洋クラブライオンズの選手兼任監督として、 江藤さんは迎えられることになります…(この項続く)。
BBM2000センチュリーベストナインより
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posted by しゅりんぷ池田 |13:24 |
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